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Archive for 運営スタッフ

芸能人

西山なずな 「笑顔のもと」になるために、今日も私は挑戦する。

■プロフィール 生年月日:1999年12月29日出身地:福岡県福岡市 日本経済大学4年生趣味:歌、書道(8段)、サッカー特技:水泳、新体操、バトントワリング ~NEWS~◆21年4月~「NATURAL BEAUTY BASIC」WEB広告モデル◆21年1月 イタリア産ワイン広告◆20年ありえへん∞世界 比嘉愛未役◆20年NHKドラマ「三浦部長は本日付で女性になります」◆19年NHK これは経費で落ちません 上野圭子役 レギュラー 小学6年生で初めてランウェイを歩き芸能活動を始め、一昨年には女優としてNHKの連続ドラマ『これは経費で落ちません!』に出演した現役女子大生の西山なずなさん。芸能活動を始めたきっかけ、仕事の原動力となっていることは何か、これからの夢などについて伺った。 ■初ランウェイはいまだに忘れられません 物心ついた時から目立ちたがり屋で、「いろんな人に自分のことを知ってもらいたい。見てもらいたい」と思っていました。小さい頃から芸能活動に興味を持っていたので、小学1年生の時から情報雑誌のモデルを始めました。小学4年生の時には劇団のオーディションを受け、合格はしたものの、その頃はサッカーや水泳などほかにもたくさんやりたいことがあったため本格的な芸能活動はしていませんでした。転機が訪れたのは、6年生の時に、地元のファッションショーに出たことです。本当はこのファッションショーは、17歳以上が応募条件でした。しかし当時12歳だった私は背が高く大人びていたからか、なぜか受かってしまって(笑)。初めてのファッションショーで、周りには年の離れたお姉さんしかいない状況だったので、本番を迎えるまではとても緊張していました。そして2か月間に渡って行われた厳しい練習を乗り越えて迎えた本番、人生で初めてランウェイを歩きました。いざランウェイを歩くと、緊張はなく、「自分やファッションをいかにきれいに見せるか」ということに集中していました。終わった後は、「注目されるって気持ちいいんだ。もっとこの楽しい活動をやりたい」と強く思いました。そしてそのファッションショーの後に、当時の事務所にスカウトされ、本格的に芸能活動を始めることを決意したのです。 ■笑顔が私の原動力です!  学校生活とモデル活動の両立をしていく中で、授業に出席できなかったり、毎日放課後に3時間のレッスンがあったりと、大変なこともたくさんありました。その中で原動力となっていたのは周りの人たちの笑顔です。小さいころから「周りのみんなを笑顔にしたい!笑顔のもとになりたい!」と思っていた私は、撮影がうまくいって笑顔になったスタッフさんや、私の活躍を喜んでくれる家族や友人を見たりすると、本当にこの業界に入ってよかったなと感じます。 ■なんでもとりあえずチャレンジします!  基本的に、私はいつでも「なんでもやってみよう精神」が旺盛です。どのくらい旺盛かというと、マネージャーさんから提案されたオーディションが1週間に10~15件あったとしても、それを全部受けてしまうほどです。オーディションに落ちても、「審査員が自分の魅力に気づかなかっただけ、次のオーディションが待ってる!」とすぐに切り替えられるぐらいポジティブです。そんな私なので新しいことに挑戦する時もこわいと思うことはなく、むしろ「やってみたい!」という気持ちの方が強いです。大学進学とともに福岡から上京し、女優として新しい人生に飛び込む時も、あまりこわさはありませんでした。「新しい世界に足を踏み入れるのがこわい」という人もいると思います。しかし私は、「とりあえずやってみないと、できるかどうかすら分からない。まずは自分なりにやってみよう!それでできなかったらしょうがない!」と考えています。九州の女なので気合、根性、体力はもともと強いところがあるのかもしれません(笑)。 そうして飛び込んだ女優の世界ですが、当初はセリフの覚え方も分からず、まさに右も左も分からない状態でした。しかし今では演技することが大好きです。きっかけは、NHKの連ドラ『これは経費で落ちません!』にレギュラー出演したことです。早朝から深夜まで撮影することもあり大変なことも多かったのですが、初めてチームで仕事をすることを体感し、勉強になることばかりで、大きく成長することができました。クランクアップした後に監督に褒めてもらえた時には、「もっともっと演技をやりたい!頑張りたい!」と思うようになりました。 ■自分のやりたいことには迷わず挑戦してほしいです!  大学生のみなさんには、自分がやりたいと思うことには、何でも挑戦していってほしいです!就活や試験など大変なこともたくさんあると思いますが、やらずに後悔しないためにも、自分のやりたいことは絶対にあきらめずに挑戦してほしい。多少の失敗でいちいち落ち込まずに、自分らしく挑戦し続けてほしいです。とりあえずやってみないとできるかどうかも分かりません!私もいま大学4年生で、夢に向かって頑張っています。私の夢は、朝ドラに出演すること、戦隊シリーズに出演すること、着物のモデルをやること、たくさんのファッションショーにでてランウェイを歩くことなどなどです。あと、昔から大好きなアンパンマン関連のお仕事もいつか必ずやりたいです!みんなの「笑顔のもと」になれるように私も挑戦し続けるので、みなさんも私と一緒に夢に向かって挑戦し続けましょう! 学生新聞オンライン2021年2月8日取材 法政大学1年 鈴木悠介

濱穂乃香

小川未祐 めざすのは、自らを表現するお芝居

■プロフィール 中学生時代にプロダンサーとして活動し、高校2年時に女優としても活動を開始する。初作品は小川紗良監督の「最期の星」(主演)。その後深田晃司監督の「よこがお」山本政志監督の「脳天パラダイス」などでの存在感のある演技で話題になった。デビュー作から月日がたち、再び小川紗良監督の初長編映画「海辺の金魚」で主演に抜擢される。 中学生のころからダンサーとして活躍していたものの、高校2年生の時に女優に転身をした小川未祐さん。2021年6月25日公開予定の映画『海辺の金魚』では、主人公の少女・瀬戸口花役を演じる。「与えられたものだけではなく、自分自身が表現を作り出す存在になりたい」という思いからお芝居を始めた彼女の素顔と、今後の夢に迫る。 ■「表現したい」との想いから、女優へ転身 小さいころから習い事はたくさんしていました。バレエにピアノ、ダンスに書道や合唱。その中でも一番好きだったダンスをもっと突き詰めたいと思い、中学2年生の時にダンススクールに通い始めました。ときには学校を早退してレッスンに通う日々は大変ではありましたが、嫌だと思ったことは一度もありませんでした。アーティストのバックダンサーをしたり、ツアーで地方を飛び回ったりと、様々な経験をしていく中で、「与えられた振り付けを踊るダンサーよりも、自分で表現を作り出せるような存在になりたい」と思い、お芝居の道に進むことを決心しました。はじめのころは、台本を覚えて演技するということに慣れていないからか、とても恥ずかしかった記憶があります。ただ、次第に、「自分で表現する」ことが演技を通じてできるようになってから、恥ずかしさは消えていきました。演技はずっと自分がやりたいと思っていたことだったせいか、「女優として生きていく」と決めたときも不安はあまりなかったですね。 ■撮影中は、楽しいことより泥臭いことの方が多い 撮影の現場では監督さんやスタッフさんなど色々な人と出会い、触れ合えることも、すごく刺激的ですね。最初は作品を掴み切れていなくても、世代も性格も得意分野も違う様々な人と現場で話しているうちに、分かっていくことも多いですね。わからないことがあるときは、あれこれ考えて何も聞けずに終わるよりも、子供みたいにどんどん何でも聞いていこうと意識しています。この仕事は、「人」がいてこそ成り立っているものですしね。あと、作品を撮影している間は、楽しいことよりも、泥臭くて大変なことの方が多いと思うんです。だけど、私は身を削って、色んな人と協力して、一つの作品をつくりあげるその過程が好きですし、また、そうやって完成した作品をお客さんに届けることができたときは、本当にうれしいですね。 ■児童養護施設で育つ少女を演じた主演映画『海辺の金魚』 『海辺の金魚』では児童養護施設で育ってきた18歳の女の子・花を演じています。そんな花が、施設で過ごすことのできる最後の夏に、様々なことが降りかかってくる中で今後の人生をどう生きていくのか、どんな道を進んでいくのかを選択するため、葛藤する物語です。簡単な役でも作品でもなかったので、苦しい場面はたくさんありましたが、演じていたシーンのすべてが強く印象に残っています。私と花は育ってきた環境が違うし、性格もあまり似ていないので、彼女の感情をつかむまでが大変でしたね。撮影を行った場所は、鹿児島の阿久根市という海がとてもきれいな場所で行われたのですが、その美しい海を眺めながら、「彼女はどんな服を着て、どんなアクセサリーを身に着ける子なのか」「人生の選択に直面したときに何を思うのか」を考えたり、ノートに書き出したりもしました。花と私は違う部分が多いけれども、一人の人間として、強い意志を持って生きている姿が尊敬できますね。この物語はフィクションではありますが、ひと夏をたくましく生き抜く人々が描かれた作品になったと思っています。ぜひ、スクリーンでご覧いただきたいです。 ■人はいつ死ぬかわからない。だから、常に「自分が何をしたいか」を考える 最近は、歌を作って過ごすことが好きです。小さい頃から習っていたピアノに加えて、2年前からはギターも始めました。新型コロナウイルス感染症による自粛期間中は、たくさん練習しましたし、自分が思ったことを歌にして過ごしていました。誰かに見せるために作ったわけではないものの、作った歌に自作のPVをつけたりもしていますね。また、歌を作るようになってから、笛やピッコロなどの楽器にも興味が出てきました。あと、詩を書くことも増えました。去年撮影したドラマのオーディションの時に、監督が私の作った詩を読んで、ほめてくださって……。自分が書いた詩を見せるのはすごく恥ずかしいことだったけれど、自分が何の気ない気持ちを言葉にしたものをほめていただいたのは、とても嬉しかったです。これからも、曲や詩、写真も生み出していけるといいなと思いました。よく「今後どうなりたい?」と聞かれるんですが、そこまで具体的な目標はないんです。ただ、人はいつ死ぬのか分からない。だからこそ、「自分が何をしたいのか。どういうものを作りたいのか」を考えながら、作品をつくっていけたらいいなと思っています。 ■大切なものは、形にして残したい 最近は何でもスマートフォンで完結してしまう時代ですよね。でも、なんでもデジタルだけで完結するのは、少しさみしい気がしています。この前、父からCDを借りて音楽を聴いていた時に、「私は父が昔に聴いていた音楽を聴くことができるけれど、私は好きな音楽をデジタルで聴くことが多いから、私の子供は私が昔どんな音楽を聴いていたのか分からないのかもしれない」と気が付いて。そのとき、自分のことが形に残らないなんて、とてもさみしいなって思ったんです。今の世の中は、良くも悪くもモノに溢れていて、自分自身でも本当に好きなものが何かが分からなくなってしまいがちですよね。だからこそ、自分が本当に大切にしているものは、できる限り形に残していきたいです。そして、形に残すことで、後の世代の人々に自分が大切にしていたものを受け継いでもらえたら、とてもうれしいことだなと思います。 学生新聞オンライン2021年2月12日取材 東洋大学1年 濱穂乃香 映画『海辺の金魚』【公開日】 2021年6月25日公開   【劇場】 新宿シネマカリテ シネ・リーブル梅田 鹿児島ミッテほか    【配給】 東映ビデオ【公式ツイッター】@UmibeKingyo 【公式サイト】umibe-kingyo.com【予告】https://youtu.be/_OruL3iJItU  キャスト小川未祐花田琉愛 芹澤興人 福崎那由他 山田キヌヲ ストーリー身寄りのない子供たちが暮らす家で育った18歳の花(小川未祐)は、そこで暮らせる最後の夏を迎えていた。そこに8歳の少女・晴海(花田琉愛)が入所してくる。かつての自分を重ねた花は、晴海と過ごすうちに今までに無かった感情が芽生えてゆく。

芸能人

和田庵 コロナ禍で苦しむ人々に希望を届けたい

■プロフィール 2005年生まれ、東京都出身。8歳から芸能活動をスタートさせ、映画「ミックス。」で俳優デビュー。フジテレビ「隣の家族は青く見える」やHBOアジア「フォークロア:TATAMI」に出演し、注目を集める。その後、語学力と人間力を高めるべくカナダへと留学、2020年夏に帰国。趣味はスケートボード、俳優業の傍らスケートボードの技術も日々、邁進中。 次世代の気鋭の俳優として注目を集めるのが、15歳の和田庵。カナダへの留学後、約1年半ぶりの仕事として、石井裕也監督、尾野真千子主演の映画『茜色に焼かれる』のメインキャストに抜擢された。そんな彼の幼少期から作品への向き合い方、役者という仕事についてどう考えているのかなどを伺った。 ■生き物が好きすぎて、うどんすきのエビを持ち帰って育てた幼少期  小さい頃は、とにかく生き物が好きな子でした。うどんすきのお店が新宿にあって、家族とよくうどんを食べに行っていました。そして、小学生の頃、うどんすきの材料として、生きているクルマエビが出てきたんです。それを見て「これを家で飼いたい!」と思い、エビを皿からこっそりとって、ポケットに入れて持ち帰り、家の水槽で大切に育てていました。両親が二か月後に、僕が育てているのがクルマエビだと気がついて、「食べたい!」というのを、全力で阻止していました。(笑)そのクルマエビは、その後、半年間、僕の家の水槽の中で生きていました。 あと、テレビを見るのも好きでしたね。『ピラメキーノ』や『天才てれびくん』などといった同世代の子たちが活躍している番組を見て、「自分もテレビに出たい」とよく言っていたそうです。その様子をみて、7歳のときに、両親が育成機関のオーディションに応募してくれました。そこから、オーディションを受けるにつれ、だんだんと「俳優という仕事」に対する自覚が芽生えていったような気がします。 ■『茜色に焼かれる』の出演きっかけに、この道で生きていこうと決めた 俳優の道に進もうと決意したのは、石井裕也監督の『茜色に焼かれる』に出演してからでした。実はこの映画に出るまでにも、お芝居には関わらせていただいていたものの、自分の中では「演技をすること」に対する感覚がどこか曖昧で、作品の中の役を意識して演じられていない気がしていたんです。そこで、自分を見つめ直そうと思って、カナダへ留学しました。 『茜色に焼かれる』への出演は、カナダ留学をしていたので、約1年半ぶりの仕事でした。久しぶりの映画のお仕事にもかかわらず、メインキャストに抜擢され、プレッシャーを感じましたね。撮影が始まった最初の1週間は、かなり精神的にもきつかったです。でも、だからこそ、今まで以上に自分の中で真剣に役と向き合うことができました。この作品は、いろんな意味で自分にとって刺激的で、周囲の方々から自分が意識していないことを指摘してもらうことも多く、非常に学びのある現場でした。なかでも印象的だったのが、スタッフのみなさんの作品への向き合い方です。たとえば、石井監督は楽屋だと気さくで優しいお兄さん。僕の母親役だった尾野真千子さんは現場の雰囲気を引っ張ってくれる明るくて優しい方でした。でも、二人ともカメラが回った途端、人が変わったように作品に集中します。二人の現場での様子を見て、自分の未熟さを実感しました。この作品の中で、監督、キャスト、ヘアメイクさん、衣装さんや撮影スタッフさんみんなで一つの作品を作り上げていくなかで、「あぁ、やっぱり自分はこの仕事が好きなんだな」と強く感じました。そして、このように今まで以上に作品の中の役と向き合い、やりがいを感じたことで、「この道で生きていこう」と強く思いましたね。 ■正反対の役柄だけど、共通していたのは「負けず嫌い」な一面 僕が『茜色に焼かれる』で演じた田中純平は、僕とは性格もバックグラウンドもかけ離れているキャラクターでした。純平は家で読書をするのが好き。自分はスケボーが好き。インドア派とアウトドア派で、正反対。だからこそ、彼の境遇や経験を踏まえながら、純平がどういった少年なのかを、現場に入る直前まで、1人でじっくりと考えながら、役と向き合っていました。考えてもわからない箇所があるときは、監督に直接聞くようにしていました。純平が食卓で「母さん、やっぱり僕は解せない」というシーンがあります。子が母に不満をぶつけるこのシーンで、僕は「純平は怒っているのだ」と思いました。しかし、いざ演じてみると、怒りだけでなく、「なぜわかってくれないのか」といった悲しみを含めた複雑な感情が湧いてきました。そのとき、自分と純平が重なった気がしました。また、純平がいじめられるシーンでも、「お芝居なのに、どうしてこんな気持ちになるのか」と思うほどに役に打ち込んでいました。ただ、共通する部分もありました。たとえば、負けず嫌いな性格も似ています。自分は運動会で負けると、悔しくて泣くくらい負けず嫌いです。でも、勝っても泣きます。うれしくて(笑)。 ■今後、挑戦してみたいのはアクション  今後、俳優として挑戦してみたいのはアクションです。僕はもともと体を動かすのが好きなんです。今回僕が出演した『茜色に焼かれる』では、体を大きく動かすシーンがあったので、楽しかったのです。また、いまハマっているのは、カナダ留学中に始めたスケートボードです。あまりにもスケートボードが楽しすぎて、現在は週4日間、トレーニングを行っています。 ■コロナ禍で苦しむ人々に希望を届けたい  『茜色に焼かれる』では、コロナ禍の中でさまざまな理不尽や不幸が一組の母子に降りかかっていきます。綺麗事は決して描かれず、描かれているのはリアルな現実です。学生の皆さんの中には、コロナ禍で生きづらさを感じている方もいると思います。入学式が開催されない、学校に行けずリモート授業になっている、就職難……など、思うようにいかないことが多々あるかと思います。この映画を通して、そういった方々に少しでも頑張ろうと思ってもらえれば嬉しいですね。 学生新聞オンライン2021年4月9日取材 拓殖大学 3年 磯崎颯恵 タイトル:茜色に焼かれる 公開日:5/21(金)より全国公開 配給:フィルムランド 朝日新聞社 スターサンズ 出演尾野真千子 和田 庵 片山友希 / オダギリジョー 永瀬正敏    スタッフ監督・脚本・編集:石井裕也  『茜色に焼かれる』フィルムパートナーズ:朝日新聞社 RIKIプロジェクト 製作幹事:朝日新聞社 制作プロダクション:RIKIプロジェクト  配給:フィルムランド 朝日新聞社 スターサンズ 2021年/日本/144分/カラー/シネマスコープ/5.1ch R-15+  公式サイト:https://akaneiro-movie.com/

