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Archive for 運営スタッフ

伊佐茜音

社会民主党副党首 参議院議員 福島みずほ

全ての人の尊厳が守られる差別のない世の中を目指して ■プロフィール 1955年宮崎県延岡市生まれ、東京大学法学部卒業、弁護士。1998年参議院議員初当選。2009年連立政権の際に男女共同参画・少子化・消費者担当大臣。現在、社民党党首。主な活動分野は、非正規雇用者の待遇改善問題、夫婦別姓選択制や女性差別撤廃の実現、脱原発運動・グリーンリカバリーの促進、被拘禁者・外国人・難民の人権擁護、動物愛護法改正などに取組み中。現在、参議院議員4期目 学生時代からなくならない差別問題に目を向け、市民運動にも積極的に参加してきた福島みずほ氏。男女平等、障害者差別、労働災害。未ださまざまな課題が残る日本で、全ての人がありのままに生きられる社会の実現を目指す。弁護士を経て議員となり、大臣としても尽力してきたその原動力とは。 家と学校の行き来だけで、ものを知らなかった学生時代。大学では社会勉強をしたいと思い、「現実の中で社会を考えよう。」というフレーズのある裁判問題研究会に所属しました。1年生では職業病や労働災害に関して、2年生では住民運動などをリサーチしていましたね。当時、横浜市で貨物列車が住宅地を通ることに反対した住民運動を実際に目の当たりにし、裁判傍聴にも行きました。3年生になると街づくりや、法学部と関わりのある日照権の裁判に関して、五十嵐敬喜さんに講演をしていただきました。そうして色々な人と出会い、色々な想いを知って、さまざまな発見があり、それら全てが今の日々にも通じていると感じています。皆さんも、先生の何気ないひとことが妙に印象に残り、反芻していることがあるかもれませんね。それらを通して、私は裁判問題研究会に所属して良かったと思っていますが、他の社会問題に関するサークルとの交流にも楽しさを感じていました。 ■「国会で一緒に頑張ってほしい。」 中学生の頃、小説家かジャーナリスト、または弁護士になりたいと思っていました。同級生からの「小説家では食べていけないよ」という一言と、大学を卒業しても簡単に企業に就職できるわけではない社会の中で、父の「残念ながらこの世には差別がある。組織で働けば、今の時点では女性や外国人は差別を受けやすい。何か資格を持って一生働けるようにしたほうが良い。」という言葉を受けて、高校に入る頃には弁護士になろうと決めていましたね。そもそも弁護士になりたいと思ったのは、当時の映画館で流れていた電波ニュースから公害の裁判で活躍する弁護士を知ったことや、社会運動を行う弁護士に憧れを抱いたからです。そうして弁護士になり、これが天職だと思っていました。ただ、裁判をやっていると通達1つで法制度が変わる社会の仕組みと、声を上げれば法律も変えられるということが強く印象に残りました。そのような中で、当時社会党委員長だった土井たか子さんに「これから有事立法が五月雨式に出てくる。そんな国会で一緒に頑張ってほしい」と言われたのです。そう言われるまで、私の人生設計に議員になる考えは全くありませんでした。私の人生はどうなっていくのだろう、というどんよりとした不安を感じました。しかし、このまま弁護士として市民運動をしていて、もし憲法9条が変わってしまったら私も世の中も困る。それは避けたい。それなら議員になって憲法9条を守り、社会民主主義のもと政策を変えていこうと決意しました。 ■変わるのは私じゃない、社会のほうだ。 選択的夫婦別姓を実現したいと考え、長らく取り組んでいますが、そもそも日本はジェンダーが平等な社会とは言えません。男女平等といっても、単に女性が男性並みになるのを求めているのではなく、生きづらい、働きづらいと感じている人に寄り添う社会の仕組みができていくことを望んでいます。フィンランドのサンナ・マリン首相の「全ての子どもが自分なりたいものになれる、全ての人の尊厳が守られる社会をつくりたい」という言葉はまさにその通りですが、日本はそのような社会にありません。誰も親を選べず、誰も生まれてくる場所を選ぶことはできませんが、だからこそ政治は必要であり、全ての人の尊厳が守られる社会に変わるべきです。私自身、20歳ぐらいのときに、いわゆる”これが女の子が生きる道”というものは自分に合わないと感じていました。法学部でも、女子の割合はとても低かったです。とりわけLGBTQの方々は社会の幸せ像との違いがあり、たった一人でそれに対峙していくのはとても難しいことです。程度の差こそあれ、さまざまな人がそういったステレオタイプとのギャップに悩んでいると思います。自分のセクシュアリティを否定せず、私は私のままでありながらこの社会を変えたいと思っています。 ■大学生へメッセージ 出る杭は打たれても、出過ぎた杭は打たれない。だから短い人生で好きなことをやった方が勝ち。そんなことを思うわけですが、私が今までそうやって元気に生きていけることの1つには、母の「あなたは骨のある女だから、思う存分生きていきなさい」という支えがあると思います。母だけでなく女友達や、世間が何と言おうと支えてくれる人の存在がとても大切です。また、自分は何者でどう生きていきたいのかを考えたとき、人と違う生き方を選ぶことには勇気がいるし、怖いと感じると思います。実際に私自身、夫婦別姓であることを選び、籍を入れずに子どもを育てていくことはやはり怖かったです。しかしパートナーは「上手くいかなかったら、いつだって婚姻届を出せばいいじゃないか」と言ってくれて、私は肩の力が抜けました。そういった周りの人の支えもありますが、自分のしたいことと世間との間にギャップがあったときには、私は鏡を見つめ「世界中の人を騙せても自分を騙すことはできない」というように思いましたね。自分が正しいと思うことをやる、自分を好きでいられるような選択や生き方をしていくべきです。不安を感じるなら、実行に移せるその時まで力を蓄えていれば良いと思います。大学生の皆さんは親や先生に「こう生きなさい」と言われることがあるかもしれません。もちろん周りの意見を聞くことは大切です。しかしそれらに流されるのではなく、自分の意志で生きていく。自分の思う存分生きて欲しいですね。 学生新聞WEB2021年2月9日 取材 東洋大学 2年 伊佐茜音

芸能人

琴音 19歳の今だからこそ歌う意味がある、さだまさしさんの曲へのチャレンジ

■プロフィール 新潟県長岡市出身。2002年1月7日生まれ、現在19歳のシンガーソングライター。2019年3月6日、E.P.『明日へ』でメジャーデビュー。2021年1月13日、さだまさしさんの名曲「防人の詩」のカバーをリリース。自身3度目となる全国ツアー「3rd note TOUR 2020 -キョウソウカ-」は新型コロナウイルス感染拡大による国内の情勢を受け、現在再振替公演の日程を調整中。 「歌うことで、誰かが笑顔になってくれる、それが嬉しい」という、歌手の琴音さん。今回新たに取り組んだのは、さだまさしさんの名曲『防人の詩』のカバー。19歳だからこそできる表現、若い世代にこの歌を届ける意味…。音楽シーンを疾走する彼女の、音楽へ懸ける思いの本音を探った。 ■目があった人全員に、話しかけた 私も現役の学生です。新潟の高校を卒業して、音楽の専門学校に通っています。学校の友人はみんな「音楽業界に進みたい」という熱い思いをもっていて、向上心もあるし、モチベーションも高いです。負けていられない! って思うけど、いい意味でライバルとして刺激を受けています。専門学校のなかで、私がいちばん友だちの人数が多いかもしれません。こんな環境は生まれて初めてですね。 というのも、入学当初の私、ものすごくがんばったんです(笑)。「将来、音楽の仕事で一緒になるかもしれない!」と思って、目があった人全員に話しかける勢いで友だちになっていきました。小さいころは引っ込み思案で、友人がほとんどいなかった私が…! 今の関係が続けば、これからもずっと連絡を取り合える仲間になれるかな、って思っています。 ■『夢があるなら、口に出しなさい、そしたら叶うから』 母はクラシックピアノを経験、父は路上ミュージシャンで活動していたこともあって、音楽好きな両親のもとで育ちました。家では常に音楽が流れているので、弟は音にあわせて踊り、自分も気づいたころには自然と歌っていましたね。地元で歌の大会に出たとき、賞品で旅行券をもらえたことがあって。それで家族旅行に行けたんですけど、旅行よりも、家族が喜んでくれたことが嬉しかった。自分が歌って成し遂げたことで、誰かが笑顔になるっていいな、と。それが私の幸せなんだなと思うようになりました。 両親からは「夢があるならば、言えば叶うから口に出しなさい」とよく言われていたんですよね。だから「私、歌手になる」と周りの人に言い続けていたら、自分の気持ちもだんだんと強くなっていきました。言葉の力ってすごいですよね。 ■歌うことで、たくさんの人とつながることができる 歌を聴いてくれた小さい子が、私の似顔絵を描いて渡してくれました。じかに人の温かみに触れることがあると、歌手になってよかったなと思います。手紙でその人の状況を書いてくださることもあります。家族の雰囲気が悪くなって悩んでいる人、恋人が事故に遭って記憶をなくしてしまったという人、親戚が大きな病気になってしまった人…。そんな方々が、私の曲を聴いて心が柔らかくなったって書いてくださるんです。 先日は「ライブ会場で出会ったファン同士で結婚します!」というコメントも届きました。自分が伝えたい音楽を発信することで、誰かの人生が少しでもいい方向になっているのかなって思うと嬉しいです。ファンの方々の声は、自分自身も認めてもらっているような気持ちになります。私と、私の曲を聴いてくださった方それぞれに化学反応が起きていて、なんだか不思議な気持ちです。 ■プロの世界の厳しさに、心が折れそうになることも プロの音楽の世界に入って、厳しさやツラさも経験しましたプロジェクトが大きくなって関わる人が増えると、自分がやりたいと思ったことがそのまま出来るとは限りません。でも、自分の歌だから、きちんと思いを主張しなくちゃいけない。その思いをうまく伝えることができなくて、大好きな音楽の仕事をしているのに、もどかしい思いをすることもあります。メンタルがやられそうになることもあるんですよね…。 そんなときも、やっぱりファンの方とのつながりが励みになっています。昨今のコロナ禍では大勢の人の前で歌うことはできないけれど、だからこそ、お客さんに支えられていることを実感しています。 普段のライブでは、拍手を通して曲の区切りや一息つく時間ができ、次のパフォーマンスのきっかけにできるんです。配信ライブでは拍手が聴こえないので、「観客の方の息遣い、存在があってこそのライブなんだな」と再認識しましたね。今は配信ライブ中にチャットで盛り上げてくれたり、メッセージを届けてくれたりするので、ファンの方も試行錯誤しながら支えてくれているんだなと感じています。 ■19歳のいまだからこそ、歌う価値がある この度、さだまさしさんの名曲『防人の詩』のカバーを配信リリースさせていただきました。 歌詞の内容が哲学的で深くて難しいけれど、今のコロナ禍の状況にも通じるものがあると感じています。最近歌謡曲が流行ったりもしているので、若い人にも興味を持ってくれるチャンスではないか、19歳である自分が発信する事にも意味を感じ、カバーにチャレンジしました。さだまさしさんのオリジナル版にはかなわないかもしれない。でも、さだまさしさんのパワー・思いを、自分なりのアプローチで個性として伝えることはできるかもしれない。アレンジで和の雰囲気を出したり、ダブリングやコーラス、そして朗読を入れてみたり。若い世代の人たちにどうすれば飽きずに聴いてもらえるか、自分だからこそ伝えられることは何かを考えました。だから、ぜひ同世代の大学生のみなさんにも聴いてほしいです。 私の音楽性は、まだまだ未完成だと思っています。今回のチャレンジのように、興味がある音楽はどんどん経験していきたいです。今年は「多彩」を目標に、いろんな音楽・パフォーマンスに挑戦していきたいですし、プライベートでも、新潟から上京して感じたことや、専門学校の仲間からもたくさん吸収していきたいです。そしてその経験から、自分が伝えたい音楽とは何かを模索していきたいと思います。 ■message これからどうしようって、悩んでいる人が多いと思います。私もまだ19歳ですが、私なりに思うのは、好きなこと、興味があることを見つけることは大事だと思います。それが将来の職業につながるかどうかは別にして、好きという純粋な気持ち、湧き出てくるもの、そのエネルギーって自分自身が思うよりも強力なもの。なので、そこに突き進んでいってほしいと思います。 学生新聞WEB2021年2月3日取材  横浜市立大学 3年 小熊結菜 DIGITAL SINGLE「防人の詩」 2021年1月13日(水)リリース「防人の詩」ストリーミングサービスおよびiTunes Store、レコチョク、moraなど主要ダウンロードサービスにて配信中!https://jvcmusic.lnk.to/sakimorinouta YouTubeチャンネルにて「防人の詩」Music Videoも公開中! TikTokでは新旧問わず名曲のカバー歌唱動画を続々公開中!https://www.tiktok.com/@kotoneofficial その他最新情報はオフィシャルHPならびに各種SNSをご覧ください! HP:https://kotoneofficial.com/Twitter: https://twitter.com/kotoneofficialInstagramhttps://www.instagram.com/kotoneofficial/

