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Archive for 運営スタッフ

学生新聞インターン

銀座高須クリニック 総括院長・医学博士 高須 克弥

誰も成し得ていないことをやるからこそ面白い 銀座高須クリニック 総括院長・医学博士 高須 克弥(たかす かつや) 1945年愛知県生まれ。医学博士。昭和大学医学部卒業、同大学院医学研究科博士課程修了。美容整形外科医の草分け的存在として「二重瞼形成用糸」「脂肪吸引手術」など数多くの施術に関する特許を取得、世界の最新美容外科技術を日本に紹介。金色有功章、紺綬褒章を受章。「YES高須クリニック」のコピーをはじめとして、日本で最も広く知られる美容整形外科ドクター。 我が家は400年続く医者の家系です。当主は全員医者になることが決まっていました。本当は漫画家になりたかったのですが、医師免許だけはとっておけと言われ、昭和大学の医学部に入りました。 大学時代は博士号を取るため、大学院へ 年間行きました。専門は家族の誰とも被らない整形外科を選びました。大学では催眠術研究会に所属し、催眠術の研究をしていました。研究をしていく中で、切断した脚が残っていると感じてしまう「幻肢」に興味を持ち、論文を書くことにしました。頭の中に感覚領域があってそこに催眠術をかけていくと消えるということを論文に書きました。大学院1年生のときに、その論文が医学雑誌に掲載され、それが認められて博士号を取ることができました。大学院の4年間は大学に席を置きつつ鉄道中央病院や自衛隊中央病院でアルバイトとして働きながら交通外傷などを勉強していました。昭和大学では扱っていなかった分野だったので、学生だから勉強しに行くと言って自由に行っていました。 人工関節を作る研究に関心があったのですが、昭和大学の整形外科では取り入れていなかったためできませんでした。大学院2年生のときに、ドイツのキール大学との交換学生の機会があり、留学を決めました。キール大学は人工関節では最高峰の大学です。あるとき、人工関節の名人と言われていた先生の手術を見学できる機会に恵まれ、鼻を整形する手術を見ました。そのときの感動は大きく、「こんな世界があるんだ」と思い、整形外科の面白さにひかれました。そして、この技術を習得できれば日本で第一人者になれるのではないか、と思いました。 ◾️高須クリニックの開業 日本に帰ってからは、病人が早く完治するよりも長く入院する方が経営的には儲かるシステムになっている医療制度に納得がいかず、名古屋で自由診療の美容外科、高須クリニックを開業したのです。 美容外科をやると言ったときは、叔父に激怒されました。当時の美容外科は、医者として失敗したものが集まる三流医者の吹き溜まりのような科で、ましてや「病気ではない人間にメスを入れる医者が高須家から出るのが恥ずかしい!」とまで言われました。しかし僕は、「これからの医療はいろいろな病気が治せるようになり、最後には病気がない世界になり、美貌と若さを欲しがる時代が必ずやってくる。だから美容外科はこれから伸びる、伸びしろのある医療なんだ!」と言い、反対を押し切って開業したのです。 あるとき、『危ない美容法』という美容系の本を出版しました。当時は美容整形の本はあまり出ていなかったこともあり、テレビ局から美容整形のことが喋れる医者ということで呼んでくれる機会が増えていきました。そしてたくさんの有名人がお客様として来てくださるようになりました。国内は北海道から九州まで13箇所、ハワイにも2箇所のクリニックを持つようになり、いつの間にか美容整形の専門家になっていったのです。 ◾️美容医療は幸福追求医療 仕事のやりがいという面では、自分の体と顔を使って実験できるから面白いなと思います。今一生懸命やっているのは癌の治療で、挑戦的な治療を自分自身でやっています。誰もやっていないことをやるのが好きなのです。 今日本で流行っている、みんなが儲かっている美容整形の元ネタは、ほとんど僕なんです。脂肪吸引も僕が日本に広めたものですし、切らなくてもよい、糸で作る二重瞼も僕が発明したものです。いろいろな発明をして学会で発表すると同じことをされてしまう。だから途中からはパテントを取るようにしました。糸で作る二重瞼の糸のパテントを取り、糸で顔を引っ張り上げるパテントも取った。超音波で脂肪吸引をする装置のパテントもそうです。これらは特許庁がお墨付きを与えてくれるわけですから、僕が全部の創始者だということが公的に残ります。日本に留まらず韓国の美容整形を広めたのも実は僕です。 仕事上で楽しいことは、思いがけない歴史ができることです。医療現場では自分で実験ができるから楽しいですね。僕は全身ほとんど整形をしていて元のものがないんですよ。今の癌の治療も面白いですよ。 美容医療というのは第三医療です。第一医療は病気を治す治療医療、第二医療は病気にならないようにする予防医療、第三医療は予防も治療も関係なく、幸福を追求する医療です。だから美容医療はすごく小さな分野だけれど、これからはますます伸びる分野だと思います。なぜならば欲望には限りがないからです。 ◾️message 大学に入ることを目的にしていると、入った後は燃え尽きてしまい、大成しない人をたくさん見てきました。キャンパスライフを今は楽しめないけれど、好き勝手ができるいわば最後のチャンスです。社会人になったらやれないことを学生のうちに全部やっておくと毒抜きになっていいですよ。いい子だった人は大成しなかった。ひとつ前の時代に怪しいことをやっていた人が次の時代の勝者になっていると僕は思います。 学生新聞 別冊 2022年7月1日発刊号 日本大学卒業 辻内海成

学生新聞インターン

TCB東京中央美容外科 特別指導医 仙台駅前院院長 安本 匠

TCB東京中央美容外科 特別指導医 仙台駅前院院長 安本 匠(やすもと たくみ) 山形大学医学部卒業後、同大学附属病院・心臓血管外科勤務を経て美容外科医へ転身。TCB、1院目の福島院に2015年より医師として従事。心臓血管外科で培った技術を礎に、TCBの「特別指導医」として患者様に美を提供するとともに「TCB運営委員会」のメンバーとして、グループ運営の中心的な役割を担っている。 2014年の創立から数年で全国72院(開院予定含む)の展開を成し遂げ、 美容業界のトップグループに名を連ねるTCB東京中央美容外科。競争の激しい美容医療業界の中で、急速な成長を遂げたこのクリニックを支えてきた安本院長は、最初は心臓血管外科の医師だったという。その後どのような経緯で美容外科の医師になったのか、美容外科の魅力についてお話を伺った。 学生時代は山形県で過ごしました。幼いころは体が弱く、病院が身近な存在であったということもあり、昔から医者になることを志していました。山形大学の医学部に入学し、6年間勉強をしました。山形県は雪も多いのでキャンパスまで歩いていける距離に家を借りて一人暮らしをしていました。友人もみな大学の近くに住んでいたので互いに遊びに行ったり、一緒に勉強や飲み会をしたのが学生時代の思い出です。医学部は単位が厳しく、6年間朝から晩まで講義が埋まっているのに加えて実習もあるため、基本的に大学と家の往復でひたすら勉強をしていました。 卒業後は山形大学の附属病院に入り、心臓血管外科に所属しました。もともと手を使って物を作るということが好きだったこともあり、臓器を切り取るだけの治療法ではなく、新たに血管をつなげたり心臓の弁を治したりする創造的な治療に魅力を感じました。心臓は人間にとって非常に重要な臓器であり、運ばれてくる患者様は緊急の手術が必要な方も多いです。そのためこの仕事は休みがありません。遠出はできませんし、年間の休みはたったの2週間ほどです。もちろん魅力ややりがいは大きいですし、その道を究めていこうという方もとても尊敬しています。しかし、家族や子どものことを考えたときに、家族を本当に幸せにできているのか、自分の人生はこれで良いのかという疑問を感じる出来事があり、5年ほど続けたこの仕事から転職を考えるようになりました。 ◼️美容外科への転職 転職活動を進める中で、今のTCBの経営者である青木先生に出会い、先生が新しい静脈瘤のクリニックを開院するため、心臓血管外科医の募集をかけていることを知りました。私は自分の専門でもあった静脈瘤の分野に進もうと思って応募をしたのですが、既に他の先生で決まってしまっていたため、青木先生の勧めで美容外科を見学することになりました。 そのときに青木先生の二重施術を見学させてもらったのですが、施術を終えた患者様が初めて鏡を見たときに見せた笑顔がとても印象的で、美容外科医という仕事に魅力を感じました。自分が施術することにより、患者様も自分もすぐに結果が分かる点は前職とも共通する部分であり、面白さを感じたこともあって、最終的にこの仕事をすることに決めました。 仕事のやりがいは、患者様の喜ぶ顔や感謝の言葉がその場で聞けることです。たとえば、患者様が二重施術を受けたとします。医学的に言えば目に線が1本増えただけなのですが、二重になったことでその人が長年抱えてきたコンプレックスが解消され、心に抱えていた問題が解決します。たった1本の線で心が明るく幸せになるんですよね。そうすると患者様も自信を持ち、表情なんかも明るくなります。さらには考え方も変わり、ポジティブになります。新しいメイクをしてみようとか、いつもと違う髪型にしてみようとか、ファッションの勉強を始めたり友達付き合いがうまくいくようになったりだとか、少しずつ変わっていきます。 二重施術を経て、1ヵ月後に会うと表情も笑顔も髪型も格段にかわいくなっているんですよね。このように外見が変わることで、患者様の内面を良い方向に変えていけるような美容医療を皆さんに提供できたらいいなと思いますし、それが美容外科の一番の魅力であり醍醐味であると思います。 ◼️情報を正しく伝えることが大切 今の時代、小学生から二重施術やレーザー脱毛をしている方もいます。患者様の層や規模でいうと5年前や10年前とは全く違い、いろんな人がより身近に感じて気軽に美容医療を取り入れるような時代になっています。しかし、手術なのでもちろんリスクがあります。そういった点をしっかりお伝えして納得いただいたうえで皆さんに美容医療を提供したいので、身近な存在になったものの気軽じゃない部分も含めしっかり情報発信をするべきだと思っています。そのため、ネガティブな情報も出していくようにしています。リスクはしっかり理解してもらわなければならないし、それでやめたいという人がいてもいいと思います。きちんと理解したうえで自分にとって正しい選択をしてもらいたいですね。 ◼️message まとまった時間は学生時代にしか取れないので、勉強だけではなく趣味や旅行などに時間を使ってほしいですね。あとは、今の自分は今までの人生で自分が選択してきた結果だということを自覚し、自分の力で人生を切り拓いて行ける人になれると良いですね。たとえその選択が後から考えると失敗だったかもしれないと思ったとしても、次に進むための礎になります。どんな選択をしても、それが成功しようが失敗しようがさまざまなことに挑戦していけると良いですね。何歳になっても方向転換はできますからね。元気だったら人生何でもできます。 人や社会、時代のせいにせず、自分が選んだことはすべて自分の責任であり、責任を持つということが社会に出ることだと思います。 学生新聞 別冊 2022年7月1日発刊号 東京農業大学3年 畑千絢

