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Archive for 運営スタッフ

学生新聞インターン

株式会社Wiz 代表取締役社長 山崎 俊

人・企業の課題をITで解決 目指すはITの総合商社 株式会社Wiz 代表取締役社長 山崎 俊(やまざき しゅん) 早稲田大学在学中に大手通信商社でアルバイトを経験。大学卒業後に同社へ部長として入社し、最年少で執行役員となる。2012年、30歳で独立し、株式会社Wizを設立。設立6年で17支社、従業員1,000名を超える規模に成長。「ヒトと企業の課題をITで解決する」を理念に掲げ、「ITの総合商社」として日本全体のデジタルトランスフォーメーションを目指す。 山崎社長率いる株式会社Wizは、「BACCS~20万人が選ぶ働きたい企業50選~」に認定され、創業7年にして従業員は1000名以上。また、ベストベンチャー100にも選出されるなど、現在、とても勢いのある会社だ。「人と企業の課題をITで解決する」をテーマに成長し続けている。 私の学生時代はアルバイトに明け暮れる毎日でした。中学3年生の頃は、時給750円のスーパーのアルバイト。「1年頑張れば時給を10円上げる」と言われましたが、1年たっても750円のまま。それならと時給950円のアルバイトに“転職”。電話でアポイントを取り、教材を売る仕事ですが、この決断が私の将来を決める大きな一歩となりました。  面接に行ったその日から働き始めたのですが、1時間の電話営業でアポを1件獲得。上司からは「天才!」と言われ、褒められました。そのときに、成果型の仕事って素晴らしいなと感じました。高校1年生の頃でしたね。  大学に入ってからは光通信で時給1200円のアルバイト。最初の業務はNTTからKDDIへの携帯電話の切り替えのアポ取りです。周囲は1件しか取れないアポを、私は20件くらい取っていました。以前の教材を売るアポ取りに比べればこちらの方が簡単に見えましたし、取れないわけがないと思っていました。その後も順調に結果を出し、大学在学中に部下を500名持つまでになりました。 なんとか大学は6年で卒業し、そのまま光通信に入社しました。学生時代にどうしてあんなに成果を出せたのか、今考えてみますと、まず、私はチームを意識していたんですね。自分の役目、チームの勝利、チームの一員という意識を持っていました。あとはお客様を信じられるかどうかです。お客様にメリットがあると思えば、信じて伝える。断られたら、「なぜか?」を必ず聞くようにします。NG理由が分かれば、解決のための情報を探せるからです。 この業界を変えたい 他社の模範となりたい  光通信は30歳で退職して、Wizという会社を作りました。東日本大震災があって、配置転換やいろんなことがある中で、自分のことを見つめ直す時期があったんです。今まで何となく走り続けてきたけれど、30歳からの10年間をどう生きようか、と。その中で、「何かを残したい」という想いに気づき、Wizを創業することにしました。  起業時の不安はそれほどありませんでした。ただ、信用できる代理店が少なく、お金が稼げればそれでいいというマインドの人が多い時代だったので、「何とか自分がこの業界を変えてみたい」「業界の模範になれたらいいな」と思ってやっていました。会社自体は、真面目にやれば何とかやっていけるだろうと思っていました。  今後の展望ですが、「デジタルトランスフォーメーション」というキーワードを掲げています。WizをITの総合商社にしたいんです。人と社会の課題をITで解決することを考えています。 1日の密度を上げると成長の加速度が変わる 当社は社員の採用にあたり、2つのことを大切にしています。それはファン力と陽のオーラがあることです。ファン力がある人は、人に興味がある人だと思います。採用の際に、人事担当が「その人を好きになれるかどうか」を大事にします。好かれる力は、努力次第でなんとかなるものです。人に好かれる努力ができるのなら、他のことに対する努力もきっとできると思っています。  社会に出る前にやっておくといいのは1日の密度を上げることです。ゆとりとか自由とかを言いすぎては、自分の器が大きくならないのではないかと思います。また、多くの人と会って話すことも大事ですね。自分より優秀な人にどれだけ会えるかによって、自分の成長の速度が違ってくると思います。是非、そういう人と交わる時間をたくさん作ってください。 大学生へのメッセージ 「目の前のことで結果を出すのが大事」ということでしょうか。いろんな人の格好いい情報がネットを通じて次々と入ってくる時代です。人の上っ面を真似してもうまくいかない。それよりも、まず自分の目の前にあることを成し遂げること。他のものにチラチラ目移りするのではなく、一つのことに集中して結果を出す。やりきって次に行くことが大事ですね。 学生新聞2019年10月31日より(日本大学4年 山下充良太)

経営者

株式会社エイチームライフスタイル 代表取締役社長 間瀬 文雄

みんなで幸せになれる会社にすること 今から100年続く会社にすること 株式会社エイチームライフスタイル 代表取締役社長 間瀬 文雄 (ませ ふみお) 2007年4月、日興コーディアル証券株式会社(現、SMBC日興証券株式会社)入社。2008年11月、株式会社エイチームへ入社。インターネットメディア事業部で比較サイト事業責任者等を経て2013年8月、株式会社エイチームの100%子会社、株式会社エイチームライフスタイルの設立と同時に代表取締役社長に就任(現任)。2018年10月、株式会社エイチーム取締役に就任(現任)。 大学時代は全力で遊んだという。最初に就職した会社は自分には合わなかった。しかし、そのことが自分を見つめ直すきっかけとなり、その後飛躍的に成長する布石となった。自分に合った仕事が見つかれば、あとは楽しく働くだけで、結果はついてくるという間瀬社長に話を伺った。 大学の4年間は人生において最も有意義な時間だと思っていたので、“全力で遊ぶ”という決心をしていました。サークル活動のテニスは、4年間ほぼ休まずに活動していましたね。メンバーは100名ほど。さまざまなタイプの人がいて、話を聞く能力が身に付いたような気がします。  就職は、日興コーディアル証券株式会社にしました。企業規模も大く、知名度も高い。金融業界なので、若手でも給与レンジが高い、というイメージでした。ところが、入社後、個人の営業成績で最下位になってしまった。これは、人生ではじめての挫折経験でした。そこで、改めて自 分のことを考えたんです。すると自分の根底にあるものは、「人気者でいたい」「皆と一体感を味わいたい」「人に嫌われたくない」という性格だということに気が付いたのです。証券会社の営業では、お客様のご要望にお応えできないことも多く、営業活動を通じて辛い思いもたくさんし ました。そのうちに、自分が心から楽しいと思える会社で 働きたいという気持ちがだんだん高まってきたのです。結局、新卒で入社してから1年程度で退職を決意しました。2008年当時、リーマンショックで景気が減退する中でもIT企業は業績を伸ばし、求人も活発だった。そんなとき、「みんなで幸せになれる会社にすること」「今から100年続く会社にすること」という経営理念を掲げるエイチームに出会ったんです。直感的に「この理念は信用できる。エイチームの仲間になりたい!」と強く思ったことを今でもよく覚えています。 自分の成果を周囲が喜んでくれる環境  エイチームは、仕事の裁量が大きく、自由度が高いところが魅力です。アイデアを提案し、良いものは採用され実行される。成果を出すことに よって、周りのみんなに喜んでもらえる。入社当時は、他人の成果を純粋に喜ぶ社員が多い社風に驚きました。その後、比較サイトなどを運営す る事業部の責任者を経て、2013年に新設子会社であるエイチームライフスタイルの社長に抜擢されました。  エイチームは、さまざまな事業領域においてインターネットを通じて多様なビジネスを展開しています。ビジネス領域を限定することなく、スマートデバイス向けゲームアプリ、ゆりかごから墓場まで、人生のイベントや日常生活に寄り添うWebサービスや自転車EC などを手掛けています。  大きな特徴は3つあります。1つめは、事業領域が幅広いため、さまざまな分野においてキャリアを積むことができることです。2つめは、チームで取り組むため、社員同士がとても仲が良いことです。これは、エイチームが「お互いを認め合うこと」というマインドを大切にしていることにも通じます。3つめ、エイチームはひとつの事業で大きく成長している会社ではなく、年商数十億円規模の事業を複数持つ企業体なのです。企業基盤は安定していながらも、ベンチャー精神を大切にしている会社なのです。各サービスでそれぞれ責任者がいるので、責任ある仕事につくチャンスも多い。一緒に働きたいと思う人材は、現状に満足せず成長意欲が高い人です。また、「お互いを認め合うこと」のできる素直な人がいいですね。素直な人は、自分の意見を素直に言うことができ、周りから注意や助言をされた時に感謝の気持ちを伝えることができて、アドバイスから内省し、改善につなげることができます。 いつも笑顔でいること そうすれば運が向く  私は運がいい人間だと豪語しています。その根本には、「いつも笑顔でいること」「仕事は断らない」ということにあるのです。どんな仕事や頼 み事でも断らない、嫌な顔をせずに笑顔で受けることが「チャンス=運」につながる秘訣ですね。  今後の展望としては、ひとりの人がゆりかごから墓場までの人生おいて、何回かはエイチームのサービスを使っている、という状態にしたい。 そして将来的には、グローバルなサービスを提供していき たいと思っています。 *message * 自分自身を知ることが大事ですね。一番大事なことは、学生の時にとにかくいろんな経験をすること。いろんな角度から自分を知る機会を設けることだと思います。 2019年10月31日学生新聞より(慶應義塾大学3 年 樋口翔大)

