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Archive for 運営スタッフ

経営者

サインポスト株式会社 代表取締役社長 蒲原寧 

事業とは新しい価値を創造し、社員と社会を幸せにする事 ■プロフィール 1988年、三和銀行(現三菱UFJ銀行)入行。最先端の技術を駆使した次期システムの構築や三菱UFJ銀行の合併に伴うシステム統合などの大型プロジェクトを手掛ける。2007年、社会に新たな価値を創出することを目的にサインポスト株式会社を設立。各企業様の経営・業務課題や社会問題の解決に道しるべを示し、実際に解決するIT関連ソリューションを提供。 小売業の人手不足を解決するのではと注目されている無人AIレジを開発したサインポスト。その背景には、先人からいただいた日本という豊かな国を次の世代に引き継ぐために残された人生を費やすという蒲原社長の決意があった。お客様の課題を徹底的に解決し、新たな価値を創造し続けるための姿勢、事業のあり方を伺った。 大学生活はサッカーとパチンコ、ビリヤード、そして数学の勉強に費やしました。サッカーは監督兼キャプテンを務め、サッカーの戦法や戦術を熱心に勉強して、万年最下位のサッカー部を同率一位まで強くしました。僕は小1から小4まで、死ぬ可能性のある病で入院していました。運動を禁止されていた分、病院の娯楽室に夜中に忍び込んで見たワールドカップに強く憧れ、運動ができるようになったらサッカーを極めようと思っていました。大学生になってそれを実現したのです。サッカーの練習をしながら、数学の勉強にかなりの時間を費やしました。その知識が今でもとても役立っています。経営者は数学を知っていないと、見通しや予測ができません。数学がどれほど僕の役に立っているかを語ったら夜があけて朝になっても足りません。しかし、数学の勉強自体は、将来のことを考えて行なっていたわけではありません。「こういう就職をしたいからこういう勉強をする」というのは、ある意味、危険な考えだと思っています。将来何をしているのか誰もわからないのに、現時点で「この知識は役に立たない」と判断してはいけません。 ■人生は何が起こるか分からない 大学時代にはシステム関係を学んでいました。就職時は「ITシステムは単なる手段だ」と考え、その分野での就職を躊躇していました。そして、大学卒業後は、素晴らしい事業に対する融資という形で我が国に貢献しようと思い、三和銀行に就職しました。ただ、大学時代に専攻していたという理由で、三和銀行のシステム部に配属になっていました。当初の想いとは違うものの「逃げるのは嫌だ。一流になってからシステム部をやめよう」と決意し、努力した結果、辞めることができないほどの金融IT界の有名人になってしまいました。そして、結果的に、今もシステムの仕事を行なっています。人生は本当に何が起こるかわかりません。 ■豊かな我が国を後世に引き継ぐ 僕は人生で2回生死の境を彷徨ったものの、生き伸びた経験があります。以来、自分は「生かされているのだ」と思うようになりました。銀行員として働きつつも、「生かされた貴重な人生を、くだらない私利私欲のために費やしてはいけない。この先代、先々代からいただいた豊かな国を少しでも後世に引き継ぐために役立てたい」と思うようになりました。当初は政治家になろうと考えていたのですが、自分が60歳で死ぬと考えた場合、残された時間では総理大臣になれないと思い、経済界から貢献しようと起業を目標にしました。当初は資金もなく、経営理念だけがありました。まだ、子供も小さく、起業すれば無一文になるかもしれないという状況でした。そんな状況でも、妻の後押しや銀行時代の先輩、同僚の資金援助などがあり、事業をスタートさせることができました。 ■事業とは世の中を良くする事 サインポストの経営理念は三つあります。一つは「社会に新たな価値を創出する」ということです。事業とはお客さんを幸せにすることであり、世の中を良くすることであり、新しい価値を創出するということです。そのため、必然的に他社との差別化になっています。お客さまの真の問題を徹底的に解決し、その中で世にないものがあれば作る。前人未踏の問題解決を見つけて、実現化させる。そこにまたビジネスの面白さがあるのです。2つ目は、「お客様と社会に感謝される仕事を」です。それができない企業は、残ることはできません。3つ目は、「社員が仕事を通じて成長するのを支援し、社員とその家族を幸せに」です。社員たちには、20歳から70歳くらいに渡る人生の一番いい所の大事な時間をうちで働いてもらうのだから、人間として、職業人として成長してもらわなければいけません。いいお客さんといい仕事をする。いい社員を採用する。そうするといい仲間ができて、それ自体が人生の喜びになります。また、いい仕事をすると職業人としての訓練になり、社員の能力が高まる、そうすると経済的にも利益が高まり、社員に分配することができる。そして社員の家族も幸せに出来る。このような理念だけで事業を始めました。仕事をしていて楽しいことは何かと言われれば、毎日全てが楽しいです。BBQ大会を主催し、社員やその家族の交流ができること。自筆の本を社員が読み込んでは「バイブルです」と言ってくれること。今日、大学生のみなさんとお話しすることも、全て楽しいのです。 ■一緒に働きたいのは「誠実な人」 僕が一緒に働きたいのは、誠実な人です。誠実とは、表面的な性格ではなく、生まれてから今までに作りあがった性質だと思っています。誠実な人は、嘘をつかず、人のせいにしません。だから、自然と仕事ができるようになっていきます。大学生は、ぜひしっかり勉強してください。なんでもいいから得意なことを作ってください。現在、国民の三大義務は「納税、勤労、教育」です。この中で大学生ができるのは、教育だけ、だから勉強に励みなさい。あれこれ手を出して全科目80点を目指すのではなく、一科目120点を目指してください。環境が許すなら、バイトもせず、しっかり勉強してください。もしバイトをするとしても、自分の人生に役に立つバイトを選んでほしいです。やってはいけないことは、他人を見下すことです。自分が優位に立つ方法は2種類しかありません。一つは自分が努力して上に行くこと、もう一つは他人を下げること、二つ目は、努力しなくていいから楽ですが、それ以上は成長できません。意外と世の中は単純なものです。ただ、単純ですが、非常に深いのです。 学生新聞オンライン2021年6月10日 青山学院大学 3年 鈴木理梨子

経営者

株式会社コパ・コーポレーション 代表取締役社長 吉村泰助

大学時代での演劇との出会いが人生を変えた! ■プロフィール 1968年新潟県生まれ。國學院大學文学部卒業後、日本シール株式会社の宣伝販売員として所属。独立後、1998年に有限会社コパ・コーポレーションを設立。2020年6月に東京証券取引所マザーズ市場に上場し、実演販売の文化の継承と業界の発展に貢献している。 大学で演劇研究会に入ったことをきっかけに実演販売に出会い、そのままプロの道へ進んだ吉村社長。好きなことを続ける中で沸き起こってきた問題意識から会社を立ち上げ、実演販売兼卸売業という独自の形態で事業を拡大させてきた。周りに流されず自分の経験で突き進んでいく吉村社長にお話を伺った。 ■毎日演劇の稽古に励んでいた大学時代 大学には一浪をして國學院大學に入りました。サークルは文芸部か映画研究会に入ろうとしていたのですが、たまたま模擬店を見に行ったときに隣のブースにあった演劇研究会の先輩と意気投合してしまい、そのまま入部することになりました。演劇研究会といっても、野球部より運動していたんじゃないかというくらい、毎日稽古とテントづくりで忙しくしていました。大学にはほぼ毎日行っていましたが、ずっと演劇をしていたので、大学1年の時は4単位しか取れませんでしたね。(笑)  ■アルバイトで実演販売と出会う アルバイトは、演劇研究会が代々引き継いでいた秋葉原デパートで行われる実演販売の手伝いをしていました。普段は在庫を出すといった裏方の仕事をしていたのですが、実演販売の人が休憩に入って店番を頼まれたときに、ボーっと立っているだけではつまらないので自分なりに喋ったりもしていました。お客さんにバッシングされることもありましたが、路上演劇だと思うとモチベーションが上がり、実演販売の面白さにはまっていきましたね。 ■就職はせず、実演販売のプロへ 当時はバブル絶頂の時代だったので、学生は会社から手厚い接待を受けて入社するといった超売り手市場でした。私はせっかく大学で演劇と実演販売の経験を積んだならそのまま実演販売のプロを目指したほうが面白いと思い、就職活動はしませんでした。実演販売のプロは歩合制で、当時頑張れば2週間で初任給くらいは稼げていたので、就職しないことに抵抗はありませんでしたね。その後バブルが崩壊して、就職した人たちの苦労話を聞くと、周りに流されず実演販売のプロになって良かったなと感じています。 ■俳優たちが舞台をしながら食べていけるように 26歳の頃に当時所属していた日本シール株式会社の宣伝販売員から独立し、30歳でコパ・コーポレーションを立ち上げました。起業のきっかけは、当時続けていた演劇で俳優仲間が就職したいと言い始めたことです。舞台をしながら俳優たちが食べていけるような環境を作りたいと思い、演劇興行と実演販売卸業の2つの事業を展開する会社としてスタートしました。今では実演販売のできる卸売業に特化していますが、昔の名残で、俳優や芸人、歌手といった芸能活動の経験がある社員も多いです。また、実演販売を会社組織として運営することで社会的な信用力をつけたいという思いもありました。昔、実演販売はテキ屋といったイメージや、人から見下される傾向がありました。「嘘言って売ってるんでしょ」と言われることもあり、そういったイメージを払拭しなければ良い商品が回ってこないと思いました。今では上場も果たし、少しでも実演販売が社会に求められ、価値を生み出せればいいなと思っています。 ■“売る”がキーワードの会社 商品は売れなければ意味がありません。実演販売士を送り込んで販促活動をすることは、サッカーで言うフォワードがゴールを決めるのと同じように、最終的に商品に価値を生み出す大切な役割があると思っています。だから、私たちが力を入れるのは実演トークの開発です。「換気扇の汚れ気になってますね?」「ダイエットに困ってますよね?」とお客さんの抱える問題意識を明確化し、アッと驚く手段で解決する。実演販売はコンテンツ作りなので、何を話したいかで扱う商品を選定したりもします。物語に合わせてキャストや舞台装置を決め、お客さんを感動させる。実演販売は演劇とあまり変わらないですね。 ■社会に出てからわかるラポール形成の大切さ いい実演トークができても、お客さんが聞いてくれなければ意味がありません。実際に実演販売の現場に立つと、お客さんは3m以上離れて見ていることがほとんどです。なぜなら人間は生存本能から警戒心があるので、いつでも逃げられる状態にしておきたいからです。だから本当の意味で言葉が通じるというのは、日本語をいかに正しく使うかではなく、ラポール=信頼の架け橋を築いた上で話すということです。これは実演販売に限らず、社会に出たら誰しもが経験することだと思います。「どこの馬の骨が来たんだ」と警戒されるところから始まるので、最初に相手に対して安心、安全、親近感を与えることは大切なことです。 ■自分自身が好きな人は伸びる 一緒に働きたい人として、まず第一に自分嫌いな人はダメですね。自己嫌悪に陥っている人はいくら褒めても自分で自分を否定してしまうので手の施しようがありません。一方、自分のことが好きな人はどんな環境でもエネルギーを自家発電することができるので成長スピードが速いと思います。特に実演販売士は少しナルシストぐらいのほうがいいです。アウェイの現場で働かなければならない状況も多いので、いつでも自分を肯定的に捉えられるストレス耐久性があると強いですね。 ■message 世の中を変えるのは“若者の力”以外の何者でもないと思っています。大学時代は、何かしらの夢や目標を持って、エンジョイしながらそれに向かっていってほしいです。同じ夢を貫き続けることも良いし、コロコロ変わったっていい。学生に限ったことではないですが若いうちはトライアンドゴーを繰り返して、社会をよりよく変えていける人になってほしいですね。 学生新聞オンライン2021年8月17日取材 日本大学4年 辻内海成

