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Archive for 運営スタッフ

DX・WEBマーケティング

DAZNJapanInvestment合同会社 日本社長&マネージングディレクター ...

好きなことに全力で、パッションを持ち続ける! ■プロフィール 海外も含め、15年以上の幅広い分野での事業経営経験を持つ。Perform在籍前は、再生可能エネルギー事業を推進する上場会社で社長兼CEOを務めていた。東京で三菱商事株式会社からキャリアを始め、11年後シリコンバレーへ移り、17年間の米国在住期間中にヒューレット・パッカード等さまざまな企業で勤務。 いつでも、どこでもスポーツ中継が観られる動画配信サービスDAZN(ダゾーン)。その日本社長を務めるのが中村俊氏だ。オーストラリアで学生時代を過ごした後、三菱商事などを経て、DAZN日本社長に就任した中村社長に、同サービスが始まった経緯や日本での展開、そしてずっと持ち続ける想いについて伺った。  父親の仕事の関係で、高校1年生のときに家族でオーストラリアのシドニーに引っ越して、現地の学校に通いました。日本に戻ってきたのは、シドニー大学でエンジニアリング学び、卒業した後です。新卒で総合商社の三菱商事に入社しました。当初は、「商社なのだから、海外を飛び回るような仕事ができるだろう」と想像していたのですが、これが全く違っていて、「これでは自分の思い描くような働き方はできないな」と徐々に感じるようになりました。そんな折に、知り合いからヘッドハンティングを受けたことを契機に、年間勤めた会社を辞め、アメリカのシリコンバレーへと拠点を移しました。  その後、17年間に渡って、アメリカでヒューレット・パッカードをはじめとした企業で勤務したり、仲間と一緒に事業を立ち上げたりと、様々なことをやった後、日本へと帰国して、事業再生などを手掛けるようになりました。ある日、広告代理店でスポーツ事業の統括責任者をやっていた弟からDAZNの紹介を受け、スポーツの仕事はやったことがなかったのですが、「未経験のことに挑戦したい」と、引き受けることにしました。 ■ファンニーズに合わせてマーケティングを変更  事業そのものの準備は2015年9月にスタートしたのですが、当時はまだ会社の名前も決まっていなければ、会社もできていませんでした。最初は「DAZN」の発音すら認知されていませんでした。  DAZNの最大の強みは、動画配信サービスとしてスポーツに特化していること。そして、ファンが自分で好きな番組を選べるところです。地上波やケーブルテレビでもスポーツ配信は行われていますが、テレビ局が放映する番組を選ぶので視聴者は試合を選べない。でも、われわれのようにネットを使った中継サービスの場合は、開催されている無数の試合の中から、スポーツファンの方が自分で観たい試合を選べます。それが大きな特徴です。  しかし、すでにさまざまな動画配信サービスがあるなかで、認知度を上げるのは簡単ではありませんでした。そこで最初は、移動中でも居酒屋でもスマホなどで映像を見ることができるという利点を知ってもらうため、「いつでもどこでも試合が観られる」という点をアピールしていました。ただ、逆にそのアピールが「スマホやタブレットじゃないと観られない」という誤解を与えてしまい、認知度が高まるにつれて、スポーツ中継を大画面で観たいという人から、「早くテレビでも見られるようにしてほしい」という問い合わせが増えていきました。そこで、「自宅の大画面で好きなスポーツ中継がいつでも見られます!」という方向性へとマーケティングを変えていきました。 ■忘れられない「DAZNありがとう!」の声援  いまだに忘れられないのが、約2年前にJリーグアウォーズというそのシーズンに活躍した選手や監督、クラブ、審判などを表彰するイベントのときの出来事です。私たちもフィールドにいて、表彰式に参加していたのですが、その際、観客席からファンの方の1人が「DAZN、ありがとう!」という声援をかけてくれたんですね。そのときは、「ああ、DAZNをやっていて良かったな」と強く感じました。  今後のDAZNの目標は、DAZNを「毎日観てもらえるサービス」に変えることです。現在は試合中継の際にDAZNを利用する人が大半だと思いますが、今後は、スポーツ関連のドキュメンタリーを作ったり、スポーツのニュース番組を作ったりするなどオリジナルのコンテンツを作ることで、より多くの人に、毎日DAZNというサービスに触れてもらえるようにしていきたいですね。 ■message  近年の大学生は、就職する企業を選ぶ際に安定した仕事を選ぶ傾向が強まっていると聞きます。しかし、最初から「安定したい」といった考え方だと「、人生それで面白いのかな?」と私などは思ってしまいます。自分の人生の中で仕事に費やす時間は非常に長い。だからこそ、若いうちからリスクや失敗を恐れずに、自分の好きなことや、やりたいことにパッションを持って立ち向かうことを大切にしてほしいですね。そして私自身も、そうしたパッションを持った方とともに働きたいと考えています。 学生新聞2021年4月号別冊 日本大学3年 辻内海成

経営者

株式会社サマンサグローバル ブランディング&リーサチインスティチュ...

ピンチだなと思ったときが大きなチャンスである ■プロフィール 広島県福山市出身。駒澤大学経営学部卒業。 1991年 海外ブランド輸入代理会社設立 1994年 株式会社サマンサタバサジャパンリミテッド 設立 2019年 代表取締役社長を退任。 2020年 株式会社サマンサグローバルブランディング&リサーチインスティチュート設立 人を喜ばせたいという想いの強い寺田社長。人とのつながりの大切さ、その根本にある「感謝と尊敬」、ピンチをチャンスと捉えることによって生まれる「運と縁」。これらのことを大事にすることで活路が開けるという。その心構えを創業者ならではの視点で語っていただいた。  私の父は広島にある鉄工所の5代目の社長で、非常に格好よく、憧れの人でした。子ども心に会社を継ぎたいと思っていましたが、中学2年の冬に、2つ上の兄が継ぐことを知りました。私はがっかりしましたが、次男なので仕方がないと思い直し、それからは自分で起業しようと思い、一生懸命会社を作るための勉強をしました。 私は次男に生まれて会社を継げないと分かったとき、なんて運が悪いのだろうと思いました。しかし、ピンチだなと思ったときにどうチャンスに変えていくのかが大事です。長男に生まれなかったからこそ今の会社があるのだし、今では父親の会社を継ぐよりも自分の作った会社の方が自分にとって良かったと思っています。ピンチのときこそチャンスであり、チャンスと捉えることで運が開けるのです。 ■会社を作るために何をすればいいのか  大学2年のときですが、起業をするには英語が必要だと感じ、留学を決意しました。しかし、当時は英語を話す機会もなく、人前で英語を話すのは恥ずかしいとさえ感じるような時代でした。そこで中学生に英語を教えることを思い立ちました。塾講師なら生徒に英語を教えながら英語を話すことができますし、文法を基礎から学ぶこともできてとても勉強になりました。 大学3年のときに休学してカナダに留学するのですが、ここでもまたピンチが訪れます。留学の間際に父親が倒れてしまい、自分で留学費用を捻出しなければならなくなったのです。このピンチをチャンスに変えるために、カナダで2つのビジネスを始めました。一つはカナダ人を英会話の先生として日本に派遣するビジネスです。もう一つは、カナダ産の革のジャンパーを日本に輸出し、知り合いの商社が開催する催事で販売するビジネスです。この革ジャンのブランドビジネスは上手くいったのですが、英会話の先生の派遣ビジネスは上手くいきませんでした。人の管理が思うようにいかず、やはり人を扱うビジネスは難しいと実感しました。しかし、この経験から人とのつながりがビジネスを生んでいくのだということを実感しました。 ■仕事をしていく上での大事なこと  その後、大学4年になってもカナダにいることが多く、カナダの毛皮ビジネスも順調でした。このまま会社を立ち上げ、起業しようかと思ったのですが「、こんなに上手くいくわけがない」と思い、考え直しました。 会社経営をするためにも一度会社勤めをしないとサラリーマンの気持ちがわからないと思い、ある商社で2年間働きました。そのときに実感したのは、人は「やりがいがあっても給与が悪いと文句を言う」「プライドがあるほどやりがいがないと文句を言う」「給与が良くてもやりがいがないと文句を言う」ことです。自分が会社を作るときは、やりがいがあり、プライドが持てて、良い給与を出せる、そういう仕事をやりたいなと思いました。 ■ブランドもので起業する  この経験で学んだことを生かして起業するには「ブランド」だと思いました。ブランドといっても、お金がないので車や時計は作れないなと感じていました。また、洋服とは違い、バッグは持っているとどこのブランドかがわかりやすいことにも気づいたのです。そのとき、「バッグが一番作りやすい」と直感的に思いました。 しかし、私はファッション自体わからないし、ファッション系の知り合いは一人もいなく、ピンチだと思いました。当時は雑誌が流行を決める、それをテレビが追いかけるという時代でした。雑誌に取り上げてもらうだけでビジネスとして成り立つくらいの勢いがありました。しかし、雑誌で取り上げてもらうのは至難の業です。それだけ雑誌は敷居が高かったのです。 当時、4人で会社を経営していたのですが、雑誌社に電話をかけることに全員が反対しました。しかし、反対されたことで私はむしろチャンスだと感じました。運良く会ってくれる雑誌社の方がいて、少しずつ関係を築きながらお付き合いをしていくうちに、次に来る流行の情報を教えてくれるようになったのです。仲良くしていただきながら常に心がけていたのは、相手が求めていることを先読みし、行動することでした。人との出会いをいかに活かすかが大切なのです。 ■message ピンチを感じないとチャンスは生まれません。コロナで大変ですが、こういうときだからこそ人と同じことはしない、人がやっていないことをしないと勝つことはできません。今はチャンスの時代なのでピンチを楽しんでチャンスをつかんでほしいと思います。 人間は「~したい」か「~しなきゃ」の2つの感情で動きます。おいしいものを食べたいと思う感情、学校に行かなきゃと思う感情のことです。いやなことでもしないといけないもの、「~しなきゃ」を「~したい」に変えていくことが大切です。そのためには明確な目標と目的をしっかりと持つことです。ここをきちんと決められると半分くらいは目標を達成したようなものではないでしょうか。 学生新聞2021年4月号 日本大学3年 辻内海成

人事

ストラテジー・アンド・コンサルティング株式会社 コンサルティング・タ...

■プロフィール 自動車・モビリティ・運輸・航空宇宙・製造・化学セクターコンサルティングリーダー。国内外で自動車業界を中心に20年以上にわたりコンサルティングの経験を持ち、経営戦略策定、事業構想、マーケット分析、将来動向予測等に従事。2021年より採用担当を兼務。 専門性を駆使し、プロフェッショナルなマインドを持って経営者を支え、クライアントの経営課題を解決する。そして、国籍や性別を越えてダイナミックに連携し、国際的に活躍できる魅力的なファーム。 ■業界の特徴と魅力をお聞かせください  コンサルティングは、第三者的立ち位置や専門性を活かしながら、業界や国をまたいで連携することにより、クライアントの経営課題の解決を生業としています。モノやサービスを世の中に提供するのではなく、弁護士や医師などのプロフェッショナルと同様なマインドを持ち、いわば黒子の立ち位置で経営者を支える仕事です。 その魅力は、SDGsなどの社会アジェンダに真正面からぶつかり、いろいろな人と協力し、解決するダイナミックさです。また、クライアントの経営課題に対し、専門性を駆使し、難易度の高い仕事をやり切ったときのクライアントからの感謝、そして自分がどう世の中に寄与したのかを目の当たりにすることができることが醍醐味です。 ■どのような人材を求めていますか  スキルがあり地頭がいいというだけでなく、業界のために役に立ちたい、より良い社会を作りたいというマインドを持っている学生は魅力的です。そして、クライアントからの高い期待に応え続けるべく、自己を常に成長させなければならないため、成長意欲や物事に取り組む情熱を持つ学生に来て頂きたいです。小さなことでも一歩踏み出し、「こういうふうにやりたい、だから今このような活動をしている」などと、アクションを起こせる学生を希望します。そういう人であれば、就職後も自分自身で成長することができます。 ■御社の魅力について教えてください  弊社は、圧倒的にグローバル化やダイバーシティが浸透しています。業界や国をまたいで仕事をしていく中で、目標を達成するにはいろいろな価値観を持った人材が必要です。そのため、外国人も積極的に採用しており、グローバルとの密な連携とともに、性別、国籍、年齢の違いを感じさせないこと、それが当たり前だと認識していることが私たちの強みです。 ■大学生へのメッセージをお願いします  就職は、人生において大事な意思決定だと思いますが、まずは悔いのないようにやってもらいたいです。コロナ禍という大変な環境ではありますが、それを前向きに捉え、今しかできないことに自ら挑戦してください。我々企業側もそういう姿勢を見ています。 学生新聞2021年4月号  駒澤大学4年 如意太一

DX・WEBマーケティング

大塚製薬株式会社 ニュートラシューティカルズ事業部eコマース部 金澤慎...