山本真人

出口夏希  何事にもしっかりと向き合い、新たなことへ挑戦する

■プロフィール 2018年に「ミスセブンティーン2018」に選ばれ、雑誌セブンティーン専属モデルとなる。翌年1月放送のフジテレビ ヤングシナリオ大賞ドラマ『ココア』では、ドラマ初出演で初主演を務める。その後も、ドラマ 「スイッチ」「カレーの唄。」F O Dドラマ「30禁 それは30歳未満お断りの恋。」「アンサングシンデレラ ANOTHERSTORY~新人薬剤師相原くるみ~」などに出演。そして、今期は2作品に出演中。 雑誌『Seventeen』で10代からの絶大な支持を誇る人気モデルで、現在演技でも活躍の場を広げている新進気鋭の若手女優、出口夏希さん。現在放送中の『ガールガンレディ』や『コタローは1人暮らし』にも出演。大注目の出口さんに芸能界に入るきっかけや出演中のドラマについてなどを伺った。 ■渋谷でのスカウトから、わからないことだらけの芸能界に飛び込む デビューのきっかけは、高校1年の夏に渋谷の宮益坂を友人と歩いていて、今の事務所の方に声をかけられたことです。当時は高校生活という限られた時間を精一杯楽しもうと思っていましたし、親からも反対されていたこともあって、芸能界でお仕事するなんて全く考えていなかったです。しかし、いざ事務所の方々に会ってみると、良い人ばかりだったこと。また、年が近いスタッフさんが熱心で仲良くなったこともあり、芸能活動を始めることを決心しました。 そんな形で始めた芸能のお仕事だったので、当初はわからないことばかりでした。芸能界に入るまでは自撮りすらしてなかったので、モデルのポージングや表情などもわからず、ものすごく練習しました。『Seventeen』の撮影も、初めは慣れないことばかりでしたが、編集部の方々が入りやすい雰囲気を作ってくれたり、モデルさん達も同世代の人ばかりだったので、1か月くらいで馴染むことができました。 ■ターニングポイントはドラマ『ココア』 少しずつモデルのお仕事だけではなく、女優のお仕事も頂けるようになりました。女優のお仕事をやるなんて、事務所に入ったときはまったく考えていなかったので、初めてお芝居のオーディションを受けるときは、「自分にできるわけがない」と思っていました。実際にオーディションを受けたときも、「自分には向いてない。ダメに決まっている」と思っていました。 『ココア』というドラマで初めて女優のお仕事をさせて頂きました。それ以来、お芝居のお仕事にも興味が出てきて、初めてだったので何がなんだか分からなかったのですが「もっと真剣にやってみたい」と思えるようになりました。 ■物語が進むごとに、変わっていくキャラクターに注目 現在放送中のドラマ『ガールガンレディ』は、女子高生たちがプラモデルの銃を使って戦いを繰り広げるというストーリーです。私は科学が好きで、少し変わり者だけど地頭がよい女の子・稲田秋帆を演じています。普段は淡々としてる秋帆ですが、私自身にも共通している部分もあるのかな。「素直になりたいけど感情を出すのが恥ずかしい」という所は似てるかもしれません。(笑)いつもクールな秋帆が、物語が進むにつれて、徐々に雰囲気が変わっていく様子にも注目して頂きたいです! また、秋帆自身も個性的なキャラクターですが、他の方々の演じる役も一人一人が個性豊かで、沢山の見所に溢れています。 あと、おすすめはアクションシーンです! 今作では銃撃戦などが数多く出てくるのですが、私にとってアクションシーンは初めての挑戦で、難しい部分も多かったです。ただ、今振り返ってみると本当に楽しい撮影でした。作品自体の見どころでもあるのでアクションシーンもぜひ注目して見ていただきたいです。 ■幼稚園の先生を演じてみて もう1作、私が出演しているのは、現在放映中のドラマ『コタローは1人暮らし』という作品です。今回、コタローが通う幼稚園の先生である二葉透子役を演じさせていただいています。出演のお話をいただいたとき、「まさか自分が社会人の役だなんて!」と驚きました。(笑)これまでは、自分の実年齢とほぼ変わらないような等身大の役を演じる機会が多かったので、「幼稚園の先生」と聞いて、驚いたのと同時に「大丈夫かな……」と不安になりました。 もちろん私には先生の経験もないし、幼稚園の記憶も残っていないので、役作りのために動画などを見て、幼稚園の雰囲気を思い出したりしました。他にも姪っ子に「幼稚園の先生ってどんな存在だった?」といろいろ質問したりして、イメージを膨らませていました。 ■恋愛ドラマのヒロインを演じてみたい いますぐに具体的にやってみたい役というのはまだありません。いまは目の前にあるお仕事を一生懸命やって、いろんな経験をしていきたいなと思っています。まだまだわからない事が沢山ありますが、精いっぱいやっていきたいです。ファンの方々も応援してくださってますし!でも、私自身が恋愛ドラマを見るのが好きなのでいつか恋愛ドラマや映画のヒロインを演じてみたいなって思います!プライベートでは、逆に趣味がないので、自分が夢中になれる趣味を見つけるのが目標です(笑)。この前、マネージャーさんと釣りの話で盛り上がったので、ぜひ釣りに挑戦してみたいなと思っています。 ■ダメだと思ったものでもやってみないと分からない! 自分の今までを振り返ってみると、挑戦することと、しっかり向き合うことが大切だなって思いました。何かチャンスがあっても、「行動にうつすのがめんどうくさいからいいや」と思う事もあるけど、とにかく行動にうつさないと何も変わらないからまずやってみることが大事だと思います。私はお芝居をやった事がなかったので初めてのドラマのオーディションの時も、最初は私自身も「ダメだ」「これは落ちたな」と思っていましたが、挑戦してみたことでそこから女優というお仕事に興味を持つようになりました。『Seventeen』のオーディションも同じで、やってみないとわからないことがたくさんあったな、と思います。まずは、挑戦することを大切にして欲しいと思います! 学生新聞オンライン2021年4月16日取材  明治大学 3年 山本真人 テレビ朝日オシドラサタデー『コタローは1人暮らし』 (毎週土曜よる11時30分~)のスピンオフドラマ「花輪せんせいは半人前⁉」(5月22日ドラマ本編放送終了後からTELASAにて配信)にも出演。 MBS/TBSドラマイズム『ガールガンレディ』 MBS:毎週火曜深夜0時59分~ TBS:毎週火曜深夜1時28分~

参院議員

参議院議員 今井絵理子

障がい者との健常者の垣根を超え、共に交流し暮らしていく社会へ ■プロフィール 八雲学園高校卒業。平成8年、SPEEDのメンバーとしてデビュー。平成12年、SPEED 解散後、ソロとして活動開始。平成16年、長男を出産。平成20年、息子の聴覚障がいを公表。NHK「みんなの手話」の司会を歴任し、講演・執筆などを行いながら幅広く活動を展開。平成28年、第24回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国比例区より立候補し、初当選。 人気グループ・SPEEDのボーカルから政治家に転身した今井絵理子氏。歴史上はじめて手話を含めた代表質問を行った政治家だ。自身も聴覚障がいを持つ子どもの母親であり、障がい者やその家族の代表者として、障がい者と健常者との壁を取り払うべく最前線で活動している。今井氏が政治家になるまでの経緯や今後の展望について、その詳細を伺った。 ■人気グループのメンバーとして駆け抜けた10代 12歳のころからSPEEDのメンバーとして活動していたので、一般的な学生生活を送ることはできませんでした。本当に忙しく、振り返ってもあまり記憶にないほど駆け抜けた日々でした。でも、当時の夢であった歌とダンスに趣味の延長線上として取り組むことができていたので、充実したお仕事でしたね。10代半ばで親元を離れて生活していたことからホームシックになることもありましたが、活動を通して海外に行くこともあり、若い頃から貴重な経験ができていたと感じています。 ■障がい者家族の声を実現するため政治家に 21歳で出産を経験したのですが、子どもに聴覚障がいがあったことから障がいについて学び始め、同じ境遇の親御さん方や子どもたちのためになることはないかと考え始めました。そこでSPEEDの音楽活動の傍ら、特別支援学校や養護施設にてボランティアで歌を届けるようになりました。その活動の中、現参議院議長である山東昭子さんと出会い、声を掛けていただいたことをきっかけに政治の道を選択することに。実はお声がけいただいた当時は、子育てと音楽活動が中心でしたので政治に関心があるほうではありませんでした。ですが、今振り返ると、ボランティア活動を通して、最終的には政治家になる道だったのかなと感じています。歌を届ける活動の中で、同じ境遇のお母さんたちや障がい当事者と出会い、直接様々な意見を聞いてきました。しかしそれらの問題を共有しても一人のアーティストとしての意見でしかなく、世の中を変える仕組みづくりをするには、政治家になるしかないと思い、決意しました。 ■多くの人が障がいについて考える社会を作りたい 議員としての柱は、障がい者施策です。日本の障がい者施策は先進的である一方で、手話など情報保障の面では、まだまだ不足しているのが現状です。例えば、防災無線は聴覚障がいの方には届かないため、東日本大震災の時には、多くの聴覚障がい者の方が被害に遭われました。安全な街づくりの実現のためにも、障がい者の方々の声を政策に取り入れていかないといけません。当たり前ですが、政治活動は一人で実現できることはなく、法律や政策を作るためには多くの議員の賛同を得る必要があります。時間が掛かって大変なことではありますが、やりがいや充実感を感じています。障害者差別解消法ができて、もうすぐで8年が経ちますが、障がい者に対してわからないがゆえの無意識な差別的対応をしている可能性もあると思います。SNSのツールや多くの人と直接、あるいはメディアを通じて触れ合うことで、障がいについて考え始めるきっかけになればと思います。 ■国会史上初となった「手話」での決算質疑 大きな一歩としては、130年にわたる国会史上初の取り組みとして、私が本会議の代表質問に立った際、手話を併用した決算質疑をしたことです。そして、令和3年からは参議院の本会議中継の一部で、手話通訳が配置されることになりました。まだ委員会などには、手話通訳士や字幕などの情報保障がない状況なので、そんな現状を改善し、誰にとっても平等に情報が行き渡る世の中にしていきたいです。内閣府大臣財務官時代には、男女共同参画について取り組んでいました。幅広い方々と意見交換する中で、女性のキャリア形成についての難しい現状も把握しています。しかし私は、女性活躍社会という名目ではなく、個人が性別や障がい、年齢に関係なく、その人らしく輝き、生きていけるような多様な選択肢がある世の中を作ることが重要だと感じています。 ■無意識的な差別を取り払うため共に学ぶ場を 無意識に障がい者を差別してしまう風潮を減らすためには、教育面での変化も大切です。幼いころから障がいの有無にかかわらずに学びの場や楽しく交流する場を提供していくことで、健常者と障がい者の垣根を取り払っていきたいです。たとえば、特別支援学校だけではなく自分の住んでいる地域の学校で教育を受けたいという声もあります。現状はまだみなさんが納得していただける支援体制が整っていません。柔軟に対応できる教育システムを構築していきたいと思います。また、障がい者本人や家族が安心して暮らすためには、雇用されるだけではなく、自ら起業していくなどというチャレンジできる環境を整えることが大切だと思います。今後も、社会が生み出す障がいという壁を取り除くべく、働きかけていきたいです。障がいの壁を取り払う取り組みの一つとして、デフリンピック誘致活動があります。活動の目的は二点あります。一点目はスポーツを通して健常者も障がい者も垣根を取り払うこと。二点目は、スポーツを通して障がい者やその家族に体を動かす楽しみを知ってもらう機会を提供していきたいです。 ■自分の目で見て、体験する機会を増やしてほしい 多くのことにチャレンジし、恐れずに一歩進んで取り組んでほしいです。大人になると何かと自分に制限をしてしまいがちなので、大学生の時間を有意義に様々なことにチャレンジして欲しいです。壁にぶつかることもありますが、壁は自分自身を成長させるものと捉えること。それが、物事に取り組む際の心構えとして大事になっていくと思います。また、情報社会だからこそ、多くの情報を収集できるため、体験していなくても知識が増えていきますが、現場に行き、自らの目で見て、聞いて心で感じる「体験」をたくさんしてください。また、もし周囲に障がいのある方がいたら、ぜひコミュニケーションをとってみてください。「何か困っていることはありますか」「どのような対応がいいですか」と素直に聞くことも大事です。わからないままにするのではなく、進んで心を開いて、少しでも理解することで、障がい者に対する無意識な差別も減少していくのではないでしょうか。 学生新聞オンライン2021年3月17日取材 横浜市立大学 3年 小熊結菜