人事

カゴメ株式会社 常務執行役員CHO 有沢正人

■プロフィール 協和銀行(現りそな銀行)、HOYA、AIU保険を経て2012年1月、カゴメ株式会社に特別顧問として入社し、カゴメの人事面におけるグローバル化の統括責任者となる。2012年10月より現職。社員の「働き方」ではなく、「生き方(人生)」を重視した改革を行い、社長の年収の社内報での公表や会社幹部の休日の過ごし方の公表、東京本社での農園作り、会社説明会に参加した学生の自宅にカゴメ製品を贈るなど他社に見られないユニークな取り組みを行っている。 ■エントリーシートの書き方と上手なPRの仕方を教えてください。 私はチームで働いた経験があるかどうかを一つのポイントにしています。大学生活、アルバイトなど、今までの人生において、みなさん苦労した経験があると思います。その時にどんな解決策を考えて、どういう行動をしたか、これを起承転結を付けて話すことが大事です。苦労や課題を自分なりにどう考えて立て直したか、チームに対してどう活かせたかまでPRできたら満点です。「バイトリーダーをしていました」「サークル長でした」などの自慢話はいりません。それよりもどんな苦労をして何を得たのかが大事であり、個人の力量でチームにどう貢献できたのか、個人のマーケットバリューに興味があります。具体的な数字、たとえばいくら売上が上がったとか部員を何人増やしたとか、数量的に計れるエピソードがあるとなお良いです。経験談は直近のエピソードの方がいいけれど、大学で経験がなければ高校時代の経験談でも問題ないです。人事側も学生のいいところを見つけようと思ってエントリーシートを見ています。 ■企業が欲しい人材とは、どのような人材ですか? 異なる価値観、異なる考え方、異なるバックグラウンドを持っている人を求めています。いろいろな経験をもった人にきてほしいです。飲食店のアルバイト経験がある人は、お客様のクレーム対応をしている可能性が高いため、個人的には期待しています。苦労=経験値でもあるので、遊びでもよいから何でもチャレンジしてほしいですね。自分の人生の枠を広げることにもなるし、特別なことではなくて、普段の自分の生活の延長戦として考えればいいと思います。最低限のマナー、礼儀、相手の目を見て話す、笑顔で接するなどは、普通に出来ていてほしいです。また、仕事は一人ではなく、チームで協力しながら進めていくものなので、リーダーシップや協調性も大事です。 ■良い企業の選び方とは? 自分に合った企業の見つけ方は? 仕事に関する固定観念は捨てた方がいいと思います。学生は未来のパートナーになるかもしれない大事な人であり、同時にカスタマーだと思って接しています。まんべんなく学生を大事に扱ってくれる会社はいい会社だと思います。また、面接で役職の上の人がどんどん疲れてくるような会社は気を付けた方がいいかもしれません。元気にイキイキ働いているかどうかをきちんと見ることです。だからこそ数をこなすことも大事。はじめからこれと絞らずに、いろいろと見てみること、すぐ決めつけないことですね。また、自分がいいなと思っている会社や業界が周りからどう見えているかを聞いてみると新しい発見があるのでおすすめです。自分が行きたい会社が取引先や他業界からどう思われているのかを聞くことで違った見方をすることができ、視野が広がります。また学生しか本音は聞けないケースが多いです。今のうちにたくさん行動し、いろいろな角度からの意見を聞いた方が良いです。就職した後に役に立つ情報もありますから。自分と波長があう会社を見つけることですね。 ■内定がたくさん取れる人と取れない人の差はどこにありますか? ポイントは2つです。1つめは、自分のことを整理して、しっかり話すことができるか否か。短所は悪いことではなく克服すべきことであり、ポジティブに解釈することです。2つめは、相手にきちんと伝えることができるか否か。フェイス・トゥ・フェイスでのコミュニケーションができるかどうかです。SNSが習慣になっていると思いますが、エントリーシートに書いたことを面と向かって論理的に話せるかどうか。苦労している人や挫折した経験がある人は、這い上がる過程で何かをつかんできます。その結果、コミュニケーションに長けている人が多いように思います。経験が差を生むんじゃないかな。だからこそ、いろんな経験をしてほしいですね。 ■学生へのメッセージをお願いします。 可能性をもっていない学生はいない。リーダーシップをもっていない学生もいない。今の自分は、自分で思っている以上に素晴らしいものだから、それを信じて就職活動にあたってください。自信をなくすこともあるかもしれないけれど、決してへこたれることなく、「自分はできる!」と自分を信じること。ただし、慢心につながらないようにね。必ずみんないいところを持っているし、必ず波長の合う会社があるから心配しないことです。最後に、顔色が悪い学生を採用したいとは誰も思いません。健康とスケジュール管理も大事なポイントです。就活するにも仕事するにも、まずは体と心が健康じゃないといけません。 学生新聞2019年10月号 専修大学3年 山崎 蓮/駒澤大学3年 安齋英希

経営者

株式会社スプリックス 代表取締役社長 常石 博之

個別指導塾ナンバー1の強さと信頼の秘訣とは! 株式会社スプリックス 代表取締役社長 常石 博之(つねいし ひろゆき) 広島県出身。慶応大学経済学部卒業。1994年4月、株式会社三菱銀行(現株式会社三菱UFJ銀行)入行。2004年3月、株式会社スプリックス取締役就任。2007年12月、株式会社スプリックス取締役副社長就任。2018年12月、株式会社スプリックス代表取締役社長就任(現任)。座右の銘は「仁義」「武士道」。 個別指導塾業界トップの森塾を経営するスプリックスの常石社長にお話を伺った。意外にも特にやりたい仕事もなかったという常石社長だが、人との出会いを通じて向かうべき仕事の方向性を見つけ、いかにして業界No.1の企業のトップになったかを語っていただいた。 はじめに私のパーソナリティについて話しをしますと、実はもともとコミュニケーションが苦手で、劣等感が強かったのです。ただ、その反動でしょうか、人に嫌われたくないとか、誰かの期待に応えたいという気持ちが強かったので、無理してリーダッシップがあるように振る舞っていた学生時代でした。中学で慶應に行くと、経済的な劣等感も加わって、相当無理をしてかっこつけようとして、その結果、文武両道を目指していました。 もともと得意だった勉強だけを前面に出しても好かれないだろうと思ったので、当時花形だったラグビー部に入り、高校、大学ではアメフトに転向し、相応の成績は収めましたが、かなり無理をしていましたね。就職するときは、お恥ずかしい話なのですが、なんとなくかっこいいとか、両親が喜ぶだろうとかいった理由で、当時、就活ランキングでトップだった三菱銀行に入りました。 ビジネススクールでの運命の出会い 銀行員時代、あるビジネススクールで、私は森塾の創業者である平石さんと出会いました。当時は、新潟県で塾をやっている、中小企業の社長という感じの方でした。「生徒の成績が上がらなかったら、授業料返したほうがいいよね?」というようなことを言うピュアな方でしたね。そんな平石さんが、私に、向かうべき目標を示してくれたのです。 当時の私はビジネスを通じて何かを成し遂げようというようなリーダーシップはなくて、銀行で周囲との競争に勝つことしか頭にない人間でした。何かに向かって行くという思いはなかったのですが、平石さんがピュアな「べき論」を語っているのを聞いて、目標を持って、それに向かってやるのはいいなと共感して、ジョイントさせてもらいました。 ただ、残念ながら、塾は優秀な学生が第一志望にする業界ではありません。しかし、教育は素晴らしい仕事なので、鉄鋼や自動車、ITなども大事ですが、教育こそが国家の根幹だと思いますので、優秀な人こそが目指して欲しい業界です。今後は、ビジネスモデルをさらに磨き上げて、働いている人のお給料も十分なものにし、海外にも進出していきます。海外でも、“I Know SPRIX”と言われるような会社にしたいと思っています。 差別化はシンプルに ニーズを追求すること 他塾との差別化については、まずはシンプルにお客様のニーズを追求していくことですね。塾にお子様を通わせる保護者の方のニーズは、「成績を上げてほしい」「楽しく通わせてほしい」の2つです。これがトップだということは、データによって明確にわかっています。 他の塾では、思考力・判断力・表現力の養成といった、お客様の直接的なニーズではない要素に注力するケースもあるのですが、私たちは顕在化している顧客のニーズの「ど真ん中」をシンプルに追求しています。その結果、森塾では一教室平均で300人以上の生徒さんがいます。これは、他の塾の教室の数倍の規模になります。また、顧客のニーズに応えるために、森塾では指導について、教え方の統一が徹底されていて、どこの教室のどの先生でも同じ指導を再現できるようになっています。具体的にはオペレーション・コントロールという手法になります。これにより、マニュアル化せずに、人の動きをコントロールすることができるようになりました。 経営では当事者が本当にそのビジネスが好きであることを大事にしています。ターゲティングや計画がどれだけしっかりしていても、自分たちの「思い」がないと細かい部分で難しくなってきます。そのため、スプリックスでは新規事業すべてについて、その分野でナンバー1にならなければ撤退するという条件があるのですが、たとえいくら儲かるビジネスであっても、「教育」という分野から外れた事業には今後も絶対に参入することはありません。 大学生へのメッセージ すべての学生さんに、「どんまい!!」って言いたいです。今は、学生のうちにやりたいことがないとダメみたいに言われています。教育の世界でも、まず目標を定めて、それに向けてマイルストーンを定めていく、という考え方がありますが、私は、全部がそういった考え方が前提でなくてもよいのかなと思います。もし、私のようにやりたいことが見つかれば、ラッキーだと思うくらいでいいと思っています。 学生新聞2019年10月31日(東京大学3年 三木智弘)

学生新聞インターン

エン・ジャパン株式会社 代表取締役社長 鈴木 孝二

働く人の意識を変えることで 企業が変わり、社会が変わる! エン・ジャパン株式会社 代表取締役社長 鈴木 孝二 (すずき たかつぐ) 1971年愛媛県生まれ。大学卒業後、エン・ジャパンの前身である株式会社日本ブレーンセンターに入社し、採用、教育・評価の各事業ドメインでコンサルティング業務に従事。2000年1月、エン・ジャパン株式会社設立と同時に取締役営業部長に就任。設立1年半での上場や設立以来の増収増益など、会社の急成長を最前線で牽引する。2008年3月、常務取締役、同年6月より現職。 多くの求職者の仕事人生の充実、人材の活躍・定着によるクライアント企業の業績向上を追求するエン・ジャパン。同社代表取締役の鈴木さんは「やりがいを持って仕事に取り組める人が増えれば、社会も変わる」と話す。自身の強烈な原体験から、同社への入社を決意したという鈴木社長に 人材について話を伺った。 大学で気付いた仕事で工夫する面白さ 大学で気付いた仕事で工夫する面白さ大学時代は、映画鑑賞とアルバイトに明け暮れていました。映画は、年に数百本は観ていましたね。特にフランス映画が大好きで、この頃は、映画監督になりたいとさえ 思っていました。 飲食店でのアルバイトには、かなり真剣に取り組んでいました。自分なりに工夫して仕事をするようにしていましたね。たとえば、天気予報を見てビールの仕入れ量を変えたり、おかわりの声がけのタイミングを見計らったり……。ただ作業をこなすのではなく、日々、「売上の記録を作ろう!」と思って、細部にまでこだわったサービスを心がけた。そうしたら、リピートで来てくださるお客様も増え、お店の売上も上がり、社員の人にも認められました。 たとえもらうお給料は変わらなくても、自分で試したことがお客様の笑顔やお店の売上に反映されていくことにやりがいを感じましたね。現在の仕事のマインドにも通じている経験です。 就活で出会った「社会を変える仕事」 最初はマスコミ志望でした。新聞社などを中心に就職活動をしていたのですが、狭き門で、難航していました。そんな中、届いたのがエン・ジャパンの前身、日本ブレーンセンターからの案内でした。参加してみると、当時社長だった越智(現エン・ジャパン会長)本人が大きなビジョンを直接語ってくれました。その姿に感動し、入社を 決意したんです。また、「人材領域の仕事に魅力を感じたから」ということも、大きな理由です。 私の出身地は造船の町なのですが、ある時、不況のあおりで造船業が傾いたことがありました。多くの大人が仕事を失い、町全体が荒んでしまったのです。この強烈な原体験があったので、越智の話は鋭く心に刺さりました。仕事にやりがいを感じる大人が増えれば、その背中を見て育つ子どもたちも、仕事への意識が変わる。そうして、社会も良くなっていく。これは今でも私のモットーとなっています。 意識が変われば人生も社会も変わる 「自分にあった仕事がわからない」と質問をいただくことがあります。私は、何をするかではなく、どんな意識で取り組むかが重要だと考えます。 たとえば弊社では、仕事において大事にしている2つの価値観があります。自身の仕事を通じて、社会をより良くしていこうという〝インナー コーリング〞。そのために一生懸命に仕事に取り組もうという〝ワークハード〞です。この価値観は、実際に当社のサービスにも反映されていま す。それが転職サイト『エン転職』の「貢献検索」。誰に対してどんなふうに役に立ちたいのかで仕事を探せる機能です。業界のトレンドや、世の中の動きは目まぐるしく変わっていきます。だからこそ、自分が人に何を提供できたときに嬉しかったのか、を軸に仕事を考えてみることも必要です。それこそ就活でも、はじめから業界などを絞らず、できるだけ多くの企業を見たほうがいいと思います。 弊社は、人材業界をもっと尊敬される業界にしていきたいと考えています。そのために掲げているのが「入社後活躍」という言葉。転職を繰り返す人を増やすのではなく、本当にその会社で活躍できる人をフィッティングし、多くの仕事人生の充実、企業の発展を応援したいのです。そのために、テクノロジーも活用しながら、より質の高いサービスを社会に提供し続けたいですね。 *message* 今の若い人たちは、デジタル・ネイティブの中で過去の価値観にとらわれず、新しいものを生み出していく発想を持っていると思います。 私は、それはある意味、チャンスだと思います。せっかく先進的なベースがある時代に生きているのですから、若者にしかできない発想とアイデアで、チャレンジしていってほしいですね。「安定していそうだから」とか、「休みが多いから」などの理由で就職を決めるのはもったいないです。世界は広く、すごい人はたくさんいます。今の自分の世界が全てと思わずに、海外へ行ってみるなど、ぜひ学生のうちにさまざまな経験をしてください。 学生新聞2019年10月31日号より(慶應義塾大学4年 小川淑生)

芸能人

深田恭子 一日一日を大切に、充実した日々を送り、それが未来に繋がって...