自分を見つめ直し、興味関心あることを考えてみよう ■プロフィール 1987年生まれ。新潟県出身。米国ネバダ州立大学ラスベガス校教育学部卒業。2010年4月、大塚製薬株式会社入社。ニュートラシューティカルズ事業部福岡支店、MBA留学(米国ワシントン大学)、事業戦略室を経て、2017年3月から現職。 ポカリスエットやオロナミンCなどの飲料や、カロリーメイトといった栄養食品においてロングセラー商品や科学的根拠に基づいたユニークな商品を生み出し続ける大塚製薬。同社ニュートラシューティカルズ事業部の金澤係長から、自身の想いを形にする仕事の楽しさや学生時代の経験を今の仕事に活かしているお話などを伺った。  学生時代は、アメリカの大学で体育学、主に人の健康を学んでいました。この分野にもともと興味があったので、将来はスーパーに並ぶ商品、自分たちの生活に身近なモノに関わっていきたいと思うようになりました。 就活のタイミングが、ちょうどリーマンショックのど真ん中で大変でした。4年生の12月まで内定がなく、本当にギリギリで大塚製薬に決まったという感じです。面接の時に、留学中にポカリスエットに幾度となく助けてもらったエピソードを熱く話したら、縁あって入社することができました。入社後、再度留学させてもらったのもありがたいことでした。 入社して良かったと思うのは、街でポカリスエットやオロナミンCを飲んでいる人を見かけると、気持ちがすごくハッピーになることです。ちょっと見た目がいかつい感じの人がオロナミンCを飲んでいたら、「あっ、この人絶対いい人だ」と思います(笑) ■商品の価値を伝えお客様をリピーターに  今の仕事で行っている業務は大きく分けて2つあり、1つ目は、自社の通信販売サイト「オオツカ・プラスワン」を管理・運営し、集客をするための広告を打つことや、購入してもらった方にまた購入していただくためのチラシやメールを作っています。 自社通販サイトは小売サイドに近いものなので、目標は自分たちのサイトで買ってもらうこと。継続して利用してもらい、ライフタイムバリュー(LTV)という指標でどれだけ買ってもらったかを見ています。 2つ目は、ポカリスエットやソイジョイといったブランドのデジタルマーケティングのサポートをしています。ここでは販売するというよりも、お客様に対し商品についてもっと知っていただくことを目的にプロモーションしています。キャンペーンなどを実施して、サイト内の滞在時間を長くすることや、飲用機会を幅広くとらえていただくような提案や、商品の認知度を高めることを目的として行っています。 ■デジタルでわかること、わからないこと  業務においては、すべてを数値化できることが面白いと思います。店頭の販促資材やPOPは、それを見たお客さんがいつ、どのタイミングで購入したのかを計測するのは難しいのですが、デジタルはそれがすべて数値としてわかります。  バナーを掲載して、何回表示されて、何人の人がどの商品を購入したのかが一目でわかる。もっと言うと、購入した人の何人がリピートしているのかが数値でわかるので、面白い反面、失敗も数字で明確に返ってくる。ねらっていたことと全然違うことが多々あります。  うまくいくようにするには、これをやればこうなるのではないかと仮説を立てて、プロモーションをやらなくてはいけません。  逆に、数値だけではわからないこともあります。例えば、自社通信販売サイトで、明らかに男性向けの商品を女性が購入しているとします。アンケートをとってみると、息子のために購入したとか、デジタルだけでは見えてこない、リアルで聞いてみないとわからない、裏のストーリーもあります。だからこそお客様の生活をイメージすることや、時には妄想することも大切なんだと気付かされます。 ■リアルとデジタルの融合を目指す  リアルとデジタルの融合は、できているようでできていないことが多いです。全ブランドで試して、より多くの消費者の方へ届くように活かしていきたいです。ブランド軸だけではなく、会社としても、全国の営業拠点と協力しながら、考えたいと思います。 ■message  就活は、自分を見つめ直すいい機会です。自分の強みや弱みを考えること。まだまだ先は長いので、興味があることって何だろうとか時間をかけて考えることが大事。やってみて無駄なことはありません。そのときどきでは無駄じゃないかと思うこともあるかもしれませんが、あとになって考えてみるとそれまでの経験が今の自分に繋がってきます。語学や資格だけではなく、コミュニケーションをいろんな人ととれるようになっておくといいですね。 学生新聞別冊2021年4月号 専修大学4年 石岡慶也

濱穂乃香

株式会社 吉野家ホールディングス 代表取締役社長 河村 泰貴

一生懸命に努力することが 必ず成長につながっていく ■プロフィール 1968年生まれ。大阪府出身。1987年に広島の高校を卒業後、アルバイトを経て1993年吉野家ディー・アンド・シーに入社。2001年、吉野家ディー・アンド・シー企画室グループ企画室に着任。2004年、はなまるへ出向し、経営再建に貢献。2007年、同社代表取締役社長に就任。2012年、吉野家HD社長に就任し、2014年に吉野家の社長を兼務。長期経営ビジョンNEW-BEGINNINGS2025を掲げ、「飲食業の再定義」を進めている。 大学に2度入り2度中退。吉野家でのアルバイトに楽しさを覚えた若者は、正社員となり、吉野家ホールディングスの社長になった。学歴は関係ない、失敗を恐れず、興味があることに一生懸命になれ。価値は「ひと」が生み出す、という河村社長だからこそ語れる大学生へのメッセージとは。  私にとって、大学生になるということは代の自分とその自分を取り巻く環境からのエスケープであって、学業について語れることはあまりありません。ただ、いろんなアルバイトを経験しましたね。引越センターやゴルフ場などで体力勝負になるような仕事が多かったように思います。 さまざまなアルバイトのなかでも、19歳のときにはじめた吉野家のアルバイトにハマりました。そこで尊敬できる大人に出会えたことが私にとって価値のあることでした。また、吉野家は当時時間365日営業でしたが、社員は基本的に1店舗に1人の配置でした。つまり、ほとんどの時間はアルバイトだけで店を回すわけです。そのため、アルバイトでも責任者になれば、自分で考えて効率よく仕事を進めることができて、いろんなことを任せてもらえるようになるのです。任される、ということにやりがいを感じて熱中した結果、大学には行かなくなり、中退してしまいました(笑)。 その後、吉野家ではアルバイト店長が導入されたのですが、そのときに、店長を任せたいと言っていただいて、いろいろ悩んだ末に、そのお話をお引き受けしました。実際に始めてみると、店長の仕事はかなり大変で、2度目に入っていた夜間の大学も忙しくて行けなくなり、結局、中退してしまいました。 吉野家でのアルバイトを続けながら、23 歳くらいになると、ついこの間まで一緒に遊んでいた友達が急にリクルートスーツに身を包み、髪型を整えて、就活生に変わっていくのを目の当たりにして焦り始めました。手に職があるわけでもないですからね。そんなときに正社員にならないかというお話をいただきました。こんな自分を雇ってくれる会社はもう他にはないと思い、入社することにしました。 ■何よりも大事なことは、一生懸命やること  いざ入社式に出てみると、同期になる新入社員はみんな新卒ばかりです。今考えればよいことだったと思えますが、当時は最年長である以上、人の何倍も努力して仕事を早く覚えなくてはいけない、なんでもできて当たり前でないといけない、と焦りました。 それと同時に、アルバイトではなく社員なのだ、と社員として仕事に向き合うスイッチが入るきっかけになりました。私は、「こういうものだから」という言葉がとても嫌いなんです。何事もなぜだろうと考えますし、疑問に思ったことは追求しないと気が済まないタイプです。そのため、すべてのことに一生懸命取り組み、それが習慣になったことがとてもよかったです。 努力しているかどうかって、人の目をごまかせても自分には分かりますよね。だからこそ、自分に嘘をつかないように一生懸命勉強して努力しました。人生で初めてあんなに勉強したんじゃないかな(笑)。私はなんの取柄もないアルバイトでしたが、ありがたいことに、仕事ができるようになると次のチャンスを与えてくれる会社だったので、それが次の成長へとつながりました。 ■「ひと」が価値を生み出す会社になる  私は、「ひと、こそが価値を生み出す源泉」だと考えています。感動的なサービスはロボットにはできません、「ひと」が行うことでその価値を高めることができるのです。一方で、人件費は単にコストとして捉えがちです。しかし、私はコストではなく付加価値だと思っています。この「ひと」を大切にするのは、グループ共通の価値感になっていて、吉野家ホールディングスの魅力だと思っています。 幸せの定義は人それぞれであり、会社は一方的に社員に幸せを提供することはできませんが、当社では、努力する人には成長のための機会が平等に与えられます。だからこそ、学歴は関係がないと思っているので、実力主義を求める方に来てもらいたいですね。逆に、年功序列とかは全くないので安定を望む方には向いていないと思います(笑)。   与えられた機会に、自分がどこまでできるのか、食らいついて生き生きと活躍してほしいですね。さらに、飲食・サービス業は大変だというイメージを、「楽しくやりがいのある」イメージに変えていきたいです。 ■message  大学はブランドとか偏差値とかはまったく関係がなく、学びたいことを学んでほしいですね。興味のあることを深めていってください。そして若い人に希望を持ってほしいです。未来に希望を持って早く大人になりたいと思う社会でありたいと思っています。そうでない社会なのは、我々大人の問題でもあります。ぜひ、社会や未来に希望を持ってください。大人になったらいいことがたくさんありますよ。大失敗することもいいことなんです。今のうちに失敗を恐れず、いろんなことに挑戦して自分で道を切り開いていってほしいです。 学生新聞2021年4月号 東洋大学1年 濱穂乃香

大学理事長・大使館

学校法人神奈川大学理事長・神奈川大学長 兼子良夫

どうやって生きるかを、正しく選択していく力を育てる ■プロフィール 2003年より神奈川大学に勤務。経済学部長、理事を経て、2016年4月より学長に就任。2020年9月より学校法人神奈川大学理事長を兼務。現在、文部科学省大学設置・学校法人審議会特別委員をはじめ、学外の要職を多数務める。 「質実剛健」「積極進取」「中正堅実」の精神に基づき、真の実学を目指す神奈川大学。2021年4月にはみなとみらいキャンパスを開設。国際都市・横浜を知の拠点として、世界に通用する人材育成に力を入れている兼子学長に話を伺った。 ■どんな学生生活を過ごされていましたか  常に自分で考えて行動することを心がけて、学びの日々を過ごしていました。特定非営利活動法人アイセック・ジャパンという団体に所属し、海外の学生が日本で働くことに対する支援と、日本の学生が海外で働くことに対する支援をしていました。スタディツアーで東南アジアの大学を訪問することもあり、学生時代から海外に目を向けていました。 発展途上国の学生と交流する機会が多く、彼らの「自分で国を創っていく」という強い意志に触れることができたのは学びでした「。自分は将来にどんなビジョンがあるのか?「」自分はどう生きていくのか?」と自問自答するきっかけになりました。 ■学問を研究する意味について、教えてください  世界には解決できていない問題があります。私の研究分野である経済学においては、物価高騰、貧困と飢餓、失業問題などです。一人ひとりがより良く生きていける社会にするために、問題解決を目指して世界中の研究者たちが、日々努力しています。 私も「、人々の生活や生存の厳しさを、学問で解決したい」と思い研究の道に進みました。 ■学長としての想いをお聞かせください  私の根底には、「一生懸命頑張る学生をサポートしたい」という想いがあります。学生のみなさんに、学問の叡智をいかに伝えることができるかを常に考えています。 そのために、国際的な大学づくりを目指し、世界標準の高いレベルで研究を行っています。2021年4月に開設するみなとみらいキャンパスはその一環であり、産官学連携の視点においても、双方で啓発し合いながら進める「新しい教育・研究」を実現することができる理想的な環境です。いま本学が積極的に取り組んでいるのは、SDGs17の目標と169のターゲットの達成に向けた研究・教育の推進です。持続可能な社会をつくるために、高等教育機関として研究活動や教育活動を通じ、地球規模の課題に対して、さまざまな側面から解決策を見つけることに大きな責任を持っています。イギリスのタイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)が発表した、SDGsを軸とした世界の大学の社会貢献度を測るTHEUni-versityImpactRanking2020にて、本学は指標となる全SDGでランクインしました。全SDGにランクインした日本の私立大学は校のみです。日本の主要大学の一つとして、一層SDGsへの取り組みを強化してまいります。 ■どんな学生が社会に求められていくと思いますか  資本主義社会の未来は、誰にも分からない、不確実で予測不可能なものです。分かっているのは、いまの概念は通用しなくなる、ということです。社会が激しく変化する時代にあって、その場に合わせて臨機応変に行動できる対応力や、グローバルに活躍できる力が必要不可欠です。「あの企業に入りたい」ではなく、「どうやって生きるか」を常に考え、正しく選択できる能力を磨いてほしいと思っています。 本学卒業生には、世界的企業で活躍している人や、官公庁でも重責を担っている人がたくさんいます。本学で学んだ学生が社会に出て、一生懸命頑張っている姿を見ると胸が熱くなりますね。 ■大学生へのメッセージをお願いします  新型コロナウイルス感染症の流行で厳しい状況が続いていますが、これをむしろチャンスと捉えていくことが大切です。本学でも、オンラインを活用し約180の海外協定校との交流を活かして連携をはかり、教育内容の幅を広げることで、頑張る学生をバックアップしています。 未来に向かって希望を忘れずに前に進み続けてほしいです。苦しい状況を一緒に乗り越えていきましょう! 学生新聞2021年4月号 明治学院大学3年 小嶋櫻子

