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Archive for 運営スタッフ

芸能人

三戸なつめ 個性を大事にし、これからもファンの皆さんに伝えていきたい

■プロフィール 1990年2月20日生まれ。奈良県出身。2015年に中田ヤスタカプロデュースによる『前髪切りすぎた』でアーティストデビュー。2018年より、本格的に俳優としても活動を開始し、ドラマ&映画「賭ケグルイ」に出演。NHK連続テレビ小説「おちょやん」では実母役に挑戦する等、今後も多数のドラマや映画の出演を控えており、モデル、タレント、女優として幅広いジャンルで活躍している。 トレードマークである短い前髪で、NEWクレラップのCMなどが話題となった女優の三戸なつめさん。モデルや女優をはじめ、様々な分野で活躍をする彼女の想いとは。また、彼女にとっての仕事やファンの存在はどのようなものかを伺った。 ■服飾を学びながら読者モデルを始めた学生時代 小さい頃から洋服が好きだったことと、当時読んでいた『ご近所物語』という漫画で描かれるキャンパスライフに憧れを持ったことから、服飾の専門学校に通うことにしました。私は子供服を専攻し、洋服のデザインを考えたり生地を選んでミシンで縫ったりと、ゼロから洋服を作る勉強をしていました。学校生活は課題が多く大変でしたが、友達と徹夜して洋服を作ったり、文化祭ではチームで考えて洋服を作ったりと、かけがえのない日々だったと思います。そんな忙しい日々を送りつつ、読者モデルのお仕事もしていました。読者モデルは、関西の雑誌『ガールズスタイル』のスナップを撮られたことがきっかけです。もともと雑誌を読むことが好きでスナップを撮られることにも憧れがあったので、撮られた時はとても嬉しかったですね。モデルの仕事と勉強との両立は正直大変でしたが、学校の先生が読者モデルをしていることに理解を示してくれたり、周囲の友達なども助けてくれたりしたおかげで、なんとか進んだ学生時代でした。 ■モデルや女優、コラボデザインまで。幅広い活躍に至るまで道のり 芸能界に進んだきっかけは、読者モデルをしていた雑誌とアソビシステムとの合同イベントで、声をかけてもらったことがきっかけです。当時、読者モデルとサロンモデルの活動を続けていく中、服飾以外でいろんな活動をしてみたいと思うようになり、それが叶えられるのが芸能活動だと思って、話をもらって芸能界に飛び込みました。2015年に中田ヤスタカさんプロデュースの『前髪切りすぎた』でデビューしました。当時の髪型、オン眉については、中学生の頃からずっとオン眉で、自分的には可愛いと思っていたので、曲に使ってもらえた上、それが皆さんにも個性として知ってもらえたので嬉しかったですね。現在は女優のお仕事と、ブランドさんとのコラボでウンナナクールという下着のブランドでルームウェアーを作りました。他にもWEB版のファッション雑誌のモデルやYouTube活動など色々なことをしています。基本的に私はいただいた仕事はNGを出さないようにしているんです。その理由としては、「いろんな活動をしたい」という思いと、わざわざ自分のことを見てくれて、お仕事を提案していただいている相手の気持ちに応えたいという思いがあるからです。これからも三戸なつめとしていただいたお仕事は全部受けていきたいですね。 ■自分のためより、誰かのためのほうが頑張れる 演技のレッスンを受けている中で、よくその先生から「三戸なつめは何を伝えていきたいんだ」と言われていました。丁度コロナ期間で時間もあったので、自分には何ができるのだろうと、よく考えていました。そんな中、ファンの方々からのメッセージの中で「生きる活力が見つかりません」とか「ご飯が喉を通りません」というようなネガティブなメッセージをいただいていました。自分には何ができるのだろうかと考え、苦手だった料理をはじめ、それをSNSで発信してみました。正直見栄えはしませんでしたが、ファンの人たちから、「なつめちゃんのご飯を見ていたら頑張らなくてもいいんだ」とか「勇気が湧いてきた」など反響がありました。コロナでお仕事は減っていましたが、そんなSNSの反響などを受けて「ファンの方々がいるから頑張れているのだ」と改めて気づきました。私は自分のために頑張るより、誰かのための方が頑張れる。そう思うようになったんです。今後の活動としていろんなことに私は挑戦していますが、みんなにパワーを与えられるように頑張っていきたいです。 ■人と違っても大丈夫。好きなことを発信して 大学生のみなさんには、大きく分けて2つのことを伝えたいです。1つ目は、自分の「好き」をもっともっと大事にして欲しい。好きがわからない人でも、自分がときめいている瞬間はあると思います。そのようなことには敏感に反応して欲しいですね。それは個人の感情でもあるので、そのような個性を大切にしていって欲しいです。また、世の中はみんながいいと思っていることがいいとされる風潮があり、人と違うことをするのに抵抗を感じている人がいると思います。そういう人たちには、「マジで大丈夫だから、自分の好きなことを発信していって欲しい」と伝えたいです。2つ目は、自分の意思を持ち、今やっていることを諦めずに頑張ってほしい。特に専門職の道だと、一概に「楽しい」や「好き」という感情だけではやっていけない世界だと思います。つまずくことはあると思うけれど、ずっと頑張っていれば、その経験は無駄ではないと思いますし、何か達成できると思います。例え失敗してしまったとしても、自分の考え方次第でいい経験だったと思えるようになると思うので、なんでも諦めずに続けていって欲しいです。 学生新聞オンライン2021年3月16日取材  文教大学2年 早乙女太一

川浪亜紀

井上想良 前しか見ない。それが自分の強さ。

■プロフィール 1998年8月12日、大分県出身。2020年に俳優デビュー。NHK『ファーストラヴ』やFOD『シンデレラはオンライン中!』など数々のドラマに出演。ABEMAの大人気恋愛リアリティーショー『恋とオオカミには騙されない』に出演し注目を集める今後期待の俳優。 「かっこいい俳優になりたい」。そう語る井上想良さん。3歳からテニスを始めて、テニス以外の道は考えられなかった幼少期。しかし、大学時代に出会った芸能の仕事に夢中になり、両親からの猛反対を受けつつも、自分の道を突き進んだ。様々な苦労を乗り越えて、今の仕事に懸ける思いや俳優という仕事への思い、今後の目標について迫る。 ■全く考えていなかった芸能のお仕事への挑戦 大学はスポーツ推薦で入りました。3歳から続けていたテニスを、一部リーグの強い大学でやりたいと思い、上京したんです。大学では本当にテニスしかやるつもりなくて、実際にバイトもせず、部活ばっかりの生活をしていました。そんな中で、あるメーカーさんのカタログのモデルをやることになりました。もともと芸能界というかっこいい世界に憧れていたのもあり、やってみると実際に楽しくて。そして、部活の監督がワタナベの養成所の事務員さんと知り合いということもあり、ワタナベの養成所のオーディションを受けようと決めました。この仕事を始めるときは、両親にだいぶ反対されました。上京したときは「テニスをやる」と決めていた上に、父親は昔から僕に会社を継いでほしいと思っていました。東京で仕送りをもらって生活していたのですが、「芸能界に進むなら、そのお金を止める」とまで言われました。仕事をするのだから、お金を稼いでこいと。そこから僕はバイトをして、養成所にも通って、多忙過ぎて眠れない日々を過ごしました。すると、父親も「ここまでやるのか、それならしかたない」と認めてくれて。今は、母親も僕が出演した『恋とオオカミくんには騙されない』を観て、感想を送ってくれるようにもなりました。今思えば、この仕事が、何かを「自分からやりたい」と言いだした初めてのことだったと思います。今まで本当にテニスしかしてこなかったし、テニスにしても、なんとなくこれ以外に選択肢がないような状態で始めたものでした。しかし、今になってようやく自分で考えて決めた本当にやりたいことをできているなと思います。いまは自分の中で、「ほしいと思ったことは遠慮しない」と決めています。絶対後悔するから。後悔するようなことだけはしないようにしています。 ■お芝居を通じて「こんなにできないものがあるのか」と知った 今まで色々なスポーツをしてきて、割と何でもできてきました。しかし、お芝居をすると全くできないんですよね。「自分でもこんなにできないものがあるのか」という気持ちになって、初めて真剣にお芝居をやりたいと思いました。この仕事で楽しいのは、毎回違うこと、新しいことをやれること。勉強しても終わりがない一方で、勉強すればするほど結果に繋がる仕事だとも思います。今はもっぱら、いろんな作品を見て勉強しています。最近観た作品で非常に印象に残ったのは映画の『あゝ、荒野』です。ボクシングのトレーニングに励む二人の男性を描いた作品なのですが、本当にスポーツをしているよりもスポーツをしているように見えるんです。作品を通じてその迫力が伝わって、改めて俳優さんのかっこよさを感じました。 ■オーディションに10回落ちても、アカデミー賞をとるまで辞めない ただ、このお仕事をしてひとつ困っているのが、ドラマや映画がシンプルに観られなくなったことです。作品を観るたびに、色々考えてしまうんですよね(笑)。でも時々、そんなの全部取っ払って、作品に熱中できるときがあるんです。そういうときに「やっぱり俳優さんってすごい!」と思うし、いつか自分もそういう俳優になりたいなと思います。今、辛いことはオーディションに受からないことです。10回連続で落ちたときは流石に凹みました。役にはまらなかったり、知名度が足りなかったり、演技力が足りなかったり、要因はたくさんあります。でも、自分は「アカデミー賞をとるまではやめない」と決めているんです。だからこそ、凹む期限はその1日だけと決めています。その日は自分を思い切り甘やかして、次の日から頑張る、そうしてアカデミー賞を取る日まで頑張りたいと思っています。 ■自分の強みはとにかく「ポジティブ」 テニスの世界から芸能という全く違うものを始めて、今は常に不安しかありません。自分は今年大学を卒業する年代です。周りが卒業や就職を進めていて、一般的によく言われる「安定した道」を手に入れている。自分はそれこそ将来どうなるのか、この仕事で食べていけるのかと、不安なことばかりです。でも、そんな不安しか無い中でも、前しか見ないようにしています。「この仕事がなくなったらどうしよう」という後ろは見ません。もしそういう厳しい状況になったら、その時はその時に考えようと思っています。へこんでいてもしかたがない。その精神も、テニスから得られたものは大きいと思っています。ときには、自分が思ったように受け取ってもらえず、「自分はそう見えるのか!」と戸惑うときもありますが、そのときも自分が見えていないものを客観的に教えてくれてありがたい、と考えるようにしています。この自分の個性である「ポジティブさ」と「不撓不屈」の精神は今後大切にしていきたいですね。そこからさらに、役に自分のキャラをのせられるようにしていきたいなと思っています。 ■「恋とオオカミには騙されない」は刺激的なお仕事 今回の作品はオーディションでも自分のことを話しただけで、お芝居もしていないので、難しいと思うことは特にありませんでした(笑)。でも、ただの恋愛模様じゃなくて、みんなが行動するんですよね。そうじゃないと出ている意味がないから。そういうみんなが動いている姿を見て、「こういう風に動くんだ」と勉強になりますね。今回のメンバーは10人が10人、本当に仲が良いんですよ。みんな苦労を乗り越えてきているので、年齢の差や性別も関係なく、壁がないんですよね。自分も年下とか関係なく、同等の立場で接するようにしています。みんなとはお芝居とか仕事の話もたくさんしています。また、この作品でもらえるメッセージの量が増えました。メッセージをもらうことは純粋に嬉しいです。 ■大学時代は、社会に出るための準備期間 大学生のうちは、高校生と違って自由な時間も増えるし、やれることはたくさんあります。でも大学を出たあとにあるのは社会で、大学はその社会にでるための準備期間だと思うので、自分のやりたいことをやってほしいと思います。自分も今までしてきたテニスという道をやめてこの道に進みました。全く想像していなかった道ですが、すごく楽しいです。みなさんも後悔なくやりたいことをやってほしいです。僕も一緒に頑張ります! 学生新聞オンライン2021年3月18日取材 津田塾大学 3年 川浪亜紀

山本真人

井桁弘恵 前向きな気持ちをもって、どんなことも楽しんでいこう。

■プロフィール 女優 1997年2月3日生まれ。福岡県出身。ファッションモデルとして雑誌「MORE」や「JELLY」等多数出演。2020年「仮面ライダーゼロワン」や、テレビバラエティ、映画など多方面で活躍中。初写真集「井桁弘恵1st写真集 my girl」、2021年「井桁弘恵カレンダーブック」発売中。 早稲田大学への進学を気に、芸能活動を始め、一気にブレイクを果たしたのが、今大注目の女優・井桁弘恵さん。「実は人見知りだった」という性格も仕事を通じて克服し、様々な課題に対してもポジティブに取り組んでいく彼女に、仕事や日々の生活で心掛けていることや今後挑戦したいことを伺った。 ■演技に活きているのが、100%楽しんだ高校時代 高校時代は、勉強や部活に励む一般的な女子高校生でした。当時所属していたテニス部の部長や体育祭のリーダーをしたり、放課後には海に行って友達と写真を撮ったりと、今振り返ると学園ドラマのような学生生活だったのかなと思います。 早稲田大学への進学を機に上京し、芸能活動も学業と並行して取り組むようになりました。大学入学した当初は、学校の単位をとることに必死で事務所の演技レッスンと学業の両立がうまくできなかったのですが、進級するにつれて、芸能活動でもお仕事が少しずつ増えていきました。そうしていたら、3年生の終わりにゼクシィのCMガールオーディションに合格しました。そのころは同学年の友達達が就職活動を始めた頃で、どうしようかなと思ったりもしましたが、このCMが決まった事で、芸能活動を本格的にしていくという覚悟を決めたのを覚えています。 芸能活動に主軸を置いた際は、「中学・高校のときからモデルの活動をしている子たちに後れを取ってしまうのではないか」という不安もありました。しかし、高校時代を100%楽しめたことは私にとってとても価値があり、その経験が活かせることもあるので、今では本当によかったなと思っています。 ■一生懸命吸収しようという気持ちから、人見知りを克服 芸能界の仕事をはじめて、様々な現場に行きいろんな人と会えることはとても楽しいと感じます。いつも同じところで仕事をするわけではないので、毎回新鮮な気持ちでのぞめるというのはこの仕事の好きなところです。また、様々な経験を積むことが出来るのも、自分に合っている仕事だとも思っています。仕事を始めた当初は不安もありました。なので、現場でも後ろにいることが多かったです。けれど、そんな私の背中を当時のマネージャーさんに押していただき、「言われたことはやってみよう」「一生懸命吸収しよう」と心掛けて仕事をするうちに、段々と人見知りは治り、人と話すことが楽しくなりました。お世話になったマネージャーさんには本当に感謝しています。また、この仕事は、他の仕事と比べ広範囲の人を相手にしている仕事なので、実際に私に対してのコメントや反響といったフィードバックをいただけるので、やりがいのある仕事だと思います。例えば、最近出演させていただいた『仮面ライダー ゼロワン』であれば、視聴者の方々から「みました!」「明日の活力になります!」といった応援コメントをいただくので、それが本当にやりがいになります。 ■コオロギを食べ、ゴミ山に埋められ。そんな経験も貴重な体験 女優として活動している中で、演じている最中は私自身が良し、と思っていたお芝居も放送通じて客観的に観ると、「あれ?なんでこんなことしていたのだろう」と思ったりして、現場の感覚と見え方が違うことがあります。そうしたところはまだまだだなと思っていますし、これからの課題と思っています。また、芸能活動をしていて、今までコオロギやイモムシを食べたり、ごみ山に埋められたこともあります。けれど、仕事だと思うとストレスにならずに楽しめます。虫を食べることもゴミ山に埋まることもプライベートではできないですし、仕事だからこそできたことで、そう思うと楽しめます。どんな仕事であっても死ぬことや親に恥をかけなければいいと思っています。 ■リアルで生っぽい映像作品に、出てみたい 元々ラジオを聞くのはとても好きだったので、今後はラジオもやってみたいと思っています。あと、少し話とは離れてしまいますが、最近毎日あったことをノートにつけています。ほかにもVoicyという音声メディアを毎日投稿していて、私の何でもない日常や日頃感じていることなどを配信しています。Voicyを配信していくなかで、ときに1人では寂しいと感じることもあるので、いつかは2人もしくは3人で掛け合いなどをしながらできたらと思っています。モデルのお仕事でいえば、大人っぽいエッジの効いたモードな雑誌にもチャレンジしてみたいです。女優業の方では、映画『花束みたいな恋をした』を観てすごく感銘を受けたので、あんなリアルで生っぽい映像のものに出てみたいと思っています。ほかにも食べることが好きなので食べ歩きロケや旅番組にも出演してみたいですし、出身が福岡なので福岡を盛り上げたいと思っています。福岡県はラーメンはもちろん、苺のあまおうやうどんもおいしいんです。そうした福岡の魅力も伝えていけたらいいなと思っています。 ■将来のことは、社会に出てみないとわからないことも多い この仕事をしていていろんな境遇の方がいますし、いろんな道をたどって、この仕事にたどり着いている方がいます。大学の4年間って将来を決める上で、大切な4年間だと思います。けれど、いざ社会に出てみると思っていたよりもいろんな道があります。そのいろんな選択肢を得るためには、大学の卒業も必要かなと思っています。将来のことが決まってないなら決まってないでいいと思うし、社会に出てみてからでないとわからないことも少なからずあります。根を詰めて心が辛くなってしまったら、何とかなる!という気持ちの余裕をもって、勉強やサークル活動を頑張って今を楽しんでほしいと思います。 学生新聞オンライン2021年3月31日取材 明治大学 3年 山本真人