大橋星南

株式会社まごころグループ 代表取締役 中島 英貴

「ありがとう」という感謝の言葉をモチベーションに 株式会社まごころグループ 代表取締役 中島 英貴 (なかじま ひでたか) 高校卒業後、ブラジルへサッカー留学し、サッカーチームと契約。引退後、柔道整復師の資格を取得し、 年間、接骨院と整形外科に勤務。その間、一般外傷を専門にする傍ら「むち打ち治療」の研究と勉強を重ね、平成 年に「すすき野まごころ接骨院」を開業。その後、事業領域を拡大し、美容事業、介護事業に参入。現在16店舗を経営。 平成20年、すすきので開業以来、若くして整骨院、エステサロン、美容鍼灸サロンを 計16店舗経営する中島社長。「真の健康とは心身共に充実した状態」だと説き、常にお客様に寄り添う社長だが、現在までの道のりは決して平坦ではなかった。寝たきり 状態から奮起して事業を起こすというすさまじい過去を持ち、それだけに感謝の気持ち を忘れないのだという。今回はそんな社長の過去と現在についてお話を伺った。 私は初めから美容業界を目指していたわけではありません。高校卒業後、幼少期より無我夢中でやってきたサッカーをするためにブラジルへ渡りました。ブラジルはハングリーな世界で、日本のようにコーチ・監督がサッカーを教えてくれるということはなく、自分から行動を起こさない限りは誰も何も教えてはくれないという環境でした。そのような中にあって、ブラジルではサッカーだけでなく、全てのことを能動的に考え、行動することを学んだように思います。サッカーは2年半ほど続けましたが、試合中に膝に大怪我をし、 21歳で引退しました。その後、今の仕事に関わるようになっていくのですが、サッカーを辞めざるを得なかったことは、人生の中で大きな後悔になっていたので、次にやる仕事は絶対に辞めないと心に決めていました。 ◼️長期療養後、整骨院を開業 帰国後、仕事についてあれこれ思いを巡らす中で、決められた線路の上を歩いて行くような人生よりも、何もないところから切り開いていく人生の方が自分には合っていると思っていました。 日中は整骨院で修行をし、夜は専門学校に通って柔道整復師という整骨院を開業できる国家資格を取りました。それから整骨院で8年間ほど修行したのですが、ちょうど独立・開業しようとしていた矢先、30歳の頃に首を痛めて入院してしまったのです。1年半ほど寝たきりの状態が続き、結局、長期間療養したものの首の痛みは治らないままでした。「ここまで療養して治らないものは、一年安静にしていても治らない」。そう割り切って、わずかな資金を元手に団地の片隅で中古の設備道具を揃えて整骨院を開業しました。本当に何もない状態でしたが、「ただ寝ているのなら、チャレンジして悪化しても本望」くらいの覚悟で始めたのです。 そしてまずは仕事ができる幸せを嚙み締めつつお金のことなど考えずに一生懸命働きました。すると徐々に仲間もお客様も増え、整骨院から美容エステ・美容鍼灸サロンへと事業が広がっていきました。 私は、美とは心身ともに健康であることが前提だと考えています。たとえば痩身エステにしても、健康的に痩せることを重視しています。そのため、お客様とは長く、深く関われるように、整骨院もエステもすべてサブスクリプションにし、体調管理をさせていただきながらお客様の目指す目標を達成することに尽力しています。 目標達成には、お客様のモチベーションを持続させることが不可欠なので、心のケアやホスピタリティをとても重視しています。私自身、こうしたお客様とコミュニケーションを取る中で、メンタルケアの大切さについても深く知るようになりました。 整骨院やエステの仕事は、仕事をして料金を頂きながらもさらにお客様から直接「ありがとう」と言っていただける、本当に稀な仕事だと思っています。このお客様からの感謝の言葉は、私にとって仕事の大きなやりがいになっています。 ◼️「ありがとう」の感謝の気持ちを胸に 今やっている事業はゼロから作り出してきたものです。それだけに労務管理を含めて会社としての体裁になるまでは大変でした。福利厚生の面からも充実とは程遠く、過去には従業員の家族からも怒られたことがありました。しかし、そう言ったところを少しずつ改善しながら一緒に働いてくれる仲間と事業を広げていきました。弊社のスタッフには、「ありがとう」という感謝の気持ちしかないです。私は事業を始めて10年以上になりますが、これまで一度もスタッフを怒ったことがありません(笑)。 私は会社を経営していく上で大切にしていることが3つあります。それは「謙虚」、「反省」、そして「感謝」です。この3つがあれば人は必ず付いてきてくれるものと思っています。 今後の展望については、あまり大それたことは考えていません。スタッフが家庭を持ったときに、きちんと食べていけるようにしなければという使命感のほうが大きいです。将来については模索中ではありますが、事業がなくなってしまわないようにホールディングス化することを考えていて、最終的には店舗までお店を増やしていければと思っています。事業を拡大していくためにも会社の理念に共感 できる人に入社して頂きたいです。求めるのは素直さのみです。素直であれば理念も浸透しやすく、成長も早いと考えています。 ◼️message どこの会社に入るかよりも、入ったあとのほうが重要です。どんなに入りたかった会社でも嫌いな人たちと嫌いなことをやっていると、本来やりたかったこともやりたくなくなってしまいます。それに、どこの会社に入っても理不尽なことはありますし、それを乗り越えるためにも好きなことを好きな人とやるのが大事なのではないでしょうか。会社の理念などを見て、自分のビジョンにあった会社を選ぶことが大切だと思います。 学生新聞 別冊 2022年7月1日発刊号 津田塾大学卒業 脇山真悠 / 日本大学3年 大橋星南

学生新聞インターン

東京美容外科 院長 麻生 泰

お客様の喜ぶ顔が仕事への大きなモチベーション 東京美容外科 院長 麻生 泰(あそう とおる) ■プロフィール 慶應義塾大学医学部大学院卒業。医学博士。2004年5月に東京美容外科を開設。同グループ14院の統括院長。現在はAGAスキンクリニック等を含め、日本全国に100院以上のクリニックを運営する。主な著書に『チェンジの法則』、『美容外科医の本音』、『麻生泰物語』等がある。座右の銘は「過去は変えられない。でも未来は変えられる」。 お客様の喜ぶ顔を見るのが嬉しくて、よりよい美容医療を提供し続けることを使命とする麻生院長。今では900人ものスタッフをまとめる院長だが、医学部に入るために3浪し、医療業界に対しても不安でいっぱいだったという。そんな苦労人である院長の美容医療を志したきっかけや業界への想いを伺った。 医学部を志望したのは高校2年生のときでした。志望理由は母が片目を失明しており、4人兄弟の誰かに医者になってほしいという母親の願いを叶えたかったことと、父の経営者としての姿を見てお金の重要さを身に染みて感じていたことが主な理由でした。当初は、医療の中でも形成外科に進もうとしていました。理由は幼少期に『ブラック・ジャック』を愛読していたことと、学生時代に顔面骨折の治療を見て治せることに衝撃を受けたのがきっかけです。 しかし、医学部を受験するものの現役時代はどこにも受かりませんでした。もう1年勉強すれば受かると思い、浪人しましたが2年目も受からず、ようやく3年目にして合格するという状態でした。友達はと言えば、もう就職の話をしている時期であり、焦燥感でいっぱいだったのを今でもよく覚えています。周りに医者になっている人もいませんでしたし、医療業界に対しても不安しかありませんでした。たとえ国家試験に受かったとしても、果たして自分が本当に医者になれるのだろうかという思いでした。 ◾️努力は必ず報われる そのような不安な気持ちを乗り越えるために、在学中は朝から晩まで治療の助手として働き、医大卒業後も研修などを通してたくさんの知識と経験を身に付けました。先輩や後輩、看護師さんなどの仲間にも恵まれ、大変ながらも充実した生活を送っておりましたが、ある日、状況が一変する出来事がおこります。父の会社が倒産したのです。家計を支えるためにはお金が必要となり、やむなく形成外科医から実入りのいい美容外科医へと変わらざるをえなくなったのです。 そして美容外科の知識を身に付けるために、日本だけでなくビバリーヒルズや韓国、オーストラリアに行ってたくさんの手技を学びました。あるときはお金のために美容業界に足を踏み入れた自分を責めたこともありましたが、施術後のお客様の喜ぶ顔を見ると次第に心情は変わっていきました。その大きな要因として、美容外科は医療知識や技術面に加え、美的センスが問われます。これが私に向いていたんですね。これからも「この人を綺麗にしてあげたい」の一心で、お客様が希望する美しさを提供し、施術後の笑顔を見るために、よりよい技術を提供したいと思います。 ◾️お客様の喜ぶ顔が見たい 私はお客様に満足していただくために、大きく分けて2つのことに力を入れております。1つ目は、やはり日々技術の向上に向けて研鑽することです。お客様一人ひとりの希望する美しさを実現するのはもちろんのこと、痛みの軽減や施術回数を減らすことにより、より一層お客様にご満足いただけるサービスを提供したいという思いがあります。そのためには、東京美容外科の一番の強みである専門性の高に、さらに磨きをかけることです。医療スタッフは、習得に7年かかる形成外科認定を取得している医師しか雇わないこともその表れです。 また、美容医療の業界だけでなく、医療業界全体でカルテの一括管理を可能にするシステムも作りたいと考えています。このように、お客様の立場に立った医療サービスを提供していきたいと考えており、そのための手段としてYouTube を使って発信力を高めようと頑張っています。有名になった先を恐れるのではなく、まず発信してみると何かが変わっていくかも知れないと思っています。 2つ目は、院長という立場ですのでやはり経営面ですね。ここでも大きな責任を背負わなければなりません。私についてきてくれる約900人のスタッフとその家族の生活がかかっています。お客様に満足していただくためにはスタッフが気持ちよく働ける職場環境を作らなければなりません。仕事場は人間関係がとても重要です。私たちの医院では良い人間関係が築ける職場を目指しています。 たとえば、いじめや差別をゼロにするために、万が一そのようなことがあったときにはすぐに発見し、報告できる体制を作ったり、私自身が現場に出続けることを意識しています。また、技術面だけではなく、人間としても優れた人を採用するようにしています。そのために、就職希望者のSNSは必ずチェックします。実際にSNSが原因で不採用になった方もおります。大学生のみなさん、気を付けてくださいね(笑)。 それと同時に、推薦状のある人は積極的に採用します。推薦をもらえる人間であるということは、一つの大きな判断材料になりますからね。そして美容外科が好きな人がいいですね。受け身ではなく、自分から行動を起こせる人と一緒に働きたいですね。 ◾️message 学生時代、私はずっと不安でいっぱいでした。今でも大学受験の夢を見ます。それくらい思いつめていましたが、その不安や焦燥感は、将来必ず役に立ちます。私自身、あのときの大きな不安をかき消すための努力が今の私につながっていると思います。もし今、不安や焦燥感でいっぱいなら、そんなに自分を追い詰めないでください、やっていくうちに得意になりますよ、と言いたいですね。 学生新聞別冊2022年7月1日発刊号 日本大学1年 大森雨音

学生新聞インターン

株式会社アデランス 代表取締役社長 津村 佳宏

時代の変化に対応して恐れずに挑戦、チャンスを掴む 株式会社アデランス 代表取締役社長 津村 佳宏(つむら よしひろ) ■プロフィール 1963年生まれ。広島県出身。早稲田大学人間科学部卒業。 1982年3月、株式会社アデランス入社。2017年3月、代表 取締役社長兼グループCEO就任(現任)。内閣府認定公認社団法人 日本毛髪科学協会 毛髪診断士認定指導講師、早稲田大学マー ケティングイノベーション研究会所属、金沢工業大学 派遣研究員、 看護理工学会 評議員。 2018年に創立50周年を迎えたアデランス。この節目の年に、安定志向をものともせず、ベンチャースピリットこそ成長の源泉だとして社内改革を断行。その結果、創業当時から連綿と続く毛髪事業のほかに、アイブロウサロンや美髪エステなどのビューティ事業が好評を呼ぶ。このような大改革を行った津村社長に、会社の目指すべき方向についてお話を伺った。 アデランスは、私が入社したころは男性用のオーダーメイド・ウィッグ専門の会社でした。当時、ヘアデザイナーを募集していて、私は芸術や美術が好きでヘアデザインに興味があったので入社しました。新入社員は80人くらいでしたが、同期の中で居残り組になった社員が5人いました。その中の一人が私です。特にパーマがうまく巻けず、居残りで勉強しました。会社からは、このままでは技術者としての配属は難しいと言われ、デザインをやりたくて入社した私は、技術力を上げるために一生懸命に練習しました。 老人ホームや介護施設で無料のカットに参加したり、街中の人に声をかけてカットモデルをお願いしたりして技術を磨いていきました。同期が先に進んでいることに悔しさもありましたが、技術力を上げるための努力を積み重ね、ついにはアデランスの技術大会で優勝するまでになりました。鍛錬すれば不器用な人でも上手になる、努力は必ず報われることを学びました。 ◾️社員の可能性の芽を摘まない アデランスには「目指せ世界のブランド アデランス」という創業当時から掲げる大きなビジョンがあります。毛髪事業からスタートした会社は、日本だけでなく世界中に展開し、女性用のウィッグや医療分野への進出も果たしました。また、CSR活動の一環として、お子様の髪の悩みを心の傷にしないためにウィッグをプレゼントする「愛のチャリティ」にも創業10年目の頃より取り組んでいます。 創業50年という節目の年に、毛髪事業で培った技術やノウハウを生かし、美容、医療、健康のウェルネス産業に進出しました。髪が綺麗になれば顔や体も綺麗にしたくなるものです。さらにはヘルスケアのための医療も必要になってきます。 このように、事業領域の拡大を図るためには、社員にどんどんチャレンジしてもらいます。また、アデランスは海外の社員の方が日本人の社員よりも多く、ダイバーシティの考えから国籍や人種に関わらず活躍できる風土も備わっています。社員一人ひとりのやりがいが私自身のモチベーションにもなっています。 一方、部署によっては進歩がなく、業績が止まっているケースもあります。それはマネジメントの問題だと考えました。上司が長年の知識と経験から部下の意見を否定してしまい、活性化しないのです。社員一人ひとりの行動が生産性の向上につながります。もしかしたら失敗するかもしれない。しかし激動の時代を生き抜くためにも、思い切ってチャレンジする部下の、可能性の芽を摘まないことが大切です。 アデランスが54年間も続いているのは、ウェルネス産業を通して人々を笑顔にするという理念の下に、お客様への心からのおもてなしを徹底しているからです。社員全員でアイディアを出し合い、会社を活性化させ、全ての社員に活躍してもらいたいと思っています。 ◾️年齢にあった美しさを引き出す アデランスはオリジナリティにこだわっていて、これが差別化につながっています。化粧品や美容機器を取り扱っているビューステージというブランドがあります。コンセプトは「いつの時代も美しく」。本当の美しさは若いというだけでなく、その人なりの年齢の重ね方だと思います。どの年代でも美しくあるためのサポートをしたい、そう考えています。そのためには専門性が高い機関や会社と協力し、研究開発を進めていくことも必要です。 創業時より知的財産の特許を国内毛髪関連業界ではトップレベルで取るほどに、最高の技術をお客様にご提供させていただくことにこだわってきました。美容業界は約9兆円という巨大産業で競争がとても激しい。その分、潜在顧客がたくさん存在する魅力的な産業でもあります。未開の地が多い美容業界ですので、止まっている市場を見つけ出し、最高の商品を生み出したいと思っています。これがイノベーションとなり、レッドオーシャンだった美容業界をブルーオーシャンに変えてきています。 今後の美容業界はさらに二極化していくと思います。大手企業だからと言って簡単に勝てる時代ではありません。デジタルマーケティングやSNSをうまく活用し、市場を獲得していく必要があります。コア事業に頼り過ぎて保守的になると前に進めません。立ち止まっているとあっという間に市場を取られます。新しいことにチャレンジしていくことが大切です。 アデランスは4年前に50周年を迎えました。創業者の意思を引き継ぎつつ、ベンチャースピリットを持ちながらこれからもチャレンジを続けていきます。 ◾️message 大学生の皆さんに伝えたいのは、年齢は最大の武器であり、可能性は無限です。将来、何をしたいか、どうなりたいか、今はまだ先が見えないかもしれません。まずはチャレンジしましょう。いろいろな経験をすることが大切です。それが血肉となって、今後のビジョンが見えてきます。始めるなら今、若ければ若いほど有利です。 学生新聞別冊2022年7月1日発刊号 明治大学4年 酒井躍

