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Archive for gakusei-shinbun

コラム

テリー伊藤 コラムVol.87 高倉健さんのポルシェ・カレラ降臨

車好きが高じて10数台所有する事になってしまったため、駐車料金の安い横須賀に秘密基地を置くことにした。毎月1回、月末の土曜日にそのガレージを一般公開している。毎回多くの方が遊びに来てくれるが、3月の集会にとんでもない車がやって来た。少し前まで東京大学の教授をしていた友人が、なんと、かつて高倉健さんが所有していたポルシェ・カレラに乗ってやって来たのだ! 普段私は車の仕事をしている関係でどんな高級車を見てもそれほどびっくりしないが、高倉健さんの愛車となれば話は違う。思わず息をのんでしまった。どんな経緯で車を手に入れたのか聞いてみたところ、知り合いの車屋さんから連絡があり迷うことなく購入したとか。車好きで知られる健さんは常時10台近くを所有し、品川にあったパシフィックホテルの地下駐車場に置いていたことは業界では密かに知れ渡っていた。しかし自分名義の車はベンツ・ゲレンデヴァーゲン(独)、デイムラージャガー・ダブルシックス(英)、そしてポルシェ・カレラ(独)の3台。まさに国宝級の車。それが今、目の前にある。 ボディー左フェンダーには「KEN TAKAKURA」とさり気なく入っている。マニュアルのシフトノブにはイニシャル「K・T」。実はこのポルシェ・カレラ、健さんがフランス旅行中に一目ぼれして購入したらしい。パリのポルシェ販売店でダッシュボード周りをウッドパネルに張り替えている。まさに世界で一台の特別仕様車。健さんが使っていた赤い皮のポルシェのエンブレム付きキーホルダーもそのまま残っている。私ならもったいなくて使えない。日本に持ち帰ると並行輸入車になってしまうため当時の正規代理店三和自動車では整備を受け付けなかったのだが、そこは我らの健さん、特別払いだったとか。 運転席に座らせてもらった。フロントガラス越しに景色を見るとそこに笑っている健さんの姿が… 錯覚だろうか。深夜の首都高を一人で走っていた情景も浮かぶ。どんな車に乗ってもこんな感情にはならないほど幸福な時間だった。友人を今日ほど羨ましいと思った事はない。さすがに値段は怖くて聞けなかった。 顛末をインスタに乗せたところ大反響!「見たかった」「写真を撮りたい」の声が続出。そこで急遽4月のガレージ公開日に再び降臨することになりました。健さん秘話も聞けるかも。そしてポルシェの事なら任せてくれのマニアも参加予定。高倉健ポルシェにまた会える、嬉しい! テリー伊藤(演出家) 1949年、東京築地出身。早稲田実業中等部、高等部を経て日本大学経済学部を卒業。2023年3月、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。テレビ番組制作会社IVSテレビに入社し、「天才たけしの元気が出るテレビ」「ねるとん紅鯨団」などのバラエティ番組を手がける。その後独立し、テレビ東京「浅草橋ヤング洋品店」など数々のテレビ番組の企画・総合演出を手掛ける。著書「お笑い北朝鮮」がベストセラーとなり、その後、テリー伊藤としてメディアに多数出演。演出業のほか、プロデューサー、タレント、コメンテーターとしてマルチに活躍している。YouTubeチャンネル「テリー伊藤のお笑いバックドロップ」LALALA USAでコラム連載中https://lalalausa.com/archives/category/column/terry

原田達司

シンガーソングライター ピコ太郎

国境や世代を越えた楽曲で世界を笑顔に シンガーソングライター ピコ太郎(ぴこたろう) ■プロフィール2016年にYouTubeにアップした『PPAP (ペンパイナッポーアッポーペン) 』の動画がジャスティン・ビーバーやCNN、BBCなどの世界メディアに取り上げられ、世界中で大ブレイク。日本人としては26年ぶりにアメリカビルボードHot100チャートに入り、「ビルボードHot100にチャートインした最も短い曲」としてギネス世界記録にも認定されている。また、トランプ大統領来日時の晩餐会に出席を果たし、外務省からの任命でSDGs推進⼤使として活躍した経験を持つ。 世界的メガヒットを記録し、国内外を席巻した『PPAP (ペンパイナッポーアッポーペン)』が8月25日に10周年を迎えた。独特のリズムとユーモアで、国境、言語、世代を越えて人々を魅了してきた。音楽や笑いを届ける一方、小児がん支援やSDGs推進大使など、エンターテインメントの力を社会に還元する活動を続けるピコ太郎さんにお話しを伺った。 曲を作るときは、僕のプロデューサーである古坂大魔王さんの家を利用していますピ。10年前に『PPAP』がヒットしたことで、古坂さんが音楽の機材を揃えて、自宅をスタジオにしてくれたんですピ。気が向いたらいつでも録れる状態になっています。基本的には、思いついた曲をすぐ形にして、ビデオまで撮るということを10年間続けていますピ。僕はファーストインスピレーションを最上位に置いていて、iPhoneに鼻歌で思いついた瞬間に録音、それがほぼ9割完成なんです。今回もたくさん曲をリリースしましたが、実は100曲ほどストックがあって、そこから減らしたくらいです。コロナ禍に「無駄なものって必要だな」と感じたことがありますピコ。ネットを見ずにぼーっとする時間や、家族との他愛もない会話、友達と3時間だらだら喋る時間。そういう無駄を埋める最大のものが、「ピコ太郎」なのかもしれません。そんなことを考えながら、思いついたものを形にし続けていたら、振り返れば10年経っていましたピ。 ■世界と言語、世代を越えた『PPAP』 特に印象に残っているのは、ウガンダの市場で裸足のおばちゃんが、僕を見つけてパイナップルを持ちながら「Hey, it‘s you.」と言ってくれたことですピ。世界中に知ってもらえたんだと、改めてすごさを感じました。サッカーのスター選手が集まる場でも、僕への声援が一番大きかったことがあって、「このパワーはお返ししなきゃ」と思ったんですピコ。有名人が寄付や社会的な発言をするのも、きっと恩返しなんですよね。特に大きかったのが、小児がんを患い、3歳で亡くなった愛梨ちゃんとの出会いが大きかったです。僕の曲が大好きな子で、普段は手術を受けることもあり、中々笑うことも少ないのですが、PPAPを歌うと本当に嬉しそうに笑ってくれるんですピ。その姿を見て、このパワーはすごいと思いました。時間は平等じゃない。だから、偽善者と言われても、今この瞬間に子どもたちが笑ってくれるなら、それでいいと思いますピコ。 ■SDGsの普及にも尽力 SDGs推進大使として最初にやったのは、とにかくSDGsを知ってもらうことでした。9年ほど前は「サステナブル・ディベロップメント・ゴールズって何?」「17個あるんだ」と、まず言葉を知ってもらう段階だったんですピコ。その後、SDGsを揶揄する風潮も出てきたので、そこは僕が一手に引き受けてもいいと思いました。僕は道化ですから、「ピコ太郎もSDGsやってる」と笑われることで、逆に興味を持ってもらえる。パフォーマンスも、実は「やっているよ」と伝えることで影響が波及するんですピ。僕自身は貧困や平等、世界平和、環境などを中心に広報活動をしていました。ただ、ゴミ拾いを僕がやっても一日に拾える量は限られます。それより、専門家やプロが取り組んでいることを、僕が広く紹介する。それが僕の役割だと自負していますピコ。 ■『PPAP』の原点と誕生 PPAPは、実は最初から「PPAPを作ろう」と考えて生まれた曲ではありません。もともとは1995年頃に古坂さんが作った「テクノ体操」というコントのトラックがあって、15年ほど前に、そのトラックを使って曲を作ろうという話になったんですピコ。ある時、古坂さんたちと一緒にその曲を流して、「さあ、ピコ太郎歌って」と、ほとんど無茶ぶりのように始まりました。その時、歌詞を書くためにペンを持っていたので、咄嗟に「アイ・ハブ・ア・ペン」と言ったんです。古坂さんのところにはいつもリンゴがあったので「アイ・ハブ・アン・アップル」と続けて、ペンとリンゴを合わせて「アッポーペン」。パイナップルの缶詰もあったので同じようにやって、「ペンパイナッポー・アッポーペン」になりました。実は自分から見た一人称の視点で生まれた言葉なんですピコ。 ■国境を越える表現の難しさ やっぱり、世界中の人が笑ってくれることが一番のやりがいですね。特に子どもにウケるのは難しいんですピ。大人なら流行語を使えば笑ってもらえるかもしれませんが、子どもは持っている情報が少ない。だから、鼻水が出る、転ぶといった、国や言葉が変わっても変わらないものが笑いになるんですピ。そう考えると、フランスでもスペインでもアフリカでも、言葉が違うのにPPAPで笑ってくれるのは本当にすごいことだと思います。一方で、海外では文化や習慣の違いに気をつけていますピ。日本では普通のジェスチャーが、国によっては失礼になることもあります。だから曲を作る時も、AIなどを使って、その言葉がほかの国ではどうかと一度調べるようにしています。世界中で笑ってもらうためには、笑いだけでなく相手の文化を知ることも大切ですピコ。  ■『PPAP』10周年記念ライブを開催 10周年の記念ライブは、笑いと音楽を融合した90分にしたいと思っていますピコ。EDMやダブステップのさらに先にある音楽を探しながら、今回はハードスタイルやAIも取り入れています。AIなら超絶ギタリストの演奏を使うこともできるんです。古坂さんの笑いと僕の歌をぎゅっと詰め込んで、子どもたちも一緒に笑って踊れるライブにしますピコ。子どもにはイヤーマフも貸し出すので、安心して楽しんでもらえますピ。 ■何事も本気でやること 学生は、動物としてのピークだと思うんです。だからこそ、今できることをめちゃくちゃ本気でやった方がいい。勉強でも、恋愛でも、寝ることでもいいんです。一生懸命やった経験は、後々必ず効いてきますピ。特に習慣は若いうちにつきます。映画を観るなら「この監督は誰?」、服を買うなら「このデザイナーは誰?」と問いを立てて、興味を持ったらすぐ掘ってみる。情報を試食するだけじゃなく、お腹いっぱい食べてほしいですね。今の一生懸命が、40歳くらいになった時に「やっておいてよかった」と思えるはずですピコ。 学生新聞オンライン2026年8月6日取材 城西国際大学3年 渡部優理絵/日本大学2年 原田達司 ■PPAP10周年記念ライブ「PPAP X PT ~PPAP10周年プレミアムライブ~」 本公演は、「PPAP」10周年プロジェクトとして連続配信中のプロジェクト「Tottemo Release 80.8」の集大成となるライブ。これまでリリースされてきた最新楽曲を軸に、10年間の歩みと進化を凝縮した内容となっており、一夜限りのスペシャルライブとなる予定です。なお、本公演は約10年ぶりのワンマンライブとなります!チケットは一般販売中! 日程:2026年9月27日(日)【夜公演】OPEN 17:30 / START 18:00 会場:harevutai〒170-0013 東京都豊島区東池袋1丁目19-1https://avex.jp/pikotaro/ オフィシャルサイト:https://avexnet.jp/contents/PKTRO-XXXX-XXXX YouTube:https://www.youtube.com/pikotaro X:https://x.com/pikotaro_ppap Instagram:https://www.instagram.com/pikotaro_ppap_official/ TikTok:https://www.tiktok.com/@pikotaro2016ppap Facebook:https://www.facebook.com/pikotaro.official/ 日本大学 2 年 原田達司/法政大学 3 年 脇田悠太/日本女子大学 1 年 大池絵万里/京都芸術大学 1 年 猪本玲菜/城西国際大学 3 年 渡部優理絵 学生新聞2026年10月号 掲載記事 どんな場面でも細部をおろそかにせずに表現する ■表現力を高める方法をお聞かせください 表現者として常に意識しているのは、細部まで決して手を抜かないことですピ。たとえば「PPAP」では、実物のペンやリンゴを持つことはしません。身振り手振りで「そこにある」と確信させることで、観客には本当にペンやリンゴが見えてくる。パイナップルも同じで、存在を丁寧に意識しながら身体を繊細に動かしていますピ。古くから言われる「神は細部に宿る」という言葉が好きで、どんな場面でも細部をおろそかにしないことを心がけていますピコ。 ■表現する上で意識していることはありますか...

佐藤海都

株式会社三菱総合研究所  理事長 小宮山宏

人生は設計通りにはいかない。だからこそ、偶然を大事に 株式会社三菱総合研究所  理事長 小宮山宏 (こみやまひろし) ■プロフィール1972年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了後、同大学工学部教授、工学系研究科長・工学部長を経て、2005年4月に第28代東京大学総長に就任。2009年3月に総長退任後、同年4月に株式会社三菱総合研究所理事長に就任(現職)。2010年8月、「プラチナ構想ネットワーク」を設立し、会長に就任。その他、STSフォーラム理事長、超教育協会会長、国際科学技術財団会長、ヒートポンプ・蓄熱センター理事長など。 東京大学大学院を卒業後、東京大学第28代総長を経て、現在は三菱総合研究所の理事長、プラチナ構想ネットワークの会長として、日本の未来を描く小宮山宏氏。「人生は設計通りには進まない」という自身の経験から、課題先進国の日本が目指すべき姿、AI時代に必要な力、そして大学生へのメッセージを伺った。 私は大学生時代、アメリカンフットボール部に所属していました。学生生活としては普通で運動部で活動しながら、授業と両立させる日々を送っていました。アルバイトは家庭教師を中心に行っていました。しかし、アメリカンフットボールは防具などにかなりお金がかかるため、物流関係の日雇いバイトもしていました。東京大学では、1・2年生は駒場キャンパス、3年生からは本郷キャンパスで学びます。しかし、アメリカンフットボール部の練習は駒場キャンパスで行われていたため、3年生の時は授業や学生実験を終えた後に移動し、練習に参加する生活でした。勉強と部活動の両立は決して楽ではなく、一度は部活動を辞めようと考えたこともありましたが、クラスメートらの支えもあり最後まで続けることができました。当時のスポーツ指導は今とは異なり、練習中の水分補給が禁止されるなど、今では考えられないような環境でした。それでも仲間とともに過ごした時間は、忘れがたい思い出です。 ■人生は設計した通りには進まない 現在は研究者としての道を歩み、三菱総合研究所の理事長を務めていますが、学生時代から研究者を目指していたわけではありません。大学卒業後は企業に就職するだろうと思っていましたし、自分が大学に残るとは想像もしていませんでした。転機となったのは叔父の言葉と卒業研究です。叔父が化学系の会社に勤めていたのもあり、「これからは化学工学が重要になる」と教えられ、その分野に進むことを決めたこと。また、アメリカンフットボール部の活動との兼ね合いから卒業研究を早めに始めたところ、講義とは違って、自分の予想とは異なる結果が次々と現れ、「なぜこうなるのだろう」と考えることに大きな面白さを感じました。それが研究に夢中になるきっかけでした。さらに大学院へ進学した際も、大学が大学院進学者を増やそうと推薦制度が設けられていたことなどが後押しとなりました。振り返れば、人生は自分で描いた設計図通りに進んできたわけではありません。さまざまな偶然や人との出会いが重なり、現在の私があります。だからこそ、人生は計画通りに進めようとするよりも、目の前のことに真剣に取り組み、訪れたチャンスを大切にすることが重要だと考えています。 ■課題先進国から課題解決先進国へ 三菱総合研究所は、単に未来のことなどを考えるだけでなく、「Think & Act Tank」を掲げているシンクタンクです。社会課題について考えるだけではなく、自ら行動し、解決へつなげることを大切にしています。近年は、地球温暖化や少子高齢化、エネルギー問題など、一つの専門分野だけでは解決できない課題が増えています。専門性を深めることは重要ですが、それぞれの知見を結び付け、社会全体を俯瞰して考える視点も欠かせません。その思いから、私はプラチナ構想ネットワークを設立し、「プラチナ社会」を実現する活動にも力を注いでいます。日本は今まで、欧米から情報を仕入れて発展してきました。しかし現在は、日本が世界に先駆けて高齢化や人口減少といった課題に直面しています。つまり現在は周りから仕入れることは出来ません。しかし日本の現在の状況は今後世界各国でも避けて通れません。日本がそれらの課題を解決できれば、その経験は世界のモデルになります。私は、日本は「課題解決先進国」を目指すべきだと考えています。その実現に向けて、プラチナ構想ネットワークでは森林循環経済や再生可能エネルギーなど、さまざまなテーマに取り組んでいます。また、どれだけ優れた技術があっても社会は変わりません。技術を社会へ実装するためには、多くの人が納得し、協力しながら進めていくことが不可欠だと考えています。 ■鍵は好奇心と真剣さ 私が一緒に働きたいと思うのは、「ChatGPTのようではない人」 です。もちろん、私は生成AIを活用しています。しかし、AIには迷いや葛藤が感じられないことがあります。便利な存在ではありますが、人間らしさという点では大きな違いを感じています。だからこそ、私が大切にしたいのは「真剣さ」です。物事に真剣に向き合う人は自然と好奇心が生まれ、新しいことを学び、挑戦し続けることができます。さらに、私は「楽観的であること」も重要だと考えています。楽観とは、生まれ持った性格ではなく、自らの意思で前向きに物事を捉えようとする姿勢です。困難な状況でも前を向いて進もうとする人と、一緒に仕事がしたいと思っています。 ■大学生へメッセージ 学生の皆さんには、「安心」を求めすぎないでほしいと思います。昔は「大企業へ入れば安心」と言われていましたが、今はそのような時代ではありません。社会は変化し続け、将来を完全に予測することは誰にもできないのです。だからこそ、自分が本気で取り組めることを見つけ、多くの経験を積んでください。自分自身が成長するために挑戦することが、結果として人生の選択肢を広げてくれます。また、年代や立場の異なる人と積極的に交流してほしいと思います。異なる価値観に触れることで、自分では思いつかなかった考え方や新しい視点を得ることができます。私は「人生は設計通りには進まない」と考えています。目の前のことに真剣に向き合っていたからこそ、偶然の出会いや経験が現在の私につながっています。未来は誰にも分かりません。だからこそ、変化を恐れず、目の前のことに全力で取り組んでください。その積み重ねが、自分だけの人生を切り拓く大きな力になると信じています。 学生新聞オンライン2026年7月6日取材 法政大学3年 佐藤海都 法政大学3年 佐藤海都/法政大学1年 山田賢彦/日本大学2年 原田達司/城西国際大学3年 渡部優理絵/京都芸術大学1年 猪本玲菜/上智大学2年 石川仁菜/獨協大学4年 深山琴美