政治家

公明党衆議院議員 古屋範子

意志ある所に道はあり。志を持って動けば、社会は変わる ■プロフィール 1956年 埼玉県浦和市(現在のさいたま市)生まれ。早稲田大学第一文学部卒。公明党副代表。同女性委員長。元厚生労働副大臣。元総務大臣政務官。2003年 比例区南関東ブロックより初当選。現在6期目。高齢者虐待防止法、肝炎対策基本法などの成立に尽力。党女性委員長として、女性が輝くことのできる環境の整備に取り組んでいます。防災士。 声を上げて政策を打ち出していく議員が居なくなってしまうことや、政策が後退してしまうことはあってはならないと語る古屋範子さん。アレルギーや、貧困、ワクチン接種、認知症など多くの法律制定に尽力してきた経緯とお話を伺った。 ■勉強意欲が人一倍あった学生時代 私は、早稲田大学の第一文学部英文学科を卒業しました。大学1,2年生の頃は第二外国語のフランス語に苦しんだ思い出があります。授業数がとても多いのに内容も難しい。特に苦労したのは、動詞の変化ですね。また、教員にも憧れがあったので、教職課程も履修をしていた上、語学研究所に行って授業も受けていました。勉強意欲は人一倍多い学生だったように思います。大学1、2年生の頃は、全国を旅するサークルに入っていました。旅をすることで、各地の風情や、全国にある日本の良さを体感することができました。今でも全国各地にある美術館に立ち寄ったときには、絵を前にして「絵と向き合う時間」を作ります。その時間は自分にとって大切な「豊かな時間」ですね。学生時代は政治家になろうとは、はっきりと考えていなかったです。ただ、「爪痕のようなものでも良いから、社会のために何かをしたい」という気持ちがとてもありました。そのため、よく社会問題について議論をしていた学生だったと思いますね。 ■子育てや地域への活動から、議員の道へ 大学卒業後は、以前から興味を持っていた出版関係の仕事に就き、本の宣伝とかポスターを作ったり、本の作成に関わったりしながら社会人としての仕事をスタートしました。具体的に社会のために何かをするとまではいきませんでしたが、「仕事を一生懸命にやる!」と決め、取り組んだ20代でした。その後20代の後半で結婚し、30代で出産。また、引っ越しなどにも直面し、生活にいろいろと変化がありました。そこで仕事をいったん辞め、地域での公明党の党員活動に取り組んでいくことになりました。自分にも子どもがいるため、子育てや子どもの健康、アレルギー疾患の問題などに関心を持ち、活動をしておりました。「2003年に衆議院の候補にならないか」というお話をいただきました。自分にとっては青天の霹靂でしたが、幸いにも夫の後押しもあり、決意をして政治の世界に飛び込むことができました。政治家になって18年。あっという間でしたが、家族やスタッフの暖かな支えがあったからこそ、今までやってこられたなという思いがあります。 ■現在、2人に1人がアレルギーに悩んでいる 当時、NPOをはじめとする民間の方や専門の方と14万人を対象にしたアレルギーに関する調査活動なども行っていたため、国会議員になってからすぐに取り組んだのが、アレルギー疾患対策です。そのときの調査では3人に1人が何かしらの疾患で悩んでいたことが分かりました。しかし、その状況は悪化しており、2人に1人に近い人々が、特に若い世代を中心にアレルギー疾患で悩んでいるという結果が出ていました。そのため、まず学校や保育所でどうアレルギーについて対処したら良いかというガイドラインを作りました。さらに、アレルギーで怖いのが、アナフィラキシーショックを起こして死に至ることです。このアナフィラキシーショックを起こしてしまった際には、エピペンという薬を注射することが大事なので、エピペンの保険適用や舌下免疫療法の保険適用の政策を行いました。また、法律があれば永続的に実施されていくので、アレルギー対策疾患基本法の成立に向けて、4年を費やして粘り強く取り組み、成立させることができました。 ■議員になってからずっと取り組み続けたワクチン政策 また、議員になってから十数年間ずっと取り組んできたのが、ワクチンの政策です。日本はワクチン行政の後進国だと言われており、先進国とのギャップは20年以上開いていました。 そこでまず、取り組んだのがワクチンの定期接種化です。任意接種の場合は自己負担となり、1回の予防接種に高額の費用がかかります。その金額を自己負担するとなると、子育て世代にはとても大きな額になり、金額が払えない家庭では子どもにワクチンを打たせたくても打たせられないという状況が生まれていました。ですが、定期接種化すれば、自己負担なくみんなが接種できます。そこで、細菌性髄膜炎を防ぐため、子どもを守るためのヒブワクチンや小児用肺炎球菌ワクチンの定期接種化をできるようにしました。その後、水疱瘡、B型肝炎、高齢者の肺炎球菌ワクチンと定期接種化を可能にし、多くの方にとても喜んでいただけるようになりました。また、教育も、私にとっては大きなテーマです。子育ての基礎になるのが教育です。だからこそ、より多くの人が自分の受けたい教育を受けられるようにするべきだと思っています。いま振り返ってみると、当時教員の勉強をしたことは、今の私にも非常に役に立っていますね。これまでにも誰もが希望する教育を受けることができるよう、子どもの貧困対策にも力を入れ、そして2013年に「子どもの貧困対策推進法」を成立させました。経済的な格差が教育の格差に繋がってはいけないし、貧困の連鎖は断ち切っていかなければならないと感じています。 ■認知症問題は医療や介護だけの問題ではない ここ5年は認知症の問題に取り組んでいます。認知症によって、毎年多くの行方不明者が出ています。認知症は、医療や介護の問題だけでありません。自分の預金が分からなくなってしまったり、お店に行って買い物ができなくなってしまったりと、生活全般に通じ深刻な問題です。駅に行って道が分からなくなってしまうとなれば交通機関の問題でありますし、小売店や自治体の課題もあるため、もはや、一省庁にとどまる話ではないし、警察や企業にも大きく関わってもらわなければなりません。そこで、こうした総合的な政策が必要だということで、相当厚い提言を2度にわたって作り、政府に提出をいたしました。これにより銀行の窓口の取り扱いなどにも具体的な変化が生まれたりしました。また、認知症基本法の法律を作り、自民党に呼びかけて与党で国会に提出をしました。現在継続審議中で、今後、国会での成立を目指しています。少しずつでも社会が良い方向に変わってきていることを嬉しく思いますし、今後も、より良い共生社会を作るための法律制定に向けて、引き続き頑張っていきます。 ■志を持ち続ければ、道は開ける 学生さんたちには、生涯にわたって志を持って欲しいです。前へ進むことを忘れないでください。もし、仮に志が果たせるような職業に就けなかったり、そういう立場でなかったりしても、大切なのはその中で前を向いて進んで行くことです。志を持ち続けてれば必ず道は開けると思います。「意志ある所に道はあり」という言葉を、ぜひ胸に刻んでください。 学生新聞オンライン2021年3月2日 取材 日本大学 3年 辻内海成

大学理事長・大使館

サンマリノ共和国 マンリオ・カデロ閣下

日本の国柄と文化に魅せられて ■プロフィール 日本滞在歴約40年に渡り、神道に深く精通し、2014年6月サンマリノに日本の神社が建立された際には日本サンマリノ友好協会と共に尽力。日本の良さ、文化を広く発信し、書籍も執筆されている。『だから日本は世界から尊敬される』『世界が感動する日本の「当たり前」』(共に小学館新書)。最新刊に『良いマナーで良い人生を!』(勉誠出版) イタリアの中東部に位置する、大自然に囲まれた面積61平方キロメートルの美しい国、サンマリノ共和国。そのサンマリノの駐日大使であり、各国の駐日大使の代表である駐日外交団長も兼ねるマンリオ・カデロ大使に、ご自身のこれまでの道のり、日本やサンマリノの魅力について語っていただいた。 ■ジャーナリストから、大使、そして駐日外交団長へ  私は、学生時代はあまり勉強熱心とはいえませんでした。数学が苦手で、好きな教科である歴史や言語ばかり勉強するマイペースな学生でした。子供の頃から「ワシントンってどういう意味なの?」「O Kやチャオ(イタリア語の挨拶)の語源はどこからきたの?」というようにさまざまな言葉のルーツに興味があり、大学では語源学を専攻しました。ドイツ語、ポルトガル語、フランス語など、いろいろな言語も勉強しました。当時、日本語はあまり勉強していませんでしたね。大学卒業後はジャーナリストになり、イタリア新聞社で日本特派員として仕事をし、日本に移住してキャリアを積みました。ジャーナリストの仕事は、ジャンルを問わず幅広くいろんな方を取材でき、とても面白かったです。ドイツ人のスパイや女性として世界で初めてエベレスト登頂に成功した日本人の登山家など、非常に興味深い方を取材する機会もありました。 そうして26年間、ジャーナリストの活動を続けてきたのですが、記事の締め切りに追われる日々で、体力的にきついと感じるようになりました。そんな折、サンマリノに訪れた際に駐日本サンマリノ共和国の領事をしないかというお話をいただいたのです。私はジャーナリストも領事もそんなに変わらないだろうという気持ちで、このお話を引き受けました(笑)。それから10年以上領事をし、2002年に日本初のサンマリノの特命全権大使となりました。今では、最も駐在の長い大使として、日本に駐在する各国大使の代表、駐日外交団長も務めています。大使の最も重要な役割は、国と国を仲良くさせることです。自国のみを自慢したり、何か1つのことを主張し、強い意見を出したりしないよう、気を付けています。それぞれの国のバランスを取ることが必要なのです。 ■日本の魅力  私が日本に興味を持ったきっかけは、パリ大学で日本人の友人ができたことでした。彼は私のクラスメイトで、当時のオランダ最高裁判所の裁判官の息子でした。彼から日本のことを教えてもらい、昭和天皇の御生誕の祝日に日本の大使館に連れて行ってもらいました。着物を着た日本人がたくさんいて、美味しい和食と日本酒を頂きました。日本人は頻繁にお辞儀をし合っていて、マナーが良く真面目でとても魅力的に感じました。   日本の良いところは、日本人の人柄だけではなく文化にもあります。例えば、日本の宗教の1つである「神道」は素晴らしい日本の伝統文化です。実を言うと、私は神道を宗教とは捉えていません。私は神道には「エコロジー」と「平和」という素晴らしい日本の哲学が含まれていると考えます。女性神天照大御神が頂点となり世の中を平和にまとめ、八百万の神が空、海、魚など万物に宿ることで、自然は特別な意味を持つのです。現在、日本には外来の宗教であるキリスト教の教会がいくつもありますが、数年前までヨーロッパには神社は一つもありませんでした。ですから私は、2011年の東日本大震災の犠牲者を慰霊するためと、サンマリノに神道という大切な日本文化を残すために、日本サンマリノ友好協会と共に、2014年にサンマリノに神社を創建しました。ヨーロッパ初の神社がサンマリノに創建されたことは、今でも私の1番の自慢です。 ■サンマリノ共和国の魅力  サンマリノは世界で5番目に小さな国で面積は61㎢、世界最古の共和国です。街のほぼ全体が世界遺産に登録されており、街のいたるところに歴史的・文化的価値の高い史跡が残っている魅力あふれる国です。人口は約3万人と少なく、軍隊もないため、税金を多く課す必要がありません。料理も美味しいですし、治安も良く、消費税はゼロ、国民健康保険も100%保証され福祉も手厚いため生活しやすい、おまけに博物館が5つあって退屈もしません。私にとって、サンマリノは理想的な国です。 また他国と比べて、政治の仕組みに特徴があります。サンマリノでは半年ごとに国のトップが二人ずつ交代します。政権が長期化することで不正が起こるのを防ぎ、国民により多くの政治参画のチャンスを与えるためです。政治家はそれぞれ本業を持っているのも面白い点ではないでしょうか。国民が国内問題を一番よく知っているというわけです。 ■大学生へのメッセージ  ぜひ日本文化をよく学んでください。自文化を学ぶと、今まで知らなかった自分たちのルーツの素晴らしい側面を知ることができ、とても驚かされることがあるでしょう。例えば、皆さんは今では世界中の国家になくてはならない「国旗」の起源をご存知ですか?実は、1300年以上前、日本の文武天皇が朝日の登る光景を見て、赤い太陽と白い空を「日の丸」として表現し作ったところから始まったのです。 自文化を理解して、知識と教養を蓄えてください。そして、いつか自分が外国に行った時に、自分が驚かされた自文化の知識で、外国の皆さんをびっくりさせてみてください。 学生新聞オンライン2021年2月8日取材 津田塾大学 3年 脇山真悠