<プロフィール> 深田 恭子 (ふかだきょうこ) 1982年、東京都生まれ。第21回ホリプロタレントスカウトキャラバングランブリ受賞から芸能界の道へ。ドラマ「FIVE」でデビュー。女優、歌手、タレントとして活躍中。ネイルクイーンやブルーリボン賞など、数々の賞も受賞。 「私と恋におちて」という言葉を発端に展開していく映画『恋愛戯曲~私と恋におちてください。~」。この映画の主演女優として、一人三役をこなし、輝いている深田恭子さん。デビューから14年。女優としてさらに成長された印象を受ける。「学生キャリア新聞」では、学生ならではの視点から深田さんに質問をぶつけてみた。 「私と恋におちて」から始まる恋愛 映画『恋愛戯曲~私と恋におちてください。~』は「恋におちて」というセリフをきっかけに進む異色のラブストーリー。 ファンタジー、コミカルさ、リアリティ……といった要素の高次元でのバランスが映画らしい映画という印象を与える。 深田さん演じる人気脚本家 :谷山真由美が椎名桔平さん演じるテレビ局のドラマ制作担当に冒頭のセリフで仕掛ける “強制恋愛”について深田さん個人は「ナシ、ですね (笑)。この二人にはあった話であって、“強制恋愛”という言葉があると、みなさんに強制してしまう気がして。その言葉からはじまるというと、その言葉通りになってしまうと思うので、後付けでならあっていい言葉だと思います」と語る。 だが “強制恋愛”はやがて本物の恋愛に変わっていく。その過程の描写は印象的だ。 また、劇中で深田恭子さんは、人気脚本家(谷山真由美)、セレブ作家、地味な主婦の三役を演じているのも見所。観ているわれわれは「誰が本当の深田さんに近いのだろうか」と素朴な疑問が湧く。今まで深田さん演じてきた中で、自分本来の性格と似ている役はあるのだろうか? 「いつも役を演じる時は、似ているところを探して演じるのではなく、役をそのまま演じるようにしているので、共通点や共感する部分はなくてもいいかな、と思います」 さすがプロ! 深田さんが三つのキャラクターを演じているのもこの映画の魅力の一つだろう。 “恋”か“仕事”を選ぶなら 普段出演されている映画やドラマでは恋する女性の役が多い印象の深田さん。個人としては“恋”か“仕事”なら、どちらを選ぶのだろうか? 「生活ができるなら “恋”ですね。でも、生活ができるという仮定がないなら、やはり仕事を選びますね。私は自分が一番大事なので、仕事と恋愛、両方に打ち込めるのはうらやましいです。谷山さんは恋をしながらお仕事も、っていう彼女なりのバランスがとれているのかな、と思いました」 人気脚本家・谷山真由美は、恋を自らの仕事のエネルギーに変換するタイプの人間。だが、人気作家ゆえか、周囲は谷山のわがままを容認し、神経をすり減らせる。その谷山真由美のキャラクターについて深田さんは「仕事をする上では、谷山さんのように人にあたったり、大声を張り上げたり、イライラしないことを第一に考えていますね。ストレスは、一回発散しちゃうと我慢できなくなってしまうんじゃないかと思うんです。また、もうひと山乗り越えれば穏やかになれるのかと感じました。私の場合は、なるべく穏やかにいるように心がけて、素敵な30代になろう、と思っています」と、自分の未来に重ね合わせながらのコメントをくださった。 「自分磨き」と「ポジティブ思考」 仕事も恋愛も頑張る女性が増えている中、深田さんが自分磨きのために実践していることは、「悲しい気配がある方向にはなるべく行かないこと」だそうだ。「楽しい人がいる方向、ここに行ったら楽しそう、という方向に行って、自分を笑顔にしてあげるようにしています。悲しいことばかり、嫌なことばかりがあると口角が下がってきてしまうと思うので。笑ってばかりいるとほうれい線ができてしまうとわかってはいるのですが、なるべく日々笑顔でいたいです。立ち向かわなきゃいけないこともありますが、自分から楽しい方向に向かっていくのがいいんじゃないかな、と思いますね」  ちなみに深田さんのヘコんだ時の回復法は、「聞こえはよくないのですが、最初からすべてに諦めることです。期待をしない=ゼロの状態なので、ほんの小さなことでも嬉しく感じたり、何でもプラスにとらえられたりするんです」 学生時代の自分を振り返って 学生にとっては、少し上のお姉さんにあたる深田さん。最後に示唆と愛情にあふれたメッセージをくださった。 「お父さんやお母さんの言うことをよく聞いて、たくさん親孝行してください。また、この映画を通して、お仕事を頑張る女性や恋に臆病になっている人たちに力をわけてあげられたらいいなと思います。この映画はいろいろなエピソードが出てくるので、どこかしらで共感していただけると思います。私自身、目標を作るのはあまり好まないので、あえて作らないようにしています。一日一日を大切に、充実した日々を送り、未来につながっていったらいいなと思います」「日々の充実が未来を作る」自然体の深田恭子さんから出た言葉が私たちの心に深く響いた。 学生新聞2010年10月号より

芸能人

横山 剣 やりたくないことでも、やると決めたら最後までまっとうする

<プロフィール> 横山 剣 クレイジーケンバンド。1960年生まれ。神奈川県出身。クレイジーケンバンドのボーカル。ダブルジョイレコーズ代表取締役。10代の頃よりさまざまにバンドで音楽活動を続け、1997年クレイジーケンバンドを結成。2002年シングルGTで広く注目を集め、同年、タイガー&ドラゴンが大ヒット。‘東洋一のサウンドクリエイター’と称し、さまざまにアーティストへの楽曲提供なども精力的に行っている。キメ台詞は「イイネ!」 さまざまな音楽の要素を盛り込み、色鮮やかな楽曲と、自由奔放かつ独特で、心にグッとくる歌詞でマニアだけでなく多くの人々を魅了するクレイジーケンバンド。懐かしくも新しい音楽を生み出し続けるバンドの中心にいるのは、バンドのボーカルを務め、誰よりも真摯に音楽へと向きあう‘東洋一のサウンドクリエイター’横山剣だ。 文句を言われない自給自足の音楽活動 「結成当初は仕事と並行して活動していましたが、決して楽ではないものの、みなさんが思うほど苦ではなかったんですよ」1997年に本格的な活動がスタートしたクレイジーケンバンド。お話をうかがった横山剣さんを中心に友人や仕事仲間が集まり結成された。 「文句を言われないように、誰にも頼らず、他の仕事をしながら自分たちでバンドを支援して活動していました。でも仕事以外の時間で音楽活動をしていたので、なかなか睡眠時間を確保できなかったですね(笑)。体力的にはきつかったのですが、苦しいというよりもむしろそれを楽しんでいました」しかし苦しいものではなかったとは言うものの、その道は平坦ではなかったと言う。「最初、僕らの音楽はなかなか認められませんでした。やっぱり何をするにしても、甘くはないですよね。音楽っていろいろな言い訳ができると思うんです。全然売れていなくてもとりあえず自分でスタイルを作ってしまえば、それでバンドや曲が確立したと言うことができる。でもスポーツだと、結果が出ないとダメですよね? 音楽も同じです。アスリートのように結果を出すという意識を持って、妥協せずにやっていくのが好きなんです。もちろんアーティストなので、残念ながら思っていたような結果がでなくても、活動を続けていけるのですがそれでも好きでいてくれるファンや支えてくれるスタッフにはいつも感謝しています。その想いにあぐらをかいて天狗になってしまわないように注意しながらね」 横浜と早熟な少年 横浜のイメージが強い横山さんは、ずっと横浜で暮らしていると言う。「高校は、東京にある学校へ通っていたんですが、そこの友人が横浜のことをすごくほめたり、あこがれの眼差しで見ていたんですね。実際に住んでいるとわからないものですが、横浜の外に出るとその良さが改めてわかりました。そうして僕の『浜っ子』意識が強まりました。今も横浜から東京へ通っているんですが、その途中で新しい曲のイメージが沸いたりすることもありますし、横浜が持つ独特の雰囲気から曲ができることもあります。自分にぴったりハマる地元横浜は生活の場としてだけでなく、音楽にも強く影響している場所ですね」高校時代と言えば、横山さんは以前、不良だったという話がありますが? 「そうそう(笑)。でも “非行”少年じゃないよ! 今にして思えば、僕は、早熟だったのかもしれないね。昔から常に目標を持って行動していて、その目標のために学校を休んだりして。やんちゃだったかもしれない。でも、当時の僕は、周りから見ると道を踏み外しているように思われていたけど、それは目標を持って行動している結果であって。言うことを聞かない不良少年だったけど、悪いことをする非行少年ではなかった。この学生時代の経験で、僕はサザエさんに出てくる波平さんのような 真面目な大人”の大変さや難しさを知ることができた。音楽に関わる仕事をしたいと大人に交じっていると、学生の僕も大人と同じく真面目にならなければならない。だから僕は世のお父さんをリスペクトしてるし、そのための曲も作ったんです」 夢はグラミー。挑戦はこれからも続く 「やりたくないものはやらないでもなかなかそうはいかないものですよね」クレイジーケンバンドが結成される前から20年以上にもわたり音楽活動を行ってきた横山さんは、その中で必ず貫き続けていることがあると言う。 「やりたくないことでも、やると決めたら最後までまっとうすること。格好悪い仕事でも、それを格好良いものにするんだ、という意気込みでまっとうすること。アイデアを駆使して車みたいに仕事を改造してしまえばいいんです。格好悪くなるようなことも、アイデアをどんどん提案していけば、その案が通り、結果として格好良い仕事になったこともたくさんありました」 今年で50歳になる横山さんだが、その挑戦はまだまだ続く。 「国民的な大ヒット曲を作りたいですね。誰もが一度は耳にしたことがある名曲を作りたい。そして、これは夢の夢の夢だけど、最終的には、グラミー賞の作曲賞なんて獲れたら最高だよね。そのためには、これからもチャレンジしていかないと」 「学生のみなさんへ。自己中心的にならず、人の痛みが分かる人間になってください。そして未来を憂うことなく、また過去の失敗や栄光に捕らわれないでください。足下を見て、余計なことを考えず、今この瞬間を ‘スパーク”するようにしてください!」 学生新聞2010年4月号より

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長澤まさみ 演技には正解というものがない。それでも努力して真剣に向き合...