イベント・企業紹介

「私たちの小さな一歩〜世界中の家庭で笑顔が咲くために〜」

第3回世界環境学生サミットグラプリ受賞者  慶應義塾大学 1年 鈴木華子(すずきはなこ) プロフィール 慶應義塾大学法学部法律学科1年生。児童虐待に課題意識を感じ、高校時代に学生団体リトルオレンジを設立し、「専門家と中高生が虐待防止を考えるシンポジウム」を主催。参加者の満足度は100%と、充実した会となった。その後、実践的な保育教育の実現可能性について模索しつつ、活動を継続している。趣味は読書や料理、映画鑑賞。 登壇したきっかけ 友人が出場したことをきっかけに、自身も登壇を決めました。登壇した理由は主に三つあります。まず第一に、日本の虐待に関わる現状について多くの方々に知っていただきたかったからです。現在、児童相談所の人手不足や虐待を受けている子供が自発的に助けを求めることができない現状があります。また、アメリカでは、アルバイトでベビーシッターが経験できる等、若いうちから子育ての方法を学ぶ仕組みが整っています。しかし、日本では中高生を始めとして、全国民に対しての実践的な保育児童教育が不足しているため、保護者になり、いきなり子育てをしようとしても難しい部分があります。これらの日本の問題を多くの人に伝え、自分のできることから行動に移します。 次に、自身の目標や、達成するための手順に対し、客観的な意見が欲しかったからです。実際に登壇した結果、日本には実践的な育児教育がないことに関して不安を感じている同年代の意見を得ました。これからも多くの方々に動画を視聴していただきたいです。 最後に、自分の活動に協力してくださる方を見つけたいからです。その結果、“現状を変えたい”という私の思いに熱く共感してくれた友人や、暖かく応援してくれた運営の方々がいたのでとても励みになりました。 中高生へ実践的児童教育を届けたい プレゼンの内容は SDGsの「質の高い教育をみんなに」をテーマに、自身が社会に対して課題意識を抱えている児童虐待の解決策として、中高生を中心に実践的な児童教育を届けるための提案でした。その中で、そもそも虐待がなぜ問題なのか、虐待の根底にある問題は何かなどを、具体的な数字を基にお話させていただきました。 具体的には、実践的な児童教育として一ヶ月間のプログラムを考えています。そのプログラムは一か月に計4回開催され、育児に関する知識や経験を積むことができます。4回の内容をご紹介すると、1回目は児童相談所の児童心理士さんが子供の心境を教えてくれるプログラム、2回目は実際に子育てをした経験のある保護者の方を講師として招き、大変だったエピソードや、その乗り越え方を教えていただきます。そして、3回目は保育士さんをお呼びして、育児に必要な事前準備や注意事項の確認をし、4回目では実際に保育園へ訪問して子供の面倒を見る機会を提供したいと思っています。全世代、全性別を対象としておりますが、特に中高生や妊娠を公表できない方にもいらっしゃっていただきたいです。というのも、妊娠を公表していれば、ファミリー学級で子育ての仕方を教わりますが、公表していなければ、教わりません。よって、様々な背景を持った多くの方々に開かれた場でありたいです。 活動に関するやりがいや苦労虐待問題をみんなで一緒に考える機会を作ったことに非常にやりがいを感じました。高校時代に、学生団体リトルオレンジを設立し、「専門家と中高生が虐待防止を考えるシンポジウム」を主催しました。その会では、中高生だけではなく、専門家の意見も交えて虐待問題のどこが問題なのかを探ることができ、中高生からは「詳しく学べて良かった」、専門家からは「中高生の意見や考えが聞けて嬉しかった」という声が上がりました。 苦労したことは、自分自身に子育ての経験がないため、保護者の気持ちへの寄り添い方を追求したことです。以前、MAKERS UNIVERSITY U-18という、現状に課題意識を感じ、活動を起こす若者の集まりにていただいた、「実体験のない人こそ現状を変えることができる」という言葉に支えられています。それから、「今変えるという決意が重要だ」と思いながら行動しています。 今後の展望 実践的な保育教育を行い、各地に広げていきたいと考えています。そのために、協力者を見つけ、積極的に活動していきます。 そして、自分が親になった際、子供が望むことを伸び伸びと行うことを応援したいです。何においてもそうですが、自分の正しさを押し付けないことが一番重要だと考えています。 message 私は、困難に直面した際には、一度過去から離れ、0から仕切り直すことを心掛けています。そうやって、自分自身が信じていること、望んでいることを考え直すことが大切だと考えています。 学生新聞WEB2021年7月2日取材 早稲田大学3 年 Nang Honey Aung 世界環境学生サミット 統括 山形航汰  世界環境学生サミットは、中学生〜大学生が7分間のプレゼンテーションを行い、世界へ発信する場です。学生の学生による学生のためのサミットをコンセプトに開催された第1回から第3回を経て、世界6か国。全地方から学生が参加し、のべ65名のエントリーとなりました。     この世界環境学生サミットは大小関わらず、自分達の取り組みやSDGsへの想いを発信したい学生達のためにどこからでも参加できるオンライン完結の場として開催しております。     そこで、僕が学生に知って欲しいことは「子供だから」「大人だから」という制限を外して自分のやりたいこと・想いに向けて前に進んで欲しいという想いがあります。     例えば、インドでは環境活動家リシプリア・カングジャムさんがわずか9歳の内から大人達に環境問題を訴えかけているのです。     今日本でもSDGsの認知度は高まってきてますが、知るだけではなく行動に移さないと人が住めない環境へと歩むことになりかねません。この熱い想いを持つ学生がまだまだたくさんいることを僕自身感じています。そんな素晴らしい学生達がもっと発信しやすい環境を作っていきますので、共に発信し、かけがえのない仲間を作り、誰ひとり取り残さない世界を築く一歩になって欲しいと思っております。 ■運営メンバーの紹介 山路はるかさん高校3年https://youtu.be/HE-X1G0bH-k 平井鈴音菜さん大学2年https://youtu.be/w8rM2aqBP9E

川浪亜紀

株式会社Mマート 代表取締役社長 村橋孝嶺

慢心せず、上質な商品を安い価格で提供する ■プロフィール 1936年生まれ。20歳から飲食店の商売を始め20店舗ほど経営。2000年に株式会社Mマートを起業し、64歳のネットベンチャー誕生となる。起業のきっかけは、食材の仕入先発見が困難で、PCやネットも初めてだったが自分でやるしかないと思ったため。2018年、81歳で東証マザーズに上場。アントレプレナー最年長組として名を馳せる。 2000年にインターネットでの卸市場として設立し、2018年に上場を果たした株式会社Mマート。ネットビジネスの黎明期に代表である村橋社長を突き動かしたのは、食の流通を支えたいとの想いだったという。現在でも、常により良いものを求めて前進し、先頭に立ち続ける村橋社長の仕事や人材に関する考え方を伺った。 ■経済的な理由から、高校を中退 小さい頃からガキ大将でした。海のないところに住んでいたので、プールへの憧れがあったんですね。そこで、近所の川をせき止めて、プールのようにして皆で泳いだことがあります。近所のお百姓さんには怒られましたね。ただ、昔から自分の意思でやるタイプだったんでしょうね。経済的な理由から、家の手伝いで学校を休まなくてはならない状況にあったのですが、それも苦労とは思いませんでした。本を読むのが好きで、寺から本を借りてきてよく読んでいましたね。私が高校に入学したときは、まだ戦後間もない時で、左翼的思想が強い時代でした。そんな時代背景から、私が高校に入学して一ヶ月でストライキが行われ、学校が閉鎖されることになったのです。私は、高校に勉強したくて入りましたし、真面目な性格であったので、そのことに大変憤りを感じました。そこで、一人で校長室に乗り込んで、「学校は校長先生のためのものではない、生徒のためのものだ」と校長先生に直接訴えかけたのです。そこで、うまく交渉したおかげで、ストライキもなくなりました。その後、一年生で新聞部の部長となり、また全日本学生新聞連盟の議長団の一人にもなりました。年上の高校生や大人に混ざっていたものの、もともと物おじしないタイプだったので、本当に色々なことを体験させてもらいました。ただ、経済的な面から、高校は中退することになりました。学校の勉強は一番でしたが、学校を辞めることは仕方ないなと思っていました。ただ、非常に充実した高校生活で、普通に3年間通って得られる以上の経験をさせてもらったと思っています。 ■人間関係が左右する面白い仕事 高校を中退したあとは、父親の会社に入社させられました。給料は全て父親のものとなりましたね(笑)。その後、自分の何を見込んでもらったのかわかりませんが、神田にある東京の支社に転勤になりました。そして、夜学にも半年間ほど通いました。ただ、社会に出てからは、勉強よりももっと仕事をしたいという思いが強くなっていきました。その後、勤めていた鉱山会社が倒産してしまうという出来事が起こりました。どうしようかと考えていたら、たまたま友人の母親がスナックをやっていて、アルバイトをさせてもらうことになりました。そこで、商品やサービスだけを求めて来客するのではなく、元手がなくても「人間関係」によって客が集まるという飲食業界におもしろさを感じて、のめり込みました。 ■読書から得られる先見の明 その後、飲食店の再建や飲食店経営などを手掛ける中、一番難しさを感じたのは「仕入れ」です。時として、仕入れた商品が注文と違ったり、混ざりものだったりすることもあります。それを自分で全部掌握できるわけではなかったですし、変えることもできない。また、競争が激しい飲食業界の中で新しいメニューを考案したくても、配達してきた人が商品を把握しているわけでもありません。「このままではこの業界は大変だ、ベテランの自分が困っているのだから、きっと色々な人が困っているのだろう」と、思いました。そんな中で思い浮かんだのが「インターネットで行う卸売り」というアイデアでした。私は読書好きなので、本を通じて「これからの時代はインターネットの時代になるだろう」とわかっていました。インターネットで卸売りが出来れば、若い人たちも助かるはず。そう考えて、息子に「パソコンを持っているか」と聞き、その時に初めて、パソコンとインターネットの世界に触れました。ただ、飲食業界に関する知識は十分にあったので、新規事業ではあるものの、全く不安は感じませんでしたね。 ■迅速な自己変革が生き残りのカギである インターネットの世界では、同じビジネスをしている会社は、たった2社程度しか生き残れません。また、変化の速い世界なので、常に自己変革を行って、自分たちを成長させていくしかありません。当社の強みは、全てのシステムを自前で運営していることです。当社がこの業界に参入した時、既に10社以上の会社がインターネットの卸売業に参入していました。しかし、システムを自前で運営していたのは当社だけだったのです。なぜ、当社が自前でシステムを作ったかというと、外部の会社に委託してシステム構築をしようとすると、何千万円もの初期費用がかかるうえ、修正と改善を行うには時間がかかり、また何百万円もの追加費用が発生するからです。そうなれば、外注費にコストがかかり、結局黒字化が難しくなります。その点、当社のシステム運営は全て自前で行っていたため、様々な改善もコストをかけず迅速に対応できた。それが、大きな強みだったと思います。 ■「正しい心」を大切に 目の前にある障害を一つ一つ乗り越えるのは、本当に大変です。しかし、私は楽観的な人間なので、「人の世で起こったことは、人の世で解決できる」と思っています。そう考えれば、どんな障害も乗り越えられます。その障害を乗り越えた先に得られる達成感こそ、やりがいであり、仕事が楽しいと感じられるのです。また、「正しい心を持つ」という教育も大切です。素直でまっすぐな人は成長します。人間はうぬぼれるとすぐだめになります。その思いは、Mマートの社訓である「謙虚・素直・感謝」に表れています。上場に5年や10年もかかる会社もありますが、当社は、上場の本格的準備から1年半で上場しました。それは、当社が常に「正しい心」を大切にしてきたからです。どんな経営も正しくやらなくてはなりません。上場時の審査がスムーズに終了したのは、正しい心で経営をしてきた積み重ねだと思っています。また、上場したことで、社会的信頼はさらに上がりました。 ■message 若い人にはもっと政治に関心を持って欲しいと思っています。現在は、平和な世の中だからこそ「自分さえ良ければいい」という風潮が強い。しかし、この平和は政治によって作られたものです。政治を見つめることにより、今後の世の中をどうしたらいいのかをもっと考えて欲しいですね。社会に出てからも、学生時代と同様に勉強は大事です。社会に出て勉強してもインセンティブがないと思っている人が多いですが、社会人になって勉強すれば、その分大きな報酬を得ることができます。自分を変えたければ習慣から変えるしかありません。政治に関心を持ち、今の世の中にあぐらをかかず、「自分はどんな世の中を作っていきたいのか」を常に考えることを習慣化して欲しいです。 学生新聞オンライン2021年7月27日取材 津田塾大学 4年 川浪亜紀

川浪亜紀

三重県知事 鈴木英敬 「寂しがりの自分だからこそできる、共感される政...