芸能人

駆け抜けて軽トラ 

性格も性別も体形も正反対のコンビが見つけた、お笑い業界の魅力とは ■プロフィール 2019年12月CX系列『ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ』にて、「昭和ポルノの世界」シリーズで優勝し、2020年1月NTV系列『ぐるナイ~おもしろ荘~』に出演し、一躍話題となる。Youtubeにコンビとして「駆け抜けて軽トラチャンネル」、餅田1人で「餅田コシヒカリチャンネル」を更新中。また、ラジオアプリGERA「グロリアス性春」(毎週木曜20時更新)に出演中。 小学校時代から芸人を夢見た小野島と、「最初は女優を目指そうと思っていて、お笑いは全然興味がなかった」と語る餅田。そんな真逆の2人で結成されたのが、お笑いコンビ「駆け抜けて軽トラ」。彼らがどのようなきっかけの中で出会い、地上波、舞台上、はたまたYouTube内の幅広い場面で活躍しコントをしているのか。いま注目の目が語る2人のお笑いにかける熱い思いを伺った。 ■学生時代はどのような過ごし方をしていましたか。 小野島:物心がついた時、とんねるずさんやウッチャンナンチャンさんをテレビで見て、床を叩きながら笑っている父親の姿に目を引かれ、芸人という職業に興味を持ちました。小学校時代は、とてもおチャラけていて、ひとつのことに集中できない人間でした。2年生の時には、当時の担任がそんな自分に皮肉も込めて「吉本興業に入れ」と言っていたのを覚えています。僕はそんな言葉を真に受けて、「吉本興業?響きもかっこいいし、行ってみたいな」と思ったのを覚えています。そこから、自分の夢は芸人で、卒業文集にも「夢は芸人です」と書いていたほど。大学時代は他大のお笑いサークルに入り、2か月に一度のお笑いライブに出るというような生活でした。そして、大学2年生時に、松竹芸能にスカウトをしてもらい、3年生になると事務所のライブなどにも出させてもらうようになりました。 餅田:私は高校時代、全国大会に行くような合唱部に入っていて、部活中心の生活でした。勉強はめっぽう苦手でしたね(笑)。高校1年生の最初からカンニングして停学になるような問題児でもあったので、大学進学は考えていませんでした。当時、急に女優になりたいと思ったこともあり、高校卒業後は演技が学べる専門学校に通いました。学校では劇団四季に入りたいと思い、歌とダンス含めミュージカルを頑張っていました。しかし、2年生の時に担当の先生に「太っている人は劇団四季に入れないんだよ」と伝えられ、進路に困っていた際、今の松竹芸能に声をかけてもらい芸人の道に進むことにしました。 ■お笑いというものをどう考えていますか? 小野島:僕の中ではお笑いは魅力的なものであり、昔からぶれない存在でした。古風な考えで行くとアウトサイダーのように思われる職業なので、大学時代はどう親に切り出そうかとも悩んでいました。最初はサークル感覚の遊びでやっているくらいだからと伝えていて、あまり本気でお笑いを目指しているとは見せていませんでした。そんな時、タイミングよく今の事務所に声を掛けられ、段階を踏んで許しを得ることができました。両親の存在は、僕にとっては大きくて、その後、25歳ごろに悩んでいたとき、普段は僕にあまり干渉してこない父親から、「今更辞めたいとか言わせねーよ」と言われたときに、お笑いを真剣に頑張らないとな、と思いました。 餅田:実は、お笑いに対しては今の相方と会うまで興味がなかったです。一昨年は「M-1」よりも、テレビで高橋大輔選手のフィギュアスケートを見ていました(笑)。お笑い芸人という仕事をする上では、渡辺直美さんやイモトアヤコさんのように女優業をされる方もいたので、「別にやってもいいかな」くらいの感覚でした。意識が変わったのは小野島さんが「私の中でのマイナスな部分は、お笑いの中で許されるもの」と伝えてくれたことが大きかったと思います。一般的には「ヤバイ人間」である私でも、お笑いの世界ではそれを面白いと思ってもらえる。女優を目指すと足を引っ張るポイントでしかない自分のこのアンバランスな体型が、お笑いをしていく上では武器になる。今は改めてお笑いという職業が自分に合っているなと感じる日々です。 ■お二方が組まれたきっかけは? 小野島:事務所の勧めですね。自分は、ちょうど前の相方が引退した矢先で、ピンの楽しさを感じていたばかりだったのですが、大人が会議で決めたことだから断れないなという感じで餅田とコンビを組むことを承諾しました。餅田の印象はネタもやらず地方番組に出ているだけの人で、すぐやめるのだろうなと思っていました。 餅田:私がネタを書けない人間だったのもあって、ネタを書くことができる小野島さんを勧められました。最初は「お疲れ様でした」と挨拶をするくらいの関係性だったんですけどね。私は逆に小野島さんは事務所ライブでは1位を獲れるけど、テレビでは評価されない人って感じました。 小野島:まぁ、お互いの印象はよくなかったですね(笑)。 お二人共の話を聞いていて、とても仲がいいように感じました! 餅田:私が切符の買い方もわからないような人間なので、小野島さんは私の中で何でも教えてくれるお世話係のような存在です。 小野島:コンビというものはちゃんと話していく必要があると考えているので仲良くしていくべきとは考えています。 ■仕事でのやりがいはどんな時に感じますか。 餅田:自分が子供のころから見ていた番組に出られたり、出演者に会えたりしたときには言葉にできない興奮を感じます。明石家さんまさんに会った時はオーラが、すごくて泣いてしまいました。ロケの中には、普通の旅行みたいな内容もあって温泉に入ったり、おいしいものばかり食べさせてもらったり、「こんな楽しいことで、お金をもらっていいのかな?」と感じる時もあります。楽しいことばかりではなくて、滝行などの体当たりロケもありました。同世代のOLだったら出来ないような経験も出来るので、それも逆にやりがいに感じます。 小野島:1年に数回あるか、ないかくらいなんですが、これどうかなっていう自信があるわけでもないネタがどーんとウケた時ですね。自分たちよりも面白い人たちがいる中でも、予想もしないくらいウケたときは、何とも言えない感覚というか……。神秘的な気持ちになります。 ■お笑いをやっていく上での苦労はありますか。 餅田:私はボケとツッコミの役回りがわからないくらいお笑いの知識がないので、まず学ばなければいけないのが大変です。また、バラエティ番組の現場は共演者たちの勢いに圧倒されてしまい、怖くて一歩踏み出す勇気が出ないのがつらいです。 小野島:今が一番大変です。コンビとして出た際にも、インパクトのある餅田ばかりが切り取られてしまって、どうしたら僕を忘れ去らないでもらえるかを常に考えています。 ■今後の夢はありますか。 小野島:「これぞ駆け抜けて軽トラだ!」というネタが欲しいです。今はYouTubeやラジオでコンビの仕事ができていますが、これをテレビでもやれたらなという風に思っています。 餅田:2人揃ってコンビでゴールデン番組に出たいですし、コーナー1枠でもレギュラーを持ちたいです。お笑いを頑張ると決めた分、賞レースでも結果を残せたらなと思っています。 ■message 餅田:「将来の夢がない」という大学生が、最近多いと聞きます。そんな人こそ、自分が楽しいと思うことを自分の意思でやってほしいと思います。あと、友達は大事にしてください。 小野島:自分がやりたいと思うことは、周りが何と言おうとやったほうがいいと思います。それは自分ひとりの単独行動でいい。友達がいないから寂しいと思わなくて大丈夫。焦って群れたやつから失敗するので焦らないでください。 学生新聞オンライン2021年3月2日取材 埼玉大学 1年 成田裕樹

政治家

自民党東京都連 最高顧問 TOKYO自民党政経塾 塾長温故知新塾 塾長 深...

「日本に人生を懸ける」と誓った少年の歩み ■プロフィール 浅草生まれ。終戦を満州で迎えた。一年後、引き揚げて長崎県佐世保市浦頭港に上陸。祖国日本の「土のあたたかさ」、迎えてくれた「日本人のやさしさ」に感動。その思いを胸に政治家を志した。  27歳で台東区議会議員に当選。33歳都議会議員を経て、37歳で衆議院議員となる。当選9回。  郵政大臣、自治大臣、国家公安委員長、通産大臣(2回)、予算委員長、テロ対策特別委員長を歴任。自民党三役総務会長。東洋大学大学院客員教授。  数多くの役職を歴任した大物政治家の深谷隆司さん。若き少年であった深谷さんが、将来政治家になることを心に決めさせた人生の大きな転機とは?また、学生時代から培われた「ある力」があったからこそ、政治家になる夢を実現できたのだとか……。政治家になる夢を追い続けた、そんな深谷さんの学生時代について語っていただいた。 ■満州の貨物列車で、生きるか死ぬかの想いを経験 私は幼い頃、満洲国のハルビンに家族と共に暮らしていました。この頃はまだ大東亜戦争終戦前ですから、日本人にとって満洲は本当に住み良い場所でしたよ。しかし、日本が破れると一方的に日ソ不可侵条約が破棄され、ロシア兵が押しかけ満洲は地獄と化したのです。ロシア兵が日本人の暮らす家に土足であがり、財産をすべて奪っていきました。また、日本人女性はロシア兵に辱めを受けさせられたため、全員髪を短く切って男の振りをしていたものです。一年後、やっと日本に帰ることが決まりました。約2ヶ月間、何万人もの日本人が満洲から日本に向けて野を越え、山を越え、歩き続けました。時々列車に乗ることができました。列車と言っても貨物列車で、人が乗れるような造りにはなっていなかったため、居心地の良いものではありませんでしたよ。さらに、その列車の運転手は日本人ではなかったため、私たちに金を出すよう脅したり、列車が一時停止した際に用を足しに降車した人たちを置き去りにして出発したりと、残酷な仕打ちをしてきたのです。置き去りにされてしまった人々は、生き延びることはできなかったでしょう。やっと日本の長崎県にたどり着きました。大人達がみんな地面に頬を付け、泣いて喜んだものです。当時小学生であった私も大人と同じように、日本へ無事帰ったことに涙しました。その時、「この国のために人生を懸けたい」と思い、「政治家」という3文字が頭に浮かびました。この時から私は、将来は政治家として、日本に人生を捧げることを心に決めたのでした。 ■「政治家」という夢実現への道を歩み始めた学生時代 日本に帰還した後は、東京都台東区で暮らしていました。長男である私を含めた5人の子供を養うために、父は靴職人として働き始めました。部屋や勉強机はなく、戸棚の二階で勉強していました。壁に「政治家になる」と書いた紙を貼り、自分を鼓舞しながら、勉強に励んでいたものです。父や母も私の夢を応援してくれていて、「隆司、政治家になっておくれ!」という母からの言葉は、私の支えになっていました。ある日、父から「政治家になりたいのならば、弁論部のある高校に入りなさい」と勧められ、唯一都立で弁論部のあった江北高等学校に入学を決めました。高校で演説の力を身につけ、大学は政治家が多く輩出される雄弁会に入るため、早稲田大学法学部に入学したのです。 ■墓掘りのアルバイト中にした、演説の練習 大学時代は学費を稼ぐために働かなければならなかったので、アルバイトもたくさんしていました。冬に墓地を開墾する「墓掘り」というアルバイトをした時は、初めに学生が13人もいたのですが、かなり根気と体力のいる仕事であったため、最後には自分1人になってしまいました。そんな中でも、墓地に向かって演説練習をしたりと、常に政治家になるための努力を惜しむことなく続けました。選挙応援の為、九州福岡のパチンコ屋の二階に住んだこともあります。だから私は成人式にも出ていません。また、学生生活最後には、「明日の会」の創設にも尽力しました。当時は40万人〜50万人ほどの若者が田舎から上京して来て、一斉に就職する「集団就職」というものがありました。集団就職でやってきた若者たちは皆色々な不安を抱えているわけですから、支え合える場を提供できないかと思い、作りあげたのが「明日の会」です。この、「明日の会」は私の選挙の母体となりました。このように、学業や友人との戯れよりも、政治家の夢実現へ向けた努力と、生活のための仕事に力を注いだ学生生活でした。 ■学生時代から培った「演説力」から、夢の政界へ 大学卒業が間近に迫り、周りの学生は就職をする時期になりましたが、私は27歳で選挙に出馬すると決めていたため、就職することは望みませんでした。そこで、時間に融通の効く仕事をしながら選挙準備を進めていったのです。たとえば評論家がたくさん所属している事務所の講演で前座などもやりました。大学卒業後は鳩山一郎さんの奥様である、鳩山薫子さんに頼まれて「全日本婦人連盟」の創設に参加しました。働きつつも選挙準備をし、予定通り27歳で出馬し、56人中7番で台東区議会議員に初当選することができました。私が当選した一番大きな理由は、徹底した政治学の勉強と演説力であったと思います。ゼロから出発した私は後援会組織を拡大させ、盤石な体制をつくり、都議会から国会へ50年の政治人生を過ごしました。私の政治家としての基本は愛国心です。 ■人生設計は、少しでも早く具体的に決めよう 自分の人生設計は早めに具体的に決めることを強くお勧めします。そして、その夢を人に語ってください。人は言葉にすると、実行できるものです。夢に近づけるように、一歩足を進めてみてください。なんとなく大学に行って「楽しい大学生活を過ごしたなあ」では、もったいないですよ。一度きりの人生なのですから、大学時代に思い切って夢へ踏み込んでみてくださいね。 学生新聞オンライン2021年4月2日取材 津田塾大学 2年 佐藤心咲