学生新聞インターン

山梨県知事 長崎幸太郎

山梨が世界へ羽ばたくために挑戦を恐れない 山梨県知事 長崎幸太郎(ながさきこうたろう) ■プロフィール昭和43年東京都生まれ。東京大学卒業後、大蔵省(現財務省)に入省。在ロサンゼルス総領事館領事、山梨県企画部総合政策室政策参事、財務省主計局地方財政係主査などを歴任。平成17年9月から衆議院議員を通算3期務める。平成31年2月に山梨県知事に就任し、現在2期目。県民一人ひとりが豊かさを実感できる山梨の実現に向け、県政運営に全力で取り組んでいる。 ジュエリーやぶどう、桃などの特産品で知られる山梨県だが、実はリニア中央新幹線の開業を見据えた地域交通の高度化や水素エネルギーの実用化、医療機器産業の海外展開など世界基準の挑戦を続けている。「頑張れば報われる地域社会をつくる」ことを根本的な価値感と位置づけ、日々奮闘されている長崎知事に地域づくりや山梨県の展望について伺った。 大学時代を振り返ると、前半2年間は決して勉強一筋ではありませんでした。東京大学ではゴルフ部に所属し、ゴルフや麻雀に夢中になる日々を送っていました。実はゴルフ部に入部したきっかけは、数学の家庭教師をしてくださっていた林修先生とのご縁からです。自分の将来について真剣に考えるようになったのは2年生の終わり頃です。当時はバブル景気の真っただ中でしたが、その一方で経済格差も広がっていました。私は税制や財政の仕組みを通して社会をより良くしたいと考え、大蔵省(現在の財務省)を目指して猛勉強をしました。元々、政治への関心がありましたが、当時、政治家の家に生まれていない人間が政治家になるには、霞が関を経由することが現実的な道でした。そのためまずは霞が関を目標にしたのです。 ■政策を形にしたいという思い 大蔵省勤務を経て衆議院議員となり、政策づくりに携わるようになりました。しかし無所属議員となった時期には思うように政策形成へ関われず、もどかしさを感じました。その分、地域に根付いた活動を行い、重度心身障害児の受入施設の不足や非正規労働者の将来不安など、さまざまな問題が見えてきました。自らの責任で地域を変えたい、思いっきり自分を試してみたいという気持ちが強くなり、山梨県知事選への挑戦を決意しました。 ■「頑張れば報われる地域社会をつくる」 これが県政の根本的な価値観です。働く世代には学びやスキルアップに努めてもらい、それが企業の収益向上につながったならば、賃金上昇という形で正当に還元される社会を目指します。これまで日本では、企業収益が伸びても賃金に十分反映されず、働く人が努力の手応えを感じにくい状況が続いてきました。しかし、頑張っても報われない環境では意欲は育ちません。だからこそ、成果を適切に分かち合う仕組みが必要です。一方で、挑戦する機会そのものが家庭環境によって左右されてはなりません。経済的な事情で勉強やスポーツを諦めることがないよう、あらゆる子どもが学びや指導を受けられる環境をつくるため、少人数教育を進めています。 ■医療機器産業への挑戦 本県の機械電子工業は半導体製造装置関連が中心ですが、半導体産業は景気変動の影響を受けやすく、雇用の不安定さが課題でした。そこで、半導体製造装置で培われた技術を医療機器産業へ展開する取り組みを進めています。医療分野は今後も成長が期待される産業です。右肩上がりの市場へ進出することで、安定した雇用を生み出し、県民が将来の見通しを持ちながら人生設計を描ける社会の実現を目指しています。 ■リニアが変える山梨の未来 山梨県の未来を語る上で欠かせないのが、リニア中央新幹線です。私は、富士山登山鉄道構想から生み出された「富士トラム」という新たな交通システムを推進しています。「富士トラム」はレールを敷設せず、道路の白線などを読み取りながらタイヤで走行する次世代型モビリティで、電車とバスの特徴を併せ持つ交通システムです。環境への負荷を抑えながら、富士山観光と地域交通を両立できる仕組みとして期待しています。「富士トラム」は富士山のオーバーツーリズム対策として提案したものですが、現在はリニア駅との接続を視野に入れた検討も進めています。富士山の玄関口にすることでリニア山梨県駅の乗降客数を増やし、リニアの停車本数の増加につなげたいと考えています。リニアが開業すれば、品川まで約25分。羽田空港へも約1時間で移動できます。豊かな自然の中で暮らしながら都心へ通勤できる、新しいライフスタイルも実現できると考えています。 ■若者の挑戦を応援する県づくり 私は、若い世代には積極的に挑戦してほしいと考えています。山梨県では少人数教育をはじめ、インドやベトナム、アメリカ・カリフォルニアとの国際交流、アート交流など、多様な価値観に触れる機会を提供しています。外を知って刺激を受けることで選択肢が増えると思います。さらに、起業を志す若者を支援する拠点づくりや、先輩起業家との交流機会を増やし、挑戦へのハードルを下げる環境づくりも進めています。山梨には、昔から甲州財閥に代表される開拓者精神があります。地域全体で挑戦する人を支える文化が根付いていることも、本県の大きな魅力です。 ■世界へ挑む山梨 現在、山梨県は水素エネルギーの分野で世界最先端レベルの実用化を進めています。その取り組みは海外からも高く評価されており、人口2億5千万人のインド・ウッタルプラデーシュ州などとも連携が進んでいます。また、フィジカルAIの時代においても、山梨県の企業は世界中のメーカーに不可欠な部品や材料を作り出すことができます。完成品だけが価値を持つ時代ではありません。世界を支える基盤技術こそ、山梨の強みだと思っています。賃金水準という課題を乗り越えれば、山梨県は世界と直接つながる大きな可能性を持っており、その景色を必ず実現したいと考えています。 ■大学生へのメッセージ 大学生活は、自分の可能性を広げられる貴重な時間です。私自身も学生時代は遊びに夢中になった時期がありましたが、将来について真剣に考えたことで人生が大きく変わりました。挑戦には失敗もあります。しかし、挑戦しなければ新しい景色は見えません。ぜひさまざまな人と出会い、多様な価値観に触れ、自分の可能性を信じて行動してください。その経験は必ず将来につながります。皆さん一人ひとりの挑戦が、日本、そして世界の未来を切り拓く力になることを期待しています。 学生新聞オンライン2026年7月1日取材 京都芸術大学1年 猪本玲菜 中央大学1年 服部将昌/京都芸術大学1年 猪本玲菜/法政大学3年 高原明希/情報経営イノベーション専門職大学2年 山田千遥/中央大学1年 大山祥

学生新聞インターン

ヒトトヒトホールディングス株式会社 代表取締役社長 松本哲裕

背伸びをせず、等身大の自分のままで ヒトトヒトホールディングス株式会社 代表取締役社長 松本哲裕 (まつもとてつひろ) ■プロフィール1974年、石川県生まれ。星稜高等学校卒業後、日本大学商学部に進学。在学中のアルバイトを経て、日本総業(現ヒトトヒト)入社。その後、外資系不動産会社の営業を経て、2011年に経営陣として復帰。2019年にニッソーホールディングス(現ヒトトヒトホールディングス)代表取締役社長 就任。 2026年4月に上場したヒトトヒトホールディングス株式会社。代表取締役社長の松本哲裕さんがこれまでの歩みの中で大切にしてきたのは、「人とのご縁」。さまざまな経験や出会いが、現在に至るまでの歩みや経営者としての考え方につながっていった。その背景とは。 大学時代は、アルバイトが中心の生活でした。もともと野球を続けており、スポーツ推薦で大学に入学しました。ですが野球一色かというとそんなことはなく、野球も勉強もほどほどに、とにかくアルバイトに熱が入っていましたね。野球選手としては、現実に直面する場面は何度もありました。私たちの世代は、中学から高校に入るとき、みんな自分がスーパースターだと思って行くわけです。しかし、いざ強豪高校に入ったそのとき、上には上がいるのだと思い知ることになる。私たちの頃は、半分以上が途中で挫折していたと思います。ただその中でも、チームスポーツの厳しい世界を通じて、「このチームで勝つためには、自分の今の立ち位置だったらどういうことをしなければならないのか」、そのような役割意識みたいなものは、身をもって学びました。これが今の仕事にもすごく活きています。 創業社長との出会いは高校生の秋です。全国大会で優勝して台湾遠征に行くことになり、そこにお世話係として同行してくださったのが創業社長でした。その後、東京の大学に進学し、たまたま開幕戦の神宮球場に立っていたら、そこで創業社長とばったり再会しました。色んなご縁がつながって今の人生が決まりましたね。そして、大学時代に夢中になっていたアルバイトというのが、現在のヒトトヒト(旧日本総業)なんです。学生時代のバイトからそのまま就職した、いわゆる「バイト上がり」です。その後も、学校の最大休学期間である2年間を使ってアメリカへ留学に行きました。マイクロソフトでインターンをさせていただき、ITの面白さにも気付きました。楽しくて帰りたくありませんでしたが、期間も決まっており、ビザもお金もないため帰国しました。単位が少し残っていたため、会社で営業をやりながら学校にも通って、無事卒業しました。 ■キャリアの軸は、「人とのご縁を大切に」 私のキャリアの軸は、一貫して「人とのご縁を大切に」です。最初は営業からスタートして、課長にまでなりました。しかし2006年に一度会社を辞めて、外資系の不動産会社に転職しました。そこでは、さまざまなチャンスもありましたが、2011年に創業社長が急逝した事をきっかけに、意を決して戻ってきました。最後は人とのご縁を大切にせねばという思いからの行動でした。戻ってきてからは、部長・役員の立場として経営全般に携わりました。その間、営業本部長や管理本部長、企画なども経験しました。8年間ほどかけて、会社全体のさまざまな部門を一周回ったという感じです。この経験を通じて、会社全体の動きを完全に頭に入れることができました。 ■神宮球場の清掃から始まった会社 うちの会社の成り立ちとしては、イベントや興行に付帯する業務を請け負うところから始まりました。神宮球場の清掃や、チケットを切る「もぎり」の業務からです。そこから時代とともに、これからはセキュリティが重要だと言われるようになり、警備業にも取り組みました。そこからさらに人材派遣など、人の力を必要とするさまざまな領域へと事業を広げ、現在に至ります。よく「一言でいうと何屋さんですか?」と聞かれますが、非常に難しいですね。警備会社でも、人材派遣会社でも、イベント運営会社でもありません。しかし同時に、そのすべてをやっている会社でもあります。裏を返せば、そこが強みでもあると思っています。当社は、今年度の4月に上場しました。ここまで会社が成長できた理由は三つあると思います。一つ目は、「やる」ということです。理屈ではなく、ただひたすらにやる。お客様との約束は必ず守る。営業で仕事を取ると言ったら必ず取る。そこには紆余曲折があったり、プロセスがあったり、理屈的な部分やそうでない部分もあったり、色々あると思います。当時は本当に苦しかったです。二つ目は、時代の流れに乗れたということ。その会社のそのポジショニングを恨んでもしょうがないですよね。初任給が良いとか、有名な会社が良いとか、そうした基準で会社を選ぶのかもしれませんが、それは「選べる人」の話。私は選びようがなかったです。だから逃げなかった。ちょうどその当時、法律が施行され、大規模建築が可能になりました。そのような時代の流れから、一気にショッピングセンターが広がり、事業を大きく躍進させることができました。三つ目は、人を動かすということです。一人で仕事はできませんから、人をしっかり動かす。デール・カーネギーの『人を動かす』という本は非常におすすめです。人を動かしていくしかないのだと思ったときに出会った本です。 ■自分の感性を表現できる人と働きたい 一緒に働きたいと思うのが、私たちにはない感性を持つ人です。当社の経営理念にもつながりますが、『人間性の涵養をはかり、それを表現しうる力を持つ』人です。また、ぜひ自分の感性をしっかりと表現できる人であってほしいとも思います。個性とは、実にさまざまな概念があります。大人しくて発言できないからダメ、とはまったく思っていません。しっかりと「自分」を持っていること。表現というのは言葉だけではないと思います。行動かもかもしれませんし、その部分は多面的に見ています。百パーセント完璧な人なんていません。みんな心があって、雨風打たれて、体調が悪くて休むこともある。会社とは、そういう人たちの集まりです。ですから、平均で言ったら六十点なわけです。六十点を育成し、八十点にして、強みを作っていくということが我々のノウハウなんです。飛び抜けた人も欲しいけど、六十点だからダメということでもないんですよ。自分をちゃんと客観視できるということも大事だと思います。涵養をはかるということと、自分を持つこと。これを持っていれば本当に誰でも大歓迎です。 ■学生へのメッセージ 当社は北海道から九州まで、球場や商業施設をはじめ、さまざまな現場で仕事をしています。学生さんが非常に多く、みんなが主役になって輝ける場所です。ここで出会った仲間は、一生の宝物になります。少しでも興味を持っていただけたら、ぜひ当社へ応募いただきたいです。 学生新聞オンライン2026年7月3日取材 東京女子大学3年 浮田梨紗 津田塾大学4年 山下さくら/情報経営イノベーション専門職大学2年 山田千遥/京都芸術大学1年 猪本玲菜/東京女子大学3年 浮田梨紗/日本大学1年 田中秀弥/東京都立大学4年 坂倉彩月/法政大学2年 森川葵