<プロフィール> 長澤 まさみ (ながさわまさみ) 静岡県出身。1987年生まれ。2000年第5回東宝「シンデレラ」オーディションにおいて史上最年少の 12歳でグランプリ受賞。 同年公開の「クロスファイア」で映画デビューを果たす。 代表作には「ロボコン」「世界の中心で愛を叫ぶ」「涙そうそう」「ラストフレンズ」などがあり、日本アカデミー賞 最優秀助演女優賞 話題賞など数々の賞を受賞。 映画のみならず、ドラマ、 CM、 声優など幅広く活動を行っている。現在、NHK大河ドラマ 「天地人」 に出演しており、11月21日には主演を務めた映画「曲がれ!スプーン」が公開される。 明るく元気。いつも笑顔で輝いている-長澤まさみさんにはそんなイメージがある。しかし、実際お会いしてみて印象は180度変わった。若くしてすでに女優としてのキャリア10年を誇る彼女は、まさに「仕事人」。彼女の中に秘められた俳優というキャリアに対する想いが取材をする我々にひしひしと伝わってきて、同年代として、人として、大いに触発される取材となった。 共演した人はお手本であり、憧れ 2000年第5回「東宝シンデレラ」で史上最年少の12歳でグランプリ受賞をした長澤まさみさん。だが、当初から彼女は俳優になりたいと思っていたわけではなかった。 「ファッション誌を見るのが好きで、モデルになることに憧れていました。その当時、受けたオーディションが女優業を中心とする事務所主催のもので、合格した時には作品に出られるという特典がついていたんです。興味本位で初めて映画に出て、『楽しい』という気持ちと『一度始めたら中途半端にできない』という気持ちから続けていこうと思いました」 一度経験してみて、この職業に惹きつけられた長澤さん。俳優という職業は魅力的だったのだろうか? 俳優という仕事の魅力について尋ねてみると…… 「(俳優の魅力は)経験できないことを経験させてもらえることですね。やっぱり普段の生活ではできないことをお芝居の中では実現できるので、いろんな役柄や仕事に挑戦することができる。女優という仕事にはそういう魅力があります」  彼女のマルチな活躍ぶりも納得できる。俳優という仕事を通して、他では絶対にできないことを十分にやろうという気構えがうかがえる。また、演技を磨くうえで共演者から学ぶことも多いようだ。  「今までに共演した俳優さんには、年齢を間わず皆さんがお手本になることがあります。良いところを真似して伸びたいという気持ちが強いので、一緒に共演した人はお手本だし、憧れですね」 自分から行動を起こさないと社会は何もしてくれない。自分でやらなければならないことが増える分、自分で感じられることが多くなる。 これまでの発言で演技を磨くことに対して強い意志がうかがえる彼女。いくつもの作品に出演される中、演技以外にも学ぶことはたくさんあるという。  「人とのつながりを大切にするようになりました。周りの人に支えられているおかげで自分は演技ができるし、映画やドラマでは多くの人が協力して一つの作品を作っている。そのことから日々、家族や友人の大切さを学びました。若い頃から大人の中で生活していくと精神的に強くなります。普通だったら見えないやさしさや周りの人の助けをより直に感じられるようになりました。自分から行動を起こさないと社会は何もしてくれない。自分でやらなければならないことが増える分、自分で感じられることが多くなっています」 俳優としてはもちろん、人間的にも成長を続けている長澤さん。11月21日 (土)には自身が主演を務める映画『曲がれ!スプーン』が公開される。長澤さん扮する超常現象バラエティ番組のAD(桜井米)が、本物のエスパーを探しに全国を旅し、そこで偶然出会った正体を隠して暮らすエスパー達と繰り広げられる「シチュエーションコメディ」だ。長澤さんもこの映画について、「この映画には夢や希望がたくさん詰まっています。子どもには夢を持つきっかけになるといいし、大人にも夢を持ち続ける勇気や大切さを感じてもらいたい」と話す。  今後の目標については、「今まではいろいろなことを経験させてもらいましたが、やはり女優をこれからも続けていくことです。何度も同じ事を繰り返し長い時間をかけて一つの作品を一作り上げていきますが、それを何年も続けてゆくことは大変なこと。そうなれるよう、いつまでも真剣に演技を向き合っていきたいです」と話してくれた。 時間を有意義に使い、自分の興味のあることに突き進んでもらいたい 12歳から芸能界入りし、その後、親元を離れた生活を続けてきた長澤さん。「私は大学に行かなかったのでキャンパスライフに憧れました。学生の方には時間を有意義に使ってもらい、自分の興味のあることに突き進んでもらいたいですね。暇な時間をなるべく作らないようにして、いろいろと勉強してほしいです。私は行動に移す時間の方が多かったので、これからは自分の時間を勉強に当てたい。時間を無駄にせず有意義に過ごしてほしいですね」と学生に向けてのメッセージをくれた。 取材中は常に冷静、淡々とインタビューに応じてくれ、取材中、我々にまで気づかう姿勢を示した長澤さん。その堂々とした姿からは俳優として生半可ではない決意が見て取れる。人一倍、感謝と責任を感じ、演技という果てしないものに真剣に立ち向かっている彼女。笑顔とは対照的に心に秘められた演技への強い意志が感じられた。 学生新聞2009年10月号より

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矢沢永吉 衝撃に出会えるかどうかで人生は決まる。

<プロフィール> ミュージシャン 矢沢永吉(やざわえいきち) 広島県出身。1949年生まれ。 「I LOVE YOU.OK」でデビュー。プロデューサーとして自身の多くのアルバムを手がける。俳優として映画やドラマの主役を務めたこともあり、CM出演も多数にのぼる。デビュー以来毎年続けていたライブツアーを、昨年36年日にして初めて封印したが、今年9月に60歳を迎えるにあたり、その記念企画の一環として東京ドームでライブを行う。公演タイトルは直球勝負の「ROCK’N‘ ROLL IN TOKYO DOME」。その後、2ヶ月に及ぶツアーが始まる。「学生も1回見に来た方が良いよ」と矢沢。 「泣いてしまうくらいの衝撃を受けた。『これだ!』って思った」大物ロックスターと言われる「矢沢永吉」の歴史は、ビートルズに出会った7歳の時から始まった。「この出会いはチャンスで、その先にはダイヤモンドがあると思った。高校3年生の時にはもうアーティストになるつもりだった」。夢をがむしゃらに追いかけ実現し、常に輝きを放つ大物に話を聞いた。 「(仕事は)働くという感覚でやっていない。ただ、ひたすら上に行きたかった。毎日必死でずっと走っていた」。矢沢さんにとって働くとは?”という問いに対して、少し考えてからこう話した。「“働く”って何?」と言わんばかりの表情で。 ずっと走り続けてふと後ろを振り返った時、ゴール地点はすでに後ろにあった ロックシンガーという夢を抱いた矢沢は、高校を卒業すると夜汽車に乗って上京した。 オーディションは絶対受けよう。人前で歌ったら度胸がつくし練習になる」そう考えた矢沢は、仲間が出来るとすぐにディスコのオーディションを受けた。一回目は失敗に終わったが悔しさから猛練習。二回目、クラブのオーディションで一ヶ月契約を交わした。「5曲しかレパートリーがなかったのに『俺たちハマ(横浜)でパリバリやってるんです!』と言って受けさせてもらった(笑)ガタガタのバンドだったし、嘘をついたのはばれていたね。でも、エネルギーに惚れてくれた」さらにその時、交通費として一万円をもらった。ロックシンガーとして初めてもらったギャラに喜びを隠せなかったという。余ったお金でコカコーラとインスタントラーメンを買って仲間と祝った矢沢。「あの時の味は今でも忘れられない。『ここから始まるんだ!』と思った」 常に本気で走っていた。レーコードデビューをしても、「ずっと不安で、俺はどうなっちゃうんだろう?と思っていた」。だからこそ走り続けた。スタートし出した20歳の頃、当時付き合っていた女性に、「そんなに走らないで。私も一緒に行くから」と言われても。次第に彼女の声が聞こえなくなっても、走り続けた。とにかくがむしゃらで周囲の人に、「もう大丈夫、安全な位置にいるよ」と言われても信じなかった。 やがてその声さえも聞こえなくなり、ふと立ち止まって後ろを振り返った時、「誰もいなかった」と矢沢は言う。「ゴール地点はすでに後ろにあった。自分の夢を通過していた」。大物ロックスターはその時、「ゆっくりあぜ道を見ながら、自分の音楽をかみ締めるのも良いな」と感じたという。 ビートルズに出会い、大きな一衝撃を受けた矢沢は、子どものような生き生きとした目で話す。「衝撃に出会えるかどうかで人それぞれ人生が決まる。僕はスコーン!と抜けるような衝撃を7歳のときに感じられた。こんなに素敵なことはない」 “繰り返し“が矢沢ライブを確立させた。繰り返すことが大切なのはどの仕事でも同じ 矢沢にとってステージ(ライブ)とは「表現する場所」だという。「どうやったら一万人の観客をぶっとばせるか、常にアレンジや演出を考えている。だからこそ自分の予想通りに観客がはまった時は嬉しい」。さらに矢沢独特の表現でこう付け加えた。「一番幸せに感じるときは、最高のステージをした後のシャワー。その繰り返しで矢沢ライブが確立した。繰り返すことが大切なのはどの仕事でも 同じ。『繰り返し is GREAT』!『GREATなマンネリ』!」 矢沢は “繰り返し“を重ね、気づけば今年、ロック歌手5年目を迎えた。 8月5日には 4年ぶりのアルバム、ROCK’N’ROLL、 を出す。このタイトルにした理由は「敢えて直球で行きたかったから」。「これまで俺は日本でも世界でもバカバカやりまくった。やるだけやって5、6年前、『何か大事なものを忘れてきたんじゃないか?』と思った。それで一旦レコード作るのを止めたんだ」。 今、答えは見つかった。「作り手は、良いドラマーやギターリストに先に目が行くけどリスナーはそうじゃない。大事なのは直球。わかりやすいロックをしたいね、直球で行きたい」 60歳を迎える9月には、20年ぶりに東京ドームで公演。そしてその後は2ヶ月に及ぶツアーが待っている。今後の目標を問うと、「12月に(ライブを終えて)ものすごく気分良くクリスマスを迎えること」と、遠くを眺めながらもはっきりと答えた。 大学は社会に出るための予行練習 高校卒業後、ロック歌手を目指してすぐ社会に飛び込んだ矢沢。「大学は社会人になるための予行練習。社会と大学は全く別の顔をしていると言っても過言ではない」と言い、こう学生にメッセージを残した。「大学4年間、大いに謳歌してもらいたい。でも卒業後、社会とのギャップを後で感じないように覚悟決めて、ふんどし締めて4年間ばっちりやりなさい」 近寄りがたい印象があった「矢沢永吉」だが、今回の取材でそれは一掃された。大物ロックスターにも関わらず学生相手に終始、対等に話をしてくれ、また体全体で感情を表現しながら質問に答える姿からは、誰よりもまっすぐで熱い心を持った人なのだと感じられた。 還暦を迎えようとしても、ビートルズに出会った時の感動を今なお持ち続けている男のパワーは衰えることを知らない。 学生新聞2009年7月号より      

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松任谷由実 目の前のことを一生懸命にクリアしていく。 若い時に培った姿...