■プロフィール 1974年、兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒業後、通商産業省(現、経済産業省)入省。2011年、三重県知事就任、現在3期目。家族は、妻と子ども2人。尊敬する人物は、坂本龍馬。座右の銘は、「夢なき者に理想なし 理想なき者に計画なし 計画なき者に実行なし 実行なき者に成功なし ゆえに夢なき者に成功なし」(吉田松陰)。 2011年に三重県知事に初当選し、36歳の全国最年少現職知事となった鈴木英敬知事。自身もイクメン・オブ・ザ・イヤーを受賞するなど、あらゆる面で積極的な改革に挑んできた。三重県を住みやすい町にするために邁進し、愛され、信頼される関係性を築いてきたその根源はどこにあるのか、お話を伺った。 ■「みんなを巻き込みたい」との強い想い 小さい頃から、楽しいことをするのが好きでした。学級委員や、生徒会長を率先してやるタイプでしたね。なぜかというと、楽しいことを自分で考えて、みんなを巻き込んでやってみたい、という気持ちが強かったからです。多分、すごく寂しがり屋なんです。楽しいことをやって、みんなと一緒にいたかったんですよね。それは、大学でも一緒でした。大学で上京したのですが、寂しがり屋の一人暮らしの家には毎日誰かが遊びに来ていました(笑)。大学時代は、大半の時間をテニスサークルで過ごしました。アルバイトも、家庭教師やオペレーター、ヤマト運輸のスタッフなど本当に色々なことを経験して、本当に楽しかったです。そうして経験する中で、たくさんの人と出会いました。今も続く、価値観を共有できる仲間がたくさんできました。すごく充実していましたね。 ■就活は自分のものさしで考える 大学3年の夏に、「自分は将来、何になりたいのか」をじっくり考えてみました。その結果、たどり着いた結論が「何をやりたいかはわからない、ただ面白い人がいる場所で働きたい」というもの。そのため、就活は、「一般企業の会社員」や「公務員」などとジャンルを絞らず、幅広く行いました。今振り返ってみると、就活で大切だったのは、自分のものさしをどこに置くかだったと思います。早く就活を終えて、大企業に就職したからと言って、それが自分にとって良い企業とは限りません。人気だからと言う理由で大企業に進むよりも、自分が就職した後、どんな風に働いているのかを真剣に考えることの方が、就活では重要なことだと思います。なぜなら、自分の人生は自分で責任を取るしかないからです。だからこそ、周りを見るのではなく、自分のものさしを信じて就活をするべきだと思います。僕の場合は、自分が就職した後にどんな風に働きたいかを見定めるべく、色々なところでお話を聞いて、どんな面白い人がいるのか聞きまくりました。官庁も10省庁くらい回って話を聞きました。その結果、面白い人が多くて、たくさんの経験を積める場所だと耳にした、通産省(現在の経済産業省)への入省を決めました。 ■共感して信頼してもらって物事を進めたい もともと政治に興味を持っていましたが、通産省に入ってからますますその思いは強くなりました。安倍総理のスタッフになったときに強く感じたのが、行政で論理的に選択肢を作るよりは、国民に信頼されて物事を進めていく人間になりたいという想いです。今の政治には共感が足りない。ならば、自分はもっと国民のみなさんの気持ちに寄り添い、納得や共感がうまれるような政治を目指したいと思いました。そして、官僚を辞め、政治に主体的に携わるため、父方の本籍地である三重県で選挙活動を行うことを決意しました。そして、最初の選挙の後に入った青年会議所で、三重県のPRに携わることがありました。そこで感じたのは、「三重にはいいところがたくさんあるのに、うまくそれが伝わっていないのではないか。もったいない」との強い想いです。この「地域の魅力をもっと発信したい」という気持ちから、知事への立候補を決めました。 ■知事の仕事は「決めること」と「説明すること」 知事の仕事は、大きく分けて二つあると思っています。一つ目が決めること、二つ目が説明することです。僕は、令和2年度の一年間で275回の会見を行いました。知事の職に就いてから、10年間で1,482回記者会見をしています。危機の時だけではなく、日頃から会見などの機会を通じて人々に説明し、共感してもらうことを大切にしている。だからこそ、コロナ禍でも県民の皆様に信頼され、協力いただける関係ができたのだと思います。 ■三重県をより魅力的な町にする 自分が携わった三重県知事としての仕事で印象に残っているのは、G7伊勢志摩サミットです。日本で最初に開催されたG7サミットは1979年の東京ですが、伊勢志摩での開催を迎えるまでの日本の首脳会合開催地は東京、沖縄、北海道のみでした。その次に選ばれたのが、「普通」の県である三重県であることは大変誇らしいです。このサミット開催にあたって強く意識したのは、「市民の手で町を良くする」ということです。これは知事として職務に就く中で常に大切にしていることでもあります。行政のみで盛り上がるのではなく、県民が自分たち自身で考えて、納得して、一緒に頑張る。そうすることで、他人事ではなく、愛着が湧くまちづくりができるのだと思います。そこで、伊勢志摩サミット開催前には、全29市町でお花を植えて、みんなでおもてなしをしたり、「サミット給食」という取り組みを通じて、小中学生にサミットについて勉強する機会を持ってもらったりもしました。また、三重県は日本酒が有名です。現在、日本では日本酒の消費量が減っていますが、そんな中、三重県はサミット開催前と比較すると、酒蔵の売り上げが増加しています。これは、酒蔵の人たちが自分たちで考えて努力してきたからです。この伊勢志摩サミットを通じて、多くの県民の方々が、自らの手でイノベーションを起こす方法を知り、また実際にイノベーションを起こしたことで自分たちのプライドを確立できたのではないでしょうか。そのため、この2016年の伊勢志摩サミットは、県全体を良くするための大きなきっかけになったのではないかと感じています。 ■誰もが望む土地に生きられる時代へ 今、僕自身が目指すのは、「誰もが住みたいと願ったところに住み続けられるような社会」です。住みたいと思った場所があっても、交通機関が整っていなかったり、病院や学校がなかったりすると居住地にそこを選択することができません。だからこそ、医療・教育・子育て・防災などに率先して取り組んできました。防災施設の整備や、子育て環境を整えて男性のイクボス全国一位を獲得したのもその一環です。また、この10年間で増えた医師の数は、全国で11番目になっています。現在の日本では、若者が出稼ぎのために都会へ、高齢者は田舎に残り、美しい風景が保てなくなる事態が発生しています。これは、日本にとって本当に良いことなのでしょうか。地方でも環境の整備が進むことで、東京一極集中である必要はなくなります。人々のライフサイクルは様々です。こうした自分自身のライフサイクルを、それぞれに選択できる方が多くの人が幸せになれるはずです。だからこそ、誰もが住みたいと思った場所に住み続けられる、そんな日本を目指して、「令和の日本列島改造論」を進めていきたいと思っています。 ■大学時代こそ、異なる価値観に触れる 自分自身の大学生活は、本当に楽しかった。それは同じ考えとか同じ価値観を持っている人と出会えたことが大きいです。十分いろんな人に出会えた学生時代だとは思うものの、「もっと多様な価値観の人と話してみたら良かった」と思うこともあります。人間は意識しなくては、どうしても楽な方に流れます。異なる価値観の人に触れることはときに苦しいことではありますが、それは将来自分自身が多様性の社会の中で生きていくためには必要なことだと思います。社会に出たら、全く違う価値観を受け入れて前に進んでいかなくてはならない場面がたくさんあります。苦手だと思っても、そこで人間関係をシャットアウトせず、好き嫌いをせずに多くの人と向き合うことも成長のために大切だと思います。自分にとって、価値観の合う仲間は大切にしつつ、色々な人と触れ合って、将来に向かってほしいなと思います。 学生新聞オンライン2021年7月14日取材 津田塾大学4年 川浪亜紀

経営者

スターティアホールディングス株式会社 代表取締役社長兼グループ最高経営...

地頭の良い若手を磨き、次世代の経営者へ育てる ■プロフィール 熊本県出身。29歳で有限会社テレコムネット(現・スターティアホールディングス株式会社 )を創業。現在は指原莉乃さんのTVCMでもお馴染みのデジタルマーケティングツール「Cloud CIRCUS(クラウドサーカス)」を主軸とするデジタルマーケティング事業を積極展開。また、中小企業向けのオフィスのITインフラ事業やDX化推進支援事業も行っている。 企業をITの力でサポートするスターティアホールディングスを設立し、日本の中小企業の生産性向上のために力を注がれている本郷秀之社長。専門学校卒業後から就職を経て、起業された本郷社長の人生とは? そして、日本の未来をより良くするために、本郷社長が若手に求める力と、若手への想いについて迫りました。 ■ホテルマンになって知った「学歴」の重要性 私は熊本県で進学塾を経営している父に、「勉強をしなさい。」と幼い頃からずっと言われながら育てられてきました。私は天邪鬼な性格でしたから、父の言葉に反発していてあまり真面目に勉強はしていませんでした。そのため、周りからは「本郷先生のバカ息子」だなんて言われたものです。学生時代の私は、「将来海外に行ってみたい」という夢を持っていて、将来は海外と関わりが多そうなホテルマンになりたいと思っていました。海外に行きたいと思ったのは、きっと口うるさい父と何もない田舎から離れ、別の世界に飛び込みたいと望んでいたからでしょう。父からは「勉強して東京大学や京都大学に進学しなさい」と言われていましたが、東京大学を出たからといって必ず成功するわけではありません。もともと「学歴なんて必要ない!」と考えていた私は、父の期待をよそに専門学校に進学しました。父に反発した選択をしましたから、専門学校時代は仕送りもなく、ベルボーイをしながら勉強をしていましたね。苦学生ながらなんとか専門学校に通う傍ら、ホテルマンとして働き始めたのです。ただ、ホテルマンとして働きながら「ずっと必要ないと思っていたけれども、実は社会とは学歴がものをいう世界なのだ」ということに気が付きました。頑張って受験期に努力した人たちはやっぱりすごいと感じますし、高学歴な大学を卒業したいわゆる“キャリア”と呼ばれる人たちはすぐに出世していき、初任給も専門学校卒の人よりも多くもらっていました。また、東京大学など名門を卒業した人たちは「やっぱり頭いいなあ」と尊敬する面も多かったですね。 ■インチキしない正しい会社を作ろう ホテルマンとして働いた二年間で学歴社会を思い知らされ、その後、寝具会社の営業を経て、通信関係の会社に営業として就職しました。寝具の営業を経験した私からすると、通信関係の営業の方がやり甲斐があり、営業成績もかなり伸ばすことができました。「営業部長くらいにはなれるのでは?」と期待を胸に仕事に打ち込んでいましたね。しかし、そんな順調な毎日を過ごしていたある日、社長の乱脈経営によって会社が突然潰れてしまったのです。どんなに社員が頑張って働いていても、その会社のトップが良くないと社員がバカを見てしまうと言うことを学びました。「だったら自分が社員想いでインチキをしない、正しい会社を作ろう!」と決意し、当時の部下たちと共にスターティアホールディングスの前身となる会社を立ち上げたのです。部下から「本郷さんについていきたい」と後押しをもらい、消去法的な選択での起業でしたが、今までこうしてやってくることができました。 ■若手の成長が会社の成長 今年で会社を立ち上げて26年目なのですが、最初の頃と少しずつ会社にかける想いに変化が出てきました。創立当初は「一発当ててやる!」なんて気持ちが強かったのですが、今は日本の中小企業の生産性向上の手助けになりたいという気持ちで会社と向き合っていますね。社長になってから日本の中小企業の生産性が低いことに気が付き、日本の未来に危機感を抱くようになりました。消費者や日本の企業が全て良くならなければ、日本の未来を良いものにはできないでしょう。そのために、我が社ではDX(デジタルトランスフォーメーション)化することにより、顧客企業が業務の効率化や売り上げの拡大をできるように支援を行っています。また、創業者の私が引退しても成長できる次世代の経営者を育てていくため、若手に積極的に権限のある役職に就かせる取り組みを行っているのです。高学歴で勉強のできる若手もいいのですが、私は学歴がなくても地頭の良い若手を発掘していきたいと考えています。だから、我が社では採用方法の一つに“麻雀採用”というものも行っています。毎年この採用枠で8〜10人程採用しています。「麻雀好き集まれ!」と告知をし、我が社に入社したいかどうかはひとまず置いておいて、集まった若い人たちと麻雀を楽しむのです。麻雀をすると色々なことが分かるんですよ。「この人は気が短いな」だとか、「この人は勘が鋭いな」など、その人の本質が見極められます。また、麻雀が強い人は空気が読めて周りを観察できる人ですから、地頭が良いのでしょう。このようにできる若手を集めてどんどん重要な役職を任せ、自由にやりたいことができるようにしています。その方が若手の成長も速く、会社も大きく成長するのです。 ■大学生へのメッセージ 大学生の皆さんはとても頭が良く、優秀なのですから、是非ITを学ぶことで日本の問題点を改善していってほしいです。ITを駆使して一次産業や二次産業を活性化させ、未来に向けて日本の産業をより高めていってください。この先、何百年後における日本の未来は、一見自分に関係がないように感じている人もいるかと思います。しかし、皆さんの子供や孫には大きく影響してきますから、日本の未来は今生きる全ての人に関係することでしょう。若い頃は果敢に挑み、未来の日本を救う力を身につけてくださいね。 学生新聞オンライン2021年7月20日取材 津田塾大学 2年 佐藤心咲

神田理苑

株式会社東名 代表取締役社長 山本文彦

何事も形になるまで継続する このスタンスだけは忘れない ■プロフィール 1969年12月22日生まれ1993年4月 株式会社光通信入社1997年12月 株式会社東名三重(現 株式会社東名)設立、代表取締役社長就任2019年4月 東京証券取引所マザーズ市場及び名古屋証券取引所セントレックス市場へ上場2020年7月 東京証券取引所市場第一部及び名古屋証券取引所市場第一部へ市場変更 新卒で入社した会社で数字を追いかけて達成する大切さとポジティブな思考回路をもつ重要さを学んだという山本社長。当時の経験を経て現在は「お客様のハートを掴み続ける」ことに重きをおいているという。今回は仕事に対する考えや会社として求める人物像について伺った。 ■自分から一言目を発するだけで世界が変わる 学生時代はとにかくたくさんのアルバイトをしていました。うどん屋さん、ハンバーガー屋さん、ラーメン屋さんなど「まかないが出る」という理由で圧倒的に飲食店での経験が多かったですね。その中でも一つだけ変わったアルバイトをしていたことがあります。それは地元・四日市ならではといえるコンビナートの定期修理のアルバイトです。日払いで1万円というところに惹かれて始めましたが、どうせやるなら効率よくできたほうがいいと考えるようになり、担当の職人さんに「今日は何をやるのか」と自分から聞く習慣をつけました。業務内容を聞くことは何も特別なことではなく、今考えれば当たり前ですよね。しかし周りには確認する人はいなかったので、少し目立つ存在になったんです。指示待ちのアルバイトとは違い、主体性のあるところを評価していただき、職人さんから一緒に働きたいと指名を受けたりお給料が上がったりしました。自分が主体となり行動するということは普通のことですが、同時にとても勇気がいることです。ただそれができた時、自分を取り巻く環境は変わるということをこのアルバイトを通して身をもって感じられました。そういう意味で今振り返っても貴重な体験として記憶に残っています。 ■怒られた分だけ褒められた新入社員時代 アルバイトをしたりバイクに乗ったりする毎日を過ごしていた大学生時代ですが、将来に対するビジョンや挑戦してみたい仕事は全くありませんでした。自分が何に向いているかが皆目見当もつかなかったという表現のほうが正しいかもしれません。それでも大学を卒業したら働かないといけないわけで、大学4年生の12月から就職活動を始めて株式会社光通信に入社しました。1年目は営業を担当していたのですが、そこでは日毎・週毎・半月毎で目標件数を達成しているか事細かく確認されていました。達していない時はたいてい怒られるのですがノルマのない仕事はない、と頭では分かっていてもやっぱり辛いこともありましたね。ただ、出来ていないから怒られるのであって逆に出来ている時は褒めてもらえるんです。頭ごなしの否定はそこには存在しませんでした。周りに「君なら絶対出来る」と信じてもらっていたのでどうアプローチしたら出来るようになるのか、出来ている人に比べて自分には何が足りないのか、と立ち止まって考えられるようになっていきました。それまでなにか突出しているわけでもなく普通に過ごしてきたので、たいして自分に自信があるタイプではなかったんです。しかしここでの経験のおかげで、ポジティブな考え方や前向きな発言が身につきましたし、この思考を今も大切にしています。私の人生におけるターニングポイントと言っても過言ではありません。 ■目指したのは全てのお客様の全ての困り事を解決できる会社 前述の株式会社光通信では丸2年、お世話になりました。その中で、縦割りの業務もいいけれどもっと広い視野で課題解決をしてみたいと徐々に思うようになりました。コピー機や電話機、インターネット回線など同じ商材を扱う会社はたくさんあるので、お客様ときちんと信頼関係を築き、深い付き合いをしていないとより条件のいいところに奪われてしまうんですよね。それを防ぐためにどうしたらいいかを考えた結果、まずは地域密着で土壌作りをして日々の小さな問題解決も大口の機器の購入も何でも対応できるようになろうと思い独立を決めました。会社設立当初から心がけていることは「他との違いを相手が納得するまで説明したりその上で相手に選択してもらったりする」ことと「お客様からの依頼には何らかの形で必ず対応して断らない」ことです。これらを大切にし続けてきたから今の株式会社東名があるのだと思っています。そんな我社の強みは長年蓄積してきたデータベースの量と、新入社員には適性チェックも兼ねた1年間のJOBローテーション制度を取り入れているところです。 ■コミュニケーション能力は全ての根っことなる 会社として求めるのは、「人を喜ばせることが好きな人」「素直な人」「自分事化できる志向を持っている人」「結果へコミット意識がある人」「自分のストロングポイントをうまく表現できる人」という人財です。人を財産と考えているのであえて「人財」としています。これを踏まえた上で、私自身会社で働くために必要と感じるのはコミュニケーション能力ですね。これさえあれば相手の話や物事の本質を見抜くことができますし客観視できるようにもなります。この能力は最強の味方だと思います。 ■message 長く続けることがやっぱり楽しく働く基本だと私は信じています。ぜひ、学生の皆さんも少し格好がつくまでの2-3年は何事も継続してみることを意識してみてください。きっと良い展開が待っています。そして学生のうちから積極的に人と関わり、将来に向けてコミュニケーション能力を培っておいてほしいと思います。 学生新聞オンライン 2021年8月5日取材 日本女子大学 3年 神田理苑            