学生新聞インターン

横河電機株式会社 取締役 代表執行役社長 重野邦正

挑戦を続け、社会インフラの未来を支える ■プロフィール1968年生まれ。岡山県出身。九州工業大学卒業後、1991年横河電機に入社。エンジニアとしてキャリアをスタートし、海外でのプロジェクトマネジメントや中東・アフリカ地域の現地法人の経営に携わる。「A commitment made is a commitment kept」(有言実行)という座右の銘のもと、社会とお客様の課題の解決に向けてYOKOGAWAグループをけん引している。 1915年に創業された横河電機株式会社。石油・ガス、化学、電力、食品、医薬品、水処理など、社会インフラを支える産業向けに製品やソリューションを提供し続けるB to B企業である。63ヵ国で事業を展開しているグローバル企業だ。横河電機株式会社は、「社会を支える企業を支える会社」だと語る重野社長にお話を伺った。 学生時代は夏休みや冬休みに地元へ帰り、白桃やマスカット、スイカなどの販売アルバイトに打ち込んでいました。スーパーの店頭ではハチマキを締めて威勢よく呼び込みをし、百貨店ではスーツにネクタイ姿で接客をしていました。同じ商品でも売る場所によってお客様も売り方もまったく違います。販売する現場ごとの空気を感じながら、「どうすれば商品を手に取ってもらえるか」を常に考え、工夫を重ねる日々でした。 ■商売の原点はアルバイト スーパーで呼び込みをしていたとき、お客様から「どれが一番おいしいですか」とよく聞かれました。最初は一番良いものを勧めていましたが、最後には百個近い商品をすべて売り切らなければなりません。なので、どう説明すれば最後まで納得して買っていただけるのか、どうすれば売り切れるのかを必死に考えていました。また、売上が一定額を超えたらインセンティブを支給するという制度もありました。当時は必死に売りましたが、今振り返ると、その目標は社長が絶妙に設定したものだったのだと思います。人が挑戦したくなる仕組みやモチベーションの大切さを、このアルバイトを通じて自然と学ぶことができました。今思えば、商売や経営の面白さを知った原点だったのかもしれません。 ■横河電機との出会い 大学では理系を専攻し、研究室で横河電機の製品を使用していました。教授から「横河電機は宣伝をしなくても売れるほど品質が高い会社だ」と聞き、その言葉をきっかけに横河電機という会社を意識するようになりました。当時はバブル期で、生涯賃金という言葉もよく聞かれる時代でした。メーカーの中でも待遇面に魅力を感じていたことに加え、品質への信頼や世界で活躍できる可能性に惹かれ、入社を決意しました。 ■現場で知ったものづくりの感動 入社後はエンジニアとして、工場やプラントの制御システムの立ち上げを担当しました。特に印象に残っているのが、台湾の製鉄所での仕事です。スクラップから溶かした1500度超えの真っ赤な鉄を使うのですが、その巨大な設備を何カ月もかけて調整し、初めて製品として鉄が流れ出た瞬間は感動的でした。現場にいた技術者全員と、作業の手を止めて万歳をしたことを覚えています。サイトマネージャーが涙を流す姿は今も忘れられません。一つのプラントを完成させるためには、多くの企業、多くの技術者が力を合わせます。自分たちの技術が社会を支えていることを実感できた瞬間であり、ものづくりの仕事を選んで良かったと心から思いました。 ■社会インフラを支える使命 横河電機は創業110周年を迎えました。主力製品である制御システムは50年以上にわたり世界中のプラントで使われています。私たちの技術は、石油・化学プラント、発電所、浄水場、ごみ焼却施設など、人々の生活に欠かせない社会インフラを支えています。24時間、365日止めることのできない設備だからこそ、高品質・高信頼が何より重要です。現在は売上の約73%が海外です。世界各国で営業・サービス体制を築き、納入して終わりではなく、その後も長期間にわたりお客様を支える「Trusted Partner」であり続けることを大切にしています。 ■信頼を積み重ねることが最大の強み 私たちの仕事は、製品を納めて終わりではありません。プラントは何十年にもわたって稼働し続けるため、導入後の保守や更新、トラブル対応まで、お客様と長い時間を共にします。設備に不具合が起これば、生産や社会インフラに大きな影響を及ぼす可能性があるため、迅速かつ誠実な対応が欠かせません。私が横河電機の最大の財産だと考えているのは、人です。技術力はもちろん大切ですが、お客様の立場で最後まで責任を持って向き合う姿勢こそが、長年にわたる信頼につながっています。世界中で事業を展開する現在でも、日本で培ってきた品質へのこだわりや責任感は変わりません。だからこそ、困ったら横河電機に相談しようと思っていただける存在であり続けたいと考えています。こうした信頼の積み重ねが、創業から100年以上にわたり事業を続けてこられた理由であり、これからも大切に守っていきたい企業文化です。 ■挑戦する会社へ変わる これからの横河電機は、単にお客様からの依頼に応える会社ではありません。AIによる自動化やCO₂削減、省エネルギーなど、新しい価値を自ら提案する企業へ変わろうとしています。そのためには、現状維持ではなく挑戦が欠かせません。私は社員に、「現状維持では脱落していく」と伝えています。失敗を恐れず、挑戦してほしいと伝えています。新しい技術や発想に挑戦する人が、これからの会社をつくっていくと考えています。 ■大学生へのメッセージ 就職活動では、自分の強みや志望動機を一生懸命考えると思います。しかし、そこにこだわり過ぎる必要はありません。仕事は何十年も続きます。本当にやりたいことや自分の強みは、社会に出てから見つかることも少なくありません。だからこそ、自分の可能性を最初から狭めず、幅広い視野でさまざまな会社や仕事に触れてください。若いうちは失敗を恐れず挑戦できる大きな強みがあります。その挑戦の積み重ねが、自分自身の成長だけでなく、社会を支える力にもつながっていくと私は信じています。 学生新聞オンライン2026年7月9日取材 京都芸術大学1年 猪本玲菜 京都芸術大学1年 猪本玲菜/成城大学1年 牧村実知/早稲田大学3年 伊藤健太

イベント・企業紹介

舞台「てらこや青義堂 師匠、走る」 人と人との絆に心温まる、笑いと迫力...

2026年8月14日 東京・サンシャイン劇場にて舞台「てらこや青義堂 師匠、走る」が開幕しました。「羽州ぼろ鳶組シリーズ」「イクサガミ」の直木賞作家・今村翔吾さんによる小説「てらこや青義堂 師匠、走る」(小学館文庫刊)を舞台化。市井に生きる人々のささやかな営みと、その胸に抱えた想いを、爽快感あふれる筆致で描き出してきた今村翔吾作品。作・演出の青木豪さんがその今村翔吾作品でしか味わえない爽快感と多幸感を演劇空間に立ち上げます。初日に先立ち8月14日に行われた公開ゲネプロを取材させていただきました。 人情と殺陣が織りなす、心温まる寺子屋物語〜学生の観劇レポート〜 歴史小説家の今村翔吾さんの作品が舞台でどのように表現されるのか鑑賞前から、楽しみにしていました。主人公は寺子屋の先生として、生徒たちの成長を温かく見守る人物として描かれている一方、実は「元•最強の忍び」という意外な一面を持っており、華麗な剣捌きが印象的でした。また、中幕を効果的に使い、舞台後方で場面転換を行いながら前方で演技を続ける演出も興味深かったです。「てらこや青義堂 師匠、走る」というタイトルの通り、主人公が客席に降りて走る場面もあり、舞台上だけでは味わえない臨場感を感じました。親子で楽しめる作品でありながら、「誰かのために生きること」を考えさせられた舞台でした。日本女子大学1年 大池絵万里 殺陣あり、人情ありで初めて見たのがこの舞台で良かったと思わせてくれるほど素晴らしい舞台だった。人情ある主人公の性格が観ていてとても良かったと思う。元忍びで周囲への警戒心が強かった主人公の内面や態度が変わっていくのも魅力的だと思う。また、なんといっても舞台ならではの演技や表情、声の迫力によって、登場人物の感情がより身近に感じられた。戦う場面が多く臨場感に溢れており、一緒にハラハラできる舞台であった。アドリブも多く、笑える場面もとても多かったが、心に残る場面も多く、観終わった後に自分も周りの人とのつながりを大切にしたいと思える作品であった。日本大学1年 田尻彩 十蔵が筆子たちを想う気持ちが大きいのはもちろんですが、物語を見ているうちに、それ以上に筆子たちも十蔵のことを大切に想っていることが伝わってくるとても心温まる物語でした。思わず笑ってしまう場面もたくさんありながら、物語が進むにつれて緊張感も増していき、「この先どうなるんだろう」と自然と舞台から目が離せなくなり、最後まで夢中になって観ることができました。そして、寺子屋「青義堂」の師匠をつとめる十蔵の生き方を見ていると、「今からでは遅い」と決めつける必要はないと思わされました。何度だってやり直せるし、何歳からだって好きなことを見つけて始めてもいい!そんなことを感じさせてくれる舞台でした。城西国際大学3年 渡部優理絵 <スタッフコメント>【作・演出:青木豪(あおき・ごう)】とてもチームワークの良い稽古を重ねて来られまして、遊び心と繊細さを兼ね備えた芝居が出来上がりました。まもなくお客様にお届け出来るのが楽しみでなりません。人も世の中も、悪いところを見ようと思えば果てしなく悪くなるのでしょうけれど、この作品はひたすら人の良いところを見ようとする。すべては心の持ちようなのだと教えてくれます。晴れ晴れとした風の吹く本作が、少しでも多くのお客様に届きますことを祈っております。 <出演者コメント>【坂入十蔵役:新木宏典(あらき・ひろふみ)】幕を開けられる事、とても嬉しく思います。キャストだけでなく、スタッフの皆様のお力添えもあり、稽古を重ねてこられた事に心から感謝申し上げます。作り上げてきたこの作品と客席に座ってくださったお客様との化学反応を楽しみながら、千秋楽まで挑戦的に、誠心誠意の表現をして参ります。引き続き応援よろしくお願いします。 【睦月役:彩みちる(いろどり・みちる)】いよいよ舞台「てらこや青義堂 師匠、走る」が幕を開けます。お稽古を重ねる中で、皆さんと一緒に少しずつ作品が形になっていく時間を、とても大切に過ごしてきました。私が演じる睦月は、夫・十蔵を信じ、寄り添いながらも、しっかりと自分の心を持っている女性です。二人の間に流れる愛情を丁寧にお届けできたらと思っています。劇中で歌わせていただく一曲とともに、睦月として大切に舞台を生きたいと思います。ぜひ劇場でお楽しみください。 【景春役:一色洋平(いっしき・ようへい)】「人のために動く方が力が発揮できるし幸せ」というのが、日本人に多い特性なんだそうです。今作の主人公・十蔵さんもまさにそうである気がして、彼が愛情をかけた人々によって彼自身が救われる様は、どこか「幸せのお手本」を見せてもらっているようで救われます誰かとご飯を食べる時、その相手をいつもよりちょっとだけ愛おしく思えるような作品です。是非、サンシャインシティでのお食事とも併せて、楽しんでいって下さい。 【生駒千織役:八木美樹(やぎ・みき)】ついに幕が開くと思うと、本当に嬉しい気持ちと楽しみでいっぱいです!千織ちゃんの素直さやおてんばな姿を最大限、皆様にお届けできるように、精一杯頑張ります。稽古を重ねる中で、座組の団結力や一体感もより増したと思うので、最後までみんなで楽しみながら、最高の舞台を作り上げていきたいと思います!舞台「てらこや青義堂 師匠、走る」お楽しみに〜!劇場でお待ちしております! 【月岡鉄之助役:小島歩琉(こじま・あゆる)】今回が初めての舞台出演になりますので、無事に本番を迎えられることへの感謝とワクワクする気持ちでいっぱいです。稽古を重ねる中で見える景色など全てが、これまで経験したことのないもので、毎日がとても新鮮でした。初めてだからこそ感じられるものを大切に、一回一回の公演を全力で楽しみながら、皆様に作品の魅力を届けられるよう精一杯演じます。ぜひ劇場でお楽しみください! 【丹色吉太郎役:大熊蒼空(おおくま・そら)】ついに開幕です!このような素敵な作品をサンシャイン劇場という素敵な場所でさせていただけること、光栄に思います!作品を通して描かれる「信じる」こと。どうすれば伝わるのか、たくさん考えて臨んだ稽古期間でした。僕が演じる吉太郎は、役の中でも特に陽気な子です!その明るさや元気を皆様に届けられるように毎公演全力で挑みます!劇場でお待ちしております! 【源也役:村上暁(むらかみ・あきら)】舞台「てらこや青義堂 師匠、走る」いよいよ開幕ということで、とてもワクワクしております。稽古期間を経て、本作への想いがより一層増し、躍動感のある殺陣も相まって、多くの方の心に響く青春時代劇になったと思います。この作品の魅力を最大限、お客様にお届けできるように、一つ一つ魂を込めて演じさせていただきます!ぜひ劇場にお越しくださいませ! 【求馬役:久保田直樹(くぼた・なおき)】この舞台では沢山の初めてのことに挑戦させていただきました。劇場に入り、改めてカンパニーの皆さんに支えられてこの作品に参加できていることを強く感じています。一丸となり駆け抜けて参りました。この夏にふさわしいエンターテイメントをお届けできると思いますので、是非劇場にお越しください! 【吾妻兵部衛役:鈴木幸二(すずき・こうじ)】原作の小説の感動を、ギュッと2時間10分に凝縮!過去を背負いながら、必死に人間らしく生きる十蔵。天真爛漫で元気いっぱいの筆子たち。その師匠と子どもたちとの温かく、深い絆。切ない運命に翻弄され、父の想いを胸に美しく生きる睦月。忍として生きる者、生きてきた者たちの煩悶、むなしさ。双方がぶつかり合う激しい闘い。語り尽くせません!ぜひ劇場にて観劇していただきたく存じます! 【丹色福助役:伊与勢我無(いよせ・がむ)】舞台「てらこや青義堂 師匠、走る」いよいよ開幕です。原作の今村さん、作・演出の青木さん始め、キャスト、スタッフ一同で幅広い年代の方に楽しんでいただける作品が出来上がったと思っております!残暑を吹っ飛ばす疾走感のある舞台です、是非とも池袋でお待ちしております! 【鈴木源之丞役:南誉士広(みなみ・よしひろ)】いよいよ開幕です。まずは無事に幕を開けられたこと、関係各位に心より感謝いたします。全20公演、新鮮かつ人の機微を大切にしながら、目の前の人と向き合っていきたいと思います。見どころは、なんといってもフレッシュな四人の筆子たち。お世話になっている先生のために一生懸命奔走する彼らの姿に、きっと心を動かされるはずです。劇場でお待ちしております。 【坂入九兵衛役:姜暢雄(きょう・のぶお)】無事に初日を迎えられる喜びと、この素晴らしい作品を皆様と分かち合える事が出来る日々が始まるという期待に興奮を隠しきれません。いつの時代も、人を、仲間を『信じる』という事が大事であると僕自身も作品を通じて稽古を重ね日々学んでおります。是非是非、仲間、家族、友人、勿論お一人様でも、足を運んで頂けたら幸いです。暑い夏の清々しい風を感じて頂きたいです。劇場でお待ちしております。 【大平剛造役:山本亨(やまもと・あきら)】いよいよ幕が開きます!舞台「てらこや青義堂 師匠、走る」!演出・青木豪さんのもと、スタッフ・キャスト全員で一丸となり稽古に汗を流してきました。出演者の一人ひとりが魅力に満ち溢れています。原作のファンの方にも自信を持ってお届け出来ると確信しております。是非、サンシャイン劇場にお越しくださいませ。お待ちしております! 【公演概要】 舞台「てらこや青義堂 師匠、走る」 原作 今村翔吾「てらこや青義堂 師匠、走る」(小学館文庫刊)作・演出 青木豪 出演 新木宏典 彩みちる 一色洋平八木美樹 小島歩琉 大熊蒼空 村山暁 久保田直樹鈴木幸二 伊与勢我無 南誉士広姜暢雄 山本亨下島一成 淡海優 小泉凱 中野貴文 結木雅 会場・日程 2026 年 8 月 14 日(金)~ 8 月 30 日(日)サンシャイン劇場(東京都豊島区東池袋 3-1-4...

