元プロ野球選手・現野球解説者 ギャオス内藤 辛いと思っているから辛い。楽しいと思えばいい。
■プロフィール
1986年 愛知県豊川高校からドラフト3位でヤクルトに入団
1993年 リーグ優勝のかかった対中日戦、延長15回を奇跡の三者連続三振に打ち取った
1997年 ロッテ、中日と投手を続け平成9年引退。通産36勝29敗26セーブ。ヤクルト時代には2年連続開幕投手をつとめるが、平成2年の開幕巨人戦で篠塚(現コーチ)から球史に残る“疑惑のホームラン”を被弾。悲劇のヒーローになるも天性の明るさでファンの心をつかみその後も大活躍
2001年 2004年までマスターズリーグ:名古屋80デイザーズ所属
2013年 2014年までプロ野球独立リーグ・BCリーグ新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ監督
現在、野球解説者、タレントとして活躍中。
1986年にドラフト3位でヤクルトスワローズに入団したギャオス内藤さん。明るく元気なキャラクターから「ギャオス」という愛称がつき、以来、人気プロ野球選手として、そして野球解説者としても活躍してきました。スポーツの世界でも、バラエティの世界でも、常に存在感を放つ内藤さんの根幹にあったのは、「楽しむ」という気持ちでした。
■勘違いが功を奏した土台作りの期間
野球をはじめたのは、小学校2年生のときです。地元のソフトボールチームに入ろうと、一人で壁当てをやり始めました。それから2年間、ずっと壁当てを続け、晴れて4年生の時にソフトボールチームに入部できました。
しかし、ピッチャーを志望すると、ある衝撃の事実が発覚します。俺がずっと練習していたのは上投げ。ソフトボールは下投げだったのです(笑)。ピッチャーをやりたかったのに上投げしか練習していなかった僕に、監督は「身体がでかいからセンターになっとけ」との一言。そのため、バッティング練習は一切していなかったのに4年生でセンター4番に抜擢されました。ただ、グラブさばきは壁当てのおかげでめちゃめちゃうまくなっていました。僕が在籍中に、チームは2度優勝したのですが、僕はかなり貢献したと思います。
実は僕の投球フォームはプロに入るまでも、入ってからも、誰からも教わったことがないんです。壁当てって普通はマスを書きますよね。ただ僕は、地面に埋まってるはずのホームベースを壁に書いたんです(笑)。だけど、これが功を奏したんですね。ホームベースの先っちょがちょうど真ん中低め。他の投手はいいところに投げようとするからボールになってしまうところを、僕は変に意識せずに投げられるようになっていたんです。
■初登板で感じた「俺、この仕事向いてない?」
僕の世代は、「野茂世代」と言われていました。だからこそ「ほかの同年代よりも早くデビューして活躍したい」という思いがあったので、プロ1年目で開幕1軍入りを果たしました。世の中的には「野茂世代」ですが、僕にとっては「ギャオス世代」でもあります。
しかし、そのプロ初登板で「俺はこの仕事向いていない」と思いました(笑)。震えちゃって、地に足がつかないんです。神宮球場での巨人戦だったのですが、4万8千人のお客さんがいて、なおかつテレビでも放送されている。「こんななかで投球するなんて、無理に決まってるじゃん」という気持ち。だから1年目はへぼ成績でした。だけど2年目の中盤からは、ヤジも聞こえたけど、平常心で投げられるようになりました。さらに吠えてやろうという闘志むき出しな気持ちも、自然と出せるようになっていきました。
■ファウルポールの色を白から黄色に変えた男に
1990年の野村監督の1発目の試合で、開幕投手として投げさせてもらいました。東京ドームでの巨人戦で、解説は長嶋茂雄。ノムさんは奇襲作戦が大好きで、「巨人打線の左バッターには左ピッチャーが有効なんだよ」とメディアに言い、開幕投手は俺(右投げ)なのに、マスコミも選手もファンもみんなノムさんの話術で左投げが来ると騙されました。俺ですら、「本当に開幕投手なのかな」と不安になってしまうくらいでした。