衆院議員

自由民主党 幹事長代行 衆議院議員 野田聖子

100%の正義はない。だからこそ「選択」できる社会を作りたい ■プロフィール 1960年生まれ。上智大学卒業。帝国ホテルに入社。その後、岐阜県議会議員を経て衆議院議員当選9回。郵政大臣、総務大臣などを経て、2020年9月から現職。 自民党の国会議員として、女性の社会進出に大きな影響を与えている野田聖子さん。これまで、長年に渡って、女性の地位向上や、外国人、障害者などのマイノリティのマジョリティ化に向けて、第一線で活躍されている野田さんが歩んできた政治家としての道のりや、ご自身が考える今後の日本社会のあるべき姿について迫りました。 ■人生で一番勉強した大学時代と苦労した就職活動 私は高校時代にアメリカへの留学経験を経て、上智大学外国語学部比較文化学科に推薦入試で合格しました。当時、比較文化学科は四ツ谷ではなく市ヶ谷にキャンパスがあり、留学生や帰国子女など、多様な学生の集まっている学部として知られていました。留学生たちはとても勉強熱心で、私もそれに感化され、人生で一番勉強をした時期であったと思っています。また学業と並行して、サークル活動として小学校低学年から大好きであったスキーを続け、充実した大学生活を送っていました。そして、いよいよ就職活動の時期を迎え、応募したエアラインからは内定をもらうことができませんでした。振り返ると、当時の私には特に希望職種がなく、友達と一緒にいろいろな職種の試験を受けてみるといった状態。帝国ホテルもその中の一つでした。三次募集で狭き門でしたが、英語を話せることに魅力を感じてくださって、やっと内定を掴むことができたのです。 ■女性幹部として採用された帝国ホテルでの、厳しい研修の日々 当時、大卒の女性社員は珍しく、幹部候補として採用されました。入社後すぐに研修を行い、私は客室係として現場に出ることになりました。ホテルでの華やかな仕事を想像していた私は、客室掃除が仕事だと知ったとき、とてもがっかりしたことを覚えています。しかも任されたのはバスルームの掃除。手袋もない時代でしたから素手でトイレ掃除をしたり、四つん這いになって、床に落ちている髪の毛を一本一本拾ったりと、家でもそんなふうに掃除をしたことがありませんでしたから、本当に辛い業務でした。その後、暫くしてレストラン部の業務へ移ることができましたが、そこで出会った先輩の指導が厳しく苦労しました。最終的にはその先輩と仲良くなることができましたが(笑)。そのほかにもお客様にコーヒーをかけてしまったり、目玉焼きを落としてしまったりと、何度も失敗を重ね、仕事を辞めたくなる時もありましたが、「すぐにやめたらかっこ悪い!」と自分を鼓舞して何とか続けました。今思えばこのような経験をしたからこそ、困難に直面しても、きっと何とかなると前向きに考えられるようになったのだと感じています。 ■祖父からの「しごかれて来い」の一声で、国会議員の道へ 帝国ホテルでは、女性初の国際セールス営業を任されるまでになり、充実した日々を過ごしていました。そんな折、政治家であった祖父を支えていた後援会の方々から、突然「選挙に出馬してみないか」と連絡があったのです。急なことで戸惑いましたが、その後援会の方たちは保守的な岐阜を変えたいと考えていて、「君しかいない」という言葉に背中を押され県議会議員選挙に出馬し当選、26歳で政治の世界へ足を踏み入れることとなりました。地元の方々に支えてもらいながら県議会議員として日々を過ごすうち、「もっと岐阜を、日本を良くしたい。」「皆の要望を実現させたい」と考えるようになりました。祖父からも「政治を極めるなら国会議員になって、しごかれて来い」と後押しされ、32歳で衆議院議員に初当選し、国会議員となったのです。 ■国会議員の仕事とは 私が国会議員となった時、自民党の衆議院議員で女性は私一人でした。ある日、女性の国会議員にどうしても話を聞いて欲しいと、ある1人の女性が訪ねて来ました。話を聞いてみると「日本の富裕層の男性の中に、海外で性的暴力をしている人がいる。何とかしてほしい」という相談でした。カンボジアなど東南アジアの国で幼い女の子を安いお金で買い、性的暴力をしている男性たちがいるというのです。当時の日本は性的暴力の取締りが進んでおらず、海外からも「児童ポルノ大国」などと呼ばれてしまうような時代で、このような犯罪を裁く法律がなかった日本に、私は酷く失望したことを今でもよく覚えています。そして、顔も知らない海外の女の子たちを、何とか助けようと懸命に働きかけているその女性の行動力に突き動かされ、「国会議員である自分が法律を作って、この国を変えないといけない」と強く思いました。私も実際に日本人男性が性犯罪をしていると思われる現地に赴き、聞き込み調査などを行って実態を顕にし、7年かけて海外での性犯罪も取り締まる法律(「児童買春、児童ポルノ禁止法」)を作り上げました。このように「国民の声、多様な考えや想いに耳を傾け、それを実現するために法律をつくる」これが国会議員の仕事なのです。 ■社会のマイノリティをマジョリティにしたい 今後の展望のひとつは、初当選の頃から呼びかけている「選択的夫婦別性」の法律を成立させることです。選択的夫婦別性は多様な国作りに欠かせないものであると思っています。多様性を認め、受け入れることは、寛容な社会を作るために大切なことです。自分の正義と他人の正義、正義は人それぞれ異なる。100%の正義、100%の完璧はないからこそ、選択できる社会を作っていく必要があるのです。また、社会のマイノリティをマジョリティにしていきたいと思っています。外国人や女性、障害者などのマイノリティの生きにくさに目を向け、多様な個性を持った人たちが、この国で暮らしやすく、そして大いに活躍してもらう。それを当たり前にしていきたいのです。例えば今は「政治=男性が行うもの」という印象が強く根付いてしまっていますが、私はこのような古い固定観念を打破したいと思っています。女性の職業選択の中に、当たり前に政治家が入る時代の到来を望んでいるのです。 ■人に接するときは、自分の偏差値は0だと思うこと 私は推薦入試で大学に入学したため、自分の「偏差値」というものを知りません。日本では偏差値を物差しとして比べ合い、卑下したり、優越感を抱いたりしますよね。しかし実際には、偏差値はその人自身を測るものさしになりはしません。私たちは、自分自身の目でその人を見つめ、動物的感覚でその人となりを見極めるべきでしょう。私は自分の偏差値を知らないことで、何の先入観も持たず、平等に人を見極めることができているのではないかと思っています。だから皆さんも、自分の偏差値は0だと思って、人に接してみてください。その人の本質が見えてくるのではないでしょうか。 学生新聞オンライン2021年3月12日取材 津田塾大学1年 佐藤心咲

参院議員

自民党 参議院議員 水落敏栄

恒久平和な社会の構築を目指して~戦争の風化を防ぎ、平和の尊さを継承する使命を胸に~ ■プロフィール 昭和18年新潟県十日町市生まれ。戦没者の遺児。新潟商高卒、福島県いわき市の常磐興産㈱勤務。昭和46年(財)日本遺族会奉職。事務局長、専務理事を経て、平成16年参院選挙に遺族代表として出馬、初当選、現在3期目。文部科学大臣政務官、文部科学副大臣、参院文教科学委員長を歴任。現在、参議院議院運営委員長、(一財)日本遺族会会長、靖国神社総代。 戦時中に生まれ、二歳半で父を戦争で亡くし、その後、戦没者遺族として厳しい戦後の復興期を体験したという自民党の水落敏栄参議院議員。幼少期の過酷な経験から日本遺族会へ奉職、政界へ入るきっかけに迫りました。水落議員が目標に掲げる「恒久平和な社会の構築」に必要なこととは? ■ありふれた幸せを奪った戦争 私は新潟県の豪雪地帯で育ちました。両親と兄、姉との五人家族、所謂三反百姓で、決して裕福ではありませんでしたが、幸せな日々を過ごしていました。しかし、戦局の悪化に伴い父は赤紙一枚で召集され、神町海軍航空隊(現山形空港)に飛行整備士として配属され、終戦のわずか6日前となる昭和20年(1945年)8月9日、爆撃を受け、戦死しました。それからの日々は、筆舌に尽くしがたい過酷なものでした。一家の大黒柱を失った我が家では、母は夜明け前から農作業をし、日中は土木作業の手伝いをして、夜は内職をし、馬車馬のように働きづめで、何とか生計を立てていました。しかし、それでも家計は苦しく、年の離れた兄、姉は、中学卒業後、働きに出ました。こうした幼少期の悲しい思い出として今でも思い出すのが、白米にまつわるものです。私の故郷は魚沼産こしひかりの産地であり、我が家の田んぼでは20俵のお米が取れました。しかし、そのお米は貴重な現金収入源として売っていたため、我が家で白いご飯が食べられるのは週に一度程度、普段は精米時に出る残りカスで作ったまずい団子を食べており、父のいない寂しさも加わって惨めな気持ちになりました。そのため私は白いご飯が食べられる日を、よくご近所中に自慢していたと今でも笑われます。 ■家族や周囲の方々に支えられて日本遺族会へ奉職 苦しい生活の中で、「早く働いて、母を助けたい」と強く思うようになりました。そのため中学卒業後すぐに働くつもりでいた私は、「これからは教育が大切になる。高校は出たほうがいい」と兄に諭され、商業高校への進学を決めました。家族は必死に働いて、援助してくれましたが、それだけでは足りるはずもなく、自身も働きながら、学校へ通いました。とにかく母を楽にするため良い就職先をみつけたい一心で、仕事と勉学に励み、青春を謳歌した記憶はありません。そして、いよいよ就職の時期となりました。戦後好景気で中高生が「金の卵」ともてはやされた時代、まわりがどんどん決まる中で、私だけ決まらないことを不審に思い先生に問うと、「片親」が理由と分かりました。今なら考えられない話ですが、両親が揃っていない家庭の子は信用が置けないから採用できない、そんな時代でした。お国のためと国の命令で戦地に送られた父を戦争で亡くした私に、世間は白い目を向けたのです。あの時の悔しさ、虚しさ、憤りは、今でも忘れられません。絶望していた私に、地元遺族会の役員の方が、日本遺族会が運営する九段会館で戦没者遺児を対象とした職員の募集を教えてくださり、藁にも縋る思いで試験を受け、合格した時は、家族で泣いて喜びました。九段会館は、結婚式場や宿泊、宴会場を運営しており、第一次ベビーブーム世代が結婚適齢期を迎え、当時は年間約2400組の結婚式が行われており、まさに目の回る忙しさでした。それでも、戦争で父を亡くしたという同じ境遇の仲間と働けたこと、何より働くことで苦労を掛けた母に仕送りができるようになったことがうれしく、無我夢中で働きました。 ■「二度と戦争を繰り返さない」遺族の声を届けるために国政へ 九段会館での勤務を経て、日本遺族会事務局へ配属されました。遺族会事務局時代、最も忘れられないのは、戦没者の遺骨収集です。中でも昭和49年(1974年)サイパン島での記憶は今でも脳裏に焼き付いています。サイパン島は珊瑚の島で、水はけがよい為、ヤシの木の根元や、洞窟、海辺などに、ほぼそのままの姿のご遺骨が終戦から30年近く放置されていました。「戦没者は犬死なのか。」おびただしい量のご遺骨を前に、悲しみは憤りに変わりました。海外の旧戦域での遺骨収集は昭和27年(1952年)から開始されましたが、本格化したのは昭和48年。それでも、遅々として進まぬ状況に、最早、政治力で解決するしかないというのが結論でした。日本遺族会は、結成当時から遺族の声を国政に届けるため、国会に代表を送っていました。平成16年参院選への出馬打診があったのは、私が専務理事を務めていた頃でした。私は固辞しましたが、当時副会長であり、私の政治の師である元衆議院議員古賀誠先生に、事務局で遺族の声を一番身近で聞いてきた君なら間違いないと説得され、参院選(比例代表)に出馬、全国の遺族の皆さんの温かいご支援により、当選を果たすことができました。当選直後、戦後60年を迎え、高齢化する遺族が元気なうちに、ご遺骨を祖国へお迎えすべく「遺骨収集を国の責務」とした議員立法を取り纏め、成立させました。しかし、海外で亡くなった戦没者240万人のうち、未だ112万人余りのご遺骨が海外でそのままになっています。一日も早く、一柱でも多くのご遺骨を日本にお迎えするため、これからも遺骨収集に尽力してまいります。 ■310万人の戦没者の御霊に報いるために 私はたくさんの方々に支えられて今日まで歩むことができました。しかし、人生の節目節目に頭をよぎったのは「父がいてくれたら」という想いです。戦後、我が国は焼け野原となり、戦没者遺族はもとより、国民皆が貧困や飢餓で苦しみました。そうした中で、わが国の安寧と家族の幸せを願い戦没された310万人の尊い命が繋いでくださった社会を守るために、生き残った人々が必死で働いた結果、今日の平和で豊かな社会を築くことができたのです。しかし、戦後75年余りが経過し、国民の9割が戦後生まれとなり、戦争は風化されつつあります。先の戦争で犠牲となられた310万人の方々の多くが、10代、20代の若者で、学生も含まれています。その一人一人に叶えたい夢や希望があったことは言うに及びません。だからこそ、戦争の悲惨さ平和の尊さを身をもって体験した戦没者遺族が、「二度と戦争を繰り返してはいけない」と後世に伝え続け、恒久平和な世界の構築に寄与することは社会的責務であり、その声を国政に届けるのが、私の使命であり、願いです。 ■国民の信託に応える政治を コロナ禍における学生生活、ご苦労や不安が絶えないと思います。大学1年生は、入学をしても先生や友達と会うこともできず、オンライン授業と向き合い、2、3年生は急激な社会変化に振り回され、4年生は就職活動もままならない状況に胸が締め付けられていると思います。未知のウィルスに対峙するため、政府も医療界、経済界等様々な専門家の意見を集約し慎重に決断せざるを得ず、迅速性に欠ける印象を与えています。加えて国会議員の不用意な言動には忸怩たる思いです。だからこそ、国会議員の一人として学生のみなさんに心からお詫びを申し上げたいのです。医療従事者の方々、国民の皆さんのご努力のおかげで、日本は感染者数、死亡数とも海外に比べ低く抑えられていますが、変異ウィルスの拡大など予断を許しません。皆さんの献身に報いるためにも、国民の信託に応える政治を第一に、「命とくらし」を守るため、きめ細かな対策、支援を続けてまいります。このような状況下で、学生のみなさんが戦没者遺児である私の体験に触れることで、当たり前と思われる平和な社会の尊さを考え、家族をはじめ周囲の方々との出会いに感謝し、与えられた時間を大切に、何事にも前向きに挑んで欲しいと願ってやみません。 学生新聞オンライン2021年2月15日取材 津田塾大学1年 佐藤心咲

