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Archive for 運営スタッフ

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秋元 康 若さとは、失敗しても戻ってくる力。 立ち止まっている時間はもっ...

<プロフィール> 秋元 康(あきもと やすし) 1956年生まれ。高校時代から放送作家として頭角を現し、数々の番組構成を手がける。 1983年以降、作詞家として美空ひばり『川の流れのように』をはじめ、中島美嘉『WILL』、 EXILE『EXIT』、KinKi Kids『SNOW! SNOW! SNOW!』ほかヒット曲多数。2005年4月、京都造形芸術大学教授就任。2007年4月、同大学副学長就任。また、京都造形芸術大学と 東北芸術工科大学が両大学に開設した『才能バンク』社会芸術総合研究所の所長を務める。 TV番組『おしゃれイズム』『うたばん』『とんねるずのみなさんのおかげでした』などの企画構成、ラジオ『秋元康のMature style』(TOKYO FM)のパーソナリティー、新聞・雑誌の連載など、多岐に渡り活躍中。企画・原作の映画に、『着信アリ』シリーズ、『伝染歌』など。 また、著書の小説『象の背中』は映画化され、10月27日より全国ロードショー。 「おもしろそう」を形に  作詞、テレビ番組の企画構成、映画の企画・原作、「AKB48」のプロデュース・・・高校2年生の時から放送作家の仕事を始め、様々な分野で感性を表現し活躍する秋元氏。大学時代はほとんど授業に出ず、行っても近くの喫茶店でずっと原稿を書いていたという。これまで数多くの作品を手がけてきたが、その際アイデア出しに苦労を感じたことはないという。考えてアイデアを出しているのではなく、「おもしろそう」と思った事を実際に形にしてきたからだ。「小さい頃から好奇心が旺盛でした。例えば、カレーライスがおいしい洋食屋さんでは、次に行ったときにカレーライスを頼むのではなく、ハヤシライスを食べるとか」。秋元氏にとって仕事とは、「働く」という意識で動くのではなく、「おもしろそう」を形にする、という事の繰り返しなのだ。 自分だけの感性とは  秋元氏は学生たちに「呼吸するように」生きてほしい、と語ってくれた。呼吸は意識的にも無意識的にもできる。だがそれを周りと比べたり、周りとの違いを意識したりすることはない。「自分だけの感性」とは、ひとりひとりが持つ呼吸のリズムのように、誰もが持つものなのだ。だからそれを周りと比べるのではなく、自分にピンと来た事やおもしろいと思うことをやる。そして、それに対する周りの批判に流される事なく自分の力を信じ、やり遂げる。「批判や失敗を恐れて立ち止まるのは、人生において一番無駄な事だと思います。僕の経験上、人間はどんなに頑張っても間違えてしまうことはあります。それなら、失敗してもいいからとりあえず動いてみる。すぐに行動に移せば、失敗してもその分早く方向修正が出来るんです」。自身も数限りない失敗を経験してきたという秋元氏のその言葉には、強い説得力がある。「若さとは、失敗してもやり直す力だ」とも教えてくれた。 全力で手を伸ばした1ミリ先に、夢がある  そんな秋元氏は現在、京都造形芸術大学の副学長を務めている。「お話を頂いた時、スケジュール的にきついので最初はお断りしようと思ったんです。でも、今までの恩返しを何かの形でしたいとずっと思っていて。僕はたまたま放送作家というきっかけに出会えたけれど、誰もがそういうわけではない。若者の多くは、僕と同じような事をやりたいと思っていてもどこから糸口を掴んだらいいのかわからないと思うんです。だからそういう人たちに、少しでもチャンスを与えてあげられたらと考えています」。そう話す秋元氏は自身と学生との触れ合いの中で、学生たちに貪欲さが足りないと感じているという。「もっと必死に、『私はこうやりたいんだけど』とか、『俺はこう思うんだけどどうでしょう』とか、聞きに来ればいいのに。そういう貪欲さがたりないのはとてももったいないと思いますね」と指摘。 「全力で手を伸ばした1ミリ先に夢がある、と思って下さい。応援しています」と力強いメッセージをもらった。 ・社会芸術総合研究所(才能バンク) 京都造形芸術大学と東北芸術工科大学が両大学内に開設した組織。所長は秋元康氏。学生の中から才能を発掘しマネージメントを行い、作品の管理・プロモーション活動を行う。また、創造力に富む人材が集まる芸術大学の強みを活かしたシンクタンクとして、企業と連携し創造的な提案を行っていく。総合プロダクション会社が、芸術家の発掘マネージメンまで分野を広げる動きはこれまでにもあったが、芸術大学の中にプロダクション機関ができるのは今回が初めて。 学生新聞2007年10月号より

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新垣結衣 お仕事をする時は、なるべく楽しめるようにしています。 そんな...