北島麗音

活躍女性議員特集

自民党を変革し、日本の飛躍を図る10人の女性リーダー。 『女性議員が永田町の壁を砕く!』の出版記念に大学生へのメッセージをいただきました。 『女性議員が永田町の壁を砕く!』 自民党・女性議員飛躍の会 (著) 成甲書房 「自民党のおじさん政治をぶち壊す! 」 世界経済フォーラム(WEF)の2020年報告書で「ジェンダーギャップ(男女格差)世界121位」と過去最低の日本。 この現状を打破するため、「自民党を変えて、日本を変える! それができるのは女性」をスローガンに活動する、自民党内の議員連盟「女性議員飛躍の会」の有志メンバー10人による、女性活躍への道筋を示す政策提言書。 目次 稲田朋美―多様性のある真の保守政党を目指して 自民党の風景を変えて、日本の風景を変える 佐藤ゆかり―新時代「ビヨンド・ゼロ」に向かって世界をリードし、地球危機を救う日本の決断 永岡桂子―主婦の目線で日本の政治を改革する 猪口邦子―軍縮と平和、そして男女共同参画社会の実現を目指して 森まさこ―誰もが可能性を伸ばせる社会の実現を目指して 太田房江―女性の「俯瞰する力」が新しい時代を作る 高橋ひなこ―『身土不二』。農業を守り、暮らしと日本の安全を守る 尾身朝子―様々な経験を活かして国政に臨む 杉田水脈―日本の名誉と未来を守る 鈴木貴子―地域から日本の政治を考える 稲田朋美 福井県越前市生まれ。早稲田大学法学部卒業。弁護士。衆議院議員(5期目)。 行政改革担当大臣、自民党政調会長、防衛大臣、自民党幹事長代行等を歴任。 現在、法務委員会筆頭理事。初代自民党女性政策推進室長、自民党整備新幹線等鉄道調査会長。 自民党若手保守政策集団「伝統と創造の会」会長、自民党女性議員による「女性議員飛躍の会」共同代表。 趣味はランニング。 ※プロフィールは2020年10月時点 https://www.inada-tomomi.com 私は、弁護士として約20年間、特に歴史認識に関する裁判を通して、日本をよりよくするための活動をして参りました。そして、2005年の郵政解散のときに、当時幹事者代理だった安倍総理からお誘いをうけ、自民党の候補者になりました。しかし、その時、既に選挙まで残り1ヶ月足らず。普通なら立候補はしないという通常の判断ですが、私の信念は、「進むか止まるか、迷ったら進む」。失敗しても、それは大きな財産になるだろうと思い、挑戦することにいたしました。 女性の政界進出に関しては、厳しい現実を目の当たりにしてきました。しかし、今の私には、共に戦う女性の同志がいます。先輩議員は、1人で、孤独に戦っていらっしゃいました。今も、活動内容によっては孤独な戦いになってしまう場もありますが、同じ党内に仲間がいる、これを心の支えに、更に邁進していきます。 学生の皆様には、人が笑うほどの大きな目標を持っていただきたいです。人間、望んだ以上のものにはなれません。夢は大きく持って、けれども足元は着実に、一歩一歩、しっかりと歩んでください。そしてチャンスがあれば、それを決して逃さずに、つかみとる。迷ったら進む。明るい未来に向かって、突き進んでください。 (慶應義塾大学4年 小川淑生) 佐藤ゆかり 自民党政務調査会経済産業部会長。経済学博士。環境副大臣、総務副大臣、経済産業大臣政務官なども務めた。コロンビア大学政治学部卒、同大学院国際関係学科修士号、ニューヨーク大学経済学博士号取得。シティグループ証券エコノミスト、JPモルガン証券シニアエコノミスト、クレディスイス証券経済調査部長。日本経済の主要エコノミストランキング全米第2位獲得。経産省産業構造審議会委員、財務省主税局税制問題研究会委員等も歴任。衆参勤続15年、現在大阪11区(近畿ブロック選出)・衆議院議員。国益のため堪能な英語で経済交渉にあたる新しい保守政治家。※プロフィールは2020年10月時点 学生の皆様が日本の未来を作る担い手ですので、学生のうちに起業するなり独立するなり、大いにチャレンジして欲しいと思います。今の学生さんはおとなしいですね。私が学生だったアメリカ留学時代を振り返ると、当時のアメリカでは、学生は学費をアルバイトして自分で払い、親から独立して起業したり、本当に活発でした。また、私はスイス、フランスにも留学しましたが、転じてヨーロッパの学生さん達は政治意識がとても高かったと記憶しております。そもそも留学しようと考えたのは、こうした海外の学生のように意識が高く、狭い既成概念にとらわれない人間が日本人にも必要だと考えたからです。留学を契機とし、日本人としての視点だけではなく、幅広い視点を持ち、地球を俯瞰して物事を見ることのできる人間になったのではないかと思います。世の中には、非常に多くの「女性」が、しなやかさと芯の強さの両方を兼ね備えて活躍されていると感じます。残念ながら、政治や経済の世界では、その美点を十分に発揮しきれていない女性がまだまだ多いようです。もっとたくさんの女性が積極的に政治や経済などに関わって、その中でも特に若い皆さんがもっと力を発揮しやすい、生きやすい日本を創りたいと感じております。(日本大学3年 大橋星南) 永岡桂子 農林水産政務官、厚生労働副大臣、文部科学副大臣、自民党副幹事長を歴任。自民党母子寡婦福祉対策議員連盟会長、衆議院消費者問題に関する特別委員会与党筆頭理事として、農業、医療・労働、教育、ひとり親家庭、消費問題など生活に密着した日常の問題一つ一つに取り組む。令和2年10月~衆議院消費者問題に関する特別委員長※プロフィールは2020年10月時点 https://keiko-nagaoka.jp 私が学生だった頃は、男女の就職率の差が大きく、女性の生き方は限られていました。中には、女性の中でも社会に出て頑張っている方はいましたが、ほとんどの女性が大学を卒業したら、家事や家業の手伝い、あるいは専業主婦となることが当然のような環境でした。現在は、男女が平等に社会に出て働き、家事・育児を行っていこうという社会に徐々に変わりつつあります。これからはより一層男女関係なく働きやすい環境を作り、男女ともに主体的に家事・育児を行い、夫婦が一緒に家庭を築いていくことが重要になるということを若い方にもっと知って頂きたいと思います。女性も男性も手をつなぎあって、共に家庭を支えて素晴らしいものにしていくことを考えて、生きていってください。今後の日本を作っていくのは、今の日本の若い方たちです。ぜひ頑張ってください (日本大学3年 大橋星南) 私は大学で教鞭を取っていた時に、卒業し、就職した女性たちが結婚で職場から離れた後、職場に戻らない人がほとんどであるのを見て、どうにかしたいと思ったのがきっかけで政治家になりました。大学生の今だからこそやっておいて欲しいことは、やはり勉強です。勉強出来る時間は人生において意外とそんなに長くない。だけど、学んだことは、確実に人生の役に立ちます。特に英語を勉強してください。これからはますます英語が話せる人が仕事の場でトップに立っていくようになりますから、今なら、まだ、ネイティブのように話せるようになるはずです。英字新聞を読んだり、英語のニュースをシャドーイングしたり、出来ることはたくさんあります。1分の無駄も作らないつもりで学んでください。さらに、日本語の文章力を上げることも怠らないで欲しいです。やはり、基礎力が大切です。紙の本をたくさん読んで、豊かな表現に触れて自分のものにしてください。 (東洋大学1年 濱穂乃香) 森まさこ 参議院議員 福島選挙区 当選3回 自由民主党 現在、法務大臣 昭和39年福島県いわき市生、いわき市立植田小・中、福島県立磐城女子高、東北大学法学部卒。 弁護士。米国NY大学法科大学院客員研究員(消費者保護法) ・金融庁課長補佐・検査官、元国務大臣、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全、少子化対策、男女共同参画)、参議院行政監視特別委員長・環境委員長○自民党副幹事長・法務部会長・環境部会長  ※プロフィールは2020年10月時点  https://morimasako.com/ 私たちが「女性にとってよりよい社会」を目指しているのは、女性だけを優遇するためではありません。「女性にとってよりよい社会」を目指すことによって、その他の社会的に弱い立場にある方々にとってもよりよい社会を作り、結果、全ての方々にとってよりよい社会作りに繋がると考えております。 このよりよい社会を作るためにも、皆様にもっと選挙に参加していただきたいです。特に若者の皆様にとっては、政治が遠い存在のように感じられると思います。しかし、電車、スーパー、飲食店、そんな、皆様の日常に根差したものも、政治の影響を受けているのです。皆様の求める社会を実現するためにも、まずは選挙に行っていただけますと幸いです。 その他の面に関しましては、細やかな感謝の気持ちを忘れず、かつ、それを伝えてほしいです。例えば、お母さんにお弁当を作ってもらったら「おいしかったよ」って言うとか。そういう当たり前のことが、社会に出てから凄く大事になってきます。 (慶應義塾大学4年 小川淑生) 太田房江 東京大学経済学部卒業後、通商産業省(現経済産業省)入省。 岡山県副知事、通産省大臣官房審議官を経て、2000年、大阪府知事選で初当選(全国初の女性知事)、2期8年府知事を務める。 知事時代の2007年8月、関西国際空港第2滑走路を完成。関西のゲートウエイとしてインバウンド増加の起爆剤となった。 2013年参院選で初当選(全国比例代表)。厚生労働大臣政務官、自民党女性局長などを歴任。2019年参院選で再選(大阪選挙区選出)。2020年10月 参議院文教科学委員長に就任。※プロフィールは2021年1月時点 http://osaka-fus.com 私が大学生の頃は、女性は結婚して家庭におさまるのが一般的で、私自身、主婦になることに対する憧れがありました。ただ、私が通っていた東京大学には法学部、経済学部合わせて女性が10人しかいなかったのですが、その女性たちはとても意識が高く、彼女たちに触発されてキャリアをスタートさせました。当時は男性中心社会で、女性が活躍できる場はほとんどありませんでした。働くことができても、 ”男性のように考え行動する”ことが求められました。今は当時より、女性が働きやすい社会にはなってはいると思いますが、男女差のない社会と言い切ることはできないでしょう。若い世代には政治に興味をもってもらい、更には、目的意識を持って、道を切り開くつもりで政治に参加してくれるといいなと思います。また、女性は男性と同じように行動することを目指すのではなく、女性であることをプラスにして、感性を大切にしていって欲しいです (東洋大学1年 濱穂乃香) 高橋ひなこ 経歴:日本大学芸術学部放送学科卒、テレビ岩手アナウンサー、盛岡市議、岩手県議、...