参院議員

参議院議員 足立康史

「人生20年説」で挑み続ける。選んだ道から広がる無限の可能性 参議院議員 足立康史(あだちやすし) ■プロフィール昭和40年10月14日、大阪生まれ。大阪府立茨木高校、京都大学、同大学院を経て、経済産業省に入省。同省時代に米国コロンビア大学国際公共政策大学院に留学し修士号取得。20年余り経産省に勤務し、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故を機に政治に転じる。第2次安倍内閣の発足につながる平成24年12月の総選挙に初挑戦し初当選。衆議院議員を四期12年務め、日本維新の会国会議員団政務調査会長、憲法改正調査会長等を歴任。令和6年10月の衆院補選における日本維新の会による選挙違反を公益通報したことから刺客を送り込まれ、地元の混乱を避けるため引退表明。令和7年7月の参院選に国民民主党比例区候補として立候補し組織内でない個人として党内トップ当選を果たす。 経済産業省の官僚から政治家へ転身し、ダイナミックな挑戦を続ける足立康史氏。都市計画の専門知識や官僚時代の現場経験をもとに、日本の都市制度や政治のあり方に深く切り込んできた。「人生20年説」を掲げ、常に前向きに時代を切り拓いてきた足立氏が、これからの日本を担う学生へ贈る情熱のメッセージとは。 私の学生時代は、学問とスポーツの両方に全力を注ぐ日々でした。京都大学工学部に進学し、都市計画や都市経済の研究に没頭しました。本州四国連絡橋の整備が地域経済に与える影響などを、コンピューターを用いて都市モデルを回しながら分析していたのです。一方で、京都の「哲学の道」を歩きながら物事を深く思索することもありました。また、学生生活で最も多くの時間を捧げたのが体育会水泳部での「水球」です。高校時代から水球に打ち込み、朝から晩までプールで汗を流す生活を送りました。大学院修了後は通商産業省(現・経済産業省)に入省しました。都市計画の知見を活かし、国家の産業政策や経済外交に携わる中で、大臣官房参事官や北京出張、さらにはベルギーのブリュッセルにあるEU本部への駐在など、主要な役職や海外現場でキャリアを積み重ねていきました。 ■東日本大震災が転機に――行政の限界を超え、政治の道へ 人生の大きな転機となったのは、ベルギー駐在中の2011年3月11日に発生した東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故でした。現地でニュースをつけた瞬間、画面越しに母国・日本が激しい津波と原発事故に見舞われている光景を目にし、強い衝撃と危機感を覚えました。経済産業省はまさに原発行政を担ってきた当事者です。強い責任を感じると同時に、「今こそ母国のために自分が立ち上がらなければならない」という衝動が突き上がりました。当時の情勢を見て痛感したのは、現場でどれほど優秀な公務員や行政機構が頑張っても、それを導く「政治」が機能していなければ国は変わらないということです。国家の危機を救うには、行政の枠組みにとどまるのではなく、自らが政治の場に躍り出て仕組みそのものを変革しなければならない。そう確信した私は、即座に辞表を提出して帰国し、故郷である大阪から政治活動を開始したのです。 ■「政治・行政・政策」の3層構造と、都市制度改革への情熱 世の中の仕組みや社会問題について考えるとき、私はよく建物の「階層構造」に例えて説明します。1階部分にあるのが「政治(政党政治)」であり、すべての岩盤となる土台です。その1階の上に成り立つ2階部分が「行政(統治機構)」であり、さらにその上の3階部分に「政策(経済・外交・社会保障など)」が存在します。多くの人々は3階にある「政策」の議論に目を奪われがちですが、本当に実効性のある政策を生み出すためには、1階の政治と2階の行政機構が堅牢かつ公正に構築されていなければなりません。今、日本の成長を牽引しているのは全国の政令指定都市をはじめとする「都市の力」です。しかし、現行の都市制度では都道府県知事と市長の関係性が曖昧で、いわゆる「二重行政」の非効率が生じています。この課題を解決するための改革案には、現状維持のほかに「都構想(特別区設置)」と「特別市制度」という複数の選択肢が存在します。私は、東京都のように都市を特別区に分割するのではなく、都市の権限や財源を強化・拡張する「特別市」のようなアプローチこそが、日本各地の都市が持続的に成長するための鍵になると考えています。 ■選択肢をオープンに提示することが、公正な政治をつくる 制度改革や選挙において私が最も重要視しているのは、「国民や市民に対して選択肢を隠さず、すべてをオープンに提示すること」です。現状維持か既存の改革案かという二者択一に絞り込み、他の有効な選択肢(特別市など)を排除してしまっては、真に公正な判断や意思決定はできません。首都とは何かという根本的な定義を議論せずに「副首都」を議論したり、都合の悪い選択肢を覆い隠して推進したりする政治手法には明確に異議を唱えてきました。たとえ少数派となろうとも、間違っているものには「違う」と声を上げ、より透明で公正な選択肢を国民の皆様に示し続けること。それこそが、私が目指す「私心のない、公のための政治」の姿勢です。 ■学生へのメッセージ これからの未来を担う学生の皆さんにぜひお伝えしたいのは、「人生20年説」という考え方です。人生100年時代と言われる現代において、人生は20年ごとに区切ることで、およそ5回の異なる「人生」を生きることができます。私自身、20代までは学問や水球に打ち込む「学生の時代」、次の20年間は中央省庁で国家のために働く「官僚の時代」、そして50代からの現在は「政治家の時代」として、それぞれ全く異なる世界に情熱を注いできました。今、自分が描いていた通りの大学や学部に進んでいなかったとしても、将来の目標がはっきりと決まっていない状態にある場合も、まったく焦る必要はありません。人生は何度でもやり直しができますし、目の前の選択によって可能性は無限大に広がります。120歳まで生きるとすれば、還暦の私も、折り返し点を過ぎたばかりです。大切なのは、「届かない夢や実体のない理想像」をただ眺めることではありません。今日という1日の中で自分が前進しているという「実感を伴う挑戦」を積み重ねることです。「やらないで後悔するより、やって後悔する」道を選んでください。目の前の課題や学問に全力を注ぎ、自由な発想で自分の未来を力強く切り拓いていってくださることを心から応援しています。 学生新聞オンライン2026年7月26日取材 大阪女学院高等学校3年 髙橋花綾 大阪女学院高等学校3年 髙橋花綾/日本大学2年 原田達司/明星高校3年 徐孝輔/同志社大学3年 平岡三奈/関西外国語大学3年 石川遼オンライン参加:津田塾大学4年 山下さくら/慶應義塾大学4年 山本唯那

学生新聞インターン

元プロテニスプレイヤー 宇野真彩

国を超えて仲間と出会い再発見した、私らしいテニスの形 元プロテニスプレイヤー 宇野真彩(うのまあや) ■プロフィール高校卒業後、プロテニス選手として国内ツアーを転戦し、20歳で現役を引退。引退後はアロマセラピー、メディカルハーブ、アーユルヴェーダなど美容・健康分野を学び、各種資格を取得。同時にジュニア育成にも携わり、テニスコーチとして活動。現在はクリニックやイベント、テニス・ゴルフメディアへの出演をはじめ、テニス業界初となるリトリートツアーを開催。さらに、20〜30代女性限定のテニスコミュニティ「Tennis Girls TOKYO」を立ち上げ、テニスを取り入れた新しいライフスタイルを提案している。また、Princeより日本人初となる宇野真彩デザインの限定ラケットを発売。さらに、Admiral ATHLETICSでは自身がプロデュースするオリジナルウェアラインを展開するなど、ブランドプロデュースや商品開発にも携わり、テニス業界で新たな価値を創出する存在として幅広く活動している。 ■お花屋さんからテニス選手という道を選ぶまで 私がテニスを始めたのは小学校三年生の頃です。それまでは水泳、書道、ピアノ、バドミントンなど、いろいろな習い事をしていて、特にスポーツに強い思いがあったわけではありません。むしろ当時の私は「お花屋さんになりたい」と思っていたような小学生でした。そんな私がテニスを始めたきっかけは、妹が先にテニスを習い始めたことです。 通っていたクラブには育成クラスがあり、級が上がるごとに成長を実感できる仕組みがありました。育成クラスに入ると、同い年の仲間と競い合う環境が自然と生まれます。その中で「もっと強くなりたい」「まずは同い年の中で勝てるようになりたい」という気持ちが芽生え、気づけば大会に出るようになっていました。 この“競争心が芽生えた瞬間”が、私にとって大きな転機でした。テニスを始めた頃はただ楽しく続けていただけでしたが、育成クラスでの経験を重ねるうちに、「選手として本気でやってみたい」という思いが強くなっていきました。 ■勝敗の世界で見つけた喜び 選手としての生活は、勝ち負けで評価が決まる世界でした。自分自身の評価も、周りの評価も、コーチの評価も、すべて結果で判断される。そのプレッシャーは大きく、苦しい時期もありました。それでも続けられたのは、家族やコーチが支えてくれたからです。試合で勝ったとき、嬉しい報告を応援してくれる方々に伝えられる瞬間が、私にとって一番の喜びでした。 その気持ちは、高校時代の団体戦で、すでに芽生えていたのかもしれません。今まで個人競技として戦ってきたテニスが、団体戦では仲間の思いを背負う競技に変わります。応援の数、緊張感、責任感。自分の一勝で学校が勝つか負けるかが決まる試合は、良い意味で大きなプレッシャーがあり、忘れられない経験になりました。 プレッシャーの中で、私はメンタルを整える方法を自分なりに見つけていきました。試合前には洋楽を聴いて気持ちを高めたり、少し怒っているくらいのテンションでプレーしたりすることで集中力を保ちました。優しい気持ちだと競争心が弱くなるため、「come on !!」と自分を鼓舞するようなメンタリティーが必要だったのです。 しかし、競技生活の中でストレスが体に出てしまい、三ヶ月ほど休む時期がありました。休んでいる間、「これからどうしよう」と考える時間が増えました。再び頑張ろうと決めてアメリカに渡ったものの、世界のトップ選手たちを目の前にしたとき、「この人たちに勝つ未来は自分にはない」と感じました。その瞬間、すっと心が軽くなり、20歳で競技を辞める決断をしました。 ■競技を離れて見えた“新しいテニスの楽しさ”と、未来への挑戦 競技を辞めた後、しばらくテニスから離れていましたが、韓国に通うようになり、そこで多くの仲間と出会いました。国籍や年齢に関係なく、テニスを通じて人とつながれることを改めて実感し、競技とは違う“テニスの楽しさ”を再発見しました。韓国では、コロナ禍をきっかけにテニスが大流行し、カラフルなミニコートが広がっていました。ウェアや写真、空間づくりまで含めて楽しむ“映えるテニス”が当たり前になっていて、その自由でおしゃれな雰囲気に強い刺激を受けました。テニスが「勝ち負けだけではない文化」として成立していることを知り、日本でもこうした楽しみ方を広げたいと思うようになりました。 同じ頃、私はゴルフを始めました。ゴルフの世界ではウェアやメイク、写真を撮る楽しさが文化として根づいていて、「スポーツを楽しむことは、空間やファッションまで含めた体験なのだ」と気づきました。韓国での経験とゴルフでの気づきが重なり、私の中で“新しいテニスの形”が明確になっていったのです。その思いを形にするため、私が4年前に立ち上げたのが「Tennis Girls TOKYO」です。これは、競技としてのテニスではなく、ファッションや写真、空間づくりを楽しむコミュニティです。現在はTennis Boys TOKYOとTennis Boys OSAKAもあり総勢350名のメンバーが在籍し、年に一度は韓国との交流試合「日韓戦」も開催しています。競技ではなく、テニスを通じて両国が楽しく交流することを目的とした大会で、韓国で出会った仲間とのつながりが今も続いています。 テニスの新しい文化を発信することでテニスをもっと身近にスポーツに感じてほしいです。この若年層の普及活動は、テニスを通じて友達が増え、同世代の仲間とつながれる新しいコミュニティで私自身もとても楽しみながらできています。現在は、レッスン、イベント出演、コミュニティ運営などを中心に活動しています。テニスの楽しみ方に正解はなく、そのスタイルは無限にあると感じています。 将来については、私は「その時にやりたいことに挑戦できる自分でいたい」と思っています。正解がないからこそ、やりたいことを言葉にして一歩踏み出すことが大切なのです。そして、どんな挑戦の裏にも必ず支えてくれる人がいて、その存在への感謝は高校時代からずっと変わらず、今の活動を支える大きな軸になっています。だからこそ、学生の皆さんにも、自分がやりたいと思ったことに素直に向き合ってほしいです。うまくいかなくても、それは必ず経験になります。支えてくれる人への感謝を忘れずに、言葉にしながら一歩ずつ挑戦していってください。 学生新聞オンライン2026年7月21日取材 国際基督教大学1年 小祝陽花 開智日本橋学園高等学校2年 古家凛音/京都芸術大学1年 猪本玲菜/国際基督教大学1年 小祝陽花/城西国際大学3年 渡部優理絵

学生新聞インターン

株式会社学研ホールディングス 代表取締役社長 宮原博昭

自ら道を切り開き、「ゼロから一」を生み出す 株式会社学研ホールディングス 代表取締役社長 宮原博昭(みやはらひろあき) ■プロフィール1959年生まれ。広島県呉市出身。防衛大学校卒業後、貿易商社を経て、1986年に株式会社学習研究社(現 学研ホールディングス)入社。学研教室事業部長、執行役員、取締役を歴任し、2009年学研ホールディングス(以下HD)取締役に就任。学研塾HD、学研エデュケーショナル、学研教育出版の代表取締役社長兼任を経て、2010年12月、学研HD代表取締役社長に就任。 教育事業を中心に、医療・福祉事業へと事業を展開し、会社をV字回復へ導いた株式会社学研ホールディングス(以下、学研)代表取締役社長の宮原博昭氏。防衛大学校での経験や知識、自ら切り開いたキャリア、そして「ゼロから一を生み出す」学研の企業文化について、経営への思いや今後の展望を伺った。 防衛大学校では、一般の大学と比べても非常に多くの授業や訓練があり、8年分にも思えるほどの密度の濃い4年間を過ごしました。夜は22時になると消灯され、部屋では勉強できなかったので、トイレや満月の時の月明かりで勉強をしていました。また、マーケティングと組織論の先生の授業を集中的に勉強し、4年間で純文学を約1000冊読みました。学生時代に必死に勉強したおかげで、民間企業に就職してからもあまり苦労せず、防衛大学校で学んだ組織運営と民間企業の経営に共通点を感じながら仕事に取り組むことができたと思います。 ■「自分で決める」ことへのこだわり 防衛大学校卒業後は、本来考えていた進路とは異なる形で民間企業への就職を考えることになりました。学校の先生から有力企業を紹介していただき、MBAの取得や海外勤務など、とても恵まれた機会を用意してもらいました。しかし、私は誰かに用意されたものではなく、自分自身で進路を決めたいという思いが強く、その話は辞退しました。ハローワークや新聞の求人欄を何度も見ながら就職先を探し、最終的には貿易商社に就職しました。貿易商社に就職後は、アメリカでも数年間働き、仕事の成績もよく、売り上げも大きく伸ばしました。しかし、数字は伸びても心に残る達成感がなく、「こういう仕事は自分には向いていない」と感じるようになりました。そこで、教育業界か、医療業界などに携わる仕事がしたいと考え、教育業界への転職を決意しました。 ■「逃げない男」としての信念 当時、教育ではトップだった学研を受けました。当初は編集の仕事を希望していましたが、配属は営業でした。正社員ではなく勤務地限定職でしたが、「教育の仕事に就きたい」という思いを持ち続け、入社後は営業の仕事に全力で取り組み、継続して高い成績を上げました。その後、会社の業績が厳しい時期に、前社長から「次期社長をやってくれ!」と声を掛けられました。なぜ自分なのかと聞くと、「お前は唯一逃げない男だからだ」と言われました。私は防衛大学校で困難な状況でも「生き延びること」を学びました。会社が厳しい状況だからこそ、立て直しを任せたいという思いから私が選ばれたのだと思います。私が社長を引き継いだ当時、会社の売り上げはピーク時の約1,700億円から約780億円まで落ち込んでいました。しかし現在では2,000億円に届く規模まで回復し、本当の意味でのV字回復を実現することができました。その時に役立ったのは、防衛大学校で学んだ組織論やマーケティングの知識です。社会人になってからも経営書などを読みましたが、大学時代に習った知識が根底にあるからこそ、会社を立て直す戦略を考えることができたと思います。また、社員の真面目さにもV字回復の理由があると思います。社員一人ひとりが自分の仕事に一生懸命向き合っており、会社には「ゼロから一を生み出す」という文化が根付いています。それがあったからこそ、会社全体で困難を乗り越えることができました。 ■「人に寄り添う」学研の強み 学研グループでは、出版や学習塾・教室などの教育事業に加え、高齢者住宅や介護、看護をはじめとする医療・福祉事業を展開しています。学研の魅力は、実際に商品やサービスを利用する人たちに寄り添い、その人たちのための商品やサービスを作っているということです。例えば子ども向けの商品では、お金を払う保護者のニーズを重視して物づくりをする企業も多い中、学研は子供たちが驚きや喜び、発見を感じながら楽しく生き生きと、そしてのびのびと成長できることを第一に考えています。また、医療・福祉事業では、一人ひとりが人間らしい尊厳を持ち、最後まで楽しく安心して生活できる社会を目指しています。学研が医療・福祉事業へ進出した背景には、少子化によって教育市場が縮小していくという将来への危機感がありました。教育事業だけでなく、高齢者人口の増加を見据えて、新たな事業に挑戦する必要があると考え、2003年から医療・福祉事業を本格的にスタートさせました。この事業が成長した理由は、学研が創業以来大切にしてきた「ゼロから一を生み出す」文化があったからだと思います。また、「教育事業をしている学研」という信頼が、利用者の方だけでなく、働く職員にも安心感を与え、学研を選んでいただける理由になりました。また、教育事業と医療・福祉事業の売上を50対50に保つことを目標に掲げ、一つの事業に偏らない多角経営を意識しています。 ■未来を見据えた挑戦 私は、会社の経営を短期的に考えるのではなく、中長期的な視点で考えることを大切にしています。少子化による教育市場の縮小を経験したように、今後は高齢者人口も減少していくため、2030年ごろまでに医療・福祉事業も将来の変化に適応できる体制を整えたいと考えています。また、一つの事業に依存するのではなく、教育と医療・福祉のバランスを保ちながら経営を進めていくことも重要だと思っています。そして、その先も見据え、国内だけでなく海外への展開も進め、いずれは国内と海外の事業の比率も50対50を目指したいと考えています。 ■大学生へのメッセージ 私は、大学生活の4年間は自分自身に投資できる、貴重な時間だと思っています。社会人になってからでも仕事に役立つ勉強はできますが、将来役立つか分からないことを一生懸命に自由に学べるのは学生のうちだけです。だからこそ、勉強をおろそかにせず、幅広い知識を身につけてほしいと思います。また、アルバイトをするなら、社会性やコミュニケーション能力、そして自分の将来に役立つことを得られるものを選んでみると、新しい知識や視点が手に入れられるのではないでしょうか。学生時代は勉学に勤しんで夢を探し求め、社会人になったらそれに向かって果敢に挑戦する人生にしてほしいです。 学生新聞オンライン2026年7月17日取材 神戸市外国語大学3年 森垣一椛 東京家政大学3年 篠田陽菜乃/法政大学1年 山田賢彦/神戸外国語大学3年 森垣一椛/城西国際大学3年 渡部優理絵/かえつ有明中学校2年 狩野百福/京都芸術大学1年 猪本玲菜/東京女子大学3年 浮田梨紗/津田塾大学4年 山下さくら