<プロフィール> 松任谷由実 (まつとうやゆみ) 東京都生まれ。1972年、多摩美術大学在学中、シングル 「返事はいらない」で旧姓荒井由実としてデビュー。1976年、松任谷正隆と結婚し、松任谷由実に。 代表作に「卒業写真」 「Hello,my friend」 「春よ、 来い」 他多数。 2007年、シリーズ最終章であり最高傑作となる 「SHANGRILA I」(全国6大都市 38 公演 30万人動員) を開催。 「SHANGRILA」史上最高と賞賛された。 「ユーミンって呼んでね」という一言で、和やかなムードから始まった取材。マリンルックが可愛らしくて、パワーと表現力の豊かさを肌で感じさせてくれる。常に第一線で輝き続ける彼女の秘訣とは。 どういうルートを通っても”表現”ということでは一緒 14歳でプロとして活動を開始、7歳の時にシングル『返事はいらない』で旧姓·荒井由実としてデビュー。一方で、 当時は多摩美術大学で日本画を専攻する大学1年生だった。 「絵か音楽の道に進むだろう」。幼い頃から、そう思っていた。普通にOLになって、結婚して、主婦になって…ということが、子どもの頃から全く想像できなかったんです」。 中学生になり洋楽に本格的に目覚めると、イギリスのロックバンドであるブロコル ハルムの影響を受け「自分で曲を作ってみたい」と強く思った。当時のイギリスのロックバンドは、驚くほどアートスクール出身の人が多い。「絵の学校へ行って音楽やるのってカッコイイ!」と感じた。だが、両親は音楽をやることに反対。「クラシックをやって音大に行くのならいいけれど、訳のわからない音楽はダメだと。ただ、絵だったら、家が染色業を営んでいたこともあり、日本画での進学は許されたんです」 学業と仕事の両立は大変だった。「週に1度は、作品の公表会というのがあって、月に1度は、教授も来られての教授会というものもありました。なかなか提出できないことも多かったのですが、友達の力を借りてなんとか単位を取る事はできました。先生から見たら、自分で書いてないことはバレバレでしょうけど (笑)」。ただ、この時に教授だった日本画家の加山又造先生の言葉が、後々 “表現者”である彼女の力になっている。 「当時から巨匠であった加山先生でしたが、さすが言うことが一違うなと感じました。『荒井さんはレコードを出したみたいだけど、それも”表現”だから。次の公表会では、そのレコードを持ってきなさい』と言ってくれたんです。自分の中で、どういうルートを通っても”表現”ということでは一緒なんだと感じました」 変化した自分が、また新しいモノに出会うことで、新しい境地に行ける作品を作る際は、”意識”して書くことと “無意識”で書くこと、どちらも平行している。「ただの街歩きもすごく好きです心の中に入っているものを引き出して、目にしたものを組み合わせて形にしています」と、ユーミンらしい “表現”で答えてくれる。「なるべく言葉に置き換えようとしています。そうすると自分でも覚えておけるから」。きれいな夕日を見たら誰かと共有したい、そうするともっと美しく感じる。「そんな気持ちが一番の“書きたいというモチべーション”に繋がっているんじゃないかな」。 常に変化を求めて作品を作り続ける。「未だにしょっちゅう納得するんです。言葉とも限らず人物とも限らず、本や映画……接するもの全てがちょっとずつ自分に変化を与えてくれています。そんな変化した自分が、また新しいモノに出会うことで、新しい境地に行くことができるんです」。 その都度”抜けた”から。このエネルギーで走り続けてきた そんな彼女の、輝き続ける秘訣とは。「今まで色んな局面がありました。訳のわからないうちに売れてブームになって、そのまま20代ですぐに結婚。必死になって曲を作ってツアーをやってという時期と、少しだけ見晴らしがよくなって、冒険してみた時期もあります。まだ誰もチャレンジしていない演出にも作品にも常に挑戦してきました」。 ありとあらゆる作品を世に出してきた。もうこれ以上のことをしなくても、誰からも文句は言われない。「ただ、作らないと腐っちゃう。 生きてはいけない人間なんです」と言う。「ここまでやってこられたのは、その都度 “抜けた”から。この“抜けた”エネルギーで走り続けてきた。毎回ハードルを倒していたら、走れなかったかもしれない。今回のアルバムでは、特に抜け感。を感じられたんです。これが一つの転機になり、これからもっとやっていけるな、そう自信になりました」。音楽、そして学生時代を通して、わかったことがある「部活でも、単位を取ることでも、目の前にあることを一生懸命クリアすることじゃないかな。その時は、将来の自分と違うところにいるように思うかもしれない。でも、そうすることで価値観は変わっても、若い時に培った姿勢は変わらないもの。社会や今の自分がどんな位置にいようと、何事も前傾姿勢を保って取り組むことが大切だと思います」。 学生新聞2009年4月号より

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HIRO 日々のやりたいこと・想いの詰まった1年… それが PERFECT YEAR

<プロフィール> HIRO (ひろ) 1969年6月1日生まれのAB型。1990年ZOOとしてシングル「ケアレス・ダンス」でデビュー。 1996年ZOO解散後、1997年「J Soul Brothers」を結成。2001年夏、「J Soul Brothers」から「EXILE」と改名する。 2001年9月27日「Your eyes only〜曖昧な僕の輪郭〜」でデビュー。 EXILEのパフォーマーでありリーダーとしてグループを引っ張る傍ら、所属事務所LDHの社長としても活躍。 今年はEXILE PERFECT YEAR 2008と題し、ベストアルバム3枚リリースなどの企画を盛り込んだEXILE色満載の1年となっている。 7月23日にはベストアルバムの2枚目にあたる「EXILE ENTERTAINMENT BEST」が発売。 パフォーマー、リーダー、そして社長である自分。 EXILEのパフォーマーリーダーであり、事務所社長でもあるHIROさん。同時に複数の役割をこなす上で難しい事はありますか? 「自分たちの好きなことを突き詰めてく中で今に至っているので、いろんな人に出会っていろんな事を経験して、スタッフも僕も一緒に成長してきた感じですね。辛さの乗り越え方もわかるので。辛いというよりそれをエネルギーに変えて前に進んでいっている感じです。だからパフォーマー、リーダー、社長という分け方はあまりしていません。 PERFECT YEARと題し、ベストアルバム3枚リリース・劇団EXILE・アニメエグザムライ・月刊EXILE創刊・そして5大ドームツアーと盛り上がっていますが、これらの企画のきっかけは何ですか? 「常にEXILEの事を考えていく日々の中で、エンターテインメントの幅を更に広げて、新たな可能性にも挑戦していきたかったからです。また多くの人達に数々のエンターテインメントを通じて、一年中楽しんでもらいたい。PERFECT YEARにはそんな思いがいっぱい詰まっています」 その他の内容に関してはどうですか? 「どのコンテンツもその分野のプロフェッショナルとの出会いがありました。各分野のプロと一緒になってEXILEプランドを輝かせていこうと。多くの偶然の出会いがありましたが、常にアンテナは張っていて、人とのコミュニケーションを大事にしているので、必然といえば必然でもある出会いでした」 今のところ、 PERFECT YEARはPERFECTに進んでいますね。 「僕らの目指している事は順調にできていると思います。みなさんに喜んでもらってこそPERFECT YEARなので、今のEXILEは想像以上にファンのみなさんに喜んでもらえてすごく嬉しいです。もっと楽しく喜んでもらえるように、EXILEをさらに加速させていって盛り上げたいです」 今年7月23日発売の2枚目のベスト「EXILE ENTERTAINMENT BEST」の内容は? 「アニメの『エグザムライ』の本編もあったり、また第一章の楽曲をATSUSHIとTAKAHIROで歌い直してアレンジも新しくしたり、新曲を様々な企画で作品にしたりと、本当にネタがいっぱい詰まっているベストアルバムなので、聴いても見ても幅の広がったEXILEを、世代を超えて楽しんでもらえると思います」 未来の自分、そして学生へ。 これから挑戦してみたい分野はありますか? 「分野というより、これからも今までのぶれない自分で、より多くの人に元気になってもらえるような影響力のある存在でいたいです。僕らもみんなから元気や自信をもらっているので、まだまだインパクトを求めて世の中の人を良い意味で驚かせていきたいと思います」 最後に学生に向けてメッセージをお願いします。 「まぁ偉そうに言えないんですけどね(笑)。今自分がこうしているのは多くの出会いのおかげなので、一つ一つの出会いを大切に一日一日を一生懸命生きていけば、きっと素敵な人生になれるかなと。日々を大切に、これからも人に思いやりを持って頑張っていってください」 学生新聞2008年8月号より 

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藤井フミヤ 自分の作っている音楽は、 10年前に出しても後に出しても変わ...

