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Archive for 運営スタッフ

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羽生善治 何も考えずにやってみること。無駄だと思っていたことでも、どこ...

<プロフィール> 羽生善治 (はぶよしはる)  1970年9月27日生まれ。埼玉県所沢市出身。三冠(王位·王座・王将) (朝日オープン選 手権者)(永世棋聖・永世王位・名誉王座・永世棋王)。二上達也九段門下。 将棋界に旋風を巻き起こした羽生善治さん。若くしてプロになり、25歳で7冠王という偉業を成し遂げた。今回は、そんな勝負師としての羽生さんの生き様、そして将棋の魅力を探りました。 将棋を始めたきっかけは何ですか? 「小学1年の時、友達に誘われたのがきっかけです。野球やサッカーをやるように、将棋も 遊びのつもりで始めました。その後小学2年の夏に子供の将棋大会に出場したのを機に、将棋道場に通うことになりました。将棋は決着がつくから面自い。決着がつくまでのスリリングな感じ、いろいろな手を探求する楽しさ、そして勝負がつく楽しさ。そして小学 6年の大会で日本一になり、本格的に活動するようになったんです」 どんな学生時代を過ごされていましたか? 「将棋の試合があると、丸一日時間を使うから、学校は月に3、4日は必ず休んでいました。 宿顕はちゃんとやっていたけどね(笑)。当時は今と違って塾に通うこともなかったから、のんびりしていました」  中学3年、15歳でプロになった時の周りの反応はどうでしたか? 「親も友達もびっくりしていました。もともと親は、買い物の合間に僕を預ける託児所のつもりで将棋道場に通わせていただけだし、友達も、学校はよく休んでいたけど、まさかプロになるほどとは…と言う感じでした。 これからどうなるのだろうという不安はありましたね。対局する人、対局する人、全員年上だし、顔は知っていたけど、名前は知らなかったりして…。プロになったからといって、いきなり稼げるわけではないし、自分の努力次第だと思っていました」 25歳で七冠を違成した時はどんな感じでしたか? 「成し遂げた、という感じです。一区切りではあったけど、そこで終わりじゃない。つらいというよりは、無我夢中でやってきました。一つ一つの対局に深い思い入れを持つことはなく、結構忘れちゃうんです。それだけ多く、日々勝負し、前へ前へと進んでい。僕は過去を振り返らない主義だから、その時は頑張っていたけど、振り返ると『頑張っていたなー』という感じ。スポーツと違ってシーズンがないから、マラソンのように毎日のほほんとやるだけです」 ものすごい偉業を成し遂げながら、その上に胡坐をかくことなく、淡々と日々勝負師とし て活躍する羽生さん…対局中は何を考えているのですか? 「何も考えないです。将棋の世界は勝負を人の所為にできない。スポーツと違って、審判の所為にしたりできないんですそれに、汗をかいたり走ったりするわけじゃないから、発散できなくて、自分の中で留め込んでしまうんです。溜め込んで煮詰まってしまわないように、何も考えずにやります。“八面玲瓏”(どこから見ても美しいこと。また、心にわだかまりが ないこと)を座右の銘に、富士山を見るような透明な心であり続けたい。僕は試合当日の朝でも特に変わったことはせず、緑起をかついだりしないんです。やりだしたらきりがないから。何も考えずにやる、それだけです」 1970年代生まれのトップ将棋士たちをまとめて、“羽生世代”というそうですが、みなさんはライバル同士ですか? 「ライバルとはあまり意識してないです。同世代の仲間は、子供の頃から一緒にいて、切磋琢磨しながら成長してきました。僕は一人で強くなったのではないと思っています。この先どうなるかわからないけど、これからも仲良くしていくんだろうなぁ(笑)」 今後の目標はありますか? 「地道にやっていきたいです。40歳〜50歳の頃には今と違うカラーを出したい。たくさん考えないで、正しい答えを出せるようになっていたいです。直感や対局勘を研ぎ澄まして、うまく引き出せるようにしたい。あとは、子供たちに将棋を教えることもしていきたいです。僕はそんなに足繁く子供に教えに行っているわけではないけど、子供たちの『えっここでその手?!』って思わせるような発想やひらめきには毎回鷲かされます。これからの将棋界は、質の高い世界であってほしいです。脈々と歴史をつなげていくことが大切だと思います」 羽生さんの力の源はなんですか? 「“発見すること”かな。『あ、パン屋さんがある』とか、『あ、朝顔だ、夏だな~』とか、些細なことを発見するということ。将棋の世界でも生きているといいな」 羽生さんにとって将棋とはなんですか? 「習慣であり、生活に一部でもあります。将棋が人生そのものだという感じではないけど、でも一緒に歩いていくんでしょうね」 最後に、学生へのメッセージをお願いします。 「僕が20歳前後のころ、時間は無限だと思っていました。でも、そうではないってことを最近感じ始めました。だから、学生のみんなには、時間を大切に使ってほしいです。あと、今やっていることで、無駄に思えることがあるかもしれないけど、無駄だと思わずに、やってみて下さい。 いつかどこかで生きてくるかもしれないから。“やりたいことが見つからない“なんていう若者が最近多いけど、考えないでまずはやってみること。考えすぎると実行できない癖がついてしまい、大抵のことはやめてしまうと思うので」 羽生さん、どうもありがとうございました! 学生新聞2006年10月号より