DX・WEBマーケティング

株式会社Mizkan MD本部デジタルマーケティング部部長 亀山勝幸

信頼される味を時代のニーズに合わせて発信! ■プロフィール 1972年生まれ。神奈川県出身。法政大学経済学部卒業。1995年3月、株式会社Mizkan入社。1998年より商品企画部門において、食酢・ぽん酢・つゆなど主力カテゴリーのブランド戦略・商品開発を担当。2018年3月、デジタルマーケティング部部長に就任。広告宣伝、デジタルコミュニケーション全般を担当している。 創業1804年、江戸時代後期から続くミツカン。代表的ロングセラーブランド「味ぽん」は、入れ替わりの激しい食品業界の中で、発売から56年経った今でも成長し続けている。既存の価値をどのように新しい価値に繋げ、多くの人に届けるのか。デジタルマーケティング部の亀山部長にその秘訣を伺った。  食品メーカーの魅力は、やはり衣食住の一つということで、多くの人に触れるものを扱っているという点ですね。自分が開発に携わった商品やCMがたくさんの食卓に届くなど、多くの人の暮らしに影響を与えられるところが面白いですね。そのような中で、私が所属するデジタルマーケティング部は、広告・宣伝・PR・広報など「コミュニケーション全般」を担当しており、商品やメニューの魅力をより多くの生活者に伝える役割を担っています。 ■時代を超えて商品を届ける  われわれミツカンは創業216年、江戸時代後期から続いている歴史ある会社なんです。江戸の屋台でお寿司が流行りだしたことをきっかけに、それに合うお酢を愛知県で作り出したことから始まっています。代表的なロングセラー商品として「味ぽん」があるのですが、発売から年が経った現在も売り上げを伸ばしています。当初はお鍋用の調味料として発売したのですが、東日本ではお鍋にぽん酢を使う文化がなく、商品を知ってもらうまでには時間がかかりました。テレビCMなどを活用しながら認知を広めているうちにようやくお鍋用の調味料として定着し、次にどんな使い方があるのかを模索し始めました「。あそこに餃子に使っている人がいる」「焼肉に使っている人もいるらしい「」サンマにもいいんじゃないか」といった形で常に新しい価値を追求し続け、今では多くのお客様に様々な使い方でご使用いただき、長く愛され続ける商品へと成長いたしました。商品の味を変えるだけではなく、どういう使い方、楽しみ方があるのかをうまく伝えていくことで、ロングセラー商品でも伸び続ける。それを可能にするのがわれわれの部署だと思っています。 ■生活者ニーズに合わせた情報発信  情報発信する際に、企業目線ではなく生活者目線で興味関心のある情報を届けることが重要だと考えています。日々の意識変化を捉えるために、オンライン上の検索データやSNSの投稿を分析することで、生活者のニーズをタイムリーに把握することもできます。例えば、2020年には「コロナ太り」や「免疫」といった検索ワードなどをもとに、Twitterでミツカン社員おすすめレシピを配信したところ、高いエンゲージメント率を獲得することができ、フォロワーも一気に増えたことがありました。今では「おうちごはん特集」としてホームページ上で一番閲覧されるコンテンツに成長しています。 また、メディアの特徴も把握してそれに合わせた情報発信も必要と考えています。具体的には、バナー広告などのペイドメディアで認知を広げ、自社のメディアであるオウンドメディアで情報を充実させ、SNSといったアーンドメディアで生活者の方とインタラクションする。SNSはターゲット世代に該当する担当者が運営をして、世界観やコンテンツの内容を作りこんでいて、フォロワー数も順調に伸びている状況です。インタラクションとしては、インスタグラムのストーリーやTwitterのカンバセーショナルカードを使って、お客様へ質問を投げかけ、その回答や意見に沿った情報発信を行っています。双方向的なコミュニケーションをすることで、見ている方も積極的に興味を示してくれます。 ■業界によって異なるデジタルとの相性  食品業界では商品を実際に購入したり料理したりする場の多くがオフラインです。家や車といった購入頻度の低いストック型の商品は、デジタル上で調べ尽くしてから買うなど、お客様の関与度が高いのですが、食品はフロー型なのでデジタル上での関与度が低い傾向にあります。もちろんデジタル活用は重要で今後も不可欠ですが、デジタル活用自体を目的にするのではなく、オンライン・オフラインを切り離さずに、カスタマージャーニーに沿ってコミュニケーションを設計することが重要と考えています。 ■message 私自身が仕事を選ぶ際には「好きなことを選ぶ」ということを強く意識しました。嫌いなことを通じて自分を成長させることは難しいと思うんですよね。自分が何を好きか、何がやりたいかという観点から仕事を選ぶと人生楽しく過ごせるのではないかと思います。また好きなことを一生懸命楽しくやっていると、自然といいご縁が向こうからやってきてくれるように感じています。 学生新聞別冊2021年4月号 国際基督教大学4年 鈴木菜桜

伊東美優

株式会社ファンケル 代表取締役社長執行役員 CEO 島田 和幸

お客様との絆を大切に、世界中にもっと喜びと笑顔を ■プロフィール 1955年生まれ。広島県出身。1979年、同志社大学法学部卒業。株式会社ダイエー入社。1993年から、8年間創業者の中内功氏(故人)の秘書を務める。その後、株式会社マルエツを経て2003年、株式会社ファンケル入社。2007年、取締役。2015年、取締役専務執行役員を経て、2017年4月から、代表取締役社長執行役員CEOに就任 創業以来、安心・安全にこだわった独自の商品開発により、無添加化粧品やサプリメントなど、多くのお客様から支持を得ているファンケル。このコロナ禍で大きな打撃を受けながらも新たな発見があったと語る島田社長。ファンケル独自の強みとは何か、今後の目指す姿について話を伺った。  大学生時代は混声合唱団に所属し、 年間ひたすら歌を歌っていました。今でも時間があるときに、学生合唱団の映像を見て楽しんだりしてます。勉強はあまりやってこなかったのですが、唯一語学は 年間頑張って勉強しました。とにかくサークル活動などを楽しんでいたので、大学4年生のときは、就活への不安で苦しかったのを覚えています。自分は何をしたいのか、どんな仕事が向いているのかを慌てて考えていましたね。ただ、当時は高度経済成長期で、流通業が牽引する時代でした。いろいろな業界を見ていく中で、私もこの業界で日本を豊かにしたいと思うようになりました。その結果、卒業後は小売企業の中でトップだった株式会社ダイエーに入社することになったのです。 ■チェーンストア業界での経験  ダイエーに入社して以降8年の間、私は社長秘書を務めることになりました。そこでお世話になったのが、ダイエーの創業者であり当時社長であった中内功氏 ( 故人 ) です。 中内さんは一言でいうと、本 当に怖い人でした。そして、 とんでもなく凄い人。彼は戦後アメリカでチェーンストア が発展していることを知り、 日本でも誰もが食べたいだけ食べられるような豊かな世の中にしたいという思いから、チェーンストアを興した第一人者です。私はあくまで秘書でしたので、中内さんと深い付き合いがあったわけではないのですが、近くで仕事ぶりを見ていて尊敬とはまた違った畏敬のような感情を抱いていました。そして、そのような業界に身を置いて一番感じたことは、やはり産業構造の変化の速さです。デパートメントストア三越を売上で抜いて小売業界トップに躍り出て、日本一の流通グループとなったあのダイエーが、年代後半から一気に業績が落ちていったのです。栄枯盛衰と言いましょうか、時代の流れは我々の想像を遥かに超えて早く、未来は予測不可能だと思い知りました。 ■コロナ禍を経て気づいたこと  このような経験を経て、2003年に新たに入社したのが株式会社ファンケルです。創業者の池森に社長になることを勧められたときは、ある程度自分の中で覚悟がありましたが、やはりプレッシャーは大きかったです。ただ、会社や社員、お客様のためにやるべきこと、そして果たすべき責任があるからこそ、人はやりがいを感じると思うのです。 この新型コロナウイルスによって、当社も大きな打撃を受けました。私が社長に就任してから右肩上がりで伸びていた売上も、昨年大幅に減ってしまいました。ただ、この状況下において全てがマイナスかというとそうではありません。その一つが「こんなときだからこそ頑張ろう」と、より社員との関係が深まったことです。やはり社員が元気でなければいい商品は開発できないし、お客様に喜んでいただくことも不可能だと思います。だからこそ、私たちのモットーは社員みんなで仲良く。ありきたりな言葉ですが、昨年は同じ目標に向かって頑張る仲間たちをより一層大切に感じることができました。そしてもう一つがお客様からのメッセージです。社員一人一人の気持ちが沈んでいるときにお客様から感謝の言葉をいただいたり、中には体の心配をしてくださったりなど、メッセージ一つひとつが私たちの心の支えになりました。おかげでこのコロナ禍でも、踏ん張って今は耐えようと前向きな気持ちになれました。 ■お客様の「不」の解決が原点  当社のような商品を扱う企業はたくさんありますが、他社とは価値観が違います。当社は創業当時、化粧品公害という大きな社会問題を解決するために起業したという経緯があり、「安心・安全」にこだわり続けています。商品開発にも力を入れており、無添加化粧品やサプリメントなど、素材や鮮度の追及を重ねた商品の数々が私たちの強みです。どんなに世の中が変わろうとも、私たちはお客様の「不」を解消するという創業当時からの原点を貫き、新たな課題を解決していきます。お客様に喜んでいただくことを常に考え、挑戦し続けることが重要です。 このコロナ禍は会社としても個人としても、足元を見つめる良い機会でした。そしてこれからもお客様との絆を深めていくことの大切さを実感しました。今後はデジタル化をさらに進めて今よりもっとお客様とつながること、独自性の高い商品をどんどん開発していくことを考えています。そして今後は中国を中心に、さらに海外で売り上げを伸ばしていきたいと思っています。日本から世界にフィールドを広げて、より多くの人々の「不」の解消に貢献していきます。 ■message  昔は60歳過ぎれば定年だったのですが、今では70歳まで働かないとやっていけない時代に変化しつつあります。だからこそ確実に言えることは、一つのキャリアで一生涯生きていくことは不可能だということ。学生の皆さんもどんなときでも学び続けください。 学生新聞2021年4月号 慶應義塾大学1年 伊東美優

芸能人

倖田來未 人生に無駄はなく、やってきたことは間違いではなかった

■プロフィール 1982年、京都府に生まれる。デビュー20周年を迎えるが、デビュー当時のスタイルとパフォーマンス力を現在でも維持し続けている。常に新しいことに挑戦し、多くのファンに愛され支持されている。2020年9月、徹底したコロナ感染予防対策の上、アリーナツアーを開催し、ファンを魅了。  小学校4年生のときから「歌手になりたい」という夢を持ってオーディションを受け始め、高校年生の夏にエイベックスに合格しました。しかし、デビューが確約されていなかった中で一年間レッスンを受け、やっとデビューできたのですが、“倖田來未”という人間をなかなか見てもらえず、会社の期待にも応えられませんでした。自分はデビューを目標に頑張ってきたのですが、デビューしてからがスタートだと気づかされ、そこからはもっと努力しないと周りのアーティストさんと並べない、勝てないのだと痛感しました。 ■自分には何があるだろう?自分の正解を見つける難しさ  デビューしてからは“倖田來未”という人間の正解を探す旅となります。人の背中を押せるような曲を届けたいと思って楽曲作りをしていたのですが、なかなかヒットに恵まれませんでした。そこで、まずは気づいてもらうことが大事だと思い、「人がやっていないことをやろう!」と、当時、周りにはいなかったセクシーなファッションをしたところ、多くの人に知ってもらえるようになりました。しかし、次はファッションで注目される“キューティーハニー”のような存在から歌手の“倖田來未”にならないといけません。歌を聴いてもらいたいのにファッションアイコンが一人歩きするのです。そこで次はメッセージ性のある曲を歌って歌手だということに気づいてもらうことにしました。音楽業界には正解というものがありません。自分自身で正解を見つけるのが大変でした。 私は大人も子どもも楽しめるエンターテイメントを作りたいと思っています。エンターテイメントは夢を与えられる仕事であるだけに自分自身が夢を忘れず、お金では買えない価値を届けたいと思っています。これをやったらお金がかかるな、などと現実的なことばかり考えていると夢はなかなか語れません。いくつになっても子ども心に戻って楽しんでもらえるものをと思っています。 ■message  いろいろ経験することが大切だと思います、恋も仕事も。そうすることで「自分ってこれが好きなんだ」という発見につながります。でもそれは一歩踏み出さないと始まらないです。いつもと同じルーティンでいると何も変わりません。やったことのないことをやってみる。そして自分の勘を大切に、自分を信じて進んでほしいと思います。 学生新聞2021年4月号 大阪教育大学4年 清水悦子

DX・WEBマーケティング

株式会社ロッテ ロッテノベーション本部マーケティング部デジタル担当部...