<プロフィール> アーティスト 藤井フミヤ (ふじいふみや) 1962年7月11日、福岡県生まれ。 1983年、「チェッカーズ」にてデビュー。1993年、1stソロシングル「TRUELOVE」が200万枚を超えるセールスを記録。容楽だけでなく、アートなど多方面に活躍の場を広げ、2005年の「愛.地球博」(愛知万博)では、名古屋市バビリオンの総合プロデューサーとして世界最大の万葉鍵「大地の塔」をプロデュースした。2008年、デビュー25周年という大きな節目を迎えるにあたり、弟·尚芝との兄弟ユニット「EBLOODを約10年ぶりに本格再始動、2枚目となるオリジナルアルバム『Ants』を1月23日リリース。5月下旬には、 待望のアニバサリーベスト盤が発売予定。 デビューのきっかけと幅広い活動にかける思い まずは、音楽を始めたきっかけや、デビューまでの経緯を教えてください。 「当時、矢沢永吉さんが組んでいたキャロルというバンドがあったのですが、その音楽を聴いて、自分もやってみたいと思い、中学1年生のときに初めてバンドを組みました。当時は、エレキギターを持っている人は学年に2、3人くらいで、持っているだけで、不良だというイメージがありました。『チェッカーズ」というバンドでアマチュアバンドの大会で優勝して、デビューをしたのですが、自分でも想定外のスーパーアイドルになってしまいました。当時から、「頂点に上りたい」といった野望はありませんでした。東京に出るのも、大学に進学する形で出てきたかったのですが、若干不良だったこともあって、周りも勉強していなかったから、自分もしなくなって、地元で就職しました。 でも、当時の彼女が上 京して、自分も東京に遊びに行くようになり、町を見て、とにかく東京に住みたいと思いましたね。今では、東京も福岡も大阪もそれほど違わないのですが、物流とか情報が昔は全然違いました。そういうこともあって、東京に行きたいと思いましたね。それに、東京に出るきっかけが欲しかった。音楽1本に絞る気もなかったのですが、デビューさせてくれると いうことだったので、東京に行ってしまおうと思いました。今思うと、若さゆえのパワーですね。デビューしてからは、あまりの人気のすごさに途中で道を変えよう思わなかったです」 ディズニーのヘラクレスやドラマ、CMなど音楽の中だけでも幅広く楽曲を提供されているだけでなく、自身も声優や役者として、また個展を展開されていたりと、活躍されていますね。 「基本的に何でもやります。 今、やりたいと思っていることは、本を書くこと。小説を書きたいです。映画はあまり見ないのですが、本は普段からよく読みます。本は映画のように、 まとまった時間を空けなくていいし、かばんに入るし、場所を決めなくても、どこでも読めますしね」 その時々の時代背景や、自分のやりたい音楽によって、作る音楽や歌い方にも若干たりとも変化が現れていると思いますが、逆に音から変わらないものはありますか? 「自分の作っている音楽は、10年前に出しても10年後に出しても変わらないと思っています。音楽業界では、制作で使用するソフトやハードは変化していますが、出来上がる作品に関して大きな変化はなく、実は真新しいものってそんなにないんです」 音楽を作るときは、どうやって作られますか? 「作り方には、大きく分けて2タイプあります。 暇な時にお酒を飲みながらでも作る人と、「さあ、作るぞ!と集中して作る人と。 自分は後者のタイプで、タイムリミットがないと作れないです。「すべての作品はタイムリミットが作る」という風に感じていますどんな仕事もそうですよね。作品を作るのに、自分にとって一番いい理境はホテルです。 電話が鳴らないし途中で作業が停止することがないからです。作業が止まると思考も一旦止まるから、一人がよくて、まっさらな環境で、携帯も自分から掛けるとき以外は切っています」 藤井さんにとって、唄とはどのようなものですか? 「仕事ですね。家で歌うことは、鼻歌でさえないです。仕事以外でのどを使うことはないです」 もしミュージシャンじゃなかったら、何をしていると思いますか? 「ミュージシャンというものは、夢を形にしている職業だと思います。自分には、昔からサラリーマンになって会社に行っているというビジョンがありませんでした。でも、ミュージシャンになっていなかったら、元々クリエイター志望だったこともあって、デザイン事務 所に入って就職していたと思います。でも大学に行ってみたかったですね」 藤井フミヤさんから大学生へのアドバイス 10代後半から20代前半の学生にアドバイスをお願いします 「学生の本業ということもあるし、勉強をしてほしいですね。学生としてしっかり勉強していれば、社会ではその勉強が関係なくても何に対しても吸収力が良くなると感じます。本を 読んだり、文章を読んだり書いたりする事が苦ではないのでしょうね。物事を良く知っているし、知識欲があるように感じます。何になりたいかっていう、目的は早く定めるといいですよ。そのための勉強をしているから、もしその通りにならなくても良くて、違うことにずれても平気なんです。一つ夢を持ってそれを追求していけば、それに付随した何かになれます。ミュージシャンになれなくても、バックミュージシャンになれるかもしれないし、プロデューサーやレコード会社の人間になれるかもしれないですよね。自分が好きなものを思って、知識欲を持っていればいいんです。まさしく「好きこそものの上手なれ」ですね。何も考えたくないときは、パラエティー番組を見ています。文章を書いたり、作詞をするといった職業をしていると、雑誌や本を読んでいても、若干仕事が入っていますね。 常にアンテナが立っている状態です」 学生に向けてメッセージをお願いします。 「夢を持つこと。人間は常に二つの選択があります。 AとBを選んで進むと、また二つ選択肢が出てきます。ういった時に、道しるべが必要です。迷ったら、人に聞けばいいんです。聞いても、最後は自分で決めるのだけど、常に道しるべとなる夢が必要です。」 学生新聞2008年6月より

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武藤敬司 ブラウン管の向こうの遠い世界に思えてならなかった。 でも、今...

<プロフィール> 武藤啓司(むとうけいし) 全日本プロ・レスリング株式会社 社長兼プロレスラー 1962年12月23日生。山梨県富士吉田市出身。身長188cm、体重110kg 武藤敬司さんがプロレスを始めようと思ったきっかけ プロレスを始めようと思ったきっかけを教えてください。 「学生時代柔道をやっていましたので、高校卒業後は仙台の東北柔道専門学校(現·仙台接骨院専門学校)へ進学しました。当時は、国体に出場するなど充実した日々を送っていました。専門学校を卒業後は、接骨医になるべく地元に戻って働いていたのですが、患者さんに病気のことを質問されても自信をもって答えることが出来なかったんです。このときばかりは、もっとしっかり勉強していればと後悔しました(笑)。 からブロレスは好きでしたが、プラウン管の向こうの遠い世界に思えてなりませんでした。しかし、今はその世界に立てていることに本当に幸せを感じています」 プロレスラーと金日本プロレス社長の思い 社長になった経緯、そしてリング上でのプロレスラー、経営者の仕事の違いは何かありますか? 「最初、新日本プロレス(以下新日本) に就職し、そこで20年間頑張ってきました。でもちょうど自分が一時戦線離脱する辺りになってから、 プロレス界がビジネス的に下降気味になりつつありました。そんな状況下、猪木さんが今で貧うPRIDEやK-1のような格闘技路線に新日本を変更していこうと考えていましたが、自分は賛成できませんでした。というのも、その路線でプロレスを統けるとなると、20代で自分がプロレス発祥の地、アメリカで修業したときに築きあげたキャリアが、全部つぶされるような気がしたんです混述の時代が続き、そうした中ジャイアント馬場さん率いる全日本プレス(以下全日本)が分裂した。せっかく、空きが出来たし自分の城を構えたいという野心も手伝って、全日本でお世話になることに決めたんです。そして、経営者になって実感したことは、プロレスの経営がとても大変だということです。プロレスラーとしては初年弱のキャリアがあるので、リング上では誰にも負けない、世界でも通用するという自信があります。しかしそれと経営はまったくの別問題。まず、社長就任直後は右も左も分からず、業績が急降下しました。それでも、修羅場を何度もくぐって淘汰されずに生き残ってきました。そういう思いが、現在につながっているのではないでしょうか。また、人心掌握という点でもかなり苦労しました。自分が全日本に移動する際には、新日本から数名のレスラーと、自分と同じ思いを持った社員が一緒に来てくれたのですが、その社員は今では一人も残っていません。同じ思いでも、考え方に若干の誤差があったんです。上に立って、人をまとめるという難しさも、社長になって思い知らされた事の一つですね」 プロレス大好き学生記者と武藤さんのプロレス談義 武藤さんの中で、プロレスとはどんな存在ですか? 「自分にとって、プロレスとはビジネスであり芸術だと考えています。全日本だけで見ても今年で36年目に突入しますが、他の企葉でここまで続くことは珍しいことです。それに、プロレスの持っている潜在能力、ネームバリューは他の格闘技とは比べものになら ない位、価値があると信じています。子供の悪ふざけだって、よく代名詞となるのはプロレス。世の中にプロレスが浸透しているという証ですね。本場アメリカのプロレス団体WWEのように、世界をマーケットに活躍してい るとてつもない会社もありますので、いずれ全日本プロレスも、そのようになったらいいなと考えています。」 長いキャリアの中で、一番思い出に残った試合は何ですか? 「昔のことは、受身を取り続けているうちに忘れてしまいました(笑)。実際のところは、自分の試合はすべて作品ですから優劣をつけたくないという思いがあります。強いて一つ挙げるならば、1995年10月9日、東京ドームで行われた高田延彦戦でしょう。あの試合が自分のネームバリューを上げてくれました。実は先日、巨人の原監督と食事をする機会があったのですが、原監督もその試合を見に来てくれていたと話してくれました。試合が行われた前日は原監督の選手の引退の日。そんな思い出の一つとして覚えてもらえて、とても光栄だなと思えた瞬間でした。」 学生に熱いメッセージ!! 今の学生に何か一言いただけますか? 「プロレスをやりたい学生は、ぜひ全日本の門を叩いて欲しいですね。現在、第一線で活躍しているレスラー、例えば棚橋選手·真壁選手(以上新日本プロレス)·HG選手(ハッスル)は皆学生ブロレス上がり。でも、プロレスというのは、体力よりもどれだけ好きなのかが重要。そういった熱い想いを持って、今後プロレス界を支える人間になってもらいたいです。そして、若いたちに、俺らの世代が老後を楽しく迎えられるように頑張ってもらいたいですね」 学生新聞2008年5月号より

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長谷川 潤 狭い世界から視野を広げてくれた母に感謝!夢を持ち続ければ絶...

<プロフィール> 長谷川 潤(はせがわじゅん) 1986年6月5日生まれ。ニューハンプシャー州生まれ、2歳よりハワイ島へ。父親はアイルランド人とフランス人の血を引くアメリカ人で母親は日本人。14歳でスカウトされ、以後日本でモデルとしての活動を展開中。その日本人離れした容姿と明るいキャラクターから、 最近は雑誌だけではなくTVやCMなどに引っ張りだこ。現在、初のフォトエッセイとなる『kauluwehi』が絶賛発売中。 モデルの仕事をするきっかけは何ですか? 「私の場合はスカウトです。モデルのお仕事は幼い頃から憧れていたので、声をかけられたときは嬉しかったですね。でも、日本でのお仕事と知った時、その世界へ入る事に不安を感じていました。日本がとても遠い国に感じていたし、日本の文化も全然知らなかったから。でも、母に『ハワイにいたら狭い世界でしか活躍できない。もっと広い世界に身を置いて、 広い視野を身につけなさい』と言われて、この世界に入ろうと決意しました。今では新しい事を沢山学べて、成長していると実感できます。母にはとても感謝しています」 では、仕事中に心掛けている事はありますか? 「モデルの世界って皆にチヤホヤされて、自己中心になりがち。遅刻しても全然怒られない場合もあるし、失敗してもなんとなく許されてしまう。でも実際、社会に出たらそんなこと通用しませんよね。なので、この世界の甘さに溺れないように、 自分で自分に厳しくしています」 すごくマジメなんですね!逆にこの仕事で好きなところは? 「海外ロケで色んな国へ行って、現地の文化や言葉を覚えたりできるのはとても楽しいです。でも、季節に関係なく洋服を着る事は厳しいと思う時もあります。例えば、冬の寒い時期に海へ行って撮影しなきゃいけない時は、辛くて大変です」 日本に初めて来て驚いたことってありますか? 「一番驚いたのは、日本で好かれる『女性像』とハワイやアメリカで好かれる『女性像』がかなり違うこと。例えばアメリカでは『強くてセクシーな女性風』が主流だけど、日本では『かわいいフェミニンな女性風』のほうが求められるんですよ。だから最初の日本での撮影のとき、すごいクールでセクシー風のポージングをしたら、スタッフの人に『違う違う! もっとかわいい感じで!』と注意されちゃいました(笑)」 休日は何をしていますか? 「部屋でキャンドルに火をつけたり、ハワイをイメージした波の音の曲を聴いたりしてリラックス。音楽を聴きながらゆっくりお風呂に浸かります。音楽はジャンルを問わず、洋楽も邦楽も好き。演歌も好きで、美空ひばりさんの曲も聴いていて、周りの人から驚かれます。あとは友達と映画を観に行ったり、夜はClubへ行ったりして遊びますよ」 先日、初のフォトエッセイとなる『kauluwehi』を出版されたんですよね。いかがでしたか? 「普段の仕事では、服をいかにかっこよく見せられるかということに意識を集中させていますが、このフォトエッセイでは生まれ育ったハワイで『自分のありのまま』を表現しなくてはいけなかったので、はじめはとても、恥ずかしかったです。でも、『大好きなハワイの良さをみんなに伝えられれば』という思いで頑張ることができました。そして、とてもいい本が出来上がったと思っています」 最後に学生へメッセージをください! 「私も大学にいきたいですね~! キャンパスライフとかうらやましいです。忘れないでほしいことは、夢を持ち続けること。映画『“Pursue the Happiness” (幸せのちから)』みたいに、どんな状況になっても夢を持っていれば、絶対いい方向に進むはず。すべてに意味があると信じて、いろいろなことに挑戦して下さいね!」 forGirls 2008年4月号より