北之原真奈

青木柚 自分とは正反対の役柄にぶつかるたびに、無知を痛感する

■プロフィール 神奈川県出⾝、2001 年⽣まれの20 歳。中学⽣の時に『14 の夜』(2016年公開)のオーディションを受けメインキャストで出演。2018 年公開の主演映画『暁闇』が韓国・全州映画祭にて招待上映される。ドラマ『死にたい夜にかぎって』『あのコの夢を見たんです。』『相棒season19 元日スペシャル』『夢中さ、君に』『アノニマス』と出演作が続く。4 ⽉スタートのドラマにも出演が決まっている。この8月20日に主演映画「うみべの女の子」が公開予定。 ■小さいころから、まねっこが好きだった。 なんでアイドルじゃなくて、俳優になったんだろう(笑)。というのも、小さい頃は100均で売っているマイク片手に兄が通う学校の校庭まで行って、歌ったり踊ったり。テレビに出ているアイドルや歌手の真似っこをするのが大好きでした。 小学生の頃は指人形を集めて一つひとつにキャラクターを設定して、ストーリーを作って遊んでいました。キャラを戦わせて、必ず「闇オチ」で終わる(笑)。この遊びは一時的な熱量であまり続かなかったけど、思い返すといまの仕事につながっているのかな、と思いますね。 ■役者をはじめるきっかけは、加藤清史郎くん 小学校から帰ってきて、当時再放送されていた『ヤマトナデシコ七変化』というドラマを見ていたら、同じ年齢の加藤清史郎くんが出演していたんです。立派な俳優さんと肩を並べながら一人で演技している姿を見て「すごい!」って思いました。母に「僕もこのお仕事をしてみたい」と伝えると承諾してくれた。どうやって母を説得したのかは覚えてないんです。でも、「やってみたい!」っていう強い気持ちだけは覚えてる。あのときの自分に、いまは感謝しています。よく辞めずに続けてきたな、って。 ■俳優をやめるタイミングはいくらでもあった 芸能コースの高校に進学したので、まわりもさまざまな活動をしている友人ばかりでした。学校の理解もあって過ごしやすかったんですけど、強いていうなら、行事に参加できないことは残念でした。 俳優をやめるタイミングはいくらでもあったし、これまでもツラいことのほうが多かった。でも、そんなときに支えてくれたのが家族でした。家族にだったらいいかなと思い、愚痴をこぼしたら、「この仕事をやりたくてもできない人もいるんだぞ」と普段あまりそんなことをいわない兄が諭してくれたんですよね。正しい道に導いてくれる家族にはとても感謝しています。 ■不安なとき、観客の生の声に支えられた 舞台挨拶で直接観客のみなさんと会えることは、僕のなかでとくに大きなこと。俳優っていう仕事は、だれも正解を教えてくれないし、この演技で大丈夫なのかと不安になることもあります。 昨年、⻑野での舞台挨拶に行った時、会場にお客さんが何十人もきてくれていて。僕の出演作品を観に足を運んできてくれた人、話を聞いて頷いてくれる人、拍手を送ってくれる人、そんな方々を目の当たりにしたんです。一人ひとりに作品が届いている、遠いところでも観てくれている人がいるっていうことを実感しました。いま、さまざまなことがオンラインに なっていくなかで、とても意味のあるものでした。 ■コロナ禍で見えてきた、自分自身の変化 いろいろな俳優さんのインタビュー記事を読むのですが、最前線で活躍している方たちって、エンタメの重要性、文化の継続意識を本気で考えているんだなと感じます。自分は、目先のことでいっぱいいっぱい。演劇界全体を盛り上げていくんだ、っていう気持ちが足りなかったと気づかされました。 おうち時間が増えて、改めてエンタメの重要性を感じました。コロナ禍で大変な状況のときに、映画やドラマのようなエンタメは必要ないっていう意見もありますよね。でも、ツラいからこそエンタメが必要な人は絶対にいて、その人のためにも続けなくちゃダメだって思います。演じる側の人間だけど、自分自身が映画やドラマを見て助けられることもある。僕も自分の作品を見てもらい、少しでも助けられるようになりたいです。 ■壁にぶつかったときは、役に活かせるチャンス! 自分が共感できるような役柄は演じやすいんですが、自分とはまったく違った状況やバックグラウンドの役は、難しい。そういった役柄にぶつかるたびに、自分はまだ考えが浅はかで何も知らないのだなって痛感します。 最近は、「大変だな」「わからないな」と思うようなことが日常で起こったら、客観的視点をもって見られるようになりました。“あ、これ演じるときに使えるかも”って思うんですよね。役柄を演じるためには、もっと日常を豊かにしていないといけないと思います。まだまだです。 ■どんな役であれ、いつでも集大成でありたい 環境が変わり、いままで以上に責任が増えたと思います。高校も卒業したし、ゼロからのスタートという気持ちです。これからは、作品の真ん中にいても、どの立場にいても、しなやかに演じられる俳優さんになりたい。毎回、出演する作品が集大成と思えるように全力で取り組んでいるし、それが将来、全体で見たときに大きな集大成になるようにしたい。 ■message 同じ時代を生きているのは、自分たちだけです。だから一緒に頑張っていきたいと思っています。若い世代が一人ひとり、小さな日常の意識を考えることをあきらめずにいれば、いまよりも楽しく過ごせると思います。友人への気配りとか、小さなことからでいいと思うんです。みんなが行き詰まったときに、僕の演技を見たら救われるような作品に、たくさん携わっていきたいです。僕も頑張ります! 学生新聞オンライン2021年1月22日取材 共立女子大学 3年 北之原真奈

芸能人

駒井蓮 やるからには、諦めたくないし負けたくない!

■プロフィール 株式会社ボックスコーポレーション所属2000年12月2日生まれ。青森県出身。趣味:絵を描くこと、ピアノ、読書、映画鑑賞特技:歌、習字 女優を夢見る小学生だったという、駒井蓮さん。青森に住んでいる少女にとって、それは途方もない夢でしたが、チャンスをしっかりつかみました! しかし、そこからがさらに大変だったといいます。何が彼女を、前へと突き動かしているのか。現役大学生でもあり、同世代の彼女の信念をうかがってきました。 ■青森に住んでいて、女優への手がかりなんてひとつもなかった 「どうやったら女優さんになれるんだろう…」小学生のころから、ずっと思ってました。当時、私は青森県に住んでいたんです。芸能界は本当に遠い世界で、女優になる手がかりさえイメージできませんでした。でも、「お芝居がしてみたい!」っていう強い思いだけはあって。 小学生のころ、主人公が地元のアイドルになっていくストーリーの『あまちゃん』に夢中になっていたんです。学校の劇でセリフをしゃべりながら人前に立ったら、「あ、なんか楽しい!」って感じました。そこから自然に「私もドラマに出てみたい」と考えるようになったんです。でも、青森の小学生には、なにしろ情報が入ってこないから、どうしようもできなかった。そんな私に、チャンスがおとずれたんです! 中学1年の春休みに東京に旅行で行ったときに、たまたま竹下通りでスカウトされました。どうしていいか迷っているなか、芸能界への道へ手を引っ張ってもらえたという感じがして、嬉しかったですね。 ■スカウトされたのはよかったけれど… でも、後日談があるんです。スカウトされたときに自宅の電話番号を聞かれ、飛び上がるほど嬉しかった私は、勢いで番号を教えてしまいました。帰宅後、スカウトされたことを両親に伝えると、「見知らぬ人に簡単に電話番号を教えるな!」と。厳しく怒られたのをよく覚えています。そりゃそうですよね…(笑)。 でも「やりたいことは進んでやっていこう」というのが駒井家のモットーなので、芸能界に入ることに関して反対されることはありませんでした。両親は「やると決めたなら覚悟を決めて頑張りなさい」と背中を押してくれました。 ■片道4時間、ひとりで東京に通う日々 中学生のときは、仕事があるたびに、青森から東京にまで新幹線で片道4時間かけて通っていました。ある日曜日、終電の新幹線で帰ったときに、地元の電車が雪で止まってしまって、家に着いたのが朝の3時(!)なんてことがあったんです。それがトラウマになってしまって、とても怖い思いをしながら東京に通っていたのを覚えています。当時は、携帯電話をもっていなかったんですよね。乗り換えもよくわからないし、電車の時刻表も調べられない状況で、たったひとりで不安しかありませんでした。そんな私に母は、新幹線の中で食べるためのお弁当を作ってくれました。心配しながらも、笑顔で送り出してくれて、本当に心強かった。帰る場所がある、待っていてくれる人がいることが私の心の支えでした。家族に応援されながら何度も自宅と東京へ往復するうちに、ひとりで遠くに行くことにも慣れ、だんだんと自分で何事もできるようになっていきました。 高校生になるタイミングで上京したんですけど、そのときも怖くて不安でしたね。両親に相談したら、「一度、覚悟を決めたことだろ!」と喝を入れられました。芸能界に進むときも、ひとりで東京に通うときも、上京するときも、いつも両親が私の背中を押してくれています。だから、両親への恩返しの思いもあって、勉強も手は抜きませんでした。第一志望の大学に合格できたときは、みんなが喜んでくれて「頑張ってよかったな」って思いました。いまも大学のテスト期間中は、睡眠時間を削って勉強時間を確保していますよ。仕事も勉強も、どっちも妥協したくないです。負けず嫌いかもしれませんね。 ■2021年の、私の漢字一文字は「即」 女優の仕事をしていて、悩みはもちろんあります。あの演技でよかったのかな、どうしたら皆さんに知ってもらえるのかなとか…。でもね、決めたんです。うじうじ悩んでいないで、すぐやる、いまやる!って。以前だったら、1時間悩んで決めていたようなことがでてきたとしたら、まずやっちゃう、やると決めちゃう。すると考える時間は5分で終わるんですよ(笑)。そしたら55分残るでしょ? 時間と心に余裕ができるんです。やっちゃえばラクになるんですよね。だから、今年の私の目標は「即」です。いまの私にとって、悩む時間のほうがもったいない。進化する時間がほしいです。 ■message 小さいときは、将来やりたいことがいっぱいあったのに、大学生になるとそれがわからなくなることってありますよね…。それって、きっと学歴とか世間体みたいなしがらみが出てきたからだと思うんです。でも、思い切って、幼いころの夢にチャレンジしてもいいんじゃないかなって思います。やってみた結果、落ち込むこともあるけど、そんなときは私は思いっきり泣きます。泣いていると疲れてきて、笑うしかなくなってきます。そしてお腹がすく(笑)。たいていのことは美味しいものを食べることで気持ちは晴れます! 失敗からどう立ち上がるかが大事だと思っています。私たちの未来のために! 学生新聞WEB2021年1月14日取材 日本大学 3年 辻内海成   大ベストセラー『陽だまりの彼女』の作者である越谷オサムによる同名の青春小説を原作とし、駒井蓮と豊川悦司が父娘役で出演する『いとみち』(6月18日(金)青森先行上映&6月25日(金)全国公開)。 主人公の相馬いとは、津軽三味線が得意な青森・弘前市の高校生で16歳。三味線を弾く時に爪にできる糸道に名前の由来を持つ。強い津軽訛りにコンプレックスを持ち話すことが苦手で友人も少ないが、芯はじょっぱり(意地っ張り)。 一大決心をして津軽メイド珈琲店でのアルバイトをはじめたことをきっかけに、祖母、父、バイト仲間たちに励まされ、成長していく。思春期の葛藤を核に、津軽三味線が紡ぐ三世代家族の珠玉の人間ドラマ、そしてオール青森ロケの心癒やされる雄大な風景が注目を集めている。 6月18日(金)青森先行上映、6月25日(金)全国公開監督・脚本:横浜聡子原作:越谷オサム『いとみち』(新潮文庫刊)駒井蓮 豊川悦司 黒川芽以 横田真悠 中島歩 古坂大魔王 ジョナゴールド(りんご娘) 宇野祥平  西川洋子製作:『いとみち』製作委員会(アークエンタテインメント 晶和ホールディング 日誠不動産 RAB青森放送 東奥日報社 ドラゴンロケット) 配給:アークエンタテインメント  協力:青森県弘前市 青森県北津軽郡板柳町 青森県平川市www.itomichi.com

川浪亜紀

山本直寛  芝居は、苦しさと楽しさが表裏一体。だからこそ俳優は面白い!

■プロフィール 株式会社トップコート所属。1994年8月29日、東京都生まれ。「men’s non-no」の専属モデルを務めた後、役者デビュー。最近ではドラマ「女子高生の無駄づかい」(テレビ朝日)や「行列の女神〜らーめん才遊記〜」(テレビ東京)に出演。その他舞台や朗読劇など幅広く活動。また、2月13日(土)22時放送のドラマ「レッドアイズ 監視捜査班」(日本テレビ)第4話に出演、そして3月5日(金)より配信されるドラマ「お茶にごす。」(テレビ東京)への出演を予定している。 舞台からテレビドラマまで幅広く活躍中、若手俳優のなかでも注目度が高い山本直寛さん。YouTube動画では料理する姿を見せ、その手慣れた姿に魅了されるファンも多い。そんな彼は、役に対してじっくり向き合い、考えて、考える。芝居への熱い思いの根源はどこにあるのか。学生時代に役者の世界に出会ったきっかけから今までを、じっくり聞いた。 ■高校の親友がある日、「ループタイ」をしてきた! かっこよかった! 中学・高校までは勉強ばかりして過ごしていましたが勉強は嫌いではなかったので楽しくやっていました。でも、ある日親友に心を動かされました。制服はありましたが、服装は自由で何を着ても良い高校ではあったのですが、突然親友が「ループタイ」をしてきたんです。それを見て「かっこいい!」と思って。さらに彼は、映画も好きだったんです。好きな映画が、黒澤明監督の映画で、他にもディープな映画にもくわしかった。僕は広く知られている作品しか観てないのに。これはもう憧れますよね(笑)。このときから古着や映画や音楽など、自分の知らなかった文化にどんどんハマっていきました。 ■就活はしない、俳優の道を進む! と覚悟 早稲田大学に進学して、もう一人の親友からも刺激を受けました。その親友は学校に着物に丸眼鏡でくる人で。変なヤツだな、と思いつつも憧れていたんです。でも彼があまり学校に来なくなってしまって。聞くと俳優学校に通っていると。またもや「かっこいい!」となりますよね(笑)。同じころにモデルの仕事をしていたり、表現をすることが好きだったこともあって、そこから俳優という職業に興味を持ち始めました。そして短期のワークショップに参加してみたら、また新しい感覚に出会いました。そのとき初めて演じたのが酔っ払いの役なのですが、洋服を良く見せるというモデルの表現とは大きく異なるので、恥ずかしい気持ちでいっぱいで。でも、自分とは異なる人間を表現することの面白さや今までに出会ったことのない新しい感情に出会いましたし、周りの反応も面白かったんです。 そして、大学4年生のときに舞台を作り上げる長期のワークショップに通いました。ここで初めてお客さんの前でお芝居を披露したんです。このときに舞台の熱気を感じて完全に芝居に魅了されました。客席の電気が落ちて真っ暗になった瞬間の、これから何が起こるんだろうというワクワク感に満たされた劇場の空気、そして、舞台が始まるとお客さんが一挙一動を見て反応してくれる。これが役者にのめりこむきっかけとなり、芝居の世界にいこうと覚悟を決めました。 ■俳優という仕事は、真っ暗なところをさらに瞼閉じて歩いている感じ お芝居は自分一人では完成しないけど、一人で準備する時間も長いんです。そして正解がない。これだけやっていれば大丈夫、ということがないんです。考えて考えて、精一杯準備していっても状況が変わったり、掛け合いの中で生まれていく新しい瞬間があったり。想像と違うことがたくさん起きますし、できていないと感じることの方が多いです。考えすぎて眠れなくなることもあります。 ある舞台の稽古で自分なりに考えて臨んだワンシーンがあったのですが、普段は役者に任せて何も言わない監督が「ちょっと違うな」とおっしゃって、次の日からそのシーンはなくなっていました。ドラマでカットされるのとはまた違う、稽古が続く中で「あのシーンがない」と実感しなくてはならない、そんな苦しみを感じました。真っ暗なところを、さらに瞼を閉じて歩いているような感覚です。 でも、何回かに一回、自分でも興奮するほどにピタッと演技がハマる瞬間に立ち会えるときもあるんです。自分の用意したものだったり、相手の返しが響いて自分が想像したものと異なるものが出てきたり。まだまだその感覚に出会えた経験は少ないですが、それは濃い記憶として残っています。あの感覚は本当に忘れられません。それが自分の力になっていて、うまくできなかったり辛くても乗り越えてまた味わいたいと思うほどです。 舞台でスタンディングオベーション、そして5回のカーテンコールをいただいたこともあるのですが、そのときは本当にやってよかったと思いました。お客さんに喜んでもらえたこともとても嬉しかったです。 ■原作を読んでやってみたかった役を、オーディションでつかんだ! 『お茶にごす。』というドラマのなかで、「樫沢光輝」という主人公のライバルを演じています。お金持ちで完璧なかっこいい男だったのに、「髭が濃い」ことに気づかれて、その一点で残念な男になる役です(笑)。今まで演じた中で一番コメディータッチの強いキャラクターでしたね。原作が本当に面白くて、この役を自分がやりたいと思っていましたのでオーディションで合格してこの役をいただくことができたので、やった!と。どうしたらこの面白いキャラクターを実写で伝えられるかを考えて臨みました。 笑いの要素って、真剣に取り組んでいるときにふと出てきますよね。なんでもない会話をしていたのに、突然真面目な会話をしだしたら周りはつい笑ってしまったりするように。面白いことを面白くやらない。そんな感覚で、この漫画はコメディーなんですけど、自分の中ではコメディーと思わずに演じました。精一杯「真剣に」演じているのでぜひ観てほしいです。 ■面白いと思ったものには、どんどん飛び込んでいきたい シェイクスピアが大好きなので「リチャード3世」の役をいつかやってみたいです。シェイクスピアは、俳優たちが喋って、演じることで増す面白さがあると感じているのでその一員になってみたいです。 一つひとつの出会いがあって今があると思うんです。だからこそその場その場で出会えた面白いものに飛び込んでいきたいと思っています。舞台の面白さや魅力を伝える一人となれるように力をつけていきたいです。 ■Message 今目標ややりたいことがなくても焦らないでほしいです。面白いことにふと出会えるときが来ると思います。だから、どこか気になったり自分が惹かれたことを見逃さないことが大事だと思います。僕も、親友があのときループタイをつけていなかったら、モデルも挑戦しなかったし俳優にも挑戦していなかったかもしれません。俳優という道を進んで心細いときもありましたが、「これが自分にとっては楽しいんだ」という自信はありました。自分の“楽しい”が、いつか大切なものになっていくと信じて、大学時代を楽しく過ごしてください! 学生新聞WEB2021年1月20日取材 津田塾大学 3年 川浪亜紀 「今日から俺は!!」西森博之原作・不良×茶道部!?異色のヤンキーコメディ漫画「お茶にごす。」が実写ドラマ化! テレビ東京にて2021年に放送決定!Amazon Prime Videoでは3月5日(金)より全12話一挙配信!

