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Archive for 運営スタッフ

DX・WEBマーケティング

株式会社ディー・エヌ・エーゲーム事業本部マーケティング統括部UXブース...

テクノロジー×クリエイティブで広告効果を最大化 ■プロフィール 2009年に株式会社ディー・エヌ・エーに新卒入社。2012年からマーケティング領域に従事し、アプリマーケティングの立ち上げ、様々なゲーム/エンタメアプリのデジタルマーケティング担当を経て、2016年よりゲーム領域のデジタルマーケティング責任者に。2020年より現職。 ゲームや動画配信などのエンターテイメント事業と、ヘルスケアやオートモーティブなど社会課題を解決する事業を行い、2つの領域で事業を展開しているDeNA。どのようにターゲットにメッセージを伝えし、浸透させていくのか、ゲーム領域のマーケティングのマネージャーである川口さんにデジタルマーケティングについて伺った。  DeNAのデジタルマーケティングでは集客を目的としたスマートフォンの広告出稿をメインの業務としています。具体的には、アプリの新規ダウンロードを目的に、Face-bookやTwitter、YouTubeなどの大規模メディアの運用広告を活用しています。運用広告では、広告経由のダウンロード数やそこから生み出された売上などの数値をリアルタイムに把握することができるので、効果を見ながらターゲティングや広告クリエイティブを都度調整しながら効果を最大化させていっています。  デジタルマーケティングの仕事の魅力は、PDCA(plan-do-check-act)サイクルが短く、仮説検証を大量に繰り返せることと、大規模メディアの技術力により広告自体の進化が非常に速いことだと思います。また、媒体社や広告代理店など社外の方と話すことが多く、社外の様々な方と議論しながら仕事ができることも魅力の一つです。 ■広告は目的に合わせて使い分け  デジタルマーケティングとテレビCMなどのマスマーケティングはそれぞれ特徴が違うため、DeNAではどちらも重要視しています。例えば、テレビCMは幅広いターゲットに伝えることができるので、1周年企画などの大規模出稿の際に展開することが多く、デジタルマーケティングはターゲティングを細かくできて少額からでも配信可能なので定常的な施策として利用するなど、デジタルとマスをマーケティング戦略に沿って使い分けています。   ただしデジタルマーケティングにおいても、やはりどういった広告クリエイティブを出すか、「いかにユーザーの心を動かすか」といったエモーショナルな部分も大きく効果に影響するので非常に大事にしています。 ■「伝わる」方法をきめ細やかに模索する  広告以外にもLINEアカウントやプッシュ通知などにも多くの工夫を凝らします。伝えたい内容を小さな画像や短い文章でどう適格に表現するか試行錯誤しますし、通知を送るタイミングも議論を重ねます。例えば、スマートフォンの画面に表示される画像領域や文字数を意識して画像やテキストを作り、複数の候補の効果を比較してよりよいものにどんどんブラッシュアップしていきます。 また、通知タイミングに関しては、通知を見てもらえなければ意味がないので、ユーザーの方の生活を想像して「日中は仕事だから、時以降、でもそのタイミングは各社狙うゴールデンタイムで通知が集中してしまい結果見てもらえないのでは?じゃあ、18時59分にしようか」などと試行錯誤を繰り返すイメージです。 ■生き続けるDeNAQuality  私の就職活動時代、DeNAは若い人にも裁量権があり、いろんなバックグラウンドを持つ人が多く、ここに入ったら楽しく働けそう、成長できそうと感じたので入社を決めたのですが、若い人にも裁量がある組織である理由として、DeNAQualityという行動指針が浸透しているからだと思います。DeNAQualityの一つに、役職にかかわらず、しっかりと自分の考えを示す「発言責任」があります。新入社員だったとしても、相手が先輩や上司であることを理由に遠慮して発言しないことをよしとせず、自身の意見を発信することを求められます。 このDeNAQualityが、組織の規模が拡大していっても守られてきたことが、現に若い人の裁量権があることに繋がっていると感じています。 ■message  学生時代は学生時代しかできないことをやってほしいと思います。例えば飲食店でアルバイトするとか、いろいろなところに旅行にいくとか。そういった経験が社会人になったあとにユーザー理解という文脈で生きてくることも多いと思います。  社会人になってからは、どんな仕事でもまずは必死にやってみることをおすすめしたいです。仮に今の自分がやりたいと思っている仕事じゃなかったとしても、そこから得られるスキルは必ずあります。また、必死にやることで自分に向いている仕事や自分のやりたい仕事の解像度があがっていくと思うので、是非そういったマインドで社会人になってもらえると良いな、と思っています。 学生新聞別冊2021年4月号 横浜市立大学3年 小熊結菜

如意太一

KLab 株式会社 代表取締役社長 CEO 森田 英克

エンターテイメントコンテンツで、世界中のユーザーをひとつにつなげる ■プロフィール 法政大学社会学部を卒業後、WEBプランナー、モバイルコンテンツプロデューサーを経て、2002年にKLab(旧ケイ・ラボラトリー)に入社。2007年、コンテンツビジネス事業部長。2008年、コンテンツメディア部長。2010年、執行役員KLabGames部長。2012年、専務取締役。2019年3月より代表取締役社長に就任。 ゲームの運営は皆様の声が原動力、と語る森田社長。“エンターテイメントコンテンツで世界中のユーザーをつなげること”をビジョンに、コロナ禍で海外に行けない状況にあっても、ゲームを通じで多くの人たちにつながってほしいと語る。その熱い思いを伺った。  高校年生までは全く勉強をしていなかったのですが、このままではだめだと思い、最後の1年間は一生懸命勉強しました。受験日まで年を切り、時間が無いことに気づいたので、ただやみくもに勉強するのではなく、まず問題研究から始め、受験する大学が出題している過去問題を徹底的にやりました。その結果、法政大学に合格したのですが、偏差値が高いといって恐れるのではなく、やり方を考え、作戦を立てれば必ず突破できるということを学び、この経験が自信につながりました。 大学入学後はインディーズのバンド活動に力を注いでいて、そのクリエイティブさに夢中になりました。その影響からファッションや音楽関係の企業を中心に就職活動をしていました。歳までバンドを続けていたのですが、仕事よりも音楽活動が中心の生活でした。個性の違う人たちと何かを作っていくには協調性が必要です。仲間と一緒にイベントを企画したりしていましたので、主体性も身についたと思います。その反面、20代前半で人生のキャリアプランについて真剣に考えていなかったという反省もあります。 ■ゲームでつながるサービスのポテンシャル  大学卒業後は小売関係の会社で働いていましたが、自分に合っていないと思い、2年で辞めました。その後、WEBデザインやモバイルサイトを作る仕事をやっている中で、サイト運営に興味を持つようになりました。お客様が課金するサイトでは、私たちがいいサービスを作れば登録者も増え、収入も増えることが目の前でわかり、課金制というビジネスモデルが面白いと思ったのです。モバイル端末でこれから新しい未来が開けるというワクワク感と実際に市場がすごい勢いで伸びていることがわかり、若くてもこの分野で成果を上げることができると思うようになりました。 KLabもシステム開発などをやっていく中で、モバイルを通してお客様がつながり、一緒にゲームを楽しむサービスは、絶対にポテンシャルがあると感じるようになり、日本にソーシャルゲームが入ってきたタイミングでゲーム業界に参入しました。 このビジネスは自分たちでサービスを作ってネット上で提供し、お客様にお金を払ってもらうというビジネスモデルです。仕事をしていくなかで、いろいろな人と協力しながら面白いアイデアを見つけ、磨き上げ、世の中にリリースしていきます。その結果、大きな反響を得られたときは、ランキングやSNS上の書き込みでリアルに結果が見えるようになり、うまくいったときの達成感は格別なものがあります。 一方では、自分たちが作っている作品が本当に面白いのか、自問自答する日々です。その結果、品質を向上させるために今あるものを疑い、ときには勇気を出して作品を作り直すことも多く、そこがこの仕事の難しいところです。  また、私たちの会社は世界に向けてグローバルに展開しています。海外でゲームをリリースする際に、法律や文化などがそれぞれの国によって違うため、一つひとつ調べていかなければならないうえに、運営が始まった後では新しいイベントが始まるごとに対応言語を全て用意しなければならないのがとても大変です。 一緒に働く仲間は素直な人がいいですね。素直な人は成長余力があり、人からの指摘や自分の経験をまっすぐに受け止め、次の成長に活かすことができます。現在はスキルが不足していてもすぐに成長していくため、素直であることが大切だと思います。前例主義にならず、今やるべきことや勝つために何をすべきかを自分で考え、チャレンジや失敗を恐れない人と一緒に働くのは楽しいです。 ■視野は広く、世界を身近なものへ  日本だけでなく海外でKLabGamesという名前がゲームメーカーとして認知され、世界中の人たちに楽しんでもらえるようなゲームが作れればいいなと思います。そして、エンターテイメントコンテンツで世界中のユーザーをひとつにつなげることが私たちのビジョンです。コロナ禍の今、私たちができることは何かを考えたときに、世界中の人が携帯端末を持っている現在、ゲームを介して簡単に世界とつながることができます。物理的に行き来はできませんが、オンライン上で世界中の人たちがゲームで対戦したりコミュニケーションを取ったりという場を提供することが私たちの存在意義だと考えています。そして今よりももっと大きな規模で事業展開できるように頑張っていきたいと思っております。 ■message  周りの意見に左右されず、やりたいことを貫いてください。社会が多様化している現在、できないことはないと思っています。自分がやりたいと思うことを極めていけば、それがビジネスになっていくと思います。多様性とは他人の個性を認め、リスペクトすることです。 最後に世界を意識してほしいです。今や競争相手は海外です。海外で勝ち抜けるビジネスパーソンになることは必須だと思います。視野を広く持ち、世界規模でアプローチしていってほしいですね。 学生新聞2021年4月号 駒澤大学4年 如意太一

神田理苑

井上苑子 「言葉」は最高の自己表現ツール。だからこそ言葉に愛を込めて...

■プロフィール シンガーソングライター。神戸市出身の23歳。小学6年より作詞・作曲と路上ライブを始める。ミュージックビデオの総再生回数は1億回を突破。また、歌手としてだけでなく、映画・ドラマ・CM・YouTubeなどマルチに活動する次世代のシンガーソングライター。 ■学生時代はどう過ごされていましたか  小学校・中学校のときは、大勢でワイワイ言いながら過ごし、学校行事にも積極的に参加するような学生でした。女子校だったこともあり、無意識のうちに集団行動をしていました。一人で行動するような大人っぽい人を羨ましく思っていたときもありました。 小さい頃から歌うこと、人前でパフォーマンスをすることが大好きでした。小学5年生から今の事務所に所属し、「歌手になる」という夢に向けてひたすら走り続けていました。高校生になって東京に出てきたのですが、そのとき上京を決意できたのは少しでも夢に近づける気がしたからです。 ■歌と言葉についてお聞かせください  歌はこの上なく楽しいものです。もちろん、趣味から仕事に変わる中で苦しい思いもしましたが、それ以上に歌には「人生そのものを考えさせる力がある」と感じています。私は歌を通して「誰かに何かを思ってもらいたいし、刺激となればうれしい」と思っているので、自分自身も周りから刺激を受け続け、現状に甘えないように心がけています。そして言葉は私にとって自己表現にもっとも適したツールなのではないかと思っています。自分の考えを相手にきちんと言葉で伝えたいですし、伝えて理解してもらえるととてもうれしいです。だからこそ言葉をたくさん愛し、自分が発する言葉に最後まで責任を持ちたいと思っています。 ■大学生へのメッセージをお願いします  大学生はたくさん悩みや葛藤を抱えていると思いますし、実際皆さんと年齢が近い私も悩みはあります。しかし、苦しいときでも自分が好きなことをしているときは最高に面白いと信じ、それに対する知識量は誰にも負けないと自慢できるくらい突き詰めていってほしいと思います。 ■取材を終えて  井上さんの楽曲は歌詞に力強さがあり、どうしてこれほど心に響くのだろうかと考えていたのですが、お話を伺う中で、「ことばを愛しているから」だと気づかされました。社会がデジタル化される中で、言葉へのこだわりが薄くなってきているように思います。だからこそ楽曲を通して言葉と向き合う姿勢を学びたいと思いました。 学生新聞2021年4月号 日本女子大学2年 神田理苑