参院議員

参議院議員 立憲民主党幹事長代理 青木愛

議員バッチの重みをこの胸に。政治家とは、国民の希望を叶える仕事である ■プロフィール 昭和40年8月18日 東京都生まれ昭和59年 千葉県立安房高等学校卒昭和63年 千葉大学教育学部卒      テレビ番組リポーター、音楽活動を経て平成11年 千葉大学大学院教育学研究科研究生平成12年 保育士、社会福祉法人理事平成15年 第43回衆議院選挙初当選      以来、衆議院3期 参議院2期令和元年  東日本大震災復興特別委員会委員長  多様な才能を持ち、音楽経験からリポーター経験を経て参議院議員となった青木愛さん。そんな青木愛さんから、「学生の声をもっと政治に反映させたい」という強い想いや、音楽が大好きだったご自身の学生時代。そして政治家として活躍する現在に繋がる出会いと挑戦をお伺いしました。 ■CDデビューも果たした、音楽漬けの大学時代 私は大学生になると同時に、船橋にある家賃26000円の風呂無しアパートで、初めての一人暮らしを始めました。不安も多くありましたが、それ以上に希望を持って新生活を始めたのです。私の実家が保育所をやっていたこともあり、千葉大学の教育学部では幼児教育を専攻していました。音楽が好きであった私は、教育の勉強をしながら音楽サークルに加入し、バンド活動も始めました。幼児教育では音楽の授業も必要であったため、授業でも、サークル活動でも、音楽とは深い関わりがあるものになっていました。そのため、私の大学生活は常に音楽と共にあったのです。また、高校時代にX JAPANのTOSHIとYOSHIKIが同級生であったこともあり、2人の活動を応援する中でも音楽と関わりを持っていました。応援するだけでなく、自らもボーカルとしてレコードを出したりもしていましたね。音楽とは切っても切り離せないものでした。大好きな音楽をとことんやり抜くことができた、大学時代を送ったのです。 ■情報番組のレポーターから、政治家への転身 大学卒業後は音楽の道に進み、レコード会社の東芝MIに入りました。その後、私の作った歌がテレビ朝日の『トゥナイト』のテーマソングに使われたことがきっかけとなり、情報番組のレポーターとして5~6年程活動していました。レポーターは時代の最先端を見る仕事であり、先を見据えて視野を広げることを学びました。そして、バブルが崩壊した後、「音楽と教育の勉強をもう一度やり直したい」と思い、大学院に入り直したのです。当時は人生の先が見えず、焦りもあったのでしょう。そんな中でも自分の生きがいを見出していこうと、当時自由党の小沢先生のところに飛び込みました。親が町会議員、叔父が区議会議員であったため、選挙や政治は自分にとって遠い話ではなかったため、思い切って政界に足を踏み入れたのです。最初に入ろうと思っていた『小沢塾』には年齢制限で入ることができなかったのですが、そのことがきっかけで、田中角栄さんの『青年研修会』などからお声がけいただきました。どうしようか迷っていた折に、青年研修会の方々から、「千葉県参院選補欠選挙に出てみないか」と提案をいただいたものの、自分にそこまでは自信がなく、お断りしました。しかし、その数年後、「2003年の衆議院選挙に出てみないか」とお声掛けいただいた時は、「今度こそやってみよう」と思い、出馬を決心しました。そして、周りの人に引っ張っていただいた末、政界への扉を開くことができたのです。 ■生きるために必要なものは、みんなに平等であるべき 議員の大切な仕事の一つに「決議」が挙げられます。反対した決議は、印象に残っているものが多いですね。まず一つ目は、リニア新幹線開通の決議です。水の問題、道路の陥没の危険性があるため、私は開通には反対でした。また、リニア新幹線は南アルプスに穴を開けて開通させる必要があるため、自然破壊に繋がります。そして、そのような長いトンネルを通れば大きな事故が起切る可能性もあるからです。また、水の民営化についての決議に対しても、私は反対していました。何故なら、水は命の綱であるからです。人の命に直接的に影響を及ぼすものは、必ず国営であるべきだと私は思います。生きるために必要なものは、みんなに平等であるべきです。そして、それらは公的な機関で運営されることが望ましいでしょう。 ■国民の要望があれば実現するのが、国会議員の仕事 議員をしていて一番嬉しいことは、何と言っても国民や地元の人たちから「良かったね」と言われることですね。時には厳しい意見もありますが、それでも頑張ることができているのは、議員バッチをつけている以上「任期を満了しなければならない」という責任感が根幹にあるからかもしれません。地元の方々に想いを馳せ、まさに『ふるさとを』の歌詞にもあるように、「こころざしを果たして、いつの日にか帰らん」というような気持ちで、日々職務を全うしています。選挙で国民に選んでいただいたからには、何としても国民のために全力で政治を行う義務があると思っています。そのために、まずは目の前の問題を解決しなければならないでしょう。いま目の前にある問題は、新型コロナウイルスの脅威ですね。「国民の要望があればそれを実現する」。それが国会議員の仕事なんですから。 ■コロナ禍であっても時間を大切に過ごしてほしい 今の学生さんたちは、コロナ禍という誰もが経験したことのない大学生活を送らなければならない状況下にあり、辛いことも多いと思います。しかし、このような事態であっても、時間は過ぎていってしまいます。このコロナ禍を活かすということはなかなか難しいかもしれませんが、時間を大切に、自分のやりたいことを、思いきりやってみてください。周りを気にする必要はありません。自分の心のままに好きなことに挑戦していってくださいね。私たち議員も、学生さんたちの声に耳を傾け、改善策を考えていく所存です。 学生新聞オンライン 2021年3月4日取材 津田塾大学1年 佐藤心咲

参院議員

参議院議員 塩村あやか

与党を動そう。野党だからできる事がある ■プロフィール 1978年7月広島県で被爆2世として生まれる。共立女子短期大学卒業。放送作家(オフィス・トゥー・ワン所属)として「シューイチ」「24時間テレビ」などを担当。動物ボランティア活動等を経て、2013年世田谷区より東京都議会議員選挙に初当選。2017年衆議院議員総選挙に出馬し惜敗の後、2019年参議院選挙にて東京都選挙区で初当選。 様々な仕事をしていく中で見えてきた社会問題。自身のライフワークでもある動物愛護。様々な社会問題に目を向け積極的に行動している塩村あやか氏。これまでの取り組みに加えて、1人の女性政治家として世の中をどう動かしていくのか。今後の展望についても伺った。 ■「女性の働き方」を意識した放送作家時代 大学時代は仕送りがなかったため、奨学金と稼いだお金のみでの生活をしなければいけなかった。本当にお金を稼がなければ暮らしていけなかったので、バイト尽くしの学生時代を送りましたね。学校に行って、その後生活をしていくためのお金を稼ぐためにアルバイトをする。その往復の学生時代でした。友達と遊びに行ったのは、1回ぐらいしかないですね。 大学卒業後は、就職はせず、非正規でモデルやタレント業をしながら、アルバイトをしていました。いわゆる「就職氷河期」でした。その後は、海外にも行ったりしましたね。20代後半には『恋のから騒ぎ』という番組に出演していました。その時に、番組スタッフである放送作家に興味を持ち、その番組に出演しながら、女性放送作家講座に通いだしました。それをきっかけに、放送作家として仕事をスタートしました。しかしながら、放送作家の仕事は、非正規なのでボーナスもないし、休みもない。産休や育休がない。仕事自体は奇跡的に軌道にのりましたが、30歳を超えて周りを見渡すと、女性は作家講座の仲間を含めて殆ど残っていませんでした。それも当然のことで、待機児童問題が酷い時期で、不安定な非正規だとポイントが足りず、保育所に入れず子どもは自分でみることになる。安定した会社員の夫婦の方がポイントが高く優先的に保育所に入れる時代でした。放送作家はフリーランスですから、休んだ瞬間に収入は0になる。非正規産休もない時代で、育休も然りです。その時、自分自身に対する将来が不安になるのと同時に、「これはどういうことなのか。女性の働き方をどうにかしなければ」と考えました。「女性の社会進出が必要だ」といいながら、安定した家庭のお子さんは保育園に入ることができるのに、非正規の女性がいる家庭は保育園に子供を預けにくい。その現状をなんとかしたいと私は思いました。そこで、この問題に真っ向から取り組むために、政治スクールに通い、2013年の東京都議選に出馬したのです。 ■放送作家時代から力を入れていた動物愛護 政治家になる前携わった『今日のわんこ』という番組では、リサーチの仕事をしていました。個人的にも、関東圏の保健所に入った猫の里親探しをして、里親に猫を渡す動物愛護の活動を続けていました。また、いまだに記憶に残るのが、東日本大震災です。当時、放送作家としてラジオの仕事もしていたのですが、番組で応募してもらった犬のことが心配で、連絡を取ったりもしました。当時、動物愛護団体にも入っていたのですが、被災地から寄せられる連絡は悲惨なものが多かったです。さらに、その後、原発による警戒区域として封鎖された福島に行き、犬の保護活動でのボランティアもしました。以降も、私はずっと動物愛護について発信を続けていきました。特に私も保護猫と暮らし、家族同然でしたので、災害時のペット同行避難についても発信をしていきました。 政治家になった後、直面したのが、劣悪なペットショップで10年以上動物が放置されていたという事件です。どうにかしたいと思ったのですが、こうした事例は全国でもでも初めてとのことで、日本初の行政処分が下されるまで60回以上の指導を重ね、期間としては1年間くらいかかりました。なぜ、こんなに時間がかかるのかというと、動物愛護法には、飼育環境の劣悪さや飼養施設面積に対して、法的な数値がないから、行政の介入しづらいのだということに気が付きました。数値規制がない中、日本初の行政処分を下させた実績を買われ、当時都議会議員だった私は超党派の国会議員で構成される動物愛護議連のアドバイザリーボードに任命され、2019年に改正された「数値規制」の実質的担当として何度も環境省と対峙をすることになりました。無事に法改正が成立し、2021年、ようやく、飼育環境に関する数値を決めることができました。 ■今後求められるのは、不妊治療への法整備 今、生まれている新生児のうち、16人に1人が不妊治療で生まれています。それだけ多くの子どもが不妊治療によって生まれているにもかかわらず、長い間、議論が後ろ向きで、ちっとも整備が進んでいませんでした。多くの人は、不妊治療を経て、精神的、肉体的、経済的な負担に苦しんでいるのに、それを表向きには出していません。現在、税金がいかに無駄に使われているかを考えると、こうした不妊治療に苦しんでいる女性に向けた補助の引き上げや保険適用に使うべきだと私は考え、当選後早速党内で不妊治療のワーキングチーム(WT)の設立を党幹部に直談判に行きました。紆余曲折あったものの、国会の中でいち早くWTができ、衆参の本会議で「不妊治療の保険適用か、同等の補助の拡大」を訴え、この動きをメディアも大きく取り上げました。 そうなると、与党の中にも同じ考えの人達もいて、動くんです。結果として来年度には、不妊治療の保険適用がスタートする予定です。メディアはこうした動きは報じませんが、これが政治であり、野党や女性議員が必要な大きな理由です。 費用面はクリアになったものの、卵子提供や精子提供などの高度生殖医療では、「遺伝子上の親」「産んだ親」「育てた親」が一致しないケースも出てきます。「知る権利」なども含め、子どもを一番に考えた議論が必要になってきます。また、同姓カップルに対して、精子や卵子の提供は違法ではないものの、認められていません。それゆえ、ネット上での売買も行われていますが、トラブルやリスクは高いです。本来ならばきちんと法律を作るべきなのに、様々な意見があり、時間をかけて議論する必要があります。不妊治療に関するベースができたので、議論を起こす口火は切れたはず。今後は苦労して築いたこの土台の上に、いかに多様なケアを進めていくことができるのかが論点。期限を区切って一定の方向性を出すことになっています。 ■長期の目標に向かって、逆算する人生を歩んでほしい 学生時代は、遊びも勉強もしっかり楽しんで欲しいです。学費の面で、バイトも大変だとは思いますが、友達と遊ぶ事も大切だと思います。もっと言いたいことは、若いうちは何回失敗しても大丈夫。私自身、何度も仕事が変わっていますが、なんとか生きていけています。何を目的にして仕事をしているのかという芯があれば、仕事はどんな事でもこなせると思います。やりたいことをやって、悔いのない人生を是非送って下さい。私は過去様々な事で失敗してきましたけど、振り返るといい経験になっています。ですので、若いうちにいろいろ挑戦してみて下さい。あとは、目先に惑わされない人生を送ることも大切です。人は「いまある目の前のことをやらないといけない!」と思ってしまいますが、長期的な目標の方が実は大切です。ですから、短期、中期、長期というそれぞれの目標を立てるなかで、何よりも長期の目標に向かって逆算する人生を大切だと思います。あと、何もしないと環境は変わりません。ぜひ、自らきっかけを掴むために大胆に行動してほしいと思います。 学生新聞オンライン2021年3月1日取材 東洋学園大学1年 田澤涼夏

芸能人

見上愛 自分のやりたいことを貫く。後悔はしたくない!

■プロフィール 東京都出身、2000年10月26日生まれ。2019年女優活動を開始。ドラマ・映画・MVと幅広く活躍中。「きれいのくに」(NHKよるドラ・毎週月曜夜10時45分~放送)や「ガールガンレディ」(MBS/TBSドラマイズム枠・毎週火曜深夜放送)に出演するほか6月11日公開の映画「キャラクター」(永井聡監督)、W主演映画「衝動」(土井笑生監督)、「プリテンダーズ」(熊坂出監督)の公開を控えている。 デビューして以来、TBS『恋はつづくよどこまでも』レギュラーやGENERATIONS from EXILE TRIBEのMVなどに出演を果たし、各所から引く手あまたの活躍を見せる見上愛さん。中学生の時に観た舞台をきっかけに、裏方である照明の仕事や演出家を目指すも、女優として表舞台に立つ選択を選んだ彼女の真意とは? ■自分が後悔しないために、飛び込んだ演劇部 女優の仕事は、大学に入ってから始めました。中学2年の頃に観劇好きの両親に連れられて、舞台を観に行き、それをきっかけに少しずつ観劇に興味を持つようになったんです。その後、中学1年から高校1年の途中まで3年間ハンドボールをやっていたのですが、途中で「なんで自分がハンドボールをやっているのか」がわからなくなってしまって。今、本当に自分のやりたいことをしないと後悔するんじゃないかと感じ、転部して演劇部に入りました。演劇部で部員は役者や演出、照明などそれぞれの役割に振り分けられ、最初は照明がやりたかったのですが、部員の人数不足などにより演出と脚本を行う事になりました。高校2年のとき「高校生劇評グランプリ」という劇評の大会に参加して、賞もいただきました。演劇は自分が得意な分野を頑張れるし、お芝居の先に届ける相手がいることが、すごく楽しかったです。演劇部での経験から「将来は演出の仕事をしたい」と思い演出の勉強をするための大学に進学し、そこでは実際に自分で演出してみたり、小道具表を作成したりと演出の勉強に打ち込みました。 ■演出を理解するために演技の世界へ 「演出家になる為には、やっぱり演技も学んでおいた方がいい」「演技する人の視点を知っておいた方がいい」という演劇関係の先輩たちの意見を聞いて、演技を学ぶことを決めました。ただ、高校が芸能活動や劇団に所属したりすることを禁止していたので、習い事として演技を学べるところを探し、ワタナベエンターテイメントスクールで演技を学びました。そこで、今のマネージャーさんから声をかけて頂いたのが、デビューするきっかけです。 ■正直表に立つことに興味はなかった 私には6つ上に兄がいます。兄は、自分が何をしたいのかをしっかり見つけてから自分のやりたいことに挑んでいくような人で、私も強く影響を受けています。そのため、幼少期から「自分は何がしたいんだろう」ということを、よく考えていました。なので「自分がやりたいことを見つけないと次に進めない」という気持ちが自分の中には常にあります。だからこそ、「演出家になる為に演劇の大学に入って学んでいきたい」と思っていたのかもしれません。 表に立ったから何かが変わったかというと、実はそんなこともないです。ただ、いろんな作品に出て、多くの方に見ていただくことで、「私って、こんな風に見えてるんだ」と客観的な意見を知ることができるのは面白いなと感じます。 ■なんでもやってみないと分からない! 演技は奥が深すぎて正解もないので、何か自分なりの答えを1つずつ出していかないといけません。多くの役者さんたちが、この作業を何度も繰り返しているのかと思うと、本当に奥が深いなと思います。 ■自分本位でもいいから、より多くの挑戦を 大学生のみなさんには、ぜひ今の自分を大切にしてほしいなと思います。この時代は情報がたくさん溢れていて、それによって不安になったり、何を信じればいいか分からなくなることも多いはず。だからこそ、自分の芯を持って生きていくのは大事だと私も痛感します。自分がどうしたいのかを考えて、時には自分本位でもいいから、ぜひより多くの挑戦をしてみてほしいと思います。 学生新聞オンライン2021年3月16日取材 立教大学 2年 須藤覚斗

