建築家 隈研吾 何事にも代えがたい「楽しさ」が仕事の原動力となる

建築家 隈研吾(くまけんご)

1954年生まれ。1990 年、隈研吾建築都市設計事務所設立。慶應義塾大学教授、東京大学教授を経て、現在、東京大学特別教授・名誉教授。30を超える国々でプロジェクトが進行中。自然と技術と人間の新 しい関係を切り開く建築を提案。主著に『点・線・面』『負ける建築』『自然な建築』 『小さな建築』『ひとの住処』など多数。

https://kkaa.co.jp/works/architec- ture/great-bamboo-wall/

小さなころに建築に魅了され、建築の ことだけを考えて過ごしてきたという隈研吾さん。オリンピックのメイン会場である国立競技場をはじめ、数々の建 築物を世界中に生み出している。本紙では今に至る経緯や建築に込めた思いについてお話を伺った。

■建築の世界に引き込まれてから

僕が建築に初めて興味を持ったのは小学4年生のときで、オリンピックが東京で開催されていました。実際に見に行ったのですが、会場は丹下健三さんが作った代々木体育館で、それを見て一気に建築の世界に引き込まれました。そのときから建築家になることを考え続けて大学に入りまし た。大学も年生になり、建築学科に入ってからは、いろいろな設計事務所でアルバイトをしました。原広司先生、槇文彦先生といった著名な建築家の事務所で働いたことが大学での楽しい思い出です。 卒業後は大手設計事務所に就職した後渡、米してコロンビア大学で勉強し、日本に戻って事務所を立ち上げました。

■変化をもたらす

立ち上げ当初は順調に仕事が入ってきていたのですが、 1990年にバブル経済が崩し、東京での仕事が一切なくなってしまいました。仕方がないので空いた時間で日本中を旅しながら地方での小さな仕事を受けていくようになりました。その最初の仕事がゆすはら高知県梼原町というところでの仕事でした。この仕事から今では僕の象徴でもある木を使った建築が始まりました。

その後、次第に海外での設計にも参画していき、中国では竹家という建物を作りました。この建築が僕の中でのターニングポイントとなる建築になりました。竹家はすべて竹でできているのですが、竹はとても腐りやすく、すごくリスクがありました。しかし、 思い切って作り上げたからこそこの作品は世界中から認められ、そこから本格的に海外進出が始まりました。結果としてバブルが崩壊してからの10年間が僕にとっては一番実りのある時間だったのです。

■楽しいから続けられた

建築をしていて一番やりがいを感じるのは、やはり建築物が出来上がった瞬間です。 今まで何百と作ってきましたが、それは今でも変わりませ ん。もちろん作っていく過程での苦労はたくさんありますが、それでも自分が考えているものが実際に立ち上がるという楽しさには勝てません。 この楽しさがあるからこそ僕は建築という仕事を続けてこられたのだと思います。

そしてそれらの建築物は、設計した僕がすべて作り上げているのではなく、僕に依頼してくれたクライアントさんであったり、実際に工事をしてくれた人など、たくさんの方々が関わってくれた結果なのです。だからこそ建築という仕事をしていく上で一番大事なことは、その関わってくれた人たちと同じ気持ちになって作っていくことだと思っています。そうでないと良い建築物はできないと思います。実際に立ち上げる建築物は、みんなが幸せになることを考えて設計しています。幸せになるっていうのは、楽しいと元気になる、リラックスできるということです。だからこそ木が重要になってくるんです。木というのは触っていても温かみがあるし、コンクリートよりもはるかに長い歴史があって人々に昔から愛されてきたものです。昔、人間が森で生まれ、森で過ごしていたことも深く関係しているのではないかと思っています。

■message

旅をしていろいろな人に出会って、どのように仲良くなるか、自分の気持ちを伝えるかを学んでほしいですね。建築は物だけれども実は人が作るものなので、関わってくれる人とどう付き合うかが大事になってきます。だからこそ時間があるときにたくさん旅をしてほしいですね。

学生新聞別冊2022年4月号 早稲田大学3年 原田紘志 / N高等学校1年 岩井祐樹

早稲田大学3年 原田紘志 / N高等学校1年 岩井祐樹 / 創価大学4年 山内翠 / 日本大学2 年 石田耕司

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