DX・WEBマーケティング

株式会社GAtechnologies 執行役員CMO 田吹洋

テクノロジーによりお客様と寄り添い世界的な企業に ■プロフィール 明治大学卒。新卒でイマジニア社に入社。企画やマーケティングに従事する。その後カカクコム社にて事業開発やマネジメントを担い、ITスタートアップ企業でマーケティグ責任者を経験。2018年、当社に入社し、プロダクト企画・マーケティング部門の責任者を務める。 日本のみならず世界を見据えて不動産事業を展開するGAtechnologies。学生時代に音楽イベントを開催した際、どうすればより多く集客できるか考える中で「インターネット」の力を体感したという田吹CMO。デジタル技術がどのように不動産事業と結びついているのか、大切にしていることは何か伺った。  学生時代は音楽イベントを開催して、毎回300~400人の集客をしていました。それだけの人数を集めるのは容易ではなく、いつも必死に考える必要がありました。そのころ、ブログが流行り始めていて、集客に利用できるのではないかと感じ、実際に活用してみたところ、以前よりも人が集まったのです。その経験を通じて、「不特定多数の人に対して情報が一斉に伝わるインターネットの仕組みは目覚ましい力を持っている」と実感し、ITという分野に興味を持ちました。 就職活動を経てIT企業に入社しましたが、当時インターネットでモノが売れるということは理解されませんでした。しかし、日に日にインターネットが普及し、人々の意識が徐々に変化して「リアル」との垣根がなくなっていくのを実感していました。 そしてある時、弊社代表の樋口と出会い「、インターネットだけではなくリアルも鑑みてやっていかないと価値向上はない」と言われたことをきっかけに弊社に興味を持ち、転職して現在の仕事をしています。 ■GAtechnologiesが大切にしていること  GAtechnologiesは「認知・理解」「比較・検討」「申し込み」「契約後」という4つのステップをお客様に寄り添いながら行っています。 一般的に、「認知・理解」のステップを大切にしている企業は多くあると思います。しかし弊社では、販売まで自社で行っていることもあり、「より深い情報」をお客様にウェブ上で提供できるとともに、4つのすべてのステップについてお客様の反応をダイレクトに感じて仕事ができるので、より早く、スピード感をもって対応することができます。そうした、お客様と寄り添いながら仕事ができることは、私たちにとっても、魅力であり面白さでもあります。 ■グローバルな事業展開の魅力と課題  GAtechnologiesのビジョンは「世界のトップ企業を創る。」です。弊社では日本だけではなく、世界を見据えて仕事ができます。例えば、日本の物件を海外の方へ販売するなど、グローバルな事業展開していることも面白いと感じています。 日本国内だけではなく世界的に事業展開をしていくうえで、日本との市場環境が大きく違うことがあります。その一つが、海外と日本の物件管理システムの違いです。日本であれば、契約が終了するとデータベースに登録するなど、一連のシステムが確立されています。しかし海外だと、そうした仕組みのないところがあります。また、物件の情報をアップデートしていく仕組みがない場合があるので、そういった点も考慮しながらどう展開していくかを検討していっています。 ■ウェブもオフラインもお客様の利便のため  ウェブとリアルは、それぞれに良さがあり、状況に応じて使い分けています。 現在、お客様が不動産を購入する際、ほとんどの方がまずインターネットの情報に接しており「、最初に不動産業者に行く」という方は減少しています。私たちは、ウェブもしくはオフラインでお客様と接する「接点」を増やしていくとともに、お客様が「接点」を持たないといけない理由や、ウェブかオフラインどちらがお客様にとって利便性が高いのかを考え、アプローチを変えています。 そうしたことを通じて、不動産を購入していただくことだけではなく、理想の資産運用をしていただくことや、「もっとこういう家に住みたかった」などの不満をなくし、よりお客様の理想を叶えられるようにしていきたいと思っています。 ■message  ご自身が就職活動などを通じて得た情報や今のトレンド、日々生活するうえで感じたことを大切にしていただきたいなと思います。親世代からのアドバイスは、数十年前の情報をもとにしていることが多い。そうした情報よりも、学生のみなさんのほうが感度が高く、新しい情報を持っています。そういった自分自身の情報をもとに、就職活動や進路を決めたほうが、結果として良いキャリア形成ができると思います。自分の信じた道を進んでください。 学生新聞別冊2021年4月号 明治大学2年 山本真人

大学理事長・大使館

日本薬科大学 副学長・教授 都築稔

地域との連携を大切に、これからの教育を考える ■プロフィール 1974年生まれ。東京大学農学部卒業。東京大学農学生命科学研究科博士課程修了(農学博士)。サントリー株式会社勤務を経て、2005年4月より現職。専門は分子生物学、微生物学、 分析化学。伊奈町生涯学習委員会委員、聖学院大学大学評価 会議外部委員を務めるなど、自治体や大学との産学官連携を 多数手がけ、商工会等での講演も行っている。 地域との連携や社会貢献活動を大切にしている日本薬科大学。その副学長である都築稔氏に、地域と大学との関係性の重要性や今の教育に必要なこと、そして、人口減少やコロナ禍によって、今後、大きく変わろうとしている教育界の将来展望について伺った。 ■実験とテニスの毎日だった大学時代  小さい頃から生き物が好きでした。高校生の時に、手塚治虫の漫画やスティーヴン・ホーキング博士の本を読み、宇宙や未知の世界に興味を持ちました。その結果、「宇宙に生命体はいるのか」といった疑問を持ち、宇宙や生命科学に関する研究をしたいと思うようになりました。今振り返ると、未熟だったのですが、実際に大学に入って、学生実験の大半は、結果がわかっているものばかり。「知らないことを解明していくのが科学だ」と考えていた私は、「結果がわかっていることを繰り返しても」と疑問を抱くようになっていったのです。 部活動では、体育会のテニス部に入っていました。テニス漬けともいえる大学生活だったため、4年生になり部活が終わるまで、バイトや旅行とは無縁の生活を送っていました。「海外旅行は学生時代にしかできない」と思ったので、引退後は、東南アジア、中近東など、いろんな場所へ旅行に行きましたね。海外に一人で旅行をしてから世界の広さを実感し、視野を広げるためにも、「日本にいるだけではダメだ」と思いました。卒業後は研究者として学校に残るという選択肢もありましたが、まずは民間で頑張ってみようと、先輩からの誘いがあったサントリーに、営業職として就職をしました。 ■教育業界に入ってわかった、教育の大切さ  サントリーの営業マンとしての日々にはなんの不満もなく、ただひたすら楽しかったです。ただ、当時交際をしていた都築学園グループの次女との結婚が転機となり、あらためて教育研究の道に進むことになりました。その後、いろいろな大学を見てきて、私は2つのことに気づきました。1つ目は教育こそが人材養成の土台で、インフラの基本になっているということです。2つ目は現在、日本に約780もの大学があり(2020年4月現在)、専門性や地域連携など色々な特徴があるということ。日本では、偏差値で学校が評価されることが多いのですが、世界的に見るときわめて稀なケースといえます。世界には、研究活動、産学連携、国際性など、さまざまな評価指標があり、将来を見据えると、他の国々のように、日本の学校も、独自性や特徴を出さないといけないと強く感じました。 ■地域の周辺人口と大学の存続率は大きく関連している  日本薬科大学は、医療人養成だけでなく、社会貢献活動をとても大切にしています。代表例は、研究で力を入れている「漢方」を活用した地域連携です。埼玉県秩父地域で自生する薬用植物「キハダ」の例を紹介します。キハダは古くから生薬として使われていましたが、地元では有効に活用されていませんでした。私たちは、キハダに含まれる苦味成分を活用した「キハダサイダー」を地元の方々と共同開発しました。地元の人が気づかないようなものが、実は、地域に大きく貢献できることもあるのです。では、なぜこのような活動を展開しているのか。それは、地域と大学の存続は強く相関しているからです。国の統計によると、周辺人口が12万5千人を切ってしまった大学は、存在確率が50%を切ってしまうというデータがあります。つまり、地域の活性化と学校運営は、実は切っても切り離せないのです。 地域を元気にするためには、もともとその地にあり、地元に根ざしたものを見直すことが大切だと思っています。その他にも、有名ラーメン店「麺屋武蔵」(矢都木二郎社長がキャンパスのある伊奈町出身)とコラボして、薬膳ラーメンを商品化しています。花粉症対策、熱中症対策など、たくさんのラーメンを作りました。最近では、免疫力を高めるとされる食材を使ったラーメンを作り、コロナウイルスの軽症患者を受け入れているアパホテルに届けに行きました。もちろん全部、薬学の知見を活かした食材を厳選して作っていますよ! ■世界最高の「学び直し」を作る!  地球環境を守るための脱炭素社会の実現に向けた取り組みにより、今から約10年後の2030年には、ガソリン車がなくなる時代が到来するといわれています。つまり、市中からガソリンスタンドを見かけなくなる可能性があるということです。このように、今当たり前に存在するものでも、10年後にはなくなっているものがある。それと同じようなことが、教育業界にも起こりえるかもしれない。そこで、私は教育界の近未来を深く考えるようになりました。 そのなかで、教育機関にとって避けて通れない課題は「人口減少」です。私が18歳の頃は、同級生が約205万人いたのですが、2020年の出生者数(速報値)は87万人、コロナウイルス感染拡大の影響を受けて、結婚や出産を控える動きがあったことから、2021年は80万人を切るのではないかといわれています。つまり、この子たちが大学生になる2040年頃は、大学に入学する生徒数が、圧倒的に少なくなるということです。 そこで、まず私が目を付けたのが社会人の学び直しでした。現状、日本の25歳以上の入学者割合はOECD諸国の中では下から数えた方が早いのです。海外では、社会人の学び直しが広く行われており、スキルアップのために、一人が何度も大学に行くことが一般的です。一方、日本の割合がこれほど低い理由の一つとして、海外と比較して、企業の研修制度が充実していることが挙げられます。この仕組み自体は決して悪いことだとは思いません。そのため、大学が社会人対象のプログラムを提供しても、一部のビジネススクールを除いて、なかなか日本では根付きません。そこで、私が考えたのは、30代から40代、特に女性の関心が高い「健康と美容」をテーマに、世界中の有名講師を呼んで、オンラインで交流できる世界最高のプログラムを作るというものです。「漢方アロマコース」(文部科学大臣認定)というコースで、コロナ禍以降、海外への渡航が難しくなっていますが、このプログラムはオンラインで行われるので、パスポートやビザなしで国境を越えた交流が実現できるのが魅力のひとつです。 もうひとつが、留学生をターゲットにした取り組みです。日本では、修士・博士課程に進学すると、かえって進路や就職先が狭くなる傾向がありますが、多くの国では、最終学歴が上がるほど、生涯給与が上がるため、学ぶモチベーションも向上しているのです。そんな学生たちをターゲットにして、海外の留学生たちが、日本の文化や医療を学んだり、日本薬科大学で学位を取得するプログラムを考えています。 2020年にオンラインで海外交流プログラムを試行的に開講したところ、約1500人から参加申し込みが来ました。ゆくゆくは有料化して仕組み化できたら、日本の在校生よりも参加者が多くなる可能性もあります。 ■重要なのは、母校を利用し「いろんな人の経験を聞く」ということ  日本薬科大学以外にも、「いろんなことに挑戦しよう」と考えている教育機関は国内外を問わずたくさんあります。しかし、教育に関する情報はあふれすぎていて、学生の皆さんが必要な情報を捉えきれていないように思います。そこで、おすすめしたいのは、まずは視野を広げるという意味で、いろんな人の経験をリアルに聞くということです。それは身近な先輩の話でも誰でもいい。そして、聞いた経験を、今度は自分の血や肉として取り入れてほしいのです。まずは自分と向き合い、自分の中から「これをやりたい」と湧き出てくるものを感じたら、その気持ちを忘れず、一生涯持ち続けてほしいと思います。 卒業生は学校にとって大切な財産ですし、卒業生にとっても同じです。いずれは、母校に戻って、自分のやりたいことを実現するための助けを借りてもいい。むしろ、「母校を利用してやるぞ」という気持ちを持ってもいいのではないでしょうか。学びは一生!卒業したら終わりではなく、ずっと付き合っていける関係なのだと思ってもらえればと思います。 学生新聞WEB2021年2月12日取材 文教大学2年 早乙女太一