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パルテノンモード

その時、面白いことを何でもやる! ■プロフィール プロダクション人力舎所属。宮治慎吾(左)/愛知県出身。1990年生まれ。小野龍一(右)/栃木県出身。1995年生まれ。スクールJCA27期。2018年6月結成。事務所ライブ「バカ爆走!」「どっきん!」出演中。CX「ネタパレ」に出演等、ライブ・テレビ等で活躍中!公式プロフィール:http://www.p-jinriki.com/sp/talent/parthenonmode/ 2018年6月に結成したお笑いコンビ・パルテノンモード。バラエティ番組『ネタパレ』CX)に出演した際、恋愛シミュレーションゲームに出てくる脇役のモノマネが「リアルすぎる」と一躍話題になった。そんな彼らに、お笑いを目指したきっかけ、コンビ結成に至った経緯、今後の目標について、話を伺った。 ■どんな学生時代を過ごしていましたか? 宮治:僕はひたすらイケてないグループに属していました。当時、クラスの中心で目立っている人を見ては、「あいつらは、ただひょうきんなだけで面白くないな」と思っていました。いま思えば、とがっていただけなんですけど(笑)。あとは、クラスの女子が会話しているところに、頭の中で参加する「エア女子会」に参加したりもしていましたね。友達があまりいなかったので、楽しかった思い出はほとんどないです(笑)。ただ、アニメやゲームが好きだったので、誰よりも早く帰って、アニメを見て、ゲームをやって、宿題をやって22時には寝るという健康的な生活を送っていました。 小野:僕は逆に勉強は全くしていなくて、ほとんど遊んでいましたね(笑)。高校時代は授業中ですら1分間も勉強していなかったです。いつも学年の成績は下から4番目で、おバカ四天王と呼ばれていたくらいですし。でも、大学は運よく東京の大学に受かりましたね。ゲームを通じて知識があった『三国志』の問題しか、手ごたえなかったのですが(笑)。 ■お笑い芸人に興味を持ったきっかけを教えて下さい。 小野:僕は小学生の時に野球をやっていたのですが、県大会の出場を決める大事な試合で負けてしまい、落ち込んでいた時があったんですよ。その時に、テレビで『イロモネア』という番組でお笑い芸人のゴー☆ジャスさんの宇宙海賊ネタを観たんです。めちゃくちゃ滑っていたんですけど、それが面白くて。さっきまで落ち込んでいたのに、一瞬で笑うことができるようになったんですね。その時、「お笑いってすごいな」と思って、お笑いに興味をもち始めました。 宮治:僕は、「 M-1グランプリ」を小学生の時に見て、そこでネタをやっている人がすごく格好いいと思ったんです。そこから、芸人に憧れて、小学校の時に親友だったやまちゃんいう子とコンビを組んだのがきっかけでした。小学校の卒業文集にも「お笑い芸人になりたい」と書くくらい、当時からお笑い芸人になりたかったんですよ。夏休みの自由研究では、当時の相方であるやまちゃんと、品川庄司さんを研究して、その研究結果を生かして漫才やったりもしましたね。でも、その結果は地球中がひっくり返るほどにすべって、たいして仲良くないクラスの女の子に「もっと調べてちゃんとやったらいいと思います」と注意されるほどで……。実はその体験が、その後も15年間くらいずっとトラウマでしたね(笑)。 ■コンビを組まれたきっかけを教えて下さい 宮治:所属している事務所の養成所で、相方を探すイベントがあったのですが、そこで出会ったのがきっかけでした。これは、相方がいない同士で婚活パーティーみたいなもの。いろんな人と1分間ずつ話して、気が合う人を見つけるという。 小野:たしか60人くらいいましたかね。そこで、僕らはアルコアンドピースさんのラジオが大好きなんですが、初対面ながらその話で盛り上がったんですよ。 宮治:僕は最初、第一志望の女芸人に告白したんですけど断られて、第二志望で現在の相方である小野さんに告白しました。でも、始めは小野さんも、僕とは別に組みたい人がいたので断られて……。ですけど、次の日には小野さんから「やろう」と言われたんですよ! 「昨日俺のこと振ったのにふざけんなよ」と思ってはじめは断りましたね(笑)。でも、僕はその後、別の人と組んだのですがうまくいかず、1か月後くらいに「やっぱり一緒にやりましょう」と小野さんと組むことになりました。 ■コンビを組まれた当初は、どんな形だったのですか? 宮治:養成所時代に実は一度解散しているんですよ。一番の理由は、当時、僕は相方のことを面白いとは思ってはいなかったから。しかも、ネタも書かないし、遅刻はしてくるし、「なんもしないじゃん、こいつ! めちゃめちゃダメなやつだな」と思って(笑)。そんなときに、当時、ひそかに面白いなと思っていたやつに「自分と組まないか」と言われて。目先にいる素行の悪い奴と組むより面白い奴と組む方がいいなと思って、解散したんです。でも、その新しい相方とは、最初はうまくいっていたんですけど、だんだんうまくいかなくなって……。 小野:僕が、そのとき宮治がその新しい相方とうまくいかずに落ち込んでいるのを見たので、時々お茶を渡すなどして気を使ってたんですよ。 宮治:これまで冷たかった人から急に優しくされると、キュンとするじゃないですか(笑)。それと一緒で、僕も小野さんの優しさにキュンとしちゃって(笑)。それで「コンビって面白さじゃなくて、人間的に一緒にいたい人とやるべきだな」ってことに気づかされて……。それで、コンビを組み直しました。 小野:長くいるとなると、「人間的にここ嫌だな」と言う部分がでてきて、解散する人も割と多いですからね。 ■仕事でのやりがいは何ですか? 宮治:ライブでお客さんが笑ってくれることがやはり嬉しいですね。それに勝るものはないです。普通に生活していて、大勢の人に笑ってもらうという経験はめったにできないので感動します。個人的には、SNSでよくエゴサするので、いいコメントをスクショして、落ち込んだ時に見返しています。だから、ケータイの写真のフォルダースクショだらけです(笑)。 小野:事務所から仕事を貰えたり、今まであまり応援に来てもらえていなかった友達がライブに来てくれたりすることです。自分は認めてもらい始めているんだなと感じますし、やりがいがあります。 ■今後チャレンジしてみたいことは? 小野:賞レースでの優勝はしたいです。あとは、テレビ番組にも出演していきたいです。ドラマやラジオ、教育番組。あとは、『タモリ倶楽部』みたいに、趣味に特化した話を聞くのも面白いので、そういう番組もいいですね。 宮治:賞レースとしては、まずはM-1を頑張りたいです。お互いにラジオが好きなので、先輩方のラジオに出させてもらえないかなと思ってます……。テレビにも全然出ていないのでテレビ出演もしたいですね。個人的にアニメが好きなので声優さんともお仕事をしてみたいです。アニメ関係のお仕事が多い粗品さんが、うらやましいです! ■最後に学生に向けてメッセージをお願いします。 小野:大学生はいろいろと経験できる唯一の時間なので、なんでもやってほしいと思います。将来のことは誰にもわからないので、先のことは考えなくていいから今やりたいことをチャレンジすることが大切だと思います。最終的に何をするかを決断しなければいけない時に決めればいいので、興味のあることに気軽にチャレンジしてほしいですね。 宮治: 大学4年間は、今まで自分が好きだったことはなんだったのかを振り返るいい時間にしてほしいです。僕自身にとっても、大学時代は今までの自分を振り返るのに貴重な時間だと思うんですよ。自分の好きな場所に行ったり、好きなことを勉強してみたり。そうやって色々なことをする中で、自分が好きな物を覚えて、今後自分がなすべきことを悟ったらいいと思います。大学時代は、覚悟する4年間だと思うんです。だから、多くの大学生の方々に向けて、僕が恋愛シミレーションゲームの杉下先生の言葉から学んだ「覚悟」という言葉を送りたいと思います! 学生新聞オンライン2021年2月9日 東洋学園大学1年 田澤涼夏 プロダクション人力舎からの告知 ◆若手お笑いライブ「バカ爆走!」 ※5月は緊急事態宣言中の為、中止 ◆プロダクション人力舎主催「どっきん!」

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松井咲子 ピアノは私に現実を突きつけ、私を活かしてくれた!

■プロフィール 1990年12月10日生まれ、埼玉県蕨市出身。桐朋学園短期大学卒業。2008年より「AKB48」に在籍。2015年8月卒業。現在は、テレビ埼玉「魅力まるごと いまドキッ!埼玉」、NACK5「松井咲子の気になる子さん」、ワロップ放送局「松井咲子の爆笑クレッシェンド」にレギュラー出演中。昨年末よりピアノコンサート「Blooming Piano」を始動し、特技のピアノを活かした活動も精力的に行っている。 「音大生であり、ピアニストであり、AKB48のアイドルである」それは松井咲子さんにとって自分の強みでもあり、心の葛藤を生む原因でもありました。「ピアノは感情表現のツール」と語り、前向きに明るく挑戦し続ける彼女は何を思い、どんな人生を送ってきたのか。30歳になった今、お話を伺いました。 ■ピアニストを目指し、ピアノに現実を突きつけられる  小学生の時は本当に普通の子でした。モーニング娘。さんが好きだったので、振り付けを覚えて人前で披露することはしていましたが、目立つのは苦手なタイプでした。自分がアイドルになるなんて想像もしていなくて、ピアノの先生をしている母を見て自分もピアノ関係のお仕事に就きたいなと思っていましたね。ピアノを始めたのは4歳の時です。そして、中学生になってから音大付属高校に通っていた兄の影響を受け、「音大付属高校に入って、ピアニストを目指したい」と思うようになりました。付属高校の入試にはピアノの実技試験があったので、中学生の時は試験対策にピアノの練習を毎日続けていました。休みの日も1日中ピアノを弾き、放課後も友達と遊びにも行かずピアノの練習をしていました。さらに、合唱部にも入っていたので合唱とピアノとで、今考えると音楽漬けの日々でしたね。 ピアノに向き合ってひたすら練習を重ねた結果、無事、東京音楽大学付属高校に合格しました。しかし、そこで「音大付属高校に入ってもピアニストになれるのはごく一部で、自分よりもピアノが上手い人はたくさんいる」と知り、現実を突きつけられました。それでも「ピアノをとったら自分には何の取柄も無くなってしまう」と思い、ピアニストにはなれなくても音楽関係の仕事はしようと考えていました。そんな時、母がAKB48のオーディションに応募していて、面接があることを急に伝えられました。アイドルになろうとは全然思っていなかったので、私自身オーディションには渋々参加したのですが、合格を頂き、アイドルへの道が開けました。 ■学校との両立が大変だったAKB48時代  当時、AKB48のメンバーの中に高校や大学に通っている人は少なかった上、学校ではAKB48があまり認知されていなかったので、高校の時はアイドル活動をしている事を自分の口から学校の友達に言うことが出来ませんでした。大学に入ってからはアイドル活動が忙しくなり、あまり大学に行くことが出来ない状況でした。「音大生アイドル」という覚えやすいキャッチコピーを付けて頂き、お仕事も頂いていたので「学校に行っていないのに音大生と名乗っていいのか……」と常に不安に思っていましたね。そんな中でも、アイドルと学校の両立が続けられたのはAKB48のメンバーやファンの方のおかげでした。「辛い時辞めるのは簡単だけど、これを乗り越えれば必ず良い事がある。応援してくれる方、自分を認めてくれる方がいる限り、頑張りたい」。そう思って、毎日必死に活動をしていました。自分は歌もダンスも得意ではなくて苦労をしましたが、目の前の事をこなしていくことで、自分の経験値が上がっていくのが感じられて、楽しかったです。 AKB48の好きなところは、皆がチームのために頑張っていたところです。メンバーは皆、「自分のため」というより「AKB48のために」行動している人ばかりでした。お互いを蹴落とし合う雰囲気は一切なく、1人1人の得意分野をどうしたら生かせるかを意識していました。その上でも他の人と被らないキャラ付けをすることは大事で、私は「大学生であり、ピアニストである」という強みをAKB48のために生かしたいと思っていました。 結局、大学は休学の末、辞めることになり、AKB48の活動一本に絞ったのですが、25歳の時、短期大学に入り直しました。そこには子育てが終わって学び直している方など幅広い年齢の方がいて、刺激を頂きました。自分も音楽についてまた深く学び直すことが出来て、とても楽しかったです。 ■クラッシックとアイドル(ポップミュージック)の懸け橋になりたい  私は今、30歳になりましたが、やりたい事をさせてもらっていて、新しいことに挑戦できている日々がとても楽しいです。知らない事はまだまだたくさんあって、その中に出来ることが多くあると思っています。最近、写真集を出させて頂いたのですが、AKB48時代には出来なかった経験なので、お話を頂いた時は嬉しかったです。「AKB48にいた時はファンではなかったけど、後からファンになって写真集を買いました」と言ってくださる方が多く、有難く思っています。「30歳になっても挑戦できることはまだあるんだな」と勇気を頂くきっかけになりました。 私の夢は、アイドル好きの方にクラッシック音楽の魅力を伝え、クラッシック好きの方にアイドルを好きになってもらうことです。このふたつの領域の懸け橋となることが「私にしかできない音楽の仕事」ではないかと考えています。 私にとってピアノは、感情表現のツールです。ピアノを弾いているときは自分の想いが出せますし、ピアノの演奏を聴いて私に対するイメージが変わったといって頂くことも多いです。ピアノの疲れをピアノで癒しているときもあって、気分転換をしたいときもピアノを弾いていますね。まだまだ音楽を勉強して、いつかはAKB48に楽曲提供をするのが夢です。 ■message  私は大学生の時、大学生らしい大学生活を送れなかったので、皆さんが羨ましいです。だから、後悔が無いよう、思いっきり楽しんでください。限られた時間ではありますが、出来ることはたくさんあります。何を始めるにも遅いことはなく、後の人生を考えると今が一番若いです。なので、焦らず、得意なことを伸ばしながらやりたい事をやってください。自分は何も出来ないと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、必ず何かがあります。それは自分ではなく、周りの方が見つけてくれる時もあるので、自信を持ってください。一緒に頑張りましょう。 学生新聞オンライン 2021年2月6日取材 津田塾大学3年 松本麗奈

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ストレッチーズ

慶應卒の高学歴コンビが、就活後も諦められなかった「お笑いの道」 ■プロフィール 太田プロダクション所属の漫才師。漫才師の頂点を決めるM-1グランプリでは2017年から4年連続準々決勝進出。ラジオアプリGERA「ストレッチーズのプリ右でごめん」が毎週水曜日20:00最新回更新。K-PROライブ多数出演中。 共に慶應義塾大学卒業というスーパーインテリお笑いコンビ、ストレッチーズの高木貫太さんと福島敏貴さん。そんな天才頭脳を持った2人は、何故お笑いの道を目指そうと思ったのか?奇抜な学生時代の仰天エピソードをはじめ、ここまで共に歩んできた2人の軌跡に迫りました。 ■僕らは高校時代からずっと一緒でした 高木:僕たちの出会いは高校生の頃でした。埼玉県立高校の中でも最難関校である浦和高校に通っていた僕らは、勉強が大好きな“ガリ勉”でした。ほとんど勉強に明け暮れる高校時代を過ごしていましたが、唯一文化祭の時だけはかなり気合を入れていましたね。何故なら浦和高校は男子校なんです。文化祭は一年に一回だけの女子と触れ合えるチャンスですから、気合が入りましたね。女子からの注目を浴びたくて、文化祭のイベントである“ミスコン”に福島と一緒に出場していました。浦和高校は男子校なのにミスコンがあるんですよ。男子が女装して出場するんです。この頃から僕らは人前に出て、たくさんの人を笑わせることが好きだったんです。 福島:僕らは大学も同じで、どちらも慶應義塾大学を卒業しています。僕はずっとお笑いが好きだったため、入学してすぐに慶應のお笑いサークルに入りました。入った初日に「何か面白いことをしないと!」と思い、みんながゲームキューブをやっている中に、キューブを投げて「1がでましたー!」というギャグをしたら、部長の大目玉を食らって出禁になりました。さすがにやってしまったなと思いました。そして入学早々ハプニングを起こした春も過ぎ去り、ある夏の日、同窓会で高木に再会しました。そこで、僕が出禁になったお笑いサークルで高木が普通に活動していることを聞きました。高木が僕に「そろそろ熱も覚めたし、謝れば大丈夫!」と言うので、ある秋の日、正装である(と思っていた)スウェットを着て部長に謝りに行きました(笑)それらを経て、サークルに復帰することができました。そして高木とコンビを結成しました。高木はすでに違う人とコンビを組んでいたのですが、「出禁を食らった人」というレッテルが貼られたままで、コンビになってくれる人が見つからない僕ともコンビを組んでくれたんです。 ■お笑いの道に進もうと思ったきっかけ 高木:実は僕、大学生の時に2回『学生M-1グランプリ』で優勝しているんです。2回目は福島とコンビで優勝したのですが、1回目はお笑いサークルで福島の前から組んでいた人とのコンビで優勝しています。その経験から「プロのお笑いの道に進もうかな」と思い、1回目の優勝時にコンビを組んでいた相方とお笑いの事務所のオーディションを受けに行きました。でも、そこで僕は挫折を味わいましたね。その時の面接官が僕を指差して「君、才能ないね」って言ったのです。本当にショックで、当時の相方に「俺はもうお笑いは辞める」と言って、お笑いの道を一度諦めました。そんな僕でしたが、お笑いの道への熱意が再燃したのは2回目の『学生M-1グランプリ』でのことでした。諦めていたはずだったのですが、お笑いへの道を意識していた福島に誘われて2回目の出場を決めました。僕は「福島と最後にお笑いをやって、就活して卒業しよう」と思っていましたが、なんと2回目の『学生M-1グランプリ』でも優勝することができたのです。2度目の優勝を果たし、僕のお笑いの道への憧れが蘇ってきたのです。 福島:僕が初めにお笑いへの道を意識したのは、三井住友海上の5日間のインターンでのことでした。学生5人グループで、「保険にどうしたら入会してもらえるのか」というテーマでプレゼンをする機会がありました。そこでお笑い好きの僕が「コントをやりたい!」と言ったら、学生も、社員の人もみんな賛成してくれて、コントでプレゼンをすることになりました。そこで披露したコントが、かなりウケたんですよ。自分が作ったネタで、みんなを喜ばすことができました。それが嬉しくて、「お笑いをしたい」と思うようになりました。そして高木と出場した『学生M-1グランプリ』での優勝を経て、さらにお笑いへの想いが強くなったのです。 高木:このようにお笑いに意識を向けていた僕らですが、実は普通に就活もしています。両方とも親がお笑い芸人になることを反対していたので、3年生の1月~3月くらいまでは悩みながらも就活をしていました。全く身が入らなかったんですけどね(笑)。そんな就活の中でのエピソードなのですが、電通さんの面接日に朝起きることができず、面接をすっぽかしてしまったことがありました。15時くらいに起きてしまって、青ざめたのを覚えています。リビングに向かうと、母がとても怒っていました。なんとか言い訳をして、母の怒りをおさめなければと思った僕は、とっさに「お笑いをやるから!だから面接に行かなくていいんだ!」と言ってしまいました。この時初めて母にお笑いをやりたいと打ち明けたため、今思えば覚悟を決めた瞬間であったように感じます。 ■message 福島:大学時代は自分にとって濃厚な時間であったため、今でも週5日は当時のことを思い出します(笑)大学時代の思い出が、明日を生きる希望になっていることもあると感じています。だから皆さんにも、「あの時よかったな」って後々振り返ることができる思い出を作ってほしいです。限られた青春時代の時間を、ただただぼーっと過ごすのは勿体ない。寝る間も惜しん様々なことにチャレンジして、頑張ってほしいですね。 髙木:僕は大学でお笑いサークルに入ったことがきっかけで、お笑いを目指そうと思うようになりました。元々お笑いは好きだったけど、芸人になるっていう感覚は持ったことがありませんでした。しかし、お笑いを目指す先輩、目指していたけど辞めた先輩、実際にお笑い芸人になった先輩にサークルで出会って、僕の意識が変わりました。だから皆さんには、色んな人と出会って、話してほしいです。多くの人との出会いの中で、自分のやりたいことを発見できると思います。あと、僕みたいに就職の面接日に寝過ごしてしまわないよう、気をつけてくださいね(笑) 学生新聞オンライン2021年2月22日取材 津田塾大学1年 佐藤心咲

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佐久間祥朗 理想は”変わらない自分”でいること〜人との繋が...