知事

佐賀県知事 山口祥義「佐賀さいこう!」フラットで多様性のある街を創りたい

■プロフィール 東京大学法学部卒業後、旧自治省入省。内閣安全保障・危機管理室では災害現場の最前線を指揮。過疎対策室長として過疎問題に正面から取り組み、秋田県、鳥取県、長崎県など地方自治体での豊富な経験を有す。JTB総合研究所、ラグビーW杯2019組織委員会、東京大学教授など民間等でも活躍。2015年1月佐賀県知事に就任(現在2期目)。 学生時代から“やらない後悔よりやる後悔で”様々なことに挑戦してきたという山口知事。“人のためになるような仕事をしなさい”という言葉を受け、官僚の道に進み、現在は佐賀県知事として時代にマッチした取り組みを数多く打ち出している。佐賀県民のために行動し続ける山口知事の経験を伺った。 ■迷ったら常にやるほうを選んでいた学生時代 “やるかやらないかで迷ったら常にやるほうを選ぶ”と決めて行動していました。当時資本主義経済が入る前の中国に1か月以上滞在したり、砂漠の中で車が動かなくなったり、沖縄に予備校の先生をしに行ったりと、色々なチャレンジをしていました。芸能プロダクションでアルバイトをしていて、大学の文化祭では、お笑い芸人や歌手を招いたステージをセッティングしたり、広告研究会で活動したりしていました。そういった活動を通して、“仲間と一緒にいることの素晴らしさ”を学びましたね。 ■“人のためになるような仕事をしなさい”と言われた 芸能の仕事に携わっていたので、将来はマスコミ関係へ進もうかと思っていました。しかし、ある著名な方とランチをしたときに「山口君は人のためになるような仕事をしなさい」と言われたことがきっかけで、人生太くありたいと考え、また、 何をすべきなのかを考えるようになりました。そして、その頃、友人の父親がある県の知事をしていて、たまたまその方と食事をする機会があり、はじめて自治省(現総務省)という役所があることを知りました。ここなら若いうちから色々な県に転勤して挑戦していくことができると思い、自治省に入って官僚の道に進むことを選びました。 ■かけがえのない経験を積んだ官僚時代 キャリア官僚は霞が関で仕事をするのが一般的ですが、私の場合、現場の最前線で多く仕事をしました。茨城県東海村の原子力事故や、新潟中越地震、有珠山の噴火の際も現地に駆け付け、現場の調整役として奔走しました。また、知事になる前は官民交流でJTBに出向したり、ラグビーワールドカップの組織委員会として全国各地を訪れ、開催を呼びかけていました。そんな中、49歳の時、縁あって、佐賀県知事選挙に出馬しました。もともと住民から愛されるリーダーになってみたいという思いがありましたが、出馬を決めたのは選挙開始日の13日前。既に有力候補もいて劣勢でのスタートでしたが、官僚時代に幅広い仕事に従事していた経験も活き、多くの方々の力で当選することができました。 ■色々な人が共存できる街を作りたい 知事になってからは、みんなが自然体で心地よく暮らしていければいいなという思いから、“さがすたいる”というプロジェクトを立ち上げました。障がい者は障がい者だけのコンサートを開くといった様に、特定の人を区別するようなやり方ではなく、高齢者も外国人も障がい者もみんな同じ空間で一緒に共存できるような人にやさしい街を目指しています。また、LGBTの方々のパートナーシップ制度も 作る予定で、受容性のある地域社会をつくっていきたいと考えています。 ■県民のニーズに沿った取り組みが数字として表れる 私自身、普段から色々な場所を訪れ、県民の皆さんの普段の暮らしを拝見したり、直接声を聞いたりしています。例えば、“子育てし大県さが”プロジェクトは「まず私たちに子育てをしたいと思わせて」という県民の声を受けて始動しました。県立図書館では新刊児童書を全冊購入しており、子どもたちの志を育む教育を充実させたりしながら、子育てが楽しいと思うフィールドづくりに力を入れています。昨年は全国イクメンランキングで第1位に輝きました。また、私自身が妊婦さんたちの大変さを体験した動画は、世界中で3500万回を超えて再生されるビックヒットになりました。さらに、知事就任以来 “佐賀さいこう!”という掛け声を広げており、今では、地元新聞のアンケートでは、県民の約9割が「佐賀が好き」と回答されていることは本当に嬉しいです。 ■県民ファーストで手厚い対応 昨年から続く新型コロナ感染症対策は、当初から、「先手先手」の姿勢で力を入れてきました。佐賀県は、感染者の自宅療養者はゼロ、ワクチン接種率のトップランナーです。離島で感染者が出た時も、迅速にヘリコプターで医療従事者を運び感染拡大を抑えました。また、7つある離島の16歳以上の希望者全員が、2回目の接種を終了しています。私自身、毎日、感染された方々がどのような状況にあるのか、一人ひとりチェックするようにしており、地方だからこそできる迅速で手厚い対応を心がけています。 ■県庁づくりへのこだわり 新しい社会をつくるには人と人との間で生まれるイノベーションが大切だと思っています。そのために佐賀県庁では積極的に中途採用をしていて、行政職員に占める中途採用の割合は全国平均が3%であるのに対して、佐賀県は12%にも上ります。公務員集団ではなく、色々な社会経験を積んだ人たちを採用しているので、頭の柔らかい人たちが多いです。最近はアニメやゲームとコラボしたコンテンツが10代20代の間でヒットし、若い人の間で佐賀に移住したいという人が増えています。今後も色々な民間企業などとコラボレーションすることで多くの人達に佐賀の魅力を伝えていきたいです。 また、佐賀県庁では嘘をつかないということも大切にしています。行政機関での忖度問題が話題になったりもしますが、少しでもごまかしがあると、後で辻褄を合わせるために多くの職員が辛い思いをして、県民の不信感が高まってしまいます。当たり前ですが、間違っていたら素直に謝り、正していくことで今後も信頼を積み重ねていきたいです。 ■学生へのメッセージ 何かを選択するときは、自分自身と相談して決断していくことが大切です。なぜなら周りの意見をもとに自分自身の選択をすると、何か辛いことがあったときに他人のせいにしてしまうからです。自分で責任をもって選択していくことが人生をよりよく歩んでいく秘訣だと思います。ピンチの裏に必ずチャンスがあるので、全てが糧になると思って頑張ってください。 学生新聞WEB2021年7月8日取材 国際基督教大学 4年 鈴木菜桜

芸能人

髙石あかり  他人と比較しない、私の人生を自分の色に染める

■プロフィール 2002年12月19日生まれ。宮崎県出身。2016年にダンス&ボーカルグループのメンバーとしてデビュー。卒業後、女優活動を本格化。2020年舞台「鬼滅の刃」で竈門禰豆子役に抜擢され話題を集める。映画「とおいらいめい」(大橋隆行監督)など公開作も控えるほか、AbemaTVで放送中の「箱庭のレミング-私刑俱楽部-」にも出演。2021年8月には再び「舞台『鬼滅の刃』其ノ弐 絆」の竈門禰豆子役として出演。本作で映画初主演。 舞台や映画などで活躍の場を広げている髙石あかりさん。7月30日に公開される映画『ベイビーわるきゅーれ』では、映画主演で、女性の殺し屋を演じた。殺し屋の映画では珍しい、10代の女性の殺し屋2人によるド派手なアクションが魅力的な本作の見どころと、彼女の女優としての今後の展望を伺った。 ■保育園時代から憧れ続けた女優業 「女優さんになりたい!」と思い始めたのは、保育園生の時でした。そのきっかけは、当時放送されていた「花より男子」です。このドラマを見て、普通だったら主人公の牧野つくしちゃんになりたい!と考えると思うんですが、私の場合は井上真央さんの「女優」という職業に惹かれてしまい、この頃から女優になることを夢見ていました。特に保育園の周りの友達はお花屋さんとかになりたい子が多い中で、私1人だけ女優になりたいと言っていたのでとても目立っていたそうです(笑)。いつも元気溌剌で体を動かすのが好きなタイプで、小学校3年生からはダンスを始めました。そこで入所するきっかけとなったavex主催のコンテストのポスターを目にしました。両親が応募することを認めてくれたこともあり、2014年のavexキッズコンテストに参加し芸能界へ。2016年にダンス&ボーカルグループのメンバーとしてデビューし、グループ卒業後に、夢だった女優活動を本格的に開始しました。 ■役のスイッチが入った瞬間が本当に楽しい! 女優としてお芝居をしていて、時々役に入り込んでしまい、周りが見えなくなる瞬間があります。自分ではなくなって、コントロールできなくなってしまうくらい役になりきってしまう、その瞬間が本当に楽しくて。「この感覚をまた味わいたい!」と思ってお芝居をしています。また、日常生活の中に、演じた役柄が入り込んでしまうこともありました。その時は自分でもびっくりして、少し怖くなりました(笑)。女優というお仕事をしていく中で辛いと感じることもありますが、それを辛いと考えすぎず、楽しんでやることに重きを置いてお仕事しています。どんなことでも、楽しんでやりたいです! ■映画初主演!「ベイビーわるきゅーれ」 本作では、殺し屋のちさと役を演じました。相方のまひろ役を演じた伊澤彩織さんと監督とは、以前、別の映画でもご一緒させて頂いたので、主演が決まったときは嬉しさと楽しみな気持ちでいっぱいでした。ちさとと私自身は、ドライな部分や明るい部分など、自分でも「よく似ているな」と共感できる点が多く、演技も素でやっていることが多かったです。殺し屋の役作りは、銃の持ち方がわからないところからのスタートだったのでとても難しかったです。特に、ちさとは銃が好きで扱いに慣れている子だったので、観客の方が銃を持っていることに違和感を感じないように、撮影の合間は常に銃に触れているようにしました。 本作の見どころの1つでもあるアクションシーンは、限られた時間の中で練習をしました。構え方ひとつで見え方が変わってきてしまうので、構え方の練習はもちろん、銃を撃った時の反動は実際にどういった動きになるのかを細かく学びました。また、まひろ役の伊澤さんはプロのスタントウーマンの方なので、コツを教えてもらいながら撮影に臨みました。 ■本作では、「殺し屋」のイメージを覆すかわいさに注目! この作品は、高校を卒業した2人組の殺し屋ちさととまひろが、殺しの仕事を続ける一方で、社会人として社会に出て、あらゆる社会の理不尽な事に揉まれていき、成長したり、成長しなかったりする物語です。 殺し屋の映画というと、怖いイメージや暗いイメージがあると思うんですが、『ベイビーわるきゅーれ』は、そんなイメージを覆すかわいい作品になっています。特にちひろとまひろ、2人の対比するキャラクターがとても面白く、突然社会に適合しなければならなくなった2人が、社会に揉まれて成長していく姿にどこか共感を覚えて頂ける部分があるかもしれません。学生から社会人になる、みんなが通っていく道だからこそ、いろいろな人の心に刺さる作品だと思っています。 ちひろとまひろの過去と未来のエピソードは、あえて描いていおらず、映画を見てくださった方々には2人の過去に何があったのか、なぜ殺し屋になったのかなど、ぜひ想像しながら見ていただきたいです。 あと、今回、映画の挿入歌「らぐなろっく〜ベイビーわるきゅーれ〜」も歌わせて頂きました! 曲も併せて、映画を楽しんで頂きたいです! ■今後もいろいろな役を演じてみたい 今までは舞台に出させていただくことが多かったのですが、「ベイビーわるきゅーれ」を通して、今後、映像作品でいろいろな役をやってみたいとより強く感じました。特に自分と反対の性格の、物静かな役を演じてみたいです。普段は静かだけれどかっこいい、まさにまひろのような役に興味があります!また、本作のようなアクション系にもどんどんチャレンジしていきたいです。そしていつかは私の憧れの女優である、満島ひかりさんや石原さとみさんと共演させて頂きたいです。お二人との共演を夢見てこれからも頑張っていきます! ■大学生へのメッセージ 「誰かと自分を比較しないで」 学生から社会人になるとき、環境がガラリと変わります。実際に私自身も社会に出て感じることは、学生時代は無意識のうちに甘えていたなということです。高校を卒業して女優という仕事をやっていく中で、学生時代はとても価値のある大事な時期だったのだと気づきました。だからこそ、今を大事にしてください。自分が感じていることを無理に誰かと比較しないで、素直に、あなたらしく、自分の考え方そして人生を大事にしてほしいです! 学生新聞オンライン2021年6月1日取材 文教大学 3年 坂本鈴佳 ヘアメイク:西田美香(atelier ism®)(c)2021「ベイビーわるきゅーれ」製作委員会 映画「ベイビーわるきゅーれ」 「殺し屋の映画」=暗い?殺された妻の復讐?「明るい殺し屋映画」があってもいいじゃないか! 社会不適合者な“元女子高生”殺し屋コンビが頑張って社会に馴染もうと頑張る異色の青春映画が誕生! 「ファンタスティック映画の新旗手」監督・脚本:阪元裕吾「すじぼり」「ハングマンズノット」「ある用務員」「黄龍の村」         ×業界最注目の新人女優:髙石あかり舞台「鬼滅の刃」竈門禰豆子役         ×女性スタントアクションの異端児:伊澤彩織 NHKちょいドラ「斬る女」ヒロイン「新宿スワン2」「キングダム」「るろうに剣心」 女性とて侮れない、本格的なアクションシーンと、今の時代ならではの、若い世代の考え方や価値観が散りばめられた物語の、新しい映画が誕生!