お客様をファンに。デジタルメディアをさらに活用 ■プロフィール 早稲田大学社会科学部卒業後、株式会社ロッテへ入社。営業として卸店やスーパーマーケットの本部を担当したのち、リテールサポート部門、商品開発部などを経て、2016年より自社オンラインショップの実務責任者を担当。2019年11月より現職にて自社オンラインショップはじめホームページやファンサイトなどのオウンドメディアを統括。 「お口の恋人ロッテ」というキャッチコピーを耳にしたことがない人はいないだろう。「Ghana」「爽」「雪見だいふく」「XYLITOL」など、ヒット商品に枚挙の暇はない。また、ロッテといえばプロ野球千葉ロッテマリーンズを想起する人も多いはず。そんな大企業ロッテにおいて、デジタルマーケティングを担当している宮内さんに話を伺った。  われわれは、主にオウンドメディアやオンラインショップの企画・マネジメントを担当しています。もともとホームページは宣伝部の管轄だったのですが、オウンドメディアを連動して運用する事を目的にロッテlandやロッテオンラインショップとともに、現在はわれわれの担当で運用を行っています。 お菓子業界に特徴的なのは、「商品名と会社名が意外と一致しない」という点です。例えば「コアラのマーチ」などはCMソングで「ロッテコアラのマーチ」と歌っているので一致しやすいのですが、その他の商品に関しては、皆さん、「これはロッテの商品だ」という意識はあまりないのではないでしょうか。このような点を考えると、まずはロッテという会社の製品だという認知を持っていただくというよりは、各ブランド(商品名)に対して愛着を持っていただき、ロイヤリティーを高めるしかありません。その一環として弊社では、単純に商品情報を出すだけでなく、例えばオウンドメディア内にて各商品をモチーフにしたゲームを作ったり、お菓子の空き箱で工作をする企画を行うことで、商品への接点と増やしてもらい、結果としてロイヤリティーを高めてもらえるような施策を行っています。 ■お客様にアプローチする方法の変数が増大  昔の広告は、テレビやラジオ、雑誌や看板が中心でしたが、昨今では動画投稿サイトやホームページ、アプリに加えて、各種文字ベースのメディア等、露出箇所が際限なく広がってきています。そのため、それぞれの広告の効果を追って分析することが非常に難しくなっています。オンラインでやり取りの完結する商品の場合は分析できる点もあるのですが、お菓子というのは基本的にオフラインでご購入いただくものですので、このあたりは本当に難しいですね。 ただ、今後デジタルメディアの活用でできることは少なくありません。例えば、弊社の公式LINEの登録者は1200万人を超えていますし、各ブランドのSNS登録者数も順調に伸びてきています。こうしてSNSアカウントを通じて「どうファンにできるか」という取り組みがとてもしやすくなります。これはお菓子という商品の特性上、とても重要なことなんです。例えば家電などでは、事前にしっかりと下調べをして、あれこれ悩んで最後に「よし、これだ」というものを購入しますが、お菓子の場合は、ふらっとコンビニやスーパーに入って、たまたま目に入ったものを手にとる、いわば衝動的な購買が非常に多いですよね。ですから、その回の衝動的な行動の際に弊社の商品を思い出してもらえるかが大切だと考えています。 ■ヒット商品を育てる難しさ  昨今特に、ロングセラー商品は作りにくくなってきています「。ロングセラー商品はこうやって作ります」と答えられたらかっこいいんですけど、知っている人がいるなら教えてほしいというのがホンネです(笑)。ですが、弊社に限らず、各メーカーの稼ぎ頭は何十年選手の商品ですので、やはりどのメーカーもロングセラー商品を育てたくてほしくてうずうずしていると思います。 お菓子業界に限らず、ヒット商品を作るのが難しい理由のひとつは、面白い広告が必ずしも購買に繋がる訳ではないからです。どんなに面白い企画を打ってSNSでバズっても、どんなに豪華なキャストを用意してCMを打っても、それを見て「あ、これ買いに行こう」とならなきゃ意味がない。そして残酷なことに、莫大なお金をかけたCMでも、見た翌日までそれを覚えている方はほんの一握りです。これは本当に難しいところですね。 ■message  私たちは、デジタルの広告とアナログの広告(リアルの広告)とを分断して考えてはいません。それは、お客様がそれらの広告をデジタルかアナログかでは意識していないからです。そして、そんな中でデジタルの分野で大活躍するのが、何を隠そう皆さんのような世代の方々です。今の若い方々は、「デジタルネイティブ」と呼ばれ、デジタルを何の気なしに使いこなしています。そのような方々が主導して取り組みをしないと、これからはお客様たちへの訴求できないと思うんです。あの台湾の、天才と呼ばれるデジタル担当大臣オードリー・タンさんでさえ、「新しい事に対しては若い人には敵わない」とおっしゃっているくらいですから。柔軟なアイディアや発想、型にはまらない考え方。若さゆえに持ち合わせているものを武器にして、挑戦をしてください。 学生新聞別冊2021年4月号 慶應義塾大学4年 小川淑生

大学理事長・大使館

日本薬科大学 副学長・教授 都築稔

地域との連携を大切に、これからの教育を考える ■プロフィール 1974年生まれ。東京大学農学部卒業。東京大学農学生命科学研究科博士課程修了(農学博士)。サントリー株式会社勤務を経て、2005年4月より現職。専門は分子生物学、微生物学、 分析化学。伊奈町生涯学習委員会委員、聖学院大学大学評価 会議外部委員を務めるなど、自治体や大学との産学官連携を 多数手がけ、商工会等での講演も行っている。 地域との連携や社会貢献活動を大切にしている日本薬科大学。その副学長である都築稔氏に、地域と大学との関係性の重要性や今の教育に必要なこと、そして、人口減少やコロナ禍によって、今後、大きく変わろうとしている教育界の将来展望について伺った。 ■実験とテニスの毎日だった大学時代  小さい頃から生き物が好きでした。高校生の時に、手塚治虫の漫画やスティーヴン・ホーキング博士の本を読み、宇宙や未知の世界に興味を持ちました。その結果、「宇宙に生命体はいるのか」といった疑問を持ち、宇宙や生命科学に関する研究をしたいと思うようになりました。今振り返ると、未熟だったのですが、実際に大学に入って、学生実験の大半は、結果がわかっているものばかり。「知らないことを解明していくのが科学だ」と考えていた私は、「結果がわかっていることを繰り返しても」と疑問を抱くようになっていったのです。 部活動では、体育会のテニス部に入っていました。テニス漬けともいえる大学生活だったため、4年生になり部活が終わるまで、バイトや旅行とは無縁の生活を送っていました。「海外旅行は学生時代にしかできない」と思ったので、引退後は、東南アジア、中近東など、いろんな場所へ旅行に行きましたね。海外に一人で旅行をしてから世界の広さを実感し、視野を広げるためにも、「日本にいるだけではダメだ」と思いました。卒業後は研究者として学校に残るという選択肢もありましたが、まずは民間で頑張ってみようと、先輩からの誘いがあったサントリーに、営業職として就職をしました。 ■教育業界に入ってわかった、教育の大切さ  サントリーの営業マンとしての日々にはなんの不満もなく、ただひたすら楽しかったです。ただ、当時交際をしていた都築学園グループの次女との結婚が転機となり、あらためて教育研究の道に進むことになりました。その後、いろいろな大学を見てきて、私は2つのことに気づきました。1つ目は教育こそが人材養成の土台で、インフラの基本になっているということです。2つ目は現在、日本に約780もの大学があり(2020年4月現在)、専門性や地域連携など色々な特徴があるということ。日本では、偏差値で学校が評価されることが多いのですが、世界的に見るときわめて稀なケースといえます。世界には、研究活動、産学連携、国際性など、さまざまな評価指標があり、将来を見据えると、他の国々のように、日本の学校も、独自性や特徴を出さないといけないと強く感じました。 ■地域の周辺人口と大学の存続率は大きく関連している  日本薬科大学は、医療人養成だけでなく、社会貢献活動をとても大切にしています。代表例は、研究で力を入れている「漢方」を活用した地域連携です。埼玉県秩父地域で自生する薬用植物「キハダ」の例を紹介します。キハダは古くから生薬として使われていましたが、地元では有効に活用されていませんでした。私たちは、キハダに含まれる苦味成分を活用した「キハダサイダー」を地元の方々と共同開発しました。地元の人が気づかないようなものが、実は、地域に大きく貢献できることもあるのです。では、なぜこのような活動を展開しているのか。それは、地域と大学の存続は強く相関しているからです。国の統計によると、周辺人口が12万5千人を切ってしまった大学は、存在確率が50%を切ってしまうというデータがあります。つまり、地域の活性化と学校運営は、実は切っても切り離せないのです。 地域を元気にするためには、もともとその地にあり、地元に根ざしたものを見直すことが大切だと思っています。その他にも、有名ラーメン店「麺屋武蔵」(矢都木二郎社長がキャンパスのある伊奈町出身)とコラボして、薬膳ラーメンを商品化しています。花粉症対策、熱中症対策など、たくさんのラーメンを作りました。最近では、免疫力を高めるとされる食材を使ったラーメンを作り、コロナウイルスの軽症患者を受け入れているアパホテルに届けに行きました。もちろん全部、薬学の知見を活かした食材を厳選して作っていますよ! ■世界最高の「学び直し」を作る!  地球環境を守るための脱炭素社会の実現に向けた取り組みにより、今から約10年後の2030年には、ガソリン車がなくなる時代が到来するといわれています。つまり、市中からガソリンスタンドを見かけなくなる可能性があるということです。このように、今当たり前に存在するものでも、10年後にはなくなっているものがある。それと同じようなことが、教育業界にも起こりえるかもしれない。そこで、私は教育界の近未来を深く考えるようになりました。 そのなかで、教育機関にとって避けて通れない課題は「人口減少」です。私が18歳の頃は、同級生が約205万人いたのですが、2020年の出生者数(速報値)は87万人、コロナウイルス感染拡大の影響を受けて、結婚や出産を控える動きがあったことから、2021年は80万人を切るのではないかといわれています。つまり、この子たちが大学生になる2040年頃は、大学に入学する生徒数が、圧倒的に少なくなるということです。 そこで、まず私が目を付けたのが社会人の学び直しでした。現状、日本の25歳以上の入学者割合はOECD諸国の中では下から数えた方が早いのです。海外では、社会人の学び直しが広く行われており、スキルアップのために、一人が何度も大学に行くことが一般的です。一方、日本の割合がこれほど低い理由の一つとして、海外と比較して、企業の研修制度が充実していることが挙げられます。この仕組み自体は決して悪いことだとは思いません。そのため、大学が社会人対象のプログラムを提供しても、一部のビジネススクールを除いて、なかなか日本では根付きません。そこで、私が考えたのは、30代から40代、特に女性の関心が高い「健康と美容」をテーマに、世界中の有名講師を呼んで、オンラインで交流できる世界最高のプログラムを作るというものです。「漢方アロマコース」(文部科学大臣認定)というコースで、コロナ禍以降、海外への渡航が難しくなっていますが、このプログラムはオンラインで行われるので、パスポートやビザなしで国境を越えた交流が実現できるのが魅力のひとつです。 もうひとつが、留学生をターゲットにした取り組みです。日本では、修士・博士課程に進学すると、かえって進路や就職先が狭くなる傾向がありますが、多くの国では、最終学歴が上がるほど、生涯給与が上がるため、学ぶモチベーションも向上しているのです。そんな学生たちをターゲットにして、海外の留学生たちが、日本の文化や医療を学んだり、日本薬科大学で学位を取得するプログラムを考えています。 2020年にオンラインで海外交流プログラムを試行的に開講したところ、約1500人から参加申し込みが来ました。ゆくゆくは有料化して仕組み化できたら、日本の在校生よりも参加者が多くなる可能性もあります。 ■重要なのは、母校を利用し「いろんな人の経験を聞く」ということ  日本薬科大学以外にも、「いろんなことに挑戦しよう」と考えている教育機関は国内外を問わずたくさんあります。しかし、教育に関する情報はあふれすぎていて、学生の皆さんが必要な情報を捉えきれていないように思います。そこで、おすすめしたいのは、まずは視野を広げるという意味で、いろんな人の経験をリアルに聞くということです。それは身近な先輩の話でも誰でもいい。そして、聞いた経験を、今度は自分の血や肉として取り入れてほしいのです。まずは自分と向き合い、自分の中から「これをやりたい」と湧き出てくるものを感じたら、その気持ちを忘れず、一生涯持ち続けてほしいと思います。 卒業生は学校にとって大切な財産ですし、卒業生にとっても同じです。いずれは、母校に戻って、自分のやりたいことを実現するための助けを借りてもいい。むしろ、「母校を利用してやるぞ」という気持ちを持ってもいいのではないでしょうか。学びは一生!卒業したら終わりではなく、ずっと付き合っていける関係なのだと思ってもらえればと思います。 学生新聞WEB2021年2月12日取材 文教大学2年 早乙女太一