■プロフィール 1998年東京都生まれ。主な出演作に映画「のぼる小寺さん」(古厩智之監督/20年)、ドラマ「ネメシス」(入江悠監督/21年) 、ドラマ「ホームルーム」(小林勇貴監督/20年)、MV indigo la End「夜の恋は」主演(内山拓也監督/21年)、MVビッケブランカ「ポニーテイル」主演(加藤マニ監督/21年)、他。公開待機作に映画「衝動」(土井笑生監督/21年公開予定)他多数。 数々の映画、TV、MVに出演中の若手俳優である佐久間祥朗さん。スターへの階段を一歩一歩着実に登り始めている佐久間祥朗さんが考える”理想の自分”や、自身の実体験から振り返る、学生時代にするべきことなど、その温かい人柄が伝わる数々のエピソードを伺いました。 ■芸能活動のきっかけは学生時代の”衝撃” 大学時代、僕は銭湯やアパレルショップ、道路交通整備など、色々な職種のアルバイトを体験しました。大学一年生の時に、意外にもあっけなく単位を取得できてしまったので、手持ち無沙汰な日々に彩りを持たせるため、様々なアルバイトに挑戦していたんです。その一つが、スタイリストのアルバイトです。元々、キラキラした世界に憧れを持っていたのですが、スタイリストの現場は、僕が想像していた以上に魅力ある世界で、衝撃を受けました。スタイリストにスタイリングされ、カメラの前で堂々と振舞うモデルさんの姿は輝いて見えました。「僕もそんな表舞台に立ちたい」と羨ましく思ったことが、芸能活動を始めるきっかけでした。 ■“楽しい”から乗り越えられる 俳優のお仕事は嫌なことが一つも無いくらいに、とても楽しいです。好きなことをやらせてもらっているわけですから、苦労は感じないですね。しかし、不安や悩みはあります。先のことが分からない恐怖だとか。最近では遠くで撮影する大きな役が決まったこともあり、その役柄をどう作り上げていくべきかという恐怖もあります。普段の自分とかけ離れた役柄を演じなくてはならないので、今までになかった苦しみを感じることになるかもしれません。しかし、俳優業は楽しいことの方が大きいですから、乗り越えられると思います。僕以外の人が、僕の活動の応援してくれたり、喜んでくれたりしている姿を見ると本当に嬉しいですね。また、普通の生活をしていたら会えていなかったであろう人たちと、会うことができるのも俳優業の魅力です。今日の取材でお会いした学生新聞の皆さんもそうです。そういう人たちに会えるのも、とても嬉しいことです。たくさんの嬉しいことがあるから、苦しいはずのことも楽しさに変えることができています。 ■理想の自分になるために自分を貫く 僕は芸能界に入ったからといって、今までの自分自身を変えたくないと思っています。自分の置かれる状況が変化したとしても、いつまでも同じ距離感で分け隔てなく人と接することができる人でありたいと思っています。現在の自分を貫き続けることが僕の理想なんです。初心を忘れたくないんですよ。僕は以前までスタイリストとして、モデルさんをスタイリングしていた側でした。それが今では、スタイリングしてもらう側になっています。未だにスタイリング中に洋服を着せてもらうだけで、感慨深い気持ちになります。そんな時「自分も少し成長したなあ」と実感しますが、「この初心の気持ちは忘れないぞ」と強く思っています。また、理想の自分であるために、人との繋がりも大切にしています。例えば、今日取材に来てくれている学生さんたちと、1年後に道でばったり遭遇したとします。その時、僕を覚えていてくれなかったら悲しいです。だから、僕は絶対に今日取材に来てくれた学生さんたちのことを、ずっと覚えています。人との出会いって、奇跡的なものですよね。そういう奇跡やご縁を、僕は大切にしたいんです。つまり僕の考える理想の自分とは、「人との繋がりを大切にしている今の自分を貫いている自分」ですね。 ■message 大学っていっぱい友達がいる人いない人、騒いでいる人や静かな人、色々な人がたくさん集まっている場所ですよね。ついついそんな中でも、いつも一緒にいる人って決まってしまうと思うんですよ。気の合う人と一緒にいれば居心地がいいわけですから。しかし、そこであえて普段話さないような人にも話しかけてみてほしいです。なぜなら、そうすることで自分を更新できるはずなので。僕が大学時代に体験したことなんですが、講義のプリントを忘れてしまい、偶然隣に座っていた人に「ごめん、プリント見せてもらえないかな」と声をかけたことがあります。その人は快くプリントを見せてくれました。そして、プリントを渡してくれた時に、何故か僕に「皇居には10メートルおきに警察が立っているんだよ」と言ったんです。自分はそのことを全く知らなかったので、「そうなんだ」って思いました。この情報って、僕が実際に皇居に行くか調べるかをしなければ、手に入れることができなかったと思います。勇気を出して声をかけたことで、知る由もなかった情報を知ることができたわけです。仮に僕が、「プリント忘れたから諦めよう」と黙っていたら、この情報は一生分からないままだった可能性もあります。これは一例ですが、こんなふうに意外な人とのコミュニケーションを取ることで、新たな発見が待っているかもしれないんです。その発見を後々人生の重要な場面で活かすことができる可能性だってあります。せっかく大学に通っているんですから、色々な人と話して、仲良くなってみてください。それから、「ブルーハーツ」の『青空』を聞いてみてください。僕のお気に入りの歌です。いい歌ですよ、人生が変わります。嫌なことや辛いことがあった時は、『青空』を聴いて元気を出してもらいたいですね。皆さん、楽しい大学生活を過ごしてください。 学生新聞オンライン2021年2月10日取材 津田塾大学1年佐藤心咲

伊東美優

株式会社ファインデックス 代表取締役社長 相原輝夫

「仕方がない」の一歩先へ、問題解決を通して社会をより豊かに ■プロフィール 1966年生まれ。1990年に愛媛大学を卒業後、国内IT企業を経て1993年に起業。翌年に代表取締役社長に就任、現在に至る。2011年3月ジャスダックに上場、2014年11月から東証第一部。ビジネス領域は医療システムとヘルステック。 幼少期からモノ創りが大好きだったという相原社長。大学卒業後は一度企業に就職したものの、起業への道を諦めきれなかった。今回の取材では、相原社長の中にずっとあり続けるモノ創りへの想い、そして医療システム業界でリードし続けるファインデックスの強みについて、熱く語って頂いた。  モノ創りが大好きで、幼少期の将来の夢は大工でした。大学時代はサークル活動が生活の中心でした。所属していた映像研究会で映画の鑑賞や制作に勤しみ、卒業後はクリエイティブな仕事がしたいと漠然と考えていました。当時はバブル絶頂期で、超売り手市場。今では考えられませんが、ちゃんとした就職活動という事もせず、1990年に四国日本電気ソフトウェア(現NECソリューションイノベータ)へ入社しました。学生の頃に卒業論文でデータ圧縮の研究をしていて、プログラミングやコンピューターの世界に魅力を感じていた事が大きかったと思います。 ■起業への想いから現在へ  働き始めた頃は、仕事自体は非常に面白かったです。しかし、学生時代から心のどこかで燻っていた「起業したい」という想いが次第に強くなったと記憶しています。私の場合、何か目的があって事業を起こしたという訳ではなく、起業への準備期間を作るべく、1993年にNECを退職し新たな道へ進みました。 時を同じくして、とある病院長との出会いがあり、これが医療システムの世界へ足を踏み入れるきっかけとなりました。院内のシステムを見て欲しいとの依頼を受け現地へ赴くと、そこには驚くほど大きな汎用コンピューターが置かれていましたが、その用途はレセプト(会計)のみに留まるとのこと。高性能のコンピューターが単純な四則計算にしか利用されていないことを、非常に勿体ないと感じました。他方、コンピューターの得意分野は簡単なことの繰り返しです。人間が行う際に途中で飽きてしまったり、ミスが出たりするところを、コンピューターは絶えず難なく繰り返すことができますが、当時その病院ではまだこのような作業を人間が担っていました。院内の業務効率化を図るべく、院内業務のシステム化をスタートしました。当初は小規模なアプリケーションでしたが、我々の柔軟な業務改善提案が次々と評判を呼び、1998年には本格的に医療システムの開発とコンサルティング業務を開始。現在では、主力である医療システムに加え、マーケットの拡大が著しいヘルステック、そしてオフィスシステムの3事業を柱に、ビジネスを展開しています。当社は日本中にお客様を持つ医療システム会社へと順調に成長を遂げ、全国の国立大学病院における当社製品シェアは約8割にのぼります。最も多くご採用頂いているのは、各診療科の患者検査データの一元管理を可能にした「Claio」というシステムです。また、従来の視野検査の常識を覆すウェラブルデバイス「GAP」は、今最も力を入れている製品のひとつで、一から自社開発し国際特許を取得しました。当機器の導入により、これまで必須だった暗所の確保・検査員による実施が不要となり、検査時間の短縮も実現するだけでなく、自覚症状に乏しい網膜疾患の早期発見率を大幅に改善。本格的な市場投入はこれからですが、社会貢献の面においても、大きな役割を果たすと見込んでいます。 ■誰かの後追いをしても、ビジネスにはならない  私は仕事が大好きです。新しいシステムの構想を考えている時やそれを部下と共有している時は、心の底から楽しいと感じます。困っていることを解決する、誰も手を付けていない領域にチャレンジする。それが我々のビジネスであり、モノ創りを通して達成感を味わえるこの仕事は非常にやりがいがあります。また、組織づくりも仕事の醍醐味のひとつです。上場後の10年間は私の仕事の中心を経営にシフトし、「上場企業としてあるべき組織づくり」に注力してきました。一方で、製品開発に取り組みたい気持ちも捨てきれず、上場後5年ほど経つ頃に直轄の研究開発チームを作り、現在も自ら新製品の開発や企画に携わっています。 ■上場企業のあるべき姿  会社とは、社会に何かを提供する代わりに対価を頂く組織です。価値あるものを提供できなければ対価は頂けませんし、企業の成長も望めないでしょう。その中でも、上場企業は外部への価値提供だけでなく、株主や従業員を大切にするための組織づくりを徹底しなければならず、また、リスクを管理しながら永続的に成長することが求められます。私自身も、上場企業のあるべき姿を常に意識して経営を行なっています。 ■モノ創りへのこだわり  当社の最大の強みは、製品を全て自社開発している点です。もちろん製品を売ることも大切ですが、販売はパートナーである代理店へお任せし注力する範囲を開発に絞ることで、本当にモノ創りや問題解決に熱心なメンバーが集まっています。我々は部署ごと、縦割りという概念は全く持たず、ベンチャー企業のようなクロスファンクショナルな素質がある組織です。このような、社員数は多くなくとも密度の濃い筋肉質な会社として、今後も事業を発展させていきたいと考えています。 また、当社には採用の面でもこだわりがあります。インターネットでの簡単なエントリー方式は採択せず、応募者の方にはまず当社について研究して頂き、手書きの作文を書いて頂きます。ここまで応募のハードルを上げることで、本当に能力とやる気があり当社の仕事を楽しめる人が集まります。今後も、この世の中で改善できることを考え続け、一緒に解決しようという意欲のある方に入って頂きたいですね。 ■message  やはり、「何がやりたいか」を学生時代に見つけられた人は、社会に出てからも力を発揮しやすいです。私自身はこれが就職前に見つからなかったため、起業を経てここに至るまで少し時間がかかってしまいました。昔に比べ、今はどんなことにもチャレンジする環境が整っています。だからこそ、自分のやりたいことを学生時代に明確にしておくことをお勧めします。そして、どんなことにおいても「仕方がない」で済ませるのではなく、「どうすれば改善できるだろうか」という問題解決のマインドを、是非持って頂きたいと思います。 学生新聞オンライン2021年3月31日取材 慶應義塾大学 1年 伊東美優

北之原真奈

白波瀬海来 もっと様々な場で自分を表現していきたい

■プロフィール 1997年9月27日生まれ。千葉県出身。アーティストハウスピラミッド所属。11歳で『千葉美少女図鑑』でモデルデビュー。16歳で『全国美少女図鑑』ベスト4に選ばれスカウトがきっかけで芸能活動を開始。主演映画3本務め、19歳の時に主演映画で『東京国際映画祭2017』のレッドカーペットを歩く。現在はタレント活動とボディーボードを両立し、多方面で活躍を見せる。ボディーボード全国2位。Twitter:@kyra_shirahaseInstagram:@kyra.97 女優からタレント、グラビア、ボディボードと幅広く活躍している白波瀬海来さん。健康的な焼けた肌に白い歯がまぶしく光る笑顔が素敵な彼女は、現状に満足せず自分の可能性を広げていく。0歳からはじめた水泳生活と挫折から、ボディボーダーと女優活動の両立など、多岐にわたって活躍する彼女に話を伺った。 ■水泳生活に明け暮れた学生生活の日々  私の「白波瀬海来(しらはせ・かいら)」という名前は本名なのですが、これはサーフショップを経営してる父とハワイが大好きな母が、ハワイ語で「海が太陽に照らされてキラキラ輝くさま」を意味する「カイラ」に、「海から来た贈り物」という意味を込めた漢字を組み合わせてつけてくれました。この名前を、私はとても気に入っています! 私は喘息持ちの家系に生まれたということもあり、0歳の時から水泳をしていました。学生時代は、朝5時半から7時まで朝練をしたら、学校が終わった後にまた水泳の練習へ行く毎日でした。勉強は苦手だったので、体育だけ一生懸命頑張るような学生だったと思います(笑)。 ボディボードを始めたのは高校卒業後です。高校当時は水泳の日本代表選手を目指していたものの、水泳選手を目指すことに限界を感じ、「次は何をしよう」と迷っていた頃に、ボディボードに出会いました。波に乗る瞬間の爽快感から、一気にボディボードの魅力に引き込まれ、いまでもずっと続けています。 海は私にとってリフレッシュの場であり、同時に元気の源です。ただ、あくまで自然が相手なので、今でも海に入る瞬間は怖さを感じます。でも、この気持ちは、自然を相手にする上ではとても大切なことです。だから、海に入るときはいつも、海に向かって「今日もよろしくね」と心の中で呟いてから入るようにしています。 ■撮られることが好きと気づいた  芸能活動をはじめたきっかけは、私が11歳の時に、父が『千葉美少女図鑑』という地元のフリーペーパーに応募したことです。その後、スカウトされ、モデルとして活動を始めました。当時は水泳をメインにしていたので、モデルとしての活動にはあまり乗り気ではなかったのですが、高校時代ごろからは水泳選手としてやっていくことに限界を感じていたので、次第に「撮られる仕事も悪くないな。むしろ撮影されるのは好きかもしれない」と考えが変わっていきました。 そんな中、映画の主演が決定。とても光栄な話でしたが、全く演技経験がないので非常に大変な想いをしました。演技をする上で一番難しかったのは、台本から作者の気持ちや想いを読み取ることです。演技には正解はないので、分からなくなったら監督に直接相談するようにしていました。19歳の時に映画『写真甲子園0.5秒の夏』に出演して、東京国際映画祭のレッドカーペットを歩いたときには、感動のあまり「これまで芸能活動をやってきてよかった。もっと努力しよう」と強く思いました。次にお芝居に挑戦させてもらえるなら、『万引き家族』のように少しシリアス系の作品や、アクション系の映画に出演してみたいですね。 ■バラエティー番組に出て、浜田さんのツッコミを体験したい!  最近はグラビアのお仕事の機会が増えたのですが、読者が私に求めているものを表現するのは、まだまだ難しいです。実は私は身体が硬いので、様々なポージングをして次の日に筋肉痛になることも多々ありました(笑)。私自身の魅力は「笑顔。そして、健康的なセクシーさ」だと思うので、今後はそこを前面に出していけたらと思っています。以前『1st Impact かいらの日焼け跡 白波瀬海来』というDVDを発売した時は、自分のありのままの姿で撮影をさせていただけたので、とても楽しかったです。 そのほかにも、人とお話することが大好きなので、バラエティー番組にも出たいです! 特に憧れるのは『踊る!さんま御殿‼』や『ダウンタウンDX』です。そして、ファンであるダウンタウンの浜田さんのツッコミを体験したいです(笑)。他にもオードリーの春日さんと水泳対決をするのも夢です。負けず嫌いなので、勝負になったら全力でやります!あとは、クイズ番組にも出てみたいです。こう考えてみると、やりたいことがまだまだたくさんあるなと思いますね。私は欲張りなので、チャンスがあれば、何にでも挑戦して、すべてのことに全力で取り組んでいきたいです。 ■やりたいことにいくらでも迷ったっていい  大学生の皆さんに伝えたいことは、「自分が直感的に思ったことはやってみたらいい」ということです。やるかやらないかを迷ったら、とりあえずはやってみる。その中で、自分がやりたいことを見つけたら、一生懸命取り組んでいければいいと思います。やりたいことをやるほうが後悔は生まれませんから。悩むことも全然悪い事ではないので、たくさん悩めばいいと私は思います。 コロナ禍の影響で、本来なら通えるはずだった学校に行けず、オンラインを強いられ、悩みを抱えている学生さんも多いと思います。いまの時期は、本当に大変だし辛いですよね。仮にリモート授業であっても、友達同士で互いを励ましあって頑張ってほしいと思います。そして、何か自分の中で「これをやるとリフレッシュできる」というようなものを、一つでも探してみると、ぐっと気分も変わると思います。個人的には、海やいろいろなところに行って、気分転換してみるのがおすすめですよ! 学生新聞オンライン2021年2月17日取材  共立女子大学3年 北之原真奈