参院議員

参議院議員 牧山ひろえ

いのちを守るため。夢が叶わなくても、別の形で実現できる 参議院議員 牧山ひろえ ■プロフィールICU卒業、TBS入社。退社後渡米。司法試験合格(ニューヨーク州、コネチカット州)、松竹(株)(同年ハリウッドのワーナー・ブラザース出向)、ポリグラム(株)、夫の転勤に伴いニューヨークのハッシー法律事務所、ソニーピクチャーズエンタテインメント(法務部シニア・マネージャー)などで勤務。参議院議員4期目(神奈川県選挙区)。2児の母親。 幼少期の壮絶な体験を原点に、現在は政治家として道を歩む牧山さん。政治家になるまでの間にも、長年追いかけた夢の挫折や、米国弁護士として働く過去を持つ。何事にも真摯に取り組むその姿勢は、現在の三ツ星議員という称号にも表れている。一見バラバラに見える激動のキャリアを歩んできた裏で、一貫した信念を持ち続ける牧山さんの生き方とは。 私は幼少期に壮絶ないじめを経験しました。自分が世の中で一番可哀想なんじゃないかと思い、一時期は登校拒否も経験しました。しかしそんな矢先、父がいる海外を訪れ、そこで衝撃的な光景を目の当たりにしました。その貧困国では、私よりも遥かに過酷な体験をしている人たちにたくさん出会いました。生きるため、お金がなくて食べ物を盗むと、容赦なく手足を切断してしまうような環境です。その光景が言葉を失うほどショックでした。そのような経験を経て日本に戻った際、それまで当たり前だと思っていた日常が全く違う景色に見えました。日本では蛇口をひねると当たり前にお湯が出て、冷蔵庫を開けると食料がいっぱい入っていて、ボタンを押すと電気もつく。「私って結構恵まれているのだな」とやっと気がつきました。この体験は、後に政治家を目指したきっかけにも大きく起因します。 ■テレビへの憧れと、夢のために走り抜けた学生時代 幼稚園の頃はテレビ局に入りたいという夢を持っていました。当時放送されていた『兼高かおる世界の旅』という番組が大好きで、レポーターの兼高さんが上品に、かつ体当たりで世界の文化を紹介する姿に強く憧れを抱いていました。また私自身は小学校3年生から父が住む海外でインターナショナルスクールに通っていたこともあり、日本と色んな国の橋渡しを、テレビを通して実現したいと思っていました。それからというもの、「TBSに入るためにはどうしたらいいか」ということを軸に学生時代を過ごしました。TBSに入るためにできることはほとんどやりました。海外生活が長く日本語が苦手だったため、就職によく出る日本語と漢字の問題集を購入し、全て暗記しました。作文塾にも通いましたね。マスコミ志望の方が通う塾で非常に厳しく、週2回集まってひたすら作文を書いていました。最後まで通い切った人たちは、皆希望の会社に就職していきました。また私は業界に何のコネもなかったため、大学生としてラジオ局のオーディションを受けるところから始まりました。『100万人の英語』のDJ 小林克也さんのパートナーや、NHKの英語講座、ラジオ短波、TBSラジオなど、様々なテレビ・ラジオ番組のレギュラーを切り拓き大学時代に実績を作りました。その努力の甲斐があり、晴れて夢だったTBSに入社しました。 ■挫折、そこから見つけた政治家への道 TBSに入社できたものの、希望していた海外レポーターではなく、朝のワイドショーに配属され、与えられた仕事をこなそうとしましたが、夢が捨てきれず、結果的にはTBSを辞めてしまいました。大きな挫折を味わっていたとき、人が持っていない特徴を自分で作ろうと思い、選択肢を広げるという意味で、アメリカの弁護士資格を取りました。英語ができる人は沢山いましたが、誰も持っていない特徴を掛け合わせようと思ったのです。当時まだ日本人でアメリカの弁護士の第一号が誕生したばかりだったことに目をつけ、ロースクールへ留学した後、米国の司法試験に合格しました。アメリカでは、弁護士資格を取ったあとに医師や警察官などの元の専門職に戻る人も多く、彼らの姿からも刺激を受けました。結果的に長年夢見た海外レポーターという夢は叶いませんでしたが、人のために何かをしたいという気持ちは幼少期から一貫して持っていました。たとえば、幼少期のいじめ体験をきっかけに、学生時代は、登校拒否もしていて、自分のことすらも疎かにしていましたが、海外で極貧を目の当たりにしたことで、自分がいかに恵まれているかに気づき、人のケアにも興味を持つようになっていきました。特に高校時代は、人のために何かできることはないかと考える余裕が出てきた時期でしたね。人権問題に取り組む機関であるアムネスティの学生ボランティアに所属し、全盲の子供たちが通っている学校で英語を教えること、また、病気を抱えている人たちのところに行って歌を歌うなどの活動をしていました。27歳でボランティア団体を立ち上げ、世界中の紛争地域にワクチンを送る運動などを続けました。しかし、弁護士の傍ら15年間ボランティアを続けるなかで、個人の活動では救える命の規模に限界があると感じていました。そこで新聞の公募を見て、「政治の力を使えば、例えば何十億円という規模でワクチンを届けられる」と確信し、政治家を志しました。 ■力を入れて取り組んでいること 私は今、「いのちを守る、みらいを作る。」を政治信条として掲げ、主に5つの柱で活動をしています。その中でも、特に訴え続けているのが「少人数学級の実現」です。日本の学校は教師1人に対する子どもの数が多いです。1クラスに40人も50人もいれば、先生がどれだけ頑張っていても、子供たちの小さな変化やSOSに気づくことは難しい。でも、クラスを15人や20人といった少人数にすれば、先生の目が確実に行き届くようになり、子供たち一人ひとりとの対話も生まれます。小さな変化やSOSを早い段階で受け止めることができれば、いじめや不登校、深刻な問題の予防にもつながります。子供たちの命を守るためにも、この教育環境の改革が必要です。現在は、参議院法務委員会に所属し、主に人権に関わる仕事をしています。具体的には、「再審法」の改正に向けて取り組んできました。しかし、国会では再審制度をめぐる法改正が十分な改善には至らず、むしろ改悪された内容で成立してしまいました。無罪を示す明らかな証拠が出てきても、裁判のやり直しが始まるまでに何十年もかかり、歳を重ねてから無罪判決が下されるという不条理は依然として残っています。法律を国会で変えることの難しさを強く実感しています。 ■大学生へのメッセージ 若い人たちには投票に行っていただきたいです。私の党に投票しなくてもいいのです。ただ、投票するときに、“政策”で選んでいただくことが重要です。今はネットなども普及していますから、様々な媒体で情報を比較して、誰に投票するかを選んでみてください。そして、「どの人だったら自分たちの世代のためのことをやってくれるか」という部分に注目し、よくよく考えた末に、1票を投じてもらえればと思います。 学生新聞オンライン2026年5月20日取材 東京女子大学 3年 浮田梨紗/中央大学1年 大山祥 京都芸術大学1年 猪本玲菜 / 独協大学2年 中津亜結梨 / 独協大学2年 増田乙花 / 東京女子大学3年 浮田梨紗 / 中央大学1年 大山祥 / 情報経営イノベーション大学2年 山田千遥 / 城西国際大学3年 渡部優理絵

コラム

テリー伊藤 コラムVol.86 AI加工写真で男前になるのか

AIにお願いして私の写真を男前加工してもらった。出来上がりを見てこちらが恥ずかしくなる程イケメンになっている。お肌ツヤツヤ、目元パッチリの精悍な顔つき、胸元を開け、完全に別人。自分史上最高写真に笑ってしまう。パスポートや運転免許証更新時に使いたくなる、許可は下りないと思うが。再婚の機会があればお見合い写真にもしたい。遺影にもいいかも。考えるだけで楽しい。知り合いのマダムの皆さんもビューティー加工を使用してインスタにあげている。ギャップに驚く事もあるが、それもご愛嬌。先日このコラムで紹介した157回お見合いした友人西川ちゃんの「お見合い写真と実際に会ったギャップの違いにデートどころではない」の言葉も納得。 AI写真は面白いのだが、若い女性のビューティー依存はちょっと心配になってくる。現実の写真は不正解、加工顔が正解の加工信仰現象が起きているらしい。自己評価形成中の女性にとって、他人の評価に敏感な時期がある。SNSを気にしすぎる世代。そう言えば私も若い頃髪型が決まらないと学校に行きたくなかった思い出がある。そんな悩みの中、理想のビューティー顔になりたいと、自分のAI写真を持参して美容整形病院に行く人も多い。フィルターと自己の同一化、加工顔しか愛せない人が増えているようだ。乙女心はいつの時代も複雑なのだ。 とは言ってもAI写真を楽しむ方法はたくさんある。亡くなった母親の写真をAIで動かしてみた。何十年ぶりに動く母を見た。何度も何度も見直し思わず正座して現在の自分を報告してしまった。愛犬のムクドンは吠える声まで一緒、雨の中公園を走った思い出が蘇る。小学生時代に行った日光の遠足写真では久しぶりに同級生と笑い合うことも出来た。それがきっかけで忘れていた仲間の名前を思い出すために友人に電話し昔を懐かしんだ。そういえば子どもの頃母親に「遊んでばかりいないで勉強しなさい」とよく怒られていた。今となってはもう一度怒られたい。AIおかあさんがいればしかってもらえる。やれ無駄使いばかりして、食事の前はうがい手洗いをしなさい、朝からケーキばかり食べてないで、昔言われ続けた小言も今では嬉しいに決まっている。天国に行かないと会えないと思っていたのに。 戦争でAIを使用するのは大反対だが、人生を楽しく豊かにするためなら大賛成。戦争も平和もAIを使用する人間の心次第なのでは。心を鍛えるのは結局は人間力にかかってくる。人生ちゃんと生きないと母親に怒られてしまう。 テリー伊藤(演出家) 1949年、東京築地出身。早稲田実業中等部、高等部を経て日本大学経済学部を卒業。2023年3月、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。テレビ番組制作会社IVSテレビに入社し、「天才たけしの元気が出るテレビ」「ねるとん紅鯨団」などのバラエティ番組を手がける。その後独立し、テレビ東京「浅草橋ヤング洋品店」など数々のテレビ番組の企画・総合演出を手掛ける。著書「お笑い北朝鮮」がベストセラーとなり、その後、テリー伊藤としてメディアに多数出演。演出業のほか、プロデューサー、タレント、コメンテーターとしてマルチに活躍している。YouTubeチャンネル「テリー伊藤のお笑いバックドロップ」LALALA USAでコラム連載中https://lalalausa.com/archives/category/column/terry

中澤京平

埼玉県知事 大野元裕

実行性のあるDXと強靭的な防災体制で住みやすさNo.1の埼玉県へ 埼玉県知事 大野元裕 (おおのもとひろ) ■プロフィール1987年慶應義塾大学法学部政治学科卒業、1989年国際大学国際関係学研究科修士課程修了。1989年9月イラク日本大使館専門調査員、1990年アラブ首長国連邦日本大使館専門調査員、1993年以降は、財団法人中東調査会研究員、外務省国際情報局分析第二課専門分析員、カタール日本大使館専門調査員、ヨルダン、シリアの日本大使館書記官を歴任した。1989年から国際大学中東研究所非常勤研究員を務めたほか、東京大学教養学部、青山学院大学大学院などで非常勤講師、2005年より防衛省防衛戦略委員会委員を務める。2010年参議院議員初当選、2012年防衛大臣政務官兼内閣府大臣政務官を務める。2019年8月第61代埼玉県知事に就任、現在に至る。 DXや防災体制の強化をはじめ、人口減少や自然災害などの歴史的課題に向き合う大野元裕埼玉県知事。現場で成果につながるデジタル化や、関係機関と連携した防災体制づくりなど、県政に対する考えを伺うとともに、学生時代の経験や大学生へのメッセージについてお話を伺いました。 学生時代はアメリカンフットボール部に所属していましたが、足を悪くしたことをきっかけに途中で退部しました。高校時代にはライブハウスでバンド活動を行ったり、大学4年生のときには会社を立ち上げるなど、新しいことにも積極的に挑戦しました。アメフト部時代の後輩を集め、ゴルフ場利用者向けの手洗い洗車サービスを始めるなど、自ら考えたアイデアを事業として形にした経験もあります。一方で、当時は知事や公務員を目指していたわけではなく、研究者を志していました。大学ではヨーロッパ哲学を学び、大学院では専門を中東地域へと広げ、イスラム哲学の研究に取り組みました。学生時代はさまざまな分野に挑戦し、自ら行動しながら経験を積み重ねていました。 ■縦割り行政に改善を求め政治家の道に 政治家を目指したきっかけは、研究者としてイラクで活動していた際に戦争へ巻き込まれた経験でした。現地では友人が命を落とす姿を目の当たりにし、「政治のあり方によって人の命は守られも奪われもする」と強く実感しました。その後、政府の安全保障に関する委員会で専門家として活動しましたが、縦割り行政の限界を感じ、「このままでは人の命を守れない」という思いを抱くようになったのです。ちょうどその頃、民主党政権が「縦割り行政の排除」を掲げたことをきっかけに政治の世界へ入りました。その後、前知事から知事就任を打診され、一度は断ったものの、県政について4年間学び、自分なりの政策を実現したいという思いが固まったことから、知事への道を決意しました。 ■抜群のアクセスが埼玉県の大きな強み 私は、埼玉県の魅力は、生産地と消費地が重なっていることと、交通の良さだと思っています。人口が多く、人が住んでいるからこそ消費地が成り立ち、生産する力もあります。そして、その土台になっているのは住みやすさです。魅力度ランキングでは観光やグルメの評価は高くありませんが、住みやすさに関する項目は上位に入っています。また、公共交通を使えば約1時間でおよそ5,000万人にアクセスできることも大きな強みです。埼玉県は広い平野が広がっているため、東京発の新幹線や高速道路が集まり、人や産業の行き来がしやすい環境があります。こうした強みを生かしながら、住みやすさをさらに高めるとともに、おいしいものなど埼玉県の魅力も一つひとつPRしていきたいと考えています。 ■DXからTXへ、現場の利益を考えることで変わっていく DXは簡単そうに見えて、実際に現場へ落とし込むのはとても難しいと考えています。特に役所では30年、40年続いてきた仕事を変えることは簡単ではありません。そのため、まずは県庁の中から改革を始めました。着任後は自分の部屋への紙の持ち込みを禁止し、ネット環境を整備したほか、コピー機を減らし、紙の資料やキャビネットも少しずつなくしていきました。AIやロボティクスという言葉を最初に掲げるのではなく、「紙をなくす」という取り組みから一段ずつ進めたのです。その結果、議会答弁の作成もオンライン化が進みました。これまで紙を印刷し、赤字修正のたびに差し替えていた作業を見直したことで、職員は以前のように夜遅くまで残ることが減り、多くが夕方には帰れるようになりました。みんなにとって利益になることが分かると、DXは一気に進んでいきました。ただ、デジタル化はあくまでも手段です。そこで私は独自に「TX(タスク・トランスフォーメーション)」を進め、DXで生まれた時間を早く帰る時間やリスキリング、新しいプロジェクトに充てる仕組みをつくっています。人口減少が進む中だからこそ、生産性を高めることが最も重要だと考え、この取り組みを進めています。 ■防災の潤滑剤、埼玉版FEMA 私は知事就任前から、防災体制の強化に取り組みたいと考えていました。その中心となるのが、アメリカの連邦緊急事態管理庁の「FEMA(フェデラル・エマージェンシー・マネジメント・エージェンシー)」を参考にした「埼玉版FEMA」です。県は実動部隊をほぼ持っていませんが、災害時には警察や自衛隊、インフラ事業者などをまとめる調整役を担います。そのため、さまざまな災害を想定した図上演習を繰り返し実施するとともに、関係機関が円滑に連携できるよう、情報共有の仕組みや共通のフォーマットづくりを進めています。 ■実行性のあるデジタル化を武器に歴史的課題に挑み続ける 知事として取り組みたいことの前提には、二つの歴史的課題があります。一つは人口減少と超少子高齢社会の到来、もう一つは自然災害の激甚化・頻発化やパンデミックなどの危機対応です。人口減少は当面避けられないと考えているため、その中で重要なのはデジタル化やDXへの幅広い支援だと思っています。人・組織・サービスをデジタルでつなぎ、生産性を高めることが最も重要です。ただデジタル化を進めるだけでは意味がなく、それを生産性向上につなげることが必要です。民間企業も含めて成果につながるDXを推進し、その取り組みを横展開していきたいと考えています。 ■大学生へのメッセージ 大学生の間は時間があるので、ぜひさまざまなことにチャレンジしてほしいです。特に大切にしてほしいのは、SNSやAIでは得られない「リアルな経験」です。私は大学院時代にエジプトで暮らしたことがあり、現地の人々との生活を通して、日本とは異なる価値観や文化を肌で感じました。実際に経験し、自分で考えることでしか得られない学びがあります。大学生活の4年間は、そのようなリアルな体験ができる貴重な時間です。将来のためにも、自分自身の問題意識を持ちながら、多くの経験を積んでほしいと思います。 学生新聞オンライン2026年7月8日取材 早稲田大学3 年 中澤京平/日本大学2年 原田達司 中央大学1年 大山祥/早稲田大学3年 中澤京平/京都芸術大学1年 猪本玲菜/日本大学2年 原田達司