伊東美優

衆議院議員 小渕優子

幼い頃から尊敬する父の背中を見て、自身も政治の世界へ。 ■プロフィール 1973年生まれ。成城大学経済学部卒業。早稲田大学大学院公共経営研究科修了。株式会社東京放送(TBS)勤務、衆議院議員秘書を経て、父・小渕恵三総理の急逝に伴い2000年、26歳で衆議院議員総選挙に群馬5区から初出馬し当選。以後連続7期当選。2008年、少子化担当大臣として初入閣。これまでに自民党幹事長代理、経済産業大臣などを歴任。現在、党沖縄振興調査会長。 「政治家になることは全く考えていなかった。」そう明るく語った小渕優子氏。実は、小渕氏が議員となるまでには人生最大の選択と、意外な道のりがあった。では一体、どのようにして今日に至るのか。子育てをしながら議員としても活躍し続ける小渕氏に、政治家になるまでの経緯や今後の展望について、詳しく伺った。 大学は体育会での活動が中心の学生生活でした。高校からゴルフ部に所属し、大学時代もゴルフ漬けの日々を送っていました。実は私は、幼い頃から運動がかなり苦手で。そこで、ゴルフはチームプレーではなく他人に迷惑がかからないスポーツなので、私でもできるだろうと思い始めました。結果的にゴルフをやって良かったことは、一つ目は、他の大学との交流が増えたことです。二つ目は、副将をしていたこともあり、多くの部員をまとめ、チームをマネジメントするという経験ができたことですが、この際に組織を動かす大変さを実感しました。大学卒業後はTBSに入社しました。メディア業界を選んだ理由は、スポーツを通じて人間模様や役に立つ情報を発信したいと思っていたことに加えて、第4の権力と呼ばれるマスメディアの世界に興味があったからです。私の父は元首相なのですが、その当時、メディアを見ると、政治家はいつも叩かれていました。私は、父と生活する中で、父がとても熱心に地域や国のことを考え、休みもなく働いている姿をそばで見て知っていました。だからこそ、一度テレビ業界に飛び込んでメディア側から父を見てみたいという気持ちがあったのだと思います。 ■最初は「議員にはならない」と考えていた T B Sで働いていた当時、自民党総裁選があり父も出馬していましたが、候補者の中で一番人気がない状況でした。 そんな父のことをただ、放っておくことができなくて「父を支えたい」という気持ちが強くなり、3年でT B Sを退社して、父の秘書という形で事務所に入りました。秘書として働いて1年が経過した頃に、2000年の夏に開催予定だった沖縄サミットに向けて、イギリスへ行って勉強をする決心をします。しかしイギリスにいる間に、父が倒れたとの連絡があって…。すぐに帰国して、いざ空港に着いた時に日本の新聞を見てみると、父は昏睡状態と書いてあったのです。涙を流しながら続きを読むと、「後継は優子氏」とも書いてありました。確かに、地元で行われた群馬の行事には父ではなく私が代わりに出席していたため、地元の人からそういう声があがっても無理はなかったのです。私はすごく悩みました。政治家の家に生まれ、父の仕事をずっと見てきたことで、議員の大変さや責任の重さはよく知っていました。だからこそ、議員への道は全く考えていませんでしたし、世襲議員は他の人の機会を奪ってしまうために良くないとも思っていました。そして政治家になることは、大きな責任を伴うものですから正直言って怖いし、もっと楽な道もあるかもしれないと思いました。けれども、ここで政治家になることを選ばない選択をすることは、逃げてしまう事だと思ったのです。たくさん考えた末に、この人生最大の選択に終止符を打ち「継ぐ」決断をしました。そうして、父と同じく、私は26歳で国会議員となったのです。 ■将来を考え、中長期的な課題解決を いま、日本が抱える最重要課題の一つは、少子化問題だと考えています。私は議員になって8年目に、少子化対策担当大臣になりました。当時は、少子化は女性と子供の問題という風潮があり、少子化対策に対する予算がありませんでした。また、当時はまだ、働く女性に対して、子供がかわいそうでしょ、という雰囲気がありました。ですから、「安心こども基金」という制度をつくり、約1000億円の予算をつけて、子どもを安心して育てることができる体制整備を始めました。この時が、少子化問題に予算をつけた初めての時だと思います。あれから10年以上経ちますが、まだまだ課題はあるものの、女性の働く環境や育児の問題などは少しずつ良くなってきていると感じています。それ以外にも、若くして議員になり長く在職させていただいている環境にあるので、中長期的な課題にも取り組んでいきたいです。例えば、財政政策がその一つです。日本は借金が多いと言われますが、国が借金を持つことが一概に悪いのではなく、借金をコントロールして返していくことが必要なのだと考えます。この借金問題を含め、次世代にツケが回らないようにしていかなければなりません。それから、エネルギー政策も重要課題の一つです。日本は資源が少ないというのは自明のことですが、資源は少ないけれども技術の誇れる国だということは間違いありませんし、グリーン化に向けて世界でリーダーシップが取れる国だと思います。日本が将来的に海外からの供給に頼らずにエネルギーを確保できるように、長い目で課題解決に取り組んでいきたいです。 ■国民にもっと政治に触れる機会を 昨今、一般の皆さんの現状と政治が行っていることが、乖離している気がします。確かにマスメディアを通じてニュースを聞くと、例えば消費税が上がるなど、政策に対し「嫌だな」と思うことがあるかと思います。ただ、未来そして将来世代のことを考えると、今やらなくてはいけないこと、というのはたくさんあるのです。特に財政やエネルギー、人口問題というのは中長期的な問題で、国民の理解が必要不可欠な分野です。今後はその乖離を縮めていくためにも、まずは国民に納得してもらえるような説明を政治家がしていかなければなりません。加えて、もっと国民が議論することができる場や、選択できる機会を増やすことで、国民と政治が互いに寄り添える関係にしていきたいです。 ■大学生へのメッセージ コロナ禍において日々の行動が制限される状況にはありますが、学生という今だからこそ持てる自由な環境の中で、いろいろな場所へ行ったり、いろいろな人に会ったり、とにかく沢山の経験をして欲しいと思います。勉強に限らず、喜びや悲しみなど、心が震える機会を増やしてください。その経験は蓄積され、将来何か大きな選択を迫られた時や、高い壁にぶち当たった時、必ずその解決に役に立ちます。そして、自分の将来を作るのは、紛れもなく自分自身ですから、その結果幸せな人生を送るのも自分次第なのです。ですから、私は何事も前向きに考えることはとても大事だと思います。できるだけ、自分の心をおだやかに、Happyに!それが皆さんの明日に繋がります。 学生新聞WEB2021年2月18日取材 慶應義塾大学 1年 伊東美優

伊佐茜音

株式会社クリーマ 代表取締役社長/クリエイティブディレクター 丸林 耕太郎

世の中の最大多数の人を幸せに!熱い思いが生み出す事業の形 ■プロフィール 1979年・横浜生まれ。慶應義塾大学卒業後、セプテーニホールディングスを経て2009年に現在の株式会社クリーマを創業。日本及びアジア最大のハンドメイドマーケットプレイス「Creema」、クリエイターの祭典「ハンドメイドインジャパンフェス」を運営。「愛ある事業で、人を、世の中を、元気にすること」を目指す。趣味はDJとプロレス鑑賞。 日本最大級のハンドメイドマーケットプレイスCreema(クリーマ)。創業者の丸林社長は「本当にいいものが埋もれてしまうことのない、フェアで新しい巨大経済圏を確立したい」と語る。その背景には自身がミュージシャンとして活動する中で感じていた社会への疑問や、クリエイターに対する熱い思いがあった。 子供の頃からずっと、「たくさんの人をハッピーにできる仕事ってなんだろう」と考えていました。最初はスポーツでテニスを。15歳頃からは音楽活動をスタートし、大学生のときにはプロとしてDJや音楽制作などに取り組んでいました。そんな頃に転機が訪れ、経営者を目指すことになります。大学生は「未来に投資をする期間」だと考えていて、10年、20年後の自分をつくる為に、今何ができるかを意識して行動していましたね。 ■プロのミュージシャンとしての葛藤 中学生くらいの頃から「世の中の最大多数の人をハッピーにできる仕事がしたい」という思いがありました。音楽の世界に入ったのは、音楽が大好きで、そこからたくさんの元気をもらっていたことに加えて、市場規模の大きい業界で活躍すれば多くの人にポジティブな影響を与えられると思ったからです。学生時代のうちから結果を出そうと活動して、ありがたいことに仕事もたくさんいただいていたのですが、その一方で「やりたいこと」と「やらなければならないこと」のギャップに悩まされるようになりました。そんな時、主催したイベントでスポンサーをしてくださっていた著名経営者の方と出会い、「世の中の最大多数の人をハッピーにする手段として、音楽で勝負したい」という思いを語ると、「それなら君は経営者か政治家に向いているよ」と言われたんです。その時は真意が聞けず、「なぜそう言ってくれたんだろう」と1か月ほど考えた結果、一人の音楽プレイヤーとして活動するよりも、経営者になって色々な事業を立ち上げていくことができれば、圧倒的に多くの人をハッピーにできる可能性があるという結論に至りました。それを機に今まで抱えていた音楽の仕事を全て終わらせて、経営者としてのプランを立て始めました。 ■実力をつける為、一番苦手意識のある会社に入社 まずは会社での実務経験が必要だと思い、就職活動を始めました。面接では「経営者になるので3年で辞めます」と断言して、大手企業を含む十数社から内定をいただきました。最終的に就職したのはその中でも当時は小さかったインターネット広告代理店です。テレアポで徹底的に営業する、社員100人ほどのベンチャー企業で、個人的には一番苦手意識のあった会社でした。なぜそこを選んだかと言うと“強くなること”が必要だと考えていたからです。音楽活動で培ったクリエイティビティや企画力には確固たる自信がありましたが、競争の激しいビジネス業界で勝ち抜いてく力が自分には明らかに欠如していると感じていました。そのために何が必要なのか考え、「苦手なことで結果を出すこと」という結論に至りました。 ■才能が埋もれないフラットな場所を どんな新規事業を立ち上げるか考えた時に、50個ほどあったアイディアの一つが今のCreemaでした。音楽をやっていた時代、才能があっても評価されず諦めていく人たちを見て、能力が数値化されない曖昧な世界をどうにか改善できないかと考えていました。クリエイター達が誰かに気を使って好かれようと努力しなくても、自分たちの作品を世に出して、世界の誰かが評価してくれるような場所が作れないかと思ったのです。そんな中、C to Cという仕組みを思いつき、Creemaを創設するに至ります。 ■想いや信念を曲げない 創業当時はブランド信仰が今よりも強く、クリエイター作品を買うというのはかなりニッチな概念だったので、2,3年はサービスが伸びないまま苦戦していました。競合企業が30社以上も参入してきて、正直もう無理かもしれない思ったことは何度もありましたが、諦めずに続けていたら3年目の終わり頃から成長が始まり、「誰より深く考え、誰より徹底的に実行する」ことを続けていたら、6〜7年くらいで他社に大きな差をつけており、巨大企業を始めとするほぼ全ての企業が撤退していました。広告をたくさん打ったりプロモーションに力を入れたりすることに依存せず、とにかくいいサービスを作ることに注力し続けたことが功を奏したのではないかと思います。当時も今も変わらず“クリエイターファースト”という信念を大切にしながら、才能あるクリエイターが正当に評価されるサービスを目指しています。 ■クリエイターの夢を応援 今後は“クリーマ経済圏”を拡大していくと共に、売り買い以外のことでもクリエイターの力になれるサービスを展開していきたいです。自分の作品で食べていくことだけでなく、例えば「海外で個展を開きたい」だったり、「移住してアトリエ作りたい」といった、クリエイターの夢や想いは多岐にわたります。そういった課題や願いに応えていくことで総合的にクリエイター活動をサポートしていきたいですね。 ■どんな人と働きたい? 「どんな友達が好きか」とあまり変わらないと思います。価値観が合わず、必要最低限の会話しかしない関係だと、創造性やイノベーションは起きなくなってしまうので。能力やスキルも大切ですが、「人として好きだな」と思う人と一緒に働きたいですね。フィーリングな部分もありますが、具体的には「根が純粋で、誠実で、一生懸命に生きている人」です。あとは、「やると決めたら、最後までやりきる」習慣や覚悟がある人かな。 ■大学生へのメッセージ 大学生として就職活動する期間は、自分の将来設計を考える最大のチャンスだと思って取り組んで欲しいです。その中で親や世間の声に耳を傾けることも大切ですが、自分はどうなりたいのかというビジョンを持ち、そうなるには何をすべきか逆算して考えることが重要です。就職活動は他人と比較しやすく大変な時期だと思いますが、自分の人生をどうしていきたいかを突き詰める良い期間なので、ぜひ頑張ってほしいですね。 学生新聞WEB2021年2月15日取材 東洋大学 2年  伊佐茜音

