日本赤十字社 社長 清家 篤
人間を救うのは、人間だ。「理論」と「人道」をつなぐ道とは

日本赤十字社 社長 清家 篤(せいけ あつし)
■プロフィール
日本赤十字社社長、慶應義塾学事顧問、慶應義塾大学名誉教授。慶應義塾大学経済学部卒業、博士。
2009年~17年慶應義塾長、2018年~22年日本私立学校振興・共済事業団理事長、2022年より日本赤十字社社長。この間、社会保障制度改革国民会議会長、日本労務学会会長、全国社会福祉協議会会長、労働政策審議会会長なども務める。
慶應義塾大学の塾長から日本赤十字社社長へ転身する異例のキャリアを歩まれた清家篤氏。労働経済学の権威として知られる清家氏が、なぜ人道支援の最前線に立つことになったのか。学生時代に熱中した学問から、組織のトップとしての使命まで、人間のいのちと健康、尊厳を守る活動の魅力を聞いた。
慶應義塾大学経済学部の学生だった頃、力を入れていたのは経済学の勉強です。経済学は、人間行動を合理的に説明する学問であり、人間と社会を理解するために有用で面白い学問だと感じていたからです。特に大学3年生になってからは、労働経済学という、働くということを経済学で分析する分野の研究会に入会し、卒業論文の執筆に熱中しました。私の卒業論文のテーマは、ゲーリー・ベッカーの人的資本理論です。この理論は、教育や企業内訓練といったものを「投資」と見なし、その収益として個人や企業が高い仕事能力や賃金を得る、というものです。ベッカーの理論では、企業は、どこでも役立つような汎用性の高い能力を高める投資はしないはず、とされていました。なぜなら、コストをかけて訓練をしても、社員が他社に転職すれば企業はそのコストを回収できないからです。しかし当時、日本企業は社員を全額負担で海外のビジネススクールなどに派遣していました。ビジネススクールの教育は、特定の企業向けではないため、これはベッカーの理論に反する行動に見えました。私はここに注目し、実証分析を行いました。その結果、当時、大企業ホワイトカラーの転職市場はまだ確立されていなかったため、企業は安心して投資ができたという事実を明らかにしました。そのほか、アルバイトで家庭教師をしていました。また、ボランティアで中学・高校時代に所属していた学校のラグビー部のコーチを手伝うため、週末の練習に参加していました。大学ではプレーする自信はありませんでしたが、ラグビーも体を動かすことも好きでしたので続けていたのです。
■研究者から大学経営者を経て人道の道へ
労働経済学が大変面白かったため大学院に進学し、研究者になろうと思っていました。もちろん、研究者になれる保証はなく、リスクのある選択でしたが、卒業論文の作業を終えるころには、あまり迷いはありませんでした。大学院合格後、各研究科数名だけが貰える小泉奨学金の審査にも通り、少し自信も付きました。その後、修士課程修了時に、当時はまだあった助手制度に応募して助手論文を慶應義塾大学商学部に提出し、採用されたことで大学教員のキャリアを始められました。助手を4年ほど務めた後に助教授(現在の准教授)となり、アメリカでの在外研究機関を挟んで7年後に教授となりました。労働経済学分野でいくつかの学術賞を受賞したり、政府の審議会の委員を務めたりするなど、研究者としても充実した職業人生だったと思います。天職と思っていた大学教員人生を満喫していたところ、思いがけず学部長に選ばれ、さらに学部長をしているときに塾長選挙となり、青天の霹靂で慶應義塾塾長に選ばれました。塾長になると教師や研究者としての活動はほとんど諦めなければなりませんが、若い頃からお世話になった慶應への恩返しと思って引き受け、リーマンショック後の財政危機を何とか乗り切り、2期8年の任期を全うしました。塾長退任後は私立学校の御世話をする事業団の理事長に選任され、その途中で前任の社長のお声かけというご縁もあり、日本赤十字社の社長となったのです。赤十字の中立性、独立性は私立大学にも共通しており、その理念に共鳴したことも、この職を引き受けた大きな理由です。
■苦しむ人を救う、150年近い信頼の組織