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安斉かれん 「夢」は持たない。この瞬間瞬間を全力で頑張る!

■プロフィール エイベックス株式会社所属 1999年生まれ/ 神奈川県・藤沢市出身の21歳。90年代の音楽業界を描き、Twitter世界トレンドTop3入りした話題のドラマ「M 愛すべき人がいて」にW主演として大抜擢。実は彼女は世界的にも大きな潮流を生みつつあるリバイバル・サウンドをいち早く取り入れJ-POPのニュージェネレーションを謳う歌手。もともと、「POSGAL(ポスギャル)」と呼ばれる次世代の一人。 19歳で歌手デビュー、ドラマ『M 愛すべき人がいて』で初主演を果たし、大ブレイク中の安斉かれんさん。歌以外に、モデルや女優としての活躍もめざましく、多才だ。しかし、あくまでも、自分の軸は「音楽」というかれんさん。そんな彼女の、音楽へかける想いとは? 等身大のことばで語ってくれた。 ■アルトサックスを吹くために学校に行っていた 歌手になりたいなんて、思ってもいなかったんです。でも、音楽は大好きで。中学時代はアルトサックスにのめり込んでいました。「吹奏楽部のために学校がある」くらいに思っていましたね(笑)。だから、授業より部活! 受験よりアルトサックス! という感じでした。コンクールのアンサンブルコンテストで金賞を受賞できたんですよ!歌を始めたきっかけは、「のどって、楽器の一部では?」って気づいたから。高校生のときから歌のレッスンのため、avexの原宿アカデミーに通い始めたんです。その頃も、歌や音楽を仕事にできるとは思っていませんでしたけど、ただただ楽しかったです。でも、このレッスンがきっかけで歌手デビューにつながりました。高校の友人たちは卒業後の進路で進学や就職などで悩んでいたけど、そんななか、自分は歌や音楽に進んでいいのかな、という不安ももちろんありました。でも、「好き」という思いを信じて、好きなことを続けていたら、デビューのチャンスがやってきて道が拓けた。不思議な縁です。 ■人生のなかで、続けられているのは音楽だけ 音楽って、人の人生の中で、「この曲はあの人と聴いたな」とか、その時その時を振り返る思い出になったり、人生の区切りになるものだと思います。そういうのって音楽しかないんじゃないかな。だから、「かれんさんの歌を聴いて、好きな人に告白できました!」といった感想をもらえたときは、やりがいを感じたし、本当に嬉しかったです。音楽だけは、いままでずっと続けてきたし、これからも絶対にやめない。ソロの歌手として活動しているけど、じつは一つの作品ができるまでに大勢の人が携わってくれています。みんなで作品を作り上げることが、大好き。一人一人の音を重ねて演奏していく吹奏楽と同じですね。歌詞は、歌を始めたのと同時に書き始めました。19歳でデビューしたときの『世界の全て敵に感じて孤独さえ愛していた』の歌詞は、16歳のときに書いたものなんです。書き始めた頃の歌詞でスタートを切れたことは、本当によかった。歌詞を書くときは「歌詞を書こう!」と意気込むのではなく、日記をつけるような感覚で、等身大の気持ちを書くようにしています。そのほうが、みなさんの心に届くんじゃないかな、と思っています。 ■音楽以外のチャレンジが、すべて自分の成長につながる 2019年には、化粧品メーカー「M・A・C」のビジュアルモデルにも挑戦しました。モデルのお仕事は初めてだったので、どうしたら商品が魅力的に写るか、自分なりに研究しました。鏡に映る自分と、写真に映る自分の姿は違うんですよね…。難しかったです。撮影時には、いつもと違うお化粧やヘアアレンジをしてもらうことができて楽しかったです。自分のメイクはいつも固定の系統にかたよりがちだったので、新しい発見がありました。ドラマ『M 愛すべき人がいて』の「アユ役」として主演のお話がきたときは、正直驚きました。「自分をどう出すか」が大切な歌とは違って、演技では「どう見せるか」が大切なので、表現の仕方は難しかったです。だから、最初は演技をしようとすると、かなり恥ずかしかったんです。でも、いざ現場に入ってみたら、役者さんたちは本当にすごかった! W主演で「マサ役」を演じていた三浦翔平さんは、最初から「マサ」という役に入っていて、自分も「アユ」にならなければいけないと刺激を受けました。みなさん役に愛をもって取り組んでいて、かっこよかったですね。自分の恥ずかしさなんて、一瞬で払拭されました。撮影をすべて終えた後は、「ドラマってこんなに達成感があるんだ!」と感動しました! 作品に対して愛のある喧嘩をしたこともあるし、そんな経験もしながらみんなで一つのものを作り上げたときの喜びは、やってみないとわからないものでした。「みんなで一つのものを作る」ということは音楽にも通じることで、私の大好きなことなんです。このチャレンジは、自分の音楽に還元できたらいいな、と思っています。 ■音楽を続けられるなら、なんだってやる! この先、機会があれば多くのことにチャレンジしていきたいけれど、軸は音楽、アーティストでありたいです。音楽のジャンルを増やしてみたり、新しい楽器にチャレンジして、「安斉かれんといったら、こういう曲」という色はつけずに、色々なことをやってみたいです。 2月10日にリリースする『キミとボクの歌』では、初のバラード曲にチャレンジしています。この曲を初めて聴いたとき、「すごくいい曲!」と思って、今まで書き溜めていた歌詞の中から、特に大好きな言葉をいっぱい詰め込みました。誰もが心に抱えている希望や不安を、自分(ボク)と大切な人(キミ)の一人一人の登場人物を通して、描いています。みなさんも大切な人を思い浮かべながら、聴いてほしいです。日常的なことを歌っているから、共感してもらえると嬉しいかな。 ■message 新たに挑戦したいことはたくさんあるけれど、私は「夢は作らない」と決めているんです。夢をつくっちゃうとそれに向かって頑張らないといけなくなっちゃいますから。大人は「目標を持て」とか「やりたいことはないの?」なんて聞いてくると思うけど、好きだと思うことにどんどん首をつっこんでいけばいいと思う。私が音楽に没頭したみたいに。好きなことだったら、そこに大変なことが待っていても、乗り越えられるし、苦労とは感じないはず。だから、夢は作らずに、今目の前にあることを全力で頑張るということを意識しています。人生は楽しんだもん勝ち、ツラいことすら楽しんだほうがラクになるんじゃないかな。私はそう思うようにしています。コロナで大学に行けない日々が続いていますよね。でも、みんな同じ状況だから焦らなくて大丈夫。いまできることをやっておけば、未来は明るいと思います! 学生新聞WEB2021年1月20日取材 津田塾大学 1年 佐藤心咲 NEW SINGLE「キミとボクの歌」 本人作詞による渾身のピアノ・バラード。 そのピアノ演奏も、自分自身で行なった。  美しいストリングス・アレンジを手掛けたのは 世界的な作曲家・編曲家である「David Campbell」 安斉自身が作詞だけでなく作曲にも携わった前々作「GAL-TRAP」で、既に片鱗を見せていた すぐ隣から語りかけるようなリアリティを感じさせる『距離ゼロメートルの声』の真価が問われる 等身大の希望と不安を歌うバラードで、安斉かれんが見せる新たな一面(声)にも注目して欲しい。 <安斉かれんInformation> 2月10日リリース「キミとボクの歌」 サブスクリプション音楽配信ストリーミングサービス限定で配信中! https://KalenAnzai.lnk.to/kimitobokunouta 1月27日リリース「キミとボクの歌(ピアノShort Ver.)」 サブスクリプション音楽配信ストリーミングサービス限定で配信中! https://KalenAnzai.lnk.to/kimitobokunouta_piano Instagram / REELとTikTokでは Short Movieを続々公開中! https://www.instagram.com/kalenanzai/reels/ https://vt.tiktok.com/ZSfbY7s4/ YouTubeでは「キミとボクの歌」Music Video 3部作 / 順次公開! https://www.youtube.com/channel/UCOFXUN-4bc36S1hEhdl3MIg

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キュウ

ネタは絶対面白いのに伝わらなかった…。昨年のM-1で何が変わったのか? <プロフィール>お笑い芸人 キュウ ぴろ  (左)生年月日:1986年5月4日出身地:愛知県特技: イラスト、ポテトチップスをいい音を立てて食べる 清水  誠 (右)生年月日:1984年2月23日出身地:愛知県特技:空手、瞬時に涙を流せる 株式会社タイタン 所属キュウのお笑いオフィシャルチャンネルhttps://www.youtube.com/channel/UCDishZFfEEFw_TRee8w4WRg 漫才師の頂点を決定する「M-1グランプリ2020」の敗者復活戦で見せたネタで、一躍その名を広めたキュウ。じつは、彼らの創り出す違和感やむず痒さが、受け入れてもらえなかった過去もあった…。そしてその悔しさを乗り越えて迎えた2021年は、彼らにとってどんな一年になるのか。いま注目のふたりに漫才へかける想いをうかがった。 ■どんな学生時代を過ごしていましたか? 清水:中学生の頃から芸人になりたいと思っていたんですけど、両親からは大学への進学を説得されて。でも、芸人になる夢をどうしても捨てきれなかったので、NSC(吉本総合芸能学院)に通える距離にある、近畿大学へ進学することで納得してもらったんです。入学してみたら、大学の授業はNSCに通う余裕がないほど大変でした(笑)。でも、大学を続けられないくらいなら、芸人を目指すことも途中で諦めてしまうだろうと思って、3年間で単位を取り終え、最後の1年間でNSCに通いました。 ぴろ:僕も両親から学歴はつけてほしいっていわれていました。大学に進学さえしてくれれば好きなことをしてもいいってことだったので、授業をサボって遊んだり、放課後の教室に残って友達と話す日々でしたね。卒業後は中学生の頃からの夢だった漫画家を目指していましたが、25歳の頃に夢を諦めて芸人になりました。清水さんは当時の事務所の先輩で、ふたりでネタを見せ合ったり、ゲームをしたりして過ごすうちに仲良くなっていったんです。 ■別々のコンビとして活動されていたようですが、コンビ結成の経緯を教えてください。 清水:その頃からぴろのネタはかなり個性的で、僕にはない感性があったんですよ。ぴろたちの漫才を「僕だったらもっと面白くできるのに!」と思いながら見ていたので、解散したらコンビを組みたいと思っていました。 ぴろ:自分が作ったネタを、相方も面白いと思ってくれていないとやっていて楽しくないし、そこの信頼って大事だと思うんです。清水さんにはその信頼があったので、コンビを組まないっていう選択肢はありませんでしたね。 ■面白いと思うものが似ていたんですね。おふたりが思う漫才の良さって何ですか? ぴろ:ネタの責任のすべてを負えるところですね。小細工が通用しない戦場に丸腰で立つシンプルさがかっこいいと思っています。コントだとセットや設定でお客さんをネタの世界観まで連れて行けるけど、漫才はゼロから始まります。だから、台本、演技、黙っていても何かを伝える雰囲気など、いろんな力を持っていないとできないところが漫才のよさですね。 清水:コントって真っ白すぎて、何していいのか、わからないんですよ。漫才には先人たちが築いてきた型があるから、その道を行くもいいし、はたまた脱線してもいい。いろいろ考えて、工夫をこらせる漫才にずっと憧れていたんだと思います。 ぴろ:コントはその世界のせいにできる逃げ道があるけど、漫才はすべて自分たちの責任になるし、見ている人も同じように感じるものだと思うんです。その負担の大きさにヒリヒリしますね。 ■最近では無観客ライブなども増えて、「ヒリヒリ」を感じられる場が減ってきたのではないかと思いますが…。 清水:僕たちのネタはお客さんと一緒に場の空気を創っていくタイプではないので、虚しくなることはないです。最近はSNSで反応を確認できますしね。 ぴろ:M-1の反響も目に見える形で分かりやすくなりましたよね。コロナ禍だからモチベーションが下がるってことはあまり感じないです。 ■やはりお客さんからの反応はやりがいにつながるんですね。 ぴろ:もちろん、お客さんに面白いと思ってもらえることも嬉しいですが、関係者や先輩芸人さんに評価されたい欲が強いです。単独ライブとM-1の二大評価が重要です。 特にM-1はもれなく全コンビを評価している大会だから、そこで結果を出すというのは、文句をいわせない唯一の方法というか。 ■ネタをやっていて、苦労していることはありますか? 清水:同じネタを披露しても、立つステージが違うだけで評価のされ方も変わってくるところです。「ルパン」は、結成初期のネタなんですけど、去年のM-1準決勝で披露して、やっと高評価をいただくことができました。ぴろのネタは間違いなく面白いのに、それが伝わらない期間は悔しかったです。 ぴろ:僕が作るネタは、見る側にとって見たいものじゃなかったんです。見る人は自分たちが見たいと思うものでしか笑わないから、その人たちに受け皿を用意するための意識改革を少しずつ行なってきました。それがM-1で一気にこじ開けられたと思います。 ■ネタのスタイルは昔から変わっていないんですか? 清水:幽霊が出る回じゃない『世にも奇妙な物語』を見ているときのような気持ち悪さを感じるネタをずっとやってきました。 ぴろ:その気持ち悪さを、“感覚”と“ロジック”のバランスを考えて伝えるよう工夫しています。芸人も笑ってくれるネタって、感覚的な部分にあって、公式に当てはめたものはなかなかウケないんですよ。でも、感覚的な部分だけでネタを作ってもお客さんに受け入れられないから、ロジックを使って見やすくする作業を意識して行なっています。バカバカしさと賢さ、両方がないと伝わらないんじゃないですかね。お笑い好きじゃない人にも伝えられるようにしないと。 ■今後の夢や目標としている存在を教えてください。 ぴろ:目標はMー1優勝です! あとは、東京03さんに単独ライブの日程を意識させられるまでに成長することです。「キュウと被りたくない」ってビビらせられたらいいですね。尊敬する芸人像としては、バカリズムさんです。できない部分を見せてないだけかもしれないけど、自分が見る限り完璧な芸人として成立しているのですごいと思います。 清水:僕はマルチに活躍したいので大泉洋さん、ユースケ・サンタマリアさんです。 ぴろ:芸人さんのほうがいいんじゃない? 清水:聞かれたら答えようと思っていたんですけど忘れちゃいました(笑)。思い出したらいいますね。 ■最後に大学生に向けてメッセージをお願いします。 清水:僕の先生に、40歳で「これからは好きなことをやって生きる」って辞めちゃった人がいるんです。ああ、こういう自由な生き方もあるんだな、って思いましたね。だから人生、そんなに重苦しく考えなくていいと思いますよ。あせらなくても大丈夫です。 ぴろ:将来を考えろっていわれてもね、わかんないですよね。就活の面接で落とされることもあると思うけど、「一瞬で何がわかるんだ!」って勢いでいいと思います。M-1でだって面白い人が落とされています。すべては「運」だと思って、大学生のみなさんにはタフにというよりソフトに考えるようにしてほしいです。型にハマった先の未来が幸せだとはかぎらないですし。楽しい道を選んでも意外と大丈夫です。人生はいくらでも方向転換できます。死ぬときに、1本でもシワが少ないほうがいい。笑いジワはいいけどね。最後みんなに顔を見られたとき「この人満足だったんだ」って思われる顔でいたいよね。 学生新聞WEB取材日2021年1月20日 明治学院大学 3年 菅井七海