伊東美優

衆議院議員 小渕優子

幼い頃から尊敬する父の背中を見て、自身も政治の世界へ。 ■プロフィール 1973年生まれ。成城大学経済学部卒業。早稲田大学大学院公共経営研究科修了。株式会社東京放送(TBS)勤務、衆議院議員秘書を経て、父・小渕恵三総理の急逝に伴い2000年、26歳で衆議院議員総選挙に群馬5区から初出馬し当選。以後連続7期当選。2008年、少子化担当大臣として初入閣。これまでに自民党幹事長代理、経済産業大臣などを歴任。現在、党沖縄振興調査会長。 「政治家になることは全く考えていなかった。」そう明るく語った小渕優子氏。実は、小渕氏が議員となるまでには人生最大の選択と、意外な道のりがあった。では一体、どのようにして今日に至るのか。子育てをしながら議員としても活躍し続ける小渕氏に、政治家になるまでの経緯や今後の展望について、詳しく伺った。 大学は体育会での活動が中心の学生生活でした。高校からゴルフ部に所属し、大学時代もゴルフ漬けの日々を送っていました。実は私は、幼い頃から運動がかなり苦手で。そこで、ゴルフはチームプレーではなく他人に迷惑がかからないスポーツなので、私でもできるだろうと思い始めました。結果的にゴルフをやって良かったことは、一つ目は、他の大学との交流が増えたことです。二つ目は、副将をしていたこともあり、多くの部員をまとめ、チームをマネジメントするという経験ができたことですが、この際に組織を動かす大変さを実感しました。大学卒業後はTBSに入社しました。メディア業界を選んだ理由は、スポーツを通じて人間模様や役に立つ情報を発信したいと思っていたことに加えて、第4の権力と呼ばれるマスメディアの世界に興味があったからです。私の父は元首相なのですが、その当時、メディアを見ると、政治家はいつも叩かれていました。私は、父と生活する中で、父がとても熱心に地域や国のことを考え、休みもなく働いている姿をそばで見て知っていました。だからこそ、一度テレビ業界に飛び込んでメディア側から父を見てみたいという気持ちがあったのだと思います。 ■最初は「議員にはならない」と考えていた T B Sで働いていた当時、自民党総裁選があり父も出馬していましたが、候補者の中で一番人気がない状況でした。 そんな父のことをただ、放っておくことができなくて「父を支えたい」という気持ちが強くなり、3年でT B Sを退社して、父の秘書という形で事務所に入りました。秘書として働いて1年が経過した頃に、2000年の夏に開催予定だった沖縄サミットに向けて、イギリスへ行って勉強をする決心をします。しかしイギリスにいる間に、父が倒れたとの連絡があって…。すぐに帰国して、いざ空港に着いた時に日本の新聞を見てみると、父は昏睡状態と書いてあったのです。涙を流しながら続きを読むと、「後継は優子氏」とも書いてありました。確かに、地元で行われた群馬の行事には父ではなく私が代わりに出席していたため、地元の人からそういう声があがっても無理はなかったのです。私はすごく悩みました。政治家の家に生まれ、父の仕事をずっと見てきたことで、議員の大変さや責任の重さはよく知っていました。だからこそ、議員への道は全く考えていませんでしたし、世襲議員は他の人の機会を奪ってしまうために良くないとも思っていました。そして政治家になることは、大きな責任を伴うものですから正直言って怖いし、もっと楽な道もあるかもしれないと思いました。けれども、ここで政治家になることを選ばない選択をすることは、逃げてしまう事だと思ったのです。たくさん考えた末に、この人生最大の選択に終止符を打ち「継ぐ」決断をしました。そうして、父と同じく、私は26歳で国会議員となったのです。 ■将来を考え、中長期的な課題解決を いま、日本が抱える最重要課題の一つは、少子化問題だと考えています。私は議員になって8年目に、少子化対策担当大臣になりました。当時は、少子化は女性と子供の問題という風潮があり、少子化対策に対する予算がありませんでした。また、当時はまだ、働く女性に対して、子供がかわいそうでしょ、という雰囲気がありました。ですから、「安心こども基金」という制度をつくり、約1000億円の予算をつけて、子どもを安心して育てることができる体制整備を始めました。この時が、少子化問題に予算をつけた初めての時だと思います。あれから10年以上経ちますが、まだまだ課題はあるものの、女性の働く環境や育児の問題などは少しずつ良くなってきていると感じています。それ以外にも、若くして議員になり長く在職させていただいている環境にあるので、中長期的な課題にも取り組んでいきたいです。例えば、財政政策がその一つです。日本は借金が多いと言われますが、国が借金を持つことが一概に悪いのではなく、借金をコントロールして返していくことが必要なのだと考えます。この借金問題を含め、次世代にツケが回らないようにしていかなければなりません。それから、エネルギー政策も重要課題の一つです。日本は資源が少ないというのは自明のことですが、資源は少ないけれども技術の誇れる国だということは間違いありませんし、グリーン化に向けて世界でリーダーシップが取れる国だと思います。日本が将来的に海外からの供給に頼らずにエネルギーを確保できるように、長い目で課題解決に取り組んでいきたいです。 ■国民にもっと政治に触れる機会を 昨今、一般の皆さんの現状と政治が行っていることが、乖離している気がします。確かにマスメディアを通じてニュースを聞くと、例えば消費税が上がるなど、政策に対し「嫌だな」と思うことがあるかと思います。ただ、未来そして将来世代のことを考えると、今やらなくてはいけないこと、というのはたくさんあるのです。特に財政やエネルギー、人口問題というのは中長期的な問題で、国民の理解が必要不可欠な分野です。今後はその乖離を縮めていくためにも、まずは国民に納得してもらえるような説明を政治家がしていかなければなりません。加えて、もっと国民が議論することができる場や、選択できる機会を増やすことで、国民と政治が互いに寄り添える関係にしていきたいです。 ■大学生へのメッセージ コロナ禍において日々の行動が制限される状況にはありますが、学生という今だからこそ持てる自由な環境の中で、いろいろな場所へ行ったり、いろいろな人に会ったり、とにかく沢山の経験をして欲しいと思います。勉強に限らず、喜びや悲しみなど、心が震える機会を増やしてください。その経験は蓄積され、将来何か大きな選択を迫られた時や、高い壁にぶち当たった時、必ずその解決に役に立ちます。そして、自分の将来を作るのは、紛れもなく自分自身ですから、その結果幸せな人生を送るのも自分次第なのです。ですから、私は何事も前向きに考えることはとても大事だと思います。できるだけ、自分の心をおだやかに、Happyに!それが皆さんの明日に繋がります。 学生新聞WEB2021年2月18日取材 慶應義塾大学 1年 伊東美優

伊佐茜音

株式会社クリーマ 代表取締役社長/クリエイティブディレクター 丸林 耕太郎

世の中の最大多数の人を幸せに!熱い思いが生み出す事業の形 ■プロフィール 1979年・横浜生まれ。慶應義塾大学卒業後、セプテーニホールディングスを経て2009年に現在の株式会社クリーマを創業。日本及びアジア最大のハンドメイドマーケットプレイス「Creema」、クリエイターの祭典「ハンドメイドインジャパンフェス」を運営。「愛ある事業で、人を、世の中を、元気にすること」を目指す。趣味はDJとプロレス鑑賞。 日本最大級のハンドメイドマーケットプレイスCreema(クリーマ)。創業者の丸林社長は「本当にいいものが埋もれてしまうことのない、フェアで新しい巨大経済圏を確立したい」と語る。その背景には自身がミュージシャンとして活動する中で感じていた社会への疑問や、クリエイターに対する熱い思いがあった。 子供の頃からずっと、「たくさんの人をハッピーにできる仕事ってなんだろう」と考えていました。最初はスポーツでテニスを。15歳頃からは音楽活動をスタートし、大学生のときにはプロとしてDJや音楽制作などに取り組んでいました。そんな頃に転機が訪れ、経営者を目指すことになります。大学生は「未来に投資をする期間」だと考えていて、10年、20年後の自分をつくる為に、今何ができるかを意識して行動していましたね。 ■プロのミュージシャンとしての葛藤 中学生くらいの頃から「世の中の最大多数の人をハッピーにできる仕事がしたい」という思いがありました。音楽の世界に入ったのは、音楽が大好きで、そこからたくさんの元気をもらっていたことに加えて、市場規模の大きい業界で活躍すれば多くの人にポジティブな影響を与えられると思ったからです。学生時代のうちから結果を出そうと活動して、ありがたいことに仕事もたくさんいただいていたのですが、その一方で「やりたいこと」と「やらなければならないこと」のギャップに悩まされるようになりました。そんな時、主催したイベントでスポンサーをしてくださっていた著名経営者の方と出会い、「世の中の最大多数の人をハッピーにする手段として、音楽で勝負したい」という思いを語ると、「それなら君は経営者か政治家に向いているよ」と言われたんです。その時は真意が聞けず、「なぜそう言ってくれたんだろう」と1か月ほど考えた結果、一人の音楽プレイヤーとして活動するよりも、経営者になって色々な事業を立ち上げていくことができれば、圧倒的に多くの人をハッピーにできる可能性があるという結論に至りました。それを機に今まで抱えていた音楽の仕事を全て終わらせて、経営者としてのプランを立て始めました。 ■実力をつける為、一番苦手意識のある会社に入社 まずは会社での実務経験が必要だと思い、就職活動を始めました。面接では「経営者になるので3年で辞めます」と断言して、大手企業を含む十数社から内定をいただきました。最終的に就職したのはその中でも当時は小さかったインターネット広告代理店です。テレアポで徹底的に営業する、社員100人ほどのベンチャー企業で、個人的には一番苦手意識のあった会社でした。なぜそこを選んだかと言うと“強くなること”が必要だと考えていたからです。音楽活動で培ったクリエイティビティや企画力には確固たる自信がありましたが、競争の激しいビジネス業界で勝ち抜いてく力が自分には明らかに欠如していると感じていました。そのために何が必要なのか考え、「苦手なことで結果を出すこと」という結論に至りました。 ■才能が埋もれないフラットな場所を どんな新規事業を立ち上げるか考えた時に、50個ほどあったアイディアの一つが今のCreemaでした。音楽をやっていた時代、才能があっても評価されず諦めていく人たちを見て、能力が数値化されない曖昧な世界をどうにか改善できないかと考えていました。クリエイター達が誰かに気を使って好かれようと努力しなくても、自分たちの作品を世に出して、世界の誰かが評価してくれるような場所が作れないかと思ったのです。そんな中、C to Cという仕組みを思いつき、Creemaを創設するに至ります。 ■想いや信念を曲げない 創業当時はブランド信仰が今よりも強く、クリエイター作品を買うというのはかなりニッチな概念だったので、2,3年はサービスが伸びないまま苦戦していました。競合企業が30社以上も参入してきて、正直もう無理かもしれない思ったことは何度もありましたが、諦めずに続けていたら3年目の終わり頃から成長が始まり、「誰より深く考え、誰より徹底的に実行する」ことを続けていたら、6〜7年くらいで他社に大きな差をつけており、巨大企業を始めとするほぼ全ての企業が撤退していました。広告をたくさん打ったりプロモーションに力を入れたりすることに依存せず、とにかくいいサービスを作ることに注力し続けたことが功を奏したのではないかと思います。当時も今も変わらず“クリエイターファースト”という信念を大切にしながら、才能あるクリエイターが正当に評価されるサービスを目指しています。 ■クリエイターの夢を応援 今後は“クリーマ経済圏”を拡大していくと共に、売り買い以外のことでもクリエイターの力になれるサービスを展開していきたいです。自分の作品で食べていくことだけでなく、例えば「海外で個展を開きたい」だったり、「移住してアトリエ作りたい」といった、クリエイターの夢や想いは多岐にわたります。そういった課題や願いに応えていくことで総合的にクリエイター活動をサポートしていきたいですね。 ■どんな人と働きたい? 「どんな友達が好きか」とあまり変わらないと思います。価値観が合わず、必要最低限の会話しかしない関係だと、創造性やイノベーションは起きなくなってしまうので。能力やスキルも大切ですが、「人として好きだな」と思う人と一緒に働きたいですね。フィーリングな部分もありますが、具体的には「根が純粋で、誠実で、一生懸命に生きている人」です。あとは、「やると決めたら、最後までやりきる」習慣や覚悟がある人かな。 ■大学生へのメッセージ 大学生として就職活動する期間は、自分の将来設計を考える最大のチャンスだと思って取り組んで欲しいです。その中で親や世間の声に耳を傾けることも大切ですが、自分はどうなりたいのかというビジョンを持ち、そうなるには何をすべきか逆算して考えることが重要です。就職活動は他人と比較しやすく大変な時期だと思いますが、自分の人生をどうしていきたいかを突き詰める良い期間なので、ぜひ頑張ってほしいですね。 学生新聞WEB2021年2月15日取材 東洋大学 2年  伊佐茜音

神田理苑

株式会社タスキ 代表取締役社長 村田浩司

不器用でいい 自分の強みを太い幹に突き進む ■プロフィール 1967年09月生まれ。1991年 明和地所に新卒入社。2002年に新日本建物に入社し、主に不動産開発事業に従事。2016年に社内ベンチャーとして立ち上がった株式会社TNエステート(現社名 株式会社タスキ)に参画。2017年に新日本建物から独立した後、2018年に株式会社タスキの代表取締役社長に就任(現任)2020年10月東証マザーズ市場に株式公開を果たす。 不動産業界にデジタル化の風を吹かせ、多くの人々にとって身近で開かれた業界にしたいと独自の手法で成長を続ける株式会社タスキ。知識や経験の枝葉はないが不動産開発のプロフェッショナルを続けてきたという自分の強みを太い幹にここまで成長することができたという村田社長に仕事の魅力と今後の展望を伺った。 大学時代は勉強があまり好きではなく、なるべくやらなくていい方法を考えていました。オートバイが大好きだったことがきっかけでガソリンスタンドでのアルバイトを始め、大学時代の4年間、働いていました。大学1年生のときに「危険物取扱者乙4種」という資格の受験をアルバイト先の店長に勧められ無事に合格したのですが、資格を取得したことで当時700円だった時給が1100円まで上がったんです。その時、資格の持つ力の凄さを実感しました。自分が何者かを証明することができて、同じ仕事に同じ時間をかけたときの価値までも変えられることに衝撃を受けたことを鮮明に覚えています。その後就活の時期を迎え、アルバイトの経験を踏まえて何かしらの資格を取りたいと思ったときがちょうど「宅地建物取引士」の受験ブームと重なりました。大学4年生でその資格試験に合格し、他に高い志があるわけではなかった私はせっかく持っているこの資格を活かそうと思い、不動産業界への就職を決め、1991年4月に明和地所に入社しました。 ■資格のおかげで得た特別な経験 当時の新入社員は約100人いましたが、宅地建物取引士の資格を持っている同期社員は珍しく、皆のように顧客の新規開拓や飛び込み営業など地道な作業を積み重ねるのではなく、初めから「契約の場」に同席していました。新人で地方の契約や、深夜帯に行われる契約など都合よく使われることも少なくありませんでしたが何より、お客様に直接関わる仕事を早い段階からできたことがとてもいい経験になりました。「不動産は一生に一度、人生最大の買い物」と言われますが、その貴重な場面に若いときからたくさん立ち会ってきたのは良い経験でしたし、今日まで一つの業界でコツコツ続けて来られた原点でもあります。 ■これだけは負けないというものを自分の幹に その後2002年に新日本建物に転職し、社内ベンチャーとして始まったのが株式会社タスキであり、2018年8月に代表取締役社長に就任しました。注力している事業は、「コンパクトで無駄はないが充実している商品をニッチなゾーンに供給するTASUKI IoTレジデンス」「クラウドファンディングを通して多くの人々にとって不動産業界の間口を拡大するTASUKI FUNDS」「建築プランと事業収支の作成を自動化させその先に不動産業界の完全デジタル化を目指すTASUKI TECH」の3点です。1つ目では、東京都内で駅近5分以内の小規模に特化したしており、スマートハウスを標準装備したIoTレジデンスの供給をしています。機能性を十分に備えつつも家賃は周辺相場と同等に抑え、新しいやり方で大手企業が投資効率の悪さを理由に供給を断念したニッチなゾーンを攻略することができました。2つ目では、不動産投資を一口10万円に小口化と電子化したクラウドファンディングです。第1号案件を「認可保育園」という高い社会性を持ち合わせる施設にすることで、今までこの業界に関心を持っていなかった新たな顧客ニーズも取り込むことができました。この反響は想定外に大きく、クラウドファウンディングの受付開始からたったの3分で目標額に到達し、注目が集まりました。こういった少額投資から始まる不動産との関わり方も、将来的にはIoTレジデンスの購入に繋がることを期待しています。そして3つ目では、長年不動産業界に染み付いた「アナログな面」を改善したいという思いから始まった取り組みです。これは、実際に現場に足を運ばなくても建設計画地をマップ上で選択することで、蓄積された膨大なビッグデータをもとに適切な建築プランの提案ができるテクノロジーです。私たちはこれを全国にある少人数規模の不動産事業者に向けて販売供給をしたいと考えています。全国には不動産業を主軸とする会社は約35万社ありますが、その約90%は従業員数4名以下の少数で経営しているのが現状です。少人数経営に伴う作業効率の格差をカバーして、不動産業界全体が発展していくことを願っています。何かアクションを起こす時に今も昔も大事にしているのは、「自分は不動産開発のプロフェッショナルだ」という一つの強みを幹にして取り組む姿勢です。経営や経理を学んだことのない私が社長に就任してからこの2年、チャンスや決断の場面を乗り越えてこられたのは、今までの経験から作られた自分の幹を信じて向き合ってきたからでした。不器用でもいいから自分が続けてきたことに誇りと自信を持って日々の業務に取り組んでいます。 ■目指すはオープンかつクリアな業界 このように様々な事業を展開し成長を試みていますが、私が目指すことは不動産業界全体を開かれた空間にし、仕組みを透明化することです。この業界は、規模が大きいことや専門的知識が必要であることを理由にまだまだ閉鎖的な業界です。テクノロジーを用いてそれらの問題を解決していくことで、一生に一度の買い物で悩むお客様の背中を押せたり、より多くの方々に不動産を身近に感じてもらうことができると信じています。 ■大学生へのメッセージ 「何でもできる、より、なにか1つはできる」のほうが強いと伝えたいです。そのできる1つをとことん極めて、自分の幹を形成してみてください。幹は、専門性を示すことや周囲に自分の存在をアピールすることにも役立ちます。「ピンチはチャンス」です。その最強の武器を手に、果敢に挑戦していってください。 学生新聞WEB 2021年2月10日取材 日本女子大学 2年 神田理苑