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Gackt×塩田大介 自分の意志を見失わないで。 就職する意味を考えよう!

<プロフィール> Gackt (がくと) 7月4日生まれ。A型。 これまで24枚のシングルと7枚のアルバムをリリースし、いずれもオリコン上位にランクイン。1作ごとに新たなサウンドスタイルを確立する。 華麗なビジュアルや幅広い音域から繰り広げられるボーカリゼーションもさることながら、優れたクリエイトセンスを発揮したステージングには言葉も出ない程の感動を受ける。また音楽活動のみにとどまらず、TVやCM、小説の執筆や映画の主演など多彩な才能を発揮し、枠にとらわれることなく幅広い活躍が光る。 <プロフィール> 塩田大介 (しおただいすけ) 1968年2月12日大阪生まれ。 19歳の時に単身で上京し不動産業界に入る。1994年現株式会社ABCホームを設立。 ではまず、お二人の出会いから聞かせて頂けますか?ガクトさん(以下G) 共通の友人に紹介されて知り合ったんだよね。一緒にご飯を食べに行ったりしているうちに、すぐに仲良くなったね。 塩田社長(以下S) 彼の第一印象は「おもしろい人」。突然座禅を組んで歌い出したり、数ヶ国語を自由に操れたりとサプライズがたくさんある。 知り合えば知り合うほど魅力いっぱいで、会う度に新しい一面を発見しますね。 お二人はなぜ今の仕事を選ばれたのですか? S:「腕一本でお金を稼ぎたい!」という気持ちが強かったからです。扱うなら金額の大きな不動産か金融業界で働きたいと思いました。以前勤めていた不動産会社が同族主義で、頑張りを認めてもらえないことに疑問を感じ、独立しました。 G:「自分の存在理由はなんだろう?」と考える内に、「何か自分が形として残るものを作りたい」と思ったから。 夢を実現させるには、何が大切だと思いますか? G:夢や目標を実現するにあたって最も大事なのは、「どこまで目標をクリアにイメージできるか」ということ。何かにすぐ挫折する人は、目の前のことを見すぎている人だと思う。目標をクリアにイメージした上で「何歳までにはこうなって、何歳までにはこうなって…」と具体的なビジョンを描いている人は、たとえ壁にぶつかったとしても、それが目標へのプロセスの一つだと認識できる。目標に向かって突き進んでいる途中で他の目標を見つけたら、方向転換してもいいと思う。イメージを描き、目標から逆算して行動することが、実現への一番の近道だと思うよ。 大学生に限らず、自分は何をしたいのか、どんな職業が自分に合っているのかが分からず悩む人が多いですが、それについてはどうお考えですか? S:自分に本当に合っている職業に出会うのは難しいことですよね。「自分はこの仕事に合っているのか」を考えることも大切ですが、まずはどんどんチャレンジしてみるべきだと思います。又、企業はそのチャレンジに対しチャンスとフィールドを提供していかなくてはいけません。 G:就職する意味を見つけると良いと思う。「仕事」の先にある、自分の夢をつかむために就職するんだよね。それを見失わないで欲しい。自分の意志を明確に持って、これからを作っていって欲しいね。 S:私は、頑張った人が頑張った分だけ活躍できる環境を整えることに力を注いでいます。日本のために、今後若い世代も次の世代へとバトンを渡していってほしいからです。自分の目標のために会社を踏み台にしてもいいんです。ガクトさんも言ったように、それくらいの意志を持って、目標を持ったらその実現のためにまっしぐらに頑張って欲しいと思います。 最後に、学生に向けてメッセージをお願いします。 S:今日本経済は、バブル崩壊後の長い不景気から脱却し、回復から躍進に向かおうとしています。これから社会に出る学生の方は最高のタイミングでスタートを切ることができるのです。そして、ABCホーム.では不動産流通革命企業として皆さんに最高のステージを用意して迎え入れます。 G:何度も言ってきたけど、目標を持って取り組むこと。 まずはチャレンジ!「自分がしたいことと出会える会社」に出会えるよう、活動して下さい。 学生新聞2006年3月号より