学生新聞インターン

城本クリニック 総院長 森上 和樹

誠実に良いものを提供し信頼されるクリニックに 城本クリニック 総院長 森上 和樹(もりがみ かずき) ■プロフィール 1958年、大阪市生まれ。1984年、富山大学医学部医学科卒業。1990年、大阪市立大学大学院医学部医学科外科系外科学修了。医学博士。日本美容外科学会理事。日本美容外科学会専門医。医療法人健真会理事長。大学病院時代より美容外科に興味を持ち、臨床経験を重ねる。その後、田辺中央病院を経て、1991年、城本クリニック開業。大阪、名古屋に始まり、現在は全国に25院を展開中。 「0120♪107♪……」。特徴的なメロディーと共に電話番号が流れ、ふと画面に目を向けるときれいな女性が絨毯の上を転がっている。あの不思議なコマーシャルを、一度は見たことがあるだろう。美容外科が身近になってきた今だからこそ、歴史があって信頼できるというのは病院選びの大事な要素である、と語る森上院長に美容医療の在り方についてお話を伺った。 小さい頃は少しやんちゃで、いたずらしたり、勉強をしなくて怒られたりしていた記憶があります。ただ、夏休みの宿題はきちんとやるタイプで、最初の2日で終わらせて、夏の間中、遊び回っていた記憶もあります。2歳上の兄が医学部に入ったことや、親の希望でもあったことから自分も医学部に入ったという感じです。学生時代は、実習や教科がびっしり詰まっていたので、授業をたくさん受けて勉強もしていましたが、自分の中では十分に遊んだ結構楽しい学生時代を送ったと思っています。 国家試験に受かって晴れて医者となったときに、外科の道を選びました。医者というのは大きく分けると外科と内科に分かれます。内科というのは勉強した者勝ちで知識勝負のところがありますが、勉強しなくても医者ではいられてしまうものです。そうすると自分に甘くなってやり過ごしてしまうかもしれないと思ったので、手術ができないと始まらない外科を選び、さぼりようがない道に進むことにしました。 外科の中にもいろいろありますが、大阪市立大学の第二外科を専攻しました。その後、研修の中で城本さんと同期になり、彼が医局を離れて美容外科の道に進んで開業したときに、初めはアルバイトの麻酔科医として働き始め、そのうちそこで手術をするようにもなりました。大学院に進み、教授になるといった医局の世界では、サラリーマン社会と変わらない面があって、自分より上の教授の言うことは絶対であったり、教授の命令で異動があったりします。そのような医局でこのまま仕事を続けるのもどうだろうかと考えていたところだったので、美容外科の共同開業を誘われて、いずれ開業をするのであれば共同で開業するのもいいなと思い、名古屋で美容外科を共同開業しました。 ◾️外見の美しさも大切な要素 美容外科といっても、手術をするという点では外科と何ら変わりがありません。癌などの手術をする方が人の命がかかっていて重みがあると言えばそうかもしれませんが、美容はすぐ目に見えて結果が分かるところが楽しいですし、患者さんに喜んでもらえるところが嬉しいです。 本当の意味での美しさ、と言ってしまうと究極は人の心の中にあると思います。しかし、たとえそうだとしても、外見もきれいな方がいいと思いませんか?生物学的に美しいものには惹かれるものだと思います。長く接しているうちに、性格など内面に惹かれていくと思いますが、外見がきれいだということも大事な要素ではないでしょうか。自分の信念を曲げてまでうそをつく必要はないですし、無理して若返ることもないですが、美しいものは美しいということでいいのではないかと思います。 美容医療は昔より日が当たるようになり、需要が広がってきていて、ドクターで美容業界を志す人も増えています。人は美しくなりたいという思いがあることで、美しくなれるのではないでしょうか。 ◾️誠実に良い医療を提供する 美容医療というのは非常に商業主義的なところがあります。自由診療なので、本当は10万円で済む手術であっても40万円かかると言えばそれで済んでしまうところがあります。ある意味暴利をむさぼっても患者さんはわからない。それが故に、インチキが横行している業界ではあると思います。 当クリニックは、値段が全てではないですが、適切な医療を適切な価格で提供し、決して患者さんをだますようなことをしないのが一番誇れる点です。法外な値段を取るようなクリニッは、一見稼げるように思えますが、それでは本当にいい医者は集まりません。私たちはいいものを目指そうとしている集団で、そうでありたいと考えて医療を提供しています。 また、何かに特化した強みがあるというよりも、美容医療における幅広い範囲を網羅した医療を提供しています。もともと名古屋と大阪で開業した当クリニックですが、事業を進めていくにつれてドクターが増えたり、人との縁で長崎のホテルにクリニックを出したり、個人で開業している人が一緒にやりたいと言ってグループに入ってきたりすることでクリニックの数がだんだん増えてきました。 美容医療業界は、注目される業界になってきており、美容外科への抵抗が薄れ、需要が広がってきました。それに伴い、美容医療業界を志望するドクターも増えてきたように思います。今後のクリニックは若い世代が受け継いでいくと思うので、そのような中で自分がやってきた仕事が存続してくれるといいなと思います。 ◾️message 大学生時代はたくさんの経験をしてほしいと思います。若い頃の話は今でも印象に残っていて、人に語ったり、その当時の友達とは交流も続いていたりします。良いも悪いもいろいろな経験をするといいと思います。社会のことは社会に出てみないとわからないこともたくさんありますが、人としての経験値を増やして、人間の幅を広げることが大事だと思います。 学生新聞別冊2022年7月1日発刊号 東洋大学3年 濱穂乃香

学生新聞インターン

医療法人社団 翔友会 品川美容外科 理事⻑ 綿引 ⼀

常に機嫌良く!機嫌をコントロールする 医療法人社団 翔友会 品川美容外科 理事⻑ 綿引 ⼀(わたひき はじめ) 1985年鹿児島大学卒業。1988年品川美容外科を開設。医 療法人社団翔友会理事長として品川美容外科・スキンクリニックを 中心に、レーシック眼科、審美歯科、ストレス治療など、医療をよ り身近に、より多くの方々に提供している。また、医師及びスタッ フの技術水準の向上に取り組み、最高の医療を提供するとともに、 診察費の最適化の両立を目指している。 美容医療の世界では業界最大手である品川美容外科。日本に美容医療が今ほど身近ではなかった時代に、美容医療の可能性にいち早く気付き、品川美容外科を開業。業界の草分的な存在となった。このように先見の明のある綿引理事長に、事業を成功に導くための秘訣や経営手腕についてお話を伺った。 最初、私は北海道大学工学部で原子工学について学んでいました。しかし、医療を学びたいという思いがどうしても強くなり、思い切って鹿児島大学の医学部に入り直し、医師を志すことになりました。大学生時代はどこにでもいるような普通の真面目な学生でした。それなりに楽しい学生生活を過ごせたと思っています。 鹿児島大学卒業後は美容外科の道に進みました。当時は、美容外科への道を志すのは珍しかったのですが、これからの時代は病気といったマイナスのものをなくす医療だけでなく、美容医療のように、プラスに働く医療が伸びていく時代になると直感的に感じていました。 そこで当時美容外科業界で有名だった十仁病院で経験を積むことにしました。その後、満を持して開業したのですが、開業当時は本当に大変でした。当時、日本ではまだまだ美容外科が少なく、美容外科医師自体も日本に100 人もいなかったのです。おかげで患者様のご予約がいっぱいで、連日連夜、朝の10時から夜中の12時まで休む暇もなく働くという日々が、3年間も続きました。 ◾️品川美容外科の成長の秘訣 私と同じ時期に美容外科の分野で開業した仲間は多くいましたが、ほとんどうまくいかなかったと思います。その理由は多店舗展開の失敗です。最初は上手くいくのですが、次第に経営的に行き詰っていったのです。一方、私は派手なことをするのではなく、コツコツと目の前の患者様のために尽くしていました。振り返ってみると、地道に患者様に向き合っていくことが失敗しなかった要因の一つのように感じます。患者様を大事にして、自分たちの提供できる最大限のものを提供し続ければ、気に入ってくださった患者様は、また当院に来てくださるだろうと考えています。このことは美容外科業界だけでなく、どこの業界でも同じです。お客様が何を望んでいるのかを突き詰めていければそのビジネスは伸びていきますし、それができなければ衰退していきます。規模を大きくすることは二の次です。大きな船は安定しますが、小回りが利かなくなってしまうものです。それでは従業員やお客様の声を拾いにくくなってしまい、衰退の一途を辿ることになるでしょう。 一方、みんなが満足してくれるものを提供し続ければ、自然と成長していきます。規模は勢いに任せて大きくするものではなく、自然と大きくなっていくものだと私は考えています。 それともう一つ大事なことは、働いてくれている人たちは何のために働いているのかということを常に考えることです。理由は人それぞれ違うとは思いますが、みんなに共通しているのは自分自身が幸せになりたいからだと思います。患者様が満足して幸せになり、スタッフもやりがいを感じて幸せになり、それを見て私自身も幸せになる。つまり、全員が楽しく幸せになれる会社であり続けたいと思っています。 ◾️自分と向き合い常に機嫌良くあれ 「今は辛いけれど将来は必ず幸せになるんだ」と多くの人が言いますが、その幸せになる将来はいつ来るのでしょうか? 過去からしたら今が将来ですし、将来など気づいたら今になっています。将来幸せになるのではなく、今幸せにならなければいけないと私は思います。今を楽しく生きるため、ひいては人生を楽しむために私が心がけていることが一つあります。それは常に機嫌良くあることです。幸せなときは、どんなときでしょうか? いろいろなシチュエーションがあると思いますが、全てに共通するのは機嫌が良いときだと私は思います。 常に機嫌良くあるためには他の人に機嫌を良くしてもらおうと思うのではなく、自分自身で機嫌を良くすることが必要です。私はと言えば、毎朝お風呂に入り気分を良くし、「人生最高」と3回言うことで朝から機嫌良く過ごすことができます。 これは私が一緒に働く人に求めることでもあります。一緒に働くならばいつも機嫌が良い人と働きたいと誰でも思いますよね。仕事とは100やっても50ぐらいはうまくいきません。たとえうまくいかなくても、自分が興味をもって楽しく機嫌良く仕事をし続けていれば、やがてうまくいくことが増えてくるものです。 ◾️message 機嫌良くすることを大事にしてください。威張ったり自己中心的になっては絶対にいけません。これは仕事中だけでなく、どんなときも意識してください。そうすれば、自然と周りの人たちから好かれます。好かれると自分のいいところを周りの人は見てくれるようになり、やりたいことに協力してくれるようになります。自分の成し遂げたいことを実現するのに周りの人の力はとても大切です。 もう一つはやりたいことにどんどんチャレンジしてください。もし失敗したとしても、日本で食べていけなくなることはそうそうありません。勇気をもって一歩を踏み出してください。きっと今まで見えなかった世界が見えてきますよ。 学生新聞別冊2022年7月1日発刊号 法政大学3年 鈴木悠介