日本赤十字社は、アンリー・デュナンが「敵味方の区別なく救う」という人道の精神を提唱した理念を実現するために作った赤十字運動の国内で唯一の組織です。世界の191の国や地域の赤十字・赤新月社のネットワークで活動しており、ジュネーブ条約に基づく組織でもあります。私たちの使命は、苦しんでいる人を救いたいという思いを結集し、いかなる状況下でも、人間のいのちと健康、尊厳を守ることです。日本赤十字社の始まりは、西南戦争において救護活動を行うため1877年に設立された「博愛社」であり、日本政府のジュネーブ条約加盟翌年の1887年に日本赤十字社に改称しました。設立以来、国内外における幅広い分野で活動しており、災害救護、全国90に及ぶ赤十字病院での医療提供、日本で唯一の採血事業者としての血液事業、福祉施設運営、看護師教育、青少年赤十字など、活動領域は多岐にわたります。日本赤十字社の魅力は、世界的なネットワークを持つ国際性と、苦しんでいる人を救うという明確な使命のために、150年近い長期間にわたりたゆみなく活動を継続してきたことによる信頼性にあります。また、国内法(1952年の日本赤十字社法)によって災害時等における公的な役割が明確に定められている一方で、自主性が尊重されていることも特徴です。さらに、全国全ての都道府県に拠点を有し、全国各地で事業を展開しています。その活動を遂行するために、6万8千人の職員と68万人のボランティアを擁しており、非常に大きなマンパワーを備えた組織です。私たちは、「中立」かつ「独立」の立場で「人道」の実現のために活動しているため、いかなる政治的、人種的、宗教的な立場からも距離を置いています。いかなる人も除外することなく、全ての人を潜在的な援助対象としています。有り難いことに、令和7年度の調査では、人道支援団体としての認知度で首位となりました。
■想像力とチームワークで未来の赤十字を担う
日本赤十字社は、その使命を果たし続けるために、未来の赤十字を担う職員に大いに期待しています。多様な個性をもった人たちと働きたいと考えていますが、共通して求めている資質もあります。まず何よりも、赤十字の理念に強く共感していることです。人道の精神を尊重し、「人間を救う」ことへの強い思いを持っていることが欠かせません。そして、人間に興味を持ち、あらゆる状況下でも自分の頭で考えて対処できる資質を持った方であると嬉しいです。支援される人と支援する人、双方の側に立って物事を考えられるような深い想像力はとても大切です。採用においては、仕事の基礎能力に加え、さらなる成長を続けようとする向上心を持っていることも大切な基準になります。赤十字が取り組む課題は多岐にわたり、一組織の活動だけでは完結しないこともあるため、チームワークやコミュニケーションを大切にし、他者との連携や協同を実践できる能力も大切です。また、社会や経済状況の大きく変化する中で常識や既成概念の枠にとらわれず、柔軟に対応できることも重要です。今、世界は高齢化という人口動態、AIなどの技術革新、武力紛争を頻発させる地政学的な変化、そして温暖化という気候変動など、大きな構造変化に直面しています。これらの変化は赤十字の活動の必要性を高めます。例えば、温暖化による自然災害の頻発と激甚化は、救護・救援活動への需要を増加させるでしょう。こうした中で、私たちはDX(デジタルトランスフォーメーション)を進め、仕事の生産性を上げることも求められています。「人間を救うのは、人間だ。」というスローガンに象徴されるように、人間にしかできない活動により多くの時間を割けるようにするためです。また、人口が減る中でも、人々の赤十字の活動への関心と活動への参加率を高めるべく、2年後に控えた創立150周年の記念事業を盛り上げていきたいと考えています。
■大学生へのメッセージ
大学生の皆さんには、学生時代にしかできないことを存分にやっておいてほしいと思います。もちろんその筆頭は学問をすることです。大学での「学問」は高等学校までの「勉強」とは違います。それは、自分の頭で考えるということです。自分の頭で考えるというのは、闇雲に思いを巡らすということではなく、系統的(システマティック)に考えることです。具体的には、「考えるべき問題を見つけ」「その問題はどうして起きているのかを考え」「その考えは正しいかどうか確認し」「正しければそれを人にわかるように説明して問題を解決する」というプロセスです。これは、学問において「研究課題を見つけ」「その課題を説明する理論(仮説)を構築し」「その理論(仮説)を客観的な方法で検証し」「結論を導く」というプロセスと全く同じです。この「考える力」は、クラブ活動などでも養えます。芸術系であれ運動系であれ、活動の中で課題を見つけ、解決のための仮説を作り、それを検証し、最も良い方法で課題を解決する。このプロセスを学生時代に徹底的に身につけていただきたいと思います。
学生新聞オンライン2025年11月10日取材 情報経営イノベーション専門大学1年 襟川歩希

上智大学4年 吉川みなみ/情報経営イノベーション専門大学1年 襟川歩希


この記事へのコメントはありません。