芸能人

三戸なつめ 個性を大事にし、これからもファンの皆さんに伝えていきたい

■プロフィール 1990年2月20日生まれ。奈良県出身。2015年に中田ヤスタカプロデュースによる『前髪切りすぎた』でアーティストデビュー。2018年より、本格的に俳優としても活動を開始し、ドラマ&映画「賭ケグルイ」に出演。NHK連続テレビ小説「おちょやん」では実母役に挑戦する等、今後も多数のドラマや映画の出演を控えており、モデル、タレント、女優として幅広いジャンルで活躍している。 トレードマークである短い前髪で、NEWクレラップのCMなどが話題となった女優の三戸なつめさん。モデルや女優をはじめ、様々な分野で活躍をする彼女の想いとは。また、彼女にとっての仕事やファンの存在はどのようなものかを伺った。 ■服飾を学びながら読者モデルを始めた学生時代 小さい頃から洋服が好きだったことと、当時読んでいた『ご近所物語』という漫画で描かれるキャンパスライフに憧れを持ったことから、服飾の専門学校に通うことにしました。私は子供服を専攻し、洋服のデザインを考えたり生地を選んでミシンで縫ったりと、ゼロから洋服を作る勉強をしていました。学校生活は課題が多く大変でしたが、友達と徹夜して洋服を作ったり、文化祭ではチームで考えて洋服を作ったりと、かけがえのない日々だったと思います。そんな忙しい日々を送りつつ、読者モデルのお仕事もしていました。読者モデルは、関西の雑誌『ガールズスタイル』のスナップを撮られたことがきっかけです。もともと雑誌を読むことが好きでスナップを撮られることにも憧れがあったので、撮られた時はとても嬉しかったですね。モデルの仕事と勉強との両立は正直大変でしたが、学校の先生が読者モデルをしていることに理解を示してくれたり、周囲の友達なども助けてくれたりしたおかげで、なんとか進んだ学生時代でした。 ■モデルや女優、コラボデザインまで。幅広い活躍に至るまで道のり 芸能界に進んだきっかけは、読者モデルをしていた雑誌とアソビシステムとの合同イベントで、声をかけてもらったことがきっかけです。当時、読者モデルとサロンモデルの活動を続けていく中、服飾以外でいろんな活動をしてみたいと思うようになり、それが叶えられるのが芸能活動だと思って、話をもらって芸能界に飛び込みました。2015年に中田ヤスタカさんプロデュースの『前髪切りすぎた』でデビューしました。当時の髪型、オン眉については、中学生の頃からずっとオン眉で、自分的には可愛いと思っていたので、曲に使ってもらえた上、それが皆さんにも個性として知ってもらえたので嬉しかったですね。現在は女優のお仕事と、ブランドさんとのコラボでウンナナクールという下着のブランドでルームウェアーを作りました。他にもWEB版のファッション雑誌のモデルやYouTube活動など色々なことをしています。基本的に私はいただいた仕事はNGを出さないようにしているんです。その理由としては、「いろんな活動をしたい」という思いと、わざわざ自分のことを見てくれて、お仕事を提案していただいている相手の気持ちに応えたいという思いがあるからです。これからも三戸なつめとしていただいたお仕事は全部受けていきたいですね。 ■自分のためより、誰かのためのほうが頑張れる 演技のレッスンを受けている中で、よくその先生から「三戸なつめは何を伝えていきたいんだ」と言われていました。丁度コロナ期間で時間もあったので、自分には何ができるのだろうと、よく考えていました。そんな中、ファンの方々からのメッセージの中で「生きる活力が見つかりません」とか「ご飯が喉を通りません」というようなネガティブなメッセージをいただいていました。自分には何ができるのだろうかと考え、苦手だった料理をはじめ、それをSNSで発信してみました。正直見栄えはしませんでしたが、ファンの人たちから、「なつめちゃんのご飯を見ていたら頑張らなくてもいいんだ」とか「勇気が湧いてきた」など反響がありました。コロナでお仕事は減っていましたが、そんなSNSの反響などを受けて「ファンの方々がいるから頑張れているのだ」と改めて気づきました。私は自分のために頑張るより、誰かのための方が頑張れる。そう思うようになったんです。今後の活動としていろんなことに私は挑戦していますが、みんなにパワーを与えられるように頑張っていきたいです。 ■人と違っても大丈夫。好きなことを発信して 大学生のみなさんには、大きく分けて2つのことを伝えたいです。1つ目は、自分の「好き」をもっともっと大事にして欲しい。好きがわからない人でも、自分がときめいている瞬間はあると思います。そのようなことには敏感に反応して欲しいですね。それは個人の感情でもあるので、そのような個性を大切にしていって欲しいです。また、世の中はみんながいいと思っていることがいいとされる風潮があり、人と違うことをするのに抵抗を感じている人がいると思います。そういう人たちには、「マジで大丈夫だから、自分の好きなことを発信していって欲しい」と伝えたいです。2つ目は、自分の意思を持ち、今やっていることを諦めずに頑張ってほしい。特に専門職の道だと、一概に「楽しい」や「好き」という感情だけではやっていけない世界だと思います。つまずくことはあると思うけれど、ずっと頑張っていれば、その経験は無駄ではないと思いますし、何か達成できると思います。例え失敗してしまったとしても、自分の考え方次第でいい経験だったと思えるようになると思うので、なんでも諦めずに続けていって欲しいです。 学生新聞オンライン2021年3月16日取材  文教大学2年 早乙女太一

川浪亜紀

井上想良 前しか見ない。それが自分の強さ。

■プロフィール 1998年8月12日、大分県出身。2020年に俳優デビュー。NHK『ファーストラヴ』やFOD『シンデレラはオンライン中!』など数々のドラマに出演。ABEMAの大人気恋愛リアリティーショー『恋とオオカミには騙されない』に出演し注目を集める今後期待の俳優。 「かっこいい俳優になりたい」。そう語る井上想良さん。3歳からテニスを始めて、テニス以外の道は考えられなかった幼少期。しかし、大学時代に出会った芸能の仕事に夢中になり、両親からの猛反対を受けつつも、自分の道を突き進んだ。様々な苦労を乗り越えて、今の仕事に懸ける思いや俳優という仕事への思い、今後の目標について迫る。 ■全く考えていなかった芸能のお仕事への挑戦 大学はスポーツ推薦で入りました。3歳から続けていたテニスを、一部リーグの強い大学でやりたいと思い、上京したんです。大学では本当にテニスしかやるつもりなくて、実際にバイトもせず、部活ばっかりの生活をしていました。そんな中で、あるメーカーさんのカタログのモデルをやることになりました。もともと芸能界というかっこいい世界に憧れていたのもあり、やってみると実際に楽しくて。そして、部活の監督がワタナベの養成所の事務員さんと知り合いということもあり、ワタナベの養成所のオーディションを受けようと決めました。この仕事を始めるときは、両親にだいぶ反対されました。上京したときは「テニスをやる」と決めていた上に、父親は昔から僕に会社を継いでほしいと思っていました。東京で仕送りをもらって生活していたのですが、「芸能界に進むなら、そのお金を止める」とまで言われました。仕事をするのだから、お金を稼いでこいと。そこから僕はバイトをして、養成所にも通って、多忙過ぎて眠れない日々を過ごしました。すると、父親も「ここまでやるのか、それならしかたない」と認めてくれて。今は、母親も僕が出演した『恋とオオカミくんには騙されない』を観て、感想を送ってくれるようにもなりました。今思えば、この仕事が、何かを「自分からやりたい」と言いだした初めてのことだったと思います。今まで本当にテニスしかしてこなかったし、テニスにしても、なんとなくこれ以外に選択肢がないような状態で始めたものでした。しかし、今になってようやく自分で考えて決めた本当にやりたいことをできているなと思います。いまは自分の中で、「ほしいと思ったことは遠慮しない」と決めています。絶対後悔するから。後悔するようなことだけはしないようにしています。 ■お芝居を通じて「こんなにできないものがあるのか」と知った 今まで色々なスポーツをしてきて、割と何でもできてきました。しかし、お芝居をすると全くできないんですよね。「自分でもこんなにできないものがあるのか」という気持ちになって、初めて真剣にお芝居をやりたいと思いました。この仕事で楽しいのは、毎回違うこと、新しいことをやれること。勉強しても終わりがない一方で、勉強すればするほど結果に繋がる仕事だとも思います。今はもっぱら、いろんな作品を見て勉強しています。最近観た作品で非常に印象に残ったのは映画の『あゝ、荒野』です。ボクシングのトレーニングに励む二人の男性を描いた作品なのですが、本当にスポーツをしているよりもスポーツをしているように見えるんです。作品を通じてその迫力が伝わって、改めて俳優さんのかっこよさを感じました。 ■オーディションに10回落ちても、アカデミー賞をとるまで辞めない ただ、このお仕事をしてひとつ困っているのが、ドラマや映画がシンプルに観られなくなったことです。作品を観るたびに、色々考えてしまうんですよね(笑)。でも時々、そんなの全部取っ払って、作品に熱中できるときがあるんです。そういうときに「やっぱり俳優さんってすごい!」と思うし、いつか自分もそういう俳優になりたいなと思います。今、辛いことはオーディションに受からないことです。10回連続で落ちたときは流石に凹みました。役にはまらなかったり、知名度が足りなかったり、演技力が足りなかったり、要因はたくさんあります。でも、自分は「アカデミー賞をとるまではやめない」と決めているんです。だからこそ、凹む期限はその1日だけと決めています。その日は自分を思い切り甘やかして、次の日から頑張る、そうしてアカデミー賞を取る日まで頑張りたいと思っています。 ■自分の強みはとにかく「ポジティブ」 テニスの世界から芸能という全く違うものを始めて、今は常に不安しかありません。自分は今年大学を卒業する年代です。周りが卒業や就職を進めていて、一般的によく言われる「安定した道」を手に入れている。自分はそれこそ将来どうなるのか、この仕事で食べていけるのかと、不安なことばかりです。でも、そんな不安しか無い中でも、前しか見ないようにしています。「この仕事がなくなったらどうしよう」という後ろは見ません。もしそういう厳しい状況になったら、その時はその時に考えようと思っています。へこんでいてもしかたがない。その精神も、テニスから得られたものは大きいと思っています。ときには、自分が思ったように受け取ってもらえず、「自分はそう見えるのか!」と戸惑うときもありますが、そのときも自分が見えていないものを客観的に教えてくれてありがたい、と考えるようにしています。この自分の個性である「ポジティブさ」と「不撓不屈」の精神は今後大切にしていきたいですね。そこからさらに、役に自分のキャラをのせられるようにしていきたいなと思っています。 ■「恋とオオカミには騙されない」は刺激的なお仕事 今回の作品はオーディションでも自分のことを話しただけで、お芝居もしていないので、難しいと思うことは特にありませんでした(笑)。でも、ただの恋愛模様じゃなくて、みんなが行動するんですよね。そうじゃないと出ている意味がないから。そういうみんなが動いている姿を見て、「こういう風に動くんだ」と勉強になりますね。今回のメンバーは10人が10人、本当に仲が良いんですよ。みんな苦労を乗り越えてきているので、年齢の差や性別も関係なく、壁がないんですよね。自分も年下とか関係なく、同等の立場で接するようにしています。みんなとはお芝居とか仕事の話もたくさんしています。また、この作品でもらえるメッセージの量が増えました。メッセージをもらうことは純粋に嬉しいです。 ■大学時代は、社会に出るための準備期間 大学生のうちは、高校生と違って自由な時間も増えるし、やれることはたくさんあります。でも大学を出たあとにあるのは社会で、大学はその社会にでるための準備期間だと思うので、自分のやりたいことをやってほしいと思います。自分も今までしてきたテニスという道をやめてこの道に進みました。全く想像していなかった道ですが、すごく楽しいです。みなさんも後悔なくやりたいことをやってほしいです。僕も一緒に頑張ります! 学生新聞オンライン2021年3月18日取材 津田塾大学 3年 川浪亜紀

山本真人

井桁弘恵 前向きな気持ちをもって、どんなことも楽しんでいこう。

■プロフィール 女優 1997年2月3日生まれ。福岡県出身。ファッションモデルとして雑誌「MORE」や「JELLY」等多数出演。2020年「仮面ライダーゼロワン」や、テレビバラエティ、映画など多方面で活躍中。初写真集「井桁弘恵1st写真集 my girl」、2021年「井桁弘恵カレンダーブック」発売中。 早稲田大学への進学を気に、芸能活動を始め、一気にブレイクを果たしたのが、今大注目の女優・井桁弘恵さん。「実は人見知りだった」という性格も仕事を通じて克服し、様々な課題に対してもポジティブに取り組んでいく彼女に、仕事や日々の生活で心掛けていることや今後挑戦したいことを伺った。 ■演技に活きているのが、100%楽しんだ高校時代 高校時代は、勉強や部活に励む一般的な女子高校生でした。当時所属していたテニス部の部長や体育祭のリーダーをしたり、放課後には海に行って友達と写真を撮ったりと、今振り返ると学園ドラマのような学生生活だったのかなと思います。 早稲田大学への進学を機に上京し、芸能活動も学業と並行して取り組むようになりました。大学入学した当初は、学校の単位をとることに必死で事務所の演技レッスンと学業の両立がうまくできなかったのですが、進級するにつれて、芸能活動でもお仕事が少しずつ増えていきました。そうしていたら、3年生の終わりにゼクシィのCMガールオーディションに合格しました。そのころは同学年の友達達が就職活動を始めた頃で、どうしようかなと思ったりもしましたが、このCMが決まった事で、芸能活動を本格的にしていくという覚悟を決めたのを覚えています。 芸能活動に主軸を置いた際は、「中学・高校のときからモデルの活動をしている子たちに後れを取ってしまうのではないか」という不安もありました。しかし、高校時代を100%楽しめたことは私にとってとても価値があり、その経験が活かせることもあるので、今では本当によかったなと思っています。 ■一生懸命吸収しようという気持ちから、人見知りを克服 芸能界の仕事をはじめて、様々な現場に行きいろんな人と会えることはとても楽しいと感じます。いつも同じところで仕事をするわけではないので、毎回新鮮な気持ちでのぞめるというのはこの仕事の好きなところです。また、様々な経験を積むことが出来るのも、自分に合っている仕事だとも思っています。仕事を始めた当初は不安もありました。なので、現場でも後ろにいることが多かったです。けれど、そんな私の背中を当時のマネージャーさんに押していただき、「言われたことはやってみよう」「一生懸命吸収しよう」と心掛けて仕事をするうちに、段々と人見知りは治り、人と話すことが楽しくなりました。お世話になったマネージャーさんには本当に感謝しています。また、この仕事は、他の仕事と比べ広範囲の人を相手にしている仕事なので、実際に私に対してのコメントや反響といったフィードバックをいただけるので、やりがいのある仕事だと思います。例えば、最近出演させていただいた『仮面ライダー ゼロワン』であれば、視聴者の方々から「みました!」「明日の活力になります!」といった応援コメントをいただくので、それが本当にやりがいになります。 ■コオロギを食べ、ゴミ山に埋められ。そんな経験も貴重な体験 女優として活動している中で、演じている最中は私自身が良し、と思っていたお芝居も放送通じて客観的に観ると、「あれ?なんでこんなことしていたのだろう」と思ったりして、現場の感覚と見え方が違うことがあります。そうしたところはまだまだだなと思っていますし、これからの課題と思っています。また、芸能活動をしていて、今までコオロギやイモムシを食べたり、ごみ山に埋められたこともあります。けれど、仕事だと思うとストレスにならずに楽しめます。虫を食べることもゴミ山に埋まることもプライベートではできないですし、仕事だからこそできたことで、そう思うと楽しめます。どんな仕事であっても死ぬことや親に恥をかけなければいいと思っています。 ■リアルで生っぽい映像作品に、出てみたい 元々ラジオを聞くのはとても好きだったので、今後はラジオもやってみたいと思っています。あと、少し話とは離れてしまいますが、最近毎日あったことをノートにつけています。ほかにもVoicyという音声メディアを毎日投稿していて、私の何でもない日常や日頃感じていることなどを配信しています。Voicyを配信していくなかで、ときに1人では寂しいと感じることもあるので、いつかは2人もしくは3人で掛け合いなどをしながらできたらと思っています。モデルのお仕事でいえば、大人っぽいエッジの効いたモードな雑誌にもチャレンジしてみたいです。女優業の方では、映画『花束みたいな恋をした』を観てすごく感銘を受けたので、あんなリアルで生っぽい映像のものに出てみたいと思っています。ほかにも食べることが好きなので食べ歩きロケや旅番組にも出演してみたいですし、出身が福岡なので福岡を盛り上げたいと思っています。福岡県はラーメンはもちろん、苺のあまおうやうどんもおいしいんです。そうした福岡の魅力も伝えていけたらいいなと思っています。 ■将来のことは、社会に出てみないとわからないことも多い この仕事をしていていろんな境遇の方がいますし、いろんな道をたどって、この仕事にたどり着いている方がいます。大学の4年間って将来を決める上で、大切な4年間だと思います。けれど、いざ社会に出てみると思っていたよりもいろんな道があります。そのいろんな選択肢を得るためには、大学の卒業も必要かなと思っています。将来のことが決まってないなら決まってないでいいと思うし、社会に出てみてからでないとわからないことも少なからずあります。根を詰めて心が辛くなってしまったら、何とかなる!という気持ちの余裕をもって、勉強やサークル活動を頑張って今を楽しんでほしいと思います。 学生新聞オンライン2021年3月31日取材 明治大学 3年 山本真人

