自民党 参議院議員 水落敏栄
恒久平和な社会の構築を目指して
~戦争の風化を防ぎ、平和の尊さを継承する使命を胸に~
■プロフィール
昭和18年新潟県十日町市生まれ。戦没者の遺児。
新潟商高卒、福島県いわき市の常磐興産㈱勤務。
昭和46年(財)日本遺族会奉職。事務局長、専務理事を経て、平成16年参院選挙に遺族代表として出馬、初当選、現在3期目。
文部科学大臣政務官、文部科学副大臣、参院文教科学委員長を歴任。現在、参議院議院運営委員長、(一財)日本遺族会会長、靖国神社総代。
戦時中に生まれ、二歳半で父を戦争で亡くし、その後、戦没者遺族として厳しい戦後の復興期を体験したという自民党の水落敏栄参議院議員。幼少期の過酷な経験から日本遺族会へ奉職、政界へ入るきっかけに迫りました。水落議員が目標に掲げる「恒久平和な社会の構築」に必要なこととは?
■ありふれた幸せを奪った戦争
私は新潟県の豪雪地帯で育ちました。両親と兄、姉との五人家族、所謂三反百姓で、決して裕福ではありませんでしたが、幸せな日々を過ごしていました。
しかし、戦局の悪化に伴い父は赤紙一枚で召集され、神町海軍航空隊(現山形空港)に飛行整備士として配属され、終戦のわずか6日前となる昭和20年(1945年)8月9日、爆撃を受け、戦死しました。
それからの日々は、筆舌に尽くしがたい過酷なものでした。一家の大黒柱を失った我が家では、母は夜明け前から農作業をし、日中は土木作業の手伝いをして、夜は内職をし、馬車馬のように働きづめで、何とか生計を立てていました。しかし、それでも家計は苦しく、年の離れた兄、姉は、中学卒業後、働きに出ました。こうした幼少期の悲しい思い出として今でも思い出すのが、白米にまつわるものです。私の故郷は魚沼産こしひかりの産地であり、我が家の田んぼでは20俵のお米が取れました。しかし、そのお米は貴重な現金収入源として売っていたため、我が家で白いご飯が食べられるのは週に一度程度、普段は精米時に出る残りカスで作ったまずい団子を食べており、父のいない寂しさも加わって惨めな気持ちになりました。そのため私は白いご飯が食べられる日を、よくご近所中に自慢していたと今でも笑われます。
■家族や周囲の方々に支えられて日本遺族会へ奉職
苦しい生活の中で、「早く働いて、母を助けたい」と強く思うようになりました。そのため中学卒業後すぐに働くつもりでいた私は、「これからは教育が大切になる。高校は出たほうがいい」と兄に諭され、商業高校への進学を決めました。
家族は必死に働いて、援助してくれましたが、それだけでは足りるはずもなく、自身も働きながら、学校へ通いました。とにかく母を楽にするため良い就職先をみつけたい一心で、仕事と勉学に励み、青春を謳歌した記憶はありません。
そして、いよいよ就職の時期となりました。戦後好景気で中高生が「金の卵」ともてはやされた時代、まわりがどんどん決まる中で、私だけ決まらないことを不審に思い先生に問うと、「片親」が理由と分かりました。
今なら考えられない話ですが、両親が揃っていない家庭の子は信用が置けないから採用できない、そんな時代でした。お国のためと国の命令で戦地に送られた父を戦争で亡くした私に、世間は白い目を向けたのです。あの時の悔しさ、虚しさ、憤りは、今でも忘れられません。
絶望していた私に、地元遺族会の役員の方が、日本遺族会が運営する九段会館で戦没者遺児を対象とした職員の募集を教えてくださり、藁にも縋る思いで試験を受け、合格した時は、家族で泣いて喜びました。
九段会館は、結婚式場や宿泊、宴会場を運営しており、第一次ベビーブーム世代が結婚適齢期を迎え、当時は年間約2400組の結婚式が行われており、まさに目の回る忙しさでした。それでも、戦争で父を亡くしたという同じ境遇の仲間と働けたこと、何より働くことで苦労を掛けた母に仕送りができるようになったことがうれしく、無我夢中で働きました。
■「二度と戦争を繰り返さない」遺族の声を届けるために国政へ
