俳優 武道家 藤岡弘、

人生にマニュアルはない。人間は感性で生き抜く。

俳優 武道家 藤岡弘、 (ふじおかひろし、)

■プロフィール

1965年デビュー、’71年『仮面ライダー』で人気に。映画『日本沈没』『野獣死すべし』、ハリウッド映画『SFソードキル』でも主演。国際武道家でもあり、世界数十カ国の紛争地域などで、心情交流、支援活動も行う。2016年に公開された映画「仮面ライダー1号」では、藤岡自ら企画から参加し、45年ぶりで本郷猛が単独主演で復活し大ヒットをおさめる。2024年、芸能生活60周年を迎えた。

芸能生活60周年を迎えて、今もなお、俳優・武道として活躍の幅を広げる藤岡弘、さん。世界100ヵ国近くを訪問するボランティア活動家としての一面もある。武道家として、心身ともに強い藤岡さんだが、何度も生死を彷徨ったことがあるという。そんな様々な困難を乗り越えてきた藤岡さんにお話を伺い、人生のヒントについて学んだ。

■自分の人生は「奇跡の連続」だった

私の人生は波瀾万丈で、恵まれた環境では一切ありません。母は戦争中、重いお腹を抱えて逃げながら私を守ってくれたといいますが、その後も、奇跡の連続によって今の私があると言っても過言ではありません。

出産のため、当初、母は松山の病院に入院したのですが、何を思ったかその日のうちに実家に帰ろうとしました。院長先生の反対を押し切り実家に帰った翌日、なんと、大空襲でその病院は全滅したのです。生き残ったのは院長先生と母だけ。そのときに母のお腹に入っていたのが私でした。そこから私の人生が始まりました。

3歳の時には肺炎を患い、生死を彷徨いました。病院の先生にも「この子はもう無理だ、遺影を今のうちに撮った方が良い」と勧められたほどでした。しかし、母は先生が見捨てても自分が治すという強い覚悟のもとに、私を看病してくれました。その時期に、私を可愛がってくれた母方のおじいちゃんが危篤になりました。最後におじいちゃんを見届けてあげたいということで、家族で会いに行こうという話になりました。真冬の豪雪の中、父は自分の命も覚悟の上で、おじいちゃんのいる西条市まで車を運転して、とても大変だったそうです。到着するとおじいちゃんはもう亡くなる寸前でした。おじいちゃんは私の手を握り、「この子の病気を私が持っていくから、大事に育てなさい」と言い、その直後に事切れました。不思議なことに、それから、私の病気は奇跡の如く回復していったのです。そんな奇跡の連続で私は今存在しているんですよ。

■幼少期の経験から学んだ感性の大切さ

貧しい家庭で、最悪の状況の中でも私は生かされてきました。それは父と母の愛情のおかげだと思うんです。武道家だった父は、体の弱かった私を鍛え上げてくれました。そのおかげで、武道を網羅し、体が健康になり、高校の時には柔道部のキャプテンを務めるほど体力に満ち溢れていきました。

その後、小学生の時に父が戦中にやり残したことがあったと失踪し、困窮の中、自立せざるを得ない状況に陥り、絶えず挑戦して自分の未来を開く必要が出てきました。アルバイトは60個以上はやりました。そして、バイトをしながら自然と身に着けていったのが、人間関係のスキルです。それは後々に大きな財産になって、今に至っていますね。

小学校では給食費が払えない人は名前を呼ばれていたのですが、毎回呼ばれていたのが私でした。とても辛かったし、苦しかったです。だから、私は人の悲しみや苦しみ、痛みに敏感な子供になりました。普通、人間は理性と知性ばかりを高めていきます。でも、私は感性が主役で、それを支えるのが知性と理性だと思いますね。生き抜くためには、マニュアルや理論だけでは難しい。人間は、感性で生き抜くものだと感じます。

芸能界に入ったのも、直感です。戦後、海外から映像が押し寄せました。映像を通じて見る知らない世界。そこに国境も民族も全てを超えた壮大な夢を感じました。その夢を作っている場所はどこかというと、東京だと。そうして、東京を目指しました。必死にバイトして夜行列車でたどり着いた東京には、行くあてもありません。しょうがなく、上智大学の芝生で寝ましたよ。辛いことはたくさんありましたが、それでも希望を失わなかったのは武道で強化された忍耐強さからでした。

■計算せず、自分の心に忠実に

父には「逃げるな、負けるな、屈するな、諦めるな、やり抜け」という精神を教えられてきました。苦労は買ってでもして、絶対逃げずにやり抜けと。それはいずれ己の力になり光り輝く時が来るんだというふうに語っていました。私は、100ヵ国近くを訪れ、ボランティア等、様々な実体験の中、そこでは何度も生死を彷徨う経験をしました。しかし、父の教えの通りあきらめず立ち向かうことで、生き延びることができました。