<プロフィール> 女優 新垣 結衣 (あらがきゆい) 身長 167cm 出身地 沖縄県 生年月日 1988年6月11日 趣味・特技 イラストを描くこと、カラオケ 女優というお仕事の魅力は、探している最中。 同年代の人より、早く社会へ出てお仕事をされていますが、お仕事に対して、どのような意識をお持ちですか? 「きっかけはもともと雑誌のモデルとして活動していたことです。お仕事をする時は、なるべく楽しめるようにしています。そんなに仕事だと意識した事はないですね。お芝居だけでなく、最近は音楽の活動もしていますが、お芝居はお芝居、音楽は音楽の意気込みというものはありません。その場の雰囲気とか、流れに合わせてやっています」 お仕事をしていく中で、大変な事や辛いことはありますか? 「体調管理です。この仕事は不規則な生活なので、体調管理に気をつけています。作品でいうと、「恋空」は悲しい気持ちのシーンが多いのですが、普段自分から悲しい気持ちになろうと思う人っていないじゃないですか。だから、悲しい気持ちのシーンは辛いですね」 女優というお仕事の魅力は何ですか? 「正直、よくわからないです(笑)自分でも探している最中です。楽しいところはひとりじゃなくて、相手がいて初めて成り立って、一緒に作品を作ること。 女優が一番自分にあっているかどうかは、よくわかりません」 美嘉は、新垣結衣本人 映画「恋空」の主人・·美嘉と自分が似ているところはありますか? 「周りの人に言われて気付いたんですが、美嘉と新垣結衣本人が似ているみたいです。テンションや言い回しが似ているんだと思います。他の役ではテンションが高い役があったりして難しかったのですが、今回は特に苦労せずすんなりできたから、やっぱり似てるんじゃないかなと思います」 美嘉を演じる上で、役作りはどのようにしましたか? 「役作りはいつもあえてしていません。基本的なプロフィールと台本のイメージはしますが、相手役の方の口調や現場の雰囲気で変わるので。美嘉は極めて普通の女の子だし、自分が体験するようなことはなかったけど、すごく似ているのかなと思いました。 台本を読み合わせて、あとは監督に「そのまま現場に来てください』と言われただけで、あえて特に役作りはしませんでした」 映画「恋空」の中で、お気に入りのシーンなどはありますか? 「ヒロと美嘉二人だけの結婚式のシーンです。ヒ口が初めて美嘉に見せた『弱い気持ち』を、いつも支えてもらってばかりいる美嘉が今度は支えてあげるというところで、ここは一段と深まるシーンです。あと、背景もきれいで、最後は温かい涙があるので好きなシーンの一つです」 今学んでいることは必ず役立つと思う。 今後、どのようなお仕事をしていきたいですか? 「最近は音楽活動もしていますが、以前から興味のあったことだったので、ラッキーだなと思います。世の中にはCDを出したくても出せない人がいるから、本当にラッキーだと思いました。他に、絵を描いたり、写真を撮るのもやってみたいです。洋服を着るのも好きなので、ずっとやっていたモデルの仕事は続けていきたいなと思っています。風景の一部になるような写真もやってみたいですね」 学生へのメッセージをお願いします。 「何か自分のやりたいことに向かっている人もいれば、探している最中の人もいると思うんです。今学んでいることは役に立つと思うので、ゆっくり頑張って下さい!」 forGirls 2007年10月号より

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小池百合子 悩む、解決する、自信に繋がる。失敗してもいい。出来る事から...