北之原真奈

株式会社堀場製作所 代表取締役会長兼グループCEO  堀場 厚

世界で勝ち抜くために、“おもしろおかしく” 株式会社堀場製作所 代表取締役会長兼グループCEO 堀場 厚 (ほりば あつし)  プロフィール 堀場 厚 (ほりば あつし) 1971年  甲南大学理学部卒業後、堀場製作所の米国JVオルソン・ホリバ社に入社。1972年  カリフォルニア大学アーバイン校に入学し、77年同大学大学院工学部電子工学科修士課程を修了して堀場製作所に帰任。1992年  代表取締役社長に就任。社長就任時の年間売上高約400憶円の規模から、売上高2000憶円、世界28か国と地域に展開するグローバル企業に成長させた。2010年 フランス共和国 レジオン・ドヌール勲章 シュヴァリエ受章。2019年  旭日中綬章を受章。 世界中のあらゆる産業を支える分析・計測システムを提供する堀場製作所。特に自動車や半導体産業は、“HORIBAがなければ動かない”といっても過言ではない。京都発のグローバル企業が成長した原動力は何か。堀場厚会長にその神髄を伺った。 ■「あなたはどうしたいのか?」と日々問われた米国赴任時代 私は甲南大学理学部を卒業後、渡米しました。米国子会社でサービスマンとして働くなかで、開発業務にもっと携わりたいと考え、現地の大学に編入、その後大学院に進みました。当時はアメリカの大学での膨大な勉強量に驚きましたね。日本の大学とは比べ物になりませんでした。最初の一か月は「いくら勉強してもこれをこなすのは無理!」と諦めかけましたが、学部一の秀才の友達ができて、いっしょに勉強をすることで学習効率があがり、無事卒業することができました。必死で学び、大きな壁を乗り越えたことで、自信を持てるようになりましたね。この経験があるから、いまプレッシャーや困難にも耐えられるのだと思います。 また、日本では肩書が重視されますが、アメリカでは肩書よりも、「あなた自身はどうしたいのか?どう考える?」と、常にその人自身の意見が問われ、それらが重視されます。この文化から、私は自分の意思をしっかりと主張する大切さも学びました。 ■独創的で、常にベストであるために 世界で戦うには1人ひとりが、自分自身の持つ知識を基に創造的に考える知恵と、そこから新たなことに挑戦するチャレンジマインドが必要不可欠です。堀場製作所の社是は、“おもしろおかしく”です。社員一人ひとりが自ら情報を集め、そこから‘常にベスト’を尽くして物事に取り組む。上司からの指示を待って動くのではなく、自らの意志と責任をもって仕事に取り組むオーナーマインドが大きな力になっています。だからHORIBAは世界でも決して負けません。 ■HORIBAが世界で勝てるのは、“批判精神”があるから HORIBAグループの社員の約6割が外国人達で、その中でも一番多いのが約900人のフランス人です。京都とフランスには、「プライドが高い、他人に迎合しない」という共通点があります。プライドが高いというと悪く聞こえますが、言い方を変えると、京都では、人の真似はしない、他とは違う、ということが重要視されます。HORIBA社員も、いい意味で批判精神を持っているのです。独創性を重視するため、業務の内容にもよりますが、当社では仕事を一から細かく教えるやり方はあまりしません。自分なりの答えを見出せるような指示をだし、それぞれのマニュアルを作り上げてもらっています。そうやって育った社員は、自らの仕事に誇りを持っており、強いのです。だから、「自分はこれをしたい!」と強く思っている尖った人と一緒に仕事がしたいと思っています。そうでないと、グローバルに戦うことはできないでしょう。日本社会では無難であることが求められがちですので、結果として日本の企業全体が弱ってきている気がします。HORIBAが世界と戦えるのは、批判することも、批判されることも気にしないほどの尖った人財がいるからだと思っています。世の中全体が技術面、そして経済の面でも劇的に変革する時代なので、同じことをしていてもスピード感がない企業・人財は今後生き抜いていくのは難しいですね。 ■大学生にむけてメッセージをお願いします 学生時代は、自分のしたいことを思いっきり楽しめる時間があると思います。何もしないのはもったいないので、例えば都会に住んでいればそこから飛び出して、自然に触れてみてください。耕して、種をまいて、水をあげて、肥料をやって、イノシシに食べられないように守って、実ったものを収穫すること。これは人生も同じです。感性を磨くためにも、こういった自然の営みの厳しさと喜びを、時間をかけて実際に体験してほしい。コロナウイルスの影響が落ち着いたら、生きているとはどのようなことなのかを考える旅に出るのも良いと思います。20代の感性や経験が将来必ず生きるので、ひたすら経験を重ねてください。 学生新聞WEB 2020年11月27日取材 共立女子大学 3年 北之原真奈 日本大学 3年 大橋星南 / 明治学院大学 3年 菅井七海 / 共立女子大学 3年 北之原真奈 / 明治大学 2年 山本真人

伊佐茜音

元・内閣府副大臣 衆議院議員  平 将明

学歴・キャリアじゃない。大事なのはどう世の中を変えたか ■プロフィール 1967年東京都生まれ、早稲田大学法学部卒業、サラリーマン生活の後に家業の大田青果市場の仲卸会社社長、東京青年会議所理事長を経て、2005年に初出馬・初当選し以来5期連続当選、経済産業大臣政務官、内閣府副大臣、衆議院環境委員長、自民党ネットメディア局長を歴任、現在は自民党内閣第二部会長(デジタル改革、科学技術・イノベーション、宇宙政策など担当) 意外にも、大学時代は熱心に勉強することはなかったという。一度はサラリーマン、中小企業の経営を経験し、一体どのようにして今日に至るのか。内閣府副大臣を歴任、『ニッポンを変える100人~2021年に注目すべきキーパーソン ~』等、活躍を続ける政治家になるまで、そして今後の展望を伺った。 私が学生の頃はバブル全盛期。当時はいい大学に行けば普通にいい会社に入れると言われていました。また、学生運動が最後の盛り上がりを見せていて、1年生と4年生の時には期末試験がストライキで流れてしまうような時代でした。大学生活において、多種多様な人と交流することが大切だと感じています。私の場合、所属していたバトミントン同好会での交流試合を通じて他大学の友人もできましたが不十分でした。ただ、妻とはこの同好会で出会いました。バドミントンに家庭教師のアルバイト、また、とにかく車が好きで、時間があれば家にあった車でドライブをしていました。勉強はあまりしませんでした。 ■まさか銀行が潰れる時代が来るとは 私は学生時代から、政治のニュースを「僕がやったほうがもっとうまくできるのでは」と、かなり批判的な目線で見ていました。そのような中で、会社勤めを経験して、家業の青果仲卸を継いだころ、ちょうどバブル崩壊による金融危機が起こります。会社が取引していたメインとなる金融機関の二つが破綻してしまい、経営は非常に大変でした。中小企業が倒産することはあっても、まさか銀行は破綻するとは思っていませんでした。あの時の資金繰りに奔走した苦労は決して忘れることができません。当然、私は会社が潰れないように経営努力してきたわけですが、銀行が潰れるのは私の責任ではないわけで、それは政治の責任でもありますよね。ただ、その当時の政治家の発言からは、中小企業の現場の実情、特に資金繰りの皮膚感覚がわかっていないのではと感じました。政治家になるきっかけの一つは、このような出来事を体験して、政治に経営感覚を持った人材が不可欠だとの思いが高まったからです。 ■世の中を変えるために、自分で仕組みを作る 政治家になるきっかけのもう一つとして、政治を批判しているだけでは世の中は何も変わらないと思い、所属していた東京青年会議所にて、公開討論会実施に取り組みました。NPO法人のリンカーン・フォーラムが公職選挙法に抵触しない形でつくったメソッドをもとに、全国で展開していきました。それまでパンフレットやポスターの展示、名前の連呼だけだった選挙を、公開討論会を実施することで、有権者が候補者同士の討論を直接聞いて選べるようにしたのです。 2003年、東京青年会議所の理事長になり、先頭に立ってこれを実施した結果、公開討論会は当たり前に全国で行われる世の中に変わりました。また、政党には公募制度が入りました。与党のベテラン議員が連続当選し緊張感を欠いた無風の選挙区に、今まで選挙に立候補しにくかった女性や、世襲でない若くて元気な人たちが、野党の公募で選ばれ、公開討論会で力を発揮すると、ベテラン議員を退けて当選するようになりました。公募制度が野党に定着すると、対抗するために与党にも公募制度が拡がります。2005年には私自身が公募に応じて候補者となり、自ら創った公開討論会の舞台にあがり、政策を訴え、当選しました。大物政治家の子息でもなく、東大出身の官僚でもなく、市場で朝早くから歯を食いしばって中小企業の経営をやっている私のような政治の世界に縁がない人たちには、議員になるチャンスはほとんどありませんでしたが、公開討論会や公募制度がそれを変えたのです。世の中を変えるために、自分で仕組みと環境を創る。そしてそれができたら、自ら担い手としてそのフィールドに出ていく。世の中を変えるひとつのパターンだと思います。 ■政治家こそ、宇宙に行くべき このコロナ禍ではっきりしたことは、今後、DX(デジタル・トランスフォーメーション)とSX(サステナビリティ・トランスフォーメーション)が加速していくということ。具体的に見れば、DXは、パブリックはデジタル庁創設であり、経済はデータ・ドリブン・エコノミーです。デジタル庁創設で民間のデジタル化もさらに加速し、国際競争力や生産性が高くなっていきます。同時にSDGsの17のゴール達成などSXの実現も不可欠です。SXは方向性、DXは手段と整理できます。DXが進むとIoTデバイス経由で集まったビッグデータを収集・保管・活用するために膨大な電力が必要になり、CO2を排出してしまう電源では、SXの達成が難しくなります。日本のどのような技術を使ってDXとSXを実現するかが重要なポイントです。日本の技術がポストコロナの世界をリードできるかもしれません。私が注目しているのは核融合炉、カーボンキャプチャーなど新しい技術です(詳しくはググってください)。また、菅内閣が今後進めていくデジタルガバメントのサーバーを宇宙で実現するアイデアもあります。太陽光で電力を賄う人工衛星データセンターは、打ち上げ時のCO2排出を除けば地球上の影響はカーボンニュートラルです。さらに言うと、私は将来、国際宇宙ステーションでサミットをやりたいと考えています。私が宇宙担当副大臣の時に、H2Aロケット無事打ち上げ後にJAXAの理事長と種子島の居酒屋で話した際、彼が「政治家こそ宇宙に行くべき」と言っていたことがきっかけです。宇宙に行った人は明らかに「自国愛」だけではなく、「地球愛」に溢れて帰ってくると言うのです。世界の首脳たちが、青い地球を眺めながら食糧問題や気候変動、子供の貧困や紛争問題などを話し合えれば、今までとは全く違うレベルの解決策が宣言文として出てくるのではと思っています。そして、その「宇宙宣言」をベースに、サステナブルな地球を目指す枠組みとそれを実現するテクノロジーを供給することが大切だと考えています。 ■大学生へメッセージ もちろん勉強も大切ですが、いろいろな経験をすること、バックグラウンドや年齢の違う、多様性のある人たちと交流できる環境に身を置くように意識することが重要だと思います。また、「志」が大切です。志が高ければ高いほど、良質な仲間と、良質な資金が集まってきます。では、志をどうすれば高く持てるのか。志は自分の心の中で決めるだけであって、今この瞬間に「高い志」を持つことができます。自分で自分のリミッターをかけてしまう必要はありません。一生かけても為しえないような高い志がある人は、面白い人生になると思いますし、いろいろな経験を通して成長し続けることができます。 学生新聞WEB2021年1月25日取材 東洋大学 2年 伊佐茜音