その日はとても平常心じゃいられなくて、「逆さ東京ドームってどんなかな?」と思い立って、ふと逆立ちをしたんです。それをやった瞬間、周囲の人からはドン引きされましたね。そして、先発ピッチャー発表で、「ピッチャー・内藤」って呼ばれたとき、「あいつか!」と悲鳴がわきました。
さらに、この後大事件が起きます。8回の裏、ヤクルトが3対1で勝っている状況のなか、ノーアウトランナー2塁で、バッターが巨人の篠塚和典さんという打順。篠塚さんが打った瞬間にファーストの審判である大里晴信さんは、ファウルなのに、「ホームラン!」とグルグル腕を回しちゃった。大誤審です。その日は審判が6人制から4人制になった日で、条件が本当に重なってしまったんです。その時の大里審判員の「ポールの白とボールの白が重なってるんだよね」という一言が発端となり、もともと白かったファウルポールが黄色になりました。だから、俺はファウルポールの色を変えた男です。
■ヤクルトの92年・93年の連覇達成に繋がるビッグゲームをつくる
もう一つ思い出に残るエピソードがあって、それが1993年に中日とヤクルトで優勝争いをしていたときの話です。ノムさんは優勝するための10箇条を掲げていて、その中に「同一カードで3連戦3連敗しない」という条件がありました。
しかし、中日との3連戦で、中日が2連勝し3戦目も2対1で負けていました。当時ヤクルトの主砲池山さんがカウント2-1か2-2でホームランを打って同点にしてくれて、そのまま延長15回裏までいき、ヤクルトが守りの場面。「中日のクリーンナップに回ったら内藤行くぞ」と言われていて、気づいたらノーアウト満塁でクリーンナップを迎え、俺の出番が回ってきてしまいました。その年は成績不振で、「チームが3連敗しようと関係ない、打たれたら即2軍じゃないか」という心境でした。そこで迎えるバッターはパウエル、落合、彦野。結果は3者連続三振。とんでもないことしちゃいました。その試合を皮切りにヤクルトが急上昇して92年、93年連覇できました。
ノムさんからも「93年のあの試合はターニングポイントだったな」という言葉をいただいたビックゲームを作りました。そこで得た教訓は、いい結果を求めずに自分の逃げ道を作ってあげて最善を尽くすこと。一番かっこ悪いのは押し出し、その次に満塁ホームラン。この二つだけしなければ俺のせいじゃないよねと自分に言い聞かせていきました。だからパウエルに対してめげずに、ずっとインコースを投げ切れて、結果いい方向につながりました。
■必要とされているところにギャオス内藤は行く
プロ野球選手を引退してから、「自分ってなんで生きているのかな」と考え始めて、必要とされるところに行こうと思うようになりました。現在はラジオでの野球解説や八王子の小学校で子供たちに野球を教える活動をしています。8年前には新潟の方で監督もやらせてもらいました。最初に監督のお話をいただいたときは断ったのですが、断った瞬間に監督ってなんだろうなと考えながら、「俺が監督ならこうしたい」っていうシミュレーションをしている自分がいました。結果、負けて負けてクビになりたかったのに、勝ちすぎてクビになってしまいました(笑)。新潟は本当に楽しかったです。だから新庄君が監督になっちゃったけど、俺もプロ野球の球団監督をやりたい。俺よりも面白い人間だけど何かで対抗したいなという思いがあります。
■自分の色を出そう!
自分の色は何色ですか? 自分のオーラをどんどん出してくださいということを大学生の皆さんに伝えたいです。類は友を呼ぶとの通り、暗いオーラ出していると暗い人ばかり集まってしまいます。暗いオーラよりも楽しいオーラの方が絶対楽しい。イチロー選手にも「同じ練習時間、楽しいと思うか、苦しいと思うか。辛いと思っているから辛いんだよ。楽しいと思えばいいだよ」とコメント残したらそれを覚えてくれていたみたいで、「ためになりました」と言わせてやりました(笑)。
学生新聞オンライン 創価大学4年 山内翠
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