<プロフィール> 小池百合子(こいけゆりこ) 衆議院議員。内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)。前環境大臣・内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)。 1952年兵庫県生まれ。関西学院大学中退後、エジプト国立カイロ大学に留学。1976年同大学を卒業後、フリーのジャーナリストとして活躍。「ワールドビジネスサテライト」(テレビ東京)の初代キャスターとしても知られる。1992年政界に身を投じ、現在まで参議院議員1期、衆議院議員5期連続当選。著書に「環境ビジネスウィメン」(日経BP社)、「永田町ブロードキャスター」(朝日新聞社)などがある。 国民投票法案が成立した歴史的な日に、東京・永田町の衆議院会館で取材を行った。エコバックを片手に颯爽と現れた小池百合子氏の姿は、「さすがは元環境大臣!」と思わせるものだった。 日本の「空気」を変える! ジャケットとネクタイを脱いで仕事をするビジネスマンを生み出し、すっかり定着させたクールビズ。小泉純一郎元総理大臣が「かりゆしウェア」で涼しげに登場した2005年6月1日を皮切りに、社会現象となった。「クールビズ」は2005年度の流行語大賞を受賞し、その動きは中国や南米チリにまで飛び火するなど、日本だけでなく海外にも大きな影響を与えている。何を隠そう、このクールビズの仕掛人こそが当時の環境大臣、小池百合子氏なのだ。 「ネクタイを外して下さい」「冷房は28℃にして下さい」と政府をあげて国民に呼び掛けた。しかし、「働く男はネクタイとジャケットを着用しなければいけない」という「空気」を変えられた事が、クールビズ成功の大きな要因だと小池氏は語る。 「女はこうあるべし」? 小池氏によると、日本の男女観にも同じ事が言えるという。例えば、独身女性への「まだ結婚しないの」という周囲からの見えないプレッシャー。男性が育児休業制度を活用しにくい職場の「空気」。女はこうあるべし、男はこうあるべしという「空気」が支配しているのだ。制度自体に満足するのではなく、そういった「空気」や意識こそ変えていかなければならない。「まだまだ日本は男社会ですよね。それは日本の基本的な構造、戦前からの男女の役割分担の結果なんです。でも女性は特別視される傾向が強く、女だから上手くいけば当たり前、失敗すれば『やっぱりな』と言われる。下手打つ例が多ければ出来ないレッテルをはられてしまう。それって悔しいじゃない?だから結果的に女性は男性の10倍位働かなければならないと思ってるんです」。 大切なのは知恵 また、自身のエジプトでの学生時代をこう振り返る。「日本の大学では出来ないような体験をたくさんしました。例えば、戦争。世界の火薬庫と言われている中東で、エジプトの人達は残念ながら『戦争慣れ』をしていた。ちょうど日本人が地震の時は机の下に避難する、といったようにね。食料が無くなったら大変になると気がついてスーパーに行ったら時すでに遅しで、長靴とタワシしか残っていないこともありました」。 パソコンとコピー機も無かった時代。今の学生と自身の学生時代の違いについてはどう感じるのだろうか。「当時は調べ物といえば本で探すか人に聞くしかない。相当な努力をしていたわけです。これなけ便利な情報化社会の時代だからこそ、物事の記号や単体で覚えるだけじゃなく、ストーリーとして体系的に理解していないと意味がない。わたしはそう思います。 それから、学校で学ぶ知識ってCDロムで言えば1枚位なんじゃないかしら。あと必要なのは知恵だと思います。それは学校では教えてくれないけれど、苦労を重ねて解決策を見出す事で、自分のノウハウになっていくんです。その為には自身で経験する、人を見て学ぶ。知恵についての試験はないけれど毎日が試験の繰り返しなんですよね」。 一歩ずつ進もう 「目標は高く、実行はこまめに!」小池氏がインタビューでも、著書『小池式 コンセプト・ノート』でも一貫して話す事だ。そんな小池氏から学生へメッセージをいただいた。 「悩んでいたって改善しない。だからどうしたら解決出来るか、自分なりの方法を見つけてクリアする。失敗したって良いからやってみる、一歩ずつ前に進んでみる。それが自信にも繋がるんです。私自身、自分の原動力にもなっています。そして学生時代を『二度と来ない貴重な時間』だと認識して行動すれば、とても良い時間の使い方ができると思いますよ」。 学生新聞2007年7月号より

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酒井彩名 仕事は、生半可な気持ちでやってはいけないと思っています