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麻生太郎 我々日本人が考えるよりも、世界における日本の評価は高いんです。

<プロフィール> 麻生太郎(あそうたろう) 昭和15年9月20日生まれ 昭和53年 1月 社団法人日本青年会議所会頭就任(53年12月) 昭和54年 10月 衆議院議員に当選、以降当選9回 平成13年 4月 自由民主党政務調査会長就任 平成15年 9月 総務大臣(~17年10月) 平成17年 10月 外務大臣(~19年8月) 平成19年 8月 自由民主党 幹事長(~19年9月) 政治家を志したきっかけは 「血筋」と『生まれ故郷の復興」 政治家を志したきっかけは何ですか? 「志したきっかけは2点ありました。1点目は「血筋」のようなものです。大久保利通、牧野伸顕、吉田茂などと血が繋がっていて、政治家の家系で育った影響は強いかもしれません。私は5代目くらいだと思います。ですから何となくですが、「血筋」のようなものは感じていました。2点目には、生まれ故郷の影響ですね。私は福岡県飯塚市で生まれ育ったんですが、この街は石炭で栄えていました。しかし、石炭がなくなった後の疲弊が激しく、政治力に頼らなければこの地域が復興することはできないと感じました。そして翌年に議院議員に立候補し、当選いたしました」 ※日本青年会議所…国際青年会議所(JCI)に加盟する日本にある国際団体としての社団法人 日本人が考える日本の評価よりも海外の評価の方がはるかに高い 外務大臣を経験された観点から、海外から「日本」はどのように見られているとお考えでしょう。 「圧倒的に評価が高いといえるでしょうね。イギリス国営放送で行われた調査(30カ国28000人を対象)で、世界に良い影響を与えている国として一昨年、一昨々年と2年連続で1位に挙げられたのは日本でした。そのくらい日本の評価は高いということです。海外における日本の評価のほうが、日本人が考える日本の評師よりもはるかにに高いのが現状でしょうね。私は学生のときからアフリカやブラジルをはじめ様々なところへ行っておりますが、その頃(40年ほど前)と今の日本の評価はまったく違い、圧倒的に今のほうが評価は高いですよ」 日本は「働く』という形で国際貫献すべき 今後、世界の中での日本の役割はどのようになっていくのでしょうか。 「日本の優れているところは働くということ。最低限の軍事力は日本にも必要ですが、 日本人はもっと自国最大の文化「働く』ということのすばらしさを、世界に発信していくべきでしょう」 具体的にどのような形で世界と関わっていくのが良いのでしょう。 「中近東では、1948年にイスラエルが建国されて以来、今日まで、テロの類の話は「イスラム教徒だから」とか『キリスト教が…」などと、よく話をしていますが、私は間違っていると思い『宗教がテロの温床になる」という意見に対する反論の例として「チリ」が挙げられます。そこではユダヤ教とイスラム教がキリスト教国の中にあって、まったくうまくいっている。チリの人ならよく知っている。そういう話があるから宗教がすべての原因というのは嘘。私は、現実間題としてテロの番の間題は「貧困」と「絶望」だと考え求す。言い換えれば「希望がない」ことこれがテロに走る一番の理由だと言えるでしょう。従って、パレ スチナで基本的にはそこにいる人たちに「希望」と「所得』を与えるためにはバレスチナの経済発展が必要だと考えています。そこで何をするかというと、農業が最も適していると思う。 イスラエルも建国当初は「キブツ」と呼ばれる大農業共同体をつくり成功しました。それと同じものをパレスチナやればいのではないかと思います。気候、風土はイスラエルと同じなのだからできないこととはない。そこで我々日本が登場し、農薬技術を教える。そこにかかる経費も日本が出す。できたものは、日本が商社を通じて売ります。なんの問題もないですね」 なるほど、そういう貫献の仕方は、我々日本人だからこそできることですよね 「そうそう。パレスチナの方々には「日本人と同じように働いてください」と 言いました。そしてそこに、イスラエルは静かに見守っていてもらいたいと思っていま す。逆にヨルダンにはぜひ協力していただきたい。「バレスチナでできたものはイスラエル経由ではなく、ヨルダン経由で世界に輸出したい」とパレスチナの人は思うでしょう。パレスチナの作物が川を越えて出るときには、輸出の安全を保障してほしいと思います。実はそれだけはやってほしいという話を、一年半かけてイスラエルに対して交渉しました。 最後にシモン·ペレスというユダヤ人のイスラエル大統領が『信用してみるか」といって、日本に3月に来て、8月には、農業団地を建設するジェリコに再度、4者の代表が集まりました。一番驚いたのは、シモン·ペレスが「私はこれまで50年間の政治生活で、数え切れないほど多くイスラエル·パレスチナ· ヨルダンの三国の会席に参加してきたが、少なくとも金儲けのために座るのは初めてだ」といったんです。これまでそんな話し合いはなかったのでしょうが、それが今回初めて立ち上がって「信用してみよう」と手を差し出した。続いてパレスチナの外交交渉局長(外務大臣のようなもの)も手を出して、ヨルダンと4人で握手を交わしたんです。もし仮にその穀倉地帯ができたら…と、イスラエルとパレスチナが演説していたんです。「もし平和を達成できたら、これほど豊かな国になれるということを最初に証明する機会を与えてくれたのは日本だ。これに応える義務と責任が我々にはある」と。この計画が成功したら、日本がこの種の紛争を、政治と軍事でなく、経済で解決するという形で国際協力に貢献できたこいえるでしょうね」 学生新聞2008年4月号より

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東国原 英夫 人の目が政治を育てていく若者が夢を持てる自治体を作ってい...

<プロフィール> 東国原 英夫 (ひがしこくばるひでお) 宮崎県知事。1957年宮崎県都城市生まれ。 1980年専修大学卒業後、 CX「笑っている場合ですよ!お笑い君こそスターだ!」でチャンピオンになる。1998年から1年間、自主謹慎。謹慎中、自己猛省と自己の価値観を変革すべく猛勉強 2000年4月に早稲田大学第二文学部に入学、卒業と同時に再度同大学政治経済学部に入学。2006年に同大学同学部を退学後、翌年第17回宮崎県知事定挙に当選。新刊「ニッポンを繋盛させる方法」(東国原英夫、島田紳助共着)が発売中。 小さい頃からの夢=お笑い芸人と政治家 先月23日、第52代宮崎県知事に就任してから1周年を迎えた東国原英夫·宮崎県知事。小さい頃からお笑い芸人と政治家に憧れていたという氏は、お笑い芸人として活躍していた1 998年、謹慎の際に仕事をしてはいけなくなり、その豊富な時間の中で様々な事を考えたという。30代くらいから心の中で沸々としたものはあった。しかし謹慎をきっかけに、宮崎のために力を尽くそうと決意し、大学に入り直し、猛勉強。そして見事県知事当選を果たした。小さい頃からの夢を両方叶えたのである。 「次の夢」へのステップとしての大学生活 専修大学時代は、意外にも「学校には数えるほどしか行っていない(笑)」のだという。社会勉強の為にアルバイトをしたり、仲間と遊んで過ごす事に時間を割いていたのだ。「僕にとって大学はどこでも良かった。高校から大学に上がるとき、もう芸人になることを目標にしていたんです。つまり東京に行くことが次の夢へのステップでした」 氏が早稲田大学在学中に若い大学生達を見て感じたのは、もちろん全員ではないが、規範意識が欠けているのではないかという事。「早稲田大学に限らず他の大学でもそうなのでしょうが、席の後ろの方でメールを打ったり、寝たり、パンを食べていたりするでしょう? 40歳過ぎて大学入ったもんだから隣でメールを打っている人がいると注意したくなるんですよ。 こんな事もありました。メールを打っている隣の学生に注意して、携帯電話を見たら「隣にそのまんま東がいる」って送っていたんですね。で、「何でそんなこと送るんだ?』と言っていたら相手から返事が返ってきて、『それがどうした」って(笑)」しかし学生達の良い部分は、「若者は若者なりに夢と希望を持っている」と心強く感じた事だとも話す。文化や芸術、学業に精力的に励み、それぞれの進路に向かって力を尽くしている。そういう人達を見ていて感じたのだという。「若い学生たちは、まだこの日本という国を見捨ててはいない。特に地方から出て来て何かを得ようと頑張っている人が頼もしく思えますね。しかし中には早稲田ブランドを得る為だけに来た人もいたように感じました。でも、その人達とは社会に出てから差がつくのでしょう。だから行政に入った我々の役目というのは、子ども達や若者が夢や希望を持てるような国や県、自治体を作っていく事だと強く思います」 政治をお茶の間に 宮崎県知事として、今後「宮崎出身で良かったと思えるような自治体を作っていきたい」と抱負を語る東国原氏。実際には、民間を介入させて事務事業を一つ一つ見直していくという、とても地道な作業を進めているという。これは全国初の試みである。「議会という公の目だけでなく、民間の目も大いに必要だと思うんです。テレビばかりに出て、と批判も受けるのですが、こっちの方が目につかないながらも主力の仕事なんです。宮崎県民のみなさんの幸せの追求に寄与出来るよう、頑張っていきたい」と語ってくれた。そして逆に県民に期持しているのは、一人一人の政治参画だとも話す。氏がテレビに出ることには色々な意味があり、知事がやっている事を県民に見てもらい、「政治をお茶の間に落とす」事が重要なのだという。「県議会や知事は何をやっているのか、子どもから大人まで知って頂きたい。そのようにして、人の目が政治を育てていくと思うのです。だから私はきれいな事だけでなく、 全てをオープンにして見せています。そしたら不正もなくなるはずです」 最後に学生に向けて、力強いメッセージを頂いた。 「みなさんは日本を将来に渡って支えて頂かなくてはならない人的財産です。夢や希望、目的、ビジョンを確固たるものにし、自分を信じて自己実現に向けて頑張ってください」 学生新聞2008年3月号より

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優香 普段の自分とは違う、『いろんな優香』を演じられるのがこの仕事の魅...