政治家

公明党衆議院議員 古屋範子

意志ある所に道はあり。志を持って動けば、社会は変わる ■プロフィール 1956年 埼玉県浦和市(現在のさいたま市)生まれ。早稲田大学第一文学部卒。公明党副代表。同女性委員長。元厚生労働副大臣。元総務大臣政務官。2003年 比例区南関東ブロックより初当選。現在6期目。高齢者虐待防止法、肝炎対策基本法などの成立に尽力。党女性委員長として、女性が輝くことのできる環境の整備に取り組んでいます。防災士。 声を上げて政策を打ち出していく議員が居なくなってしまうことや、政策が後退してしまうことはあってはならないと語る古屋範子さん。アレルギーや、貧困、ワクチン接種、認知症など多くの法律制定に尽力してきた経緯とお話を伺った。 ■勉強意欲が人一倍あった学生時代 私は、早稲田大学の第一文学部英文学科を卒業しました。大学1,2年生の頃は第二外国語のフランス語に苦しんだ思い出があります。授業数がとても多いのに内容も難しい。特に苦労したのは、動詞の変化ですね。また、教員にも憧れがあったので、教職課程も履修をしていた上、語学研究所に行って授業も受けていました。勉強意欲は人一倍多い学生だったように思います。大学1、2年生の頃は、全国を旅するサークルに入っていました。旅をすることで、各地の風情や、全国にある日本の良さを体感することができました。今でも全国各地にある美術館に立ち寄ったときには、絵を前にして「絵と向き合う時間」を作ります。その時間は自分にとって大切な「豊かな時間」ですね。学生時代は政治家になろうとは、はっきりと考えていなかったです。ただ、「爪痕のようなものでも良いから、社会のために何かをしたい」という気持ちがとてもありました。そのため、よく社会問題について議論をしていた学生だったと思いますね。 ■子育てや地域への活動から、議員の道へ 大学卒業後は、以前から興味を持っていた出版関係の仕事に就き、本の宣伝とかポスターを作ったり、本の作成に関わったりしながら社会人としての仕事をスタートしました。具体的に社会のために何かをするとまではいきませんでしたが、「仕事を一生懸命にやる!」と決め、取り組んだ20代でした。その後20代の後半で結婚し、30代で出産。また、引っ越しなどにも直面し、生活にいろいろと変化がありました。そこで仕事をいったん辞め、地域での公明党の党員活動に取り組んでいくことになりました。自分にも子どもがいるため、子育てや子どもの健康、アレルギー疾患の問題などに関心を持ち、活動をしておりました。「2003年に衆議院の候補にならないか」というお話をいただきました。自分にとっては青天の霹靂でしたが、幸いにも夫の後押しもあり、決意をして政治の世界に飛び込むことができました。政治家になって18年。あっという間でしたが、家族やスタッフの暖かな支えがあったからこそ、今までやってこられたなという思いがあります。 ■現在、2人に1人がアレルギーに悩んでいる 当時、NPOをはじめとする民間の方や専門の方と14万人を対象にしたアレルギーに関する調査活動なども行っていたため、国会議員になってからすぐに取り組んだのが、アレルギー疾患対策です。そのときの調査では3人に1人が何かしらの疾患で悩んでいたことが分かりました。しかし、その状況は悪化しており、2人に1人に近い人々が、特に若い世代を中心にアレルギー疾患で悩んでいるという結果が出ていました。そのため、まず学校や保育所でどうアレルギーについて対処したら良いかというガイドラインを作りました。さらに、アレルギーで怖いのが、アナフィラキシーショックを起こして死に至ることです。このアナフィラキシーショックを起こしてしまった際には、エピペンという薬を注射することが大事なので、エピペンの保険適用や舌下免疫療法の保険適用の政策を行いました。また、法律があれば永続的に実施されていくので、アレルギー対策疾患基本法の成立に向けて、4年を費やして粘り強く取り組み、成立させることができました。 ■議員になってからずっと取り組み続けたワクチン政策 また、議員になってから十数年間ずっと取り組んできたのが、ワクチンの政策です。日本はワクチン行政の後進国だと言われており、先進国とのギャップは20年以上開いていました。 そこでまず、取り組んだのがワクチンの定期接種化です。任意接種の場合は自己負担となり、1回の予防接種に高額の費用がかかります。その金額を自己負担するとなると、子育て世代にはとても大きな額になり、金額が払えない家庭では子どもにワクチンを打たせたくても打たせられないという状況が生まれていました。ですが、定期接種化すれば、自己負担なくみんなが接種できます。そこで、細菌性髄膜炎を防ぐため、子どもを守るためのヒブワクチンや小児用肺炎球菌ワクチンの定期接種化をできるようにしました。その後、水疱瘡、B型肝炎、高齢者の肺炎球菌ワクチンと定期接種化を可能にし、多くの方にとても喜んでいただけるようになりました。また、教育も、私にとっては大きなテーマです。子育ての基礎になるのが教育です。だからこそ、より多くの人が自分の受けたい教育を受けられるようにするべきだと思っています。いま振り返ってみると、当時教員の勉強をしたことは、今の私にも非常に役に立っていますね。これまでにも誰もが希望する教育を受けることができるよう、子どもの貧困対策にも力を入れ、そして2013年に「子どもの貧困対策推進法」を成立させました。経済的な格差が教育の格差に繋がってはいけないし、貧困の連鎖は断ち切っていかなければならないと感じています。 ■認知症問題は医療や介護だけの問題ではない ここ5年は認知症の問題に取り組んでいます。認知症によって、毎年多くの行方不明者が出ています。認知症は、医療や介護の問題だけでありません。自分の預金が分からなくなってしまったり、お店に行って買い物ができなくなってしまったりと、生活全般に通じ深刻な問題です。駅に行って道が分からなくなってしまうとなれば交通機関の問題でありますし、小売店や自治体の課題もあるため、もはや、一省庁にとどまる話ではないし、警察や企業にも大きく関わってもらわなければなりません。そこで、こうした総合的な政策が必要だということで、相当厚い提言を2度にわたって作り、政府に提出をいたしました。これにより銀行の窓口の取り扱いなどにも具体的な変化が生まれたりしました。また、認知症基本法の法律を作り、自民党に呼びかけて与党で国会に提出をしました。現在継続審議中で、今後、国会での成立を目指しています。少しずつでも社会が良い方向に変わってきていることを嬉しく思いますし、今後も、より良い共生社会を作るための法律制定に向けて、引き続き頑張っていきます。 ■志を持ち続ければ、道は開ける 学生さんたちには、生涯にわたって志を持って欲しいです。前へ進むことを忘れないでください。もし、仮に志が果たせるような職業に就けなかったり、そういう立場でなかったりしても、大切なのはその中で前を向いて進んで行くことです。志を持ち続けてれば必ず道は開けると思います。「意志ある所に道はあり」という言葉を、ぜひ胸に刻んでください。 学生新聞オンライン2021年3月2日 取材 日本大学 3年 辻内海成

大学理事長・大使館

サンマリノ共和国 マンリオ・カデロ閣下

日本の国柄と文化に魅せられて ■プロフィール 日本滞在歴約40年に渡り、神道に深く精通し、2014年6月サンマリノに日本の神社が建立された際には日本サンマリノ友好協会と共に尽力。日本の良さ、文化を広く発信し、書籍も執筆されている。『だから日本は世界から尊敬される』『世界が感動する日本の「当たり前」』(共に小学館新書)。最新刊に『良いマナーで良い人生を!』(勉誠出版) イタリアの中東部に位置する、大自然に囲まれた面積61平方キロメートルの美しい国、サンマリノ共和国。そのサンマリノの駐日大使であり、各国の駐日大使の代表である駐日外交団長も兼ねるマンリオ・カデロ大使に、ご自身のこれまでの道のり、日本やサンマリノの魅力について語っていただいた。 ■ジャーナリストから、大使、そして駐日外交団長へ  私は、学生時代はあまり勉強熱心とはいえませんでした。数学が苦手で、好きな教科である歴史や言語ばかり勉強するマイペースな学生でした。子供の頃から「ワシントンってどういう意味なの?」「O Kやチャオ(イタリア語の挨拶)の語源はどこからきたの?」というようにさまざまな言葉のルーツに興味があり、大学では語源学を専攻しました。ドイツ語、ポルトガル語、フランス語など、いろいろな言語も勉強しました。当時、日本語はあまり勉強していませんでしたね。大学卒業後はジャーナリストになり、イタリア新聞社で日本特派員として仕事をし、日本に移住してキャリアを積みました。ジャーナリストの仕事は、ジャンルを問わず幅広くいろんな方を取材でき、とても面白かったです。ドイツ人のスパイや女性として世界で初めてエベレスト登頂に成功した日本人の登山家など、非常に興味深い方を取材する機会もありました。 そうして26年間、ジャーナリストの活動を続けてきたのですが、記事の締め切りに追われる日々で、体力的にきついと感じるようになりました。そんな折、サンマリノに訪れた際に駐日本サンマリノ共和国の領事をしないかというお話をいただいたのです。私はジャーナリストも領事もそんなに変わらないだろうという気持ちで、このお話を引き受けました(笑)。それから10年以上領事をし、2002年に日本初のサンマリノの特命全権大使となりました。今では、最も駐在の長い大使として、日本に駐在する各国大使の代表、駐日外交団長も務めています。大使の最も重要な役割は、国と国を仲良くさせることです。自国のみを自慢したり、何か1つのことを主張し、強い意見を出したりしないよう、気を付けています。それぞれの国のバランスを取ることが必要なのです。 ■日本の魅力  私が日本に興味を持ったきっかけは、パリ大学で日本人の友人ができたことでした。彼は私のクラスメイトで、当時のオランダ最高裁判所の裁判官の息子でした。彼から日本のことを教えてもらい、昭和天皇の御生誕の祝日に日本の大使館に連れて行ってもらいました。着物を着た日本人がたくさんいて、美味しい和食と日本酒を頂きました。日本人は頻繁にお辞儀をし合っていて、マナーが良く真面目でとても魅力的に感じました。   日本の良いところは、日本人の人柄だけではなく文化にもあります。例えば、日本の宗教の1つである「神道」は素晴らしい日本の伝統文化です。実を言うと、私は神道を宗教とは捉えていません。私は神道には「エコロジー」と「平和」という素晴らしい日本の哲学が含まれていると考えます。女性神天照大御神が頂点となり世の中を平和にまとめ、八百万の神が空、海、魚など万物に宿ることで、自然は特別な意味を持つのです。現在、日本には外来の宗教であるキリスト教の教会がいくつもありますが、数年前までヨーロッパには神社は一つもありませんでした。ですから私は、2011年の東日本大震災の犠牲者を慰霊するためと、サンマリノに神道という大切な日本文化を残すために、日本サンマリノ友好協会と共に、2014年にサンマリノに神社を創建しました。ヨーロッパ初の神社がサンマリノに創建されたことは、今でも私の1番の自慢です。 ■サンマリノ共和国の魅力  サンマリノは世界で5番目に小さな国で面積は61㎢、世界最古の共和国です。街のほぼ全体が世界遺産に登録されており、街のいたるところに歴史的・文化的価値の高い史跡が残っている魅力あふれる国です。人口は約3万人と少なく、軍隊もないため、税金を多く課す必要がありません。料理も美味しいですし、治安も良く、消費税はゼロ、国民健康保険も100%保証され福祉も手厚いため生活しやすい、おまけに博物館が5つあって退屈もしません。私にとって、サンマリノは理想的な国です。 また他国と比べて、政治の仕組みに特徴があります。サンマリノでは半年ごとに国のトップが二人ずつ交代します。政権が長期化することで不正が起こるのを防ぎ、国民により多くの政治参画のチャンスを与えるためです。政治家はそれぞれ本業を持っているのも面白い点ではないでしょうか。国民が国内問題を一番よく知っているというわけです。 ■大学生へのメッセージ  ぜひ日本文化をよく学んでください。自文化を学ぶと、今まで知らなかった自分たちのルーツの素晴らしい側面を知ることができ、とても驚かされることがあるでしょう。例えば、皆さんは今では世界中の国家になくてはならない「国旗」の起源をご存知ですか?実は、1300年以上前、日本の文武天皇が朝日の登る光景を見て、赤い太陽と白い空を「日の丸」として表現し作ったところから始まったのです。 自文化を理解して、知識と教養を蓄えてください。そして、いつか自分が外国に行った時に、自分が驚かされた自文化の知識で、外国の皆さんをびっくりさせてみてください。 学生新聞オンライン2021年2月8日取材 津田塾大学 3年 脇山真悠