経営者

株式会社ビーグリー 代表取締役社長 吉田仁平

ネットサービスだからこそできるコンテンツ作りで業界に貢献! 株式会社ビーグリー 代表取締役社長 吉田仁平(よしだじんぺい) ■プロフィール 1971年生まれ、1994年早稲田大学理工学部を卒業後、日商岩井株式会社(現双日)入社。2007年に株式会社ビービーエムエフ(現当社)に入社、要職を経て2013年に代表取締役に就任し、2017年3月に東証マザーズ上場、翌年3月に東証第一部への市場変更を遂げる。その後、まんが王国の成長に加え、電子小説サービスの株式会社ノベルバ、総合出版社であるぶんか社グループのM&Aを実行し、コンテンツプロデュースカンパニーへの変貌を図る。  お得感№1コミック配信サービス『まんが王国』を運営する株式会社ビーグリー。2020年10月に総合出版社であるぶんか社グループの株式取得を行い、ぶんか社グループの目利き力を生かしたコンテンツ提案やオリジナル作品制作を強化し、更なる成長と新たな価値の創造を目指すコンテンツプロデュースカンパニー。 日々進歩していくITビジネスの中で、時代が求める価値を模索すべく冒険を続ける吉田社長の考えを伺った。 高校時代は、福島から上京したくて大学受験をしました。そのため東京に出て知らないことが多く、好奇心も強かったです。当時、航空券が安くなり始めた時期だったので、勉強よりもバイトをたくさんして、貯めたお金で海外旅行に行っていました。とはいえお金はなかったので、行先は東南アジアや東欧が中心。人と違うところに行きたい思いがありました。その頃は日本の製造業が世界に名を轟かせていて、例えばタイの山奥でも冷蔵庫が日本製だったりと、日本企業の力を実感できたのはいい刺激でした。 ■コンテンツの打席に立つ  実家が酒屋だったので商売への意識も強く、就職して人生の莫大なリソースを割くのであれば商売を極めたい、そして極めるなら商社だと。海外旅行での経験もあり、日商岩井(現:双日株式会社)に入社しました。商社では、本当は砂漠に石油コンビナートを作るような大きなプロジェクトを請け負いたかったのですが、大学で人工知能の研究室にいたためか情報産業本部に配属されて、最初の仕事は携帯電話の販売でした。全国の契約者数が200万台程度だった当時、年々市場が拡大していくのを肌で感じました。 その後商社では幅広くIT関連について経験しましたが、コンテンツだけはやったことがありませんでした。ITとは突き詰めるとインフラ・手段であり、それを使って何をするかというのが重要なテーマですが、商社は投資規模の大きさで稼ぐのが得意なので、エンタメなどコンテンツは苦手でした。「ITの成長は最終的にコンテンツがけん引する」ということが頭の中にあって、それで縁あってこの会社に飛び込みました。もちろん漫画は好きでしたが、漫画をやろうというよりも、コンテンツをやろうと思って目の前に現れた打席が漫画だったという感じですね。 ■競合サービスとは違う『まんが王国』の「お得感」と「媒体性」  『まんが王国』と競合サービスの違いは、まずお得感です。当社は仲介業者を使わずに作り手と直接コンテンツの取引をして、広告も代理店を通さず自分たちで出稿しています。そのため収益性が高く、ユーザーや作り手への還元が可能です。 また、ポイントの購入と使用の両方でポイントが還元されるポイントプログラムによって、お得に多くの作品を楽しんでくださっています。『まんが王国』を使うほど、ユーザーがたくさん読めるようにしているところが強みですね。 もう一つは、電子書店としての役割だけでなく、雑誌のような「媒体」として役割を担えるようになってきたことです。元々漫画は紙で描かれて雑誌になり、面白いものが単行本になるという流れがありましたが、その雑誌の市場規模は年々縮小しています。これは新しい漫画を生み出す場が減っているということ。代わりにその役割を担っていけるのが、作り手と直接取引し媒体力を持っている当社なのです。 電子書籍が普及する前は、書店で立ち読みをして気になった作品をつい買ってしまうという流れがごく当たり前でした。しかし、今は立ち読み防止のため包装している書店が多くあります。だからこそ当社では漫画をある程度無料で読めるようにしています。そもそも漫画とは続きが気になるように作られているもの。だから入り口を広げることは市場拡大に繋がります。ここで忘れてはいけないのが、消費スピードと生産スピードのバランスを保つこと。無料にすることで消費スピードが上がりすぎたり、営利目的に走りすぎると、クオリティが低下してコンテンツ自体の衰退を引き起こしかねない。作り手にきちんと適正な利益が行き渡るバランスを見極めることが業界成長には重要なのです。 ■「逆張り」できるが故のIT市場の使命 漫画が市場に出回る時、紙の場合だと、配送など流通コストが高くなってしまいます。市場規模が大きければ収益も出ますが、市場が小さくなると、確実に“当たる”ものしか商品にしにくくなります。しかしコンテンツは主流となる流行に逆らうこと「逆張り」によって、新しい流行が生まれます。流行と違うものを作る人がいて、流行に食傷していた消費者がそれに群がり、それに勝ち筋を見出した人がさらに流れに乗る。その新陳代謝が文化を形成するといっても過言ではありません。もちろんそれが全てではありませんが、コンテンツに逆張りは重要です。数字が見込めるものしか商品にできなくなっている出版市場では、この逆張りを試すことが難しい。 流通コストがかからないネットサービスの世界ではそれが可能です。漫画に限った話ではなく、昨今はどの業界でもニーズの細分化が進んでいます。100人中5人が見るようなニッチなもの作りは流通カロリーの低いネットだからこそ可能であり、ネットの使命だとも思っています。 コミック雑誌から単行本という出版市場の流れを電子で確立する。目指すのはそこです。一番いいのは、当社の媒体から誰もが知るような大ヒット作品を生み出すこと。『鬼滅の刃』のように一漫画作品がこれほどのムーブメントを起こせるのだから、漫画の力は全く衰えていない。当社のコンテンツが、誰もが知るものになるという野心は持ち続けています。 ■諦めの悪い人と働きたい  会社としては、自らの意思で粘り強く動く「考動力」、常識に囚われず発想する「発創力」、物事を周りの理解を得て推進する「巻き込み力」のある学生を採用しています。 そして私自身で言うと、諦めの悪い人と働きたい。他と抜きん出るには型に従えるかではなく示されていない答えを見つけに行けるかが重要で、それには試行錯誤をするしかない。だから粘り強さがある人と働きたいです。 ■大学生へのメッセージ  目先のことに一生懸命取り組んでください。目標を見定めて逆算していくことももちろん重要だとは思いますが、最近は特に、その逆算のシナリオが常に正しいとは限らない。なので、とにかく目先のことを一生懸命やりましょう。逆張りすることも恐れず、食わず嫌いはせずに。 学生新聞WEB2020年12月15日取材  慶應義塾大学 1年 宮田峻輔

経営者

キユーピー株式会社 代表取締役 社長執行役員   長南 収

マヨネーズだけじゃない!国民の健康にコミットする会社 キユーピー株式会社 代表取締役 社長執行役員長南 収(ちょうなん おさむ) プロフィール 長南 収(ちょうなん おさむ) 1956年山形県生まれ。1980 年鹿児島大学水産学部を卒業後、キユーピー株式会社に入社。工場、営業本部、営業セールスなどの部署を経て、2001年以降は仙台や大阪、東京などの支店長を歴任。2013年執行役員、翌年2014 年取締役に就任。2017年2月代表取締役社長執行役員に就任、現在に至る。 マヨネーズやドレッシングをはじめ、数々の国民的商品を展開するキユーピー株式会社。その信頼の根底には創始者から受け継いだ理念に誠実に向き合い続ける姿勢があった。2017年に就任した長南社長のエピソードにもその誠実さがにじみ出る。キユーピーの実態、そして今後の展望を伺った。 中学高校とサッカーに打ち込んでいたのですが、大学(水産学部)では先輩からの強い勧誘を受けてカッター部に入りました。入部生が27名だったのが最後には7名まで減るくらい過酷な部活で、手もお尻も血だらけになりながら毎日練習していました。辞めたくて仕方がなかったのですが、辞めると申し出る勇気もなく最後はキャプテンまで務めましたね。  ■たまたま進められた実習がきっかけで入社 水産学部で食品の加工技術を学んでいたので、このまま食品関係の仕事に携わりたいと考えていました。大学4年生になって、就職活動を考え始めていた中、大学の教授にキユーピーのアルバイト実習の紹介を受けました。今でいうインターンシップですね。調布にある研究所で一週間、茨城の五霞工場で一週間、その後本社で面接を受けました。その中でも工場は、非常にアットホームな雰囲気で、地域との繋がりを大切にしている所がとても魅力的でした。最終的に内定をいただいたので、他の企業は受けることなく、キユーピーに就職することになりました。 ■豊富な現場経験を経て社長へ 念願だった工場では約6年間勤務しました。工場での人生設計を考えていたので、工場から本社の営業部に異動するように言われたときはショックでしたが、当然断ることもできず、マーケティング室で1年、商品部で1年間勤務しました。その後は前線の営業マンとして初めて大阪の地へ異動となり、その後営業一筋でやってきました。社長に就任したのは、サラダ・惣菜事業の責任者を1年間務めた後の2017年でした。 ■日本初の商品を育てていく キユーピーの強みは“人まねをしない”という所です。マヨネーズ、ドレッシングだけではなく、ミートソースや市販用介護食などといった商品も、国内で初めて製造・販売をスタートしました。お客様の不満があってそれを我々の技術で解決できる場合を除いて、基本的には人様が専業でされている世界に安易に土足で踏み入れないということが、創始者の教えとしてあります。 ■伝統的且つユニークな社風 「肩書で仕事をしない」という創始者の言葉から、実は1990年まで社員の名刺に社長含め役職の記載がありませんでした。ですから、新入社員が私を呼ぶときも「長南さん」と呼びます。社長室もなくフリーデスクなので、同じフロアで一人ひとりが風通し良く働ける会社です。また、キユーピーの理念には、当社ならではの社訓もあります。「親を大切にする」という社訓ですが、これは、親が子を想う無償の愛に、当たり前に感謝することができる人であれば自ずと周りの仲間も増えていく、という考えです。 ■誠実に物事に取り組み続けられる人と働きたい 学んできた知識がどうこうよりも、正直で誠実であるということがベースにあって、自分の軸をしっかり持って挑戦できる人と働きたいですね。私も学生時代に、辞めたかったカッター部を不器用ながらも愚直にやり遂げたことで、色々な景色を見ることができました。テクニックや上手くやりこなそうというよりは、正直に今ある環境の中で全力で取り組む誠実さがあれば助けてくれる人もいますし、そういう仲間づくりがキユーピーの理念にも通じます。目先の利益よりも、理念と照らし合わせて何が正しいのかを徹底して考える誠実さがキユーピーブランドの信頼ナンバーワンに繋がっているので、そういう姿勢を大切にできる人と働きたいですね。 ■サラダと卵で人生の幸せをサポート キユーピーというと90%の人がマヨネーズを想起するのですが、実はマヨネーズの売り上げは全体の12%くらいしかありません。キユーピーと言ったらマヨネーズ、ドレッシングといった「食卓の名脇役」というイメージがありますが、実は「主役」になれる商品もたくさんあります。業務用の商品には、調味料や調理品の他に、サラダ、お惣菜、タマゴ加工品など、「主役」になれる商品があり、それらを家庭用の世界へ広げることが社長就任以来の一つの夢です。もう一つはサラダと卵を通して世界中に笑顔を届けるということがあります。卵はヒヨコが生まれるのですから非常に栄養価が高く、入っていない食物繊維とビタミンCをサラダで補えば栄養バランスが良い食事となります。日本人の戦後の平均寿命が伸長した理由として、肉や魚、卵等の動物性食品の摂取量の増加が影響しており、卵も健康を支える重要な食材の1つであると言えます。ちなみに、日本人は世界で2番目に1人当たりの卵の消費量が多く、またキユーピーは日本国内の鶏卵生産量の10%も使用しています。だからこそ、サラダと卵で健康をサポートすることで、人生100年時代の高齢化社会を明るくすることが今後のキユーピーの使命なのではないかと思っています。 ■大学生にむけてメッセージをお願いします 私の好きな言葉に「良樹細根」があります。良い木ほど、細かい根っこが地中深くまで張り巡らされている。根っこの部分は表面的には見えないけれど、全てはそこに支えられている。稲盛和夫さんが言っているように、「人生や仕事の結果は考え方×熱意×能力」なので、考え方や熱意といった見えない部分を磨くことで、能力を正しい方向へ最大限発揮できると思います。コロナの影響もあり、今は将来に不安があるかも知れませんが、情熱をもって立ち向かってください! 学生新聞WEB 2020年12月17日取材 国際基督教大学 4年 鈴木菜桜

川浪亜紀

株式会社テラスカイ 代表取締役社長 佐藤 秀哉

自分が納得いくまで悩む。その先の人生にはよいものがある。 プロフィール 佐藤 秀哉(さとう ひでや) 東京理科大学卒業後、日本IBMに入社。13年間営業職の経験を積んだのちに、株式会社セールスフォース・ドットコムの日本法人立ち上げに携わる。執行役員営業統括本部長として、日本市場を開拓する。 その後、子どものころからの夢を叶えるため2006年に株式会社テラスカイを起業。テラスカイは、創業12年目となる2018年に東京証券取引所一部に上場した。 クラウド業界の最先端をひた走るテラスカイの佐藤社長に、学生時代の過ごし方、現在に至るまでの仕事への向き合い方と仕事に対する想いを伺った。/em> ■学生時代は塾講師のアルバイトに専念 学生時代は塾講師のアルバイトをたくさんしていました。ありがたいことに私の授業を受けたいという生徒さんが多くおり、おかげで夏休みの期間中は結構な金額のアルバイト代を稼いでいました。この塾講師経験では、プレゼンテーション能力やコミュニケーション能力が磨かれました。講師として前に立ちつつ、相手の立場になって対話をし、理解を深めてもらう。ここでの技術は、社会人になってから大変役に立ちました。 ■逆境の中での働き方 学校卒業後はアメリカのコンピュータ関連企業IBMの日本法人、日本IBMに就職しました。エンジニアとして大学時代は学んできましたが、中小企業を対象とする営業職としてスタートしています。若手社員のうちから、一企業の社長に多額の投資を必要とするシステムの提案をする仕事は、会社経営をする方の本音が聞ける良い勉強の機会でした。 大量採用時代の入社組でしたので、IBMでは同期生が1,800人もいました。そのような中で、「自分で頑張るしかない」と覚悟を持ち、先輩社員を捕まえては「教えてください!」と頭を下げ、自分なりに工夫を重ねて、毎日仕事を教えてもらいました。自分一人だけの力では、営業が成り立ちませんので、社内の人たちにどうやったら協力してもらえるかということを工夫しながら、仕事を取り、実績を作っていきました。 ■社長になる、という夢 母が会社経営をしていた影響で、小さいころから社長になるという夢を私はもっていました。初めはIBMで社長になろうという気合を持っておりましたが、自分の入社5年前後の社員は1万人以上います。その中から一人しか社長にはなれない。非常に優秀な同僚を見て、客観的にこの中で社長になるのは厳しいと判断し、起業の道を考えていました。 そんな折、セールスフォース・ドットコムの日本法人立ち上げメンバーとして声をかけていただきました。経営の勉強をしようと、最初の転職をしました。 セールスフォース・ドットコムは、今は世界的に有名な企業ですが、その当時は無名に近いです。ましてやクラウドに大事な情報を保存したり、日々の業務で使うといったことに不安がる人が多く、苦労しました。しかし、IT業界は、日本よりアメリカが先行しています。アメリカでの事例や市場の動きを見て、必ず日本でも普及するという自信がありました。マーケティングやPRにも力を入れ、市場を開拓していきました。 2006年に、クラウド専業のシステムインテグレーターとして、テラスカイを起業しました。「クラウドインテグレーター」として、日本初の会社です。Salesforceやクラウドシステムをより活用していただくために、私たちが持つ技術と知識で、お客様企業のシステム活用とビジネス成長を支援しています。 ■クラウドのリーディングカンパニーでありつづけるために 「情報をいち早くキャッチする」、クラウドのリーディングカンパニーの社長として、大事にしていることです。これまで鍛えた感性を稼働させ、積極的に人と会い、新聞などから新しい情報をつかみ、その活用機会を探ります。信頼を寄せていただいているお客様にご迷惑をかけるわけにはいきません。チャレンジ精神だけではダメです。信頼性と安定性を兼ね備えながら、新しいものを取り入れて提案・実行していかなくてはならないのは、かなり難しいです。チャレンジできるかどうか、受け入れてくださるお客様や実行する社員などと密にコミュニケーションを取りながら、新しい技術を取り入れるべきか判断しています。 ■ともに働く人に求めること プロフェッショナル意識の高い人と働きたいです。私たちの主戦場であるIT業界、クラウド業界は毎日新しいものが出てくるため、勉強を重ねて追い続けなければいけません。そんな勉強を喜んで、楽しんでやれるような人が、テラスカイの社員には多くいます。また、勉強するだけでなく発信することで情報が集まってきますから、勉強と発信の両方を楽しめる方と同じベクトルをもって、働きたいですね。 ■大学生に向けてメッセージをお願いします 大学時代と入社後にも言えることですが、何事も愚直に一生懸命にやることが大事です。嫌なことがあっても、納得がいくまでやってほしいです。悪い面が明確になることも、大きな勉強になります。悩みを突き詰めた結果、自分で自信をもって取った行動の結果は、絶対によくなります。 学生新聞WEB2020年11月24日取材   津田塾大学 3年 川浪亜紀 日本大学 3年 辻内海成  / 津田塾大学 3年 川浪亜紀