政治家

衆議院議員 菊田真紀子

誰一人置き去りにしない社会へ ■プロフィール 1969年生まれ、新潟県立加茂高校卒業、中国黒竜江大学留学。1995年加茂市議会議員に全国最年少(25歳)で初当選、2003年新潟4区から衆院選初当選し、以来6期連続当選、外務大臣政務官、衆議院沖縄及び北方問題特別委員会委員長などを歴任。現在、衆議院文部科学委員会理事、立憲民主党筆頭幹事長代理。好きな食べ物は、カレーライス、麻婆豆腐(激辛)。 政治家になるつもりはなかった一人の女性が政治家の道へ進むことになった。その原点は何だったのか、また原動力はどこからきたのか。政治家として一人でも多くの人を救うために行ってきた活動と、今後の展望について伺った。 ■価値観を大きく広げた中国への留学 私は高校卒業後、中国語を勉強するために中国黒龍大学で二年間の留学生活を送りました。私にとって、この頃の中国という国は近いけれど遠い存在で、大国なのに発展していない謎めいた国でした。この様な興味が、私を中国へ留学させるきっかけとなりました。当時の中国は今と違って、貧しく、発展していませんでした。そのため留学中の生活は苦しく、生きていくのが大変でした。さらに、中国と日本の国家間の交流も少なく、日本からの留学生は10人程しかいない状況でした。最初は中国人と日本人のパーソナリティの違いにとても戸惑いました。人と人との距離感の違いや、コミュニケーションの取り方の違いなどから最初は好きにはなれないと感じていました。しかし、時の経過とともに考え方が異なる人たちとの付き合い方や、お互いの違いを受け入れていく姿勢を学んでいきました。この経験から私はいろいろな価値観に気づきました。そして日本に帰国してみると、改めて日本は恵まれている国だと実感しました。毎日報道番組ではコメンテーターが様々な発言をしていますが、これは表現の自由や報道の自由があるからこそできていることです。当時の中国では、このようなことは全くできませんでした。日本にいては気づけなかった良さを、中国に行ったことで発見することができました。 ■政治に全く興味がなかった私が政治家の道へ 留学から帰国後、私は中国語講座の開設や外国人支援のボランティアを行っていました。当時の地方は、排他的で外国人慣れもしていませんでした。国際結婚や働きに来る外国人の方々を支援していく活動を行っていく中で、行政の対応があまりにも遅く、オープンではないことに気づきました。これは実際に自分が行政の立場に立って変えていく必要があると感じました。そして周りの協力もあり、25歳で市議会議員の道に進みました。当時は女性が1人しかいなかったため、話題になりました。トップ当選で市議会議員になりましたが、今まで感じたことがなかった女性差別を政治の世界に入って目の当たりにしました。女性差別によるいじめもあった環境の中で市議会議員を5年間勤め、国政に挑戦しました。国政選挙で当選後、先輩に「1期生の仕事は2期生になることだ」と言われました。衆議院の場合はいつ選挙があるかわかりません。1期生、2期生の時は次の選挙で勝つために、政策を語るよりも時間があれば地元に帰り、選挙活動を行っていました。 ■実体験こそが一人でも多くの人を救う術に その後、経験を積み当選回数を重ねて、様々な政策や仕事に関わるようになりました。民主党政権時代では外務政務官を務めました。アフリカやパプアニューギニア、ミクロネシアなどの国々に日本政府の代表として行き、いろいろな外交交渉を行いました。その当時も、女性政務官ということで職務にあたり多く心配されました。しかし、女性だからと言われることがとても悔しかったため、率先して職務にあたりました。渡航してみると、現地の方々は日本から若い女性政務官が来たことを歓迎してくださって、友好的に話すことができました。また、当時から軍事政権が続いているミャンマーに行き、アウンサンスーチーさんともお会いしました。そして日本政府の意思を伝えました。これらの仕事は私にとって良い経験となり、やりがいのあるものだったと感じています。他にも、本当に困っている人々の現実に目を向けて、法律をより良いものに変えていくことで役に立つことができると喜びを感じます。実際に、災害にあった場合の支援が既存の法律では対応できない事例が多くあることを知り、被災者生活再建支援法を議員立法で改正させることも行ないました。また現在は、コロナ禍での在日外国人労働者の支援が足りていません。この様な問題において、かつて外国人支援ボランティアの経験がある私は、国会において説得力のある発言がしやすいのです。多くの経験が政治家としての幅を広げ、今に活きていると感じています。 ■女性がより政治の世界に飛び込めるような社会実現に向けて 今後は“普通の人々がいろいろな問題意識をもって、政治の世界に入りやすい時代“を目指し、多様性のある政治にしたいと考えています。現在の衆議院議員の女性の割合は1割です。この数字は、戦後の女性が参政権を獲得した時代から、ほとんど変わっていないのです。女性の議席は圧倒的に少なく、増えていきません。女性の議員が増えにくい原因は、選挙活動が体力勝負なところがあることや、資金的な面、家族の了解が得にくいことなどが挙げられます。私は自然に増えるのを待っているのではなく、入り口を作ることがとても必要だと考えます。政治活動のバックアップを行うことや、3,4割を女性の議員にすることなどを法律化していかない限り、この現状は変わらないと考えています。 ■大学生に向けてメッセージをお願いします 大学生は、興味の持った問題に対して学び、考え続けることをしてほしいです。更には、それを発信できると政治の入り口になるのではないかと思います。たとえ失敗したとしても、その経験から得られたものを糧に、立ち上がっていってほしいですね。私の経験上、楽をして身についたことはあまりなく、葛藤の中でやり遂げたことが何年経っても忘れずに身についています。今苦しくてやめたいと思っていることでも、あと少し頑張って継続することで必ず自分の財産になると思います。 学生新聞WEB2021年2月18日取材 文教大学 2年 坂本鈴佳

経営者

アララ株式会社 代表取締役社長 岩井 陽介

時代の先を読み、新しいコンテンツを作り続ける! ■プロフィール 1998年に株式会社サイバードを創業し、専務取締役に就任。モバイルコンテンツのサービス企画全般、モバイルコマース事業、海外事業に携わる。2000年に上場。その後、海外で普及していたギフトカードに着目し、2006年に株式会社レピカ(現アララ株式会社)を設立、代表取締役社長に就任。キャッシュレスサービス事業、メッセージングサービス事業を中心としたSaaS型B2B2Cビジネスを展開。昨年11月に東証マザーズに上場。 小さい頃から社長になりたいと思っていたという岩井社長。学生時代から積極的に社会と関わることでビジネスセンスを磨き、常に時代の最先端を意識して行動してきたという。その経歴をたどると、困難な状況にもフレキシブルに対応し、新しいサービスを生み出し続ける貪欲な姿勢があった。 商売人が多い大阪で生まれ育ち、幼いころから成功者の伝記を読むことが好きで、将来は漠然と社長になりたいと思っていました。父親に連れられ食事に行くたびに、この店の売上はいくらだ、と質問されるので、お店に入ると売上を計算する変なクセが今でも変わりません。(笑) ■アクティブに行動していた学生時代 大学では入学してすぐ、イベントサークルに入って1年生の頃からパーティー券を売ったり、自分でイベントを主催したりしていました。当時は大学生をターゲットにしたマーケティングがブームで、友人達と学生企業を始め、リサーチやフリーペーパーの発行、人材派遣等様々な事業をしていました。バブル真っ盛りの時代で、稼いだお金も毎晩遊びに行ってすぐになくなってしまいましたが(笑)。4年生になって就職をするか、このまま事業を続けるか悩みましたが、当時は超売り手市場で周りも楽しそうに就活をしていたので、私も就職の道を選びました。社員の平均年齢が25才以下で、若手が活躍している環境に惹かれ、当時のリクルートコスモスに入社しました。広報室に配属されたのですが、ちょうどリクルート事件の真っ最中だったので、事件のことで毎日電話がかかってきて大変でしたね。 ■時代の先を読み行動し続ける バブル崩壊後リクルートコスモスの不良物件と共に当時のリクルートビルマネジメントに転籍になり、その後先輩に誘われて、大阪のマーケティング会社に移りました。ちょうどその頃インターネットが出始めて、もともとパソコン通信に興味があったこともあり、何かインターネットに関連する事業がやりたいと思い始めました。電子専門学校に通う友人から情報収集をしたり、学生時代に一緒に事業をやっていた友人とインターネットの勉強会をしたりして、そのまま28才の時にパラダイスウェブという会社を立ち上げました。そこでは、“Hello”という自分のマイページを作ることができるサイトを運営していたのですが、会員が5000人を超えてきたくらいからサーバーが動かなくなってしまい、泣く泣く閉鎖することになりました。 そんな中、世間では携帯電話を持ち始める人が増え、ケータイでもそのうちインターネットができるようになるのではないかと考え、ケータイ向けサービスの企画を始めました。NTTドコモがiモードを始めるという情報を聞きつけたので、iモード向けのサービスを始めようと、1998年にパラダイスウェブを母体にサイバードという会社を作りました。日本で一番最初の携帯コンテンツプロバイダーというポジションでスタートしましたね。 ■臨機応変に新しいサービスを生み出し続ける もともと“Hello”を運営していたこともあり、コミュニケーション系のサービスをもう一度やりたいという思いから、iモードでそれを再現するコンテンツ開発も開始しました。 しかし、NTTの出していたサービスで事件が起きた関係で、そのコンテンツは開発途中で打ち切りになってしまいました。それでも諦めず、今度はPHS版に切り替えてリリースし、ヒット。iモードではサーファー向けの波情報から始まり、着メロ、ゲーム、占いなど、次々にサービスを開発し、2000年の12月に当時最短で上場を果たしました。 その後も、モバイルコマースやメディア連携といったいろいろな事業を立ち上げ、最終的に海外事業にも着手しました。その時、当時日本ではほとんど普及していなかったギフトカードという存在をアメリカで知り、大きな可能性を感じたのがきっかけで、2006年にレピカを立ち上げ、電子マネー事業を始めました。さらにメッセージングサービスやデータセキュリティサービスといった新しい事業をスタートさせ、2010年にはスマホの普及に合わせ、スマホのARアプリを展開する子会社アララを設立しました。2016年にレピカと合併して、現在はアララという社名で全てのサービスを集約して運営しています。 ■2度目の上場 時代の流れの中でキャッシュレスの需要が高まり、アララのキャッシュレスサービスも大きく利用者を増やし、創業14年目の2020年にアララは東証マザーズに上場しました。サイバードが上場してから20年目、2度目の上場は本当に時間がかかり、大変でした(笑)。 ■アララの強みは製品開発力 「アイディアとテクノロジーで革新的なサービスを提供し、便利で楽しい、みんながハッピーになる社会を創る」という企業理念を掲げ、新しい技術を積極的に取り入れた製品開発に力を入れています。IT自体どんどん進化していくので、開発をやめたらその製品は終わったも同然だと考えています。とにかく技術の進化に対して貪欲にキャッチアップしていくことを大切にしていますね。 ■どんな人と働きたいか 創業以来ずっと同じ企業理念でやっているので、それに共感してもらえる人にと働きたいです。あとは、自分の頭で考えて行動できる人です。ぼんやりしていたり、人から言われて動いたりするのではなく、「もっとこうしたらよくなるんじゃないか」と、いろいろなことに疑問を感じ、それを実行に移せる人がいいですね。 ■今後の展望 ここ最近はキャッシュレスサービス事業がものすごい勢いで伸びているので、そこをもっと強化していきたいですね。「キャッシュレスのその先へ」というビジョンを掲げて、今後現金を使うことが無くなっていく社会を想像しながら動いています。誰でも使えて、安全安心で、一番身近なキャッシュレスサービスを実現していきたいと思っています。 ■message 自分で考えたことを実際に行動に移すということをやり続けてほしいですね。思いついたらすぐ行動。やりたいと思ったときにすぐ動かないと、やりたい気持ちが薄れて、何をしたかったのかわからなくなるので。あとはいろんな刺激を受けるということですね。情報がないと行動に移せないので、アンテナを張り巡らせて、情報をキャッチアップすることも大切にしてほしいです。 学生新聞WEB2021年1月28日取材 国際基督教大学 4年 鈴木菜桜