川浪亜紀

前田旺志郎 俳優は人間力が試される仕事。だからこそ、自分を磨き続けたい

■プロフィール 2000年生まれ。大阪府出身。2007年から兄の前田航基とともにお笑いコンビ「まえだまえだ」として活躍。2021年は連続テレビ小説「おちょやん」(20/NHK)に出演し、注目を集めた。公開待機作に『キネマの神様』(21年8月6日公開/山田洋次監督)、『うみべの女の子』(21年8月20日公開/ウエダアツシ監督)、『彼女が好きなものは』(21年秋公開/草野翔吾監督)などがある。 小学生の頃からお笑い兄弟コンビ・まえだまえだとして多くの番組に出演し、M-1グランプリ準決勝進出も果たした経験を持つ前田旺志郎さん。現在、俳優として活躍する前田さんに、芸人として活躍した幼少期の思い出や役者としての魅力、そして今後の展望について、生き生きと語ってもらった。 ■まえだまえだとして活動した幼少期  子供の頃から明るいタイプでした。友達とワイワイ遊んで、いつもふざけていて。3歳の頃、何をやっているのかもわからず、養成所に入りました。完全に兄の影響です。弟ならではの「兄がやっているものは自分もやりたい!」という(笑)。自分の中では「仕事」というよりは、完全に習い事という感覚でした。ある時、漫才を教わる授業があって、そこで僕と兄と先生とで協力して1本のネタを作ったんです。活動をしていく中で、「やるからには出てみたい」という気持ちでM-1グランプリにも出場しました。準決勝まで進んだことをきっかけに、テレビに出させていただく機会が増えました。忙しくて学校に行けない日もありましたが、行けるときはきちんと通って友達ともしっかり遊んでいました。当時は、仕事も学校もとにかくずっと楽しかったです。ただ、大人になってからもこの仕事をしようとはまだ思ってなかったです。 ■高校進学時に、役者の道に進むことを決めた  実は、芸能界で頑張っていこうと覚悟を決めたのは、高校進学のときです。それまでは、基本的に頂いた仕事をただ楽しくやっている感覚が強かったんです。しかし、高校に進学する時に直面したのが、大阪と東京のどちらの高校に進むかという問題でした。俳優をちゃんと続けるのであれば東京の学校に進むべきですが、大阪の学校で旧知の友人たちと楽しく学校生活を送りたいという気持ちもありました。東京に行って活動するとなると、やはり今までの取り組み方ではダメで、覚悟を決めてやらなくてはいけないのだろうとも感じていました。その時に初めて、自分の将来について向き合い、「俳優の仕事を頑張ろう」と決めて、東京の学校へと進学しました。 ■大学へ進学したのは、自分の選択肢を増やすため  その後、大学へも進学しましたが、それは「役者という仕事しか知らないのはもったいない」と思ったからです。もちろん、役者だけに専念する道もありました。でも、役者の道では、仕事の中では演者さんや演出家さん、技術さんなど、制作する側の人たちとしか触れ合うことができません。それでも素敵な出会いはありますが、自分はできるだけ色々なことに触れて自分の視野を広げたい。だからこそ、大学へ進学しました。 今は役者を続けていきたいと思っていますが、一生この仕事を続けていくかはわかりません。一番初めに出会った職業が役者であっただけで、他にやりたいことが出てくるかもしれません。だからこそ、多くの人や職業を知って、それでも役者をやりたいと思うのか、選択肢の中から選ぶことはまた何か違ってくるのではと思ったんです。 僕の通っている学部は、本当に色々な方向で頑張っている人がたくさんいて、芸能活動もその一つの活動として応援してくれる人が多いです。また、尊敬できる刺激的な人たちに囲まれながら大学生らしく生活できることは幸せですし、この環境を選んで良かったなと思っています。 ■「ただそこにいるだけ」の芝居ができたら、最強  一昨年、初めて「最貧前線」という作品で舞台に出演しました。ドラマや映画の撮影をするときは撮る順番がバラバラなので、そのシーンを成立させるためにどう演じるかということを考えていたのですが、舞台はお客さんの目の前で、区切りなく最初から最後まで演じます。そのため、その人がどんな人で、物語の中でどう生きているのかを一貫して考えて演じることが必要でした。舞台出演を通じて、自然とその感覚を意識できるようになったのは、大きな経験だったなと思います。 俳優というお仕事は、その人の個性や人間性が出るお仕事です。もちろん努力や経験も必要ですが、俳優としての経験より人間としての「人間力」が出てくる部分が大きいのではないかと。だからこそ、自分の生きてきた20年間を信じ、自分が現場を経て、学んだ知識や経験から感覚を磨き、表現していくことが一番なのかな、と思っています。 一方で、僕は演技する上で自分を表に強く表現しようとしていません。大切なのは、そのシーンにどれだけ自分が馴染めるか、そのシーンに存在できるかということ。いかに意識の外側で意識できるか。「ただそこにいるだけ」の芝居をできたら最強じゃないかと思っています。決められたセリフも、その場にいる人間として自然に発せられる役者になりたいです。そのために、よくやるのが、現場をプラプラ歩くことです。たとえば、いまは学生の役が多いのですが、その教室や学校のことをきちんと知れていないと「ただその場にいる」のが非常に難しい。だから、先に学校を散歩したり、教室の中身を見ておいて、体を使って視覚的に想像して、その場に馴染む努力をしています。 ■10年後も芝居を楽しむために、上のレベルを目指す  今はまだ、「将来はこうありたい」という明確な目標があるわけではありません。今は、お芝居をすることが本当に楽しいんです。お芝居をしているときが、自分自身が一番生き生きしていると感じますし、その状態でいられることは本当に幸せなこと。だから、死ぬまでずっとこの状態が続いたらいいな、という考えは漠然とあります。しかし、10年後も今と同じように楽しく仕事するのは、今の技量のままだったら絶対できないと思います。だからこそ、自分が芝居を楽しむための努力はしていきたいですし、もっと役者というお仕事と真剣に向き合って上のレベルを目指していきたいなと思います。 ■大学時代こそ、「自ら経験を掴みに行く努力」を  僕自身も心掛けていることですが、大学生のうちにたくさんの経験や、試行錯誤を繰り返してほしいです。大学生活は自分から貪欲に何かをしないとあっという間に終わってしまいます。また、大学生というだけで力を貸してくれる大人はたくさんいますし、若さや情熱があれば、味方してくれる人はたくさんいます。だから、今しかできないこともたくさんあると思うんです。大学生活の間にできるだけ自分の足を使って、自分から経験を取りに行くという気持ちを持ち、自ら経験を掴みに行く勇気を出してほしいです。 学生新聞オンライン 2021年4月11日取材 津田塾大学 4年 川浪亜紀  ~松竹エンタテインメントからのお知らせ〜 松竹グループ合同女性オーディション『松竹 JAPAN GP GIRLS CONTEST』開催決定! 次世代のTV・映画・演劇をはじめとしたエンタテインメント業界を担う女性を『発掘』『育成』『発信』していく松竹グループ一大プロジェクト 募集ジャンル:女優・モデル・タレント・声優 募集条件:13歳~24歳(2022年4月1日時点)※特定のプロダクションに所属していない方に限る。 審査スケジュール:エントリー 2021年6月1日(火)~7月11日(日) 詳細はWEBサイトをご確認ください。https://www.shochikugeino.co.jp/shochikujapangp2021/

宮田紋子

立憲民主党所属の衆議院議員  立憲民主党副代表 同大阪府連合代表  辻...

ピースボートの運営で知った「夢」を持つことの大切さ ■プロフィール 1960年奈良県生まれ、大阪育ち。早稲田大学教育学部卒業。学生時代にNGOを創設、世界60カ国と民間外交を進める。1996年、衆議院選挙にて初当選。2009年 国土交通副大臣、2011年 災害ボランティア担当の内閣総理大臣補佐官、2017年史上初の野党第一党の女性国対委員長を歴任。現在、立憲民主党副代表。 やりたいことは、行動に移すこと。若者に宛てたこの言葉は、衆議院議員の辻元清美氏の「これまで」を物語っていた。大学では国内外の諸問題に向けたNGO団体を発足後、まさかの船で国際交流。卒業後には時代の潮流を問わず、新しい仕事の分野として開拓。その延長にあった議員としての国際化に向けた取組みについて伺った。 ■教科書問題への問題意識から立ち上げた、NGO団体「ピースボート」 社会科の先生を目指していた大学時代、私にとって非常にショックな出来事が起こりました。1980年代に起こった教科書問題について、理解できなかったことです。当時、歴史の教科書において、世界大戦時の日本政府の行いに関する記述が問題視されていたのですが、私はこうした歴史認識について何も知りませんでした。それを機に立ち上げたのが「ピースボート」でした。これは平和・民主主義・人権問題など様々な社会問題をテーマに、各国の現地で国際交流をするというNGO団体です。東西冷戦の時代に東西の壁を近くし、最初に風穴をあけるべく、全力を尽くしました。戦後のカンボジアへ援助物資を運んで女性支援をしたり、抗生物資をパレスチナへ送るために、東西冷戦時代に、西側諸国のベトナムやカンボジアに船を入国させたり、時には韓国に行った船で北朝鮮へ行ったりと、様々な活動を行いました。現在、ピースボートは、今や国連の特別協議資格を持ち、核兵器の禁止・廃絶に向けて活動するNGOの連合体「ICAN」に加わって、ノーベル平和賞を受賞するに至っています。学生4人から始めたサークルがここまで成長するとは、いまだに感慨深いです。 ■NPOの法的ステイタスの確立のため、議員を志す しかし、1980年代当時、環境や人権問題を取り扱う社会事業が主流となる欧米の波に、日本は未だ追いついていませんでした。私たちは、ピースボートを社会事業の草分け的存在として成立させようと手探りでやっていましたが、特に大変だったのが費用の調達と世間の信用を得ることでした。ピースボートは「世界一周旅行」でも知られていますが、初めての世界一周には15億円近くもかかり、借金をすることもありました。より安く船を借りるために、ギリシャやウクライナなど各国へ交渉しに行きましたが、株式会社でもないため信用を得るのは大変でした。最初のギリシャの船主との交渉も、浴衣を着てアテネへ行くというアタックを繰り返して、ようやく成立しました。また、阪神淡路大震災におけるボランティアでは、当時の日本では非営利団体への信用が乏しく、怪我をしても保険が効かないというのが現状でした。そこで、「日本にも欧米のNPO法のように法的なステイタスをどうにかして作りたい」と考えたのが、議員になったきっかけの一つです。実際に当選後には、NPOという言葉すら日本になかった時代に議員立法として成立させることが出来ました。  ■「やらずに後悔するより、やって後悔」を選択。そして議員に。  議員になったもう一つのきっかけは、当時日本で初めての女性の衆議院議員議長になった土井たか子さんから、立候補の要請を受けたことです。日本では女性議員が少ないため、女性代表としてこれまでの経験を政界で活かして欲しいとのことでした。世襲議員でもなければ、お金は一文もなく、最初は躊躇いもありました。でも「やって後悔した方が自分で納得がいく」と、要請を受けた翌日にはもう、中立的存在であったピースボートを辞め、決断していました。選挙がすでに1週間前に迫っていたからです。これを踏まえ、若い方には人生の転機があった時には、「迷わずにやる」ということを伝えたいです。若ければ、失敗をしてもまだやり直せます。そして考えるのは一時間だけに。1日中考えると、失敗が恐くて、挑戦をやめてしまうことがあるからです。  ■政治家になって痛感した、現場の声に耳を傾けることの大切さ NPO法の立法の他、阪神淡路大震災の被災者と共に被災者再建生活支援法を作りました。かつては、災害で家が全壊しても「私有財産だから」という理由で国から1円も保証されなかったのですが、その状況を変えたことで、東日本大震災や集中豪雨時の被災者救済に役立てることができました。その後、震災を受け、命を守ることも政治の役目だと思うようになり、防災士の資格も取り、災害対応に取り組んでいます。また、政治家として活動する一方で、介護ヘルパーの資格も取りました。議員にとって大切なのは、直接現場を知ることです。高齢化社会になり、誰もが自分でなくとも親の介護など、誰しも介護の必要可能性が出てくる現在、現場を知る必要性を強く感じたからです。 ■誰もが生き方を選択できる、男女平等の社会に向けて 現在、私が取り組む課題のひとつが、選択的夫婦別姓です。オリンピック参加国206カ国のうち、法律で結婚後にどちらかの姓に決めなくてはならないのは日本だけで、夫婦別姓が認められないのは国際的に見て非常識だと思います。“家”同士の結婚が当たり前だった時代は過ぎ去り、現在は、結婚後に専業主婦ではなく、働く女性も増えてきています。今後は姓を国ではなく、家族や個人が決めるという選択肢を増やすべきだと考えます。また同性婚の実現に向けた取り組みも進めています。台湾ではデジタル担当大臣のオードリー・タン氏がトランス・ジェンダーを公言したり、ニュージーランドでは少数民族や移民出身者の閣僚の数を決めているのに加えて、男女同数も導入されています。こうした各国に倣い日本も多様化を尊重すべきと考えています。さらに、働く女性の雇用形態、給与の現状から、意思決定の場に意識的に女性を取り込むという風潮が必要だと考えます。実際に男女が同じ人数だけ意思決定の場にいる国では、情報公開度が高く、社会保障政策も進んでいます。これは結果的に老後の安心、経済循環、財政赤字の減少にも繋がっていきます。ただし、どこの国も初めから男女平等が実現していたわけではなく、一定の割合で女性を取り入れるクオータ制などで徐々に実現してきています。私もこのような男女同数の平等な議会の成立や少子化問題の解決に向けて、今後も活動していきたいと考えています。 ■「今を生きること」を大切にしてほしい 大学生へのメッセージとしてお伝えしたいのが、「いくつになっても夢を持とう」ということ。ある一定の歳になると「現実を見なさい」と言われるかもしれません。でも、いつまでも夢みたいなことを言い続けるのには、エネルギーがいるんです。このエネルギーを持ち続けるうちに、夢は言葉になり、言葉が意志になる。やがて意志が行動を生み、行動が連帯を生む。このプロセスの大切さを、ピースボートを運営する中で気づき、信じてきました。今後もこのプロセスを追い求めていく人でありたいし、みんなにもそうであって欲しいと思っています。例え夢がまだ無くとも、「今を生きるということ」を大切にして欲しいです。今を精一杯生きていたら、次に何かしらが繋がっていくと思いますから。  学生新聞オンライン2021年3月10日取材 津田塾大学2年 宮田紋子            