<プロフィール> 酒井彩名 (さかいあやな) 1985年生まれ。女優。雑誌「Ray」(主婦の友社)レギュラーモデル。現在放送中の連続ドラマテレビ朝日系「女帝」(毎週金曜21時)北條奈役として出演。芸能活動の他に、ウエディングドレスAyanatureデザイン も手掛けている。 酒井彩名さんプログ『酒井彩名のAYANAVI」http://ayanavi.jp/blog/ 意地悪そうな人を密かに観察している。 7月13日から放映中のテレビ朝日系ドラマ『女帝』(毎週金曜2時)に、北僚梨奈役でレギュラー出演する酒井さん。「女帝」は、人気作家·倉科遼さんと、他の追従を許さない画力が定評の劇画家· 和気一作さんによる出世作。熊本で生まれた主人公の立花彩香が、大阪:ミナミや東京·銀座の高級クラブで女帝にのし上がるまでの波乱万丈の半生を描く。ヒロイン・彩香の相手役は若手ナンバーワン俳優の呼び声高い松田翔太。そして酒井さん演じるのは、北條梨奈。その役所は、絵にかいたような性悪女であるという。寛容で優しい取材とはかけ離れている。どうやって役作りをされたかを尋ると、「実際に意地悪そうな人を秘かに観察しています」とか。「そこまでするの!!」というぐらい意地悪さを強調しているけど、『負けじと這い上がっていく』という姿も見てほしい」。 キュートな顔で、ご自分とは正反対の役を演じる酒井さん。 話を聞くと、仕事に対してのプロ意識は極めて高い。 完壁主義者なのかも。 「仕事は、生半可な気持ちでやってはいけないと思っています」。 私たちと一歳しか違わないのに、仕事のお話をする眼差しは、真剣そのもの。大きな遅刻など今まで一回もしたことがなく、一つのことを始めたら、最後までとことん突き詰める。「きっと完壁主義なのかな。ちゃんとしなきゃ!といつも自分に言い聞かせているんですよ」。 その性格は、仕事以外の場面でも現れている。洗濯が好きで、洗濯後はきちっとたたまなければ気が済まない。 料理もそもそも好きであるそうだが、体調管理のことも考え、忙しい合間を縫って自炊を積極的に行っているという。そんな彼女も、やっぱり疲れてしまうことがあるそう。そんなときは時間をしっかりとって、最大限その時間を自分のために費やす。散歩に行ったり、お風呂にゆっくり入ったり、本を読んだり。「特に活字に触れる事が大好きなので、本はたくさん読んでいます。今はセラピーの本を多く読んでいますけど、『ハンバーガーのこわい話』(草思社)とかお勧めかな(笑)。」自分のお休みタイムでも、気の張らない徹底振りが見られる。 モデルを続けたい。エッセイも出してみたい。 「私の夢は、モデルをずっと続けること」。その理由を、彼女はこう語る。「モデルのお仕事は、たくさんの人に出会えて、自分も人も変わっていくことを毎日意識することができる。これほど魅力的な仕事はない」。その一方で、 彼女にはもう一つの夢があるという。「実は昔から日記を書きためているんです。日記を振り返ると、なかなか面白いエピソードがあったりするので、それを題材にして、エッセイにしてみたいな」。 一つのことをやると決めたらあきらめない酒井さん。モデルを続けることはもちろん、エッセイの出版も、着実に実現に結び付けていくことだろう。彼女のように自分らしさを大事にして、心に余裕を持った素敵な女性を、私達女子大生も目指したいものだ。 学生新聞2007年7月号より

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Beyoncé ビヨンセ 『B’DAY』は今までで才能のアルバム自分への最高...