伊佐茜音

社会民主党副党首 参議院議員 福島みずほ

全ての人の尊厳が守られる差別のない世の中を目指して ■プロフィール 1955年宮崎県延岡市生まれ、東京大学法学部卒業、弁護士。1998年参議院議員初当選。2009年連立政権の際に男女共同参画・少子化・消費者担当大臣。現在、社民党党首。主な活動分野は、非正規雇用者の待遇改善問題、夫婦別姓選択制や女性差別撤廃の実現、脱原発運動・グリーンリカバリーの促進、被拘禁者・外国人・難民の人権擁護、動物愛護法改正などに取組み中。現在、参議院議員4期目 学生時代からなくならない差別問題に目を向け、市民運動にも積極的に参加してきた福島みずほ氏。男女平等、障害者差別、労働災害。未ださまざまな課題が残る日本で、全ての人がありのままに生きられる社会の実現を目指す。弁護士を経て議員となり、大臣としても尽力してきたその原動力とは。 家と学校の行き来だけで、ものを知らなかった学生時代。大学では社会勉強をしたいと思い、「現実の中で社会を考えよう。」というフレーズのある裁判問題研究会に所属しました。1年生では職業病や労働災害に関して、2年生では住民運動などをリサーチしていましたね。当時、横浜市で貨物列車が住宅地を通ることに反対した住民運動を実際に目の当たりにし、裁判傍聴にも行きました。3年生になると街づくりや、法学部と関わりのある日照権の裁判に関して、五十嵐敬喜さんに講演をしていただきました。そうして色々な人と出会い、色々な想いを知って、さまざまな発見があり、それら全てが今の日々にも通じていると感じています。皆さんも、先生の何気ないひとことが妙に印象に残り、反芻していることがあるかもれませんね。それらを通して、私は裁判問題研究会に所属して良かったと思っていますが、他の社会問題に関するサークルとの交流にも楽しさを感じていました。 ■「国会で一緒に頑張ってほしい。」 中学生の頃、小説家かジャーナリスト、または弁護士になりたいと思っていました。同級生からの「小説家では食べていけないよ」という一言と、大学を卒業しても簡単に企業に就職できるわけではない社会の中で、父の「残念ながらこの世には差別がある。組織で働けば、今の時点では女性や外国人は差別を受けやすい。何か資格を持って一生働けるようにしたほうが良い。」という言葉を受けて、高校に入る頃には弁護士になろうと決めていましたね。そもそも弁護士になりたいと思ったのは、当時の映画館で流れていた電波ニュースから公害の裁判で活躍する弁護士を知ったことや、社会運動を行う弁護士に憧れを抱いたからです。そうして弁護士になり、これが天職だと思っていました。ただ、裁判をやっていると通達1つで法制度が変わる社会の仕組みと、声を上げれば法律も変えられるということが強く印象に残りました。そのような中で、当時社会党委員長だった土井たか子さんに「これから有事立法が五月雨式に出てくる。そんな国会で一緒に頑張ってほしい」と言われたのです。そう言われるまで、私の人生設計に議員になる考えは全くありませんでした。私の人生はどうなっていくのだろう、というどんよりとした不安を感じました。しかし、このまま弁護士として市民運動をしていて、もし憲法9条が変わってしまったら私も世の中も困る。それは避けたい。それなら議員になって憲法9条を守り、社会民主主義のもと政策を変えていこうと決意しました。 ■変わるのは私じゃない、社会のほうだ。 選択的夫婦別姓を実現したいと考え、長らく取り組んでいますが、そもそも日本はジェンダーが平等な社会とは言えません。男女平等といっても、単に女性が男性並みになるのを求めているのではなく、生きづらい、働きづらいと感じている人に寄り添う社会の仕組みができていくことを望んでいます。フィンランドのサンナ・マリン首相の「全ての子どもが自分なりたいものになれる、全ての人の尊厳が守られる社会をつくりたい」という言葉はまさにその通りですが、日本はそのような社会にありません。誰も親を選べず、誰も生まれてくる場所を選ぶことはできませんが、だからこそ政治は必要であり、全ての人の尊厳が守られる社会に変わるべきです。私自身、20歳ぐらいのときに、いわゆる”これが女の子が生きる道”というものは自分に合わないと感じていました。法学部でも、女子の割合はとても低かったです。とりわけLGBTQの方々は社会の幸せ像との違いがあり、たった一人でそれに対峙していくのはとても難しいことです。程度の差こそあれ、さまざまな人がそういったステレオタイプとのギャップに悩んでいると思います。自分のセクシュアリティを否定せず、私は私のままでありながらこの社会を変えたいと思っています。 ■大学生へメッセージ 出る杭は打たれても、出過ぎた杭は打たれない。だから短い人生で好きなことをやった方が勝ち。そんなことを思うわけですが、私が今までそうやって元気に生きていけることの1つには、母の「あなたは骨のある女だから、思う存分生きていきなさい」という支えがあると思います。母だけでなく女友達や、世間が何と言おうと支えてくれる人の存在がとても大切です。また、自分は何者でどう生きていきたいのかを考えたとき、人と違う生き方を選ぶことには勇気がいるし、怖いと感じると思います。実際に私自身、夫婦別姓であることを選び、籍を入れずに子どもを育てていくことはやはり怖かったです。しかしパートナーは「上手くいかなかったら、いつだって婚姻届を出せばいいじゃないか」と言ってくれて、私は肩の力が抜けました。そういった周りの人の支えもありますが、自分のしたいことと世間との間にギャップがあったときには、私は鏡を見つめ「世界中の人を騙せても自分を騙すことはできない」というように思いましたね。自分が正しいと思うことをやる、自分を好きでいられるような選択や生き方をしていくべきです。不安を感じるなら、実行に移せるその時まで力を蓄えていれば良いと思います。大学生の皆さんは親や先生に「こう生きなさい」と言われることがあるかもしれません。もちろん周りの意見を聞くことは大切です。しかしそれらに流されるのではなく、自分の意志で生きていく。自分の思う存分生きて欲しいですね。 学生新聞WEB2021年2月9日 取材 東洋大学 2年 伊佐茜音

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琴音 19歳の今だからこそ歌う意味がある、さだまさしさんの曲へのチャレンジ

■プロフィール 新潟県長岡市出身。2002年1月7日生まれ、現在19歳のシンガーソングライター。2019年3月6日、E.P.『明日へ』でメジャーデビュー。2021年1月13日、さだまさしさんの名曲「防人の詩」のカバーをリリース。自身3度目となる全国ツアー「3rd note TOUR 2020 -キョウソウカ-」は新型コロナウイルス感染拡大による国内の情勢を受け、現在再振替公演の日程を調整中。 「歌うことで、誰かが笑顔になってくれる、それが嬉しい」という、歌手の琴音さん。今回新たに取り組んだのは、さだまさしさんの名曲『防人の詩』のカバー。19歳だからこそできる表現、若い世代にこの歌を届ける意味…。音楽シーンを疾走する彼女の、音楽へ懸ける思いの本音を探った。 ■目があった人全員に、話しかけた 私も現役の学生です。新潟の高校を卒業して、音楽の専門学校に通っています。学校の友人はみんな「音楽業界に進みたい」という熱い思いをもっていて、向上心もあるし、モチベーションも高いです。負けていられない! って思うけど、いい意味でライバルとして刺激を受けています。専門学校のなかで、私がいちばん友だちの人数が多いかもしれません。こんな環境は生まれて初めてですね。 というのも、入学当初の私、ものすごくがんばったんです(笑)。「将来、音楽の仕事で一緒になるかもしれない!」と思って、目があった人全員に話しかける勢いで友だちになっていきました。小さいころは引っ込み思案で、友人がほとんどいなかった私が…! 今の関係が続けば、これからもずっと連絡を取り合える仲間になれるかな、って思っています。 ■『夢があるなら、口に出しなさい、そしたら叶うから』 母はクラシックピアノを経験、父は路上ミュージシャンで活動していたこともあって、音楽好きな両親のもとで育ちました。家では常に音楽が流れているので、弟は音にあわせて踊り、自分も気づいたころには自然と歌っていましたね。地元で歌の大会に出たとき、賞品で旅行券をもらえたことがあって。それで家族旅行に行けたんですけど、旅行よりも、家族が喜んでくれたことが嬉しかった。自分が歌って成し遂げたことで、誰かが笑顔になるっていいな、と。それが私の幸せなんだなと思うようになりました。 両親からは「夢があるならば、言えば叶うから口に出しなさい」とよく言われていたんですよね。だから「私、歌手になる」と周りの人に言い続けていたら、自分の気持ちもだんだんと強くなっていきました。言葉の力ってすごいですよね。 ■歌うことで、たくさんの人とつながることができる 歌を聴いてくれた小さい子が、私の似顔絵を描いて渡してくれました。じかに人の温かみに触れることがあると、歌手になってよかったなと思います。手紙でその人の状況を書いてくださることもあります。家族の雰囲気が悪くなって悩んでいる人、恋人が事故に遭って記憶をなくしてしまったという人、親戚が大きな病気になってしまった人…。そんな方々が、私の曲を聴いて心が柔らかくなったって書いてくださるんです。 先日は「ライブ会場で出会ったファン同士で結婚します!」というコメントも届きました。自分が伝えたい音楽を発信することで、誰かの人生が少しでもいい方向になっているのかなって思うと嬉しいです。ファンの方々の声は、自分自身も認めてもらっているような気持ちになります。私と、私の曲を聴いてくださった方それぞれに化学反応が起きていて、なんだか不思議な気持ちです。 ■プロの世界の厳しさに、心が折れそうになることも プロの音楽の世界に入って、厳しさやツラさも経験しましたプロジェクトが大きくなって関わる人が増えると、自分がやりたいと思ったことがそのまま出来るとは限りません。でも、自分の歌だから、きちんと思いを主張しなくちゃいけない。その思いをうまく伝えることができなくて、大好きな音楽の仕事をしているのに、もどかしい思いをすることもあります。メンタルがやられそうになることもあるんですよね…。 そんなときも、やっぱりファンの方とのつながりが励みになっています。昨今のコロナ禍では大勢の人の前で歌うことはできないけれど、だからこそ、お客さんに支えられていることを実感しています。 普段のライブでは、拍手を通して曲の区切りや一息つく時間ができ、次のパフォーマンスのきっかけにできるんです。配信ライブでは拍手が聴こえないので、「観客の方の息遣い、存在があってこそのライブなんだな」と再認識しましたね。今は配信ライブ中にチャットで盛り上げてくれたり、メッセージを届けてくれたりするので、ファンの方も試行錯誤しながら支えてくれているんだなと感じています。 ■19歳のいまだからこそ、歌う価値がある この度、さだまさしさんの名曲『防人の詩』のカバーを配信リリースさせていただきました。 歌詞の内容が哲学的で深くて難しいけれど、今のコロナ禍の状況にも通じるものがあると感じています。最近歌謡曲が流行ったりもしているので、若い人にも興味を持ってくれるチャンスではないか、19歳である自分が発信する事にも意味を感じ、カバーにチャレンジしました。さだまさしさんのオリジナル版にはかなわないかもしれない。でも、さだまさしさんのパワー・思いを、自分なりのアプローチで個性として伝えることはできるかもしれない。アレンジで和の雰囲気を出したり、ダブリングやコーラス、そして朗読を入れてみたり。若い世代の人たちにどうすれば飽きずに聴いてもらえるか、自分だからこそ伝えられることは何かを考えました。だから、ぜひ同世代の大学生のみなさんにも聴いてほしいです。 私の音楽性は、まだまだ未完成だと思っています。今回のチャレンジのように、興味がある音楽はどんどん経験していきたいです。今年は「多彩」を目標に、いろんな音楽・パフォーマンスに挑戦していきたいですし、プライベートでも、新潟から上京して感じたことや、専門学校の仲間からもたくさん吸収していきたいです。そしてその経験から、自分が伝えたい音楽とは何かを模索していきたいと思います。 ■message これからどうしようって、悩んでいる人が多いと思います。私もまだ19歳ですが、私なりに思うのは、好きなこと、興味があることを見つけることは大事だと思います。それが将来の職業につながるかどうかは別にして、好きという純粋な気持ち、湧き出てくるもの、そのエネルギーって自分自身が思うよりも強力なもの。なので、そこに突き進んでいってほしいと思います。 学生新聞WEB2021年2月3日取材  横浜市立大学 3年 小熊結菜 DIGITAL SINGLE「防人の詩」 2021年1月13日(水)リリース「防人の詩」ストリーミングサービスおよびiTunes Store、レコチョク、moraなど主要ダウンロードサービスにて配信中!https://jvcmusic.lnk.to/sakimorinouta YouTubeチャンネルにて「防人の詩」Music Videoも公開中! TikTokでは新旧問わず名曲のカバー歌唱動画を続々公開中!https://www.tiktok.com/@kotoneofficial その他最新情報はオフィシャルHPならびに各種SNSをご覧ください! HP:https://kotoneofficial.com/Twitter: https://twitter.com/kotoneofficialInstagramhttps://www.instagram.com/kotoneofficial/

