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自民党東京都連 最高顧問 TOKYO自民党政経塾 塾長温故知新塾 塾長 深谷隆司

「日本に人生を懸ける」と誓った少年の歩み

自民党東京都連 最高顧問 TOKYO自民党政経塾 塾長
温故知新塾 塾長 深谷隆司 (ふかやたかし)

■プロフィール

浅草生まれ。終戦を満州で迎えた。一年後、引き揚げて長崎県佐世保市浦頭港に上陸。祖国日本の「土のあたたかさ」、迎えてくれた「日本人のやさしさ」に感動。その思いを胸に政治家を志した。  
27歳で台東区議会議員に当選。33歳都議会議員を経て、37歳で衆議院議員となる。当選9回。  郵政大臣、自治大臣、国家公安委員長、通産大臣(2回)、予算委員長、テロ対策特別委員長を歴任。自民党三役総務会長。東洋大学大学院客員教授。 

数多くの役職を歴任した大物政治家の深谷隆司さん。若き少年であった深谷さんが、将来政治家になることを心に決めさせた人生の大きな転機とは?また、学生時代から培われた「ある力」があったからこそ、政治家になる夢を実現できたのだとか……。政治家になる夢を追い続けた、そんな深谷さんの学生時代について語っていただいた。

■満州の貨物列車で、生きるか死ぬかの想いを経験

私は幼い頃、満洲国のハルビンに家族と共に暮らしていました。この頃はまだ大東亜戦争終戦前ですから、日本人にとって満洲は本当に住み良い場所でしたよ。
しかし、日本が破れると一方的に日ソ不可侵条約が破棄され、ロシア兵が押しかけ満洲は地獄と化したのです。ロシア兵が日本人の暮らす家に土足であがり、財産をすべて奪っていきました。また、日本人女性はロシア兵に辱めを受けさせられたため、全員髪を短く切って男の振りをしていたものです。
一年後、やっと日本に帰ることが決まりました。約2ヶ月間、何万人もの日本人が満洲から日本に向けて野を越え、山を越え、歩き続けました。時々列車に乗ることができました。列車と言っても貨物列車で、人が乗れるような造りにはなっていなかったため、居心地の良いものではありませんでしたよ。さらに、その列車の運転手は日本人ではなかったため、私たちに金を出すよう脅したり、列車が一時停止した際に用を足しに降車した人たちを置き去りにして出発したりと、残酷な仕打ちをしてきたのです。置き去りにされてしまった人々は、生き延びることはできなかったでしょう。
やっと日本の長崎県にたどり着きました。大人達がみんな地面に頬を付け、泣いて喜んだものです。当時小学生であった私も大人と同じように、日本へ無事帰ったことに涙しました。その時、「この国のために人生を懸けたい」と思い、「政治家」という3文字が頭に浮かびました。この時から私は、将来は政治家として、日本に人生を捧げることを心に決めたのでした。

■「政治家」という夢実現への道を歩み始めた学生時代

日本に帰還した後は、東京都台東区で暮らしていました。長男である私を含めた5人の子供を養うために、父は靴職人として働き始めました。部屋や勉強机はなく、戸棚の二階で勉強していました。壁に「政治家になる」と書いた紙を貼り、自分を鼓舞しながら、勉強に励んでいたものです。父や母も私の夢を応援してくれていて、「隆司、政治家になっておくれ!」という母からの言葉は、私の支えになっていました。
ある日、父から「政治家になりたいのならば、弁論部のある高校に入りなさい」と勧められ、唯一都立で弁論部のあった江北高等学校に入学を決めました。高校で演説の力を身につけ、大学は政治家が多く輩出される雄弁会に入るため、早稲田大学法学部に入学したのです。

■墓掘りのアルバイト中にした、演説の練習

大学時代は学費を稼ぐために働かなければならなかったので、アルバイトもたくさんしていました。冬に墓地を開墾する「墓掘り」というアルバイトをした時は、初めに学生が13人もいたのですが、かなり根気と体力のいる仕事であったため、最後には自分1人になってしまいました。そんな中でも、墓地に向かって演説練習をしたりと、常に政治家になるための努力を惜しむことなく続けました。選挙応援の為、九州福岡のパチンコ屋の二階に住んだこともあります。だから私は成人式にも出ていません。
また、学生生活最後には、「明日の会」の創設にも尽力しました。当時は40万人〜50万人ほどの若者が田舎から上京して来て、一斉に就職する「集団就職」というものがありました。集団就職でやってきた若者たちは皆色々な不安を抱えているわけですから、支え合える場を提供できないかと思い、作りあげたのが「明日の会」です。この、「明日の会」は私の選挙の母体となりました。このように、学業や友人との戯れよりも、政治家の夢実現へ向けた努力と、生活のための仕事に力を注いだ学生生活でした。

■学生時代から培った「演説力」から、夢の政界へ

大学卒業が間近に迫り、周りの学生は就職をする時期になりましたが、私は27歳で選挙に出馬すると決めていたため、就職することは望みませんでした。そこで、時間に融通の効く仕事をしながら選挙準備を進めていったのです。たとえば評論家がたくさん所属している事務所の講演で前座などもやりました。大学卒業後は鳩山一郎さんの奥様である、鳩山薫子さんに頼まれて「全日本婦人連盟」の創設に参加しました。
働きつつも選挙準備をし、予定通り27歳で出馬し、56人中7番で台東区議会議員に初当選することができました。私が当選した一番大きな理由は、徹底した政治学の勉強と演説力であったと思います。ゼロから出発した私は後援会組織を拡大させ、盤石な体制をつくり、都議会から国会へ50年の政治人生を過ごしました。私の政治家としての基本は愛国心です。

■人生設計は、少しでも早く具体的に決めよう

自分の人生設計は早めに具体的に決めることを強くお勧めします。そして、その夢を人に語ってください。人は言葉にすると、実行できるものです。夢に近づけるように、一歩足を進めてみてください。なんとなく大学に行って「楽しい大学生活を過ごしたなあ」では、もったいないですよ。一度きりの人生なのですから、大学時代に思い切って夢へ踏み込んでみてくださいね。

学生新聞オンライン2021年4月2日取材 津田塾大学 2年 佐藤心咲

津田塾大学 2年 佐藤心咲 / 津田塾大学 3年 宮田紋子

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