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聖心美容クリニック 統括院長 鎌倉 達郎

目指すゴールに近づくための環境づくりこそが大切 聖心美容クリニック 統括院長 鎌倉 達郎(かまくら たつろう) ■プロフィール 宮崎県出身。日本美容外科学会(JSAS)理事。聖心美容クリ ニック全10院を統括。2007年に世界初の脂肪幹細胞豊胸術を執刀。2016年にアメリカの権威ある形成外科学誌「Plastic and Reconstructive Surgery」のベストペーパーアワードを日 本人美容外科医として初めて受賞。アメリカ・フランス・中国など海外講演も数多くこなす。 「とことん真面目に、美容医療。」をモットーに、1993年の開業から今日まで、上質な医療を提供し続ける聖心美容クリニック。鎌倉統括院長は全員がチームプレーをする意識を持つことが大切だという。この考え方は学生時代にスポーツによって培われたようだ。国内10院を束ねる院長に、仕事の魅力や目指すゴールについてお話を伺った。 1983年、宮崎医科大学医学部(現・宮崎大学医学部)へ入学しましたが、国家試験で忙しくなるまでは、バスケットボールに注力する生活でした。中学時代の経験が功を奏してキャプテンにもなり、大会では二連覇の成績を収めたこともあります。バスケットボールは1人が頑張るだけでは意味がなく、チーム全員が当事者意識と思いやりを持って動くことが求められるスポーツです。この経験を通して「チームとして何かを成し遂げる楽しさ」を学びました。このことがあったからこそ働く上でも一つのチームとして結果にこだわる考え方になったと感じています。 ◾️美容医療でQOL向上に貢献 大学卒業後、九州大学の医局に入った私は、第二外科で6年間勤務をしました。当時、第一外科よりも厳しくて大変と噂のあった第二外科ですが、「どうせ働くなら思いっきり壁にぶつかり悩みながら研鑽していきたい」と思ったのです。結果論ではありますが、そこに所属していたからこそ、後年、美容医療に関心を持つきっかけに出会えたのです。「迷ったらたやすい道ではなく、険しい道を選択する」というマインドをみなさんにもお薦めします。 大学病院で勤務後に、美容外科医として働き始めたわけですが、美容医療には他の診療科との決定的な違いが2つあります。一つ目は、「誰もが見た目で施術の結果を客観視できる」点です。癌を始め内臓系の手術は、専門的な知識を持ち合わせた医者にしか結果の判断はできませんが、その点美容医療は異なります。その手術が成功したかどうかはご本人のみならず、周りの誰もが一目で判断できるのです。分かりやすいからこそ患者さまが抱く「なりたい姿」もどんどん具体的かつ複雑になってきます。だからこそ医療を提供する側は、常にスキルを磨き続けなければなりません。 二つ目は「行きたくて行くのが美容医療」という点です。病院に行く理由の多くは体調がすぐれなかったり、精密検査の結果を聞くためだったりとネガティブな理由がほとんどです。しかし、美容医療に来る患者さまは、「理想の姿になれるかもしれない」「悩みを解決できるかもしれない」と希望を持って来院される方ばかりです。 美容医療を受けようとする動機は人によってそれぞれ違っていたとしても、「ここで生まれ変わって生活のQOLをあげたい」と願う気持ちはみなさん同じです。その期待に応えられる医者でありたいと思っています。施術を受けられたご本人の納得感と満足感が、我々医者のスキルを図るための有効な物差しなのではないでしょうか。 ◾️人材育成を以て業界への貢献を志す 2004年からは統括院長として、国内10医院に属する19名の医師たちを見守る立場にいますが、それぞれの医師が現在に至るまでのバックグラウンドやそこから形成される感性が異なるために、なかなか一筋縄ではいきません。加えて外科医は一種の「職人技」ですから、個々の医師が持つ「こだわり」を生かしつつ、全体的にも常にハイレベルなスキルを保てるように腐心しています。 具体的にはスキルアップ方法や仕事に対する取り組み方の一方的な押し付けはせず、あくまでも一人ひとりの医師たちが目指すゴールに近づけるような環境づくりに徹するということです。お互い価値観の違いを受け入れながら高い視座を持ち、選択に迷ったときは、「患者さまにとってそれがベストな選択なのかどうか」、「聖心美容クリニックのメンバーとしてふさわしい姿かどうか」という基準に立ち返ることができる人材を育てていきたいですね。この達成感は、彼ら・彼女らの飛躍が美容医療業界の発展につながったときに初めて得られるものだと考えているので、まだもう少し先かも知れません(笑)。 1980年代から拡大した美容医療ですが、そこから40年余りで業界は大きく変化しました。「大手組織としてのブランド力」と「医師個人の発信力」が掛け合わされる時代になったのです。今後、ある一つの分野に特化した専門クリニックが増えたり、低価格化にとことんこだわった手軽なクリニックが増えたりするかもしれません。そのような中で、聖心美容クリニックとしては、「ここに来たらどんな悩みも限りなくゼロに近づくことができ、理想を現実に変えられる」という場所であり続けたいです。その実現に欠かせないのは、安心感と信頼感だと考えています。 ◾️message 昨今の風潮を見ていますと、もはや「学生だから」と線引きするのはナンセンスなのではないでしょうか。若いうちから大人と関わる機会を増やし、そこで得た知識は蓄えるのではなく、実践を通してトライアンドエラーを繰り返してみてください。社会に出ると、正解が「決められているもの」から「自分で作るもの」へと変化していることに圧倒されるかもしれません。しかし、立ちはだかる壁に向かって試行錯誤した経験がきっと支えになってくれることでしょう。一瞬一瞬を大切に、探究心を持って行動してください。 学生新聞別冊2022年7月1日発刊号 日本女子大学4年 神田理苑

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レジーナクリニックグループ 総院長 木村 真聡

一流の技術と経営手腕で世の中の人を美しく レジーナクリニックグループ 総院長 木村 真聡(きむら まさと) 大阪大学医学部医学科卒業後、同大学附属病院・一般病院勤務を 経て美容医療に転身。2017年レジーナクリニック総院長に就任。 美容皮膚科医として10年以上のキャリアを持つ。現在はレジーナクリニックを始め、レジーナグループの総院長を務めている。医療 脱毛だけでなく、美肌治療やドクターズコスメの監修を通して、お肌のあらゆる悩みを解決するクリニックを目指している。 思春期に誰もが悩むであろうニキビ。木村医師もその一人だったそうだ。このような自分の体験から医療の道を志したという。そして脱毛の将来性を見抜いて独立開業。木村医師は「感動を与える医療」を多くの人に提供したいと考え、現在、レジーナグループ全体で全国に26院展開し、一流の技術とサービスを提供し続けている。その経営の秘訣を伺った。 美容業界に入る前は内科医をしておりました。やりがいはありましたが、自分が医者になると決めた動機からはかけ離れていました。中学時代、ニキビに悩まされていた私は、父親の勧める薬で綺麗に治すことができました。このことがきっかけで、医療というものに感動し、いつか自分も医者になり、患者様に同じ感動を味わってもらいたいと思うようになったのです。しかし、この感動は内科医でいる限り味わってもらえないのではないか、自分に合っているのは美容医療の方なのではないかと思い、4年目で転向しました。 しかし、やってみると同じ医療でも仕事の内容が全く異なり、解剖や生理などの知識や技術は活かすことができましたが、美容については一から勉強し直すことになりました。中でも1院目の仕組みを作るのが一番大変でした。日日問題点が出てくるのでその都度改善し、マニュアルに落とし込んでいきました。 ◾️感動を与える医療を目指す 患者様の見た目がきれいになり、ポジティブになっていく姿を見るとやっていて良かったなと思います。コンプレックスがなくなっていくと患者様の表情が明るくなっていきます。そのような現場に立ち会えることが嬉しいです。しかし、常に感動を与えられるわけではありません。医療なので100パーセントの効果が期待できるなどと言い切れるものではなく、ごく稀に効果を感じてもらえない方がいます。そのような方とどう向き合い、どう効果を出していくか、工夫の連続です。たとえば、シミ取りであれば機械の設定や種類を変更するなどして対応しますが、性別や肌に合わせた治療は千差万別であり、治療の根拠を見つけ出すのにとても苦労します。 患者様と接する上で大切なのは、施術者本人が美容に興味があり、スキンケアなど綺麗になる努力を毎日続けていることです。また、仕事をルーティン化して右から左へ流してしまい、成長が止まる人がいますが、考える習慣をつけることが大切です。人は常に成長しなければ一流であることを維持できません。レジーナクリニックは高い接遇力を求めております。そのため、接遇研修では、患者様の雰囲気やご要望に応じて、サービスを提供するように指導しております。技術面でも毎回同じようにやるのではなく、患者様の肌質や毛質に合わせて行うようにします。どうすれば患者様にもっと喜んでもらえるかを考え、仕事をブラッシュアップしていくことが大切です。 日本でレーザー脱毛が始まったのは1990年代後半ですが、当時は全身脱毛で80万円近くかかりました。現在は脱毛機の進歩により、20万円ほどで出来るようになりました。その結果、近年脱毛業界では価格競争が起こっております。当院は価格競争には加わらず、いかに付加価値をつけて差別化していくかに重点を置いています。脱毛は医療でありながらもサービス業としての側面が強く、接遇に力を入れているのはそのためです。価格を維持したまま同業者に差をつけるには技術・サービス・空間デザイン・マーケティングの全てにおいて一流でなくてはならないと考えています。そのため、当院ではクリニックに関わる全てのことにこだわりを持っています。TVCMもマスで知ってもらうためには大切な要素であり、「脱毛と言えばレジーナ」というように、興味を持ってもらうことができます。 ◾️美を追求し新しい時代を切り拓く 美しさとは中身も外見も綺麗なことだと思っています。しかし、定義するのはとても難しく、老けない身体作りが美につながるというのが私の見解です。美しさとは年齢によって違い、無理のないマイナス5歳ほどがちょうど良いのではないかと思っています。レジーナクリニックの患者様は20代が中心ですが、どの年代の方も目標は変わらず、その人に合った美を追求しています。 コロナ禍ではマスクをしている間に手術などでイメージチェンジを図りたいと考える方も多く、美容医療は拡大しています。脱毛と聞くとクリニックとエステが混同されがちですが、医療脱毛はれっきとした医療です。昔は脱毛=エステのイメージが強くありましたが、現在では一般の方にも広く浸透してきています。次のステップとして当グループの知見を元に、少しでも美容医療業界の進歩に貢献できればと考えていますが、そのためには日々の積み重ねが大切です。私は今まで積み上げてきたものを学会や論文投稿を通じて同じ志を持つ医師に知ってもらいたいと考えています。 ◾️message 学生のときは思いっきり好きなことをするべきだと思います。遊ぶにしても悩むにしても、モラトリアムの最後の期間を有意義に使ってください。社会人になると皆さんが想像する以上に時間はありません。なんとなく好きだからやるというのではなく、いろいろなところにアンテナを張ることが重要です。やっていることの意味を考え、他人の良いところを見習い、日々観察できる人になってほしいと思います。そして、自分自身を成長させてください。 学生新聞別冊2022年7月1日発刊号 関東鍼灸専門学校3年 竹原孔龍

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林遣都 脚本の奥にある、描かれていない部分をいかに読み取り、体現して...

林 遣都 (はやしけんと) 1990年生まれ。滋賀県出身。2007年映画『バッテリー』で俳優デビュー。第31回日本アカデミー賞新人俳優賞等を受賞。今年はドラマ「愛しい嘘〜優しい闇〜」(テレビ朝日)、舞台「セールマンの死」(PARCO)などに出演。日本テレビ新土曜ドラマ「初恋の悪魔」でW主演を務める。 ◆『初恋の悪魔』の見どころを教えてくださいこのドラマは原作がなく、坂元裕二さんの書き下ろしのオリジナル作品であるところが魅力のひとつです。全てを描き切れるのかと思うほど個性豊かなキャラクターたちばかりで、登場する一人ひとりの人物像にも注目してもらいたいです。彼らがどのように交わり、物語を繰り広げて行くのかをぜひ楽しみに観てほしいです。このドラマに参加できることが純粋に嬉しく、絶対に面白い作品になるだろうと確信しています。 ◆俳優業の魅力について教えてください僕は滋賀県で生まれ育ち、中学3年生の修学旅行で東京へ行った際にスカウトしていただきこのお仕事を始めました。最初は人前で演技をすることに対して恥ずかしさもありましたが、作品を通じていろいろな方と関わって仕事をすることにやりがいを感じるようになりました。役作りは、役と向き合いながら、脚本に描かれていない人物の背景を細部に至るまで考えることを大切にしています。お芝居をしているときは本当に楽しくて、一つの作品をみんなで作り上げていくこと、自分が作品の一部になれることがとても幸せです。また、誰かが作品を観て楽しんでくれたり、人の心を動かす可能性を秘めていることは、俳優業の魅力だと思います。仕事がつらいと思ったことはありませんが、人前に立つのはいまだに得意ではありません。でも、仕事は本当に楽しいですよ! ◆大学生へのメッセージをお願いしますコロナ禍で世の中の空気感が変化していますが、大変な時代だからこそ無理をせず自分を肯定してあげてください。悩む時間もあるかと思いますが人に合わせようとせず、自分自身の「好き」を見つけて突き進んでください。 ■取材を終えて林さんのお話を聞いていて役に対して真摯に向き合い、さまざまな視点から役作りをしているのだなと感じました。ただ演じるだけでなく、作品の背景には何があるのかをしっかり自分で考えていることに感銘を受けました。本質を捉えることの大切さを学んだように思います。 国立音楽大学2年 岡部満里阿 初恋の悪魔日本テレビ系 7月期 新土曜ドラマ  7月16日スタート(毎週土曜日よる10時)林遣都&仲野太賀W主演脚本家・坂元裕二による、小洒落てこじれたミステリアスコメディーが誕生。

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生見愛瑠 今やりたいことを全部やる。そして目の前のことに全力で取り組む

生見愛瑠 (ぬくみめる)愛知県出身。20歳。CanCam専属モデル。モデル、としてバラエティ番組に多数出演、めるるの愛称でお茶の間から親しまれている。さらに昨年女優デビューも果たし、女優としても注目を集めている。 ◆学生時代の過ごし方について教えてください名古屋のダンススクールに通っていたときに、今の事務所の方に声をかけていただき、小学4年生からモデルを始めました。最初は不安や怖さもありましたが、挑戦できたのは母が背中を押してくれたおかげです。小学生のときは、「ご褒美で東京に行く」くらいの感覚でモデルをやっていましたが、学校より芸能活動を優先せざるを得ない場面が増えてきた中学生の頃には「お仕事をしている」という意識に切り替わっていきました。またモデル業は服やメイクなどの知識が増えていくのでとても勉強になります。知ることでファッションやメイクをより楽しめるようになりました。 ◆お仕事のやりがいや苦労ついてお聞かせください成長を感じたときやファンの方に温かいメッセージをいただくとモチベーションが上がります。雑誌の表情などもデビュー当時と今では変化があるので、気づいてもらえると嬉しいですね。この数年でテレビ出演の機会が増えるにつれ、良くも悪くもいろんな反響があります。知らない方にネガティブな意見をいただくことは初めての経験で驚きもありましたが、「感じ方は人それぞれ」とある種割り切って捉えることを心がけています。それほど落ち込むことはありませんが、自分に非があると思えば改善しています。嘘をつかず、素の自分でいることを大切にしています。最近では女優業の機会をいただきましたが、実際に演じてみると想像とは全然違いました。日常では使わないセリフを言ったあとに、普段は絶対に抱くことのない感情を味わえるので、1日で2人分の経験ができて得した気分になります。今後もいろんな役に挑戦していきたいです。 ◆大学生へのメッセージをお願いします自分のやりたいことをやって、人生を全力で楽しんでほしいです。「楽しそう」「おもしろそう」という気持ちを抱いたら、まずは口に出して自分に言い聞かせてください。それをすぐに行動に移して、夢中になれることを見つけてください。 日本大学3年 石田耕司 ■取材を終えてお会いしたその瞬間から、終始弾けるような笑顔で接してくださったことがとても印象的です。テレビ越しにも伝わる生見さんのポジティブな空気感は、どの瞬間にもまっすぐに向き合うひたむきから来るものだと感じました。同世代の素敵なお人柄から刺激を受けた時間となりました。(日本女子大学4年 神田理苑) 『 モエカレはオレンジ色 』7月8日(金)全国公開 出演:岩本照(Snow Man) 生見愛瑠鈴木仁 上杉柊平 浮所飛貴(美少年/ジャニーズJr.)・古川雄大配給:松竹株式会社©2022 「モエカレはオレンジ色」製作委員会 © 玉島ノン/講談社

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森崎ウィン 「森崎ウィン」というブランドを多くの人に知ってもらうため...