芸能人

矢島舞美 全力で、楽しむ!

■プロフィール 1992年2月7日生まれ。埼玉県出身。2002年、約3万名の応募からハロー!プロジェクト・キッズに選ばれ、2005年6月11日アイドルグループ『℃-ute』(キュート)を結成し活動するも、2017年6月12日に℃-ute解散。解散後は女優として活動中。主な出演作は、ドラマ『ルパンの娘』『科捜研の女Season 20』、映画『初恋』など。舞台は『銀幕の果てに』『フラガール – dance for smile -』『朗読劇 ラヴ・レターズ』などがある。 アイドルグループ『℃-ute』の元リーダーとして活躍していた矢島舞美さん。『℃-ute』のメンバーの一員として突っ走ってきた彼女が、解散を決意して飛び込んだ新しいソロの世界。グループから個への道へ進んだ彼女の決意と血のにじむような日々……。そんな彼女の仕事に対する思いを取材しました。 ■芸能界を目指したきっかけは、『天才てれびくん』 子どもの頃は、ピアノや習字、英会話、ソフトボールなど、習い事をたくさんしていて、忙しかったですね。「兄がやっているものは自分もやりたい……」という気持ちが強かったので、一時期は少年野球チームにも参加していました。 芸能界に入るきっかけになったのは、小学校5年生のとき。当時、NHKの『天才てれびくん』の新メンバー募集があることを知って、受けようと決めました。芸能界に興味があったというよりは、『天才てれびくん』で同世代の子たちが楽しそうにしているのを見ていて、「私もやってみたい」という感覚が強かったです。あとは、両親が共働きだったので、「私も一緒に働きたい」という気持ちもありましたね。 ただ、肝心の『天才てれびくん』のオーディションには、期日を間違えていたのか応募することができず……。そこで、代わりに当時開催されていた「ハロー! プロジェクト・キッズ オーディション」を受けて、合格し、芸能界の道へと進みました。 ■忙しい日々を支えてくれたのはオーディションで受かった仲間たちの存在 オーディションに受かった後は、学校が終わると地元の埼玉から都内に通って日々レッスンを受けていました。事務所は「義務教育はしっかり卒業しよう!」ということで、仕事は学校が終わってから行くのが原則でした。2007年に℃-uteが芸能業界にデビューした後でも、学校の行事も全部参加して、学業と仕事を両立させていました。 ただ、仕事が始まってからは毎日が忙しくて、友達と遊ぶタイミングが激減しましたね。仕事が休みの日にたまに友達と遊ぶことしかできなくて、「みんなは部活とかを楽しんでいていいな」と羨ましくなることもありました。 ただ、支えられたのは、オーディションで受かった仲間たちがいたからこそ。一緒に受かったメンバーは、全部で15人いたんですが、全員同年代で同じような境遇、同じような条件で頑張っていました。「友達ともっと遊びたいな」という気持ちもありましたが、仲間のおかげで「辞めたい」とか「辛い」という気持ちを抱くこともなく頑張れました。それよりは、本当に日々与えられる課題をどんどんこなしていくことに必死でしたね。 ■リーダーを辞めたいとも思った。だけど…… ℃-ute時代は「自分はリーダーとしてどうやってみんなをまとめていったらいいのか」と仲間のことで悩むことが多かったです。ときにはリーダーを辞めたいと思うこともありましたね。でも、周りの方が「それぞれのやり方でいいんだよ」とアドバイスをしてくれたり、6歳から幼なじみのように過ごしてきた仲間も助けてくれたり。仲間がいたからこそ、諦めずに頑張れたんだなって思います。 芸能活動は興味本位で始めたけど、自分が苦手だった事でも頑張った末に褒められると、「次はもっと大きな目標を達成したい」と思えるんです。次々出てくる新しい目標を1つずつ達成するのは楽しいですよね。あとは、応援してくれる方が増えていくのもうれしかったです。たとえば、ファンレターも最初は全然こなかったのに、イベントやライブなどを続けていくと少しずつファンレターの数が増えていく。そうした変化を感じるたびに、「もっとたくさんの人たちに応援してもらえるようになりたい」と思うようになりました。 ■「とりあえず、全力でやってみる!」がポリシー いま、お芝居のお仕事をさせていただく中で、共演者の演技を参考に、自分の演技の仕方を変えることはあります。主演をやらせていただいた舞台『銀幕の果てに』では、世界観や表現が難しくて、自分自身が何を言っているのか分からなかったこともあります(笑)。 でも、ただ分からないじゃなくて、分からないなりに全力でやってみたら、なんとなく自分なりの答えが出てきました。同じセリフでも全力でやるかやらないかで演技も全く違ってくるし、たとえ全力でやって自分のやり方が間違っていたとしても、それを笑ってくるような人はいなかったですね。 これからもお芝居やモデルなどいろいろなお仕事をいただくと思いますが、そのたびに全力で向き合っていきたいです。そして、「この役、この子にやらせたい」って誰かから必要とされたり、「この人がいるから作品がもっと良くなる」と思ってもらえる存在になりたいです! ■多くのことは、実際にやってみると大したことない 学生時代は、若くて1番エネルギーもパワーもあると思うので、やりたいことに全力でやってみたらいいと思います。もしそれがダメでも、失敗から得られることもあるから、とにかく全力でやることが大事ですね。 「安心できる未来が欲しい」っていう気持ちもわかるし、環境を変えるのは怖いと思うけど、多くのことは「実際にやってみた後に意外と大したことなかったな」って後からケロッと話せるようになることが多いです。また、「自分の悩みなんてちっぽけだったな」って思える時がくるから、肩の力を抜いて、色んなことに挑戦して欲しいと思います。 学生新聞オンライン2021年3月17日取材 立教大学 2年 須藤覚斗

北之原真奈

高田夏帆 過去をいいものにできるように、今を走り続ける

■プロフィール 1996年生まれ。東京都出身。2014年より女優・タレントとして活動。『仮面ライダービルド』ヒロイン(2017年テレビ朝日)、『恋より好きじゃ、ダメですか?』主演(2019年中国放送)、『スナイパー時村正義の働き方改革』ヒロイン(2020年CBCテレビ) 全日本忍者選手権大会優勝、横浜マラソン完走、けん玉道7級など、女優業のみならず、多才な分野で才能を発揮している高田夏帆さん。「さんまのからくりTV」で一瞬ワイプに映ったことを契機に、芸能界へ進出。「人生何が起こるかわからない」ということをリアルに体感しているという高田夏帆さんに、話を伺った。 ■ごく普通の女の子だった学生生活  昔から明るく社交的で、常に笑っているような性格でした。運動神経がいいほうで、ドッジボールは最後までボールを避けて逃げ切れるような、お転婆で活発な女の子でした。小学校の頃はずっとリレーの選手だったこともあり中学校で陸上部に所属し、短距離走と走り幅跳びをしていました。同じグラウンドの隣で練習している野球部を横目にしながら、少し気になっている子を探すような普通の学生生活でしたね。高校では、学校の部活の中で一番厳しいといわれていたダンス部に所属し、先輩後輩の上下関係の重要さや15分前行動、報・連・相(報告・連絡・相談)の基礎を学びました。クラスも部活も同じ仲良しグループがいて、誕生日には、1人1つホールケーキを作って持ってきては、授業の10分間休憩にみんなで食べたりしていました。 印象に残っているのは文化祭です。おそろいのクラスTシャツを着て、推しの先輩と写真を撮るために行列に並ぶようなこともしていました。力を入れていたダンス部の発表では、私が登場した時、「かほちゃ~ん!」という先輩からのコールたくさんいただいて、「人生最大のモテ期かな?」と思ったほどです(笑)。高校時代から芸能活動を始めてはいたものの、こういった普通の学生生活を過ごせたのは、ある意味私の強みでもありますね。 ■人生が180度変わった一瞬のワイプ  芸能界に入ることになったのは、高校2年生の時。制服で友達と原宿を歩いているところで、『さんまのからくりTV』のインタビューに声を掛けられたのがきっかけです。これを機に、番組から出演のオファーがあり、ほかの女の子20人くらいと一緒にひな壇に座って出演したら、私が一瞬ワイプに抜かれたところをたまたま今のマネージャーさんが見て、スカウトしてくれました。スカウトを受けたときは、進路について悩んでいたこともあり、芸能界の道に進むには不安な部分も多かったです。しかし、事務所の方に当時大人気だったAKB48のコンサートに連れて行ってもらい、「芸能界ってこんな素敵な世界なの?」ととても感動し、芸能界に進むことを決めました。 芸能界に入った後、最初の頃はひたすらオーディションを受ける日々でした。そして、私の初めてのお仕事であり、レギュラー番組にもなったのがNHKの『Rの法則』です。この番組は、スタッフさんが愛をもって育てていた番組だったので、毎日がとても楽しかったです。現場には同世代の男女も多く、学生生活とはまた違った青春を送ることができました。今の高田夏帆がいるのは、『Rの法則』があってこそ。とても感謝しています。 ■みんなが楽しいと自分も楽しい  お仕事をしている上では、辛いことも大変なこともあります。でも、私の性格なのか、すべてを珍道中として楽しめてしまいます。たとえば、コロナ禍でお仕事が減ってしまったとき、どうやってプロ意識を保とうかを考えたとき、思いついたのが「メイク」でした。 そこで知り合いのヘアメイクさんやカメラマンさんに、インスタのDMで自分から連絡をして、撮影会を企画しました。自分からみんなに声をかけて動くことは初めてでしたが、それぞれがやりたいテーマやコンセプトを持ち寄って、みんなが好きなことができる場になって、みんな楽しそうでした。みんなが楽しいと自分も楽しい気分になれて、とても思い出に残る撮影会になりました。 ■理想を持たず、自分を信じて上を目指し続ける  日頃から、理想を作らないようにしています。なぜなら、「誰かになろう」と思ったところでなれないものだから。自分の良さは自分が一番よくわかっているので、何かにとらわれないようにしています。動きを止めると死んでしまうマグロのように、常に上を目指して、自分を信じていこうと思いながら過ごしています。 また、常に心掛けているのは、目の前のことを全力でやるというもの。たとえば、全日本忍者選手権大会での優勝や、横浜マラソンの完走、けん玉道7級の取得などは、全部最初はテレビの企画でお声がけいただいたからなんです。まったく未知の領域ではありましたが、根性と努力で乗り切れたのは、自分を信じて、全力で取り組んだおかげだなと思います。 ■次につながったときに、自分を誉めてあげる  ドラマ『恋より好きじゃだめですか?』でカープ女子を演じ、その数か月後に広島銀行のCMに起用された時は、とてもうれしかったです。他にもアーティストデビューをして、レコード大賞をいただいたりと、自分の仕事が次の仕事につながる瞬間がとても嬉しいです。 褒められることが多い世界なので、仮に「また一緒に仕事をしよう」と言われても、本当にそれが実現するのはほんの一握りです。だからこそ、次の仕事につながったときは、自分を褒められるようないい仕事だったんだなと思うようにしています。でも、「失敗だったな」と思うことがあっても、それを糧に目の前のことに全力で取り組んで、過去の反省が生かすようにしています。 ■若いうちは「自分はすごいんだ」と勘違いしてもいい 米米CLUBのカールスモーキー石井さんが「若さは“馬鹿さ”だ。いつ馬鹿になるの? 大人になると、常識に縛られちゃって世界を自分で狭めちゃう」とおっしゃっていて、その言葉がとても響きました。若いうちは、若さにひたひたに甘えて、走ればいいと思います。少しずつ大人になって色々なことに気づいてくると、怖くて動けなくなってしまうので。若いうちこそ、感謝とリスペクト、ユーモアさえ忘れなければ、「自分はすごいんだ」と少しくらい勘違いしてもいいんじゃないでしょうか。 学生新聞オンライン2021年2月16日取材 共立女子大学 3年 北之原真奈