神田理苑

株式会社タスキ 代表取締役社長 村田浩司

不器用でいい 自分の強みを太い幹に突き進む ■プロフィール 1967年09月生まれ。1991年 明和地所に新卒入社。2002年に新日本建物に入社し、主に不動産開発事業に従事。2016年に社内ベンチャーとして立ち上がった株式会社TNエステート(現社名 株式会社タスキ)に参画。2017年に新日本建物から独立した後、2018年に株式会社タスキの代表取締役社長に就任(現任)2020年10月東証マザーズ市場に株式公開を果たす。 不動産業界にデジタル化の風を吹かせ、多くの人々にとって身近で開かれた業界にしたいと独自の手法で成長を続ける株式会社タスキ。知識や経験の枝葉はないが不動産開発のプロフェッショナルを続けてきたという自分の強みを太い幹にここまで成長することができたという村田社長に仕事の魅力と今後の展望を伺った。 大学時代は勉強があまり好きではなく、なるべくやらなくていい方法を考えていました。オートバイが大好きだったことがきっかけでガソリンスタンドでのアルバイトを始め、大学時代の4年間、働いていました。大学1年生のときに「危険物取扱者乙4種」という資格の受験をアルバイト先の店長に勧められ無事に合格したのですが、資格を取得したことで当時700円だった時給が1100円まで上がったんです。その時、資格の持つ力の凄さを実感しました。自分が何者かを証明することができて、同じ仕事に同じ時間をかけたときの価値までも変えられることに衝撃を受けたことを鮮明に覚えています。その後就活の時期を迎え、アルバイトの経験を踏まえて何かしらの資格を取りたいと思ったときがちょうど「宅地建物取引士」の受験ブームと重なりました。大学4年生でその資格試験に合格し、他に高い志があるわけではなかった私はせっかく持っているこの資格を活かそうと思い、不動産業界への就職を決め、1991年4月に明和地所に入社しました。 ■資格のおかげで得た特別な経験 当時の新入社員は約100人いましたが、宅地建物取引士の資格を持っている同期社員は珍しく、皆のように顧客の新規開拓や飛び込み営業など地道な作業を積み重ねるのではなく、初めから「契約の場」に同席していました。新人で地方の契約や、深夜帯に行われる契約など都合よく使われることも少なくありませんでしたが何より、お客様に直接関わる仕事を早い段階からできたことがとてもいい経験になりました。「不動産は一生に一度、人生最大の買い物」と言われますが、その貴重な場面に若いときからたくさん立ち会ってきたのは良い経験でしたし、今日まで一つの業界でコツコツ続けて来られた原点でもあります。 ■これだけは負けないというものを自分の幹に その後2002年に新日本建物に転職し、社内ベンチャーとして始まったのが株式会社タスキであり、2018年8月に代表取締役社長に就任しました。注力している事業は、「コンパクトで無駄はないが充実している商品をニッチなゾーンに供給するTASUKI IoTレジデンス」「クラウドファンディングを通して多くの人々にとって不動産業界の間口を拡大するTASUKI FUNDS」「建築プランと事業収支の作成を自動化させその先に不動産業界の完全デジタル化を目指すTASUKI TECH」の3点です。1つ目では、東京都内で駅近5分以内の小規模に特化したしており、スマートハウスを標準装備したIoTレジデンスの供給をしています。機能性を十分に備えつつも家賃は周辺相場と同等に抑え、新しいやり方で大手企業が投資効率の悪さを理由に供給を断念したニッチなゾーンを攻略することができました。2つ目では、不動産投資を一口10万円に小口化と電子化したクラウドファンディングです。第1号案件を「認可保育園」という高い社会性を持ち合わせる施設にすることで、今までこの業界に関心を持っていなかった新たな顧客ニーズも取り込むことができました。この反響は想定外に大きく、クラウドファウンディングの受付開始からたったの3分で目標額に到達し、注目が集まりました。こういった少額投資から始まる不動産との関わり方も、将来的にはIoTレジデンスの購入に繋がることを期待しています。そして3つ目では、長年不動産業界に染み付いた「アナログな面」を改善したいという思いから始まった取り組みです。これは、実際に現場に足を運ばなくても建設計画地をマップ上で選択することで、蓄積された膨大なビッグデータをもとに適切な建築プランの提案ができるテクノロジーです。私たちはこれを全国にある少人数規模の不動産事業者に向けて販売供給をしたいと考えています。全国には不動産業を主軸とする会社は約35万社ありますが、その約90%は従業員数4名以下の少数で経営しているのが現状です。少人数経営に伴う作業効率の格差をカバーして、不動産業界全体が発展していくことを願っています。何かアクションを起こす時に今も昔も大事にしているのは、「自分は不動産開発のプロフェッショナルだ」という一つの強みを幹にして取り組む姿勢です。経営や経理を学んだことのない私が社長に就任してからこの2年、チャンスや決断の場面を乗り越えてこられたのは、今までの経験から作られた自分の幹を信じて向き合ってきたからでした。不器用でもいいから自分が続けてきたことに誇りと自信を持って日々の業務に取り組んでいます。 ■目指すはオープンかつクリアな業界 このように様々な事業を展開し成長を試みていますが、私が目指すことは不動産業界全体を開かれた空間にし、仕組みを透明化することです。この業界は、規模が大きいことや専門的知識が必要であることを理由にまだまだ閉鎖的な業界です。テクノロジーを用いてそれらの問題を解決していくことで、一生に一度の買い物で悩むお客様の背中を押せたり、より多くの方々に不動産を身近に感じてもらうことができると信じています。 ■大学生へのメッセージ 「何でもできる、より、なにか1つはできる」のほうが強いと伝えたいです。そのできる1つをとことん極めて、自分の幹を形成してみてください。幹は、専門性を示すことや周囲に自分の存在をアピールすることにも役立ちます。「ピンチはチャンス」です。その最強の武器を手に、果敢に挑戦していってください。 学生新聞WEB 2021年2月10日取材 日本女子大学 2年 神田理苑

政治家

衆議院議員 菊田真紀子

誰一人置き去りにしない社会へ ■プロフィール 1969年生まれ、新潟県立加茂高校卒業、中国黒竜江大学留学。1995年加茂市議会議員に全国最年少(25歳)で初当選、2003年新潟4区から衆院選初当選し、以来6期連続当選、外務大臣政務官、衆議院沖縄及び北方問題特別委員会委員長などを歴任。現在、衆議院文部科学委員会理事、立憲民主党筆頭幹事長代理。好きな食べ物は、カレーライス、麻婆豆腐(激辛)。 政治家になるつもりはなかった一人の女性が政治家の道へ進むことになった。その原点は何だったのか、また原動力はどこからきたのか。政治家として一人でも多くの人を救うために行ってきた活動と、今後の展望について伺った。 ■価値観を大きく広げた中国への留学 私は高校卒業後、中国語を勉強するために中国黒龍大学で二年間の留学生活を送りました。私にとって、この頃の中国という国は近いけれど遠い存在で、大国なのに発展していない謎めいた国でした。この様な興味が、私を中国へ留学させるきっかけとなりました。当時の中国は今と違って、貧しく、発展していませんでした。そのため留学中の生活は苦しく、生きていくのが大変でした。さらに、中国と日本の国家間の交流も少なく、日本からの留学生は10人程しかいない状況でした。最初は中国人と日本人のパーソナリティの違いにとても戸惑いました。人と人との距離感の違いや、コミュニケーションの取り方の違いなどから最初は好きにはなれないと感じていました。しかし、時の経過とともに考え方が異なる人たちとの付き合い方や、お互いの違いを受け入れていく姿勢を学んでいきました。この経験から私はいろいろな価値観に気づきました。そして日本に帰国してみると、改めて日本は恵まれている国だと実感しました。毎日報道番組ではコメンテーターが様々な発言をしていますが、これは表現の自由や報道の自由があるからこそできていることです。当時の中国では、このようなことは全くできませんでした。日本にいては気づけなかった良さを、中国に行ったことで発見することができました。 ■政治に全く興味がなかった私が政治家の道へ 留学から帰国後、私は中国語講座の開設や外国人支援のボランティアを行っていました。当時の地方は、排他的で外国人慣れもしていませんでした。国際結婚や働きに来る外国人の方々を支援していく活動を行っていく中で、行政の対応があまりにも遅く、オープンではないことに気づきました。これは実際に自分が行政の立場に立って変えていく必要があると感じました。そして周りの協力もあり、25歳で市議会議員の道に進みました。当時は女性が1人しかいなかったため、話題になりました。トップ当選で市議会議員になりましたが、今まで感じたことがなかった女性差別を政治の世界に入って目の当たりにしました。女性差別によるいじめもあった環境の中で市議会議員を5年間勤め、国政に挑戦しました。国政選挙で当選後、先輩に「1期生の仕事は2期生になることだ」と言われました。衆議院の場合はいつ選挙があるかわかりません。1期生、2期生の時は次の選挙で勝つために、政策を語るよりも時間があれば地元に帰り、選挙活動を行っていました。 ■実体験こそが一人でも多くの人を救う術に その後、経験を積み当選回数を重ねて、様々な政策や仕事に関わるようになりました。民主党政権時代では外務政務官を務めました。アフリカやパプアニューギニア、ミクロネシアなどの国々に日本政府の代表として行き、いろいろな外交交渉を行いました。その当時も、女性政務官ということで職務にあたり多く心配されました。しかし、女性だからと言われることがとても悔しかったため、率先して職務にあたりました。渡航してみると、現地の方々は日本から若い女性政務官が来たことを歓迎してくださって、友好的に話すことができました。また、当時から軍事政権が続いているミャンマーに行き、アウンサンスーチーさんともお会いしました。そして日本政府の意思を伝えました。これらの仕事は私にとって良い経験となり、やりがいのあるものだったと感じています。他にも、本当に困っている人々の現実に目を向けて、法律をより良いものに変えていくことで役に立つことができると喜びを感じます。実際に、災害にあった場合の支援が既存の法律では対応できない事例が多くあることを知り、被災者生活再建支援法を議員立法で改正させることも行ないました。また現在は、コロナ禍での在日外国人労働者の支援が足りていません。この様な問題において、かつて外国人支援ボランティアの経験がある私は、国会において説得力のある発言がしやすいのです。多くの経験が政治家としての幅を広げ、今に活きていると感じています。 ■女性がより政治の世界に飛び込めるような社会実現に向けて 今後は“普通の人々がいろいろな問題意識をもって、政治の世界に入りやすい時代“を目指し、多様性のある政治にしたいと考えています。現在の衆議院議員の女性の割合は1割です。この数字は、戦後の女性が参政権を獲得した時代から、ほとんど変わっていないのです。女性の議席は圧倒的に少なく、増えていきません。女性の議員が増えにくい原因は、選挙活動が体力勝負なところがあることや、資金的な面、家族の了解が得にくいことなどが挙げられます。私は自然に増えるのを待っているのではなく、入り口を作ることがとても必要だと考えます。政治活動のバックアップを行うことや、3,4割を女性の議員にすることなどを法律化していかない限り、この現状は変わらないと考えています。 ■大学生に向けてメッセージをお願いします 大学生は、興味の持った問題に対して学び、考え続けることをしてほしいです。更には、それを発信できると政治の入り口になるのではないかと思います。たとえ失敗したとしても、その経験から得られたものを糧に、立ち上がっていってほしいですね。私の経験上、楽をして身についたことはあまりなく、葛藤の中でやり遂げたことが何年経っても忘れずに身についています。今苦しくてやめたいと思っていることでも、あと少し頑張って継続することで必ず自分の財産になると思います。 学生新聞WEB2021年2月18日取材 文教大学 2年 坂本鈴佳

経営者

アララ株式会社 代表取締役社長 岩井 陽介

時代の先を読み、新しいコンテンツを作り続ける! ■プロフィール 1998年に株式会社サイバードを創業し、専務取締役に就任。モバイルコンテンツのサービス企画全般、モバイルコマース事業、海外事業に携わる。2000年に上場。その後、海外で普及していたギフトカードに着目し、2006年に株式会社レピカ(現アララ株式会社)を設立、代表取締役社長に就任。キャッシュレスサービス事業、メッセージングサービス事業を中心としたSaaS型B2B2Cビジネスを展開。昨年11月に東証マザーズに上場。 小さい頃から社長になりたいと思っていたという岩井社長。学生時代から積極的に社会と関わることでビジネスセンスを磨き、常に時代の最先端を意識して行動してきたという。その経歴をたどると、困難な状況にもフレキシブルに対応し、新しいサービスを生み出し続ける貪欲な姿勢があった。 商売人が多い大阪で生まれ育ち、幼いころから成功者の伝記を読むことが好きで、将来は漠然と社長になりたいと思っていました。父親に連れられ食事に行くたびに、この店の売上はいくらだ、と質問されるので、お店に入ると売上を計算する変なクセが今でも変わりません。(笑) ■アクティブに行動していた学生時代 大学では入学してすぐ、イベントサークルに入って1年生の頃からパーティー券を売ったり、自分でイベントを主催したりしていました。当時は大学生をターゲットにしたマーケティングがブームで、友人達と学生企業を始め、リサーチやフリーペーパーの発行、人材派遣等様々な事業をしていました。バブル真っ盛りの時代で、稼いだお金も毎晩遊びに行ってすぐになくなってしまいましたが(笑)。4年生になって就職をするか、このまま事業を続けるか悩みましたが、当時は超売り手市場で周りも楽しそうに就活をしていたので、私も就職の道を選びました。社員の平均年齢が25才以下で、若手が活躍している環境に惹かれ、当時のリクルートコスモスに入社しました。広報室に配属されたのですが、ちょうどリクルート事件の真っ最中だったので、事件のことで毎日電話がかかってきて大変でしたね。 ■時代の先を読み行動し続ける バブル崩壊後リクルートコスモスの不良物件と共に当時のリクルートビルマネジメントに転籍になり、その後先輩に誘われて、大阪のマーケティング会社に移りました。ちょうどその頃インターネットが出始めて、もともとパソコン通信に興味があったこともあり、何かインターネットに関連する事業がやりたいと思い始めました。電子専門学校に通う友人から情報収集をしたり、学生時代に一緒に事業をやっていた友人とインターネットの勉強会をしたりして、そのまま28才の時にパラダイスウェブという会社を立ち上げました。そこでは、“Hello”という自分のマイページを作ることができるサイトを運営していたのですが、会員が5000人を超えてきたくらいからサーバーが動かなくなってしまい、泣く泣く閉鎖することになりました。 そんな中、世間では携帯電話を持ち始める人が増え、ケータイでもそのうちインターネットができるようになるのではないかと考え、ケータイ向けサービスの企画を始めました。NTTドコモがiモードを始めるという情報を聞きつけたので、iモード向けのサービスを始めようと、1998年にパラダイスウェブを母体にサイバードという会社を作りました。日本で一番最初の携帯コンテンツプロバイダーというポジションでスタートしましたね。 ■臨機応変に新しいサービスを生み出し続ける もともと“Hello”を運営していたこともあり、コミュニケーション系のサービスをもう一度やりたいという思いから、iモードでそれを再現するコンテンツ開発も開始しました。 しかし、NTTの出していたサービスで事件が起きた関係で、そのコンテンツは開発途中で打ち切りになってしまいました。それでも諦めず、今度はPHS版に切り替えてリリースし、ヒット。iモードではサーファー向けの波情報から始まり、着メロ、ゲーム、占いなど、次々にサービスを開発し、2000年の12月に当時最短で上場を果たしました。 その後も、モバイルコマースやメディア連携といったいろいろな事業を立ち上げ、最終的に海外事業にも着手しました。その時、当時日本ではほとんど普及していなかったギフトカードという存在をアメリカで知り、大きな可能性を感じたのがきっかけで、2006年にレピカを立ち上げ、電子マネー事業を始めました。さらにメッセージングサービスやデータセキュリティサービスといった新しい事業をスタートさせ、2010年にはスマホの普及に合わせ、スマホのARアプリを展開する子会社アララを設立しました。2016年にレピカと合併して、現在はアララという社名で全てのサービスを集約して運営しています。 ■2度目の上場 時代の流れの中でキャッシュレスの需要が高まり、アララのキャッシュレスサービスも大きく利用者を増やし、創業14年目の2020年にアララは東証マザーズに上場しました。サイバードが上場してから20年目、2度目の上場は本当に時間がかかり、大変でした(笑)。 ■アララの強みは製品開発力 「アイディアとテクノロジーで革新的なサービスを提供し、便利で楽しい、みんながハッピーになる社会を創る」という企業理念を掲げ、新しい技術を積極的に取り入れた製品開発に力を入れています。IT自体どんどん進化していくので、開発をやめたらその製品は終わったも同然だと考えています。とにかく技術の進化に対して貪欲にキャッチアップしていくことを大切にしていますね。 ■どんな人と働きたいか 創業以来ずっと同じ企業理念でやっているので、それに共感してもらえる人にと働きたいです。あとは、自分の頭で考えて行動できる人です。ぼんやりしていたり、人から言われて動いたりするのではなく、「もっとこうしたらよくなるんじゃないか」と、いろいろなことに疑問を感じ、それを実行に移せる人がいいですね。 ■今後の展望 ここ最近はキャッシュレスサービス事業がものすごい勢いで伸びているので、そこをもっと強化していきたいですね。「キャッシュレスのその先へ」というビジョンを掲げて、今後現金を使うことが無くなっていく社会を想像しながら動いています。誰でも使えて、安全安心で、一番身近なキャッシュレスサービスを実現していきたいと思っています。 ■message 自分で考えたことを実際に行動に移すということをやり続けてほしいですね。思いついたらすぐ行動。やりたいと思ったときにすぐ動かないと、やりたい気持ちが薄れて、何をしたかったのかわからなくなるので。あとはいろんな刺激を受けるということですね。情報がないと行動に移せないので、アンテナを張り巡らせて、情報をキャッチアップすることも大切にしてほしいです。 学生新聞WEB2021年1月28日取材 国際基督教大学 4年 鈴木菜桜