衆院議員

衆議院議員・小児科医 阿部知子

女性が自由に声を上げられる世の中を作りたい ■プロフィール 1948年東京都生まれ。東大医学部卒。小児科医。立憲民主党所属衆議院議員(神奈川12区)。衆議院内閣委員会委員、原子力問題調査特別委員会委員、党子ども子育てプロジェクトチーム顧問。神奈川県連代表。超党派「原発ゼロの会」事務局長。超党派「身体障害者補助犬を推進する議員の会」事務局長。「立憲フォーラム」呼びかけ人、副代表。 学生運動を通じて、社会活動に強い関心を抱いた学生時代から一転、小児科医として50年、政治家として20年活躍してきた阿部知子議員。注目の女性議員として、そして小児科医として活動してきた今日までの道のりと、今後の展望を伺った。 ■社会活動に注いだ学生時代 私の学生時代といえば、学生運動ですかね。もともと国際的な仕事がしたかったのでICU(国際基督大学)に入学したのですが、1967年7月に大学が学生運動によってロックアウトになってしまい、普通の大学生活が送れませんでした。さらに10月ごろには、学生運動をしていた同年代の学生が抗議行動中に亡くなってしまう出来事もありました。「私と同じ年代の人が、何を思ってその活動をしていたのか。亡くなった彼と私は何が違うのか」といったことを、深く考えるようになりました。そこから、人の命を守るために医学部に行こうと考えたのです。私は「やるしかない!」と決めたら、すぐに行動に移してしまう性質なので、親にも黙って猛勉強した末、翌年に東京大学の医学部に進学しました。しかし、入学後すぐにまた全学ストライキに……。そのときは、「なんで私が行くところは、毎回大学に通えなくなってしまうのだろうか」と考え込んでしまいました。しかし、次第に大学内では濡れ衣で学生が処分されるという事件や、無抵抗の大勢の人が殺されるベトナム戦争の勃発という二つの大きな現実を突きつけられたことから、深く社会活動に関わることになりました。その後、学生運動が敗北して大学の授業が戻った頃には、精神科病棟開放のボランティアも行うようになりました。 ■小児科医師として、政治家として活動してきた50年間 政治家になる前は、小児科医として障害者への差別問題や医療事故被害者とともに医療体制問題に取り組みました。その行動の根幹にあったのは「どうやって命を守ろうか」という考えです。そうした活動を30年続けている中、連立政権の一翼を担った社会党が「自衛隊合憲」など方針転換をする中で、1995年に新党を模索する議員グループから「新しい党の候補者として出てくれないか」と頼まれたのです。当初は次世代の小児科医を育成したいという想いもありましたが、勤務先の理解もあり、立候補を決めました。2000年に初当選を果たし、その当時所属していた党の方針であった平和憲法を守ることと、脱原発などに向けて活動をしていました。2001年にはアフガニスタンに行って油や小麦を配布する中村哲医師の活動を拝見し、イラクでは医師として現地の医療状況も見てきました。一連の活動を通して感じたのは、「政治の議論は空疎だ」ということです。どれだけ御託を並べようとも、それよりも実際に現地に行くことが重要なのです。その中で改めて「人の命を守りたい」と強く思うようになりました。その想いから、私が現在力を入れているのが、子育て支援です。今の日本は少子化が進んでいるのに、その対策に本気で向き合っていないことには常々疑問を感じています。高齢化対策については社会的介護の仕組みができているものの、少子化は毎年数値が発表されるたびに騒ぎ立てるだけの状態が続いています。一方、虐待問題の増加を見てもわかるように、いまの時代はどんどん子育てがしにくくなっています。現代の日本において、産後1年未満に亡くなった女性の死亡原因1位は、なんと自殺です。お母さんは誰にも守られていないため、辛い状況に置かれているのです。母親が産後に自殺してしまう社会から、もっと子育てがしやすい世の中を作りたい。そこで、行ったのが成育基本法の成立に努力したり、産後ケアセンターの推進のための法改正などです。そのほか、次世代を担う子どもを育てるお母さんたちにどんな支援ができるのかを、いまだに模索し続けています。 ■時代を変えるためには、女性をリーダーに 今の時代は、まさに社会の転換期だと思っています。第二次世界大戦の敗戦によって日本の世が大きく変わったように、コロナによって世の中が大きく変わる瞬間を迎えていると思います。その中で、医療、教育、農業環境などの社会的共通資本をもう一度見直し、より厚く取り上げていきたいと思っています。そして、今後の政治に私が期待するのが、女性の政治参画です。私が当選した当初に所属していた社民党のリーダーは女性でした。小さい政党でしたが、所属する議員のそれぞれが独自の取り組みを行い、生き生きと活動していました。あの当時、ひとつの党の女性比率が半数を超えていたことは非常に重要なことだったと思っています。それから20年経った現在、政治の世界における女性の比率はいまだ少ないままです。でも、男性、女性それぞれの視点を組み合わせれば、もっと高い成果が出るはずです。お互いの力を寄せ合うためにも女性の数を増やし、女性がもっと意見を言いやすい社会にしていきたいです。そして、政治のリーダーを女性にすること。リーダーのみならず、あらゆる場面の意思決定にもっと女性が関われるようにすることで、今の政治を変えることができるのではないでしょうか。障害の有無や外国人問題も同様ですね。多様性が大事です。 ■message 最近は授業もオンラインが主流になっているせいで、同級生同士などの横のつながりができにくいと思います。課題や授業などについて確認し合える友達がいないのは、辛いですよね。しかし、オンライン授業でも、必ずいい面はあると思います。今後はオフラインとオンラインを組み合わせる生活が主流になってくると思うので、この機会にオンラインの意義を知っておくことは重要になってくるでしょう。そして、今の女子大学生には「期待」しています。グレタ・トゥーンベリさんという当時15歳の女性が、スウェーデンの国会の前で、たった一人で気候変動対策への抗議活動を行なったように、若くして活躍している女性たちはたくさんいます。もちろん、若くして活躍している男性もたくさんいますが、今、時代は新しい波が来ています。だから、女子学生の皆さんにはぜひ行動してほしいです。未来は決して暗くないし、変えられるものだと思いますから。 学生新聞オンライン2021年2月12日取材 文教大学2年 早乙女太一

伊東美優

株式会社識学 代表取締役社長 安藤広大 

「識学」を通して多くの組織問題を解決する。 ■プロフィール 1979年、大阪府生まれ。2002年、早稲田大学卒業。同年、株式会社NTTドコモ入社後、 2006年ジェイコムホールディングス株式会社(現ライク株式会社)入社。 主要子会社のジェイコム株式会社(現ライクスタッフィング株式会社)で 取締役営業副本部長等を歴任。2013年、「識学」と出会い独立。識学講師として数々の企業の業績アップに寄与。2015年、識学を1日でも早く社会に 広めるために、株式会社識学を設立。2019年、株式会社識学がマザーズ上場。 「識学」を広めることで人々の持つ可能性を最大化する、という経営理念を掲げる株式会社識学。独立して会社を設立してから、わずか4年で上場を果たしたというから驚きだ。学生時代のお話から「識学」との出会い、そして安藤社長が考える日本の組織運営の課題についてなど、幅広くお話を伺った。 高校時代からラグビー漬けの日々を送っていて、早稲田大学入学後も体育会ラグビー部に所属していました。アルバイトは週に1回、定食屋さんで働き、それ以外は毎日練習していました。体育会に入って学んだことは沢山あります。辛い中でも一生懸命取り組むことの大切さは何度も感じました。加えて、ルールが絶対なんだ、ということも学びの一つでしたね。もちろん体育会に所属し、理不尽だと感じることも多々ありました。しかし、それに抗うのではなく、心の中で受け止め、置かれた環境の中で最高のパフォーマンスを発揮することが重要なんだと気がつきました。大学卒業後は、ご縁があってNTTドコモへ入社、そしてラグビー部にも所属しました。しかしラグビーと仕事の両立が難しくなり、部活は1年で退部。その後は社業に専念しました。入社して4年目に、同僚の退社を耳にし、自身も今までの振り返りと共に、今後のキャリアについて真剣に考えるようになりました。もしこのままNTTドコモで働き続けたらどうだろうか。その当時私は、「ここでいくら自分が頑張っても、企業の業績に変化はない」と感じたのです。これからはもっと自分の力で企業の成長を感じられる仕事がしたい。そう思い、4年目でNTTドコモを退社し、新たに人材派遣会社へ移りました。 ■「識学」との出会い 転職先の株式会社ライクでは、取締役も務め、より経営に近い場所で様々な経験をさせていただきました。ただ、今後も今まで経験してきた業界で仕事をしていくのかどうか考えていました。ちょうどその頃出会ったのが、「識学」というメソッドです。「識学」は人の感情ではなく、ロジックやデータによって仕組みづくりをする徹底的なマネジメント理論でした。独立して「識学」をコンテンツとした新しい事業を始めたい!と思ったんです。この理論の創始者とお会いする機会があり、「識学」を広めてくれる若い人材を探しているというタイミングだったこともあり、お互いにニーズが合致し、事業を開始できたのです。そして、2015年に株式会社識学を設立。現在、我々のサービスは2000社以上の導入実績があり、一般企業だけでなくスポーツチームなど、あらゆる組織運営のコンサルティングに携わっています。 ■商品自体が最大の魅力 国内だけでも多くのコンサルティング会社が存在します。その中でも当社の最大の強みは、「識学」という商品を扱っているという点です。とにかくこの理論は隙がなく、完璧なものなんです。確かに、世界は近年急スピードで変化しており、それに伴って多くの企業が変化を求められています。しかし、今後も人が集団として働くことに変わりません。人が2人以上集まれば必ず組織はでき、その組織の分野はスポーツチームや家庭など多岐にわたります。つまり、この「識学」というメソッドは、世の中がどれだけ変化しても不変的にあらゆる組織に活用できるのです。「識学」という商品こそが競争優位性であり、この理論を用いて実際に組織運営をしている当社自体も最強だと考えています。もちろん、当社にも大企業との関わりがまだ弱いなど、今後改善していかなければいけない点はあります。ただ、これを仕事上の苦労とは捉えていません。これはあくまでも課題であり、問題とはまた別です。課題は前を見て進んでいけば、いつか必ず打破できるものなので、私たちは苦労と認識せず、成長の伸び代と考えています。 ■トップが変わらなければいけない 組織の中で上司と部下など様々な上下関係がありますが、「識学」と出会うまでは、人は心と心で繋がらなければいけない、と思っていました。また最近では、「働きがい」や「モチベーション」のようなワードが世間的に重要視されていますよね。このように、社員一人ひとりの心理的安定性を担保することは大切なんだと、以前は当たり前のように感じていました。しかし、このように人の感情ばかりに着目していては、企業の成長はおろか感情ばかりに左右され、結果的に誰もハッピーになれません。そこで、この「識学」の理論では組織を心で動かすのではなく、仕組みで動かすことを徹底しています。このマネジメント理論によって、まずは経営者の考え方を変え、最終的に組織全体を変えていくのです。ここで重要なのは、どんな立場にいても「自分に原因があるかもしれない」と疑い、素直に受け止める姿勢です。特に経営者にはこの姿勢が必要不可欠です。当社の採用に関しても、素直で頭の回転が早い学生に、是非入社してもらいたいですね。 ■message 色々な情報があって、時には迷うこともあると思います。ただ、人間の成長というのは動いてみないと始まりません。あまり考えすぎずに「まずはやってみる」ということを大切にして欲しいです。そして自分で変更不可能なものには抗わないことです。その時間はあなた方の成長には無駄な時間だと思います。とにかく置かれた環境の中で、自分ができる精一杯の努力をしてください。 学生新聞オンライン2021年6月11日取材 慶應義塾大学2年 伊東美優