北之原真奈

青木柚 自分とは正反対の役柄にぶつかるたびに、無知を痛感する

■プロフィール 神奈川県出⾝、2001 年⽣まれの20 歳。中学⽣の時に『14 の夜』(2016年公開)のオーディションを受けメインキャストで出演。2018 年公開の主演映画『暁闇』が韓国・全州映画祭にて招待上映される。ドラマ『死にたい夜にかぎって』『あのコの夢を見たんです。』『相棒season19 元日スペシャル』『夢中さ、君に』『アノニマス』と出演作が続く。4 ⽉スタートのドラマにも出演が決まっている。この8月20日に主演映画「うみべの女の子」が公開予定。 ■小さいころから、まねっこが好きだった。 なんでアイドルじゃなくて、俳優になったんだろう(笑)。というのも、小さい頃は100均で売っているマイク片手に兄が通う学校の校庭まで行って、歌ったり踊ったり。テレビに出ているアイドルや歌手の真似っこをするのが大好きでした。 小学生の頃は指人形を集めて一つひとつにキャラクターを設定して、ストーリーを作って遊んでいました。キャラを戦わせて、必ず「闇オチ」で終わる(笑)。この遊びは一時的な熱量であまり続かなかったけど、思い返すといまの仕事につながっているのかな、と思いますね。 ■役者をはじめるきっかけは、加藤清史郎くん 小学校から帰ってきて、当時再放送されていた『ヤマトナデシコ七変化』というドラマを見ていたら、同じ年齢の加藤清史郎くんが出演していたんです。立派な俳優さんと肩を並べながら一人で演技している姿を見て「すごい!」って思いました。母に「僕もこのお仕事をしてみたい」と伝えると承諾してくれた。どうやって母を説得したのかは覚えてないんです。でも、「やってみたい!」っていう強い気持ちだけは覚えてる。あのときの自分に、いまは感謝しています。よく辞めずに続けてきたな、って。 ■俳優をやめるタイミングはいくらでもあった 芸能コースの高校に進学したので、まわりもさまざまな活動をしている友人ばかりでした。学校の理解もあって過ごしやすかったんですけど、強いていうなら、行事に参加できないことは残念でした。 俳優をやめるタイミングはいくらでもあったし、これまでもツラいことのほうが多かった。でも、そんなときに支えてくれたのが家族でした。家族にだったらいいかなと思い、愚痴をこぼしたら、「この仕事をやりたくてもできない人もいるんだぞ」と普段あまりそんなことをいわない兄が諭してくれたんですよね。正しい道に導いてくれる家族にはとても感謝しています。 ■不安なとき、観客の生の声に支えられた 舞台挨拶で直接観客のみなさんと会えることは、僕のなかでとくに大きなこと。俳優っていう仕事は、だれも正解を教えてくれないし、この演技で大丈夫なのかと不安になることもあります。 昨年、⻑野での舞台挨拶に行った時、会場にお客さんが何十人もきてくれていて。僕の出演作品を観に足を運んできてくれた人、話を聞いて頷いてくれる人、拍手を送ってくれる人、そんな方々を目の当たりにしたんです。一人ひとりに作品が届いている、遠いところでも観てくれている人がいるっていうことを実感しました。いま、さまざまなことがオンラインに なっていくなかで、とても意味のあるものでした。 ■コロナ禍で見えてきた、自分自身の変化 いろいろな俳優さんのインタビュー記事を読むのですが、最前線で活躍している方たちって、エンタメの重要性、文化の継続意識を本気で考えているんだなと感じます。自分は、目先のことでいっぱいいっぱい。演劇界全体を盛り上げていくんだ、っていう気持ちが足りなかったと気づかされました。 おうち時間が増えて、改めてエンタメの重要性を感じました。コロナ禍で大変な状況のときに、映画やドラマのようなエンタメは必要ないっていう意見もありますよね。でも、ツラいからこそエンタメが必要な人は絶対にいて、その人のためにも続けなくちゃダメだって思います。演じる側の人間だけど、自分自身が映画やドラマを見て助けられることもある。僕も自分の作品を見てもらい、少しでも助けられるようになりたいです。 ■壁にぶつかったときは、役に活かせるチャンス! 自分が共感できるような役柄は演じやすいんですが、自分とはまったく違った状況やバックグラウンドの役は、難しい。そういった役柄にぶつかるたびに、自分はまだ考えが浅はかで何も知らないのだなって痛感します。 最近は、「大変だな」「わからないな」と思うようなことが日常で起こったら、客観的視点をもって見られるようになりました。“あ、これ演じるときに使えるかも”って思うんですよね。役柄を演じるためには、もっと日常を豊かにしていないといけないと思います。まだまだです。 ■どんな役であれ、いつでも集大成でありたい 環境が変わり、いままで以上に責任が増えたと思います。高校も卒業したし、ゼロからのスタートという気持ちです。これからは、作品の真ん中にいても、どの立場にいても、しなやかに演じられる俳優さんになりたい。毎回、出演する作品が集大成と思えるように全力で取り組んでいるし、それが将来、全体で見たときに大きな集大成になるようにしたい。 ■message 同じ時代を生きているのは、自分たちだけです。だから一緒に頑張っていきたいと思っています。若い世代が一人ひとり、小さな日常の意識を考えることをあきらめずにいれば、いまよりも楽しく過ごせると思います。友人への気配りとか、小さなことからでいいと思うんです。みんなが行き詰まったときに、僕の演技を見たら救われるような作品に、たくさん携わっていきたいです。僕も頑張ります! 学生新聞オンライン2021年1月22日取材 共立女子大学 3年 北之原真奈

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駒井蓮 やるからには、諦めたくないし負けたくない!

■プロフィール 株式会社ボックスコーポレーション所属2000年12月2日生まれ。青森県出身。趣味:絵を描くこと、ピアノ、読書、映画鑑賞特技:歌、習字 女優を夢見る小学生だったという、駒井蓮さん。青森に住んでいる少女にとって、それは途方もない夢でしたが、チャンスをしっかりつかみました! しかし、そこからがさらに大変だったといいます。何が彼女を、前へと突き動かしているのか。現役大学生でもあり、同世代の彼女の信念をうかがってきました。 ■青森に住んでいて、女優への手がかりなんてひとつもなかった 「どうやったら女優さんになれるんだろう…」小学生のころから、ずっと思ってました。当時、私は青森県に住んでいたんです。芸能界は本当に遠い世界で、女優になる手がかりさえイメージできませんでした。でも、「お芝居がしてみたい!」っていう強い思いだけはあって。 小学生のころ、主人公が地元のアイドルになっていくストーリーの『あまちゃん』に夢中になっていたんです。学校の劇でセリフをしゃべりながら人前に立ったら、「あ、なんか楽しい!」って感じました。そこから自然に「私もドラマに出てみたい」と考えるようになったんです。でも、青森の小学生には、なにしろ情報が入ってこないから、どうしようもできなかった。そんな私に、チャンスがおとずれたんです! 中学1年の春休みに東京に旅行で行ったときに、たまたま竹下通りでスカウトされました。どうしていいか迷っているなか、芸能界への道へ手を引っ張ってもらえたという感じがして、嬉しかったですね。 ■スカウトされたのはよかったけれど… でも、後日談があるんです。スカウトされたときに自宅の電話番号を聞かれ、飛び上がるほど嬉しかった私は、勢いで番号を教えてしまいました。帰宅後、スカウトされたことを両親に伝えると、「見知らぬ人に簡単に電話番号を教えるな!」と。厳しく怒られたのをよく覚えています。そりゃそうですよね…(笑)。 でも「やりたいことは進んでやっていこう」というのが駒井家のモットーなので、芸能界に入ることに関して反対されることはありませんでした。両親は「やると決めたなら覚悟を決めて頑張りなさい」と背中を押してくれました。 ■片道4時間、ひとりで東京に通う日々 中学生のときは、仕事があるたびに、青森から東京にまで新幹線で片道4時間かけて通っていました。ある日曜日、終電の新幹線で帰ったときに、地元の電車が雪で止まってしまって、家に着いたのが朝の3時(!)なんてことがあったんです。それがトラウマになってしまって、とても怖い思いをしながら東京に通っていたのを覚えています。当時は、携帯電話をもっていなかったんですよね。乗り換えもよくわからないし、電車の時刻表も調べられない状況で、たったひとりで不安しかありませんでした。そんな私に母は、新幹線の中で食べるためのお弁当を作ってくれました。心配しながらも、笑顔で送り出してくれて、本当に心強かった。帰る場所がある、待っていてくれる人がいることが私の心の支えでした。家族に応援されながら何度も自宅と東京へ往復するうちに、ひとりで遠くに行くことにも慣れ、だんだんと自分で何事もできるようになっていきました。 高校生になるタイミングで上京したんですけど、そのときも怖くて不安でしたね。両親に相談したら、「一度、覚悟を決めたことだろ!」と喝を入れられました。芸能界に進むときも、ひとりで東京に通うときも、上京するときも、いつも両親が私の背中を押してくれています。だから、両親への恩返しの思いもあって、勉強も手は抜きませんでした。第一志望の大学に合格できたときは、みんなが喜んでくれて「頑張ってよかったな」って思いました。いまも大学のテスト期間中は、睡眠時間を削って勉強時間を確保していますよ。仕事も勉強も、どっちも妥協したくないです。負けず嫌いかもしれませんね。 ■2021年の、私の漢字一文字は「即」 女優の仕事をしていて、悩みはもちろんあります。あの演技でよかったのかな、どうしたら皆さんに知ってもらえるのかなとか…。でもね、決めたんです。うじうじ悩んでいないで、すぐやる、いまやる!って。以前だったら、1時間悩んで決めていたようなことがでてきたとしたら、まずやっちゃう、やると決めちゃう。すると考える時間は5分で終わるんですよ(笑)。そしたら55分残るでしょ? 時間と心に余裕ができるんです。やっちゃえばラクになるんですよね。だから、今年の私の目標は「即」です。いまの私にとって、悩む時間のほうがもったいない。進化する時間がほしいです。 ■message 小さいときは、将来やりたいことがいっぱいあったのに、大学生になるとそれがわからなくなることってありますよね…。それって、きっと学歴とか世間体みたいなしがらみが出てきたからだと思うんです。でも、思い切って、幼いころの夢にチャレンジしてもいいんじゃないかなって思います。やってみた結果、落ち込むこともあるけど、そんなときは私は思いっきり泣きます。泣いていると疲れてきて、笑うしかなくなってきます。そしてお腹がすく(笑)。たいていのことは美味しいものを食べることで気持ちは晴れます! 失敗からどう立ち上がるかが大事だと思っています。私たちの未来のために! 学生新聞WEB2021年1月14日取材 日本大学 3年 辻内海成   大ベストセラー『陽だまりの彼女』の作者である越谷オサムによる同名の青春小説を原作とし、駒井蓮と豊川悦司が父娘役で出演する『いとみち』(6月18日(金)青森先行上映&6月25日(金)全国公開)。 主人公の相馬いとは、津軽三味線が得意な青森・弘前市の高校生で16歳。三味線を弾く時に爪にできる糸道に名前の由来を持つ。強い津軽訛りにコンプレックスを持ち話すことが苦手で友人も少ないが、芯はじょっぱり(意地っ張り)。 一大決心をして津軽メイド珈琲店でのアルバイトをはじめたことをきっかけに、祖母、父、バイト仲間たちに励まされ、成長していく。思春期の葛藤を核に、津軽三味線が紡ぐ三世代家族の珠玉の人間ドラマ、そしてオール青森ロケの心癒やされる雄大な風景が注目を集めている。 6月18日(金)青森先行上映、6月25日(金)全国公開監督・脚本:横浜聡子原作:越谷オサム『いとみち』(新潮文庫刊)駒井蓮 豊川悦司 黒川芽以 横田真悠 中島歩 古坂大魔王 ジョナゴールド(りんご娘) 宇野祥平  西川洋子製作:『いとみち』製作委員会(アークエンタテインメント 晶和ホールディング 日誠不動産 RAB青森放送 東奥日報社 ドラゴンロケット) 配給:アークエンタテインメント  協力:青森県弘前市 青森県北津軽郡板柳町 青森県平川市www.itomichi.com

川浪亜紀

山本直寛  芝居は、苦しさと楽しさが表裏一体。だからこそ俳優は面白い!