伊佐茜音

社会民主党副党首 参議院議員 福島みずほ

全ての人の尊厳が守られる差別のない世の中を目指して ■プロフィール 1955年宮崎県延岡市生まれ、東京大学法学部卒業、弁護士。1998年参議院議員初当選。2009年連立政権の際に男女共同参画・少子化・消費者担当大臣。現在、社民党党首。主な活動分野は、非正規雇用者の待遇改善問題、夫婦別姓選択制や女性差別撤廃の実現、脱原発運動・グリーンリカバリーの促進、被拘禁者・外国人・難民の人権擁護、動物愛護法改正などに取組み中。現在、参議院議員4期目 学生時代からなくならない差別問題に目を向け、市民運動にも積極的に参加してきた福島みずほ氏。男女平等、障害者差別、労働災害。未ださまざまな課題が残る日本で、全ての人がありのままに生きられる社会の実現を目指す。弁護士を経て議員となり、大臣としても尽力してきたその原動力とは。 家と学校の行き来だけで、ものを知らなかった学生時代。大学では社会勉強をしたいと思い、「現実の中で社会を考えよう。」というフレーズのある裁判問題研究会に所属しました。1年生では職業病や労働災害に関して、2年生では住民運動などをリサーチしていましたね。当時、横浜市で貨物列車が住宅地を通ることに反対した住民運動を実際に目の当たりにし、裁判傍聴にも行きました。3年生になると街づくりや、法学部と関わりのある日照権の裁判に関して、五十嵐敬喜さんに講演をしていただきました。そうして色々な人と出会い、色々な想いを知って、さまざまな発見があり、それら全てが今の日々にも通じていると感じています。皆さんも、先生の何気ないひとことが妙に印象に残り、反芻していることがあるかもれませんね。それらを通して、私は裁判問題研究会に所属して良かったと思っていますが、他の社会問題に関するサークルとの交流にも楽しさを感じていました。 ■「国会で一緒に頑張ってほしい。」 中学生の頃、小説家かジャーナリスト、または弁護士になりたいと思っていました。同級生からの「小説家では食べていけないよ」という一言と、大学を卒業しても簡単に企業に就職できるわけではない社会の中で、父の「残念ながらこの世には差別がある。組織で働けば、今の時点では女性や外国人は差別を受けやすい。何か資格を持って一生働けるようにしたほうが良い。」という言葉を受けて、高校に入る頃には弁護士になろうと決めていましたね。そもそも弁護士になりたいと思ったのは、当時の映画館で流れていた電波ニュースから公害の裁判で活躍する弁護士を知ったことや、社会運動を行う弁護士に憧れを抱いたからです。そうして弁護士になり、これが天職だと思っていました。ただ、裁判をやっていると通達1つで法制度が変わる社会の仕組みと、声を上げれば法律も変えられるということが強く印象に残りました。そのような中で、当時社会党委員長だった土井たか子さんに「これから有事立法が五月雨式に出てくる。そんな国会で一緒に頑張ってほしい」と言われたのです。そう言われるまで、私の人生設計に議員になる考えは全くありませんでした。私の人生はどうなっていくのだろう、というどんよりとした不安を感じました。しかし、このまま弁護士として市民運動をしていて、もし憲法9条が変わってしまったら私も世の中も困る。それは避けたい。それなら議員になって憲法9条を守り、社会民主主義のもと政策を変えていこうと決意しました。 ■変わるのは私じゃない、社会のほうだ。 選択的夫婦別姓を実現したいと考え、長らく取り組んでいますが、そもそも日本はジェンダーが平等な社会とは言えません。男女平等といっても、単に女性が男性並みになるのを求めているのではなく、生きづらい、働きづらいと感じている人に寄り添う社会の仕組みができていくことを望んでいます。フィンランドのサンナ・マリン首相の「全ての子どもが自分なりたいものになれる、全ての人の尊厳が守られる社会をつくりたい」という言葉はまさにその通りですが、日本はそのような社会にありません。誰も親を選べず、誰も生まれてくる場所を選ぶことはできませんが、だからこそ政治は必要であり、全ての人の尊厳が守られる社会に変わるべきです。私自身、20歳ぐらいのときに、いわゆる”これが女の子が生きる道”というものは自分に合わないと感じていました。法学部でも、女子の割合はとても低かったです。とりわけLGBTQの方々は社会の幸せ像との違いがあり、たった一人でそれに対峙していくのはとても難しいことです。程度の差こそあれ、さまざまな人がそういったステレオタイプとのギャップに悩んでいると思います。自分のセクシュアリティを否定せず、私は私のままでありながらこの社会を変えたいと思っています。 ■大学生へメッセージ 出る杭は打たれても、出過ぎた杭は打たれない。だから短い人生で好きなことをやった方が勝ち。そんなことを思うわけですが、私が今までそうやって元気に生きていけることの1つには、母の「あなたは骨のある女だから、思う存分生きていきなさい」という支えがあると思います。母だけでなく女友達や、世間が何と言おうと支えてくれる人の存在がとても大切です。また、自分は何者でどう生きていきたいのかを考えたとき、人と違う生き方を選ぶことには勇気がいるし、怖いと感じると思います。実際に私自身、夫婦別姓であることを選び、籍を入れずに子どもを育てていくことはやはり怖かったです。しかしパートナーは「上手くいかなかったら、いつだって婚姻届を出せばいいじゃないか」と言ってくれて、私は肩の力が抜けました。そういった周りの人の支えもありますが、自分のしたいことと世間との間にギャップがあったときには、私は鏡を見つめ「世界中の人を騙せても自分を騙すことはできない」というように思いましたね。自分が正しいと思うことをやる、自分を好きでいられるような選択や生き方をしていくべきです。不安を感じるなら、実行に移せるその時まで力を蓄えていれば良いと思います。大学生の皆さんは親や先生に「こう生きなさい」と言われることがあるかもしれません。もちろん周りの意見を聞くことは大切です。しかしそれらに流されるのではなく、自分の意志で生きていく。自分の思う存分生きて欲しいですね。 学生新聞WEB2021年2月9日 取材 東洋大学 2年 伊佐茜音

芸能人

琴音 19歳の今だからこそ歌う意味がある、さだまさしさんの曲へのチャレンジ

■プロフィール 新潟県長岡市出身。2002年1月7日生まれ、現在19歳のシンガーソングライター。2019年3月6日、E.P.『明日へ』でメジャーデビュー。2021年1月13日、さだまさしさんの名曲「防人の詩」のカバーをリリース。自身3度目となる全国ツアー「3rd note TOUR 2020 -キョウソウカ-」は新型コロナウイルス感染拡大による国内の情勢を受け、現在再振替公演の日程を調整中。 「歌うことで、誰かが笑顔になってくれる、それが嬉しい」という、歌手の琴音さん。今回新たに取り組んだのは、さだまさしさんの名曲『防人の詩』のカバー。19歳だからこそできる表現、若い世代にこの歌を届ける意味…。音楽シーンを疾走する彼女の、音楽へ懸ける思いの本音を探った。 ■目があった人全員に、話しかけた 私も現役の学生です。新潟の高校を卒業して、音楽の専門学校に通っています。学校の友人はみんな「音楽業界に進みたい」という熱い思いをもっていて、向上心もあるし、モチベーションも高いです。負けていられない! って思うけど、いい意味でライバルとして刺激を受けています。専門学校のなかで、私がいちばん友だちの人数が多いかもしれません。こんな環境は生まれて初めてですね。 というのも、入学当初の私、ものすごくがんばったんです(笑)。「将来、音楽の仕事で一緒になるかもしれない!」と思って、目があった人全員に話しかける勢いで友だちになっていきました。小さいころは引っ込み思案で、友人がほとんどいなかった私が…! 今の関係が続けば、これからもずっと連絡を取り合える仲間になれるかな、って思っています。 ■『夢があるなら、口に出しなさい、そしたら叶うから』 母はクラシックピアノを経験、父は路上ミュージシャンで活動していたこともあって、音楽好きな両親のもとで育ちました。家では常に音楽が流れているので、弟は音にあわせて踊り、自分も気づいたころには自然と歌っていましたね。地元で歌の大会に出たとき、賞品で旅行券をもらえたことがあって。それで家族旅行に行けたんですけど、旅行よりも、家族が喜んでくれたことが嬉しかった。自分が歌って成し遂げたことで、誰かが笑顔になるっていいな、と。それが私の幸せなんだなと思うようになりました。 両親からは「夢があるならば、言えば叶うから口に出しなさい」とよく言われていたんですよね。だから「私、歌手になる」と周りの人に言い続けていたら、自分の気持ちもだんだんと強くなっていきました。言葉の力ってすごいですよね。 ■歌うことで、たくさんの人とつながることができる 歌を聴いてくれた小さい子が、私の似顔絵を描いて渡してくれました。じかに人の温かみに触れることがあると、歌手になってよかったなと思います。手紙でその人の状況を書いてくださることもあります。家族の雰囲気が悪くなって悩んでいる人、恋人が事故に遭って記憶をなくしてしまったという人、親戚が大きな病気になってしまった人…。そんな方々が、私の曲を聴いて心が柔らかくなったって書いてくださるんです。 先日は「ライブ会場で出会ったファン同士で結婚します!」というコメントも届きました。自分が伝えたい音楽を発信することで、誰かの人生が少しでもいい方向になっているのかなって思うと嬉しいです。ファンの方々の声は、自分自身も認めてもらっているような気持ちになります。私と、私の曲を聴いてくださった方それぞれに化学反応が起きていて、なんだか不思議な気持ちです。 ■プロの世界の厳しさに、心が折れそうになることも プロの音楽の世界に入って、厳しさやツラさも経験しましたプロジェクトが大きくなって関わる人が増えると、自分がやりたいと思ったことがそのまま出来るとは限りません。でも、自分の歌だから、きちんと思いを主張しなくちゃいけない。その思いをうまく伝えることができなくて、大好きな音楽の仕事をしているのに、もどかしい思いをすることもあります。メンタルがやられそうになることもあるんですよね…。 そんなときも、やっぱりファンの方とのつながりが励みになっています。昨今のコロナ禍では大勢の人の前で歌うことはできないけれど、だからこそ、お客さんに支えられていることを実感しています。 普段のライブでは、拍手を通して曲の区切りや一息つく時間ができ、次のパフォーマンスのきっかけにできるんです。配信ライブでは拍手が聴こえないので、「観客の方の息遣い、存在があってこそのライブなんだな」と再認識しましたね。今は配信ライブ中にチャットで盛り上げてくれたり、メッセージを届けてくれたりするので、ファンの方も試行錯誤しながら支えてくれているんだなと感じています。 ■19歳のいまだからこそ、歌う価値がある この度、さだまさしさんの名曲『防人の詩』のカバーを配信リリースさせていただきました。 歌詞の内容が哲学的で深くて難しいけれど、今のコロナ禍の状況にも通じるものがあると感じています。最近歌謡曲が流行ったりもしているので、若い人にも興味を持ってくれるチャンスではないか、19歳である自分が発信する事にも意味を感じ、カバーにチャレンジしました。さだまさしさんのオリジナル版にはかなわないかもしれない。でも、さだまさしさんのパワー・思いを、自分なりのアプローチで個性として伝えることはできるかもしれない。アレンジで和の雰囲気を出したり、ダブリングやコーラス、そして朗読を入れてみたり。若い世代の人たちにどうすれば飽きずに聴いてもらえるか、自分だからこそ伝えられることは何かを考えました。だから、ぜひ同世代の大学生のみなさんにも聴いてほしいです。 私の音楽性は、まだまだ未完成だと思っています。今回のチャレンジのように、興味がある音楽はどんどん経験していきたいです。今年は「多彩」を目標に、いろんな音楽・パフォーマンスに挑戦していきたいですし、プライベートでも、新潟から上京して感じたことや、専門学校の仲間からもたくさん吸収していきたいです。そしてその経験から、自分が伝えたい音楽とは何かを模索していきたいと思います。 ■message これからどうしようって、悩んでいる人が多いと思います。私もまだ19歳ですが、私なりに思うのは、好きなこと、興味があることを見つけることは大事だと思います。それが将来の職業につながるかどうかは別にして、好きという純粋な気持ち、湧き出てくるもの、そのエネルギーって自分自身が思うよりも強力なもの。なので、そこに突き進んでいってほしいと思います。 学生新聞WEB2021年2月3日取材  横浜市立大学 3年 小熊結菜 DIGITAL SINGLE「防人の詩」 2021年1月13日(水)リリース「防人の詩」ストリーミングサービスおよびiTunes Store、レコチョク、moraなど主要ダウンロードサービスにて配信中!https://jvcmusic.lnk.to/sakimorinouta YouTubeチャンネルにて「防人の詩」Music Videoも公開中! TikTokでは新旧問わず名曲のカバー歌唱動画を続々公開中!https://www.tiktok.com/@kotoneofficial その他最新情報はオフィシャルHPならびに各種SNSをご覧ください! HP:https://kotoneofficial.com/Twitter: https://twitter.com/kotoneofficialInstagramhttps://www.instagram.com/kotoneofficial/