経営者

ローランド株式会社 代表取締役社長 CEO 三木純一

思い込みにとらわれず、新たな価値創造でファンをワクワクさせ続ける! ■プロフィール 代表取締役社長 CEO 三木純一 1977年ローランドに入社。1994年に取締役(開発部門担当)に就任後、電子ピアノ等の鍵盤楽器の開発を中心に、開発部門やサポート機能、マーケティング企画等の部署を複数担当。その後、クラシック・ロジェクト担当執行役員、オルガンやクラシック・キーボード開発部門担当取締役を経て、2013年より代表取締役社長CEOを務める。 電子楽器のパイオニアとして、世界中の音楽愛好家から支持されるローランド株式会社。代表の三木社長は幼少の頃よりモノ作りが大好き。その能力を活かして「0から1」生み出すゲーム・チェンジャー製品を作り出し、新しい価値を創造し続けている。 小さいころから「モノづくり」が大好きだったので、将来的にはエンジニアになりたいと思っていましたから、大学は理工学部の電子電気科に進みました。入学してからは、憧れていたオートバイの免許を取って乗り回していました。でも、ただ乗るだけではなく、好きな色に塗り替えたり、改造したりすることにもハマっていましたね。バイクで遊ぶためにいろいろなアルバイトもやりましたけど、仕事の種類にはあまりこだわっていませんでした。ごく普通の学生時代だったと思います。 ■ローランドとの出会い 就職活動をしているときに、たまたま見つけたローランドの募集広告を見て、「エンジニアが楽器を作れる」ということに衝撃を受けました。当時は名前も存在も知らない、小さなベンチャー企業だったのですが、実際に行ってみると、大学の「モノづくり同好会」のような面白そうな雰囲気だったので受けてみることにしました。実は、ほかにも何社かメーカーを受けていたのですが、採用してくれたのはローランドだけでしたね。 入社後は生産ラインでの組み立て、製品の修理、基礎開発部門でのチップ設計、サウンド・エンジニアとして音づくりを担当しました。その後、製品開発のリーダーに抜擢してもらった時は、これで念願の「モノづくり」ができると嬉しかったですね。当時の社長との面談時に、今思えば生意気にも、「やるからには自分の好きなようにやらせていただきます。」と言ったのを覚えています。最初に開発したホームピアノを皮切りに、ヒット商品を続けて出すことができたので、そのことば通りにやりたいことを自由に任せてもらえました。 ■人との信頼関係から生まれるチャンス その後、最新機能をこれでもかというくらいに詰め込んだ電子チェンバロを作ったのですが、販売店さんにも当社の営業担当にもほとんど興味を示してもらえませんでした。どうやってその製品を売るかをさんざん考えた末に、自分でバロック音楽のイベントに持ち込むことにしました。知り合いのブースに頼み込んで置かせてもらったのですが、古典音楽のマーケットでは、電子楽器を受け入れない独特の雰囲気があって、お客さんがそのブースをわざわざ避けて通るくらいにアウェーな状況でした。正直なところちょっと困っていたら、隣のブースの古楽雑誌の編集をしておられる女性が、「なんでこの電子チェンバロを作ったのですか?」と尋ねてくださったのです。製品についていろいろな想いをお伝えしているうちに、「なるほど。そういうことだったのですね」とお知り合いの方に声をかけていただき、さらに製品を紹介してくださいました。電子チェンバロは良い製品だという自信はありましたけど、良いモノだから売れるというよりは、人と人の信頼関係があって初めて売れていくということを実感しましたね。 ■お客さまからの反応を見逃さない お客さまの本当のニーズを探り当てて、それに対して具体的な提案ができるように常にアンテナを張っています。少し前に、Aerophoneという電子管楽器を作ったのですが、ある時、カスタマー・センターに、年配のお客様から「息が弱いのですが音は出ますか?」というお問い合わせをいただきました。その時に初めて、センサーの調整で弱い息でもいい音が出せることが、肺活量の低下したご年配のお客さまには大きな価値になるということに気がつきました。商品の本当の魅力は、こうした現場でのお客さまのちょっとした反応から見つけることができます。 ■世代を問わず親しまれるブランドへ ゲーム・チェンジャー商品を出すと、意図していなかった新しいマーケットが生まれることがあります。Aerophoneをインスタグラムで検索してみると、若い女性からの投稿が口コミで広がっていて、それは全く予想していなかったので驚いたのですが、日本では学校の吹奏楽部やブラスバンドのメンバーは女性が多くおられますよね。卒業とともに演奏機会が減ってしまったけど、管楽器の演奏を続けたい女性たちがAerophoneに興味を持っているということが分かりました。当社のお客さまには中年男性が多いのですが、Aerophoneでは管楽器に憧れをもつ年配の方や若い女性という、当社にとって新しいターゲット層が見えてきました。新しい製品を開発するときには、ターゲットとするお客さまに加えて、2~3倍の見えないお客さまがおられることを常に意識しています。 ■今までにない新しいものを世に送り出す これまでになかった全く新しいモノでマーケットを作り、お客さまが本当に喜んでいただいた時にやりがいを感じますね。電子楽器の開発は楽器ショーやライブ会場などで直接お客さまやミュージシャンと触れ合う機会も多く、そうしたユーザーのリアクションをダイレクトに見ることができるのはとても素晴らしいと思います。特に海外のミュージシャンは、新しいものに対して意欲的な方が多いので、新製品にはすごく興味を持ってくれて、ストレートに感謝や喜びの声を聞かせてくれるときは本当に嬉しいです。 ■自分軸で生きる人と働きたい 社員採用に関しては、以前はその方のスキル、つまり、何ができるのか、というポイントを重視していました。しかし、最近はスキルセットよりもマインドセットを見るようにしています。「自分がどうありたいのか」、「どうしたいのか」、「どう思うのか」をしっかりと考えて、自分の軸で生きていることが重要だと思います。日本人は、人目を気にしたり、他者と比較したりという傾向がありますが、自分軸で動いている人は好奇心が旺盛で、やってみればなんとかなるという自信(根拠のない場合もありますが)を持っている方が多く、成長のスピードも速いと考えています。 ■message 「学生」である期間は、大体のことは許される、言い換えればとても「護られている」時間だと思います。だからこそ、学生である期間に、思い切りリスクをとって新しいことにチャレンジして、視野を広げて欲しいと思います。思い込みに捉われず、自分軸を大切に、大胆に行動することで将来の可能性が大きく広がっていくと思います。 学生新聞オンライン2021年5月12日取材 国際基督教大学 4年 鈴木菜桜 【お詫びと補足】弊社不手際により、2021年6月2日から6月8日まで、修正前の記事を掲載しておりました。改めて2021年6月18日より、最終版の記事を掲載しなおしました。ローランド株式会社様のファンの皆様、記事を読んでいただいた方々へご迷惑をおかけして、大変申し訳ございません。今後はこのようなことがないよう、気をつけてまいります。これからも学生新聞オンラインをご愛顧の程、よろしくお願い申し上げます。

参院議員

参議院議員 吉川ゆうみ

誰もが幸せに生きられる、サステイナブルな社会を実現したい ■プロフィール 三重県桑名市生桑名市立深谷小学校、桑名市立成徳中学校、私立メリノール女子学院高等学校1997年3月 東京農業大学 農学部 国際農業開発学科 卒業2000年3月 東京農工大学 大学院 修士課程 農学研究科 修了現在、三重大学 大学院 博士課程 地域イノベーション学研究科 在籍テュフラインランドジャパン(株)、日本環境認証機構(JACO)2007年 (株)三井住友銀行2013年 参議院議員 三重県選挙区 初当選  2019年 参議院議員 三重県選挙区2期目当選2019年10月 参議院 文教科学委員長2020年10月 自民党 女性局長 高校生の時から日本が直面する環境問題に関心を持ち、「私が地球を守る!」という固い意志を抱いたというのが、政治家の吉川ゆうみ氏。そんな強い決心と共に大学時代から熱心に勉強し、政治家になってもなお、環境・エネルギー、農業など社会的課題やサステイナビリティに熱心に取り組んでいる。政治家になる前に培ってきた様々な経験をはじめ、吉川氏が政治家になるまでの道筋と今後の展望について伺った。 ■「環境問題を解決したい」の想いから、農学部へ ちょうど80年代頃、砂漠化や酸性雨などが地球全体で問題となり始めた頃で、まだ日本では、環境問題と言えば公害問題として捉えられることが多い時代でした。当時、高校生だった私は、世界で認識が拡がりつつある地球環境問題を受けて、「地球を守らなければいけない」と強く感じ、環境問題に取り組める大学を探しました。しかし、当時はインターネットも普及しておらず、大学情報誌や大学や研究室等へ問い合わせの手紙を書いたりしなければ調べることができなくて、とても大変だった記憶があります。そこで出会ったのが、東京農業大学です。まだ日本には大学で環境学部などの環境を専門に学ぶ学部はなかった時代でしたが、東京農業大学に砂漠緑化など環境問題に取り組んでいる研究室があると知り、東京農大へと進学しました。 ■自分自身の問題意識が高まった「ロイヤルプロジェクト」 サークルは他大のインカレサークルでオーケストラに参加するなど、学生生活も楽しんでいましたが、依然として環境やサステイナビリティに対する関心は変わりませんでした。1992年にリオデジャネイロで開催された国連環境開発会議が開催され、世界的にも環境問題に対する関心度は徐々に高まっていました。夏休みや春休みなどの長期休暇の際は、農業をするためにタイ山岳部のカレン族など山岳民族の村をはじめ、台湾、長野や石垣島など、国内外のどこかしらに行っていました。様々な活動を行うなかで特に力を入れていたのが「ロイヤルプロジェクト」です。当時、タイなどの山岳民族は、生計を立てるために焼き畑農業などを行っていました。焼き畑農業は本来持続可能な農法ですが、山岳民族の村にも資本経済が浸透することで、本来の生態系を守るための期間や範囲を超えて山を焼き払って農業を行っていたため、環境に大変な悪影響を及ぼしていました。また、お金を得るためにケシ栽培を行うことでアヘン中毒が蔓延するなど大きな社会問題にもなっていました。そこで、北部山岳地帯という地理的特性を生かし、タイでは高く売れる桃や柿、菊など温帯作物を栽培することで山岳民族が生計を立てられるようにとタイの王様が始めたのがロイヤルプロジェクトでした。大学の卒論のテーマにもしましたが、ロイヤルプロジェクトは、人類にとって貨幣経済や資本主義経済とは、本当の幸せとは何か、を私自身が深く考えるきっかけとなりました。この時の経験は、政治家としての現在の仕事にも大きくつながっているように思います。 ■「私たちの税金を、現実の声を反映し、正しく使ってもらう」ために国政へ 東京農大のあとも同じ思いを持って東京農工大学の修士課程に進学し、修了後はISO14001環境マネジメントシステムなどの国際基準やオーガニックなど環境配慮型農業のコンサルタントや審査、CO2排出抑制のプロジェクト、企業のCSRなどサステイナビリティの取り組みの検証などを行う審査機関を経て、金融業界でも働きました。金融機関からは、「いま、企業は環境への取組みを行わなければ生き残ることができない。それらの企業を理解して支援できる人を探している」ということで声をかけてもらい、金融を通じてサステイナビリティを実現するという新しい分野に挑戦しました。企業は環境などの取組みを行わなければ取引をしてもらえない状況となっているにも関わらず、未だ環境は「外部不経済」であり、マイナスをゼロにもっていくための物であり、なかなかプラスにして企業価値向上に繋げることができない。苦労して環境に取り組む企業を応援するため、環境やCSR、リスク管理などサステイナビリティに配慮した企業を支援する金融商品やサービスを開発し、企業支援を行ってきました。しかし、相当な数の企業支援を行ってきましたが、どんなに大企業でも、民間企業には国家予算を組むことも法律をつくることもできないことに限界を感じていました。またその頃、環境省や国交省など省庁の委員を務めてきました。省庁の人たちは予算のなかで様々な制度や仕組みを作るなど重要な役割を果たしていますが、現場で働いている訳ではなく、本当の意味で現実を肌身で感じて知る事はできない。省庁等の様々な制度創設に関わる中で、そのことに大きな違和感を覚えていました。また、サステイナビリティをボランティアやCSRとしてだけではなく、企業も経済的メリットを享受しながら本質的に進めるための「ESG投資」について、日本でも一刻も早く拡げなければならないにもかかわらず国としても理解が進んでおらず、世界から大幅に遅れていることにも大変危機感を覚えていました。そして、「現実をしっかりと分かっている人が法律をつくり、国家予算の配分をしていかなければ。そのためには国会議員にならなければならない!」と思うようになり、様々なご縁を得て、環境などサステイナビリティに取り組む企業等が企業価値を向上させ、経済的にも成長するという意味を込めて、「環境と成長」というキャッチフレーズをかかげ、女性議員としての人生をスタートさせました。 昨年の11月、菅総理が国会で所信表明演説を行い、「経済と環境の好循環」を成長戦略の柱に掲げ、グリーン社会の実現に注力する考えを表明しました。そのなかで、地球温暖化対策として2050年までに温室効果ガスの排出を「全体としてゼロにする」と話し、脱炭素社会の実現を目指すと宣言しました。積極的に温暖化対策を行うことが産業構造や経済社会の変革をもたらし、大きな成長につながるという発想の転換が必要だとの考えを示しましたが、これは、まさに私が最初の選挙の際に掲げた「環境と成長」です。私が18才の時から考えて30年近く様々な立場から取り組み、いま政治という分野の中で携わっていることが、やっと国の方針となった!という喜びがありました。実現はまだまだ先ですが、確りと取り組んで行こうと思っています。 ■サステナイビリティの世界を日本に 現在、三重大学の大学院博士課程に在籍し、地域活性化やサステイナビリティを研究しています。いま、多くの企業が環境や地域活性化、防災などリスク管理や社員の働き方などサステイナビリティを重視する時代になりつつあります。例えば、人材派遣会社のパソナが淡路島に本社を移転しましたが、これも企業の大きな変化のひとつです。今後は、東京一極集中ではなく地方の特性をいかに活かし日本全体で持続可能な形で発展していくための仕組みをどう考えていくのかが問われると考えています。この流れは、コロナ禍によって一層加速されると思います。また、いま自民党の女性局長を務めていますが、自分にとって大きな課題は、日本や地域の経済をしっかりと上向かせながらも同時に社会的弱者に寄り添った政策をとっていくことです。現在、新型コロナウイルスの影響による休業等で多くのパート・アルバイトの女性の仕事が減り、経済的に困窮に陥っている人も多く、また児童虐待や教師のわいせつ問題、不妊治療保険適用の議論も進められ、変化が求められています。コロナ禍により、社会全体が将来に不安を抱え、またこれまでの社会システムが変容している現在、少しでも不安を払拭し、未来に希望を持てるような新たな社会のあり方や可能性を示していくことが、私たち政治家の役割だと考えています。 ■前を向き、声を上げ、自分の夢の実現に向かう努力を 大学生の皆さんへメッセージとして伝えたいことは「絶対にあきらめずに、前を向いていてほしい」ということです。あとは、人生を悲観しないことです。悲観的な人は様々な機会を失います。どんな状況であっても、敢えて前向きに、長い目で見ながら続けていけば、必ず何かに繋がります。これまでの私の話を聞いて、私が恵まれた環境で来たのではないかと思われた方もいるかもしれませんが、私の身内には国会議員はいませんし、父が営んでいた事業は私が大学生の時にバブル崩壊の影響で廃業し、私は大学院も奨学金でアルバイトをしながら通い、社会人になってからは実家に仕送りをしながらギリギリの生活をしてきました。でも、夢を持つこと。前向きに取り組む事。諦めないことで、色々な人と出会い、今こうして思いを叶えています。世の中捨てたもんじゃないですよ。また、自分の可能性を自分で捨てることもいけません。「声を上げてもどうせ変わらない」という話をよく聞きますが、政治に関しても若い人が自ら声を上げなければ、自分たちの意見というのも通りません。声を大にして、でも気持ちはラクにして思い詰め過ぎず、どうか自分の夢の実現に向かって頑張って下さい。 学生新聞オンライン2021年3月8日取材 東洋学園大学1年 田澤涼夏