学生新聞インターン

元バドミントンプレイヤー 永原和可那

バドミントンから世界への挑戦 元バドミントンプレイヤー 永原和可那 (ながはらわかな) ■プロフィール北海道・芽室町出身。元バドミントン女子ダブルス世界ランキング1位。2018・2019年世界選手権2連覇、東京・パリ五輪出場。2025年に現役引退後は講習会・講演活動に加え、ピックルボール普及にも挑戦。スポーツを通じた人材育成と地域活性化に取り組んでいる。 松本麻佑選手との「ナガマツペア」として約11年間、バドミントン選手としては22年間、バドミントン界の一線で活躍していた永原和可那選手。永原選手は、現役時代は何を思ってプレーしていたのか、また引退した現在の心境に迫りました。 ■唯一続いたバドミントン 私は幼少期からさまざまな習い事に挑戦してきました。幼稚園の頃は水泳を習い、小学生になると陸上やピアノ、スケートなどにも取り組みました。バドミントンをはじめたのは、小学2年生のとき。姉が先にバドミントンを始めていて、その練習について行ったのがきっかけです。幼少期の頃は好奇心旺盛な性格で、新しいことに興味を持つことが多くありました。バドミントンを始めて2年ほど経った頃にはダンスに夢中になり、バドミントンを辞めてダンスや新体操を習いたいと思うようになりましたが、そこには友達がおらず、一人で飛び込む勇気が出ず結果的にバドミントンを続けました。小学4年生になる頃には、全国大会に出られるようになりました。この頃は、「全国大会に出場したい」という一番の理由が、日本各地へ旅行に行けることでした。そのため競技への意識はまだ高くなく、結果も一回戦負けが続くようなレベルでした。しかし、中学時代に出会った部活の先生が「本気で日本一を目指してやろう」と言ってくださり、厳しくも熱心な指導を受ける中で、初めて本気で競技と向き合うようになりました。その先生は、私にとって今でも大切な恩師です。ただ中学ではシングルスがメインでしたが、結局全国ベスト16までしかいけませんでした。高校は、スポーツ名門の青森山田高等学校(略:山田)に進学し、日本一を目指し練習に励んでいました。厳しい練習の日々でしたが山田は特に団体戦に重きを置いていた学校だったので、部員全員で一緒に切磋琢磨することができました。そしてやっと高校3年生のインターハイで団体戦と個人のダブルスで優勝し、2冠することができました。 ■悔しさを原動力に バドミントン選手だった現役時代は、苦労したことの方が嬉しいことより圧倒的に多かったです。競技人生で特に苦しかったのは、怪我によってコートを離れなければならなかった時期です。長いときには約1年近く大会に参加できず、ダブルス競技である以上、自分だけではなくパートナーにも迷惑をかけてしまうことが何よりもつらく感じました。だからこそ、「復帰するときは怪我をする前の自分を超えて戻る」という強い気持ちを持ち、日々リハビリに取り組みました。あと私はメンタルトレーニングを約7年間継続し、メンターとの対話を通して自分自身と向き合い、内省を繰り返してきました。もともと自分にあまり自信が持てませんでしたが、トレーニングを続ける中で、『ありのままの自分』を理解し、受け入れられるようになってからは競技力の向上だけでなく、人として大きく成長するきっかけにもなり、今の自分の土台になっています。この苦しかった経験があったからこそ、人としても競技者としても大きく成長することができたと思うので、バドミントンを続けてきて本当によかったと心から感じています。 嬉しかったことはやっぱり試合で勝てたときです。あとは日本代表として年間約250日を合宿や遠征で過ごす過酷な日々でしたが、その一方で、さまざまな国の文化に触れたり、海外の選手と交流を深めたりできたことは、とても貴重で楽しい経験でした特に印象に残っているのは、2018年の初めて出場した世界選手権と東京オリンピックでの経験です。世界選手権は、もともと出場権を持っていたわけではなく、他国の選手の棄権によって繰り上がりで出場が決まりました。そのため周囲からの注目も少なく、自分たち自身も実力を試す場という気持ちで臨んでいました。それだけに、優勝したときは、喜びよりも「本当に世界一になったのか」という驚きと実感のなさが大きかったです。しかし表彰台に立った瞬間に少しずつ実感が湧き、この経験が大きな自信につながりました。一方で、最も強く記憶に残っているのは、東京オリンピックの準々決勝です。自国開催のオリンピックを最大の目標として努力を重ねてきましたが、コロナ禍により無観客での開催となり、私が思い描いていた舞台とは大きく異なりました。会場は独特の静けさと緊張感に包まれ、これまでの競技人生で一番緊張した試合だったと思います。最終ゲームではデュースで6度のマッチポイントを握りながらも勝ち切ることができず、あと一歩のところで敗れ、メダルを逃しました。あのときの悔しさは今でも忘れることができません。実は当初、東京オリンピックを最後に現役引退するつもりでした。しかし、コロナ禍で約2週間の隔離生活を経験し、バドミントンができない日々を過ごしたことで、「自分はバドミントンに生かされていたのだ」と気づき、もう一度競技を続けたいという思いが芽生えました。それでも、すぐにパリオリンピックを目指す覚悟が決まったわけではありませんでした。それが東京オリンピックで敗れた瞬間、「この悔しさはパリで晴らしたい」という強い思いが生まれ、パリオリンピックを目標に競技を続けることを決意しました。東京からパリまでの3年間は、多くの方々に支えられながら競技と向き合い、最後まで全力で挑戦し続けることができました。 ■約11年続いたダブルスの秘訣 「ナガマツペア」として約10年半活動しましたが、途中で「ペアを解消したい」と思ったことも正直ありました。最初はお互いに人見知りでコミュニケーションもうまく取れず、性格やプレースタイルも正反対だったため、相手を理解できないことが多くありました。そのため、ペアというよりも個々の能力で戦っているような状態が最初の2年ほど続き、勝つこともあれば負けることもあり、結果に波がありました。転機となったのは、ペア結成3年目頃のことです。絶対に負けられない試合で格下の相手に敗れ、「このままでは目標には届かない」と強く感じました。そこで二人で長時間話し合う時間を設け、まずはお互いの目標を改めて確認しました。その結果、「東京オリンピックで金メダルを獲得する」という目標が一致していることを再確認できました。そして、私たちに最も必要なのはコミュニケーションだと気づき、それ以降はどんな小さなことでも思っていることを伝え合うことを大切にしました。話し合いを積み重ねることで信頼関係が生まれ、次第に結果もついてくるようになりました。 ■挑戦をやめない 現在は、バドミントンの講習会や、自身の競技経験を伝える講演活動などを通じて、スポーツの普及・振興に取り組んでいます。その中で、新たな挑戦するきっかけを、誰かに与えられるような人になりたいです。学生のみなさんには大学生活を楽しんでほしいと思います。その中で、趣味やコミュニティを通して自分は「どんなことに挑戦したいのか」「どんな人生にしたいか」を考えていってほしいです。 学生新聞オンライン2026年7月20日取材 かえつ有明中学校2年 狩野百福 武蔵野大学4年 吉松明優奈/かえつ有明中学校 2年 狩野百福/法政大学3年 板垣和/城西国際大学 3年 渡部優理絵/京都芸術大学1年 猪本玲菜

吉松明優奈

陸上指導者 瀬古利彦

練習で泣いて試合で笑うために目標に向かって走れ 陸上指導者 瀬古利彦 (せことしひこ) ■プロフィール1956年、三重県桑名市生まれ。 高校時代は陸上インターハイで、800m、1,500m 2年連続2冠達成。早稲田大学では箱根駅伝はもとよりマラソンでも開花し、のちにボストンマラソンを筆頭に15戦10勝を誇る。実業団(エスビー食品、DeNA)、日本陸連の指導者を経て、現在、DeNAスポーツグループ フェローとしてマラソンの普及に努めている。 陸上競技の第一線で活躍し、現在は解説や指導者として日本の陸上界を牽引する瀬古利彦さん。恩師である中村清監督との強烈な出会いや、苦しい練習を乗り越えた現役時代、そして指導者としての想いや目標を叶えるための自分との向き合い方など、ご自身の陸上人生を振り返りながら伺いました。 私は小学生の頃から足が速く、徒競走やマラソン大会で負けたことがありませんでした。野球が好きだったので、中学では野球部に入部しました。ところが、運動会でトップだった私を見ていた陸上部の先生に頼まれて市の大会に出場すると、800メートル、2000メートルで優勝してしまったのです。さらに力試しで出た県大会でも優勝し、「将来的に陸上の方が絶対に良い」と勧められ、高校から本格的に陸上を始めました。本格的な指導を受けると記録は一気に伸び、高校2年生と3年生でインターハイ優勝を果たしました。その後、早稲田大学から勧誘を受けましたが、試験に落ちてしまい1年間の浪人生活を送ることになりました。そして浪人中に「英語を勉強してほしい」と言われ、なぜかアメリカの南カリフォルニア大学へ1年間留学することになりました。18歳の少年にとって、受験と英語の勉強、慣れない海外生活は過酷で、ホームシックになってしまいました。ストレスを発散するために食べまくった結果、アメリカで10キロ近く太ってしまったのです。 ■恩師、中村清監督との強烈な出会いと覚悟 一年間苦労してなんとか早稲田大学に入学しましたが、体重が増えていたためすぐに活躍できるわけがありません。当時は大学の陸上部(競走部)も箱根駅伝に出られないほど弱く、「3年くらいかけて体重を落として箱根に出られれば良いな」と考えていました。そこで出会ったのが、生涯の恩師となる中村清監督でした。初対面の時、監督の情熱は並外れたものでした。学生の前で「早稲田が弱いのはお前たちのせいじゃない。私が謝る」と言い、自身の頬を口から血が吹き出すほど強く叩き続けたのです。そして「瀬古くん、私が命をかけて教えてやるから、中長距離ではなくマラソンをやりなさい」と言われました。そして、あるとき、海岸で話をしていた際、監督は海岸の砂を手に盛り、「これが世界一になれる薬ならお前は食べられるか? 私は簡単だ」と本当に砂を食べてしまったのです。そんな監督の背中を見て、「この人は命懸けでやる人だ」と圧倒されました。そして、アメリカで一度潰れた身なのだから、この際潰れてでもこの人を信じてみようと決意しました。以来、一気に練習にのめり込み、3ヶ月で元の体重に戻すことができました。 ■練習で泣いて試合で笑いたかった マラソンの練習は苦しいのが当たり前です。当時は監督から「陸上に集中しろ。男女交際も禁止だ」と言われ、周囲が遊んでいる週末も、ひたすら公園などを走っていました。強くなるためには監督のその言葉を守り、走るしかなかったです。「試合で負けて泣くくらいなら、練習で泣こう。試合で笑うために、練習の苦しさを乗り越えよう」と心に決めていました。陸上競技の魅力は、個人競技ゆえに人のせいにできないところです。勝っても負けても自分次第で、逆に言うと、やれば記録として目に見えて成長がわかり、サボればすぐに結果に表れます。言い訳ができない世界だからこそ、自分との勝負であり、やりがいがありました。学生時代に言われたことは、一生心に残ります。中村監督の「練習で手を抜く人間に将来人を指導する資格はない」という言葉は、私が指導者になってからもずっと胸に刻まれています。あるチームメイトが、自分のお姉さんの結婚式に参列した後、夜の8時に監督の家へ挨拶に行った時のことです。監督は「お姉さん綺麗だったか。そうか、じゃあ今から走ってこい」と命じました。お祝いの後だろうと、勝負の世界は待ってくれません。妥協や言い訳を一切許さない、毎日の真剣勝負だということを監督は体現していました。 ■指導者の背中とこれからの夢 現在は現場の指導からは退き、駅伝やマラソンの解説、企業での講演活動、市民マラソンでの普及活動などを行っています。指導者として私が大切にしてきたのは、「自分の背中を選手たちに見せること」です。中村監督は、雨が降っていても傘を差さず、何時間も立ったまま私たちの練習を見守ってくれていました。70歳近い恩師が雨に打たれながら見ている姿を見ると、さらに熱量が入るのが人間です。私も現役を退いてから50歳くらいまでは、家庭のことは妻に任せきりで、365日休みなしで選手たちと生活を共にしてきました。今後の夢は、私の教え子でもあり、現在早稲田大学で駅伝監督を務めている花田勝彦監督を、箱根駅伝で優勝させて胴上げしたいということです。そして、日本のマラソン界においては、男女ともにオリンピックでもう一度メダルを取らせてあげたいです。そのために日本陸連に関わる人たちの背中を押し、サポートしていくことが私の今の仕事だと思っています。 ■大学生へのメッセージ 世の中は、決してうまくいくことばかりではありません。だからこそ、失敗を恐れないでください。いっぱい失敗して、そこから多くのことを学んでほしいです。「急がば回れ」と言いますが、近道を行こうとしたり、綺麗に進もうとしたりせず、遠回りをして苦労してでも、それを乗り越えた先に本当の真実や本物があると思います。また、目標を持つことも大切です。どんなに小さな目標でも構いません。短いスパンで目標を設定すれば、自信に繋がると思います。そして、友達をたくさん作ってください。学生時代に築いた人との繋がりは、将来社会に出た時、必ず自分を助けてくれます。若い時に流さなかった汗は、年をとってから涙となって流れます。かけがえのない学生生活を大切に送ってください。 学生新聞オンライン2026年7月22日取材 武蔵野大学4年 吉松明優奈 日本大学 2 年 原田達司/城西国際大学 3 年 渡部優理絵/武蔵野大学4年 吉松明優奈/早稲田大学 3 年 伊藤健太/法政大学 2 年 森川葵/京都芸術大学 1 年 猪本玲菜