宮田紋子

ラクサス・テクノロジー株式会社 代表取締役社長 児玉 昇司

地球にやさしいシェアリングサービスで世界を変えたい。 プロフィール 児玉 昇司(こだま しょうじ) 広島市出身。シリアルアントレプレナー。個人投資家。累計120億円以上を調達。早稲田大学EMBA修了。2015年、毎月定額でブランドバッグが無限に使い放題になるシェアリングサービス「Laxus(ラクサス)」をローンチ。会員数は40万人、流通総額は630億円を突破してさらに拡大中。毎月の会員の継続率は95%以上を維持。 「何者かになりたい」という思いから18歳で起業。やがてお金を稼ぐことだけでなく、世界を変えたいと思うようになった児玉社長。当時では考えられなかったシェアリングサービスが今後到来してくることを見据え、様々な反対意見を受けながらも、ラクサスをローンチ。そこには自ら考え、学び続ける姿勢があった。/em> もともと医者になりたくて、医学部を目指していました。高二の時にA判定をもらって「これは受かるな」と思って遊んでいたら、案の定学力が落ちて、受験できずに終わってしまい、それがすごく劣等感でしたね。大学に入った後も「今じゃない何かがしたい」「何者かになりたい」という思いが強くて、18歳のときに家庭教師の派遣会社を起業しました。大学に通うことは目的じゃなくて手段だなと思って、結局6か月で辞めましたね。 ■お金を稼ぐだけじゃセクシーじゃない 家庭教師のマッチング、中古車販売、アウトソーシングといった会社を起業していって、20代でお金の稼ぎ方はある程度習得しました。10代の頃はお金を稼ぎたいという思いがあったのですが、2000年代にスティーブ・ジョブスが“Change the World”と言って出てきたのを見て、我々もお金を稼ぐだけじゃなく、世界も変えたいと思うようになりました。ラクサスを設立した2015年は大量生産、大量廃棄の時代。中国の人件費が上がったら、次はベトナム、バングラディシュ、アフリカといった感じで、とにかく安く物を作って捨てるという風潮だったので、それをもっと “エシカル”にしたいと考えていました。そのためには、社会的に影響力を持っているラグジュアリーブランドのトップティアから落とし込んでいかなければならないので、その中でもシェアして一番抵抗感のないブランドバッグでローンチしました。 ■本音を引き出すアンケート ラクサスの立ち上げの時、「6800円でバッグを借りるか」と社員にアンケートを取りました。Aグループでは、「今は40万円もするバッグよりも、2、3万円くらいでラグジュアリーなものがかっこいい」「高いのはダサい」といった声が上がり、誰も頷かなかった。でも「一つずつ持って帰っていいよ」と言ったら、みんな40万円のバッグを選んだんです。これはおかしいぞと思い、Bグループには「あなたの知人はこのバッグを借りますか」と主語を変えて質問したらYesの声が続々と上がったんです。要するにアンケートでは知人っていうのが本当の自分なんですよね。だからアンケートは嘘を前提にどう本音を引き出すかというゲームだと思っています。実際に、ほぼ新品の40万円前後のバッグを3000万円分売り出したところ、宣伝なしに50個も借り手がありました。これならいけると思いましたね。 ■目的と手段をはき違えない ある投資家に「ブランド品って買わないと意味ないよね。借りてどうするの?」と言われたことがあります。でもここで思ったのが、カバンの一番の目的は「物を持ち運ぶこと」であって、「買うこと」ではないということ。「買うこと」は手段なんですよね。あらゆる物事、目的と手段が反対になっていることが結構あるので、まずはそこを見抜かなければなりません。手段を増やすことは歴史的に考えてもいいことなんですよ。例えば食事もお店へ行って食べるということ以外にも、テイクアウトや出前といった手段が出てきたり。今から私がやろうとしてることはそうした手段を増やすことであって、この人の言ってることは間違ってるなと気づきました。常識は18歳までにコレクションされた偏見の集まりなので、他人から言われた常識にも突っ込んでいく姿勢が大切です。 ■アイディアって偶然じゃないんです 「よく閃いたね、そのアイディア」と言われることがあります。でもアイディアって偶然じゃないんですよ。換言すれば、「良いインプットがあれば、良いアウトプットができるよね」って話で。私の戦略はほぼ全部パクリなんです。あらゆる戦略を読んで、「これとこれが今解決したい課題に近いな」と思えばそれを当てはめる。オリジナルな戦略はないんです。でも決断となると、いろんな知識や情報がないとできないでしょう。ラクサスでは、社員が勉強したことを報告しあうグループチャットや、推薦図書のレポートを書くことによる昇給制度を設けるなどして、社員の自主的なインプットを促しています。 ■“エシカルに生きる”という価値観を広げる ラクサスの最初の顧客は富裕層なんです。やはりそういう層にとって、お金があることはもはや尊敬に値しなくて、「私はエシカルに生きていますよ」と見せることがかっこいいんですよね。「アニマル皮じゃなくてフェイクレザーが当たり前でしょ」という価値観です。自然素材で環境に優しいと思われがちなコットンも、実はインドで赤ちゃんを負ぶったお母さんたちが枯葉剤で皮膚がボロボロになりながら生産している。こうした背景を欧米では普通にメディアで報道するけど、日本は広告費で守られているので報道しない。こうしたなか、我々のようなプラットフォームが目立っていくことは、地球にやさしいという考えを持つ人が増えることに繋がると思っています。今後は今やっていることをもっとグローバルに拡大していきたいですね。 ■message 受験の時、「大学に入りさえすればもう勉強しなくていい」という言葉を500回くらい聞きました(笑)。今でもこういった塾の先生との約束を守っている人はたくさんいると思います。実際に、米国のエグゼクティブの平均学習時間は土日関係なく二時間なのに対して、日本人はたったの六分。大学は「これからも勉強し続けなさいね」ということを学んで卒業するわけなので、とにかく勉強し続けて欲しいですね。求めるのは、自分の頭で考え、学習し続ける人です。 学生新聞WEB2020年12月21日取材  津田塾大学 2年 宮田紋子 日本大学 3年 辻内海成 / 津田塾大学 2年 宮田紋子 / 国際基督教大学 4年 鈴木菜桜 / 早稲田大学 3年 原田紘志

経営者

松井証券株式会社 代表取締役社長 和里田 聰

新しい顧客体験価値をつくるインターネット証券 プロフィール 和里田 聰(わりた あきら) 一橋大学商学部を卒業後、1994年にプロクター・アンド・ギャンブル・ファー・イーストに入社。退職後、リーマン・ブラザーズ証券、UBS証券を経て、2006年に松井証券に入社。2020年6月より現職。 国内初の本格的な株式のインターネット取引を開始し、業界をリードしてきた松井証券。新型コロナウイルスにより、ますますオンライン化が進む現在において、証券会社はどうなっていくのか。和里田社長に今後の展望や次世代の若者に求めることについてお話を伺った。  大学時代は、NPO法人アイセック・ジャパンの活動に力を入れていました。この団体の大学委員会で、海外からの学生研修生の受け入れ、海外スタディーツアーの企画、企業からの活動資金の調達などの活動をしていました。国内ではバブル崩壊、世界では冷戦終結、ソ連崩壊といった大きな時代の変化があり、活動を通してこうした情勢に触れたことも刺激的でした。  就職活動では、プロクター・アンド・ギャンブル・ファー・イースト(現:P&G)のファイナンス部門のインターンを経験したことをきっかけに、将来的にCFOを目指すキャリア設計を提案するこの部門に興味を持ち、入社することを決めました。しかし数年もすると、自身のキャリアとしてCFOを目指すのではなく、むしろCFO相手にビジネスをする事業の最前線で活躍したいと考えるようになり、投資銀行のリーマン・ブラザーズ証券に転職しました。数年後、上司と一緒にUBS証券に移籍し、そこで松井証券の上場の主幹事を務めた縁もあって、当時の社長に誘われて松井証券に入社しました。 ■金融機関の中で独自性を押し出す  証券会社の主な業務の一つは金融商品の販売ですが、取り扱う金融商品自体に各証券会社で大きな違いはないため、「いかにサービスの独自性を出すか」が重要になります。また、誰もがそうですが、自分の知らない金融機関に大事な資産を預けようとは思いませんので、信頼感、信用力の裏付けとなるブランドは極めて重要です。松井証券は1998年に本格的な株のオンライン取引を始めましたが、他社に先駆けて開始したこともあり、主に当時40~50代のお客様に支持されました。そのお客様は現在60~70代になっていますが、その世代は日本の個人金融資産の70%を占めるコアな個人投資家層です。この年代における当社の認知度は依然高いままですが、一方で、現代の若年層への認知度向上が今の課題です。そこで松井証券は、ライフイベント(就職、転職、結婚、出産など)をきっかけに資産形成を促すプロモーションを継続的に実施しています。これを通じて、生涯にわたって長く寄り添える証券会社であることを若年層に伝えています。  松井証券がネット取引を開始してから20年が経ち、個人投資家の取引環境は大きく向上しました。しかし、どの銘柄に投資するかといった面は未だにお客様にお任せという状況にあります。私は、個人投資家にとって最大の顧客体験は、投資において利益が出ることだと思っています。そこで、「投資での成功体験を提供する」という原点に立ち戻り、それに資する情報やアイデアを提供することが重要なテーマになると考えています。その際には、投資そのものを楽しむという体験も重要なものですから、松井証券では投資に関する学びとワクワク感の両方を提供するサービスを作ろうとしています。その一つとして、投資情報動画サイトを新たに設立し、リアルタイムのマーケット情報・解説を提供するのはもちろん、投資初心者のためのサポートや投資のアイデア提供も充実させます。今後はこういったコンテンツ等を通じて当社のファンを増やし、ブランドの独自性につなげていきます。 ■チームでビジネスをするために大事なことは  やる気やモチベーションの高い人と一緒に仕事がしたいと思っていますし、そのような方が志望する会社でありたいと思います。また、松井証券は、オンライン取引システムの構築のように、組織横断的にチームで取り組む仕事が多いため、チームワークやコミュニケーション能力をとても重視しています。 なお、ビジネスとは問題の発見とその解決の繰り返しであり、大切なのは問題発見力とそれを解決する思考力だと考えます。大学生までは、問題は与えられ、その問題に対する一つの正解を答えることで評価されました。しかし、社会人になると、問題を誰よりも早く見つけ、そして誰も考えないような画期的な答えを導き出すことが高く評価されます。 ■大学生に向けてメッセージをお願いします  学生の方には、採用面接の場では、ありのままの自分を出して欲しいと思います。私は、学生の方が、どのような考えを持っているのか、どんな人と出会い、どのような人生を歩んできたかを確認しながら、当社にフィットする人物かどうかを判断します。素の自分を伝えられるように、自分研究をじっくりと行うのが良いと思います。  これからは、一世代前とは異なり、周囲と同じことをしていても、皆が一緒に豊かになれるわけではありません。そこで、学生の皆さんには、自分の価値を高める投資をしてもらいたいです。自分自身がステップアップするための自分への投資は、そのリターンを考えれば金融資産へのリターンよりもはるかに大きいかもしれません。皆さん一人ひとりの成長が、将来の日本を作り上げていくのです。 学生新聞WEB2020年12月7日取材   文教大学2年 早乙女太一 左 松井証券社員2名 / 慶應義塾大学 1年 伊東美優 / 文教大学 2年 早乙女太一

経営者

日本ピザハット株式会社 代表取締役社長 中村 昭一

出会いをいかに大切にするか。 それが人生を、変えていく プロフィール 中村 昭一(なかむら しょういち) 1989年4月、日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社入社。 94年8月デリバリーサービス事業部PH部に異動、ピザハット関西地区の新規立ち上げに携わる。 同部スーパーバイザー、PH営業ユニット直営チームのシニアエリアマネージャー、同マーケットマネージャー、ゼネラルマネージャーなどを経て、2017年4月日本ピザハット代表取締役に就任。 ※2017年6月  日本ピザハット株式会社 独立 日本に435店舗(12/2時点)展開する「ピザハット」。有名ピザチェーン店はほかにもある。ではピザハットは何が違うのか。現場の売り上げスタッフから社長になったからこそわかる、お客様の気持ち、ピザハットに求められているもの。顧客の「楽しい」を常に追い求める中村社長の想いに迫ります。 ■どんな学生時代を過ごしていましたか? 大学には行っていません。家の事情で、高校時代は学費を払うために毎日アルバイトをしていました。最低賃金が時給500円ほどだった当時、コンビニや焼き鳥店、スーパーなどで様々なバイトに日々明け暮れていましたね。 辛い毎日でしたが、土砂降りのある日、親の見舞いのために一人で傘を差して歩いていると、突然車から呼び止められました。見ると、アルバイト先の焼き鳥店でいつも話を聞いている常連さんでした。「にいちゃん、乗っけてってやるわ!」と。あぁ、お客様を大事にして、きちんとコミュニケーションを取っているとこんなこともあるんだなと思いました。小さな出来事だと思うかもしれませんが、苦学生だった私にとって、強烈な思い出です。 それはピザハットの仕事にも繋がっています。今でも食べることが一番好きなのは、そこに「人との関わり」があるからです。 また高校時代に、何よりの楽しみだったのは友達と食事に行って話すことでした。当然お金がないので、行くのはファストフードなどです。ある日、ケンタッキーに行くと、カウンターに可愛い女の子がいて、ここで働いたら楽しいだろうなと思いました。自分の好きな「食」の仕事でもあり 、日本KFCホールディング(株)〈日本KFC〉への入社を決めました。 安易な考えですよね(笑)。でも仕事を決める上では、自分が「楽しく」働いている姿をイメージできるということがとても大事だと思います。 ■なぜ、 日本KFCから、ピザハットの社長に? 働き始めて5年が経った頃、違うこともしてみたいと退職願を出しました。当時上司に可愛がってもらっていたこともあり、強く引き留められました。その時に「別業態である宅配ピザチェーンのピザハットを始めるのでやってくれないか」と打診され、引き受けたのがきっかけです。(ピザハットは 日本KFCの事業の1つとして日本で営業を開始)。 現在日本ピザハットの本部には、私と同じような現場上がりのマネージメントが複数人います。私は関西地区を担当し、エリアマネージャー、地区長と昇進していき、ピザハットの業績が落ち込んでいた2011年ごろに東京の本社へ異動をしました。業績回復のために先頭に立って取り組んでいるうちに、気づけば社長を任されていました。現場のことを一番に考え社員一丸となって取り組んだ結果、10年ほぼ変わらなかった店舗数は3桁近く増加し、仲間や会社の成長に繋がったと思います。 日本KFCを辞めようとしたとき、引き留めてくれたあの上司がいなかったら、今の私はないでしょうね。出会いの大切さを痛感します。 ■なぜ、そんなに活き活きと仕事をされているんですか?  ピザハットで初めて店長を任された直後、阪神淡路大震災がありました。幸い店舗のライフラインは一週間ほどで復旧しましたが、当然ピザを頼むような人はいなくて、余った食材をどうしようかと思い、ピザを配ることに。その時はボランティア精神ではなく、ただ食材ロスを無くそうというくらいの気持ちでした。しかし配りに行ったアルバイトの子が戻ってくると、「店長、大変です!おばあさんが泣きながら喜んでくれています」と。自分もその場に行ってみると、「寒くてひもじい中、無償で温かいものをありがとう」と、そのおばあさんが泣きながら手を握って喜んでくれました。  少しずつ生活が復興していくと、おばあさんはピザを注文してくれました。ピザの頼み方も知らないのに、わざわざ注文の仕方を聞いてまでして、ご注文くださいました。「人に喜んでもらうってこういうことなんだな」と、すごく心を打たれました。この仕事に対する想いが変わった「人との関わり」です。  ピザを届けることで、人を笑顔にすることができる。そして自分がその笑顔に関わることができる。こんな良い仕事はないと思っています。 ■どんな人と一緒に仕事をしたいと思いますか? 突然ですが、前回注文したピザ屋がどのブランドであったか覚えていますか?大半の人はブランドのロゴやキャンペーン内容など、曖昧な記憶しかないでしょう。しかも、人が1年間で宅配ピザを頼むのは、平均2.5回くらい。少ないですよね。そんなピザ業界の中でどうやってお客様から選んでもらえるか。それはとても難しいところです。ピザの耳にチーズを入れてみても、すぐに他社からマネされてしまいますしね。 そこで今、私が思っているのは、「楽しい」「ワクワク」が全てじゃないか、ということです。他業種を見ても、成長している会社は他ができないことを実現しています。ピザハットにしかできない「楽しい」「ワクワク」がないか、四六時中ピザのことを考えています。 今考えているのは、高層階へのドローン配達です。高層マンション50階に住んでいる人に、ベランダからピザをお届けする。ほら、ワクワクして、頼みたくなったでしょう(笑)? 働く上でも同じです。“こんなことができたら楽しいだろうな”という柔軟なアイデアがどんどん出てきて、“実現するにはどうしたらいいんだろう?”と考える事ができる人に、ピザハットに入社してほしいと思っています。できない理由を考えるのは、簡単なんですよね。でも、あきらめずに「できる可能性」を模索してくれる人が、会社を発展させてくれると思っています。 これらに加えて、当然ピザが大好きな人じゃないと、うちでの仕事は厳しいかな(笑)。 ■大学生に向けてメッセージをお願いします 私の人生を見てもわかってもらえると 思いますが、大切なのは人との出会いです。人脈を作っていくには、コミュニケーション能力が不可欠です。社会に出たら、上司も部下も選べません。そんななかで、どうやって仕事を進めていくのか。 これって実は、普段皆さんが友人同士とやり取りしている会話の応用なんですよ。SNSが発達して、文章でのコミュニケーションが増えてきていますが、自分の伝えたいことが本当に届いているかわかりませんよね。SNS全盛の世の中だからこそ、直接会ってコミュニケーションをとることを大切にしてほしいです。友だちの目を見て、自分の想いを伝えられるようになること。 どれだけ時代が変わっても、雨が降れば変わらず傘を差すように、コミュニケーションが無くなることはありません。人と関われば絶対に悩む瞬間は訪れますが、その時にはっきりと自分の意見を相手に届けることができるかどうか。ちょっとした意識から変えていけるはずです。 学生新聞WEB2020年11月2日取材   慶應義塾大学 1年 宮田峻輔 日本大学 3年 大橋星南/慶應義塾大学1年 宮田峻輔/明治学院大学 3年 菅井七海 明治大学 2年 山本真人/文教大学2年 早乙女太一/中京大学2年 安田竜也