芸能人

駆け抜けて軽トラ 

性格も性別も体形も正反対のコンビが見つけた、お笑い業界の魅力とは ■プロフィール 2019年12月CX系列『ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ』にて、「昭和ポルノの世界」シリーズで優勝し、2020年1月NTV系列『ぐるナイ~おもしろ荘~』に出演し、一躍話題となる。Youtubeにコンビとして「駆け抜けて軽トラチャンネル」、餅田1人で「餅田コシヒカリチャンネル」を更新中。また、ラジオアプリGERA「グロリアス性春」(毎週木曜20時更新)に出演中。 小学校時代から芸人を夢見た小野島と、「最初は女優を目指そうと思っていて、お笑いは全然興味がなかった」と語る餅田。そんな真逆の2人で結成されたのが、お笑いコンビ「駆け抜けて軽トラ」。彼らがどのようなきっかけの中で出会い、地上波、舞台上、はたまたYouTube内の幅広い場面で活躍しコントをしているのか。いま注目の目が語る2人のお笑いにかける熱い思いを伺った。 ■学生時代はどのような過ごし方をしていましたか。 小野島:物心がついた時、とんねるずさんやウッチャンナンチャンさんをテレビで見て、床を叩きながら笑っている父親の姿に目を引かれ、芸人という職業に興味を持ちました。小学校時代は、とてもおチャラけていて、ひとつのことに集中できない人間でした。2年生の時には、当時の担任がそんな自分に皮肉も込めて「吉本興業に入れ」と言っていたのを覚えています。僕はそんな言葉を真に受けて、「吉本興業?響きもかっこいいし、行ってみたいな」と思ったのを覚えています。そこから、自分の夢は芸人で、卒業文集にも「夢は芸人です」と書いていたほど。大学時代は他大のお笑いサークルに入り、2か月に一度のお笑いライブに出るというような生活でした。そして、大学2年生時に、松竹芸能にスカウトをしてもらい、3年生になると事務所のライブなどにも出させてもらうようになりました。 餅田:私は高校時代、全国大会に行くような合唱部に入っていて、部活中心の生活でした。勉強はめっぽう苦手でしたね(笑)。高校1年生の最初からカンニングして停学になるような問題児でもあったので、大学進学は考えていませんでした。当時、急に女優になりたいと思ったこともあり、高校卒業後は演技が学べる専門学校に通いました。学校では劇団四季に入りたいと思い、歌とダンス含めミュージカルを頑張っていました。しかし、2年生の時に担当の先生に「太っている人は劇団四季に入れないんだよ」と伝えられ、進路に困っていた際、今の松竹芸能に声をかけてもらい芸人の道に進むことにしました。 ■お笑いというものをどう考えていますか? 小野島:僕の中ではお笑いは魅力的なものであり、昔からぶれない存在でした。古風な考えで行くとアウトサイダーのように思われる職業なので、大学時代はどう親に切り出そうかとも悩んでいました。最初はサークル感覚の遊びでやっているくらいだからと伝えていて、あまり本気でお笑いを目指しているとは見せていませんでした。そんな時、タイミングよく今の事務所に声を掛けられ、段階を踏んで許しを得ることができました。両親の存在は、僕にとっては大きくて、その後、25歳ごろに悩んでいたとき、普段は僕にあまり干渉してこない父親から、「今更辞めたいとか言わせねーよ」と言われたときに、お笑いを真剣に頑張らないとな、と思いました。 餅田:実は、お笑いに対しては今の相方と会うまで興味がなかったです。一昨年は「M-1」よりも、テレビで高橋大輔選手のフィギュアスケートを見ていました(笑)。お笑い芸人という仕事をする上では、渡辺直美さんやイモトアヤコさんのように女優業をされる方もいたので、「別にやってもいいかな」くらいの感覚でした。意識が変わったのは小野島さんが「私の中でのマイナスな部分は、お笑いの中で許されるもの」と伝えてくれたことが大きかったと思います。一般的には「ヤバイ人間」である私でも、お笑いの世界ではそれを面白いと思ってもらえる。女優を目指すと足を引っ張るポイントでしかない自分のこのアンバランスな体型が、お笑いをしていく上では武器になる。今は改めてお笑いという職業が自分に合っているなと感じる日々です。 ■お二方が組まれたきっかけは? 小野島:事務所の勧めですね。自分は、ちょうど前の相方が引退した矢先で、ピンの楽しさを感じていたばかりだったのですが、大人が会議で決めたことだから断れないなという感じで餅田とコンビを組むことを承諾しました。餅田の印象はネタもやらず地方番組に出ているだけの人で、すぐやめるのだろうなと思っていました。 餅田:私がネタを書けない人間だったのもあって、ネタを書くことができる小野島さんを勧められました。最初は「お疲れ様でした」と挨拶をするくらいの関係性だったんですけどね。私は逆に小野島さんは事務所ライブでは1位を獲れるけど、テレビでは評価されない人って感じました。 小野島:まぁ、お互いの印象はよくなかったですね(笑)。 お二人共の話を聞いていて、とても仲がいいように感じました! 餅田:私が切符の買い方もわからないような人間なので、小野島さんは私の中で何でも教えてくれるお世話係のような存在です。 小野島:コンビというものはちゃんと話していく必要があると考えているので仲良くしていくべきとは考えています。 ■仕事でのやりがいはどんな時に感じますか。 餅田:自分が子供のころから見ていた番組に出られたり、出演者に会えたりしたときには言葉にできない興奮を感じます。明石家さんまさんに会った時はオーラが、すごくて泣いてしまいました。ロケの中には、普通の旅行みたいな内容もあって温泉に入ったり、おいしいものばかり食べさせてもらったり、「こんな楽しいことで、お金をもらっていいのかな?」と感じる時もあります。楽しいことばかりではなくて、滝行などの体当たりロケもありました。同世代のOLだったら出来ないような経験も出来るので、それも逆にやりがいに感じます。 小野島:1年に数回あるか、ないかくらいなんですが、これどうかなっていう自信があるわけでもないネタがどーんとウケた時ですね。自分たちよりも面白い人たちがいる中でも、予想もしないくらいウケたときは、何とも言えない感覚というか……。神秘的な気持ちになります。 ■お笑いをやっていく上での苦労はありますか。 餅田:私はボケとツッコミの役回りがわからないくらいお笑いの知識がないので、まず学ばなければいけないのが大変です。また、バラエティ番組の現場は共演者たちの勢いに圧倒されてしまい、怖くて一歩踏み出す勇気が出ないのがつらいです。 小野島:今が一番大変です。コンビとして出た際にも、インパクトのある餅田ばかりが切り取られてしまって、どうしたら僕を忘れ去らないでもらえるかを常に考えています。 ■今後の夢はありますか。 小野島:「これぞ駆け抜けて軽トラだ!」というネタが欲しいです。今はYouTubeやラジオでコンビの仕事ができていますが、これをテレビでもやれたらなという風に思っています。 餅田:2人揃ってコンビでゴールデン番組に出たいですし、コーナー1枠でもレギュラーを持ちたいです。お笑いを頑張ると決めた分、賞レースでも結果を残せたらなと思っています。 ■message 餅田:「将来の夢がない」という大学生が、最近多いと聞きます。そんな人こそ、自分が楽しいと思うことを自分の意思でやってほしいと思います。あと、友達は大事にしてください。 小野島:自分がやりたいと思うことは、周りが何と言おうとやったほうがいいと思います。それは自分ひとりの単独行動でいい。友達がいないから寂しいと思わなくて大丈夫。焦って群れたやつから失敗するので焦らないでください。 学生新聞オンライン2021年3月2日取材 埼玉大学 1年 成田裕樹

政治家

自民党東京都連 最高顧問 TOKYO自民党政経塾 塾長温故知新塾 塾長 深...

「日本に人生を懸ける」と誓った少年の歩み ■プロフィール 浅草生まれ。終戦を満州で迎えた。一年後、引き揚げて長崎県佐世保市浦頭港に上陸。祖国日本の「土のあたたかさ」、迎えてくれた「日本人のやさしさ」に感動。その思いを胸に政治家を志した。  27歳で台東区議会議員に当選。33歳都議会議員を経て、37歳で衆議院議員となる。当選9回。  郵政大臣、自治大臣、国家公安委員長、通産大臣(2回)、予算委員長、テロ対策特別委員長を歴任。自民党三役総務会長。東洋大学大学院客員教授。  数多くの役職を歴任した大物政治家の深谷隆司さん。若き少年であった深谷さんが、将来政治家になることを心に決めさせた人生の大きな転機とは?また、学生時代から培われた「ある力」があったからこそ、政治家になる夢を実現できたのだとか……。政治家になる夢を追い続けた、そんな深谷さんの学生時代について語っていただいた。 ■満州の貨物列車で、生きるか死ぬかの想いを経験 私は幼い頃、満洲国のハルビンに家族と共に暮らしていました。この頃はまだ大東亜戦争終戦前ですから、日本人にとって満洲は本当に住み良い場所でしたよ。しかし、日本が破れると一方的に日ソ不可侵条約が破棄され、ロシア兵が押しかけ満洲は地獄と化したのです。ロシア兵が日本人の暮らす家に土足であがり、財産をすべて奪っていきました。また、日本人女性はロシア兵に辱めを受けさせられたため、全員髪を短く切って男の振りをしていたものです。一年後、やっと日本に帰ることが決まりました。約2ヶ月間、何万人もの日本人が満洲から日本に向けて野を越え、山を越え、歩き続けました。時々列車に乗ることができました。列車と言っても貨物列車で、人が乗れるような造りにはなっていなかったため、居心地の良いものではありませんでしたよ。さらに、その列車の運転手は日本人ではなかったため、私たちに金を出すよう脅したり、列車が一時停止した際に用を足しに降車した人たちを置き去りにして出発したりと、残酷な仕打ちをしてきたのです。置き去りにされてしまった人々は、生き延びることはできなかったでしょう。やっと日本の長崎県にたどり着きました。大人達がみんな地面に頬を付け、泣いて喜んだものです。当時小学生であった私も大人と同じように、日本へ無事帰ったことに涙しました。その時、「この国のために人生を懸けたい」と思い、「政治家」という3文字が頭に浮かびました。この時から私は、将来は政治家として、日本に人生を捧げることを心に決めたのでした。 ■「政治家」という夢実現への道を歩み始めた学生時代 日本に帰還した後は、東京都台東区で暮らしていました。長男である私を含めた5人の子供を養うために、父は靴職人として働き始めました。部屋や勉強机はなく、戸棚の二階で勉強していました。壁に「政治家になる」と書いた紙を貼り、自分を鼓舞しながら、勉強に励んでいたものです。父や母も私の夢を応援してくれていて、「隆司、政治家になっておくれ!」という母からの言葉は、私の支えになっていました。ある日、父から「政治家になりたいのならば、弁論部のある高校に入りなさい」と勧められ、唯一都立で弁論部のあった江北高等学校に入学を決めました。高校で演説の力を身につけ、大学は政治家が多く輩出される雄弁会に入るため、早稲田大学法学部に入学したのです。 ■墓掘りのアルバイト中にした、演説の練習 大学時代は学費を稼ぐために働かなければならなかったので、アルバイトもたくさんしていました。冬に墓地を開墾する「墓掘り」というアルバイトをした時は、初めに学生が13人もいたのですが、かなり根気と体力のいる仕事であったため、最後には自分1人になってしまいました。そんな中でも、墓地に向かって演説練習をしたりと、常に政治家になるための努力を惜しむことなく続けました。選挙応援の為、九州福岡のパチンコ屋の二階に住んだこともあります。だから私は成人式にも出ていません。また、学生生活最後には、「明日の会」の創設にも尽力しました。当時は40万人〜50万人ほどの若者が田舎から上京して来て、一斉に就職する「集団就職」というものがありました。集団就職でやってきた若者たちは皆色々な不安を抱えているわけですから、支え合える場を提供できないかと思い、作りあげたのが「明日の会」です。この、「明日の会」は私の選挙の母体となりました。このように、学業や友人との戯れよりも、政治家の夢実現へ向けた努力と、生活のための仕事に力を注いだ学生生活でした。 ■学生時代から培った「演説力」から、夢の政界へ 大学卒業が間近に迫り、周りの学生は就職をする時期になりましたが、私は27歳で選挙に出馬すると決めていたため、就職することは望みませんでした。そこで、時間に融通の効く仕事をしながら選挙準備を進めていったのです。たとえば評論家がたくさん所属している事務所の講演で前座などもやりました。大学卒業後は鳩山一郎さんの奥様である、鳩山薫子さんに頼まれて「全日本婦人連盟」の創設に参加しました。働きつつも選挙準備をし、予定通り27歳で出馬し、56人中7番で台東区議会議員に初当選することができました。私が当選した一番大きな理由は、徹底した政治学の勉強と演説力であったと思います。ゼロから出発した私は後援会組織を拡大させ、盤石な体制をつくり、都議会から国会へ50年の政治人生を過ごしました。私の政治家としての基本は愛国心です。 ■人生設計は、少しでも早く具体的に決めよう 自分の人生設計は早めに具体的に決めることを強くお勧めします。そして、その夢を人に語ってください。人は言葉にすると、実行できるものです。夢に近づけるように、一歩足を進めてみてください。なんとなく大学に行って「楽しい大学生活を過ごしたなあ」では、もったいないですよ。一度きりの人生なのですから、大学時代に思い切って夢へ踏み込んでみてくださいね。 学生新聞オンライン2021年4月2日取材 津田塾大学 2年 佐藤心咲

芸能人

パルテノンモード

その時、面白いことを何でもやる! ■プロフィール プロダクション人力舎所属。宮治慎吾(左)/愛知県出身。1990年生まれ。小野龍一(右)/栃木県出身。1995年生まれ。スクールJCA27期。2018年6月結成。事務所ライブ「バカ爆走!」「どっきん!」出演中。CX「ネタパレ」に出演等、ライブ・テレビ等で活躍中!公式プロフィール:http://www.p-jinriki.com/sp/talent/parthenonmode/ 2018年6月に結成したお笑いコンビ・パルテノンモード。バラエティ番組『ネタパレ』CX)に出演した際、恋愛シミュレーションゲームに出てくる脇役のモノマネが「リアルすぎる」と一躍話題になった。そんな彼らに、お笑いを目指したきっかけ、コンビ結成に至った経緯、今後の目標について、話を伺った。 ■どんな学生時代を過ごしていましたか? 宮治:僕はひたすらイケてないグループに属していました。当時、クラスの中心で目立っている人を見ては、「あいつらは、ただひょうきんなだけで面白くないな」と思っていました。いま思えば、とがっていただけなんですけど(笑)。あとは、クラスの女子が会話しているところに、頭の中で参加する「エア女子会」に参加したりもしていましたね。友達があまりいなかったので、楽しかった思い出はほとんどないです(笑)。ただ、アニメやゲームが好きだったので、誰よりも早く帰って、アニメを見て、ゲームをやって、宿題をやって22時には寝るという健康的な生活を送っていました。 小野:僕は逆に勉強は全くしていなくて、ほとんど遊んでいましたね(笑)。高校時代は授業中ですら1分間も勉強していなかったです。いつも学年の成績は下から4番目で、おバカ四天王と呼ばれていたくらいですし。でも、大学は運よく東京の大学に受かりましたね。ゲームを通じて知識があった『三国志』の問題しか、手ごたえなかったのですが(笑)。 ■お笑い芸人に興味を持ったきっかけを教えて下さい。 小野:僕は小学生の時に野球をやっていたのですが、県大会の出場を決める大事な試合で負けてしまい、落ち込んでいた時があったんですよ。その時に、テレビで『イロモネア』という番組でお笑い芸人のゴー☆ジャスさんの宇宙海賊ネタを観たんです。めちゃくちゃ滑っていたんですけど、それが面白くて。さっきまで落ち込んでいたのに、一瞬で笑うことができるようになったんですね。その時、「お笑いってすごいな」と思って、お笑いに興味をもち始めました。 宮治:僕は、「 M-1グランプリ」を小学生の時に見て、そこでネタをやっている人がすごく格好いいと思ったんです。そこから、芸人に憧れて、小学校の時に親友だったやまちゃんいう子とコンビを組んだのがきっかけでした。小学校の卒業文集にも「お笑い芸人になりたい」と書くくらい、当時からお笑い芸人になりたかったんですよ。夏休みの自由研究では、当時の相方であるやまちゃんと、品川庄司さんを研究して、その研究結果を生かして漫才やったりもしましたね。でも、その結果は地球中がひっくり返るほどにすべって、たいして仲良くないクラスの女の子に「もっと調べてちゃんとやったらいいと思います」と注意されるほどで……。実はその体験が、その後も15年間くらいずっとトラウマでしたね(笑)。 ■コンビを組まれたきっかけを教えて下さい 宮治:所属している事務所の養成所で、相方を探すイベントがあったのですが、そこで出会ったのがきっかけでした。これは、相方がいない同士で婚活パーティーみたいなもの。いろんな人と1分間ずつ話して、気が合う人を見つけるという。 小野:たしか60人くらいいましたかね。そこで、僕らはアルコアンドピースさんのラジオが大好きなんですが、初対面ながらその話で盛り上がったんですよ。 宮治:僕は最初、第一志望の女芸人に告白したんですけど断られて、第二志望で現在の相方である小野さんに告白しました。でも、始めは小野さんも、僕とは別に組みたい人がいたので断られて……。ですけど、次の日には小野さんから「やろう」と言われたんですよ! 「昨日俺のこと振ったのにふざけんなよ」と思ってはじめは断りましたね(笑)。でも、僕はその後、別の人と組んだのですがうまくいかず、1か月後くらいに「やっぱり一緒にやりましょう」と小野さんと組むことになりました。 ■コンビを組まれた当初は、どんな形だったのですか? 宮治:養成所時代に実は一度解散しているんですよ。一番の理由は、当時、僕は相方のことを面白いとは思ってはいなかったから。しかも、ネタも書かないし、遅刻はしてくるし、「なんもしないじゃん、こいつ! めちゃめちゃダメなやつだな」と思って(笑)。そんなときに、当時、ひそかに面白いなと思っていたやつに「自分と組まないか」と言われて。目先にいる素行の悪い奴と組むより面白い奴と組む方がいいなと思って、解散したんです。でも、その新しい相方とは、最初はうまくいっていたんですけど、だんだんうまくいかなくなって……。 小野:僕が、そのとき宮治がその新しい相方とうまくいかずに落ち込んでいるのを見たので、時々お茶を渡すなどして気を使ってたんですよ。 宮治:これまで冷たかった人から急に優しくされると、キュンとするじゃないですか(笑)。それと一緒で、僕も小野さんの優しさにキュンとしちゃって(笑)。それで「コンビって面白さじゃなくて、人間的に一緒にいたい人とやるべきだな」ってことに気づかされて……。それで、コンビを組み直しました。 小野:長くいるとなると、「人間的にここ嫌だな」と言う部分がでてきて、解散する人も割と多いですからね。 ■仕事でのやりがいは何ですか? 宮治:ライブでお客さんが笑ってくれることがやはり嬉しいですね。それに勝るものはないです。普通に生活していて、大勢の人に笑ってもらうという経験はめったにできないので感動します。個人的には、SNSでよくエゴサするので、いいコメントをスクショして、落ち込んだ時に見返しています。だから、ケータイの写真のフォルダースクショだらけです(笑)。 小野:事務所から仕事を貰えたり、今まであまり応援に来てもらえていなかった友達がライブに来てくれたりすることです。自分は認めてもらい始めているんだなと感じますし、やりがいがあります。 ■今後チャレンジしてみたいことは? 小野:賞レースでの優勝はしたいです。あとは、テレビ番組にも出演していきたいです。ドラマやラジオ、教育番組。あとは、『タモリ倶楽部』みたいに、趣味に特化した話を聞くのも面白いので、そういう番組もいいですね。 宮治:賞レースとしては、まずはM-1を頑張りたいです。お互いにラジオが好きなので、先輩方のラジオに出させてもらえないかなと思ってます……。テレビにも全然出ていないのでテレビ出演もしたいですね。個人的にアニメが好きなので声優さんともお仕事をしてみたいです。アニメ関係のお仕事が多い粗品さんが、うらやましいです! ■最後に学生に向けてメッセージをお願いします。 小野:大学生はいろいろと経験できる唯一の時間なので、なんでもやってほしいと思います。将来のことは誰にもわからないので、先のことは考えなくていいから今やりたいことをチャレンジすることが大切だと思います。最終的に何をするかを決断しなければいけない時に決めればいいので、興味のあることに気軽にチャレンジしてほしいですね。 宮治: 大学4年間は、今まで自分が好きだったことはなんだったのかを振り返るいい時間にしてほしいです。僕自身にとっても、大学時代は今までの自分を振り返るのに貴重な時間だと思うんですよ。自分の好きな場所に行ったり、好きなことを勉強してみたり。そうやって色々なことをする中で、自分が好きな物を覚えて、今後自分がなすべきことを悟ったらいいと思います。大学時代は、覚悟する4年間だと思うんです。だから、多くの大学生の方々に向けて、僕が恋愛シミレーションゲームの杉下先生の言葉から学んだ「覚悟」という言葉を送りたいと思います! 学生新聞オンライン2021年2月9日 東洋学園大学1年 田澤涼夏 プロダクション人力舎からの告知 ◆若手お笑いライブ「バカ爆走!」 ※5月は緊急事態宣言中の為、中止 ◆プロダクション人力舎主催「どっきん!」