芸能人

段文凝 私が目指すのは日中友好。そのために、今日も発信する

■プロフィール 中国・天津市出身。大学卒業後、天津テレビ局アナを経て来日。2011年4月よりNHK教育テレビ『テレビで中国語』にレギュラー出演。(2017年3月卒業) 2014年早稲田大学大学院政治学研究科ジャーナリズムコース卒業。現在、早稲田大学非常勤講師。NHK WORLDの番組出演、著作家、MC、舞台や映画など、女優としても活躍している。 11年前に来日して以来、タレント、社長、講師など幅広いジャンルで活躍する段文凝さん。いまもなお「日本と中国の友好」をテーマに発信を続ける彼女に、日本に来た理由や活動の中でのやりがい、そして日中友好に対する熱い思いを伺った。 ■内気だった子ども時代から一転、日本への留学を決意した大学時代  いまの私を知っている人には信じられないかもしれませんが、小さい頃の私はとても内気でした。どれほど内気かというと、人前に出ると、顔が真っ赤になって話すことができなかったほど。そんな自分自身のことを、当時の私は好きではありませんでした。そこで内気な性格を克服するために、大学では人前で話すことを仕事とするアナウンサーコースに進学しました。その大学生活を通して私の性格は、内気から一転し、とても外交的になります。いま振り返ってみると、私にとってこの大学生活4年間は、大切な期間でしたね。 性格が外交的になるにつれ、次第に外の世界を見てみたくなった私は、留学を決意します。どこに行くかを考えた際、頭に浮かんだのは日本でした。私の父が日本で仕事をしていた関係で、もともと幼少期から私は日本に親近感を持っていました。また、『ドラえもん』などのアニメが好きで日本の文化にも興味があったし、日本だと中国から距離が近くて家族が安心できるなどの理由もあり、私は日本への留学を決意しました。 そうして日本に来た私ですが、来日当初はどこの大学院に通うかも決まっていない状態。さらに言うと、来日時は日本語の勉強をしていませんでした。学校も決まってないし、言葉もわからない。そんな状態で知らない地で一人生きていくことに、当然ながら多少の不安はありました。しかし、それを圧倒的に上回ったのが、経験したことのないことに出会えるワクワク感です。そのワクワク感のおかげで、不安はどこかへと吹っ飛び、留学中はホームシックになることもありませんでした。日本の生活で辛かったことはほとんどありませんが、唯一苦手だったのはゴキブリです(笑)。天津のゴキブリは小さいし飛ばないですが、日本のゴキブリは、大きいし飛ぶ!初めて見た時は本当にびっくりしました。 ■「日中友好の架け橋」に私はなりたい  中国と日本という二つの国が好きだからこそ、私はずっと日中友好をテーマに掲げて活動しています。そして、自分自身が日本人と中国人を繋ぐ架け橋になりたいと強く思っています。まだまだ目標の途中ですが、活動のなかで、自分が架け橋として役に立ったと感じる瞬間は、達成感がありとても嬉しいです。例えば、私は早稲田大学で短期留学の引率をすることがありますが、学生さんから「留学を経験して、もっと中国のことを知りたくなったので、中国に長期留学することを決めた」と言ってもらえた時は、大きな達成感を感じます。他にも、いま中国語を勉強している人たちから、「段さんが昔出演していた『テレビで中国語』は、とても勉強になりました」と言われた時も本当に嬉しかったです。 日中友好をテーマに活動している私ですが、より深く日本と中国に関わりたいと考えた末、昨年6月に「Goodwill Pictures」という会社を設立しました。突然ですがみなさん、北海道のお土産と言われて何を思い浮かべますか?「パッと頭に浮かぶ有名なお菓子もたくさんあります。でも、北海道には他にも沢山の魅力的な商品があります。「Goodwill Pictures」では、日中友好の一環として、地方にある魅力的な商品を、中国と日本にネットで発信、販売しています。これからも日本のことを中国に、中国のことを日本に発信し、日中友好の架け橋になれるように活動を続けていきます! ■人のためではなく、自分のため  仕事をしていく中で、大変だと思ったこともたくさんありました。それでも活動を続けられたのは、誰かのためではなく、私自身が本当にやりたいと思うことをやっているからだと思います。私の親は医者で、私が跡を継ぐことを望んでいました。でも、私は親の跡を継がずに、日本に来てタレントとして活動しています。いまの私があるのは、親のために医者になるという選択肢を取らず、自分がやりたいと思うことを続けた結果です。 また、自分のやりたいことを続けることは、自分にとっての楽しみや続けるモチベーションへと繋がります。いま振り返れば、これまでの人生は「自分が楽しいかどうか」を基準に、仕事をしてきたようにも思います。そのおかげでいままで仕事を続けることができていると思いますし、いまやっている仕事も毎日とても楽しんでいます。 ■何をするにもモチベーションを大切に  生きていれば嫌なことが続く時もあります。そんな時は未来を信じ、諦めない心を忘れないでください。諦めたらそこで終わりです。いまがどんなにダメでも、自分のやりたいことを見つけ、やり続けること。そうすればいつか必ず報われる時は来るはずです。 ここからは中国語を学んでいる方へのメッセージです。「中国語は日本語と漢字が似ているから簡単なのでは」という理由で、中国語の勉強を始める日本人の方は多いです。しかし、途中で挫折してしまう人が多いのも、また事実です。この挫折は学校の単位のためだけに中国語を学んでいる人に起こりやすい気がします。「授業のため」以外に勉強するモチベーションを探してみてください。「『三国志』が好き」「中国人の彼女を作りたい」「現地で生活していくため」でも、モチベーションは何でもいいです。モチベーションさえあれば、どんなことでも続けることができます。私も日本で生きていくために日本語の勉強を頑張りました。辛い時期を乗り越えたら本当にいい景色が見えるはずです。大学生のみなさん、頑張ってください! 学生新聞WEB 2021年2月16日 法政大学1年 鈴木悠介

経営者

株式会社ココナラ 代表取締役社長CEO 鈴木歩

個人が社会と繋がるチャンスを提供する! ■プロフィール 早稲田大学法学部を卒業後、株式会社リクルートに入社し、HR・ブライダル領域での商品企画・営業、アドテク新規事業での事業開発を経験。その後、株式会社リクルートホールディングスにて海外経営企画として、グローバル・ガバナンス・組織体制検討、海外リサーチ、海外グループ会社サポートなどを担当。2016年5月よりココナラに参画。 スキルマッチングプラットフォームで圧倒的な知名度を誇り、今年3月に上場を果たした株式会社ココナラ。代表の鈴木社長は、学生時代からイベントの運営を通して、誰かの将来を後押しするきっかけづくりにやりがいを感じていた。ユーザーの反応を大切に現場の最前線で活躍する姿に迫る。 ■イベントの運営に注力していた学生時代 大学は途中からは最低限でしか通わず、イベント運営をメインに活動していました。もともとDJをしていて、1,2年生の頃は音楽サークルを作ったのですが、もう一段階飛躍したいという思いで、イベントを開催するようになりました。音楽イベントだけでは人が集めづらいので、ファッションショーやヘアショーとコラボしながら1000人くらいのお客さんを集客していましたね。 就活の時期になっても、目の前のイベントに夢中だったので、就活をしなくても特に焦りはありませんでした。しかし、周りがだんだんと企業に内定していく姿を見て、一度企業に入ってビジネス感覚をしっかりと身につけた方が良いのではないかと思い直すようになって。最終的には、自主留年をして就活をする道を選びました。大手を中心にいくつか受けたのですが、その中でも人生の選択肢を提供するリクルートは自分の価値観に一番合っていると思い、就職を決めました。学生時代のイベント活動でも、出会いの場を作ることによって誰かのキャリアの後押しができることにやりがいを感じていたので、後にできた「まだ、ここにない、出会い。」に象徴されるように、魅力的な事業を行っている会社だったので迷いはありませんでした。 ■ユーザーとの距離感が近く、手触り感のある仕事がしたい ココナラに転職したのは、丸10年リクルートで働いた後です。当時は、リクルートで海外の経営企画を担当していたんです。ニューヨークと日本を行ったり来たりしながらグローバル・ガバナンスの検討をするなど、刺激的で面白い仕事をさせてもらっていたのですが、ユーザーとの距離が近い事業の中で手触り感のある仕事をまたいつかやりたいなと思っていました。そんな時にちょうど、ユーザーオリエンテッドで自分の価値観に合ったココナラから声をかけていただいたので、初めての転職に踏み切ったんですよね。 ■小さな会社から上場企業へ成長 5年前は赤字で、このまま運営していったら1年後にはキャッシュが尽きるかもというスタートアップにはよくある状況でした。プロダクトを作るにしてもエンジニアの数が足りず、当時は無名だったので採用も大変でしたね。最初は個々の能力で成果を上げるプロ集団という感じだったのですが、 “one team for mission”というバリューを掲げて、今ではプロダクトと社員のビジョンが一致して、組織として一体感を持って前進できています。大変だったことも今振り返ると全てが今に繋がっている思い出深い出来事ですね。 マーケットプレイスは、取引が発生して初めてスタートするので、立ち上げ時はマッチングしやすいようにあらゆる変数を減らしてスタートさせました。例えば、場所や時間の変数をなくすためにオンライン上での取引に限定したり、価格もワンコイン一律にして購入時のハードルを下げたりするといった工夫です。その後、段階的に価格帯やカテゴリーを増やしていって、今では40万件のサービスと、270万件のレビュー数があり、価格帯は500円から100万円まで出品可能な大きなプラットフォームにまで成長しました。このレビュー数の多さは、目に見えないサービスに対する信頼と安心に繋がり、ユーザーを引き込む一因にもなっています。 ■個人が社会と繋がるチャンスを提供する会社 何かを頑張りたいと思ったときにそのチャンスすらないのは不幸せじゃないですか。必ず成功を約束できるわけではないですが、自分が社会と繋がって頑張りたいと思ったときに、そのバッターボックスに立てる状態をつくりたいという思いがあります。 ココナラはスキル、知識、経験の領域においてホリゾンタルにあらゆるカテゴリーを扱っているという点が一つの強みだと思います。最近ではWEBサイト制作、デザイン、動画制作といったビジネス系のサービスの取引が伸びており、よりビジネス利用の信頼性を担保していく機能開発に力を入れていきたいと考えています。ゆくゆくはサービス版のAmazonとして、“誰かに何かをお願いしたいと思ったときはココナラ”といった信頼あるブランドに成長していきたいですね。 ■現場の最前線で行動 自分自身は本来けっこう適当なタイプだと認識しているので、だからこそ仕事上は計画的に行うように意識していて、今後の施策もあらかじめ常に細かく300近くリストアップしたりしています。普段から現場のメンバーともよくコミュニケーションは取っていて、気軽なディスカッションの場などは毎日たくさんあります。仕事をする上での楽しさも、ユーザーとの距離の近さにあります。プロダクトや機能をリリースしたら、良いも悪いも直接フィードバックを貰えるという点にやりがいを感じますね。 ■ビジョンに共感し、オープンマインドな人と働きたい 一緒に働くうえで一番大事なのはfor missionであることですね。 “一人ひとりが『自分のストーリー』を生きていく世の中をつくる”というビジョンに共感してくれる人と働きたいです。また、社風から言うと、率直でオープンなコミュニケーションが取れる人ですね。「こういう社会をつくりたい!」というビジョンドリブンで動けるひと、そして本音をその場でしっかり伝えて議論をした上で前へ進める人がいいですね。 ■message 学生時代は自分に自信を持つこと、自信を持てるようにアクションを取ることが大切です。100回失敗しても、それは次の成功の糧になると思うので何回でも挑戦して1つでも成功体験を積めると良いですね。社会に出たらイレギュラーな出来事もたくさんありますが、一歩足を踏み出す原動力は経験に基づく根拠のない自信だったりするので、学生時代の頑張りに立ち返って自信を取り戻せるような経験をしておけると良いと思います。 学生新聞オンライン2021年3月31日取材 国際基督教大学 4年 鈴木菜桜

山本真人

さんだる

「楽しくお笑いをしている」と思われるような芸人に。 ■プロフィール 2013年結成。2019年第1回ツギクル芸人グランプリ決勝進出、キングオブコント2019準決勝進出、2020年キングオブコント2020準決勝進出。2021年はNTV「ぐるナイおもしろ荘2021」に出演、5月30日には単独ライブを開催。ラジオアプリGERA「さんだるのぴよぴよさんだる」(毎週月曜日更新)に出演中。 同じ養成所に入ったことをきっかけに結成されたお笑いコンビ「さんだる」。結成当初から出場し続けた「キングオブコント」で、準決勝に2年連続進出。今年、800組を超える芸人の中から選出され、テレビ番組『おもしろ荘』にも出演を果たした、お二人の理想の芸人像とは? 現在に至るまでの経験や思い、これからの展望と共に伺った。 ■学生時代から芸人を目指していましたか? 宗:全く考えていなかったです。高校の文化祭で漫才をやったことはあるんですが、中学・高校のときはお笑い番組をほとんど観ていなかったです。でも、大学進学後に、『ダウンタウンのごっつええ感じ』や、ジャルジャルさんなどのお笑いDVDをよく見るようになり、「俺がやりたかったのはこれだ!」と思ったんです。 堀内:僕は反対に、小学生から芸人になることが夢で、卒業文集にも「芸人になりたい!」と書いていたほどでした。そのころから、お笑い番組やネタ番組を相当観ていましたね。特に、『めちゃ×2イケてるッ!』と『内村プロデュース』を観ていて、「芸人さんはふざけてお金をもらえていいなぁ。楽しそうだな。自分も出たい!」と思い、いつからか芸人という仕事を目指していました。 ■お二人が出会ったきっかけや、選んだ理由は何ですか? 宗:お笑い養成所で、同じクラスだったのがきっかけです。クラスの中で、これから一緒にお笑いをやっていく人を探すわけですが、僕には条件がいくつかありました。それは、「年が近いこと」「東京出身であること」です。なぜ「東京出身」という条件を出していたのかというと、さまぁ~ずさん、おぎやはぎさんたちのような東京出身の先輩方に続けという想いがあったからです。また、僕自身、ナインティナインさんみたいに「若いころから売れたい」という思いがあって、できればキレイ目な人と組みたかったので、これらの条件の整っていた堀内ともう一人(のちに脱退)と一緒に、トリオとして「さんだる」を結成しました。 堀内:養成所で最初に自己紹介や一発芸をやるのですが、その後、宗ともう一人のメンバーの3人で、「誰が面白くなかったか」という話を3人でしていて、同じ人を挙げたことをきっかけに仲良くなりました。感受性が近かったのだと思います。僕は、「友達として仲良くなれる人とやりたい」と思っていたので、2人とは養成所時代から楽しく過ごせたのも、よかったんだろうなと思います。 ■印象に残っている仕事はありますか? 宗:印象に残っているのは、「キングオブコント」で初めて準決勝の舞台に立ったときです。「さんだる」はずっと「キングオブコント」に出続けているのですが、結成して6年目までは毎年1回戦敗退でした。挑戦し続けた大会で、準決勝に立った時、その舞台に立つ前までわからなかった感覚や手ごたえを感じられて、「もうひと頑張りしなきゃ」と思ったのを覚えています。 堀内:僕も印象に残っているのは「キングオブコント」ですね。ただ、準決勝に進出したときではなく、その前の年の2回戦での舞台が印象に残っています。今までは「キングオブコント」の舞台でウケたな……手ごたえを感じたことはなかったのですが、初めて凄くお客さんの反応がよくて、強い手ごたえを感じて、ものすごく興奮しました。結局、その年は準々決勝で敗退してしまいましたが、今もその年の2回戦でやったネタはとても大事にしています。 ■ネタはどうつくりますか? 宗:基本は僕が考えています。まずは、ネタの設定だけを相方に伝え、相方も面白いと言ったら、本格的に作りだします。僕は、面白いネタは言葉で伝えた時点で既に面白いと思っているので、相方に設定を伝えて「面白くない」と言われたら、「このネタは50%の人が面白くないと思っているんだな」と考えて、使いません。ネタ作りの際は、自分から意識して「ネタを考えよう」と思った際に生まれたことは1度もないです。映画やドラマなどのほかの作品を見ていて、ふとした瞬間にアイディアが出てくるんです。 ■苦労していることはありますか? 宗:最近、ネタ番組に出演させていただく機会が増えているのですが、その中で感じるのが、コントを中心にやる芸人ならではの難しさです。漫才師は、その芸人自身として舞台に立ちますが、コント師はネタの中の役を演じて、お客さんを笑わせます。しかし、トークするときは芸人本人としてコメントしなければならないので、ネタの中で演じた役の枠から出ることになります。ネタ中とその後のトークでキャラに落差があってはいけないと常々思っているので、この「コント中」と「トーク中」のキャラクターの出し方については、本当に難しいですね。 ■今後の目標やチャレンジしたいことはありますか? 宗:まずは、キングオブコント決勝に進出したいです。あと、僕は映画に出たいですね。ネタは、面白い時期を過ぎると後で見ても笑えないことが多いですが、映画は長い間残ります。エンドロールに自分の名前が載るのが夢ですね(笑)。ちなみに、僕たちのネタで『孤独のグルメ』をモチーフにしたものがあるので、ぜひ『孤独のグルメ』に出演させていただきたいと思います!あとは、単独でもおもしろいと思われる芸人になりたいです。僕たちは、ネタをメインにやってきているのですが、バナナマンさんのように一人ひとりが単独で活躍しても面白いと思われる芸人さんに憧れます。最終的には、「あの人たちは、普通にまったりと話をしているだけで面白いよね」と思ってもらえるような芸人にもなりたいですね。あとはもちろん、ずっと楽しくお笑いをしている芸人でありたいと思います! ■message 宗:芸人をやっていて、様々な知識が必要だということを痛感します。これは芸人だけに限られたものではないと思います。どんなことでも「これやっていてよかった」とふと思うことがあるので、やるかやらないかで迷ったら、確実にやる方を選んだ方が楽しいと思います。 堀内:僕は小学校のときから芸人を目指してきたので、大学に進学することは考えていなかったです。しかし、今思えば、退路を断って「これしかなれない道」を歩むよりも、様々な選択肢の中で選んだ道に進んだ方がいいと思います。大学生を楽しみながら、親を大切に、感謝して過ごしてほしいですね。そして大学生の皆さんが、僕たち「さんだる」を見て、楽しんでほしいと思います。 学生新聞WEB 2021年2月15日取材 明治大学2年 山本真人 <さんだる単独ライブ> 【タイトル】さんだる単独ライブ③すりっぽん 【日程】2021年5月30日(日) 【会場】渋谷ユーロライブ 【時間】開場14:30/開演15:00 【チケット】前売・当日とも¥2500 【チケット販売フォーム】チケット購入は TIGETにて https://tiget.net/events/126904

大学理事長・大使館

セルビア共和国 イヴァナ・ゴルボヴィッチ・ドゥボカ在京セルビア大使館...