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空音 ポジティブな言葉で引き寄せた夢で、聴く人に元気や勇気を与えたい

プロフィール 空音(そらね) 2001年生まれの19歳。兵庫県尼崎市出身。 高校生の時から早耳リスナーを中心に注目を集め、2019年12月にリリースした自身初の1st Album『Fantasy club』収録の楽曲「Hug feat. kojikoji (Album ver.)」のMVは、YouTubeで2,000万回再生超えの大ヒットとなる。 そして、2020年6月24日にリリースされた2nd Album『19FACT』は、Apple Musicの「ヒップホップ/ラップ」チャートで1位、「総合」チャートで6位獲得。 リード曲「Fight me feat. yonkey」は”FM802ヘビーローテーション”をはじめ全国各局のローテーションに選出されるなど、大きな話題を呼んだ。 12月16日には3rd Album『TREASURE BOX』をリリース。ヒップホップのジャンルという枠を飛び出し、幅広いリスナーに支持されるアーティスト。 12月16日に3rd Album『TREASURE BOX』をリリースした空音。誰もが予想していなかったクリープハイプとのコラボ楽曲「どうせ、愛だ feat.クリープハイプ」を含む本作は、20歳を目前にした自身の殻を破り、大人になるさまを表現した特別な作品だという。 虹色よりも鮮やかな楽曲の数々が詰め込まれた本作は、まさに宝箱。 いま勢いが止まらない空音に心境を伺った。 ■母から大事なことは教わった、道しるべのような存在 僕は高校3年の時に就職の内定を辞退して音楽の道に進みましたが、高校生の時には想像すらしていなかった毎日を送っています。一緒に仕事をする人たちの力を借りることで、世界が広がりました。 僕の背中を押してくれているのは、母です。音楽や夢に対する向き合い方、誰かに対する接し方のヒントは、母から学ぶことが多いです。生き方や考え方もそうですし、いくつになってもチャレンジする姿勢を尊敬しています。 母から教わったことのなかに「引き寄せの法則」というものがあります。夢は小さな粒子がいっぱい集まっていて、ポジティブな言葉を口にすればするほど、その粒子は大きくなっていき、夢は引き寄せることができる。母に言葉の力を教えてもらってからは、ポジティブな言葉を口にするようにしています。実際それでうまくいっているので、凄いなと思います。 ■自分は元気や勇気を与える立場でいたい だから、僕が母から教わったように、曲を聴いてくれる人には、「誰でも本気でやったらできる、夢が叶う」ということを伝えたいんです。自分を信じる力と、辛い事を乗り越えられるくらいにそれが好きな気持ちがあれば必ず何でもできます。僕も、アーティストとして作詞するときに苦労しますが、裏を返せば好きなことで悩めていることは幸せなことなんですよね。毎日、細かいところで苦労はあるんですけど、楽しいことが目前にあるので苦労に気付いていないかもしれないです。 たとえネガティブになることがあっても、曲ではそれを見せないようにしています。アーティストは元気や勇気を与える立場なのに、聴いてくれる人がなおさら元気を無くしてしまったら意味がないと思うんですよね。だからポジティブな発言をするようにしています。 僕の曲を聴いて生きる希望をもってくれる、そんな曲を作っていきたいと思っています。 ■3rd Album『TREASURE BOX』への想い このアルバムは、鮮やかな曲と僕の好きな私生活の物を集めた宝箱です。こういう大事なアルバムを、20歳前という大事な時期に出せることがとても嬉しいです。ジャケットの猫は、僕が実際に飼っているペットの猫です。リングも実際に持っているもので、自分が大切にしていることばかりを集めているんです。好きな時に聴いて、好きな時におもちゃみたいに扱ってもらえたらいいなと思います。 「only one」は、夢を持つ若い子が何かを始めるきっかけになればいいな、という思いから作りました。この曲は、僕が「scrap and build」で言いたかったことの第2章になっているのですが、僕の中にたった一つしかない音楽に対する思想も、空音という人間も、やりたいことも、声も、歌に込めることができたと思います。歌詞にある「胸を張って自慢出来る事 客演 呼んだぜ クリープハイプ」って、よく考えたらすごいことですよね。  高校の時にカバーしていたクリープハイプさんと一緒にやれることが、数年前まではあり得ないことだったし、みんなも予想していなかったことだと思うので、良い意味で裏切れたと思います。そういう意味でこの曲は特別です。 19歳で3枚のアルバムをリリースしましたが、今回リリースする『TREASURE BOX』の歌詞や表現の仕方、メロディーを聴いていただければ、僕が段階を踏むごとに自分の殻を破り、大人になっていく過程が伝わるのではないかと思います。 ■自分の音楽が、みんなの生活のBGMになったらすごい 僕は奇跡的にここまで来ることができましたが、やろうと思ったら誰でもできることって世の中にたくさんあると思うんです。誰でも夢が持てる時代なので、僕が好きなアーティストを追っていたように、僕の背中を追う子が出てきても面白いなと思います。 今は、20代のうちに大きな会場でライブをすることが目標ですね。おじいちゃんとおばあちゃんが天国に行く前に、色々なところで活躍しているところを見せてあげたいので、早く叶えられるようにチームに協力してもらっていますし、それ以上に自分自身が良い曲を絶やすことなく作り続けることがベストだと思っています。 音楽って、「聴こう!」と思って耳にすることも大切だけど、当たり前のようにそこに流れていることも大事だと思っているんです。鳥のさえずりみたいに。僕の音楽が、いかに生活のBGMになれるかが勝負です。 ■message 2020年は、やりたいことがあっても、新しく友達を作りたかったりしても、それが叶わなかった人が多かったと思います。でも、夢を追うために大学進学できていること自体が、まずすごいことだと思います。寂しい世の中だと感じているかもしれないけど、みんなで切磋琢磨して、何事も諦めずに頑張ってほしいです。そんなみなさんの背中を押せるアーティストになれればいいなと思います。 学生新聞WEB2020年12月11日取材   明治学院大学 3年 菅井七海 《作品情報》 空音『TREASURE BOX』 発売日:2020年12月16日(水) ※配信のみ12月15日(火)リリース scrap and build [Produced by...

伊東美優

株式会社T S Iホールディングス 代表取締役社長 上田谷 真一

先のことは分からない、だからこそ今できる経験に全力を プロフィール 上田谷 真一(うえただに しんいち) 1992年東京大学卒業後、ブーズ・アレン・アンド・ハミルトンへ入社。経営コンサルタントとして従事し、1995年大前・アンド・アソシエーツの設立に参画。2004年には黒田電気へ転じ、取締役に就任。その後、リテイルネットワークス(ディズニーストア)、クリスピー・クリーム・ドーナツ・ジャパン、バーニーズ ジャパンの代表取締役社長などを経て、2017年5月TSIホールディングス社外取締役に就任。2020年5月より現職。 TSIホールディングスの社長に就任する以前から、多岐に渡る経歴を持つ上田谷社長。これには多くの学生が驚くだろう。しかしこの経歴は、学生時代から多くのことを経験し、考え、時には苦労した結果なのである。そんな社長が今目指す、海外でも通じるブランドビジネスとは。会社への思い、そして大学生へのメッセージまで熱く語ってもらった。 私は1988年に大学へ入学し、1992年に卒業したのですが、当時はまだバブルで今と比較すると世の中も私個人も気楽な学生生活だったと思います。私はというと、テニスサークルや国際交流団体、家庭教師のアルバイトなど、勉強以外で活発に活動していたほうだと思います。たまたま大学3年生になる春休みに、私は友人に誘われ、とあるコンサルティング会社の学生インターンプログラムに参加しました。当時はコンサルタントという職種がメジャーではない時代で、インターンでも興味深いことばかりでした。仕事上で一番楽しかったのが、論理的な思考を養うという点です。今ではロジカルシンキングもPowerPointも当たり前ですが、「物事を事実ベースで分析し、簡潔に伝える」という工程がとても刺激的だったのです。それだけでなく、大学の同級生の多くが官僚や銀行マンとして就職していく中、コンサル企業を選ぶ人っていうのは大体変わった人が多かったので、そのような仲間に出会えたのも楽しかったですね。このインターンでは大学受験勉以来、最大に頭を酷使した大変思い出深い経験です。インターン後、4年生の間もそのままバイトとして働き続け、翌年入社しました。その会社がブーズ・アレン・ハミルトンです。 ■多くの経営者との出会い、ご縁

伊東美優

株式会社モバイルファクトリー 代表取締役 宮嶌 裕二

不遇な学生時代からの逆転劇、会社設立までの歩みに迫る プロフィール 宮嶌 裕二(みやじま ゆうじ) 1995年に中央大学卒業後、ソフトバンク株式会社へ入社。 株式会社サイバーエージェントに転職し、事業を立ち上げた後、2001年にモバイルファクトリーを設立。位置情報を使って日本全国約9,000の駅を奪い合う「ステーションメモリーズ!」などのゲームや、月額制で楽曲を提供するサービスを展開。2018年からは、ブロックチェーン技術を用いたサービスの開発をスタートさせ、エンタメのアップデートを目指す。 モバイルファクトリーは、創業20年。時代に合わせてプロダクトを変化させ、常に新たな価値を生み出すためにチャレンジし続けている。だが、「起業のきっかけは?」そう聞くと、フィクション映画を語るかのように10代の経験をお話ししてくれた宮嶌氏。誰もが驚く起業までの道のり、そして熱い想いを語ってもらった。 ■不遇な学生時代、のちの決断 実は私が18歳の時、実家の事業が倒産して。当時は連日取り立て屋が来る、まるでドラマのような生活を送っていました。なんとか親戚から援助をもらい、大学進学ができましたが、家からの仕送りはゼロ。自分で生活費を稼ぐ必要があったため、当時、浦和にあった栃木の県人寮に住み、アルバイトを週3〜5日はしていました。このような日常の中で、私はこう思ったのです。「この世の中窮地に立たされると救いがない、力が欲しい」と。そして、その力とはお金だ、と思ったのです。元々ハートは強い方でしたが、この思いが一気に自身の原動力となりました。こうしてお金持ちに、つまり起業家になることを強く決意し、就活をスタート。企業はすべて、起業家になりやすい証券会社や商社を中心に受けました。そして起業家として孫正義さんにあこがれていたこともあり、当時はまだ上場していなかったソフトバンクに入社を決めました。 ■起業までの道のり 当時のソフトバンクは現在と事業内容が異なります。私が行っていたのは、BtoBの営業としてソフトウェアやハードウェアを、大手システムインテグレーターに提案販売することでした。起業家になることが夢だったので、猛烈に働きながら起業の準備も同時進行でしていました。ソフトバンクに5年勤務した頃、サイバーエージェント初期メンバーの1人から、社長の藤田さんを紹介してもらって、自分がやろうと考えていたサービスを話す機会があったんです。詳細を話したところ、「ウチでやらないか」とお声がけいただいて。1人でやるにはボトルネックが多いビジネスでもあったので、1999年にサイバーエージェントに入社することにしました。この頃はまだ、サイバーエージェントが社員10人程度の規模の時代でした。サイバーエージェントでは広告代理販売、メディア開発に従事しました。しかし2年間勤務後、サイバーエージェント内で立ち上げたオプトインメール事業が、GMO社に売却されることになったのです。今後どうするかとても迷いましたが、30歳になっていたこともあり、独立を決意しました。 ■モバイルゲーム事業の背景 こうして2001年に設立されたのが、今の会社となります。モバイルファクトリーは、最初着メロのシステムをレンタルするという事業を行なっていました。それから、他社でゲームのプラットフォームがオープン化していく情勢を見て、2009年頃に我々もゲームでユーザーを増やしていこうと、ゲーム事業をスタートさせました。当時のモバイルゲームは多くがWeb版だったので、よりユーザー体験が快適なゲームを開発しようと思いました。ただ、社員のアイディアを元にゲームを何本も作りましたが、どれもヒットせず。2013年まで、ゲーム事業に関してはずっと赤字続きでした。しかし、数字を見るとたくさん開発したゲームの中でも唯一、継続率が高いゲームがあったのです。それが、「位置情報連動型ゲーム」でした。今では多くのゲームで利用されていますが、当時はニッチだった位置ゲームに可能性を感じ、使える全てのリソースを注ぎました。すると売り上げは伸び、2015年には上場が決まったのです。数字を分析し投資するべき事業を選択して、一点に集中していく。これは、私がとても大切にしている考え方です。やはり、使えるリソースは限られているので力をかけていく場所は絞った方が良いと思います。 また、他社との差別化と聞かれると、それはジャンルそのものだと考えます。実際モバイルゲームは大量にありますが、電車に乗りながら位置情報で楽しむ、というジャンルのゲームはほとんど存在しません。電車で遊ぶというジャンル内では、モバイルファクトリーのゲームは国内最大規模のユーザーが遊んでくれています。 ■時代に合った「楽しい」を提供 私はモバイルファクトリーをゲームの会社だと思ってはいません。当社は、人をハッピーにすること、楽しませることをミッションとして掲げている会社です。つまり、楽しませることがゴールなので、良い意味でプロダクトが何であるかにこだわりはなし。実際にモバイルファクトリーは、創業から3回事業を変化させてきました。着メロから始まり、広告事業、ゲーム事業、そして現在はブロックチェーンを使ったエンタメをアップデートする事業にもチャレンジしています。このように、時代時代に合わせて事業内容も形を変えている。このようなことを踏まえ、私はまず、人を楽しませることが好きな学生を採用したいです。そしてもう一つは、変化に柔軟である学生。手段にこだわらず、その時代に最もマッチした「楽しい」を提供できる方法を考え、柔軟に選択できる人が弊社には合っています。新型コロナウイルスの影響で変化が激しい時代ですが、変化をポジティブに捉えて、主体的に突き進んでいける方を採用したいですね。 ■モバイルファクトリーのこれからの歩み 今後の日本は、人口減少が懸念されていますね。しかし情報技術、科学技術はますます発展し、仕事における生産性は上がっていくでしょう。そうなると、人々は余暇を楽しむ余裕が出てくるため、エンタメはより求められる存在になると思います。その中でも、比較的低単価で楽しめるモバイルゲームなど、我々のコンテンツは需要が高いと感じます。 今の私の1番の願いは、学生時代に考えていた「お金」を手に入れることではありません。モバイルファクトリーのサービスを通してこの世の中の人にもっと便利に、楽しく、ハッピーになってもらうこと。1億人超のユーザーに使ってもらえるようなサービスをどんどん生み出したいです。 ■大学生へのメッセージ まず一言、言いたいのは「日本に生まれた、それだけでとても幸せなことだ」ということです。他の国に行ってみると、生き方を縛られる国が多い。でもそれに比べて、日本はどんな生き方でもある程度多様性を許容される。そして社会に出れば選択肢が無数にあります。挑戦する生き方、安定を目指す生き方。親の期待に沿う生き方、自分の意思で動く生き方。この国には、選択できる自由があります。今を不安がるのではなく、あまり考えすぎずに、多様性あふれるこの世の中を楽しんでほしいです。 学生新聞WEB2020年12月8日取材   慶應義塾大学1年 伊東美優 慶應義塾大学1年 伊東美優 / 駒澤大学4年 如意太一