森崎 ウィン (もりさき うぃん)ミャンマーで生まれ育ち、小学校4年生のときに来日。2018年に「レディ・プレイヤー1」で主要キャストに抜擢され、ハリウッドデビューを果たす。それ以降も俳優、ミュージカル、アーティストと幅広く活躍。5月2日には、新曲「MY Place,Your Place」をリリース。 ◆現在の活動への想いを教えてくださいアーティストとしての魅力は人前で歌うことの気持ち良さ、自分が思い描いた世界を自分の手で作れること、人の心が動く瞬間を体感できることです。しかし、このような芸能の仕事は人に求められなくてはなりません。だから求められる人になるため、「森崎ウィン」というブランドとして自分に出来ることを探し続けています。探していると自分にしかできないことが見えるときもあれば、自分の不足している部分が見えるときもあります。試行錯誤する中で「ウィンにやってもらいたい」、「ウィンだから任せたい」と思って頂けたとき、求められていると感じるので、僕は考え、挑戦し、自分に向き合い続けます。 ◆夢を教えてください将来はアーティストとして「アジアツアー」をするだけでなく、役者としてもアジアの作品に出たいですね。そして世界中を飛び回っていたいです。自分はミャンマーで生まれて日本で育ったので、ルーツはアジアです。そんな自分だからこそアジアを自分のものにしたいです。そして、自分を育ててくれた日本には、日本でエンターテインメントを学んだからこそ世界に出られたという感謝を伝えていきたいです。ミャンマーにはウィンが頑張っているから自分も頑張ろうというような、夢や希望を与えられる人になりたいと思っています。 ◆大学生へのメッセージをお願いします「思ったらすぐ行動せよ!!」、伝えたいのはこれだけです。迷うのではなく、即行動することが大切です。行動することで何かが変わります。自分の心が動いた、「やってみよう!」という感覚を大事にして、行動してください。そして、感謝することを忘れずに。たとえ些細なことであっても感謝をすることで、たくさんの機会が生まれ、世界がもっと広がっていきますよ! ■取材を終えて 気さくで柔らかな空気を放つ森崎ウィンさんからお話をお伺いする貴重な機会でした。ミャンマーと日本という2つのルーツを持つ森崎さんだからこそ話せるお話をたくさん聞くことができた楽しい取材でした。行動と感謝の大切さを実感し、大事にしようと改めて思いました。 明治学院大学卒業 小嶋櫻子 6th Single 「My Place, Your Place」 好評配信中

三上山明里

参議院自由民主党 国会対策副委員長 参議院議員 和田政宗

政治の力で日本経済を活性化。 参議院自由民主党 国会対策副委員長 参議院議員 和田政宗(わだまさむね) ■プロフィール 1974年東京都生まれ。1997年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。同年、NHKにアナウンサーとして入局、ニュース、スポーツ実況、番組制作に携わる。2013年参議院議員選挙に初当選。2019年2回目の当選。国土交通大臣政務官として、GoToトラベルの立案と制度設計を行う。自民党不妊治療支援拡充議員連盟を立ち上げ、今年4月からの不妊治療保険適用を実現。 元アナウンサー、現政治家として多忙に活動する中で、国民に寄り添い、我が国の発展に尽力する自由民主党の和田政宗議員。不妊治療の保険適用やGoToトラベルといった政策を打ち出してきた。原動力となるのは、身近な疑問。そして、興味。目標を持ち、行動し続ける和田議員の経験と展望を伺った。 ■東日本大震災の経験から、アナウンサーから政治家へ転身 大学時代は、サークルを通して楽しくキャンパスライフを送ろうと思っていたので、放送研究会、ゴルフ、ボクシングと興味を惹かれたことに挑戦していきました。3年生からは、慶應義塾大学法学部政治学科三大エグゼミである池井優教授の下で日本外交史を学びました。高校生の時に外交官にも惹かれていたためです。国を背負って海外で活動する仕事が有意義だと感じていました。当時は、政治そのものというよりも、外交に興味がありました。 1988年、ソウルオリンピック水泳・鈴木大地選手が金メダルを取った際の実況を見たことで、アナウンサーに憧れを抱きました。転機となったのは、1995年の阪神淡路大震災。当時のアナウンサーの災害対応へ疑問を持ったことがきっかけとなりました。もっと人の命を守る為に出来ることがあるのではないか。そこに力を尽くせるアナウンサーになりたいと思い、NHKへ入局しました。 私の名前の「政宗」は伊達政宗に由来してつけられたので、入局後は仙台への赴任地希望を常に出していました。そして12年目に仙台局で勤務できることになりましたが、その後、東日本大震災が発生しました。被災地で多くの人が涙を流す姿を見て、行き届かない政策を行う役割を担いたいという思いが強くなりました。そして、民主党政権時代にみんなの党公認で立候補し、選んでいただいて政治家になることができました。 目標は田中角栄先生です。都市だけではなく、地方での発展も意識していて、日本国民を豊かにしようとした人です。また、安倍元総理の外交力。菅元総理の実行力を参考にしています。総理大臣を目指し、国民が豊かで安全に暮らすことの出来る国家をつくっていきたいですね。 ■不妊治療の保険適用やGoToトラベルなど、革新的な取り組みを実施 不妊治療の保険適用、GoToトラベル。最近取り組んだ大きな政策は行ったのは、この2つです。私自身も、不妊治療を経験しました。かかった費用は総額400万円ほどと高額でした。同じように不妊に悩む方は多くいらっしゃいます。不妊治療は意外と身近な問題なのです。しかし、これまでは不妊は「病気ではない」という扱いから保険が適用されず、お金の心配で妊娠を諦める人がいるという状況だったことから、変える必要があると思いました。一昨年、自民党の中に議員連盟をつくりました。私が事務局長を務め、幹事長に野田聖子議員(現少子化担当大臣)、会長に甘利明議員(前自民党幹事長)を迎えました。そして、当時の菅義偉首相の決断で、わずか1年で制度が形になりました。不妊治療の当事者にとって30年来の課題を動かすことが出来ました。 経済の復活を目指したGoToトラベルでは、旅行代金総額の50%のキャッシュバックを行いました。当初の想定をはるかに上回る総予算額2兆7000億の大規模なキャンペーンでした。コロナ禍で、大打撃を受けた観光業界を支援しようと立案しました。また、地域共通クーポンを組み入れることで、旅館やホテルだけでなく、地域の飲食店や土産物店にも貢献できればと思ったのです。政策を実施した際には、観光業界は地域経済の核ですから大きな波及効果がありました。景気が良くなったことで、車の売れ行きも伸びたのです。9月、国内外でトヨタ・ホンダ・スズキ・スバルが過去最高の生産台数を記録。GoToトラベルは、日本全体の消費活性化に繋がりました。 ■領土なくして国民は守れない イスラエル問題から伺えるように、領土が存在しないと国民は存在することができません。領土と国民の命を守ること、国家の存在意義はそこにあります。しかし、今の日本はロシア・中国に攻め込まれたら安全は保障できません。我が国の国防は、周りに無茶をする国がいないことが大前提になっているのです。「専守防衛」として、日本へ向ってくるミサイルを、全て撃ち落とすことも難しいです。つまり、相手がミサイルを撃とうとした時、反撃できる能力を持たなければ、根本的な抑止にならず、国民の命は守れません。日本国憲法は、軍備を持たない代わりにいざという時は米軍が日本を守る前提でスタートしています。我が国を含め、ニウエ、クック諸島、モナコの憲法には、国民を守る手段が記されていません。世界でたったの4か国です。そのため、他国に攻められやすい状況になってしまっているのです。日本が防衛力を増強すると、逆に影響が出てしまうのではないかと、懸念される方もいるかもしれません。しかし、ロシアや中国は日本とは関係なく、軍事力を増強し続けるので変わりません。だからこそ、国を守ることに力を入れるべきなのです。 ■massage 日本国の自由は、投票による民主主義によるものです。私も、選挙権を持った時から欠かさず投票をしています。民主主義国家である日本の一員として、投票に行っていただけると嬉しいです。たった1票の自分の投票では、世界は何も変わらないと思うかもしれません。しかし、その1票で当落が変わる場合があり、社会を変えるほどに、大きな力をもっています。社会人になると時間がありません。これは、社会人になってから、ようやく実感できることです。大学生のうちに、とことん打ち込めるものを探してください。何でもいいです。部活、学業、バイト、世界放浪、留学。とことん取り組んだものがあると、就活にも生きてくると思います。 次に、目標を持つこと。目標ができると、努力や工夫もついてきます。諦めなければ、夢を叶えることができます。学生の早いうちに、定め行動することで将来に繋げていって下さい。 学生新聞オンライン2022年5月16日 駒澤大学 3年 三上山明里

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たんぽぽ薬局株式会社 代表取締役  松野英子

地域のため、社会のため、そして何よりあなたのための薬局に たんぽぽ薬局株式会社 代表取締役  松野英子(まつの えいこ) ■プロフィール 愛媛県生まれ。京都薬科大学卒業後、薬剤師として病院等に勤務。1996年に、たんぽぽ薬局株式会社(岐阜市本社)に入社し、2017年6月に代表取締役に就任。東海地方を中心に北陸、関西、四国に展開する店舗を束ねる。岐阜県で女性活躍の推進委員や、教育委員会での評価点検会議の委員等務める。趣味は愛犬ゴールデンレトリバーの桃太郎との散歩・園芸・ゴルフ。 地域に根ざした薬局であることを第一に会社経営を行う、たんぽぽ薬局株式会社の松野英子社長。就職、結婚(海外居住)、そして再就職という経験を経て、今の地位を築き上げたという松野社長に、これまでの生き方やその哲学についてお話を伺った。 ■前臨床試験など研究室での実習に熱中した学生時代 薬学部を選んだのは、母親の友人が薬剤師で、その薬局によく遊びに行っていたのがきっかけですね。学校でも理系科目の方が好きで、他の学部の受験もしたのですが、結局薬学部に入りました。私のいた薬学部は授業数が多く、毎日忙しかった記憶があります。クラブ活動ではスポーツに挑戦してみたかったので友達と一緒に卓球部に入り、アルバイトは家庭教師をしたり夏休みに喫茶店で働いていたりしました。でもとにかく研究室にいる時間が長かったです。研究室で諸先輩方との実習が新鮮で面白く、時間を惜しまず没頭していました。しかし、将来や人生設計など全く考えてはいなかった事を覚えており、今となっては反省しています。 ■「ありがとう」と言われる薬剤師になるために、「たんぽぽ薬局」へ就職 研究が面白かったので、当初は卒業も就職をせず、大学に残ろうと考えていました。でも、地元の四国に両親がいることもあり、戻って就職しました。その後、結婚を機に静岡に移住し、いくつかの薬局や病院で仕事を続けていましたが「薬剤師は本当に患者さんの役に立っているのか?」と疑問を抱くようになりました。3年間の海外生活で、人生観が大きく変わった事もあります。自分に合った仕事は何なのかを、考える時期がしばらく続きました。医療において「ありがとう」と言ってもらえるのはお医者さんや看護師さんであることが多い。一度勉強し直して看護師になれるだろうかと考えたこともあります。でもやっぱり自分の経験を生かしたくて、自力で仕事を探そうと考えました。当時の薬剤師業界では紹介で仕事に就くことが多く、人との繋がりだけで仕事が決まることがよくありました。そんな中で初めて自分の意思で、就職したのがこのたんぽぽ薬局でした。 ■自ら仕事を掴み取り、「たんぽぽ薬局」の社長へ たんぽぽ薬局に入ってからはあっという間に毎日が過ぎていきました。体制がまだ整っていなかった業界ということもあり、新しいことに次々と挑戦できたことが良かったですね。調剤薬局のあり方に関して議論したり、患者さんに薬を届けるより良い方法をみんなで考えたりしていると知らぬ間に時間が経っていました。 また一生懸命働いているうちに、おのずと患者さんから「ありがとう」と言ってもらえるようになりました。それが何よりのモチベーションでした。以前より人との交流が増えたことで、仲間と一緒に働く楽しさも感じるようになりました。 ただ同時に大変なことも増えていきました。忙しくてミスをしたり、患者さんに怒られたりして落ち込むこともしばしば。薬は人の命に関わるものなので、今も変わらず、その責任の重さを常に感じながら働いています。 また業務内容だけでなく会社における自分の立場も変化していきました。自分の考えや意見を人に伝える機会が増えたので、いかにして自分の考えを正確に伝えるか、常に試行錯誤する毎日です。社長の大変さも社長になってから知りました(笑)。ただ、忙しい毎日や立場があっても、大切なこと、思いやりの気持ちを見失わないように意識しています。 ■目指すのは、誰もがより働きやすい会社 仕事をしていく上であらゆる女性にチャンスがあるべきだと思っています。家庭環境や子育てなど、各々が抱える事情は違います。それに対応するために、時短勤務や育休の制度はあるけれど、それ以外は十分な体制がまだ整っていないのが実情です。例えば、管理職になると仕事量や負担も増えますが、女性管理職に対応したサポートがまだありません。社内の制度の多くは男性に対応したものが実情です。より良い会社にするには、性別問わず限られた時間の中で生産性を上げる必要があると切実に感じていますし、どんな人でも活躍できる社内環境へと変えていきたいと思っています。 ■今後力を入れていきたいのは、オンライン服薬指導 今注目しているのが、コロナ禍で国の施策としてはじまったオンライン服薬指導です。オンライン服薬指導が浸透すれば、薬局まで足を運ばなくても、立地に関係なく好きな薬局で薬をもらうことができます。オンライン服薬指導専用の相談窓口を設置する薬局も出てきました。実際に富山の人が岐阜の薬局から薬をもらったり、東京の人が愛知の薬局から薬をもらうなど、たんぽぽ薬局でもそんな患者さんがおられます。薬局のあり方も多様化しています。全国の患者さんが対象になることで、薬剤業界の可能性が広がっていくのかなと思っています。 ■薬剤師を目指している学生へ伝えたいこと 薬剤師の仕事は、薬を通して、いかに患者さんや地域の人たちの健康に貢献できるか、に尽きると思います。健康に対する考え方は、一人ひとり違うことを理解し、患者さんの立場になって対応する大切さを感じながら勉強してほしいです。ある人はアスリートとして活躍できるまでの健康を望み、ある人は、その一歩が歩ける事を希望する人もいると思うから。また、より良い医療は、医師や看護師、そのほか多職種の方々との連携の中で生まれます。そのための話す力は大切で、普段から多くの方々と交流が出来る機会を持ってほしいと思います。 ■message 今の学生はコミュニケーション能力が高く行動力もあり、ポテンシャルは自分の頃よりはるかに高い。しかしこの情報社会で多くの知識を持ち、理解はしているが社会人としての経験はまだまだ少ない。経験を積み重ねて失敗することで成長するということをわかった上で頑張ってください。未来は長いです。将来を考えることも大事ですが、それ以上に目の前の課題を丁寧に対処していくことも大切です。一生懸命やった結果、いつの間にか評価されるもの。そこは勘違いせず努力してほしいですね。 学生新聞オンライン 2022年5月30日取材 大阪大学4回生 中辻亮太朗 大阪大学4回生 中辻亮太朗 / 國學院大學3年 島田大輝