プロフィール イヴァナ・ゴルボヴィッチ・ドゥボカ 在京セルビア大使館臨時代理大使 1970年9月1日生まれ。 ベオグラード出身。ベオグラード大学法学部卒業。 英語、フランス語、ロシア語を操る。 経歴 1998年 ユーゴスラビア連邦外務省三等書記官 2004年~2007年 在クロアチア・セルビア大使館一等書記官 2008年~2010年 セルビア外務省分析課参事官 2010年~2014年 在キプロス・セルビア大使館参事官 2014年~2018年 セルビア外務省儀典局特権免除課長公使参事官 2018年9月 在京セルビア大使館公使参事官 2020年7月 在京セルビア大使館臨時代理大使(現職) バルカン半島の中心に位置する国、セルビア共和国。今回は、品川にある大使館にお邪魔して、イヴァナ・ゴルボヴィッチ・ドゥボカ在京セルビア大使館臨時代理大使にお話しをお伺いいたしました。 ■セルビアについて 一般情報 セルビア共和国は民主主義国家です。長い歴史と偉業によって近代国家が築かれました。セルビアには、ヴォイヴォディナとコソヴォ・メトヒヤという2つの自治州があります。人口は約900万人、首都はベオグラード。ベオグラードは行政、経済、文化の中心地で、人口は約160万人です。 地理・面積・気候 セルビアはバルカン半島の中心に位置しており、ヨーロッパとアジアを結ぶ交通の要衝地となっています。面積は約8万8361平方キロメートルで、北海道より少し広いくらいです。標準時は中央ヨーロッパ時間(CET)です(日本との時差はマイナス8時間。サマータイム時はマイナス7時間)。気候は穏やかな大陸性気候で、日本と同様に四季があります。 民族 激動の歴史を辿ってきたセルビアの民族構成は多様性に富んでいます。住民の大部分はセルビア人ですが、他にも37の民族が存在します。すべての民族に自由と平等の権利が保証されています。 スポーツ セルビア出身の有名スポーツ選手は、なんといっても、男子プロテニス選手のノバク・ジョコビッチ選手です。他にも、サッカー、バレー、バスケット、水球など、世界で活躍する選手を次々と輩出しております。リオ五輪では8個のメダルを獲得しました。 参考:セルビア共和国大使館HP ■臨時代理大使のこれまで 臨時代理大使は、ベオグラード大学法学部に入学しました。当時、特にヨーロッパは情勢が不安定で、先行きの見えない時代でした。そして在学中の1989年、ベルリンの壁が崩壊しました。この出来事が世界に与えた衝撃は大きく、自身の「平和主義」「コミュニケーションを大切にしたい」という価値観の形成にも大きな影響を与えました。卒業後、始めは裁判官として働いていました。しかし、「社会を変えたい」「社会に貢献したい」「国をよくしたい」という強い気持ちを実現するには外交が一番の近道だと考え、外務省に入省。現在、外交官としてのキャリアは25年目で、これまで政治、経済、文化などの分野をご担当されてきました。来日したのは2年前で、日本が初のアジア赴任地。日本の印象は「とても美しい国。特に自然の美しさは世界に類を見ないほど」とのことでした。 ■国民性 ーセルビア人と日本人の違いについて教えてください セルビア人は日本人と比べるととても陽気です。それに大らかですね。熱心で、目標に向かって行動する場合、全力で取り組む傾向があります。共通するのは、家族や伝統をとても大切にしていることですね。 ―セルビアと日本の関係について教えてください セルビアと日本は固い友情で結ばれています。セルビア人は日本が好きで、親日家がとても多くいます。今から139年前にセルビアのミラン・オブレノヴィッチ国王と明治天皇が親書を交わし、両国の友好関係が始まりました。長きにわたる友情をとても誇らしく思います。 ■職務 ー大使館でのお仕事について教えてください。 大使館業務はとても幅広く、多忙を極めます。セルビアと日本の関係強化のために、日本の外務省を中心に各省庁との連携を深めています。ほかには在日セルビア人の保護、セルビアの文化や観光の宣伝活動なども重要な公務です。セルビアの外務省との情報交換も大切な仕事ですが、時差は8時間(夏季は7時間)もあるので、やり取りをうまく調整する必要があります。ユーゴスラヴィアの時代から過去の大使が育んできた日本との友情を維持するべく、全身全霊で公務を全うしたいと思っています。 ■パンとラキア ー「フランス人ならチーズとワイン」、「ドイツ人ならソーセージとビール」といったように、セルビアにも、「これを食べてこれを飲めば仲良くなれる」といったものはありますか? セルビアは美しい自然、温かくおもてなしの精神を持つ人々、そして東洋と西洋の特徴を併せ持つおいしい料理を味わうことができる国です。また、古代ローマ時代から生産が続く高品質のワインも楽しめます。中でも果物の蒸留酒「ラキヤ」は特産のプラム、アプリコット、ぶどう、洋ナシなどを原料としており、セルビアの国民酒と言えます。アルコール度数は、製法にもよりますが、40度~60度と非常に高いです。「ラキヤ」は健康に良い影響を与え、気分を高揚させてくれます。 主食はパンで、日常的に食べられます。一方で友情の証でもあります。大切な行事では円形のパンを用意し、友人らと引きちぎるという古い習慣が今でも残っています。また、来客の際は歓迎の表れとして玄関先でパンと塩を提供する習慣もあります。 ■読者に向けてメッセージをいただけますか いつかセルビアを訪れていただき、私たちの国土、人々の魅力を肌で感じてほしいです。セルビアの地形は変化に富み、自然美を堪能できます。セルビア人はとても友好的で温かな人たちが多いです。セルビアに到着したら、まずは首都のベオグラードをお楽しみください。古い歴史を持ち、至る所に公園があります。中でもドナウ川とサヴァ川の合流地点にあるカレメグダン要塞公園はおすすめです。 セルビア中部のシュマディヤ地方、西部のタラ山脈国立公園と保養地のズラボティボル地方も外せません。この地域には「ドゥルヴェングラード」と呼ばれる有名な観光スポットがあり、毎年多くの人たちが押し寄せます。ここはセルビア人映画監督のエミール・クストリッツァ氏が手掛けた観光地としても知られており、大自然に囲まれながらゆったりとした時間を過ごしたり、セルビアの伝統文化を学んだりして、丸一日楽しむことができます。 ほかにも、13~14世紀の中世セルビア時代に建てられた教会や修道院が今でも残っており、ユネスコの世界遺産に登録されています。皆さんのご訪問を心よりお待ちしております。 学生新聞WEB2020年11月16日取材  慶應義塾大学4年 小川淑生 津田塾大学2年 宮田紋子/慶應義塾大学4年 小川淑生/東洋大学1年 濱穂乃香/津田塾大学3年 川浪亜紀/慶應義塾大学1年 伊東美優

宮田紋子

GENIC(ジェニック) 夢を「与えられる側」から「与える側」へ。

■プロフィール avexのDNAを継承する新ダンス&ボーカルグループ育成プロジェクト=a-genic PROJECT(エイジェニック・プロジェクト)から選ばれた男女7人。2019年結成。2020年5月に1st Album『GENEX』でメジャーデビュー!西澤呈 / 小池竜暉 / 宇井優良梨 / 増子敦貴 / 雨宮翔 / 西本茉生 / 金谷鞠杏 日本の音楽シーンをリードしてきたavexから、そのDNAを継承する男女7人組のダンス&ボーカルグループとして誕生したGENIC。異なる経験、武器、バックラウンドを持つ7つの個性が重なり合うことで、どんな化学反応が生まれるのか。そんな彼らの軌跡と最新曲「春うらら」、そして今後の展望について伺った。 ■みなさんがこの業界に入ったきっかけを教えて下さい。 西本茉生(リーダー)歌は物心ついた時から好きで、音楽番組はテレビにかじり付くように観ていました。ダンスを始めたのは、中学生の時に先輩に誘われたのがきっかけ。高校へ上がった時には、友達がダンスオーディションに応募してくれて(笑)。気づいたら今に至っています。 小池竜暉昔から生粋の音楽好きではありましたが、小学校までの夢は料理人でした。その後、歌に強い興味を持ったのは、親の影響でライブに行くようになってからです。次第に、「今度は自分が歌を通じて、人を感動させる側になりたい」と歌手を目指すようになりました。 西澤呈物心ついた時から勉強は苦手だけど、マイケル・ジャクソンが好きな子どもでした。彼がステージに登場しただけで、多くの人が惹きつけられていく。その姿を見て、「ステージの力ってすごいんだな」と憧れを持ち、この業界を目指しました。 増子敦貴僕は小さい頃からサッカーが好きで、高校はサッカー推薦で進学したほどでした。とはいえ、プロになりたいという気持ちもなく、「卒業後は “普通”に働ければいいかな」とすら思っていました。でもある日、いわゆる運試しでオーディションに応募してみたんです。そうしたら、受かってしまって(笑)。それがきっかけで、音楽やダンスを好きになっていきました。 金谷鞠杏私はもともとCAになりたかったんです。でも小学校6年生の時、好きなモデルさんと一緒に雑誌に載れるという企画を見つけて。一種の縁を感じて応募してみたところ、グランプリを受賞することが出来たんです。これをきっかけに、今度は「ランウェイに出たい!」とモデルを目指すようになりました。しかし、東京へ遊びに来ている時にavexさんからスカウトを受けたことで、夢がダンス&ボーカルへと変わっていきました。 宇井優良梨ダンスは小学校1年生の頃から習っていて、6年生になったときに、オーディションでavexさんに「ダンス&ボーカルをやらないか」と声をかけてもらいました。歌も幼少期から好きではあったんですが、仕事にしたいとまで思うようになったのは、a-genic PROJECTがきっかけでした。 雨宮翔ダンスは3歳頃からやっていました。そして、5歳の時には、「将来的にダンサーになりたい」とまで思うようになっていました。きっかけは先輩であるAAAさんのライブを観て憧れを抱いたことです。 ■やりがいになっていることはなんですか? 金谷鞠杏この業界へ入ったのも、誰かに元気や勇気、そして夢を与えられてきたから。今度は自分たちがそれをファンの方へ還元し、心の支えになっていく。これにはとても大きなやりがいを感じています。 西本茉生やはりファンの方の存在です。ライブでのお客さんの反応や僕らの反応、両方のエネルギーによる相乗効果で創り上げていくものです。そのため、同じセットリストであったとしても、ライブごとに色も変わります。僕らにとってもお客さんはとても大きな存在なんです。 西澤呈SNSは場所を越えてコミュニケーションがとれるので、ファンの方から頂く様々なメッセージは、どれも嬉しいし、励みになります。 宇井優良梨特に感動したのは、以前いただいた「GENICになってくれてありがとう」という言葉。この言葉を思い出すたびに「GENICとして活動出来ていることが当たり前ではない」と感謝するようにしています。 ■活動していて辛かったことはありますか? 小池竜暉実は僕らはみんな、過去に別のグループを組み、解散をするという苦い経験を味わってきています。当時はつらいと感じましたが、乗り越えた先にこのメンバーと出会えたからこそ、今になると「苦労も苦労じゃなかった」と思えます。みんな、これまで培ったものを糧に「このステージに立ちたい」か大きな目標の達成に向けて、どんな逆境でも乗り越えてやるという強い気持ちを持っています。 ■メンバー同士についてはどう思われていますか? 増子敦貴運命共同体ですね。ファンの方々との約束を達成しようという強い思いがあるグループです。 西本茉生最初は、お互いに探り探りなところもありました。でも今となっては、メンバー同士で深い話も腹を割ってする仲です。やっぱり7つも頭があると、意見のぶつけ合いになることは多々あるんですよね。それでも、良いものは良いと素直に認め合い譲り合うことで、最終的には折衷案を見つけ出すことが出来ます。ここ一年半で急速に仲が深まったのも、こうした率直な話し合いのおかげです。あとは鞠杏と翔がたまに喧嘩していますが、それは戯れあいの一種ですね(笑)。 宇井優良梨男女混合というメンバー構成なので、パフォーマンス上、女子が男子の力強さに合わせていくという難しい点もあります。でも、混合ならではの表現で奥行きを出せる点は、強みですよね。 ■新曲の「春うらら」の注目どころを教えて下さい! 小池竜暉この曲は4月から放映中のアニメ『フルーツバスケット』The Finalのエンディングテーマソングです。決まった時は嬉しかったですね。作品のテーマである友情や助け合い、その中で生まれる恋愛模様に加えて、自分たちの想いも入れて歌詞を書きました。春らしさを表現した1曲になります。 西澤呈アニメとリンクして聴いてほしい一方、知らない人でも現在新生活を味わっている方や夢に向かって挑んでいる方にも、強く突き刺さる1曲だと思います。あとは恋愛のモヤモヤを抱えている人が聴くと、心がスッキリするかもしれません。 西本茉生僕の推しのフレーズはサビや歌い出しの「歩いてきた道、間違いじゃないよ」の一節ですね。 ■今後、挑戦してみたいことはありますか? 西本茉生7月から始まるファーストツアーが目前に迫っています。初ツアーに向けて、今の高まっている気持ちをさらにパワーアップさせ、準備満タンにしていきたいです。 金谷鞠杏プライベートでは、休日に全員で集まって遊んでみたい! 例えばディズニーランドで思い出作りがしたいですね! ■大学生へのメッセージ 西本茉生大学生になると今までに比べて自由度が増すため、自制心が試されてくるのかなと思います。遊ぶ時はとことん楽しんで、しっかり勉強する時はする。こうしたメリハリを大切に、楽しい4年間を過ごして頂きたいです。そして、これはグループ名にも込めているのですが、みなさんの日常生活における喜怒哀楽に僕らGENICが少しでも彩りを与え、寄り添っていけたらいいなと思います。なので、良かったらGENICの曲を聞いてみてくださいね! 学生新聞オンライン2021年3月3日取材 津田塾大学 2年 宮田紋子 DIGITAL RELEAS 「春うらら」 TVアニメ「フルーツバスケット」The Finalのエンディングテーマ。春の訪れにぴったりなミディアムバラードで、「友情」や「これからのスタート」などを歌った前向きな気持ちにさせてくれる内容で、「フルーツバスケット」のキャラクターたちの前進しようとする姿を後押ししているかのような温かさを感じさせる楽曲となっている。またメンバーの小池竜暉と西澤呈が共作で作詞に参加し、心の揺さぶられる”春”に強く背中を押せる様に、という思いが込められている。