<プロフィール> ビヨンセ 1981年9月4日、 マシュー·ノウルズとティナの間に、長女として生まれる。7歳ごろのビヨンセはダンススクールに通い、聖歌隊員。 やがて名実ともに世界トップに君臨するスーパー·ガールズ·グループ「デスティニーズチャイルド」を結成。同グループのリード·ヴォーカルであり、プロデューサー。音楽的にもビジネス面でもイニシアデティヴをとっている。 「デスチャ」のアルバムは全世界トータルセールス5千万枚を記録。2003年のソロ·デビューアルバム 「デンジャラスリィ・イン・ラブ」は全世界で1100万枚以上のセールスをあげ、 グラミー賞でも女性アーティストとして最多5部門受賞。女優としても出演作が軒並みNO.1に。今年は主演作 「ドリームガールズ」が控えている(日本公開は2007年早春公開予定)。 今回の「仕事とワタシ」は9月3日(土)に開かれたサマンサタバサとソニーミュージックジャパンとの合同ビヨンセ来日記者発表会」に緊急参加!! Newアルバム 『B’DAY』の発売に伴って来日した、時代を制す史上最大のヒロイン”ビヨンセ”。全世界を制覇したスーパー·ガールズ·グループ”デスティニーズチャイルド”のリードシンガーでありプロデューサーでもある”ビヨンセ”が、NEWアルバム『B’DAY」』についてや、 サマンサタバサ&サマンサティアラの秋冬新作、 秋冬のファッショントレンドに関して、 盛りだくさんのトークを繰り広げてくれました! 久し振りに日本に来た感想はいかがですか 「飛行機の遅れにも関わらず、たくさんのファンが空港で待っていてくれました。 すばらしいファンの方たちへ、感謝の気持ちで一杯です」 NEWアルバムのタイトル「B’DAY」の意味は何ですか? 「アメリカのファンからニックネームで「B」と呼ばれています。さらに アメ リカでBIRTHDAYのことを『B’DAY』と呼ぶので、その2つの意味をかけて『B’DAY』と名づけました」 9月4日の誕生日に発売となった今回の『B’DAY』というアルバムは、ビヨンセにとってどのようなアルバムになりましたか? 「25歳という歳は女性にとって最もスペシャルですばらしい歳だと思います。また、このアルバムは今までで最高の出来となりました。 私自身から私自身への、すばらしいプレゼントとなりました」 通常の誕生日はどのように過ごしているのですか? 「通常は家族や友人と食事をして過ごしますが、昨日はMTVアワードアメリカの後、ビッグなパーティーをやってもらいました。そこで、母が作ってくれた『ガンボスープ』を頂きましたが、その『ガンボスープ』を飲むことがいつもバースディの一番の楽しみです!」 『B’DAY』は複数のレコードスタジオを24時間体制で同時に押さえて、複数のプロデューサーを同時に配置し、何曲も同時にレコーディングしていたといううわさは本当ですか? 「実はこのアルバム、3つのスタジオを同時並行で使い、色々なプロデューサーと色々な曲を作ったのですが、そのエナジーが結集されてこのアルバムが出来上がったのだと思います」 サマンサタバサ秋冬コレクションの感想は? 「どれも大好きです。中でもゴールドのものが好きですね。エレガントで色々なシチュエイションで使えるので気に入っています。前にある3つの中では赤色が気に入っています。メタリックな色が、カジュアルでもドレッシーでも使えて、エレガントに見せてくれるからとっても素敵ですね!レッドカーベットにもジーンズにも合うし、小さいから特別なときにも使えますね! アイテムを選ぶポイントは? 「どんなときも心地よく、自分に自信が持てるような物を選ぶようにしています」 ファンに対してひとこと。 「デスティニーズチャイルドの頃から熱く9年間もサポートしてくれている日本のファンたちには本当に本当に感謝しています。ありがとう!!」 今後も、世界を代表するディーバ”ビヨンセ”の活躍は見逃せません! 学生新聞2006年11月号より

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羽生善治 何も考えずにやってみること。無駄だと思っていたことでも、どこ...