伊佐茜音

ヒューマンホールディングス株式会社 代表取締役社長 佐藤朋也

「なりたい自分」を見つけて人生を切り開こう ヒューマンホールディングス株式会社 代表取締役社長 佐藤朋也(さとう ともなり) ■プロフィール 1963年兵庫県生まれ。1987年関西学院大学商学部卒業後、日興証券株式会社に入社。本郷会計士事務所(現 辻・本郷税理士法人)を経て、1991年11月ザ・ヒューマン株式会社に入社。ヒューマングループ各社の取締役を歴任し2002年8月、ヒューマンホールディングス株式会社代表取締役社長就任(現任)。 「バリュープロミス:SELFing」と掲げ、自分らしい生き方のサポートを行うべく、人に寄り添ったビジネスを軸に多岐にわたる事業を成功に導いてきたヒューマンホールディングス株式会社の佐藤朋也社長。その活躍の裏には、様々な葛藤や思いがあったそうだ。父から受け継いだ会社で社長となり、今日に至るまでの半生と今後の展望を伺った。 ■経験値を高めた学生時代 大学生活は勉学以外に色々な経験を積んでいく、社会人として自立する準備期間として位置づけていましたね。入学当初は受験勉強から解放されて自由な時間が増えたことで、ただ時間だけが過ぎていく日々に危機感を抱きました。そのような時に、大学の中庭で活動していたフルコンタクト空手のサークルに興味が沸き、刺激を求めて入会。外国人を英語でガイドする英会話サークルにも参加し、充実したキャンパスライフを謳歌していました。3年生に進級すると、どのゼミに入るか決めなければならない時期が訪れました。商学部でしたが会計などの科目には苦手意識があったことから、あまり数字に捉われないマーケティングを学ぶゼミを選択しました。さらに授業数が少なくなった4年生では、衆議院議員秘書のアルバイトという貴重な経験をしました。7月に選挙が行われることになり、ちょうど時期が重なる就職活動はそっちのけで手伝いをしていましたね。とはいえ1ヶ月ほど本腰を入れて就職活動に取り組み、最終的には日興証券(現SMBC日興証券)に就職を決めました。 ■大手証券マンからベンチャーへ転身 証券会社に就職したのは、起業をしたいと思っていたからです。そのきっかけの1つは、サラリーマンから起業をした父の存在がありました。しかし仲が良かったかというとむしろその逆で、「早く家を出て独立したい」という思いから自分も起業しようと考えに至りました。また、ゼミで学んだマーケティングを通して、ビジネスへの関心が高まっていきました。そのような中で、証券会社への就職を選んだのは起業で成功するには営業力及び交渉力を身につける必要があると考えたからです。どこでそれを身につけられるのかを調べていくと、ノルマがあるようなシビアな環境で営業ができる会社に入ることが一番だという結論に達しました。それに当てはまるのは証券会社だろうと、そんな単純なイメージからでしたね。実際に証券マンとしてバリバリ仕事に打ち込み、毎日朝駆けをして毎月5000万円・1億円の投資信託を購入いただけるお客様を開拓したこともありました。就職してしばらくしてから、確執のあった父とひとりの人間として、親として向き合えるようになりました。そして当時、ヒューマンホールディングス株式会社の前身である、昭和60年に父が起こしたザ・ヒューマン株式会社は設立4年目。そんなベンチャー企業だからこそ学べることもあると思い、入社を決意しました。 ■机上の空論といわれた働き方の大改革 2004年に社長としてジャスダックに上場した後、2007年に経営の危機があり、子会社の社長として立て直しを任されました。一方で会社として営業力の強化が急務でした。そのころの世の中は、ブラック企業やパワハラ・セクハラという言葉が使われるようになるなど少しずつ働き方に対する意識が変わり始めていました。しかし、社内でも未だに根強く「昭和のスポ根」の営業姿勢が残っていました。例えば、「何を部下に教えてきたか?」と聞いたら、「叱咤激励してきた」と言われたこともありました。まさに、「営業指導=部下を怒るのが仕事」「退職したら採用すればいい」というような認識もありました。そんな職場環境でも部下が辞めなかった時代でしたけどね。 「このままではいけない」という気持ちから、それまでの営業と指導方法、営業プロセスをすべて洗い出し、細かくデータ化する手法に見直していきました。また、できる営業マンのノウハウをデータとして抽出するなど、具体的な根拠に基づいて指導をするように変えました。これまでと全く違うアプローチに上手くいくわけがないと反発する意見もありました。しかしそれでも、ぶれずに地道に続けていくことで成果を出すことができました。 ■教育の原点から世のためのビジネスを 社長になって数年がたったころから、売上1000億円、営業利益50億円企業を1つの目標に設定し、その目標に近づけていくことにやりがいを感じています。当社の強みを強化するため、教育、人材、介護などの各事業が並列していた状態を変え、教育を中心に各事業とのシナジーを意識したビジネスモデルに切り替えも行っています。そして我々の取組む教育とは何かを考えたときに、新規成長産業の人材育成に注力しました。未開拓領域の新規事業を立ち上げると人手不足に陥りやすいため、その事業に携わる人材育成に力を入れました。 すべてのステークホルダーへの提供価値と定義している「バリュープロミス:SELFing」という経営理念のもと、お客様一人ひとりのなりたい自分を発見し、なりたい自分に近づくプロセスを設計し、寄り添いサポートします。同時に仕事は、世のため、人のためになっていることが前提ですが、お客様の「SELFing」をサポートすることが、社員の内的なモチベーションを高めることにもつながると思っています。他社と比較しても、このバリュープロミスは相当作り込んでいると言う自負があります。 ■messeage 理想の自分を見つけられることが出来れば、人生が充実して楽しくなると思っています。大谷翔平選手も活用したマンダラチャートを書いてみてください。中心のマス目に「なりたい自分」を書き、マンダラ模様のようにその周りのマス目には、「なりたい自分になるには、どうすればなれるのか」を書き出します。これは、わが社の社員も取り組んでおり、目標を持つことの重要性を伝えています。ビジネスで活躍し、尊敬できるような方は、明らかな目標を持っています。私自身も、そのような学生さんとぜひ一緒に働きたいですね。 学生新聞オンライン2022年5月2日取材 東洋大学4年 伊佐茜音 東洋大学4年 伊佐茜音 / 東洋大学3年 濱穂乃香 / 成蹊大学4年 岡田美波

伊東美優

田中珠里 根底にあるのは、チャレンジャー気質と非現実を体験する楽しさ

女優 田中珠里 (たなか しゅり)1998年12月14日生まれ。京都府出身。2019年、NHK「だから私は推しました」に出演。2020年、MBS/TBS「荒ぶる季節の乙女どもよ。」の本郷ひと葉役では再現度が話題となり、同年配信ドラマ「妖怪人間ベラ〜Episode0〜」では副島かおる役を怪演。今年1月の舞台「BASARA」では主演を務め、活動の幅を広げている。 10代の頃から多くのドラマや舞台に出演し、初主演映画『ディスコーズハイ』では主人公・瓶子撫子役を演じる女優・田中珠里さん。「今まで個性的な役を演じることが多かった」と語る彼女に、女優業の魅力や楽しさ、これまでに成長を感じた部分や今後挑戦したい役柄などについて伺った。 「いろんなことに挑戦したい」という気持ちが原動力に 元々母がアマチュアの歌手をしていて、自分も幼少期から歌うことが大好きでした。また小学2年生の頃から劇団に所属し、自然とお芝居にも興味を持つようになり、将来は歌やお芝居のお仕事がしたいと思うようになりました。そして「第13回全日本国民的美少女コンテスト」でファイナリストに選んでいただいたことを機に、芸能界に入ることになりました。 16歳でドラマに初出演させていただいてから、これまでたくさんの役に挑戦してきました。私自身、これまで頂いた役はかなり個性的なキャラクターが多いと感じているのですが、それがお仕事の楽しさに繋がっています。例えば『妖怪人間ベラ〜Episode 0〜』というドラマでは、気の強いいじめっ子の役をやらせていただいたのですが、今までで1番演じるのが難しく、演じれば演じるほど刺激的でもある役でしたね。全身に血糊を塗って撮影するなど、かなり体当たりのシーンも多かったのですが、非現実世界にいる感覚が個人的に凄く楽しくて。 毎回特殊な役が多いのはなんでなんでしょうね(笑)。もしかしたら、私の根底にあるチャレンジ精神が伝わるのかもしれません。私の中にはいつも「いろんなことに挑戦したい」という想いがあって、異質でユニークなキャラクターを演じられることにいつもワクワクしています。自分の人生だけでは絶対に経験することのない非日常を体験できるのが、女優業の大きな魅力だと感じますね。お芝居をしていて、役を通して自分の殻を破れる瞬間は、本当にやりがいと楽しさを感じます。その瞬間を味わうためにも、お仕事には誠実に向き合います。後悔はしたくないので、自分のできる100%を常に出し切ることを意識しています。台本はお風呂場にまで持って行ってボロボロになるまで読み込んで、どんなに自分と異なる役でも理解しようと努力しています。もし、そんな私の熱意が伝わって、お仕事をいただけるのであれば本当にありがたいです。 とにかく特殊な現場だった『ディスコーズハイ』 『ディスコーズハイ』は、まず現場がとにかく特殊でした(笑)。まず、監督がこんなに動き回る現場は見たことありませんでした。撮影現場ならではのトラブルもありましたが、監督を中心にアットホームな雰囲気があって、私もリラックスしてお芝居ができました。何よりもこの作品に関わるスタッフ全員が「みんなで良いものを作り上げよう!」という士気が本当に高くて、私も「もっと努力しなくちゃ」と刺激をいただきました。 今回私が演じた瓶子撫子(へいし なでこ)は、周りに対して思うことがあってもあえて口に出さず、自分の感情は抑え込むような女性でした。周りには強いように見せるけど、実は少し不器用で弱い部分もある人物で、私自身の性格とリンクする部分もあり、共感できる点も多かったです。だからこそ、真面目に精一杯頑張る撫子の姿は多くの人の心に響くものがあると思います。ぜひ、私と同世代の若い方にも観てほしいですね。 ライバルは常に自分自身 10代の頃から芸能のお仕事をさせていただいて、最近はいい意味で緊張しなくなりました。昔は監督とのコミュニケーションや共演者との距離感など、演技以外での悩みも多かったのですが、今は緊張がなくなった分、現場ではお芝居に集中できるようになりました。それには大きな成長を感じています。 もちろん今でも緊張することはあります。例えば私は元々アイドル活動をしていたこともあり、自分よりも年上の方と接する機会が多かったので、同世代の方とのお仕事は少し緊張します。特に同世代の女優さんとお芝居するときは、「負けたくない!」というライバル心も強くなります。ただ、「誰みたいになりたい」というよりは、「自分に負けたくない」という気持ちが大きいですね。周りを敵だと思うのではなく、常にライバルは自分だと感じています。 一番の目標は唯一無二の女優になること 自分の強みは、なんでも楽しみながらやれること。だから、どんなお仕事にも挑んで、自分の殻をどんどん破っていきたいです。私はチャレンジ気質が強くて、とにかく「誰もやったことないことをやりたい」と思っています。いま一番挑戦してみたいことは、とことん“狂った役”です。行動や言動、すべてが異質と見なされるような人物を演じたいです。例えば、殺人鬼とか……?!なぜなら、自分の性格や価値観とかけ離れていればいるほど、演じることが楽しいと感じるからです。もっとさまざまな作品を経験して、視聴者の方を裏切るようなお芝居がしたいです。いろんな個性をもった素晴らしい女優さんがたくさんいると思いますが、私は「何者か」になるのではなく、自分自身を極めて、唯一無二の女優になりたいです。 大学生へのメッセージ やりたいことはどんどん声に出してみてほしいです。声に出さないとしても、書いて文字にするなど、どんな形でも表現することが大切だと思います。自分の中に閉じ込めず吐き出すことで、誰かが聞いてくれて次のステップに繋がったり、夢が叶ったりすることが、実際にあるからです。少しでも自分がやりたいと思えたことは、恥ずかしがらずに伝えてみてくださいね。 学生新聞オンライン2022年6月14日取材 慶應義塾大学3年 伊東美優 初主演映画 『ディスコーズハイ』 日本芸術センター第13回映像グランプリ発掘賞神戸インディペンデント映画祭2021 奨励賞 その「好き」が才能。目に見えないものに翻弄される音楽業界だからこそ音楽がど真ん中にあるべき 7月8日(金)よりアップリンク吉祥寺ほかにてロードショー キャスト:田中珠里 下京慶子 後藤まりこ監督・脚本・撮影・編集・楽曲制作・整音:岡本崇 公式サイト: https://plisila.wixsite.com/mysiteTwitter: @raidiochandesuFacebook: @discordshigh ©2021コココロ制作