学生新聞インターン

スマドリ株式会社 代表取締役社長 高橋徹也

自分らしい飲み方で、お酒の「最高のスタート」を スマドリ株式会社 代表取締役社長 高橋徹也 (たかはしてつや) ■プロフィールアサヒビール入社後、営業や営業企画を担当した後、2009年からマーケティング部にてビールやチューハイ、ノンアルコール商品などを担当。現在はスマドリマーケティング部長として「スマートドリンキング」を推進するとともに、アサヒビールと電通デジタルの合弁会社であるスマドリ株式会社の代表取締役社長を兼務している。 アサヒビールと電通デジタルの合弁会社となるスマドリ株式会社。4月に表参道にオープンした「SUMADORI Meets」。実際にカクテルを体験しながら、代表の高橋徹也氏に、スマドリの成り立ちを伺った。その取材からは「飲めない人も飲める人も、お酒の場を楽しいものだと感じてほしい」という熱い思いが伝わってきた。 高校時代はボート部に所属していました。大学でも続けようかと迷いましたが、さらに経験の幅を広めたいと思い、ボランティアサークルに所属しました。近隣の小学生と一緒に遠足や一泊二日のキャンプに行くなどの活動をしていたのですが、小学生が楽しめるように企画・実行することは大変でしたね。アルバイトは飲食や家庭教師などを経験しました。当時は、ビアホールのウェイターをしていたため、もしかしたらその経験が、今に行き着いているのかもしれません。就職活動の際は、軸として「自分が何を好きなのか、何が楽しいのか」を大切にしていました。これは今でも一貫した考え方なのですが、その中でもお酒が好きだったため、ほぼ志望を固めてアサヒビールを受けました。 ■アサヒビールでの経験、そこから生まれたスマドリ アサヒビールに入社後、営業を4〜5年経験しました。その後は営業をデータで支える分析や資料作りなどのサポート業務を経験し、さらに会社全体の営業戦略を練る営業企画の仕事も担当しました。2009年からはマーケティング部に在籍しています。そこではチューハイをはじめ、ビールやノンアルコール飲料など、アサヒビールの主要な商品に携わってきました。現在はノンアルコールを取り扱うスマドリマーケティング部の部長を務めながら、その延長線上で立ち上がったこのスマドリ株式会社の社長も兼任しています。「スマドリ」とは、アサヒビールが2020年から提唱する「スマートドリンキング」の略称です。この文化をより多くの人に広めるべく、2022年にはアサヒビールと電通デジタルの合弁会社としてスマドリ株式会社を立ち上げました。この会社が始まったのは、「飲まない人のことも知らなければ」という想いからです。我々アサヒビールの人間は、飲む人のことしか知らない。これまでは飲む人を中心に調査してきました。電通デジタルさんは、やはり発信力やSNSの部分が強みです。我々アサヒビールは商品開発の力があります。この強みの掛け合わせでより良いものを生み出せると考えています。スマドリ社全体の主な業務としては、SUMADORI Meetsという体験型店舗の強化です。SUMADORI Meetsが目指すのは、お酒の場を楽しみ、良い思い出を持ち帰るための体験の場を作ること。単なる飲食の場ではなく、体験の場を提供できる点がこれまでとの差別化ポイントです。2022年にスマドリ社を立ち上げて最初に取り組んだのは、「スマドリ」のバーを渋谷につくったことです。何かをつくること自体、そもそも大変ですが、飲む人ではなく“飲まない人”のバーをつくることは、苦労の連続でした。電通デジタルさんの調査の力や発信力も借りながら、納得できるバーになったと思います。 ■初めてのお酒をトラウマにしない 大学生との共創や行政にも力を入れています。特に「スマドリ」のターゲット層が20代ということもあり、20代の大学生や若い人、飲めない人に対して、お酒の入り口に対してどうやって体験してもらうかを中心に取り組んでいます。大学生になって、20歳を迎え、初めてお酒を飲もうとしたときに、いきなり飲み屋に連れて行かれて、個人の適量を超える量を飲んで倒れてしまうようであれば、嫌な思い出しか残らないですよね。そういうネガティブな体験を無くしたいという思いが、この会社の根源にあります。お酒の飲み方は本当に人それぞれです。量をたくさん飲める人もいれば、一杯で赤くなってしまう人、全く飲めない人もいます。SUMADORI Meetsの1番のコアは、自分らしい飲み方や楽しみ方を、この店で見つけることができるということです。皆さんの中にも、お酒を飲みに行った際に自分の総量が分からず、かなり酔ってしまった経験がある方もいると思います。その前の段階で、0.5%といった度数の低い段階のものから試すことができます。自分で度数を選べるので、ここに来ていただいて、自分の飲み方を見つけて「あ、こういう飲み方をすれば、自分は楽しめるんだ」と感じることができれば、飲み会文化を嫌いにならないと思っています。最終的には、「スマドリ」という新しい文化を日本の社会の中に作っていくことが、この会社のミッションです。現在、「スマドリ」の認知度は50%です。3年前には「スマドリ」という言葉を知らなかった方々の約半分が今、知っているという状態は、第1段階としては良いことだと思っています。ここからもっと他の世代も含めて認知率を上げていきたいです。 ■一緒に働く上で重要なのは、「楽しめる力」 仕事をする上では、個人的には明るくポジティブな方がいいなと思います。ポジティブや明るさにも色々なものがあると思いますが、ワイワイするだけというよりも、冷静で論理的な部分は持ちつつ、たとえ困難があってもその中で今やっていることを楽しめる人がいいですね。「嫌だな」と思うことでも、見方を変えて楽しいと思えることは重要です。そうすると、前向きに仕事に取り組めて、結果的に上手くいくと思います。大学時代はやはり、自分の興味のあるものや面白いと感じたことに素直に飛び込んでみることは大切だと思います。その中で上手くいかないことは絶対にあります。しかし、そこで終わりにするのではなく、失敗を「次の一歩に進むための武器」や「次のための階段」だと捉えてほしいです。社会に出ると価値観の違う人にたくさん出会い、思い通りにいかないことも増えますが、困難を糧に、引き返さず歩みを進められる人は、きっと大きく成長できるはずです。 学生新聞オンライン2026年5月20日取材 東京女子大学3年 浮田梨紗 情報経営イノベーション専門職大学2年 山田千遥/武蔵野美術大学2年 石井生成/京都芸術大学1年 猪本玲菜/東京女子大学3年 浮田梨紗

中澤京平

株式会社おやつカンパニー 代表取締役社長 横山正志

ベビースターで、おやつに新たな価値を創造する 株式会社おやつカンパニー 代表取締役社長 横山正志(よこやまただし) ■プロフィール1966年生、広島県出身、大学卒業後1989年株式会社(松田食品入社(その後、株式会社おやつカンパニーに社名変更)、大阪赴任勤務から東京支店、中部支店を経て営業本部長と営業畑一筋で2022年副社長就任を経て、2023年11月より四代目の代表取締役社長に就任、好きな格言「なせば成る」、経営理念 たっぷり楽しいおやつと夢の創造。 世代を問わず、多くの消費者に親しまれてきた、おやつカンパニーの「ベビースターラーメン」。今なお、そのブランドは様々な商品、企業とのコラボレーションやアジア圏のみならず、北米、豪州、欧州の海外展開を通じて影響力を広げ続けている。今回は、そのような皆に愛されるベビースターにかける熱い思いを、代表取締役社長の横山正志さんに伺った。 大学時代は、両親に授業料を払ってもらっていたものの、生活費は出来る限り自分自身で稼がなければならなかったので、奨学金とアルバイトで工面していました。主に、小麦粉や砂糖などの原料を卸す問屋で働いたり、スーパーマーケットの店頭入口に並ぶ和菓子や洋菓子を売ったりするアルバイトをしていました。店頭販売の仕事では、売った分だけ歩合制で給料を貰うことのできるシステムで、より多く売るためのセールストークなどの営業力も身につきました。 ■おやつカンパニーとの運命的な出会い 就職活動の際は、生活に必要不可欠なものとして、衣食住の中でも食品または薬品の企業を志望していました。当時は就職活動にかける時間を減らしたかったので、ある会社の内定が決まっていた時点で就活を終わらせていました。しかし、大学四年の夏に、会社案内が載っている冊子のおやつカンパニー(当時松田食品)のページを見て、「ベビースターは変わる。君も変わらないか?」というキャッチコピーに不思議と惹きつけられ、急遽、面接を申し入れ内定を頂き、就職先を変えることを決意しました。 ■社長になるまでの道のり 1989年に入社してからは、大阪営業所に配属され、近畿地方のあらゆる取引先へ、営業活動をしていました。その頃の弊社は、駄菓子メーカーとして安定していましたが、ここから会社として成長していくためにスナック菓子という新しい方向性に舵を取るべきかどうかを模索している段階でした。結局はスナック菓子路線で進めることになり、東京へ転勤して卸店や小売業に頻繁に商談を行いました。東京転勤後には、今なお多くのお客様に愛される「ラーメン丸」や「ドデカイラーメン」、「ラーメンおつまみ」も発売され、会社として大きく飛躍を遂げていきました。副社長を歴任していた時の社長は3代目で、それまでの創業者による代表から一変して、食品ではない外資系出身の手島さんという方でした。私は、この手島さんから多くの事を学び、次期社長としての指名を受けました。当時の私は、確かに会社のことは大方頭には入っていましたが、経営者として、ヒト・モノ・お金の動きをどのようにすればよいかといった考えを持つことや、社長業という重要な役職を自分が引き受けるべきか悩みました。そのことを奥さんにも相談した際、「会社とは社員の人数だけでなく、その家族の生活までも背負っている。あなたが受けなくて誰にやらせるの」と背中を押してもらい、社長になる決意をしました。 ■子どもも大人も楽しめるベビースターラーメン 「ベビースターラーメン」は、元々即席めんを作るときの過程で出てしまう麺のカケラをもったいないと思ったことがきっかけで生まれました。今や発売から67年の時が経ち、子どもから大人まで親子三代まで親しまれています。そうした中で、これからもベビースターが多くのお客様に楽しんでもらうには常に進化をさせていかなければなりません。そのために、私たちのベビースターが持つブランドを有効活用して、新たな味や、大人がお酒を飲むときのおつまみになるような商品も開発してきました。もちろん、同業他社においても、子どもと大人の両方が楽しむことのできる商品開発は進めているはずです。けれども、おやつカンパニーは、ベビースターという大きなブランドを持ちながらも、駄菓子や、ブタメンをはじめとしたカップ麺などおやつ産業の中でも極めて食への機会が豊富です。この充実した商品ラインナップは、弊社が他の競合企業に比べて差別化出来ている点だといえるでしょう。こうした様々な商品を開発できるのは、社員一人ひとりが常にアンテナを張り、その時々の流行やお客様の声に耳を傾けているからだと思います。このアンテナは時に他の企業や学校などとのコラボを実現させ、お客様により面白いと思っていただけるような商品を生み出すことにも繋がります。例えば、網走ビールとのコラボで生み出された「べビール」なども、その一例になります。また、ベビースターといえば、「ベイちゃん」から「ホシオくん」へキャラクターが変わったことも記憶に新しいかと思われます。当時は海外展開の拡大を考えていた時期であり、当時の二代目松田社長は、アメリカをはじめ世界中で受容されるような変化が必要と考え、常に変化する企業として大胆にキャラクターを変更しました。30年も続けてきたベイちゃんキャラを変えることには多少の抵抗もありましたが、新たなキャラクターを育成していく事で、先人たちが創り出してきたベビースターブランドを更に引き上げていく。我々が自分たちで更に進化するキャラクターの活用にチャレンジすべきだという思いから、このような変化に踏み出していきました。 ■ただ食べるだけのおやつじゃない お菓子というものは、ただ即食で食べるだけでなく、料理の食材や、食料としても利用されうる食品であると私は考えております。実際、東日本大震災の際は、食料が不足して困っていた時に、おやつが食料代わりとして機能しました事を覚えています。私たちは、これからのおやつを食べて楽しんでもらうことに加え、生活の中の何らかの形で使ってもらえるような形にしていきたいと考えています。そうすれば、高齢化、人口減少社会の中で「新たな需要を生み出す」ことができ、決しておやつだけでない分野への展開も出来るようになるのではないかと想像を膨らませています。 ■学生へのメッセージ 近年、物価高やエネルギー不足問題など、混沌とした世の中になっていますが、どのようにしてこのような状況になっているのか、自分自身で問題意識を持ち、自分で考えることが重要だと思います。これは、社会問題だけでなく、身近にあるちょっとした疑問についても、自分なりの考えを持つだけでも構いません。他者から聞いた話やネットだけでなく、自分の目で見て、自分自身がどう考えるかの力を身に着けてください。また、一人で仕事は完結できないということもお伝えしたいです。チームで仕事をこなす上では、我を貫こうとする自分だけでなく、他者と協力し、素直に聞き入れる必要もある。そんなバランスを兼ね備えていることが、今後の社会で活躍するためには肝要だと思います。 学生新聞オンライン2026年4月23日取材 早稲田大学3年 中澤京平 武蔵野美術大学2年 石井生成/早稲田大学3年 中澤京平/かえつ有明中学校2年 狩野百福/京都芸術大学1年 猪本玲菜

古賀夏音

芸人・童話作家、脚本家、映画製作総指揮、プロデューサー 西野亮廣 /...