<プロフィール> 羽生善治 (はぶよしはる)  1970年9月27日生まれ。埼玉県所沢市出身。三冠(王位·王座・王将) (朝日オープン選 手権者)(永世棋聖・永世王位・名誉王座・永世棋王)。二上達也九段門下。 将棋界に旋風を巻き起こした羽生善治さん。若くしてプロになり、25歳で7冠王という偉業を成し遂げた。今回は、そんな勝負師としての羽生さんの生き様、そして将棋の魅力を探りました。 将棋を始めたきっかけは何ですか? 「小学1年の時、友達に誘われたのがきっかけです。野球やサッカーをやるように、将棋も 遊びのつもりで始めました。その後小学2年の夏に子供の将棋大会に出場したのを機に、将棋道場に通うことになりました。将棋は決着がつくから面自い。決着がつくまでのスリリングな感じ、いろいろな手を探求する楽しさ、そして勝負がつく楽しさ。そして小学 6年の大会で日本一になり、本格的に活動するようになったんです」 どんな学生時代を過ごされていましたか? 「将棋の試合があると、丸一日時間を使うから、学校は月に3、4日は必ず休んでいました。 宿顕はちゃんとやっていたけどね(笑)。当時は今と違って塾に通うこともなかったから、のんびりしていました」  中学3年、15歳でプロになった時の周りの反応はどうでしたか? 「親も友達もびっくりしていました。もともと親は、買い物の合間に僕を預ける託児所のつもりで将棋道場に通わせていただけだし、友達も、学校はよく休んでいたけど、まさかプロになるほどとは…と言う感じでした。 これからどうなるのだろうという不安はありましたね。対局する人、対局する人、全員年上だし、顔は知っていたけど、名前は知らなかったりして…。プロになったからといって、いきなり稼げるわけではないし、自分の努力次第だと思っていました」 25歳で七冠を違成した時はどんな感じでしたか? 「成し遂げた、という感じです。一区切りではあったけど、そこで終わりじゃない。つらいというよりは、無我夢中でやってきました。一つ一つの対局に深い思い入れを持つことはなく、結構忘れちゃうんです。それだけ多く、日々勝負し、前へ前へと進んでい。僕は過去を振り返らない主義だから、その時は頑張っていたけど、振り返ると『頑張っていたなー』という感じ。スポーツと違ってシーズンがないから、マラソンのように毎日のほほんとやるだけです」 ものすごい偉業を成し遂げながら、その上に胡坐をかくことなく、淡々と日々勝負師とし て活躍する羽生さん…対局中は何を考えているのですか? 「何も考えないです。将棋の世界は勝負を人の所為にできない。スポーツと違って、審判の所為にしたりできないんですそれに、汗をかいたり走ったりするわけじゃないから、発散できなくて、自分の中で留め込んでしまうんです。溜め込んで煮詰まってしまわないように、何も考えずにやります。“八面玲瓏”(どこから見ても美しいこと。また、心にわだかまりが ないこと)を座右の銘に、富士山を見るような透明な心であり続けたい。僕は試合当日の朝でも特に変わったことはせず、緑起をかついだりしないんです。やりだしたらきりがないから。何も考えずにやる、それだけです」 1970年代生まれのトップ将棋士たちをまとめて、“羽生世代”というそうですが、みなさんはライバル同士ですか? 「ライバルとはあまり意識してないです。同世代の仲間は、子供の頃から一緒にいて、切磋琢磨しながら成長してきました。僕は一人で強くなったのではないと思っています。この先どうなるかわからないけど、これからも仲良くしていくんだろうなぁ(笑)」 今後の目標はありますか? 「地道にやっていきたいです。40歳〜50歳の頃には今と違うカラーを出したい。たくさん考えないで、正しい答えを出せるようになっていたいです。直感や対局勘を研ぎ澄まして、うまく引き出せるようにしたい。あとは、子供たちに将棋を教えることもしていきたいです。僕はそんなに足繁く子供に教えに行っているわけではないけど、子供たちの『えっここでその手?!』って思わせるような発想やひらめきには毎回鷲かされます。これからの将棋界は、質の高い世界であってほしいです。脈々と歴史をつなげていくことが大切だと思います」 羽生さんの力の源はなんですか? 「“発見すること”かな。『あ、パン屋さんがある』とか、『あ、朝顔だ、夏だな~』とか、些細なことを発見するということ。将棋の世界でも生きているといいな」 羽生さんにとって将棋とはなんですか? 「習慣であり、生活に一部でもあります。将棋が人生そのものだという感じではないけど、でも一緒に歩いていくんでしょうね」 最後に、学生へのメッセージをお願いします。 「僕が20歳前後のころ、時間は無限だと思っていました。でも、そうではないってことを最近感じ始めました。だから、学生のみんなには、時間を大切に使ってほしいです。あと、今やっていることで、無駄に思えることがあるかもしれないけど、無駄だと思わずに、やってみて下さい。 いつかどこかで生きてくるかもしれないから。“やりたいことが見つからない“なんていう若者が最近多いけど、考えないでまずはやってみること。考えすぎると実行できない癖がついてしまい、大抵のことはやめてしまうと思うので」 羽生さん、どうもありがとうございました! 学生新聞2006年10月号より

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Gackt×塩田大介 自分の意志を見失わないで。 就職する意味を考えよう!