■プロフィール 株式会社トップコート所属。1994年8月29日、東京都生まれ。「men’s non-no」の専属モデルを務めた後、役者デビュー。最近ではドラマ「女子高生の無駄づかい」(テレビ朝日)や「行列の女神〜らーめん才遊記〜」(テレビ東京)に出演。その他舞台や朗読劇など幅広く活動。また、2月13日(土)22時放送のドラマ「レッドアイズ 監視捜査班」(日本テレビ)第4話に出演、そして3月5日(金)より配信されるドラマ「お茶にごす。」(テレビ東京)への出演を予定している。 舞台からテレビドラマまで幅広く活躍中、若手俳優のなかでも注目度が高い山本直寛さん。YouTube動画では料理する姿を見せ、その手慣れた姿に魅了されるファンも多い。そんな彼は、役に対してじっくり向き合い、考えて、考える。芝居への熱い思いの根源はどこにあるのか。学生時代に役者の世界に出会ったきっかけから今までを、じっくり聞いた。 ■高校の親友がある日、「ループタイ」をしてきた! かっこよかった! 中学・高校までは勉強ばかりして過ごしていましたが勉強は嫌いではなかったので楽しくやっていました。でも、ある日親友に心を動かされました。制服はありましたが、服装は自由で何を着ても良い高校ではあったのですが、突然親友が「ループタイ」をしてきたんです。それを見て「かっこいい!」と思って。さらに彼は、映画も好きだったんです。好きな映画が、黒澤明監督の映画で、他にもディープな映画にもくわしかった。僕は広く知られている作品しか観てないのに。これはもう憧れますよね(笑)。このときから古着や映画や音楽など、自分の知らなかった文化にどんどんハマっていきました。 ■就活はしない、俳優の道を進む! と覚悟 早稲田大学に進学して、もう一人の親友からも刺激を受けました。その親友は学校に着物に丸眼鏡でくる人で。変なヤツだな、と思いつつも憧れていたんです。でも彼があまり学校に来なくなってしまって。聞くと俳優学校に通っていると。またもや「かっこいい!」となりますよね(笑)。同じころにモデルの仕事をしていたり、表現をすることが好きだったこともあって、そこから俳優という職業に興味を持ち始めました。そして短期のワークショップに参加してみたら、また新しい感覚に出会いました。そのとき初めて演じたのが酔っ払いの役なのですが、洋服を良く見せるというモデルの表現とは大きく異なるので、恥ずかしい気持ちでいっぱいで。でも、自分とは異なる人間を表現することの面白さや今までに出会ったことのない新しい感情に出会いましたし、周りの反応も面白かったんです。 そして、大学4年生のときに舞台を作り上げる長期のワークショップに通いました。ここで初めてお客さんの前でお芝居を披露したんです。このときに舞台の熱気を感じて完全に芝居に魅了されました。客席の電気が落ちて真っ暗になった瞬間の、これから何が起こるんだろうというワクワク感に満たされた劇場の空気、そして、舞台が始まるとお客さんが一挙一動を見て反応してくれる。これが役者にのめりこむきっかけとなり、芝居の世界にいこうと覚悟を決めました。 ■俳優という仕事は、真っ暗なところをさらに瞼閉じて歩いている感じ お芝居は自分一人では完成しないけど、一人で準備する時間も長いんです。そして正解がない。これだけやっていれば大丈夫、ということがないんです。考えて考えて、精一杯準備していっても状況が変わったり、掛け合いの中で生まれていく新しい瞬間があったり。想像と違うことがたくさん起きますし、できていないと感じることの方が多いです。考えすぎて眠れなくなることもあります。 ある舞台の稽古で自分なりに考えて臨んだワンシーンがあったのですが、普段は役者に任せて何も言わない監督が「ちょっと違うな」とおっしゃって、次の日からそのシーンはなくなっていました。ドラマでカットされるのとはまた違う、稽古が続く中で「あのシーンがない」と実感しなくてはならない、そんな苦しみを感じました。真っ暗なところを、さらに瞼を閉じて歩いているような感覚です。 でも、何回かに一回、自分でも興奮するほどにピタッと演技がハマる瞬間に立ち会えるときもあるんです。自分の用意したものだったり、相手の返しが響いて自分が想像したものと異なるものが出てきたり。まだまだその感覚に出会えた経験は少ないですが、それは濃い記憶として残っています。あの感覚は本当に忘れられません。それが自分の力になっていて、うまくできなかったり辛くても乗り越えてまた味わいたいと思うほどです。 舞台でスタンディングオベーション、そして5回のカーテンコールをいただいたこともあるのですが、そのときは本当にやってよかったと思いました。お客さんに喜んでもらえたこともとても嬉しかったです。 ■原作を読んでやってみたかった役を、オーディションでつかんだ! 『お茶にごす。』というドラマのなかで、「樫沢光輝」という主人公のライバルを演じています。お金持ちで完璧なかっこいい男だったのに、「髭が濃い」ことに気づかれて、その一点で残念な男になる役です(笑)。今まで演じた中で一番コメディータッチの強いキャラクターでしたね。原作が本当に面白くて、この役を自分がやりたいと思っていましたのでオーディションで合格してこの役をいただくことができたので、やった!と。どうしたらこの面白いキャラクターを実写で伝えられるかを考えて臨みました。 笑いの要素って、真剣に取り組んでいるときにふと出てきますよね。なんでもない会話をしていたのに、突然真面目な会話をしだしたら周りはつい笑ってしまったりするように。面白いことを面白くやらない。そんな感覚で、この漫画はコメディーなんですけど、自分の中ではコメディーと思わずに演じました。精一杯「真剣に」演じているのでぜひ観てほしいです。 ■面白いと思ったものには、どんどん飛び込んでいきたい シェイクスピアが大好きなので「リチャード3世」の役をいつかやってみたいです。シェイクスピアは、俳優たちが喋って、演じることで増す面白さがあると感じているのでその一員になってみたいです。 一つひとつの出会いがあって今があると思うんです。だからこそその場その場で出会えた面白いものに飛び込んでいきたいと思っています。舞台の面白さや魅力を伝える一人となれるように力をつけていきたいです。 ■Message 今目標ややりたいことがなくても焦らないでほしいです。面白いことにふと出会えるときが来ると思います。だから、どこか気になったり自分が惹かれたことを見逃さないことが大事だと思います。僕も、親友があのときループタイをつけていなかったら、モデルも挑戦しなかったし俳優にも挑戦していなかったかもしれません。俳優という道を進んで心細いときもありましたが、「これが自分にとっては楽しいんだ」という自信はありました。自分の“楽しい”が、いつか大切なものになっていくと信じて、大学時代を楽しく過ごしてください! 学生新聞WEB2021年1月20日取材 津田塾大学 3年 川浪亜紀 「今日から俺は!!」西森博之原作・不良×茶道部!?異色のヤンキーコメディ漫画「お茶にごす。」が実写ドラマ化! テレビ東京にて2021年に放送決定!Amazon Prime Videoでは3月5日(金)より全12話一挙配信!

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安斉かれん 「夢」は持たない。この瞬間瞬間を全力で頑張る!

■プロフィール エイベックス株式会社所属 1999年生まれ/ 神奈川県・藤沢市出身の21歳。90年代の音楽業界を描き、Twitter世界トレンドTop3入りした話題のドラマ「M 愛すべき人がいて」にW主演として大抜擢。実は彼女は世界的にも大きな潮流を生みつつあるリバイバル・サウンドをいち早く取り入れJ-POPのニュージェネレーションを謳う歌手。もともと、「POSGAL(ポスギャル)」と呼ばれる次世代の一人。 19歳で歌手デビュー、ドラマ『M 愛すべき人がいて』で初主演を果たし、大ブレイク中の安斉かれんさん。歌以外に、モデルや女優としての活躍もめざましく、多才だ。しかし、あくまでも、自分の軸は「音楽」というかれんさん。そんな彼女の、音楽へかける想いとは? 等身大のことばで語ってくれた。 ■アルトサックスを吹くために学校に行っていた 歌手になりたいなんて、思ってもいなかったんです。でも、音楽は大好きで。中学時代はアルトサックスにのめり込んでいました。「吹奏楽部のために学校がある」くらいに思っていましたね(笑)。だから、授業より部活! 受験よりアルトサックス! という感じでした。コンクールのアンサンブルコンテストで金賞を受賞できたんですよ!歌を始めたきっかけは、「のどって、楽器の一部では?」って気づいたから。高校生のときから歌のレッスンのため、avexの原宿アカデミーに通い始めたんです。その頃も、歌や音楽を仕事にできるとは思っていませんでしたけど、ただただ楽しかったです。でも、このレッスンがきっかけで歌手デビューにつながりました。高校の友人たちは卒業後の進路で進学や就職などで悩んでいたけど、そんななか、自分は歌や音楽に進んでいいのかな、という不安ももちろんありました。でも、「好き」という思いを信じて、好きなことを続けていたら、デビューのチャンスがやってきて道が拓けた。不思議な縁です。 ■人生のなかで、続けられているのは音楽だけ 音楽って、人の人生の中で、「この曲はあの人と聴いたな」とか、その時その時を振り返る思い出になったり、人生の区切りになるものだと思います。そういうのって音楽しかないんじゃないかな。だから、「かれんさんの歌を聴いて、好きな人に告白できました!」といった感想をもらえたときは、やりがいを感じたし、本当に嬉しかったです。音楽だけは、いままでずっと続けてきたし、これからも絶対にやめない。ソロの歌手として活動しているけど、じつは一つの作品ができるまでに大勢の人が携わってくれています。みんなで作品を作り上げることが、大好き。一人一人の音を重ねて演奏していく吹奏楽と同じですね。歌詞は、歌を始めたのと同時に書き始めました。19歳でデビューしたときの『世界の全て敵に感じて孤独さえ愛していた』の歌詞は、16歳のときに書いたものなんです。書き始めた頃の歌詞でスタートを切れたことは、本当によかった。歌詞を書くときは「歌詞を書こう!」と意気込むのではなく、日記をつけるような感覚で、等身大の気持ちを書くようにしています。そのほうが、みなさんの心に届くんじゃないかな、と思っています。 ■音楽以外のチャレンジが、すべて自分の成長につながる 2019年には、化粧品メーカー「M・A・C」のビジュアルモデルにも挑戦しました。モデルのお仕事は初めてだったので、どうしたら商品が魅力的に写るか、自分なりに研究しました。鏡に映る自分と、写真に映る自分の姿は違うんですよね…。難しかったです。撮影時には、いつもと違うお化粧やヘアアレンジをしてもらうことができて楽しかったです。自分のメイクはいつも固定の系統にかたよりがちだったので、新しい発見がありました。ドラマ『M 愛すべき人がいて』の「アユ役」として主演のお話がきたときは、正直驚きました。「自分をどう出すか」が大切な歌とは違って、演技では「どう見せるか」が大切なので、表現の仕方は難しかったです。だから、最初は演技をしようとすると、かなり恥ずかしかったんです。でも、いざ現場に入ってみたら、役者さんたちは本当にすごかった! W主演で「マサ役」を演じていた三浦翔平さんは、最初から「マサ」という役に入っていて、自分も「アユ」にならなければいけないと刺激を受けました。みなさん役に愛をもって取り組んでいて、かっこよかったですね。自分の恥ずかしさなんて、一瞬で払拭されました。撮影をすべて終えた後は、「ドラマってこんなに達成感があるんだ!」と感動しました! 作品に対して愛のある喧嘩をしたこともあるし、そんな経験もしながらみんなで一つのものを作り上げたときの喜びは、やってみないとわからないものでした。「みんなで一つのものを作る」ということは音楽にも通じることで、私の大好きなことなんです。このチャレンジは、自分の音楽に還元できたらいいな、と思っています。 ■音楽を続けられるなら、なんだってやる! この先、機会があれば多くのことにチャレンジしていきたいけれど、軸は音楽、アーティストでありたいです。音楽のジャンルを増やしてみたり、新しい楽器にチャレンジして、「安斉かれんといったら、こういう曲」という色はつけずに、色々なことをやってみたいです。 2月10日にリリースする『キミとボクの歌』では、初のバラード曲にチャレンジしています。この曲を初めて聴いたとき、「すごくいい曲!」と思って、今まで書き溜めていた歌詞の中から、特に大好きな言葉をいっぱい詰め込みました。誰もが心に抱えている希望や不安を、自分(ボク)と大切な人(キミ)の一人一人の登場人物を通して、描いています。みなさんも大切な人を思い浮かべながら、聴いてほしいです。日常的なことを歌っているから、共感してもらえると嬉しいかな。 ■message 新たに挑戦したいことはたくさんあるけれど、私は「夢は作らない」と決めているんです。夢をつくっちゃうとそれに向かって頑張らないといけなくなっちゃいますから。大人は「目標を持て」とか「やりたいことはないの?」なんて聞いてくると思うけど、好きだと思うことにどんどん首をつっこんでいけばいいと思う。私が音楽に没頭したみたいに。好きなことだったら、そこに大変なことが待っていても、乗り越えられるし、苦労とは感じないはず。だから、夢は作らずに、今目の前にあることを全力で頑張るということを意識しています。人生は楽しんだもん勝ち、ツラいことすら楽しんだほうがラクになるんじゃないかな。私はそう思うようにしています。コロナで大学に行けない日々が続いていますよね。でも、みんな同じ状況だから焦らなくて大丈夫。いまできることをやっておけば、未来は明るいと思います! 学生新聞WEB2021年1月20日取材 津田塾大学 1年 佐藤心咲 NEW SINGLE「キミとボクの歌」 本人作詞による渾身のピアノ・バラード。 そのピアノ演奏も、自分自身で行なった。  美しいストリングス・アレンジを手掛けたのは 世界的な作曲家・編曲家である「David Campbell」 安斉自身が作詞だけでなく作曲にも携わった前々作「GAL-TRAP」で、既に片鱗を見せていた すぐ隣から語りかけるようなリアリティを感じさせる『距離ゼロメートルの声』の真価が問われる 等身大の希望と不安を歌うバラードで、安斉かれんが見せる新たな一面(声)にも注目して欲しい。 <安斉かれんInformation> 2月10日リリース「キミとボクの歌」 サブスクリプション音楽配信ストリーミングサービス限定で配信中! https://KalenAnzai.lnk.to/kimitobokunouta 1月27日リリース「キミとボクの歌(ピアノShort Ver.)」 サブスクリプション音楽配信ストリーミングサービス限定で配信中! https://KalenAnzai.lnk.to/kimitobokunouta_piano Instagram / REELとTikTokでは Short Movieを続々公開中! https://www.instagram.com/kalenanzai/reels/ https://vt.tiktok.com/ZSfbY7s4/ YouTubeでは「キミとボクの歌」Music Video 3部作 / 順次公開! https://www.youtube.com/channel/UCOFXUN-4bc36S1hEhdl3MIg