北之原真奈

青木柚 自分とは正反対の役柄にぶつかるたびに、無知を痛感する

■プロフィール 神奈川県出⾝、2001 年⽣まれの20 歳。中学⽣の時に『14 の夜』(2016年公開)のオーディションを受けメインキャストで出演。2018 年公開の主演映画『暁闇』が韓国・全州映画祭にて招待上映される。ドラマ『死にたい夜にかぎって』『あのコの夢を見たんです。』『相棒season19 元日スペシャル』『夢中さ、君に』『アノニマス』と出演作が続く。4 ⽉スタートのドラマにも出演が決まっている。この8月20日に主演映画「うみべの女の子」が公開予定。 ■小さいころから、まねっこが好きだった。 なんでアイドルじゃなくて、俳優になったんだろう(笑)。というのも、小さい頃は100均で売っているマイク片手に兄が通う学校の校庭まで行って、歌ったり踊ったり。テレビに出ているアイドルや歌手の真似っこをするのが大好きでした。 小学生の頃は指人形を集めて一つひとつにキャラクターを設定して、ストーリーを作って遊んでいました。キャラを戦わせて、必ず「闇オチ」で終わる(笑)。この遊びは一時的な熱量であまり続かなかったけど、思い返すといまの仕事につながっているのかな、と思いますね。 ■役者をはじめるきっかけは、加藤清史郎くん 小学校から帰ってきて、当時再放送されていた『ヤマトナデシコ七変化』というドラマを見ていたら、同じ年齢の加藤清史郎くんが出演していたんです。立派な俳優さんと肩を並べながら一人で演技している姿を見て「すごい!」って思いました。母に「僕もこのお仕事をしてみたい」と伝えると承諾してくれた。どうやって母を説得したのかは覚えてないんです。でも、「やってみたい!」っていう強い気持ちだけは覚えてる。あのときの自分に、いまは感謝しています。よく辞めずに続けてきたな、って。 ■俳優をやめるタイミングはいくらでもあった 芸能コースの高校に進学したので、まわりもさまざまな活動をしている友人ばかりでした。学校の理解もあって過ごしやすかったんですけど、強いていうなら、行事に参加できないことは残念でした。 俳優をやめるタイミングはいくらでもあったし、これまでもツラいことのほうが多かった。でも、そんなときに支えてくれたのが家族でした。家族にだったらいいかなと思い、愚痴をこぼしたら、「この仕事をやりたくてもできない人もいるんだぞ」と普段あまりそんなことをいわない兄が諭してくれたんですよね。正しい道に導いてくれる家族にはとても感謝しています。 ■不安なとき、観客の生の声に支えられた 舞台挨拶で直接観客のみなさんと会えることは、僕のなかでとくに大きなこと。俳優っていう仕事は、だれも正解を教えてくれないし、この演技で大丈夫なのかと不安になることもあります。 昨年、⻑野での舞台挨拶に行った時、会場にお客さんが何十人もきてくれていて。僕の出演作品を観に足を運んできてくれた人、話を聞いて頷いてくれる人、拍手を送ってくれる人、そんな方々を目の当たりにしたんです。一人ひとりに作品が届いている、遠いところでも観てくれている人がいるっていうことを実感しました。いま、さまざまなことがオンラインに なっていくなかで、とても意味のあるものでした。 ■コロナ禍で見えてきた、自分自身の変化 いろいろな俳優さんのインタビュー記事を読むのですが、最前線で活躍している方たちって、エンタメの重要性、文化の継続意識を本気で考えているんだなと感じます。自分は、目先のことでいっぱいいっぱい。演劇界全体を盛り上げていくんだ、っていう気持ちが足りなかったと気づかされました。 おうち時間が増えて、改めてエンタメの重要性を感じました。コロナ禍で大変な状況のときに、映画やドラマのようなエンタメは必要ないっていう意見もありますよね。でも、ツラいからこそエンタメが必要な人は絶対にいて、その人のためにも続けなくちゃダメだって思います。演じる側の人間だけど、自分自身が映画やドラマを見て助けられることもある。僕も自分の作品を見てもらい、少しでも助けられるようになりたいです。 ■壁にぶつかったときは、役に活かせるチャンス! 自分が共感できるような役柄は演じやすいんですが、自分とはまったく違った状況やバックグラウンドの役は、難しい。そういった役柄にぶつかるたびに、自分はまだ考えが浅はかで何も知らないのだなって痛感します。 最近は、「大変だな」「わからないな」と思うようなことが日常で起こったら、客観的視点をもって見られるようになりました。“あ、これ演じるときに使えるかも”って思うんですよね。役柄を演じるためには、もっと日常を豊かにしていないといけないと思います。まだまだです。 ■どんな役であれ、いつでも集大成でありたい 環境が変わり、いままで以上に責任が増えたと思います。高校も卒業したし、ゼロからのスタートという気持ちです。これからは、作品の真ん中にいても、どの立場にいても、しなやかに演じられる俳優さんになりたい。毎回、出演する作品が集大成と思えるように全力で取り組んでいるし、それが将来、全体で見たときに大きな集大成になるようにしたい。 ■message 同じ時代を生きているのは、自分たちだけです。だから一緒に頑張っていきたいと思っています。若い世代が一人ひとり、小さな日常の意識を考えることをあきらめずにいれば、いまよりも楽しく過ごせると思います。友人への気配りとか、小さなことからでいいと思うんです。みんなが行き詰まったときに、僕の演技を見たら救われるような作品に、たくさん携わっていきたいです。僕も頑張ります! 学生新聞オンライン2021年1月22日取材 共立女子大学 3年 北之原真奈

芸能人

駒井蓮 やるからには、諦めたくないし負けたくない!

■プロフィール 株式会社ボックスコーポレーション所属2000年12月2日生まれ。青森県出身。趣味:絵を描くこと、ピアノ、読書、映画鑑賞特技:歌、習字 女優を夢見る小学生だったという、駒井蓮さん。青森に住んでいる少女にとって、それは途方もない夢でしたが、チャンスをしっかりつかみました! しかし、そこからがさらに大変だったといいます。何が彼女を、前へと突き動かしているのか。現役大学生でもあり、同世代の彼女の信念をうかがってきました。 ■青森に住んでいて、女優への手がかりなんてひとつもなかった 「どうやったら女優さんになれるんだろう…」小学生のころから、ずっと思ってました。当時、私は青森県に住んでいたんです。芸能界は本当に遠い世界で、女優になる手がかりさえイメージできませんでした。でも、「お芝居がしてみたい!」っていう強い思いだけはあって。 小学生のころ、主人公が地元のアイドルになっていくストーリーの『あまちゃん』に夢中になっていたんです。学校の劇でセリフをしゃべりながら人前に立ったら、「あ、なんか楽しい!」って感じました。そこから自然に「私もドラマに出てみたい」と考えるようになったんです。でも、青森の小学生には、なにしろ情報が入ってこないから、どうしようもできなかった。そんな私に、チャンスがおとずれたんです! 中学1年の春休みに東京に旅行で行ったときに、たまたま竹下通りでスカウトされました。どうしていいか迷っているなか、芸能界への道へ手を引っ張ってもらえたという感じがして、嬉しかったですね。 ■スカウトされたのはよかったけれど… でも、後日談があるんです。スカウトされたときに自宅の電話番号を聞かれ、飛び上がるほど嬉しかった私は、勢いで番号を教えてしまいました。帰宅後、スカウトされたことを両親に伝えると、「見知らぬ人に簡単に電話番号を教えるな!」と。厳しく怒られたのをよく覚えています。そりゃそうですよね…(笑)。 でも「やりたいことは進んでやっていこう」というのが駒井家のモットーなので、芸能界に入ることに関して反対されることはありませんでした。両親は「やると決めたなら覚悟を決めて頑張りなさい」と背中を押してくれました。 ■片道4時間、ひとりで東京に通う日々 中学生のときは、仕事があるたびに、青森から東京にまで新幹線で片道4時間かけて通っていました。ある日曜日、終電の新幹線で帰ったときに、地元の電車が雪で止まってしまって、家に着いたのが朝の3時(!)なんてことがあったんです。それがトラウマになってしまって、とても怖い思いをしながら東京に通っていたのを覚えています。当時は、携帯電話をもっていなかったんですよね。乗り換えもよくわからないし、電車の時刻表も調べられない状況で、たったひとりで不安しかありませんでした。そんな私に母は、新幹線の中で食べるためのお弁当を作ってくれました。心配しながらも、笑顔で送り出してくれて、本当に心強かった。帰る場所がある、待っていてくれる人がいることが私の心の支えでした。家族に応援されながら何度も自宅と東京へ往復するうちに、ひとりで遠くに行くことにも慣れ、だんだんと自分で何事もできるようになっていきました。 高校生になるタイミングで上京したんですけど、そのときも怖くて不安でしたね。両親に相談したら、「一度、覚悟を決めたことだろ!」と喝を入れられました。芸能界に進むときも、ひとりで東京に通うときも、上京するときも、いつも両親が私の背中を押してくれています。だから、両親への恩返しの思いもあって、勉強も手は抜きませんでした。第一志望の大学に合格できたときは、みんなが喜んでくれて「頑張ってよかったな」って思いました。いまも大学のテスト期間中は、睡眠時間を削って勉強時間を確保していますよ。仕事も勉強も、どっちも妥協したくないです。負けず嫌いかもしれませんね。 ■2021年の、私の漢字一文字は「即」 女優の仕事をしていて、悩みはもちろんあります。あの演技でよかったのかな、どうしたら皆さんに知ってもらえるのかなとか…。でもね、決めたんです。うじうじ悩んでいないで、すぐやる、いまやる!って。以前だったら、1時間悩んで決めていたようなことがでてきたとしたら、まずやっちゃう、やると決めちゃう。すると考える時間は5分で終わるんですよ(笑)。そしたら55分残るでしょ? 時間と心に余裕ができるんです。やっちゃえばラクになるんですよね。だから、今年の私の目標は「即」です。いまの私にとって、悩む時間のほうがもったいない。進化する時間がほしいです。 ■message 小さいときは、将来やりたいことがいっぱいあったのに、大学生になるとそれがわからなくなることってありますよね…。それって、きっと学歴とか世間体みたいなしがらみが出てきたからだと思うんです。でも、思い切って、幼いころの夢にチャレンジしてもいいんじゃないかなって思います。やってみた結果、落ち込むこともあるけど、そんなときは私は思いっきり泣きます。泣いていると疲れてきて、笑うしかなくなってきます。そしてお腹がすく(笑)。たいていのことは美味しいものを食べることで気持ちは晴れます! 失敗からどう立ち上がるかが大事だと思っています。私たちの未来のために! 学生新聞WEB2021年1月14日取材 日本大学 3年 辻内海成   大ベストセラー『陽だまりの彼女』の作者である越谷オサムによる同名の青春小説を原作とし、駒井蓮と豊川悦司が父娘役で出演する『いとみち』(6月18日(金)青森先行上映&6月25日(金)全国公開)。 主人公の相馬いとは、津軽三味線が得意な青森・弘前市の高校生で16歳。三味線を弾く時に爪にできる糸道に名前の由来を持つ。強い津軽訛りにコンプレックスを持ち話すことが苦手で友人も少ないが、芯はじょっぱり(意地っ張り)。 一大決心をして津軽メイド珈琲店でのアルバイトをはじめたことをきっかけに、祖母、父、バイト仲間たちに励まされ、成長していく。思春期の葛藤を核に、津軽三味線が紡ぐ三世代家族の珠玉の人間ドラマ、そしてオール青森ロケの心癒やされる雄大な風景が注目を集めている。 6月18日(金)青森先行上映、6月25日(金)全国公開監督・脚本:横浜聡子原作:越谷オサム『いとみち』(新潮文庫刊)駒井蓮 豊川悦司 黒川芽以 横田真悠 中島歩 古坂大魔王 ジョナゴールド(りんご娘) 宇野祥平  西川洋子製作:『いとみち』製作委員会(アークエンタテインメント 晶和ホールディング 日誠不動産 RAB青森放送 東奥日報社 ドラゴンロケット) 配給:アークエンタテインメント  協力:青森県弘前市 青森県北津軽郡板柳町 青森県平川市www.itomichi.com