<プロフィール> Gackt (がくと) 7月4日生まれ。A型。 これまで24枚のシングルと7枚のアルバムをリリースし、いずれもオリコン上位にランクイン。1作ごとに新たなサウンドスタイルを確立する。 華麗なビジュアルや幅広い音域から繰り広げられるボーカリゼーションもさることながら、優れたクリエイトセンスを発揮したステージングには言葉も出ない程の感動を受ける。また音楽活動のみにとどまらず、TVやCM、小説の執筆や映画の主演など多彩な才能を発揮し、枠にとらわれることなく幅広い活躍が光る。 <プロフィール> 塩田大介 (しおただいすけ) 1968年2月12日大阪生まれ。 19歳の時に単身で上京し不動産業界に入る。1994年現株式会社ABCホームを設立。 ではまず、お二人の出会いから聞かせて頂けますか?ガクトさん(以下G) 共通の友人に紹介されて知り合ったんだよね。一緒にご飯を食べに行ったりしているうちに、すぐに仲良くなったね。 塩田社長(以下S) 彼の第一印象は「おもしろい人」。突然座禅を組んで歌い出したり、数ヶ国語を自由に操れたりとサプライズがたくさんある。 知り合えば知り合うほど魅力いっぱいで、会う度に新しい一面を発見しますね。 お二人はなぜ今の仕事を選ばれたのですか? S:「腕一本でお金を稼ぎたい!」という気持ちが強かったからです。扱うなら金額の大きな不動産か金融業界で働きたいと思いました。以前勤めていた不動産会社が同族主義で、頑張りを認めてもらえないことに疑問を感じ、独立しました。 G:「自分の存在理由はなんだろう?」と考える内に、「何か自分が形として残るものを作りたい」と思ったから。 夢を実現させるには、何が大切だと思いますか? G:夢や目標を実現するにあたって最も大事なのは、「どこまで目標をクリアにイメージできるか」ということ。何かにすぐ挫折する人は、目の前のことを見すぎている人だと思う。目標をクリアにイメージした上で「何歳までにはこうなって、何歳までにはこうなって…」と具体的なビジョンを描いている人は、たとえ壁にぶつかったとしても、それが目標へのプロセスの一つだと認識できる。目標に向かって突き進んでいる途中で他の目標を見つけたら、方向転換してもいいと思う。イメージを描き、目標から逆算して行動することが、実現への一番の近道だと思うよ。 大学生に限らず、自分は何をしたいのか、どんな職業が自分に合っているのかが分からず悩む人が多いですが、それについてはどうお考えですか? S:自分に本当に合っている職業に出会うのは難しいことですよね。「自分はこの仕事に合っているのか」を考えることも大切ですが、まずはどんどんチャレンジしてみるべきだと思います。又、企業はそのチャレンジに対しチャンスとフィールドを提供していかなくてはいけません。 G:就職する意味を見つけると良いと思う。「仕事」の先にある、自分の夢をつかむために就職するんだよね。それを見失わないで欲しい。自分の意志を明確に持って、これからを作っていって欲しいね。 S:私は、頑張った人が頑張った分だけ活躍できる環境を整えることに力を注いでいます。日本のために、今後若い世代も次の世代へとバトンを渡していってほしいからです。自分の目標のために会社を踏み台にしてもいいんです。ガクトさんも言ったように、それくらいの意志を持って、目標を持ったらその実現のためにまっしぐらに頑張って欲しいと思います。 最後に、学生に向けてメッセージをお願いします。 S:今日本経済は、バブル崩壊後の長い不景気から脱却し、回復から躍進に向かおうとしています。これから社会に出る学生の方は最高のタイミングでスタートを切ることができるのです。そして、ABCホーム.では不動産流通革命企業として皆さんに最高のステージを用意して迎え入れます。 G:何度も言ってきたけど、目標を持って取り組むこと。 まずはチャレンジ!「自分がしたいことと出会える会社」に出会えるよう、活動して下さい。 学生新聞2006年3月号より