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松井咲子 ピアノは私に現実を突きつけ、私を活かしてくれた!

■プロフィール 1990年12月10日生まれ、埼玉県蕨市出身。桐朋学園短期大学卒業。2008年より「AKB48」に在籍。2015年8月卒業。現在は、テレビ埼玉「魅力まるごと いまドキッ!埼玉」、NACK5「松井咲子の気になる子さん」、ワロップ放送局「松井咲子の爆笑クレッシェンド」にレギュラー出演中。昨年末よりピアノコンサート「Blooming Piano」を始動し、特技のピアノを活かした活動も精力的に行っている。 「音大生であり、ピアニストであり、AKB48のアイドルである」それは松井咲子さんにとって自分の強みでもあり、心の葛藤を生む原因でもありました。「ピアノは感情表現のツール」と語り、前向きに明るく挑戦し続ける彼女は何を思い、どんな人生を送ってきたのか。30歳になった今、お話を伺いました。 ■ピアニストを目指し、ピアノに現実を突きつけられる  小学生の時は本当に普通の子でした。モーニング娘。さんが好きだったので、振り付けを覚えて人前で披露することはしていましたが、目立つのは苦手なタイプでした。自分がアイドルになるなんて想像もしていなくて、ピアノの先生をしている母を見て自分もピアノ関係のお仕事に就きたいなと思っていましたね。ピアノを始めたのは4歳の時です。そして、中学生になってから音大付属高校に通っていた兄の影響を受け、「音大付属高校に入って、ピアニストを目指したい」と思うようになりました。付属高校の入試にはピアノの実技試験があったので、中学生の時は試験対策にピアノの練習を毎日続けていました。休みの日も1日中ピアノを弾き、放課後も友達と遊びにも行かずピアノの練習をしていました。さらに、合唱部にも入っていたので合唱とピアノとで、今考えると音楽漬けの日々でしたね。 ピアノに向き合ってひたすら練習を重ねた結果、無事、東京音楽大学付属高校に合格しました。しかし、そこで「音大付属高校に入ってもピアニストになれるのはごく一部で、自分よりもピアノが上手い人はたくさんいる」と知り、現実を突きつけられました。それでも「ピアノをとったら自分には何の取柄も無くなってしまう」と思い、ピアニストにはなれなくても音楽関係の仕事はしようと考えていました。そんな時、母がAKB48のオーディションに応募していて、面接があることを急に伝えられました。アイドルになろうとは全然思っていなかったので、私自身オーディションには渋々参加したのですが、合格を頂き、アイドルへの道が開けました。 ■学校との両立が大変だったAKB48時代  当時、AKB48のメンバーの中に高校や大学に通っている人は少なかった上、学校ではAKB48があまり認知されていなかったので、高校の時はアイドル活動をしている事を自分の口から学校の友達に言うことが出来ませんでした。大学に入ってからはアイドル活動が忙しくなり、あまり大学に行くことが出来ない状況でした。「音大生アイドル」という覚えやすいキャッチコピーを付けて頂き、お仕事も頂いていたので「学校に行っていないのに音大生と名乗っていいのか……」と常に不安に思っていましたね。そんな中でも、アイドルと学校の両立が続けられたのはAKB48のメンバーやファンの方のおかげでした。「辛い時辞めるのは簡単だけど、これを乗り越えれば必ず良い事がある。応援してくれる方、自分を認めてくれる方がいる限り、頑張りたい」。そう思って、毎日必死に活動をしていました。自分は歌もダンスも得意ではなくて苦労をしましたが、目の前の事をこなしていくことで、自分の経験値が上がっていくのが感じられて、楽しかったです。 AKB48の好きなところは、皆がチームのために頑張っていたところです。メンバーは皆、「自分のため」というより「AKB48のために」行動している人ばかりでした。お互いを蹴落とし合う雰囲気は一切なく、1人1人の得意分野をどうしたら生かせるかを意識していました。その上でも他の人と被らないキャラ付けをすることは大事で、私は「大学生であり、ピアニストである」という強みをAKB48のために生かしたいと思っていました。 結局、大学は休学の末、辞めることになり、AKB48の活動一本に絞ったのですが、25歳の時、短期大学に入り直しました。そこには子育てが終わって学び直している方など幅広い年齢の方がいて、刺激を頂きました。自分も音楽についてまた深く学び直すことが出来て、とても楽しかったです。 ■クラッシックとアイドル(ポップミュージック)の懸け橋になりたい  私は今、30歳になりましたが、やりたい事をさせてもらっていて、新しいことに挑戦できている日々がとても楽しいです。知らない事はまだまだたくさんあって、その中に出来ることが多くあると思っています。最近、写真集を出させて頂いたのですが、AKB48時代には出来なかった経験なので、お話を頂いた時は嬉しかったです。「AKB48にいた時はファンではなかったけど、後からファンになって写真集を買いました」と言ってくださる方が多く、有難く思っています。「30歳になっても挑戦できることはまだあるんだな」と勇気を頂くきっかけになりました。 私の夢は、アイドル好きの方にクラッシック音楽の魅力を伝え、クラッシック好きの方にアイドルを好きになってもらうことです。このふたつの領域の懸け橋となることが「私にしかできない音楽の仕事」ではないかと考えています。 私にとってピアノは、感情表現のツールです。ピアノを弾いているときは自分の想いが出せますし、ピアノの演奏を聴いて私に対するイメージが変わったといって頂くことも多いです。ピアノの疲れをピアノで癒しているときもあって、気分転換をしたいときもピアノを弾いていますね。まだまだ音楽を勉強して、いつかはAKB48に楽曲提供をするのが夢です。 ■message  私は大学生の時、大学生らしい大学生活を送れなかったので、皆さんが羨ましいです。だから、後悔が無いよう、思いっきり楽しんでください。限られた時間ではありますが、出来ることはたくさんあります。何を始めるにも遅いことはなく、後の人生を考えると今が一番若いです。なので、焦らず、得意なことを伸ばしながらやりたい事をやってください。自分は何も出来ないと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、必ず何かがあります。それは自分ではなく、周りの方が見つけてくれる時もあるので、自信を持ってください。一緒に頑張りましょう。 学生新聞オンライン 2021年2月6日取材 津田塾大学3年 松本麗奈

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ストレッチーズ

慶應卒の高学歴コンビが、就活後も諦められなかった「お笑いの道」 ■プロフィール 太田プロダクション所属の漫才師。漫才師の頂点を決めるM-1グランプリでは2017年から4年連続準々決勝進出。ラジオアプリGERA「ストレッチーズのプリ右でごめん」が毎週水曜日20:00最新回更新。K-PROライブ多数出演中。 共に慶應義塾大学卒業というスーパーインテリお笑いコンビ、ストレッチーズの高木貫太さんと福島敏貴さん。そんな天才頭脳を持った2人は、何故お笑いの道を目指そうと思ったのか?奇抜な学生時代の仰天エピソードをはじめ、ここまで共に歩んできた2人の軌跡に迫りました。 ■僕らは高校時代からずっと一緒でした 高木:僕たちの出会いは高校生の頃でした。埼玉県立高校の中でも最難関校である浦和高校に通っていた僕らは、勉強が大好きな“ガリ勉”でした。ほとんど勉強に明け暮れる高校時代を過ごしていましたが、唯一文化祭の時だけはかなり気合を入れていましたね。何故なら浦和高校は男子校なんです。文化祭は一年に一回だけの女子と触れ合えるチャンスですから、気合が入りましたね。女子からの注目を浴びたくて、文化祭のイベントである“ミスコン”に福島と一緒に出場していました。浦和高校は男子校なのにミスコンがあるんですよ。男子が女装して出場するんです。この頃から僕らは人前に出て、たくさんの人を笑わせることが好きだったんです。 福島:僕らは大学も同じで、どちらも慶應義塾大学を卒業しています。僕はずっとお笑いが好きだったため、入学してすぐに慶應のお笑いサークルに入りました。入った初日に「何か面白いことをしないと!」と思い、みんながゲームキューブをやっている中に、キューブを投げて「1がでましたー!」というギャグをしたら、部長の大目玉を食らって出禁になりました。さすがにやってしまったなと思いました。そして入学早々ハプニングを起こした春も過ぎ去り、ある夏の日、同窓会で高木に再会しました。そこで、僕が出禁になったお笑いサークルで高木が普通に活動していることを聞きました。高木が僕に「そろそろ熱も覚めたし、謝れば大丈夫!」と言うので、ある秋の日、正装である(と思っていた)スウェットを着て部長に謝りに行きました(笑)それらを経て、サークルに復帰することができました。そして高木とコンビを結成しました。高木はすでに違う人とコンビを組んでいたのですが、「出禁を食らった人」というレッテルが貼られたままで、コンビになってくれる人が見つからない僕ともコンビを組んでくれたんです。 ■お笑いの道に進もうと思ったきっかけ 高木:実は僕、大学生の時に2回『学生M-1グランプリ』で優勝しているんです。2回目は福島とコンビで優勝したのですが、1回目はお笑いサークルで福島の前から組んでいた人とのコンビで優勝しています。その経験から「プロのお笑いの道に進もうかな」と思い、1回目の優勝時にコンビを組んでいた相方とお笑いの事務所のオーディションを受けに行きました。でも、そこで僕は挫折を味わいましたね。その時の面接官が僕を指差して「君、才能ないね」って言ったのです。本当にショックで、当時の相方に「俺はもうお笑いは辞める」と言って、お笑いの道を一度諦めました。そんな僕でしたが、お笑いの道への熱意が再燃したのは2回目の『学生M-1グランプリ』でのことでした。諦めていたはずだったのですが、お笑いへの道を意識していた福島に誘われて2回目の出場を決めました。僕は「福島と最後にお笑いをやって、就活して卒業しよう」と思っていましたが、なんと2回目の『学生M-1グランプリ』でも優勝することができたのです。2度目の優勝を果たし、僕のお笑いの道への憧れが蘇ってきたのです。 福島:僕が初めにお笑いへの道を意識したのは、三井住友海上の5日間のインターンでのことでした。学生5人グループで、「保険にどうしたら入会してもらえるのか」というテーマでプレゼンをする機会がありました。そこでお笑い好きの僕が「コントをやりたい!」と言ったら、学生も、社員の人もみんな賛成してくれて、コントでプレゼンをすることになりました。そこで披露したコントが、かなりウケたんですよ。自分が作ったネタで、みんなを喜ばすことができました。それが嬉しくて、「お笑いをしたい」と思うようになりました。そして高木と出場した『学生M-1グランプリ』での優勝を経て、さらにお笑いへの想いが強くなったのです。 高木:このようにお笑いに意識を向けていた僕らですが、実は普通に就活もしています。両方とも親がお笑い芸人になることを反対していたので、3年生の1月~3月くらいまでは悩みながらも就活をしていました。全く身が入らなかったんですけどね(笑)。そんな就活の中でのエピソードなのですが、電通さんの面接日に朝起きることができず、面接をすっぽかしてしまったことがありました。15時くらいに起きてしまって、青ざめたのを覚えています。リビングに向かうと、母がとても怒っていました。なんとか言い訳をして、母の怒りをおさめなければと思った僕は、とっさに「お笑いをやるから!だから面接に行かなくていいんだ!」と言ってしまいました。この時初めて母にお笑いをやりたいと打ち明けたため、今思えば覚悟を決めた瞬間であったように感じます。 ■message 福島:大学時代は自分にとって濃厚な時間であったため、今でも週5日は当時のことを思い出します(笑)大学時代の思い出が、明日を生きる希望になっていることもあると感じています。だから皆さんにも、「あの時よかったな」って後々振り返ることができる思い出を作ってほしいです。限られた青春時代の時間を、ただただぼーっと過ごすのは勿体ない。寝る間も惜しん様々なことにチャレンジして、頑張ってほしいですね。 髙木:僕は大学でお笑いサークルに入ったことがきっかけで、お笑いを目指そうと思うようになりました。元々お笑いは好きだったけど、芸人になるっていう感覚は持ったことがありませんでした。しかし、お笑いを目指す先輩、目指していたけど辞めた先輩、実際にお笑い芸人になった先輩にサークルで出会って、僕の意識が変わりました。だから皆さんには、色んな人と出会って、話してほしいです。多くの人との出会いの中で、自分のやりたいことを発見できると思います。あと、僕みたいに就職の面接日に寝過ごしてしまわないよう、気をつけてくださいね(笑) 学生新聞オンライン2021年2月22日取材 津田塾大学1年 佐藤心咲