ボランティアを始めた理由は、幼少期の環境が影響しています。私はお遍路の駐在所で生まれたのですが、そこはいろいろな苦しみ、悲しみを背負って巡礼する人が集まる聖地です。おもてなしの文化があったことから、父と母に教えられ、いろいろな人をもてなしました。巡礼者の方に村で採れる食物をふるまったり、子供がいれば一緒に遊んだり。世のため、人のために行動することが小さい頃から当たり前で、自然とボランティアにつながったわけです。世界中を旅し、子どもや難民を支援したのですが、いまだに彼らの喜ぶ顔を思い出すとエネルギーをもらいます。

「なぜ、お金と時間を使って、危険なボランティアに行くんだ」と言われることもあります。でも、見返りを考えてボランティアをやっているわけではないんです。自分の心に忠実にやっているだけです。要するに計算がないんです。計算ではなく、感性で動いているのですから。

■行動の原理は「多くの人の笑顔が見たいから」

自分がやったことに対して、感動したという言葉をもらった時にやりがいを感じますね。父には、「人の役に立つ人間になれ」とよく言われていました。皆さんに幸せを感じていただき、嬉しい言葉をもらうと、「これが父が言いたかったことなのか」と感じます。今でも、子供達からたくさんファンレターが来ます。本郷猛(仮面ライダー1号)が好きだという幼い子もとても多くて、不思議ですね。

仮面ライダーについても、ここまで続くなんて当時は考えられませんでした。私の、バイクでの大事故によって変わっていったんですよ。私の足が回復したのも運が良かったからといえます。事故を起こした際、今の医療技術では限界があり治らないと言われました。ですが、一人の先生に一つだけ試したいことがあると言われたのです。それは、ベトナム戦争で開発された医療技術でしたが、その手術をしても絶対に治る保証はありませんでした。でも、私は「やってほしい」と言ったんです。そして、驚くことに手術は成功しました。医学会にとっても奇跡ですね。手術後は、骨と皮だけになった脚を鍛えるために、過酷なリハビリを経験しました。乗り越えられたのは、もう一度復帰して、恩人たちに恩返しをしたいという一心からです。

   人々に夢や希望、勇気を感じてもらえるように、私も、私の子供たちも頑張っています。子供達の夢は、家族で映画を作り、私との思い出を残すことです。この夢が、家族を団結させ、1つの原動力になっています。

■大学生へのメッセージ

一人ひとり、この世に生を受けた人間は使命を背負った大きな宝だと思います。だから、自分の持っている、素晴らしい個性や可能性を発見する自己発見の旅をして欲しいです。そして、自己発見の旅に向かって挑戦し続けましょう。挑戦して得た実体験は、理性と知性、そして感性と合わさることでいずれ必ず力になります。人と自分を比べるのはやめたほうがいい。自分の良いところがあればそれを認めて、伸ばせば良いんです。落ちこぼれの中にこそ素晴らしい人材がいます。私だって、落ちこぼれの象徴です。見捨てられ、見放され劣等感に苛まれたことが力になり、私は大きくなってきました。自分の殻に閉じこもらず、そして、相手への愛と尊敬と感謝を忘れないで欲しいです。それが己を磨く材料になります。

それから、やっぱり心と心の交流です。損得を計算して人と付き合うのはやめましょう。出会いは本当に大事です。人生、運勢、そして歴史まで変わります。大きな夢を持って、共通の目的と価値を共有できる仲間と切磋琢磨し目標に向かいましょう。

    人生は何が起きてもおかしくない。リスクも当然だと思ったほうが良いです。世の中や人のせいにするのは論外です。問題は全て自分にあります。私は、裏切られ、騙され、日本刀で叩き切ってやりたくなるような最悪な経験もたくさんしましたが、今思うと今までの人生何一つ無駄なことはありませんでした。全て宝物ですね。だから、私を騙したり裏切ったりした人には感謝です。「私を鍛えてくれてありがとう」という感じです。

   この歳になって何が一番大事かというと、時間です。やりたいことや成し遂げたいことがたくさんあるのに、時間がなくなってきています。気づいた時にはもう遅いということもあるので、日々時間を大事にしてほしいですね。一瞬一瞬に命を注いで、真剣に試練に立ち向かってほしいね、大いなる夢に向かって。心臓が止まるまでが私の青春だね。生きて生きて生き抜こう。人生は永遠のサバイバル。生かされし我が命に感謝しながら、挑み続けること。

学生新聞オンライン2024年3月19日取材  津田塾大学4年 大川知

駒澤大学 4年 本多杏衣/津田塾大学 4年 大川知/中央大学 2年 前田蓮峰

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