経営者

株式会社アイスタイル 代表取締役社長兼CEO 吉松 徹郎

誰よりも考え抜く追究心と行動力が新しい価値を生む プロフィール 吉松 徹郎(よしまつ てつろう) 東京理科大学基礎工学部卒業。 アクセンチュアを経て1999年アイスタイル設立。代表取締役社長就任。同年、コスメ・美容の総合サイト「@cosme」オープン。 現在は自身の設立した公益社団法人アイスタイル芸術スポーツ振興財団を通じた芸術・スポーツ分野への助成支援もおこなう他、経済同友会幹事なども務め、活動の幅を広げている。 化粧品業界のプラットフォーム「@cosme」を運営する株式会社アイスタイル。インターネットビジネスの不確実性が高い時代であったにも関わらず、吉松社長には「@cosme」事業の成功に絶対的確信があった。その根底には物事を考え抜く強い追究心に加え、新しい変化を厭わず、行動し続ける姿勢があった。 ■学生時代 当時は受験が大変だった時代なので、推薦をもらえる東京理科大学に進学しました。生物工学科だったのですが、特にその分野に興味があったわけではなく、いかに授業以外のことを充実させるかに力を入れていましたね。部活でアメフトに打ち込んだり、カラオケやピザデリバリー、家庭教師や塾の講師など色々なアルバイトをしたりして、いかに今と違う環境に行くかを意識していました。 ■数多くの内定をもらいながらも就職浪人を決断 生物工学科だったので、医薬系、食品業界を中心に受けるのですが、そこで働くために勉強してきたわけでもないのに、面接ではそういう自分を演じなければいけないことに矛盾を感じていました。そんな中でも、比較的多くの内定をもらえたのですが、そこから選ぶとなると、その会社の年収や資産、評判を基準に比較するしかないんですよね。でもそういう基準は違うなと感じて、「自分はどんな人とどういう仕事をしたいのか」を決めないまま就職活動をしてしまったことを反省しました。もう一度やり直そうと、もらった内定を全て辞退して、就職浪人をすることを決意しました。 外資のコンサルティング会社は当時マイナーな業界だったんですが、自分を成長させてくれるハードな環境だと感じ、最終的にアクセンチュアに就職することにしました。会社に入って1年目は自分の仕事のできなさや、周りとの能力の差に苦戦しましたね。2、3年経って、ようやく会社で評価されるくらいにはやっていけるなと思えるようになってきた頃、ちょうどインターネットが出始めてきました。インターネットで世の中どうなるのか、それをどう会社に活用していけばいいのか、それに対する自分の答えを40代、50代といった世代に説明するんですが、なかなか伝わらなくて、それにストレスを感じるようになりました。そんな時、@cosmeのビジネスモデルを思いつき、起業に踏み切ることになりました。 ■考え抜くことで確信のもてるビジネスモデルへ Amazonの株価が最低だったような時代で、最初はEコマースの市場で利益を出すのは難しいと感じていました。でもAmazonが出版業界から着手したように、本のような定価販売ができる商品を扱えば、日本でも十分利益が取れるのではないかと考え、たまたまその時のパートナーが化粧品会社で働いていたこともあり、化粧品に注目しました。当時は、今のように口コミサイトやデータベースを活用した事業はほとんどなかったんですが、事業計画書を色々な人に見せて、指摘をもらって、改善することを繰り返すことで、確信の持てるビジネスモデルにしていきました。人からの質問は無限ではなく、必ず飽和するので、それに全て答えられるようにしていくと、「このビジネスモデルについて日本で一番考え抜いたのは私だ!」と確信が持てる瞬間が来ます。そこまでやり切ってからスタートすることが大切ですね。 ■本当の競合を見極め先手を打つ 今はたくさん良いサービスを提供している口コミサイトはありますが、本当のライバルはそこではないと思っています。例えば雑誌だと、その領域でどのブランドが強いかを争っている間に、ウェブやYouTubeが台頭してきてしまうように、私たちの本当の競合はEコマースをしている楽天やAmazonかもしれないと考えたりします。これからの社会がどうなっていくだろうということを考えた上でアクションをとることを意識していますね。いかに先々新しいことをやっていくかが大切で、結果としてそれがネットとリアル店舗、両方に力を入れているという現状に繋がります。 ■フラットな精神と意志を持ち合わせる人と働きたい 会社が大きくなって、社員数が増えていくと一種のカオス状態になってしまうんですよね。ジオラマをいろんな人の手で広げていくような感覚なので、それぞれの担当場所できちんと意志を持って動いてくれる人が大切です。自分でこうしたい、学びたい、作りたいといった強い意志や、出来上がったものに対するこだわりを持てる人ですね。それはプライドではなく、誰かのためを思った利他的なこだわりであってほしいし、そういった意味では感度があって素直であることも大切です。偏見や先入観がないフラットな精神で、いろんなものを見聞きして吸収する姿勢がある人と働きたいですね。 ■今後の夢 コロナですべてがリセットされたと思うんですよね。生き方、考え方が大きく変わって、みんながスタートラインに戻ったような感覚がします。今まで通りだったら、将来を見据えて今できること、考えられることは固定化されていたと思いますが、先が見えない世界だと、20年、30年後にどんなことができるか、どんな新しい一歩があるのかを考えることができるのでワクワクしています。何年後こうなっていたいという明確なビジョンがあるわけではないですが、常に考えて行動し、社会に価値を出し続けられる自分でいたいというのはありますね。 ■message チャンスのある時代になったのではないかと思います。就職で苦しんでいる人もいると思いますが、この混乱の中、一旦就職しなくてもいいという選択肢が増えたことで新しいことに挑戦できる人もいるのではないでしょうか。所属することが大事ではなくて、自分で動ける環境を作ることが大事なので、たゆまず、見聞きをして、動き続けてほしいですね。 学生新聞WEB2020年12月3日取材   国際基督教大学 4年 鈴木菜桜 国際基督教大学4年鈴木菜桜 / 中京大学4年梶間直人 / 駒澤大学4年安齋英希 / 津田塾大学3年松本麗奈 / 明治学院大学3年菅井七海

伊東美優

株式会社ボルテージ 代表取締役 津谷 祐司

独自のストーリーにこだわるコンテンツ作りで、世界へ羽ばたく プロフィール 津谷 祐司(つたに ゆうじ) 福井県生まれ。東京大学工学部卒業後、博報堂に10年勤務。 その間、UCLA映画監督コースへ自主留学し、映画を学ぶ。 36才で株式会社ボルテージを創業し、社長に就任。 創業7年目、女性向け恋愛ゲーム第一弾をリリース。 2010年にボルテージを東証マザーズ、翌年に東証一部に上場させる。 2012年にはサンフランシスコにSFスタジオを設立、本人も移住し米国進出。 2016年に帰国。 創業時からの企業理念である、「アート&ビジネス」。実はこのキャッチフレーズの起源は、津谷社長の大学時代にまで遡る。幼少期から創作活動が大好きで、20代では映画留学を経験。そんな津谷社長だからこそ目指せる、ストーリーにこだわるコンテンツ制作とは。そして、ボルテージの強み、魅力について熱く語ってもらった。 ■学生時代 学生時代はとにかくいろいろ経験を積んでいました。例えばアルバイトは、定番の家庭教師だけでなく、ビアガーデンの店員や本屋の倉庫スタッフなどを経験しました。人とは違うことをしたいという気持ちが強かったのかもしれません。アルバイトは辛いことも多かったですが、「客商売」とはこういうものなのだ、と知ることができました。 そして就活の時期が近づき、一旦自分のやりたいことを整理してみたのです。方法としては、紙にどんどん興味のあることを書き出していきました。自分は何がやりたいのか、根本的に何に興味があるのかなど、思いつく限りペンを走らせました。そしてノート一冊分書き上げたところで、一つのキャッチフレーズに行き着いたのです。それが、「アート×ビジネス」でした。昔から工作などのクリエイティブな活動が好きだったのです。それも、出来合いのものを組み立てるのではなく、一から自分で創作するのです。この自分自身への問いかけ、自分と向き合った時間のおかげで、やりたいことの軸が明確になりました。 ■挫折しかけた、あの瞬間 大学卒業後は広告業界である博報堂に入社しました。順調に仕事をしていましたが、2年目のある週末、大学時代の友人数人と、苗場スキー場へ行った時のことです。夜、友人の一人がいきなり、アメリカへM B A留学をすると話し出したのです。驚きました。しかし話を聞くにつれて、私も海外留学に強い関心を持つようになりました。調べてみると、アメリカの大学院には映画学科というのがありました。元々映画や映像には興味があったため、憧れを抱き、すぐに入学出願しようと決断しました。 ただ、合格するのに5年もかかり、その後、渡米した直後も英語でのコミュニケーションの壁にぶつかり、入学早々ノイローゼっぽくになってしまったのです。このままでは授業についていくことさえできないと、入学2日目には休学したいと主任教授にお願いに行きました。「制作人数が足りなくなるから駄目だ」と言われ途方にくれました。そんな時、学生課で紹介された日本人留学生の先輩にこう言われたのです。「10分間我慢して授業を聞きなさい。それができたら、次に1時間我慢しなさい。それができたら、さらに3時間耐えなさい。」と。苦労や悔しさもたくさんありましたが、とにかく負けちゃいけないと頑張りました。 ■起業、そして苦難への道 無事、映画の大学院も卒業。日本へ帰国後、一旦は広告会社に戻り、社内起業としてインターネット事業を立ち上げました。しかし、大組織での意思決定手続きにエネルギーを浪費し、次第に私は事業を会社内でではなく、個人で好きなようにやっていきたいと思うようになりました。そこで、お世話になった博報堂を辞め自分の会社をスタートさせました。36才でした。事業内容としては、知人に紹介されたS F 小説家とストーリーゲームを作り、携帯で配信するというものでした。これは、現在ボルテージが行う物語ゲーム事業の先駆けと言えます 翌年、「バトル東京23」という携帯電話向け対戦ゲームを作り、賞を頂いたりもしました。その後もコンテンツ作りを続けましたが、やはり当時の自分は事業経営についての見識が十分でなく、最初の4年間はずっと赤字でした。初期から二人三脚で頑張ってきた妻である現取締役にも、何度も辛い思いをさせましたね。今では上場企業となり、大ヒットコンテンツも抱える企業となりましたが、当時を思い出すと苦労の連続でした。 ■ストーリーへのこだわり 現在、ボルテージ社員の男女比は4対6となっています。これは採用の段階で特に決めているわけではなく、結果的に優秀な女性が多く入社してくれるからです。やはり大手企業だと女性が活躍できる環境はまだまだ十分に整っていないですよね。我々の企業では男女関係なく、入社間もない頃からゲーム内のコンテンツやイベントの企画を立ち上げることができます。中には、入社数年の社員の企画が大ヒットということも。確かにコンテンツ事業の競合会社はたくさん存在します。 その中でボルテージの魅力は、第一に物語にこだわっているところで、ゲーム性よりストーリーに重きを置いています。例えば、「偽装結婚」というテーマがあり、主人公の女性一人に複数の男性キャラクターが絡んでくる。ゲームとしての面白さというより、映画のように複雑な人間関係やキャラクターを楽しめる、ストーリーとしての面白さがあるのです。それが他社との差別化かと思います。もう一つが、女性向けが中心というところです。女性はストーリー展開や登場人物のキャラへの思い入れが強く、半端なシナリオでは満足してくれません。弊社では、新しいタイトルを作るたび、舞台や人物の設定、プロットを徹底的に議論し、工夫を凝らしています。一部ですが男性向けもやっていて、同様に練り込んでいます。 そのため企業として求める人材は、コンテンツビジネスに覚悟がある人。作るのが面白いと感じるだけでなく、それをビジネスとして成立させていく覚悟がある人、です。現在もさまざまなタイトルを、アプリだけでなく舞台化、映像化などしていますが、今後もさらに大きく発展させていきたいです。 ■大学生へのメッセージ やりたいことが見つからない、やりたいことが多すぎるなど、色々な悩みがあるかと思います。しかし、結局は何か一つに絞らなくてはいけません。ここで気をつけるべきは、消費活動と生産活動は全く別物だという事です。例えばゲームが好きだからゲーム業界だ、と安直に考えないでください。ゲームをプレイするだけなら消費活動であり、仕事にはなりません。仕事は生産活動なので、物語やゲームを作ることに没頭できなければならない。あなたが社会に対して何を生産し、提供していきたいのか、という視点で考えてください。学生時代に自分の軸を理解することは大変重要です。時間をかけて、じっくり自分自身に問いかけてみてください。 学生新聞WEB2020年11月30日取材  慶應義塾大学1年 伊東美優 慶應義塾大学1年 伊東美優 / 津田塾大学3年 川浪亜紀 / 駒澤大学4年 安齋英希