<プロフィール> 優香 (ゆうか) 1980年生まれ。1997年一般公募・インターネットにより芸名を募集し、現在の「優香」に決定。 その明るい笑顔と柔らかな雰囲気で元祖「癒し系」の代名詞となる。 バラエティの司会やコント、そしてドラマや映画など幅広い分野で活躍中。 現在は、『王様のブランチ』(TBS系)や『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』(テレビ朝日系)などレギュラー番組を多数抱えている。 祝・デビュー10周年!タレントとして、女性としてひとつの節目を迎える彼女に、この10年間の自分の変化や、芸能界で働く姿勢を語ってもらった。 デビュー当時は『仕事』というよりは『バイト』感覚でした 昨年デビュー10周年を迎えたそうですが、この10年間はどうでしたか? 「17歳から芸能界に入って、あっという間の10年間でしま!しかもはじめたころはまだ高校生だったんで、『仕事』というよりはむしら『バイト』感覚が強かったです。」 え、バイト‥‥‥ですか? 「うん(笑)。だって周りの子もバイトしていたし、あんまり『仕事』っていう意識はなかったですね。それにはじめたころは『10年間くらいやったら(芸能界は)辞めるかな』って思ってたくらいですから」 そうなんですか⁉︎デビュー時から考えて10年後というとちょうど今ですが。 「高校生のときはとにかく学業優先で、目標は『芸能界で活躍すること』というよりは『卒業』だったんで。それで高校を卒業してみて、さてどうしてようかなって考えたときに、『私には芸能界しかない!』ってこの道に進んだんですよ」 これまでの10年間、芸能界で「嫌な人」には一人も会ってません 高校卒業後、本格的に芸能界に入ってみてどうでしたか? 「う〜ん、思っていたよりも意外と普通でした!入る前はもっとキラキラしていて華やかな場所だと思っていましたから。あとイジメとかの心配もしていたんですけど、すごく周囲の人に普通に受け入れてもらえたのでびっくりしました。本当に優しい人ばっかりで、今のところ嫌な人には出会っていないですね」 そうなんですね!芸能界はもっと厳しいイメージがありましたが。 「厳しいのは確かです。ちょっとでも目立たなかったり露出がなくなるとすぐ忘れられてっちゃうと思うし。あと、やっぱり万人に好かれるっていうことはなくって、どうしても誰かには『嫌い』って言われちゃう」 やっぱり有名な人ほど、全く知らない人から悪口を言われることもあるんでしょうね。 「昔はそういうことをすごく気にしていて、自分に起こったこととか反省的とかをすべて受け入れては暗くなっていたんだけど、今は開き直るようにしています。それでもやっぱり時々まだ気にしちゃうこともあるけど、でも『どっちでもいい』って思われるよりはいいかなって思ってますね」 でも本当は常に笑顔を絶やさない優香さんですが、その明るさの秘訣は何ですか? 「う〜ん。元気がなくなったり気分が暗くなったときには、人と会うようにしています。それに自分の近くに自分を『好き』って言ってくれる友達やスタッフの方がたくさんいるから、嫌なことがあったらいつでも慰めてもらったり、いっぱい元気をもらっています。あとはいっぱい笑うことです!」 今自分のなかで面白いのは……コントかな? この10年間バラエティやドラマなどさまざまな分野で大活躍ですが、一番ご自身がお好きな分野はどれですか? 「私は飽きっぽいのか、何をやっても満足しない性格なんです。だからどの分野をやっても、すぐ違うことに興味が出ちゃうんですよね。でも、強いていえば……コントですかね」 それは意外ですね! 「やっぱりほかの現場と違って、ほかの人の反応がすぐ見れるから好きなんですよ。あとはその場で自分のやったことに対して笑ってくれる人がいるっていうのはいいですよ」 じゃあ今年はコントでの優香さんの活躍が期待できるということですね……。 「えーー。でもやっぱり飽きっぽいので、コントだけやっていたらそれはそれで違うこともやりたくなるんじゃないかな。でも次に何をやりたいかとかは、現在考え中です。私あんまり欲がないのか、仕事とかで『コレしたい』『アレしたい』っていうのが特にないんですよ〜。のんびりしてるんでしょうね」 仕事の現場は自分にとって「好きな人に会える場所」 この10年間で仕事に対する意識は変わりましたか? 「もちろん今はさすがにデビュー当時のバイト感覚はなくなりましたよ(笑)でも、正直あんまり『仕事』っていう感覚は今もないですね。現場にいる『自分が仲よくって好きな人たちに会いに行く』っていう感覚のほうが強いかも……。あとは、これは仕事に関することだけじゃないですけど、ほかの人の意見も受け入れられなかったんだけど、最近は何か言われても『あぁ、そういうことなんだ』って納得できるようになりました」 では、今の優香さんにとって、芸能界で働くことの一番の魅力は何ですか? 「普通の自分とは違う、『いろんな優香』を演じられることかな。もちろん、その優香も全部自分なんだけど、ちょっとずつ違う自分を表現できるのがすごく楽しいです!」 逆に辛い点は? 「う~ん、辛いことじゃないかもしれないけど、テレビをリラックスして観られなくなったことです(笑)。特に、バラエティ番組!バラエティ番組って出演している側からすると、実はすごく難しいんですよ。コメントのタイミングだったり。トークのネタだったり。いつも上手な切り返しをする芸人さんとかを見ていると、『なんであんなに頭の回転が早いんだろう!』ってびっくりするくらい。だからバラエティ番組を見ているときには、自分が出演するときのための練習じゃないんだけど『自分がここでコメントをふられたらどうするか』とか『自分だったらなんて回答するか』とかそんなことばっかり考えていますね」 それは落ち着けないですね(笑)。有名人の方だと外に出ると目立っちゃうので、休日でも家で過ごすことが多そうなイメージがあるんですが、休日は何をしてるんですか? 「え~~!意外とあまり気にしないで、行きたいところに行ってますよ!エステに行ったりマッサージも大好きだし。あと、最近はホットヨガも始めたんで、週に1回くらいは行くようにしてますよ~。あと家ではDVDを観たり、犬と遊んだり……」 意外の連続ですね……。それでは最後に、学生たちに一言お願いします! 「私は大学生ってやったことないから、キャンパスライフとかサークルとかってすごく憧れでしたね~。とにかく学生さんは自由な時間が多いうちに、精一杯遊んでいろいろチャレンジしてほしいですね!あ、でも就職活動のときはちゃんと遊びをリセットしてがんばってください(笑)!」 forGirls 2008年1月号より

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北原照久 好きなことを仕事にしようと思うなら、人の3~4倍はやれ!

<プロフィール> 北原照久(きたはらてるひさ) 株式会社トーイズ 代表取締役。1948年東京都生まれ。 青山学院大学を卒業。世界的なおもちゃコレクターの第一人者。 37歳で横浜山手に「ブリキのおもちゃ博物館」を開館。現在、全国7ヶ所でコレクションを常設展示している。 「開運!なんでも鑑定団」 (テレビ東京系)に鑑定士として出演するほか、CM、 全国各地での講演会、トークショー等でも活躍中。 「横浜ゴールドラッシュ」、 「夢の実現 ツキの10カ条」、 「夢はかなうきっとかなう」など著作も50冊以上出版している。 2007年にはベストジーニスト賞も受賞。 おもちゃ箱のような博物館 「おもちゃ箱に迷い込んだような感覚」とでもいうのだろうか。10畳ほどの小さな空間に、全国各地から集められたおもちゃ約3000点がぎっしりと所せましと並んでいる。「ブリキのおもちゃ博物館」は、瀟酒な洋館が建ち並ぶ、横浜は山手の一角に静かに佇んでいる。オープンが1986年というから、ちょうど今の大学生たちと同年代だ。館長はブリキのおもちゃコレクションの第一人者として、世界的にその名を知られている北原照久氏。 コレクター人生のきっかけ 高校時代に勉学に目覚め、勉学への期待に胸をふくらませ青山学院大学に入学したものの、当時は学園紛争の真っ只中。勉強をしたくても授業がない日々に憤った彼は、父親の後押しもありオーストリアヘスキー留学を決意。そこでホームステイ先の一家の生活に触れ、カルチャーショックを受けたという。「なんていうか。‘生活感’がないんだよね。リビングに花瓶や家族の写真が並べてあったりひいおばあちゃんの代から大事に使っているような古い銅の鍋が、置物みたいに壁に飾ってあったり。しかも料理はそれで作ってくれるんだよ。そういう生活を見たら、“僕も将来は自分の好きなものにばっかり囲まれた生活がしたい。って思うようになったんだよね」 ホームステイ先の人々の「物を大切にする生活」に感銘を受けたという北原氏。20歳で帰国した彼は、粗大ごみ置き場に捨てられていたゼンマイの柱時計を拾う。持ち帰って油を注と、柱時計は再び時を刻み始めた。何を隠そう、この柱時計が記念すべきコレクション第1号。その日から真空管ラジオやキャラクターグッズなど、様々なものを集め始めたのがコレクター人生の始まりだった。そして25歳のときから、本格的なブリキのおもちゃ蒐集を開始。趣味で集め始めたおもちゃのコレクションは急増し、今や全国数か所に博物館を構えても入りきらないほとだ。 北原流·夢の実現法 「僕が昔持っていた夢は『おもちゃの博物館』を建てること。30代でその夢は叶えたね。夢ってね、口にすると叶うんだよ。僕が今まで口にしてきたことは全部実現している。フォードのサンダーバードや海沿いの別荘、それに憧れの人だった加山雄三さんにも会ったでしょ。まだ実現していないのは吉永小百合さんに会うことぐらいかな。17歳のときから言ってるんだよ、これ(笑)」 北原氏いわく、夢を叶えるコツは、「楽しそうに、情熱的に、かつより具体的に語ること」。そして「絶対諦めないこと」だとか。「自分の夢を真剣に100人に語ってみたら、99人には「何馬鹿なこと言ってるんだ」って言われるけど、そのうち1人くらいは『それいいね』って賛成して応援してくれる。その1人の人が、自分の夢を助けてくれるかもしれないでしょ? だから僕は1万人に話したの。1万人に話せば、味方は100人になるからね!」 そして、北原さんは「好きなことを仕事にしたいと思うなら、何事も人の2~3倍はやるべき」と続ける。「夢はすぐに叶うもんじゃないんだから。僕だって実現させるのに10年以上かかっているものだってある。でも僕は諦めないからだから夢を叶えてこれたんだよ」 まだまだ続く「夢」 写真撮影の際に「撮影用に一番思い入れのあるおもちゃを選んでください」とお願いすると、「思い入れは全部あるからなあー」と笑う。大切そうにショーケースに並べられたひとつひとつのおもちゃに、北原氏の愛情が注がれている。そして今も変わらず、人々の笑顔を生み出し続けている。おもちゃにとって、これほど幸せなことはない。そんな北原氏の今後の展望は、現在保有している何十万点にも及ぶと言われているおもちゃやポスターなどのコレクションを1箇所に集め、すべてを一覧することができるパビリオンを作ることだという。 「100年後、僕の集めたおもちゃは絶対に後世の人々にとって重要な文化遺産になると思うんだよね。だって、これまでこんなにたくさん集めている人は絶対にいないでしょ(笑)」 北原氏は取材が終わってからも、「コレいいでしょ!」と嬉しそうにコレクションのひとつひとつについて説明してくれた。今度出会うことがあれば、そのときは満面の笑みで吉永小百合さんとの写真を見せてくれるのだろう。もちろん、「コレいいでしょー!」と。 学生新聞2007年12月号より