株式会社エスプロエンタテインメント 代表取締役 若松宗雄
自分の感覚を信じることが、道を切り開く。

株式会社エスプロエンタテインメント 代表取締役 若松宗雄(わかまつむねお)
■プロフィール
1940(昭和15)年生まれ。音楽プロデューサー。CBS・ソニーに在籍、一本のカセットテープから松田聖子を発掘した。1980年代後期までのシングルとアルバムを全てプロデュース。ソニー・ミュージックアーティスツ社長、会長を経てエスプロレコーズ代表。『松田聖子の誕生』が初の著書。
「売れるかどうかは、数小節歌ってもらえば分かる」。そう語るのは、音楽プロデューサーとして数々のヒットを生み出してきた人物だ。観光会社の営業からキャリアをスタートしながらも、自らの直感を信じて音楽業界へと飛び込み、数々のアーティストを見出してきた。その原点にあるのは、自分自身と向き合い、信じ抜く力だった。本記事ではその歩みを紐解いてゆく。
音楽は昔から好きでした。大学生のころから「売れる・売れない」を直感的に感じることができたんです。たとえば、私の兄が作曲をしていたため、時々その曲の評価をしていました。しかし兄からは「学生の身分で分かるわけがない」と言われていました。それでも、兄が当時の名物プロデューサーのもとへ曲を持っていった際、その方は私と同じ評価をし、驚かれたことを覚えています。とはいえ、当時は音楽業界に強い興味があったわけではありませんでした。そのため大学卒業後は、先輩の紹介で観光会社に就職しました。営業成績が評価され、入社半年で現場責任者に抜擢されました。その後、約三年で東京本社へ異動し、そこで転機が訪れます。そのとき、ちょうどソニーがレコード会社を立ち上げるタイミングだと知り、音楽業界への関心が高まってしまったのです。最初の採用試験には落ちてしまいましたが、別の事務所に入社して、マネジメントや宣伝を学びました。その後、再びソニーレコードで募集があると知り、紆余曲折を経て、最終的に入社することができました。
■営業から始まったキャリア
ソニーレコード入社後は、大阪でレコードのセールスマンとして働きました。そこで営業成績全国一位を達成し、社内で話題となりました。その実績が評価され、わずか一年半で広島営業所の所長に抜擢されました。広島営業所は当初成績が振るいませんでしたが、全国トップの営業所へと立て直すことができました。その後、全国で最も規模の大きい東京第一営業所の所長に就任し、その後タレント契約や宣伝業務へと仕事の幅を広げていきました。さらに、ある時突然プロデューサーリーダーに抜擢されます。本来プロデューサーは希望者の中から選ばれる狭き門であり、未経験からの抜擢は異例でした。仕事は感覚に頼る部分も多く、見よう見まねで取り組む日々が続きました。しかし、上司との関係がうまくいかない、苦しい時期もありました。当時は「つぶされてしまうのではないか」という強い危機感を抱きましたね。そこで左遷も覚悟のうえで社長に直談判を行いました。その結果、新たな部署が設けられ、その責任者として働くことになりました。
■松田聖子との出会いとデビューへの道
幸い部署の売り上げが伸びていたころ、ソニーレコードと雑誌セブンティーンが主催する合同オーディションが開催されました。全国から何千人もの応募があり、各地で優勝者が選ばれていましたが、決勝大会を見ても強い関心を抱くことができませんでした。そこで、出場していない応募者の中に可能性があるのではないかと考え、担当窓口に向かい、カセットテープを片っ端から聴いていきました。三、四小節ほど歌を聴けば、その人の持つエネルギーが分かると感じていたからです。私が重視したのは、歌のうまさではなく、その奥にある資質です。そうした中で、特に印象に残る強い声の持ち主に出会います。
その時点で他のテープを聴くのをやめ、オーディション担当者に確認したところ、彼女は九州大会の優勝者でありながら、親の反対で決勝に出場していないことが分かりました。その人物こそが後の松田聖子でした。すぐに自宅へ電話をかけましたが、父親は芸能界入りに反対していました。しかし本人は強い意志を持っていたため、直接話をする機会を作り、最終的には本人の思いを通じて父親を説得し、「あなたに預けますので責任をもって預かって下さい」と言ってもらえるまでに至りました。しかし、デビューまでの道のりは平坦ではありませんでした。彼女に賛同する人がなかなか現れなかったのです。このとき、音楽が分かることと売れる資質を見抜くことは別であるという現実に直面しました。それでも粘り強く説得を続け、ある事務所にようやく彼女を預かってもらえることになりました。
また、彼女はまだ高校生だったので、転校という課題もありました。七月二日の土砂降りの日、父親の東京出張に合わせて上京し、数日後彼女が父との別れの際に新宿駅地下の喫茶店で涙を流した姿が印象に残っています。父親は「今から九州へ帰ろう」と声をかけましたが、彼女は最終的にそのまま東京に残る決断をし、その後の高校面接にも付き添いました。当初、周囲は彼女の成功を半信半疑で見ていました。それでも、私には必ず売れるという確信がありました。同時に、「三年で結果が出なければやめよう」という覚悟も持っており、その思いは本人にも伝えていました。この覚悟こそが結果を引き寄せたのだと感じています。これは、その後の「PUFFY」などのプロデュースも、同様に直感を大切にしたものでした。
■今後も広げていきたい音楽
現在は箱根で旅館「箱根上の湯」を経営する一方で、「HAKONE駅伝讃歌―青春の襷」という楽曲の普及にも力を入れています。この曲は、強羅にお住まいの詩人の方が書いた詩をもとに制作されたもので、箱根の観光協会や教育委員会の協力を得て完成しました。非常に良い作品に仕上がったものの、商標登録の関係等もありCDとして広く活用することが難しい状況にあります。そのため、さまざまな場所で多くの人に歌ってもらうことで広めていく活動を続けています。上から広げることが難しいのであれば、下から広げていくしかないという考えです。この歌は箱根駅伝だけでなく、学生や若い世代の生き方を象徴するような内容で、理屈ではなく歌として届けることで、多くの人の心に届くと考えています。そして、この曲が人々を勇気づける存在になることを願っています。
■学生へのメッセージ
自分自身の心に問いかけることが大切だと考えています。自分が何をしたいのか、何が強みで、どのような弱さを持っているのかを見つめてほしいと思います。人は弱い部分を否定しがちですが、弱さがあるからこそ強さが生きるものです。大切なのは、その弱さを認めることです。他人と比較すると、自分の軸を見失ってしまいます。多くの情報があふれる現代においてこそ、周囲に流されず、自分自身の良さを感じ取り、素直に向き合うことが重要です。それを大切にして進んでいくことで、自分のやりたいことや目標に近づいていけるのではないでしょうか。
学生新聞オンライン2026年2月14日取材 津田塾大学3年 山下さくら

津田塾大学3年 山下さくら/国際基督教大学3年 若生真衣


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