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安倍晋三 誠をもって動かざるもの未だ非ざるなり

<プロフィール> 衆議院議員 安倍晋三(あべしんぞう) 1954年9月21日 安倍晋太郎・洋子夫妻の次男として生まれる。 1977年3月成蹊大学法学部政治学科卒業。南カリフォルニア大学政治学科留学。 1982年11月 外務大臣秘書官(安倍晋太郎秘書)。 1991年7月 故安倍晋太郎後継者として安倍晋三後援会事務所を各地に発足。 1993年7月 衆議院議員に初当選、以来連続4回当選。 1993年8月 外務委員に指名される。2000年7月 第2次森内閣 官房副長官に就任。 2001年1月 第2次森改造内閣 官房副長官に就任。 2001年4月 小泉内閣 官房副長官に就任。 2002年10月 小泉改造内閣 官房副長官に就任。 2003年9月 自由民主党 幹事長に就任。 2004年9月 自由民主党 幹事長代理に就任。同時に党改革推進本部長に就任。 決断のときに、備えよ! 焦って行動することは、ありません。決断のときというものが、誰にでも巡ってくるものです。だから、その時にしっかりとした決断が下せるように、考えておくことが大切なのです。父の最期の1年をみて、私は命を賭けて政治家になることを決めました。 今の学生だって、いろいろなことを考えていると思う 私が大学生の頃は、昭和50年前後で、大学紛争が終わってまだ間もない時でした。「現存の政治に対する反発」という世論の雰囲気が色濃くなり、政治に対する意識が急激に高まった時期であったように思います。その頃と比べますと、一見、今の大学生は政治に対して、関心がやや薄いように見えますが、一概にそうとは言えないと私は思います。私の学生時代の政治に対する反発は一時的な反動で、それは若者であるが故の未熟さによるものであったと言えなくもありません。何故なら、その反発の結果、実際の政治において国民の利益となるような良い結果につながったのかと言えば、そうとは言えなかったからです。私は、今の学生は一人ひとりが目立った行動は起こさないけれども、政治について、そして日本の将来について、いろいろなことを考えているのだと思います。ですから、今すぐに焦って行動を起こす必要はないと思いますが、現実問題として、来年、日本の人口はピークを迎え、それに伴って、年金の問題、老人医療の問題など、さまざまな問題が浮き彫りになってきます。それらは、いずれも私たちの将来を直接左右する大きな問題です。だから、普段から様々な問題について、しっかりとした考えを持ち、いざという時に自分なりの判断ができるようにしておくことは、学生の皆さんにとっては大切なことだと思います。 政治家とは、命がけの仕事 私が政治家になろうと思ったのは、父の影響がとても大きいと思います。私は、大学を卒業後、株式会社神戸製鋼所に入社しました。そこで仕事はとても順調で、楽しい毎日だったのですが、父が外務大臣になった時「政治家になるなら、今がベストではないか」というアドバイスをくれました。なぜなら、父も祖父も外務大臣になった時に秘書官になったからで、振り返ってみると、その時の決断が父のその後の人生において、非常に良かったというのです。それを聞いてからとても迷いましたが、幼い頃から憧れの存在だった父のアドバイスということもあり、きっぱりと会社を辞め、父の秘書官になることを決めました。しかし、政治家になるということに対しては、まだ若干の抵抗がありました。何故なら、私が小学2年生のとき、父が選挙に落選したことによって、家族がとても大変な思いをしたのを見ているからです。そんな私の迷いを断ち切ったのは、病床に伏した父の最期の1年間でした。その1年間、父は身体の調子があまり良くないのにもかかわらず、最期まで選挙の応援に駆けつけるなど、政治家として精一杯活動していました。このことが結果として、父の寿命を縮めてしまった訳ですが、そんな父の後ろ姿を見て「政治家とは、命をかけるに値する仕事なんだ」胸が熱くなりました。そして、政治の道に進む決意が固まったのです。  私は「誠を持って、動かざるもの、未だ非ざるなり」という孔子の言葉が、とても好きです。これは、私の尊敬する吉田松陰先生も好まれたお言葉です。この言葉の通り「みんなの住んでいる国を良くしたい」と、国家のためを思い、信念を持って行動すれば出来ないことは何もないと、私は信じています。 「僕が学生だった頃の思い出」  私の祖父と父が共に政治家だったこともあり、学生時代から、政治は身近なものでした。私は日本の大学を卒業後、アメリカの大学に2年間ほど留学しています。どちらの大学でも政治学を学んだのですが、日本の大学では、どちらかというと古典的な政治学を学んだという印象があります。それに対して、米国の大学では基本的な政治学はもちろん、現代の政治について学ぶことができました。それは、大統領の政治について分析したり、アメリカ特有のホワイトハウスのシステムについて学ぶなど、極めて実践的でとても興味深いものでした。又、当時のアメリカでの生活についてですが、私はイタリア系アメリカ人のお宅に下宿していたので、アメリカにいながらイタリアの雰囲気に包まれて暮らしていました。まさに、アメリカは「人種のるつぼ」だということを実感しながら、幅広い教養を身につけた2年間でした。 学生新聞2005年4月号より