大塚美咲

株式会社Z会エデュース 代表取締役社長 高畠尚弘

コロナ禍もDX化も全てを強みに。守る伝統、進める革新! ■プロフィール 1970年石川県生まれ。1993年、早稲田大学政治経済学部を卒業して、株式会社Z会に入社。社歴のほとんどを教室事業のさまざまな業務に従事し、2015年の教室事業分社化に伴い、会社設立とともに株式会社Z会エデュース代表取締役社長に就任。株式会社栄光の役員も兼務し、グループ内のさまざまな教室事業にも関わっている。趣味はサッカー観戦(ゴール裏)と野球観戦(外野席)。 社会情勢が大きく変化した今。そんな中でもZ会が最も大切にしていることは変わらなかった。今後の教育業界はどう進むのか、DX化が生徒たちに及ぼす影響とは。バブル崩壊直後の就活期を乗り越え社会人になってから今まで、どんな時代も前向きに生きる高畠社長に教育業界の未来を聞いた。 ■教育業界の選考では、ありのままに話せる自分がいた 大学生活は、「勉強より課外活動!」という日々でした。登山サークルに所属していた私は、「20日間くらい山から帰ってこない!」なんてこともありました(笑) 。教育の仕事に就いたきっかけは、塾のアルバイトにとてもやりがいを感じたからです。就職活動では幅広い業界を見ていましたが、教育業界の面接の時は志望理由をありのままに話せている自分に気付き、「やっぱり教育の仕事がしたい!」と確信しました。 ■突如として現れたコロナ禍。その中でも変わらない「Z会が大切にすること」 コロナ前でも、コロナ禍でも、Z会が変わらずに一番大切にしているのは「生徒一人一人と向き合って、記述力を養成するために答案を丁寧に添削すること」です。その一方で、様々な手段が変化していきました。例えばZ会の教室でいえば、入試情報の説明会。今までは全て対面で行っていたため、参加できない生徒・保護者には紙の資料を渡すことしかできませんでしたが、今は動画配信が一般的になったので、より多くの生徒・保護者にリアルな声を届けられるようになりました。結果的に、サービス自体はすごく向上していると思います。映像授業を使って、理解が不十分な内容を復習することもできます。しかし緊急事態宣言下で全く教室での授業が出来なかった時期は、本当にきつかったです。授業の動画配信は行っていたのですが、それをしっかり活用できていない生徒もいたので心配でした。また、安易にオンラインに頼ってしまうことも懸念点です。対面での授業にこそ価値を感じる生徒もいるので、便利だからといってオンラインの授業ばかりを増やすと生徒のやる気が起きず、学力につながらない可能性もあります。そんなこんなで、コロナ禍が始まった当時は毎日のように緊急会議を行っていました。 ■二年間で見えた強みは「既存の通信インフラ」と「先生たちの順応性」 この2年で、Z会の強みだと痛感したのは、元々、オンラインのインフラを持っていたことです。現在の通信教育では、タブレットコース本科の場合、Z会受付後約3日でデジタルで添削した答案が返ってくることがスタンダードになりつつあります。こうした設備がZ会では元から整っていたことが、コロナ禍において、Z会が他社よりも一歩リードできた要因です。また更に強みだと感じたことは、Z会の教室の先生方が1、2ヶ月でスピーディーにオンライン授業に順応してくれたことです。他塾では「先生がオンラインに慣れていなくて生徒が集中できていない」という話も耳にしましたが、Z会の教室ではありがたいことにオンラインにも強い先生に恵まれ、先生方が授業を日々改善したことで、生徒の学力低下もほとんど見られませんでした。この2年は業績としてはかなり大変な期間でしたが、Z会ならではの強みを再発見した期間でもありました。 ■オンライン、対面それぞれの良さを活かし、相乗効果でより質の高い教育へ オンラインと対面のハイブリット型の授業が多くなってきたこの頃。その良さの一つは、お客さんが選択できるという点です。初期はやはりオンラインの比率が高くなりましたが、その後は対面に戻ってきた生徒もいれば、家の方が集中できるという理由でオンラインのまま続けている生徒もいました。結局は、オンライン、対面どちらも質の高いものを用意し、選んでもらうことが最適だと考えています。そしてもう一つは、それぞれの良い面を組み合わせることで、より良いサービスが提供できるようになったことです。さらに、Z会の教室は厳選されたプロの先生が教えているため、教室自体の数が少ないのですが、オンライン授業が普及したことにより全国の生徒に授業を届けられるという利点もあります。結果的には、マーケット自体が広がったという感覚です。 ■進むDX化、変わらない「向き合う添削」 オンライン化が進む中、Z会の教室でどのブランドもやめようとしなかったのが「答案の添削」です。「添削がなかったらZ会じゃない!」というのが社員共通の想いです。今後の課題は、記述に拘りつつも、それをDXでどう叶えていくかだと考えています。ただ最近は、タブレットの手書き認識機能も良いものが普及しているので、技術がどんどん追い越してくる期待感もあります。また、本質に立ち返ったとき、DX化が進みすぎると、生徒たちの表現力が乏しくなってしまうのではないかとの懸念もあります。だからこそ、書くこと、考えることに時間を取るため、他塾に先駆けてAI教材も挿入して、インプットの効率化も行っています。今は、その生徒ごとに、学習状況を分析して、「あなたはこれをやった方がいいですよ」とAIがリコメンドしてくれるシステムもあります。このように、リアルとDXをうまく場面分けして活用しています。 ■「強みを言語化する」デジタルマーケティング 広告宣伝のマーケティング戦略についても、どんどんデジタル化しています。従来は折込チラシとダイレクトメールが主流でしたが、今は多くがWeb広告です。そんな中で痛感しているのは、「強みのない塾は勝ち残れない!」ということ。不特定多数に向けて発信する世界なので、ワード検索で見つけてもらえるように「強みを言語化する」ことが何より重要です。ちなみにZ会の教室では、「受験を通して人間として成長する塾」と掲げています! ■大学生へメッセージ 皆さんの大学生活は、新型コロナウイルスの影響を受けて本当に大変だと思います。しかしその一方で、すごく貴重な体験、学びもあったのではないでしょうか。制限されている中でも手探りで活動の幅を広げ、なんとか工夫して友達とやり取りしていった経験は社会に出た時必ず活きてきます。Z会の教室がオンライン指導でさらに指導の幅を広げたように、何事もあまり後ろ向きに捉えず、前向きに考えて新しい可能性を見出して、これからの社会をより良くするために、経験を活かしてほしいです。 学生新聞オンライン2022年5月13日取材 東海大学4年 大塚美咲

学生新聞インターン

武本悠佑  無駄な努力はない。やり続けることに意味がある。

■プロフィール 1998年5月1日生まれ/佐賀県出身。特技のダンスを生かした TikTokの投稿がバズり話題に。現在TikTokのフォロワーは110万人越え。2020年にミュージカル『新テニスの王子様』白石蔵ノ介役で俳優デビュー。2022年ミュージカル『刀剣乱舞』~江水散花雪~南泉一文字役として出演し、さらにドラマ「さよなら、ハイスクール」などにも出演し活動の幅を広げている。 現在は2.5次元作品を中心に活躍し、2020年12月にはミュージカル『新テニスの王子様』白石蔵ノ介役を演じている武本悠佑さん。今年開演したミュージカル『刀剣乱舞〜 江水散花雪〜』でも南泉一文字を演じるなど、活躍の場を広げている。そんな武本さんの舞台に対する思いや学生に伝えたいことなどを伺った。 ■Kis-My-Ft2 玉森裕太さんに憧れて目指した芸能界 僕は佐賀県出身なんですけど、少し田舎だったので、「都会の子は学校終わったらきっとゲームとかをしているんだろうな」と思いながらも、自然をアスレチックにして外で遊んだり、部活でボルダリングをしたりなど、アクティブな幼少期を過ごしていましたね。 芸能の世界には全く興味がなかったのですが、高校生の時に、家族と一緒にKis-My-Ft2のコンサートに連れて行ってもらい、玉森裕太さんを見て、「ステージの上で歌って踊り、いろんな人を幸せにできる仕事っていいな。自分もこんな風に表現できたらいいな」「夢ややりがいがあるな」と思ったことから、芸能の世界を目指し始めました。 コンサートに行っていなかったら、今この業界に僕は居なかったかもしれないですね。 ■お手本にしたい人を探したらあとは走るだけ。 「東京までは行けないなぁ、どうしよう」と考えていたときに、ダンスボーカルグループの募集していたので、まずは何か始めてみようとオーディションを受けました。事務所から送られてくる先輩の動画を見て、それぞれが個人でフリを覚え、その中からオーディションを通じてメンバーが選ばれるという形でした。ステージに出られるかどうかは努力次第でした。その事がきっかけで今こうして歌やダンスに生かされていると思います。 僕は何かをしたい時に、お手本にしたい人を探すようにしています。今はお芝居を中心にやらせてもらっていますが、すごい人の真似から始めるのが近道だと思っています。真似したなかに、自分の色を足すことで、すごくいい形になると思います。芸能活動を始めた当時は、周りは経験者で僕だけ未経験という環境だったので、毎晩寝ずに鏡の前で朝まで踊り、そのまま劇場へ行くような生活もしていました。「やろう」と思ったことは行動に移すタイプなので、今までガムシャラに走ってきたのがよかったのかもしれません。 ■ファンの方の意見で頑張れる 応援してくださる方の「こういう部分が成長したね」とか「歌が良くなった」「あの時に比べてこうだった」などの意見を、参考にしています。自分の成長過程を一緒に過ごしてくださるファンがいて、その方々に意見をもらえることは、自分にとって大きなモチベーションになっています。 ■舞台は「生もの」である 舞台って「生もの」なんです。舞台の公演回数はたくさんの数を繰り返します。毎回見に来てくれる方もいます。毎回同じだとチケット代をいただくのも申し訳ないですし、見ている側もつまらないじゃないですか。なので、舞台上では毎日違う工夫をしています。それこそ、歌って踊ってお芝居して……と全部やるので、どれか一つでも毎回変化を付けると、また違ったものになります。 ダンスや表情、歌のアレンジも含め、舞台はチャレンジの選択肢がたくさんあるのも面白みの一つだと思っていて、歌が好きなお客様でも、ダンスが好きなお客様でも、どんな人が見ても楽しんでもらえるコンテンツなのかなと思っています。また、後々映像作品にもチャレンジしたいと思っています。映像の場合は、眉毛の動かし方や、瞬き一つで表現も変わりますし、またどれだけオーバーにやるのかなどもすごく重要です。映像でいつか演じてみたいのは、昔から憧れていた特撮作品です。いつか絶対挑戦したいです!! ■BTSジョングクから学ぶステージ 僕は韓国アイドルが好きで、特にBTSのジョングクが好きです。彼のすごいところは、絶対にステージ上では手を抜かないことだと思っています。すごくストイックで、「自分と同い年の人が遊んでいても自分は努力していた」という歌詞の曲を出しているくらいです。僕は手抜きをしない人が好きなので、本当に尊敬しています。舞台の本番期間は作品の曲しか基本聞けませんが、たまにジョングクさんの曲を聴いて励まされつつ、ステージ上での見せ方を勉強しています。 ■何事も、やり続けることに意味がある。 「報われない努力はあっても、無駄な努力はない」という言葉が、僕はすごく好きです。正直、努力したら絶対に報われるなんて甘ったるい世の中ではないと思っていて、色々な人が出てくる中で、選ばれる人はほんの一握りだと思っています。僕はもともと7年間ボルダリングを続けていましたが、このスポーツは体幹が鍛えられるので、今のダンスでもそれが生きて、褒めてもらうことも多いです。長い間継続していた努力が、今に繋がっているのだなと思います。報われなくてもとにかく継続することに意味があると思うので、学生のみなさんも一緒に頑張りましょう! 学生新聞オンライン2022年5月29日取材 法政大学1年 佐伯桜優 法政大学1年 佐伯桜優 / 日本女子大学4年 神田理苑 / 中央学院大学4年 田根颯人  撮影協力:カメラマン 広田成太