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キュウ

ネタは絶対面白いのに伝わらなかった…。昨年のM-1で何が変わったのか? <プロフィール>お笑い芸人 キュウ ぴろ  (左)生年月日:1986年5月4日出身地:愛知県特技: イラスト、ポテトチップスをいい音を立てて食べる 清水  誠 (右)生年月日:1984年2月23日出身地:愛知県特技:空手、瞬時に涙を流せる 株式会社タイタン 所属キュウのお笑いオフィシャルチャンネルhttps://www.youtube.com/channel/UCDishZFfEEFw_TRee8w4WRg 漫才師の頂点を決定する「M-1グランプリ2020」の敗者復活戦で見せたネタで、一躍その名を広めたキュウ。じつは、彼らの創り出す違和感やむず痒さが、受け入れてもらえなかった過去もあった…。そしてその悔しさを乗り越えて迎えた2021年は、彼らにとってどんな一年になるのか。いま注目のふたりに漫才へかける想いをうかがった。 ■どんな学生時代を過ごしていましたか? 清水:中学生の頃から芸人になりたいと思っていたんですけど、両親からは大学への進学を説得されて。でも、芸人になる夢をどうしても捨てきれなかったので、NSC(吉本総合芸能学院)に通える距離にある、近畿大学へ進学することで納得してもらったんです。入学してみたら、大学の授業はNSCに通う余裕がないほど大変でした(笑)。でも、大学を続けられないくらいなら、芸人を目指すことも途中で諦めてしまうだろうと思って、3年間で単位を取り終え、最後の1年間でNSCに通いました。 ぴろ:僕も両親から学歴はつけてほしいっていわれていました。大学に進学さえしてくれれば好きなことをしてもいいってことだったので、授業をサボって遊んだり、放課後の教室に残って友達と話す日々でしたね。卒業後は中学生の頃からの夢だった漫画家を目指していましたが、25歳の頃に夢を諦めて芸人になりました。清水さんは当時の事務所の先輩で、ふたりでネタを見せ合ったり、ゲームをしたりして過ごすうちに仲良くなっていったんです。 ■別々のコンビとして活動されていたようですが、コンビ結成の経緯を教えてください。 清水:その頃からぴろのネタはかなり個性的で、僕にはない感性があったんですよ。ぴろたちの漫才を「僕だったらもっと面白くできるのに!」と思いながら見ていたので、解散したらコンビを組みたいと思っていました。 ぴろ:自分が作ったネタを、相方も面白いと思ってくれていないとやっていて楽しくないし、そこの信頼って大事だと思うんです。清水さんにはその信頼があったので、コンビを組まないっていう選択肢はありませんでしたね。 ■面白いと思うものが似ていたんですね。おふたりが思う漫才の良さって何ですか? ぴろ:ネタの責任のすべてを負えるところですね。小細工が通用しない戦場に丸腰で立つシンプルさがかっこいいと思っています。コントだとセットや設定でお客さんをネタの世界観まで連れて行けるけど、漫才はゼロから始まります。だから、台本、演技、黙っていても何かを伝える雰囲気など、いろんな力を持っていないとできないところが漫才のよさですね。 清水:コントって真っ白すぎて、何していいのか、わからないんですよ。漫才には先人たちが築いてきた型があるから、その道を行くもいいし、はたまた脱線してもいい。いろいろ考えて、工夫をこらせる漫才にずっと憧れていたんだと思います。 ぴろ:コントはその世界のせいにできる逃げ道があるけど、漫才はすべて自分たちの責任になるし、見ている人も同じように感じるものだと思うんです。その負担の大きさにヒリヒリしますね。 ■最近では無観客ライブなども増えて、「ヒリヒリ」を感じられる場が減ってきたのではないかと思いますが…。 清水:僕たちのネタはお客さんと一緒に場の空気を創っていくタイプではないので、虚しくなることはないです。最近はSNSで反応を確認できますしね。 ぴろ:M-1の反響も目に見える形で分かりやすくなりましたよね。コロナ禍だからモチベーションが下がるってことはあまり感じないです。 ■やはりお客さんからの反応はやりがいにつながるんですね。 ぴろ:もちろん、お客さんに面白いと思ってもらえることも嬉しいですが、関係者や先輩芸人さんに評価されたい欲が強いです。単独ライブとM-1の二大評価が重要です。 特にM-1はもれなく全コンビを評価している大会だから、そこで結果を出すというのは、文句をいわせない唯一の方法というか。 ■ネタをやっていて、苦労していることはありますか? 清水:同じネタを披露しても、立つステージが違うだけで評価のされ方も変わってくるところです。「ルパン」は、結成初期のネタなんですけど、去年のM-1準決勝で披露して、やっと高評価をいただくことができました。ぴろのネタは間違いなく面白いのに、それが伝わらない期間は悔しかったです。 ぴろ:僕が作るネタは、見る側にとって見たいものじゃなかったんです。見る人は自分たちが見たいと思うものでしか笑わないから、その人たちに受け皿を用意するための意識改革を少しずつ行なってきました。それがM-1で一気にこじ開けられたと思います。 ■ネタのスタイルは昔から変わっていないんですか? 清水:幽霊が出る回じゃない『世にも奇妙な物語』を見ているときのような気持ち悪さを感じるネタをずっとやってきました。 ぴろ:その気持ち悪さを、“感覚”と“ロジック”のバランスを考えて伝えるよう工夫しています。芸人も笑ってくれるネタって、感覚的な部分にあって、公式に当てはめたものはなかなかウケないんですよ。でも、感覚的な部分だけでネタを作ってもお客さんに受け入れられないから、ロジックを使って見やすくする作業を意識して行なっています。バカバカしさと賢さ、両方がないと伝わらないんじゃないですかね。お笑い好きじゃない人にも伝えられるようにしないと。 ■今後の夢や目標としている存在を教えてください。 ぴろ:目標はMー1優勝です! あとは、東京03さんに単独ライブの日程を意識させられるまでに成長することです。「キュウと被りたくない」ってビビらせられたらいいですね。尊敬する芸人像としては、バカリズムさんです。できない部分を見せてないだけかもしれないけど、自分が見る限り完璧な芸人として成立しているのですごいと思います。 清水:僕はマルチに活躍したいので大泉洋さん、ユースケ・サンタマリアさんです。 ぴろ:芸人さんのほうがいいんじゃない? 清水:聞かれたら答えようと思っていたんですけど忘れちゃいました(笑)。思い出したらいいますね。 ■最後に大学生に向けてメッセージをお願いします。 清水:僕の先生に、40歳で「これからは好きなことをやって生きる」って辞めちゃった人がいるんです。ああ、こういう自由な生き方もあるんだな、って思いましたね。だから人生、そんなに重苦しく考えなくていいと思いますよ。あせらなくても大丈夫です。 ぴろ:将来を考えろっていわれてもね、わかんないですよね。就活の面接で落とされることもあると思うけど、「一瞬で何がわかるんだ!」って勢いでいいと思います。M-1でだって面白い人が落とされています。すべては「運」だと思って、大学生のみなさんにはタフにというよりソフトに考えるようにしてほしいです。型にハマった先の未来が幸せだとはかぎらないですし。楽しい道を選んでも意外と大丈夫です。人生はいくらでも方向転換できます。死ぬときに、1本でもシワが少ないほうがいい。笑いジワはいいけどね。最後みんなに顔を見られたとき「この人満足だったんだ」って思われる顔でいたいよね。 学生新聞WEB取材日2021年1月20日 明治学院大学 3年 菅井七海

北之原真奈

株式会社堀場製作所 代表取締役会長兼グループCEO  堀場 厚

世界で勝ち抜くために、“おもしろおかしく” 株式会社堀場製作所 代表取締役会長兼グループCEO 堀場 厚 (ほりば あつし)  プロフィール 堀場 厚 (ほりば あつし) 1971年  甲南大学理学部卒業後、堀場製作所の米国JVオルソン・ホリバ社に入社。1972年  カリフォルニア大学アーバイン校に入学し、77年同大学大学院工学部電子工学科修士課程を修了して堀場製作所に帰任。1992年  代表取締役社長に就任。社長就任時の年間売上高約400憶円の規模から、売上高2000憶円、世界28か国と地域に展開するグローバル企業に成長させた。2010年 フランス共和国 レジオン・ドヌール勲章 シュヴァリエ受章。2019年  旭日中綬章を受章。 世界中のあらゆる産業を支える分析・計測システムを提供する堀場製作所。特に自動車や半導体産業は、“HORIBAがなければ動かない”といっても過言ではない。京都発のグローバル企業が成長した原動力は何か。堀場厚会長にその神髄を伺った。 ■「あなたはどうしたいのか?」と日々問われた米国赴任時代 私は甲南大学理学部を卒業後、渡米しました。米国子会社でサービスマンとして働くなかで、開発業務にもっと携わりたいと考え、現地の大学に編入、その後大学院に進みました。当時はアメリカの大学での膨大な勉強量に驚きましたね。日本の大学とは比べ物になりませんでした。最初の一か月は「いくら勉強してもこれをこなすのは無理!」と諦めかけましたが、学部一の秀才の友達ができて、いっしょに勉強をすることで学習効率があがり、無事卒業することができました。必死で学び、大きな壁を乗り越えたことで、自信を持てるようになりましたね。この経験があるから、いまプレッシャーや困難にも耐えられるのだと思います。 また、日本では肩書が重視されますが、アメリカでは肩書よりも、「あなた自身はどうしたいのか?どう考える?」と、常にその人自身の意見が問われ、それらが重視されます。この文化から、私は自分の意思をしっかりと主張する大切さも学びました。 ■独創的で、常にベストであるために 世界で戦うには1人ひとりが、自分自身の持つ知識を基に創造的に考える知恵と、そこから新たなことに挑戦するチャレンジマインドが必要不可欠です。堀場製作所の社是は、“おもしろおかしく”です。社員一人ひとりが自ら情報を集め、そこから‘常にベスト’を尽くして物事に取り組む。上司からの指示を待って動くのではなく、自らの意志と責任をもって仕事に取り組むオーナーマインドが大きな力になっています。だからHORIBAは世界でも決して負けません。 ■HORIBAが世界で勝てるのは、“批判精神”があるから HORIBAグループの社員の約6割が外国人達で、その中でも一番多いのが約900人のフランス人です。京都とフランスには、「プライドが高い、他人に迎合しない」という共通点があります。プライドが高いというと悪く聞こえますが、言い方を変えると、京都では、人の真似はしない、他とは違う、ということが重要視されます。HORIBA社員も、いい意味で批判精神を持っているのです。独創性を重視するため、業務の内容にもよりますが、当社では仕事を一から細かく教えるやり方はあまりしません。自分なりの答えを見出せるような指示をだし、それぞれのマニュアルを作り上げてもらっています。そうやって育った社員は、自らの仕事に誇りを持っており、強いのです。だから、「自分はこれをしたい!」と強く思っている尖った人と一緒に仕事がしたいと思っています。そうでないと、グローバルに戦うことはできないでしょう。日本社会では無難であることが求められがちですので、結果として日本の企業全体が弱ってきている気がします。HORIBAが世界と戦えるのは、批判することも、批判されることも気にしないほどの尖った人財がいるからだと思っています。世の中全体が技術面、そして経済の面でも劇的に変革する時代なので、同じことをしていてもスピード感がない企業・人財は今後生き抜いていくのは難しいですね。 ■大学生にむけてメッセージをお願いします 学生時代は、自分のしたいことを思いっきり楽しめる時間があると思います。何もしないのはもったいないので、例えば都会に住んでいればそこから飛び出して、自然に触れてみてください。耕して、種をまいて、水をあげて、肥料をやって、イノシシに食べられないように守って、実ったものを収穫すること。これは人生も同じです。感性を磨くためにも、こういった自然の営みの厳しさと喜びを、時間をかけて実際に体験してほしい。コロナウイルスの影響が落ち着いたら、生きているとはどのようなことなのかを考える旅に出るのも良いと思います。20代の感性や経験が将来必ず生きるので、ひたすら経験を重ねてください。 学生新聞WEB 2020年11月27日取材 共立女子大学 3年 北之原真奈 日本大学 3年 大橋星南 / 明治学院大学 3年 菅井七海 / 共立女子大学 3年 北之原真奈 / 明治大学 2年 山本真人