コントロールできない未来を「待つ」という勇気。 芸人・童話作家、脚本家、映画製作総指揮、プロデューサー 西野亮廣(にしの あきひろ) ■プロフィール『映画 えんとつ町のプペル』(2020)では原作・脚本・製作総指揮を務め、196万人を動員する大ヒットを記録。日本アカデミー賞をはじめ、多数の映画賞を受賞。ブロードウェイでは、『Cats: The Jellicle Ball』にも共同プロデューサーとして参画し、第79回トニー賞3部門を受賞。2026年3月に最新作『映画 えんとつ町のプペル ~約束の時計台~』が日本全国で公開された。 2026年春に公開された『映画 えんとつ町のプペル 〜約束の時計台〜』。 脚本・製作総指揮を務める西野亮廣さんが、この物語に託した真摯な想いと、「20代前半で勝負は決まる!」という、これからを生きる若者への本気のメッセージをお聞きしました。 ■“感情の針が振れた”原体験から描く、信じて待つ強さ 実は、続編の制作当初、僕の中に「どうすればヒットするか」というマーケティング視点が先に立ってしまっていました。物語の本質よりも「どうすれば当たるか」を優先して脚本を書いてしまったため、そうして出来上がったものは、僕自身にとっても全く面白くないものでした。迷った結果、10ヶ月かけて書き上げた脚本を、白紙に戻すという大きな決断を下しました。そこから改めて、「なぜ前作がヒットしたのか」という原点に立ち返りました。前作は、僕自身のバッシングの経験を形にした、個人的な物語でした。だからこそ、続編ももう一度、自分自身の人生の中で最も「感情の針が振れた」経験を基に物語を作ることを決意しました。その経験は、僕がキングコングとしてキャリアをスタートさせ、人気絶頂だった21、2歳の頃に起きた、相方(梶原雄太)の失踪事件です。心身症になり、姿を消した彼。全てのレギュラー番組が一日で無くなり、僕は部屋で一人、ポツンと座っていました。吉本興業から「一人でいくか」という選択を迫られた際、僕は「待つ」という道を選びました。いつ戻るか分からない、コントロールできない未来を信じて待つ。それは、僕の人生の中で最も勇気が必要な「挑戦」でした。今回の映画は、僕自身のこの経験に基づき、「待つ」という行為に込めた、信じ抜く強さと勇気を描いた物語です。 ■「小学校2年生の自分」に届ける、パッピーエンドの冒険ファンタジー 僕が作品作りをする上で、チーム全体と共有している重要なルールがあります。それは、時代に流されない、普遍的な魅力を追求することです。今の時代、「どうすれば見られるか」を考えると、どうしても刺激的な内容になりがちですが、僕たちはそれを絶対にやらないと決めました。僕たちが目指したのは、誰もが安心して楽しめる、ハッピーエンドの冒険ファンタジーです。その背景には、僕が子供の頃に見たかったもの、心からワクワクしたものを形にしたいという、純粋な想いがあります。そして、その想いを伝えるための具体的なペルソナとして、僕は「小学校2年生の西野亮廣君」を設定しています。田舎の兵庫県川西市に住んでいた、小学校2年生の自分に届けることだけを考える。あの子が何が好きで、どんな未来を期待していたかは、僕が一番よく知っています。時代が何を求めているかではなく、彼に届けることだけを考える。このブレない姿勢が、プペルらしさ、ひいては僕の作品の大きな魅力となっているのです。これは若者たちへの「寄り道をしてほしい」というメッセージにもつながります。効率性やコスパだけを追求するのではなく、勇気を持って未知の世界へ踏み出し、多くの「寄り道」をしてほしい。僕だって、最初からやりたいことがあったわけではありません。まずは走り出してみて、そこで探るしかない。計画を立ててから動き出すのではなく、まずはガチャを回し続けること。それが、将来のやりたいこと、夢につながるのだと、僕は伝えたいです。 ■家にはまっすぐ帰らない。友達と「おもろいこと」を追求し続けた青春時代 「学生時代に力を入れていたことは?」と聞かれたら、僕は「部活と、友達と毎日絶対に面白いことをすること」と答えています。高校時代は、友達とずっと一緒にいるのが重要だったので、未経験でしたが廃部寸前のハンドボール部へみんなで入部しました。三年生がいなかったので一年生から試合に出られたし、当時は人気のないスポーツだったので、少し運動ができれば勝ててしまう。それがただひたすら楽しかったですね。でも、一番の思い出は部活の後です。家にはまっすぐ帰らず、夜な夜な友達と集まって「今日何する?」と遊んでいました。高校三年間、毎年12月になると、男三十〜四十人で夜の学校に忍び込み、裏山から木を切り出して運動場のど真ん中に巨大なクリスマスツリーを建てる、という完全犯罪を計画・実行していました。そして進路に関しては、迷いはありませんでした。小学校二年生の時、近所のスーパーに来たプロレスの巡業を見て、ブルーシートの向こう側から聞こえる、とてつもない歓声とエネルギーに圧倒され、「僕もあっち側(エンターテインメントの世界)に行きた_い」と心に決めていたからです。だからこそ、今でも日常生活で大切にしているのは「小学校二年生の僕が悲しむようなことは絶対にやらない」ということ。どれだけ利益が出ようが、あの子がワクワクしないものは作らない。ペルソナが明確だから、僕は迷わずに挑戦を続けられるのだと思います。 ■大学生へのメッセージ 「20代前半で人生の勝負は決まる」と思った方がいいです。人生の努力の総量が100なら、20代で80はぶち込まないと負けてしまいます。最初の打席で勝てないと、その後も勝てない人と組むことになり、負けが込んでいく。これが世の中の理です。だからこそ、皆さんがやるべきは、圧倒的な「量」です。ペース配分など考えず、勉強も情報収集も、とにかく量をこなす。そして、お金の勉強として、一度自分で商売をしてみてください。メルカリでも何でもいい。商売を経験すれば、「他者目線」が身につきます。「自分目線」から早く脱却し、他者目線を手に入れて社会に出る。25歳までに勝負を決めるつもりで、今すぐ動いてください。 学生新聞オンライン2026年7月10日取材 慶應義塾大学1年 古賀夏音 ■『映画 えんとつ町のプペル 〜約束の時計台〜』上映会 あなたの街にも、『えんとつ町のプペル』を。全国のイベント会場にて、『映画 えんとつ町のプペル』『映画 えんとつ町のプペル 〜約束の時計台〜』の上映イベントが実施されます! ◾️川西市キセラホール日時:8月8日(土) ①13:00〜 ②17:30〜 8月9日(日) ①12:00〜 ②16:30〜https://chimney-ticket.jp/event/group/3b0d21df-b159-4149-9531-cb9698f8db28/8d87d8ec-15ff-43ad-badb-7b8a2e7bcd09 ◾️柏市 さわやかちば県民プラザ日時:8月11日(火・祝)①13:00〜 ②15:30〜https://chimney-ticket.jp/event/ticket/3b0d21df-b159-4149-9531-cb9698f8db28/1014984d-fe40-48ac-ba91-78493dd1e0b7 法政大学2年 渡辺碧羽/東京都立大学4年 坂倉彩月/情報経営イノベーション専門職大学2年 山田千遥/城西国際大学3年 渡部優理絵/慶應義塾大学1年 古賀夏音

コラム

テリー伊藤 コラムVol.85 絶対楽しい日本橋人形町

前回のコラムで大好きな「武蔵小山商店街」を紹介したが、お気に入りの散歩街は他にもありました。下町ど真ん中、日本橋人形町。この地名は、江戸時代にこの地域に歌舞伎小屋や人形芝居の小屋が集まり、人形を作る職人や人形を売る店が多く賑わい、人形遣いが大勢住んでいたことに由来する。粋な町名じゃないですか。そんな訳でこの街に来ると何故か下町というより江戸の匂いを感じる。季節ごとにたくさんの露店が並ぶのも楽しい。正月に向けた歳の市、夏の瀬戸物市、5月の神田祭、秋の人形市、冬の餅つき大会など事欠かない。夏には浴衣姿の女性も度々目にする。 月に1~2度欠かさずに行く蕎麦屋「松竹庵」では鳥おろし蕎麦(1300円)を注文。日本で一番と言ってもおかしくない。美味し過ぎて病みつきになっているのだ。更に玉子焼き(800円)も絶品、実家が玉子焼き屋の私が言うので間違いない。甘酒横丁の「佐々木酒店」ではこの季節にある生酒粕(500円)を購入。家に持ち帰りお湯で溶かして好みに合わせて砂糖を入れて飲む。出来合いの甘酒は甘いので調整出来るのは嬉しい。実は大学時代に九段の靖国神社近くの「甘味処 初音」でアルバイトをしていたが、その姉妹店が人形町にもあり大人気となっている。お勧めは小倉あんみつ(780円)とおしるこ(850円)、お雑煮(950円)だが、目移りしてしまう。あんみつは黒蜜、白蜜のどちらかを選ぶが迷うところだ。初音の向かい側には毎週商品が変わって行く謎の貸店舗がある。テーマは一貫して「閉店セール」。どう考えても怪しいのだがそこがたまらない。顧客ターゲットはぶれない中年女性に絞り込んでいる。厚手の靴下、下着、手袋、派手なヒョウ柄ブラウス、異常に伸びるスパッツなど確信犯…。時には8割引きの旅行カバンやポーチも。余りの安さに思わず手が出てしまう。ドン・キホーテに負けない楽しさ。スペシャルイベントでは世界で話題になっているバンクシーの版画なども販売する凄さ。客層と作品のギャップを感じたがこれまた面白い。 人形町は買物だけではなく、安産祈願として有名な「水天宮」がある。毎月戌の日には妊婦さんが安産を願って参拝にやって来て街が華やかな雰囲気に。帰り道は下町情緒ある裏道を歩きながら隅田川まで足を運びたい。春風が頬に当たる両国橋の上で、行き交う船を眺めるのも素敵だ。これからの季節、稽古後の浴衣姿のお相撲さんに出会う機会もありそう。ホッとする町、お金を余り使わない町、江戸の町、人形町に皆さん行ってみませんか。楽しいに決まっています。 テリー伊藤(演出家) 1949年、東京築地出身。早稲田実業中等部、高等部を経て日本大学経済学部を卒業。2023年3月、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。テレビ番組制作会社IVSテレビに入社し、「天才たけしの元気が出るテレビ」「ねるとん紅鯨団」などのバラエティ番組を手がける。その後独立し、テレビ東京「浅草橋ヤング洋品店」など数々のテレビ番組の企画・総合演出を手掛ける。著書「お笑い北朝鮮」がベストセラーとなり、その後、テリー伊藤としてメディアに多数出演。演出業のほか、プロデューサー、タレント、コメンテーターとしてマルチに活躍している。YouTubeチャンネル「テリー伊藤のお笑いバックドロップ」LALALA USAでコラム連載中https://lalalausa.com/archives/category/column/terry

中澤京平

スポーツ庁長官 河合純一

スポーツを通じたウェルビーイングの実現に向けて スポーツ庁長官 河合純一 (かわいじゅんいち) ■プロフィール1975年、静岡県出身。水泳選手としてパラリンピックに1992年バルセロナ大会から6大会連続で出場し、金メダル5個を含む計21個のメダルを獲得。日本人初の国際パラリンピック委員会殿堂入り。日本パラリンピアンズ協会会長、日本パラ水泳連盟会長、日本パラリンピック委員会委員長等を歴任。2025年10月、第3代スポーツ庁長官に就任。 水泳のパラリンピック選手として活躍したほか、教育者、スポーツ行政の長としての3つの顔を持ち、スポーツの振興に貢献してきたスポーツ庁長官・河合純一さん。今回は河合さんに、全てのアスリートが生涯を通してキャリアを積み重ねるための展望や、スポーツと社会の共生を目指す未来についてお話を伺った。 ■水泳と教職の両立で積み上げたキャリア 私は生まれつき弱視で、中学3年生の時に全盲になりました。5歳の頃から水泳を習い始めて、泳ぐことの面白さや、浮力と水の抵抗がある水中でスピードを出すことの魅力に惹かれ、次第に熱中するようになりました。高校2年生の時にはパラリンピックに初出場し、銀メダルと銅メダルを獲得することができました。次は金メダルを獲りたいと思い、大学進学後も選手生活を続け、大学3年生の時に出場したアトランタ大会では金メダルを獲得しました。また、教師になりたいとも考えていたので、大学では教育学を専攻し、教職課程と水泳を両立するようにして、学生生活を送っていました。大学を卒業してから、5年間静岡県内の公立中学校で教師を務め、その後一度大学院進学のために休職をしました。修了後に再び教職に戻り、その後、静岡県教育委員会で特別支援教育の指導主事として教師への研修などを担当しました。その後、国立スポーツ科学センターの専任研究員を務め、2020年には日本パラリンピック委員会委員長として、東京2020パラリンピックを成功させるために力を尽くし、2025年10月より、パラリンピアンとして初のスポーツ庁長官となりました。 ■スポーツ庁長官としての仕事 スポーツ選手やその指導者だけでなく、教員や地方公共団体の方々など、スポーツに関わる人は多岐にわたりますが、スポーツ庁長官として、こうした方々へ挨拶をしたり、スポーツ大会の視察等に伺い、その中で多くの方々と意見交換をしています。私はパラリンピック選手でしたが、教育現場やスポーツ医・科学など様々な分野に携わってきました。この一連の経験を通して得たものを生かし、スポーツを通じた社会課題の解決を目指すことが自分自身に与えられた役割なのだと思っています。 ■アスリートを取り巻く課題とスポーツの未来 私は、アスリートとは、何物にも代えがたい夢・目標・勝利・人の強さなどを表現することのできる人たちを表し、彼らの努力を周りの人々が見て、応援したいと思えるような存在であることが重要だと考えています。人々に応援し続けていただけるような、唯一無二の価値を発揮し続ける人材育成をする必要があります。結果だけを追い求めるのではなく、アスリート自身の人間性を高めていくことが大切なのです。技術力に加えて、人間力も備わってこそアスリートは社会に認められるのだと思います。アスリート関連の課題のひとつとして、引退後のキャリア形成があります。夢を持ったらそのために人生の多くの時間を費やす傾向が多くみられましたが、アスリートにはピークとなる年齢があり、現役でいられる期間は他の職種に比べて短く、体力的にも衰えていきます。アスリートとしての生活を終えるところまでのみ考える指導者やアスリートが多いですが、私は、引退した後に「次に何をすれば良いのか分からない」という状態に陥らないように、アスリートとして競技にかける時間以外の時間を使って、早い時期から、自分の人生をデザインすることが必要だと考えています。特に、スポーツから得たものを自身で言語化し、社会でどのように生かすことができるのかを日頃から考えておくことが、アスリートの引退後のキャリアにおいて重要な役割を果たすと考えています。また、スポーツ庁では、スポーツと社会の未来についての取組を進めております。スポーツには、「する・みる・ささえる・集まる・つながる」という5つの役割があります。スポーツを通じて、人生の豊かさ、ウェルビーイングを実感いただけると考えており、国民一人ひとりがこのような状態を実現できるようにするために、日常の中で身体を動かし、自身の体と向き合う時間を作れる環境を整えるべく日々取り組んでおります。スポーツが社会の中に有意義なものとして浸透していくことが目標です。 ■学生へのメッセージ 学生のもつ若さやエネルギーは1つの魅力だと思います。その若さやエネルギーを、自分の夢や社会のためになることに注いでいただきたいです。何を頑張れば良いか分からない方も、まずは今できることをきっちりとやることで、自分のやりたいことが見えてくるでしょう。失敗を恐れることがあるかもしれませんが、チャレンジをしないことこそが一番の失敗になります。チャレンジの中で生まれる失敗は貴重な経験となり、次に向けて昇華することができます。失敗をしたときの乗り越え方を身につけていただくことは大切だと思います。 学生新聞オンライン2026年6月10日 早稲田大学3年 中澤京平 ■インターン生 取材しての感想 私は視覚障害の特別支援学校に通う高校3年生で、部活動ではフロアバレーボールに打ち込んでいます。将来は大学に進学し、障害があっても誰もがスポーツに夢を持ち、アスリートを目指せる社会の実現について学びたいと考えています。今回、スポーツ庁の河合純一長官のお話を伺うという大変貴重な機会をいただき、私が大学で学びたいテーマにもつながる二つの質問をさせていただきました。ひとつは「障害者でもアスリートを目指せる社会を実現するために必要なこと」、もうひとつは「アスリートの現役引退後のキャリア形成」についてです。程度の違いこそあれ、日々の社会生活にも何らかの不自由がある障害者にとって、スポーツに打ち込むことは決して簡単なことではありません。「障害があるから」という理由で夢をあきらめたり、競技を続けることを断念したりする人も少なくないと思います。私は、その課題を解決するための制度や支援策について伺いたいと考えていました。しかし、河合長官のお話は、私が想像していたものとは少し違っていました。元トップアスリートらしく、「アスリートとは、周りの人が応援したくなる存在であることが大切」という考えを示されたのです。夢や目標、人としての強さなど、何ものにも代えがたい価値を表現する存在だからこそ、人は応援したくなり、その応援が社会からの支援やスポンサーシップにもつながっていく、というお話を聞いて、みんなが憧れる選手のように、人を惹きつける魅力や生き方そのものが、障害の有無に関係なく応援の輪を広げていくのだと感じました。長官は共生社会の実現というテーマにも触れられていましたが、その前提として、一人のアスリートとして自らの価値や魅力、人間性を高めていくことが重要なのだと感じました。もうひとつ印象に残ったのが、アスリートのキャリア形成についてのお話です。どんな競技にも現役生活の終わりがあります。そこでパラアスリートに限らず、アスリートの引退後のキャリア形成について何が必要なのかについても質問しました。河合長官の答えは、セカンドキャリアという視点だけにとどまるものではありませんでした。競技だけに人生を懸けるのではなく、10代の頃から競技と並行して将来の人生設計を考える「デュアルキャリア」の重要性を強調されたのです。競技に打ち込むからこそ、練習やトレーニング以外の時間を使って自分の将来をどうデザインするかを考えることが大切であり、スポーツを通じて得た経験や、競技以外で身につけた力を社会でどう生かしていくかを考えておく必要があるというお話でした。河合長官のお話を聞きながら考えていると、制度を整えることと同じくらい、アスリート自身が競技以外の能力や価値、人間性を高め、自分の人生全体を主体的に設計していくことが大切なのだと気づかされました。そして、そのような努力をする選手たちを後押しする環境づくりや、競技機会・就労機会の提供などを社会全体で支える制度が整えば、パラアスリートだけでなく、健常者のアスリートやスポーツ愛好家にとっても、より豊かな社会につながるのではないかと思います。この取材は答えを得る場というより、自分が大学で何を学び、将来どのように社会に貢献したいのかという問いを、より深く考える機会になりました。河合長官がスポーツについて語られた「する」「みる」「ささえる」「集まる」「つながる」という価値のお話に触れて、スポーツが持つ可能性の大きさと、私が目指したい社会の姿が、これまで以上にはっきりと見えてきたように感じています。大学では、障害の有無にかかわらずアスリートが自らの価値を高めながら競技を続けられる環境づくりについて学びを深め、将来はパラアスリートの競技継続支援や現役引退後のキャリア形成を支える仕組みづくりに携わりたいと思います。一人でも多くの人が安心して夢に挑戦できる社会の実現に、貢献していきたいと考えています。 埼玉県立特別支援学校 塙保己一学園 普通科3年 節丸大真 早稲田大学3年 中澤京平/情報経営イノベーション専門職大学2年 山田千遥/埼玉県立特別支援学校 塙保己一学園 普通科3年 節丸大真/京都芸術大学1年 猪本玲菜/早稲田大学3年 伊藤健太