学生新聞インターン

映画監督 岡本崇  一つでも「好き」を見つけることが、人生を楽しむ秘訣

映画監督 岡本崇(おかもとたかし) ■プロフィール奈良県出身。2008年頃からインディーズバンド界のMV制作黎明期を支える。2017年より本格的に映画制作を始め、短編映画『ロック未遂』が福井駅前短編映画祭2018でベストアクトレス賞を受賞。2021年、『ディスコーズハイ』では神戸IFFにて奨励賞、日本芸術センター映像グランプリにて発掘賞を受賞。その他多数の入選作を持つ。 7月8日より公開される映画『ディスコーズハイ』。同作の監督を務めたのがインディーズバンドのMV制作を支える岡本崇さんだ。自らが音楽活動する中で、「才能や口約束のような目に見えないものに翻弄される音楽業界において、音楽がど真ん中にあるべきだ」という気持ちを込めて制作したという。そんな岡本監督に、これまでの苦悩や作品の見どころについてお話を伺った。 ■元々音楽に興味はなかった今はバンド活動、MV制作、スチール撮りをメインに行っています。しかし、実は、もともとは音楽が好きという気持ちは全くと言っていいほどありませんでした。音楽を始めるきっかけは、高校時代に友人から「バンドをやろうぜ」と言われてバンドを組んだことです。ここではバンドを組んだだけで、全く活動せず、楽器すら買いませんでした(笑)。ですが「なぜかバンドってええな」と思い、段々とギターが好きになり、音楽を専門的に学びたいと思って音楽の専門学校に通いました。そして学生時代からギタリストとしてツアーを回る仕事につきましたが、段々と地盤を固めていく難しさを感じるようになりました。その後、バンドで色々なところを回っている際に、仲良くなったカメラマンと交流を深めていく中で、カメラに興味を持ちました。それがきっかけで舞台の映像制作などを行う会社に入社しました。その後、自分でもバンドもやりつつ、MVが今よりも盛んではない時代から、軽い気持ちでインディーズバンドのMV制作に携わってきました。 ■MV制作での苦悩スポンサーがいる企業案件の場合はお金も時間も十分にあるし、きちんとスケジュールも管理されていますが、インディーズバンドの場合は、お金も無いし、バンドの人々も意識が低くて、しょっちゅう遅刻します。最初は「自分の作品を撮っているとは思えないくらいのテンションじゃない?」と驚きました。ですが、自分もバンドをやっていたので、「何とかして一緒に大きくなりたい」という気持ちで制作を続けています。そして段々と撮影の際には遅刻の時間などを見越してロケ地を押さえるようになりました(笑)。そういった部分、僕も含めて愛すべき奴らなんです。いや、もちろんそんな人ばかりではありません、意識の高いバンドマンも大勢いるということをお伝えさせてください。また、MVがバンドの方のPRに繋がって喜んでもらったり、MVの再生数が多かったり、「○○のMVを作ったのって岡本さんですよね?」と周囲の人から言われるとやっぱり嬉しいですね。 ■音楽とMV制作の共通点とはMV制作には「このように作ってほしい」と先方から依頼がある場合と「お任せ」でお願いされる場合、このどちらかになることが多いです。音楽で伝えることとMVで伝えることは同じだと考えているので、曲を聴き込んだうえで「この曲のテーマは何か」を考えるようにしています。これは僕の場合になりますが、歌詞の固有名詞をそのまま用いるような、形通りに作るのはあまり好きではないので、少し外した感じで歌詞を映像で言い換えるように心がけています。 ■当初の企画からシフトチェンジして作った映画『ディスコーズハイ』については、元々は40分くらいで「MVあるある」のような映画を撮りたいと思っていました。ですが、自分の好きな俳優さんやアーティストさんにキャスティングオファーをしていたら、予想以上にしっかりとしたキャストが決まったので、「もっとしっかりしたものを作らなければ」とシフトチェンジしていきました。特に冒頭とクライマックスの歌唱シーンは、僕が作詞作曲した歌を自分の好きな方々に歌っていただいたので、是非注目して欲しいですね。また、冒頭のライブシーンに関してはよくある当て振り(口パクのように楽曲に動作を合わせるもの)でいいと伝えていましたが、楽曲を実際に演奏していただけたので、撮影中、監督である僕もテンションが上がりました。 ■警察沙汰になりかけた撮影驚いたのは、作中、大声で叫ぶシーンを木造の建築物で撮影していたとき、本当の事件だと勘違いされ、近所の方に警察に通報されそうになったことです。もちろんちゃんと許可を取っていたので、大事には至りませんでした。他にも2020年のコロナ禍で大変だった時の撮影だったので、楽器を持っているだけで白い目で見られることもありました。コロナを機に解散しようとしているバンドもいたので「映画が公開されるまで解散しないでくれ」とお願いをしたり、ロケ地を確保したりするのが大変でした。もちろん遅刻が多い方もいましたが、過去の経験から入り時間を早く設定するなど、対策をして撮影しました(笑)。 ■今後もインディーズにチャンスを与えたい今後もMV制作をやりつつ、映画制作にも取り組んでいきたいと思っています。僕はわかりやすいアクションが好きなので、「大げさなアクション」「わかりやすい山場」を多く含んだ映画を撮ってみたいです。もちろん僕自身もミュージシャンを諦めているわけではないですが、知られていないだけで、実はすごくよいバンドやよい歌はたくさんあると思っています。いまは知られていないけれども、才能が埋もれているインディーズバンドの方々をより多くの人に見てもらえる機会を、1つでも増やしていきたいです。自分が売れるのも嬉しいのですが、仲の良い人たちが売れると自分事のように嬉しいし、その方々の中に僕も混ざりたいと思います。 ■大学生へのメッセージとにかく1つでも自分の核となるような「好き」を見つけて欲しいです。僕は自分がやりたくて、自分が好きで楽しいことを、一番の優先順位にあげる人生を歩んできました。「夢」と呼ぶほどの大きなことではなくて、ただ「好き」な状態ことでも良いと思います、「でっかい好き」を見つけられると、楽しく人生を歩んでいけます。僕は元々漫画家を目指して挫折しましたが、音楽などの「別の好き」を見つけ、今は楽しい人生です。まぁ、なんとかなるで! 学生新聞オンライン2022年5月18日取材 中央学院大学4年 田根颯人 『ディスコーズハイ』 日本芸術センター第13回映像グランプリ発掘賞神戸インディペンデント映画祭2021 奨励賞 その「好き」が才能。目に見えないものに翻弄される音楽業界だからこそ音楽がど真ん中にあるべき 7月8日(金)よりアップリンク吉祥寺ほかにてロードショー キャスト:田中珠里 下京慶子 後藤まりこ監督・脚本・撮影・編集・楽曲制作・整音:岡本崇 公式サイト: https://plisila.wixsite.com/mysiteTwitter: @raidiochandesuFacebook: @discordshigh ©2021コココロ制作

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都民ファーストの会 代表 荒木ちはる

政治は、誰かの「不可能」を「可能」にするもの。 都民ファーストの会 代表 荒木ちはる (あらき ちはる) ■プロフィール 1982年3月1日生まれ、熊本県出身。小池百合子衆議院議員公設第一秘書(秘書歴6年)を務め、2017年都議会議員選挙初当選、現在2期目。現在、都民ファーストの会代表、ファーストの会代表。東京都議会議員(中野区選出)・参議院東京都選挙区第一支部長・警察消防委員会副委員長保有資格:行政書士、宅地建物取引士、防災士 2017年都議会議員院トップ当選を果たして以来、5000件の政策を打ち出してきたのが、都民ファーストの会に所属する都議会議員である荒木ちはるさん。30代女性都議会議員は、果たしてどんな学生時代を過ごしてきたのか。「荒木ちはるは3体いる!」と周囲からささやかれるほど活動的な荒木さんの秘密に迫りました。 ■先輩への恩義から始めた新入生チューター 大学は、資格を沢山取りましたね。資格を取ろうと思ったのは、学生は時間が沢山あるからです。遊ぶ時間も大切ですが、学生だからこそ出来ることを優先しました。1年目は宅建に挑戦しました。最初の試験は、落ちてしまいましたが、2年目で無事合格することができました。そのほか、行政書士や中国語検定の資格も取りました。 資格以外には、新入生チューターを4年間務めました。新入生チューターとは、簡単に言うと新入生のお世話をする係です。私自身、新入生の時、先輩方にハウステンボスに連れて行ってもらい、カリキュラムを説明してもらい、「大学とは何をするのか」を教えて頂きました。先輩方のおかげで、大学生活を最初から楽しむことができたため、「自分も後輩たちに何かできないか」と思い、立候補しました。4年生の時には、リーダーを務めるようにもなりました。 ■幼い頃の夢は、検察官 大学は、政治学部ではなく、法学部に進学しました。その理由は、実は女性の検察官になりたいと思っていたからです。きっかけは、大学で強姦罪について学んだ時です。状況が似ている事件でも、男性が裁くのと女性が裁くのでは、全く判決が違うことを知りました。また、「痴漢などを防ぐために、私が鉄道警察隊になって、悪い人を捕まえたい」とも思っていました。法律を学びたい思いが強く、大学院まで行きました。 ■小池さんの秘書を6年間しようと思った理由 きっかけは、テレビで小池百合子さんを見たからです。当時、女性初の環境大臣として、彼女の存在は、テレビでよく取り上げられていました。小池さんの人間の心理の核心をついている政策を見て、憧れていました。 例えば、エコバッグ、クールビズについても、小池さんは、「会社のトップから始めなさい」と政策を打ち出しました。社会構造を理解しているからこその発言だと思い、感銘を受けたのを覚えています。また、小池さんには、発信力がありました。当時の私は、発信力が大切だと考えていましたので、小池さんのもとで働きたいと考えました。政治家になりたいと決めた時、履歴書一枚持ち、小池さんのもとに「弟子にしてください」と言いにいきました。 ■政治家の仕事とは『人がやらないことをやる』 小池さんからは、様々な政治家の仕事について教えて頂きました。人がやることをしても、意味がない。だからこそ、声なき声に耳を傾けることが重要だと、小池さんは何度も言い続けてくださいました。日本には、困っている人が沢山います。声を上げられない人、声を上げても伝わりにくい人、声なき声に耳を傾けることが私たちの仕事です。 そのひとつが、若者の性教育です。スウェーデンでは、子供たちの秘密を守って、問題悩みを解消できる環境が整っています。妊娠した時、性病になった時、親には相談しにくいですよね。誰かが代弁してくれないけど、大切なこと。その問題解決をしていくのが私たちの仕事です。小池さんの秘書をしている時に、「声なき声に気づき、誰もやらないことをやる」という大切な事を教えて頂きました。その経験が、今の政策に繋がっていると言います。 実現するために、私はどこでも行きます。防災訓練も中野区中のイベントにはほぼ全部参加しています。皆さんから「荒木さんは3人いるのでは?」と言われるほど動いています(笑)。 ■日本の政治は、スピード感の遅さが課題 都議会は非常に重要な存在なのに、残念ながら、あまり注目されていません。委員会のテレビ中継もされていません。議事録を見たいと言っても、取り寄せるまでに1ヶ月かかる状況です。正直、すべてが遅いのです。必要なときには、もうその時には終わっていて、国民の皆さんと話を進めることができません。だからこそ、私は「古い議会を新しく変えよう」と訴え続けています。都議会委員は60代の方が多く、30代女性は珍しいです。だからこそ、私には、「いまの体制は古い。だから、新しいことが必要だ」と声を上げる役割があると考えています。 ■政治とは、「不可能を可能にできるもの」 私は、今までで5000件以上の政策を出しています。なぜなら、困っている人が「制度だから」と諦めているケースが多いからです。でも、「変えることは不可能だ」と思うことが、東京と日本の可能性を狭めてしまいます。最近の事例だと、都立高校に通える学生の条件の緩和が挙げられるでしょう。 最近、障害児を育てる方々など、子どもたちに自然を体験させたいと思い、伊豆大島などの島に引っ越す動きが増えています。しかしながら、都立高校は都内在住者しか通うことができません。島に住みたい人たちの障壁を取り除くべきだと考えて、県外の人でも都立高校に通えるようにという要望を出しました。知事に伝えると、すぐさまに変えてくれました。これからも困っている人の声に気づき、素早く解決できるように動いていきます。 ■大学生へメッセージ 18歳選挙権を大いに活かして政治に参加してください。政治は生活です。暮らしや命や健康を守るものだから、政治家を見て選んでください。学生視点から日本の50年後、100年後を見て、「自分たちが生きていく将来を、今の政治家たちに預けられるのか?」を考えてほしいです。政治に参加する事で、社会の一員として生きている事を体験できます。また、自分の声が現実になることもあります。だからこそ、社会の事柄に当事者意識を持ち、生活することが大切なのです。ぜひ、みなさんにはそれを意識してほしいと思います。 学生新聞オンライン2022年4月26日取材 成蹊大学4年 岡田美波