九段会館での勤務を経て、日本遺族会事務局へ配属されました。遺族会事務局時代、最も忘れられないのは、戦没者の遺骨収集です。中でも昭和49年(1974年)サイパン島での記憶は今でも脳裏に焼き付いています。
サイパン島は珊瑚の島で、水はけがよい為、ヤシの木の根元や、洞窟、海辺などに、ほぼそのままの姿のご遺骨が終戦から30年近く放置されていました。「戦没者は犬死なのか。」おびただしい量のご遺骨を前に、悲しみは憤りに変わりました。
海外の旧戦域での遺骨収集は昭和27年(1952年)から開始されましたが、本格化したのは昭和48年。それでも、遅々として進まぬ状況に、最早、政治力で解決するしかないというのが結論でした。
日本遺族会は、結成当時から遺族の声を国政に届けるため、国会に代表を送っていました。平成16年参院選への出馬打診があったのは、私が専務理事を務めていた頃でした。私は固辞しましたが、当時副会長であり、私の政治の師である元衆議院議員古賀誠先生に、事務局で遺族の声を一番身近で聞いてきた君なら間違いないと説得され、参院選(比例代表)に出馬、全国の遺族の皆さんの温かいご支援により、当選を果たすことができました。
当選直後、戦後60年を迎え、高齢化する遺族が元気なうちに、ご遺骨を祖国へお迎えすべく「遺骨収集を国の責務」とした議員立法を取り纏め、成立させました。
しかし、海外で亡くなった戦没者240万人のうち、未だ112万人余りのご遺骨が海外でそのままになっています。一日も早く、一柱でも多くのご遺骨を日本にお迎えするため、これからも遺骨収集に尽力してまいります。
■310万人の戦没者の御霊に報いるために
私はたくさんの方々に支えられて今日まで歩むことができました。しかし、人生の節目節目に頭をよぎったのは「父がいてくれたら」という想いです。
戦後、我が国は焼け野原となり、戦没者遺族はもとより、国民皆が貧困や飢餓で苦しみました。そうした中で、わが国の安寧と家族の幸せを願い戦没された310万人の尊い命が繋いでくださった社会を守るために、生き残った人々が必死で働いた結果、今日の平和で豊かな社会を築くことができたのです。
しかし、戦後75年余りが経過し、国民の9割が戦後生まれとなり、戦争は風化されつつあります。先の戦争で犠牲となられた310万人の方々の多くが、10代、20代の若者で、学生も含まれています。その一人一人に叶えたい夢や希望があったことは言うに及びません。だからこそ、戦争の悲惨さ平和の尊さを身をもって体験した戦没者遺族が、「二度と戦争を繰り返してはいけない」と後世に伝え続け、恒久平和な世界の構築に寄与することは社会的責務であり、その声を国政に届けるのが、私の使命であり、願いです。
■国民の信託に応える政治を
コロナ禍における学生生活、ご苦労や不安が絶えないと思います。大学1年生は、入学をしても先生や友達と会うこともできず、オンライン授業と向き合い、2、3年生は急激な社会変化に振り回され、4年生は就職活動もままならない状況に胸が締め付けられていると思います。
未知のウィルスに対峙するため、政府も医療界、経済界等様々な専門家の意見を集約し慎重に決断せざるを得ず、迅速性に欠ける印象を与えています。加えて国会議員の不用意な言動には忸怩たる思いです。
だからこそ、国会議員の一人として学生のみなさんに心からお詫びを申し上げたいのです。医療従事者の方々、国民の皆さんのご努力のおかげで、日本は感染者数、死亡数とも海外に比べ低く抑えられていますが、変異ウィルスの拡大など予断を許しません。皆さんの献身に報いるためにも、国民の信託に応える政治を第一に、「命とくらし」を守るため、きめ細かな対策、支援を続けてまいります。
このような状況下で、学生のみなさんが戦没者遺児である私の体験に触れることで、当たり前と思われる平和な社会の尊さを考え、家族をはじめ周囲の方々との出会いに感謝し、与えられた時間を大切に、何事にも前向きに挑んで欲しいと願ってやみません。
学生新聞オンライン2021年2月15日取材 津田塾大学1年 佐藤心咲
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