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安倍晋三 誠をもって動かざるもの未だ非ざるなり

<プロフィール> 衆議院議員 安倍晋三(あべしんぞう) 1954年9月21日 安倍晋太郎・洋子夫妻の次男として生まれる。 1977年3月成蹊大学法学部政治学科卒業。南カリフォルニア大学政治学科留学。 1982年11月 外務大臣秘書官(安倍晋太郎秘書)。 1991年7月 故安倍晋太郎後継者として安倍晋三後援会事務所を各地に発足。 1993年7月 衆議院議員に初当選、以来連続4回当選。 1993年8月 外務委員に指名される。2000年7月 第2次森内閣 官房副長官に就任。 2001年1月 第2次森改造内閣 官房副長官に就任。 2001年4月 小泉内閣 官房副長官に就任。 2002年10月 小泉改造内閣 官房副長官に就任。 2003年9月 自由民主党 幹事長に就任。 2004年9月 自由民主党 幹事長代理に就任。同時に党改革推進本部長に就任。 決断のときに、備えよ! 焦って行動することは、ありません。決断のときというものが、誰にでも巡ってくるものです。だから、その時にしっかりとした決断が下せるように、考えておくことが大切なのです。父の最期の1年をみて、私は命を賭けて政治家になることを決めました。 今の学生だって、いろいろなことを考えていると思う 私が大学生の頃は、昭和50年前後で、大学紛争が終わってまだ間もない時でした。「現存の政治に対する反発」という世論の雰囲気が色濃くなり、政治に対する意識が急激に高まった時期であったように思います。その頃と比べますと、一見、今の大学生は政治に対して、関心がやや薄いように見えますが、一概にそうとは言えないと私は思います。私の学生時代の政治に対する反発は一時的な反動で、それは若者であるが故の未熟さによるものであったと言えなくもありません。何故なら、その反発の結果、実際の政治において国民の利益となるような良い結果につながったのかと言えば、そうとは言えなかったからです。私は、今の学生は一人ひとりが目立った行動は起こさないけれども、政治について、そして日本の将来について、いろいろなことを考えているのだと思います。ですから、今すぐに焦って行動を起こす必要はないと思いますが、現実問題として、来年、日本の人口はピークを迎え、それに伴って、年金の問題、老人医療の問題など、さまざまな問題が浮き彫りになってきます。それらは、いずれも私たちの将来を直接左右する大きな問題です。だから、普段から様々な問題について、しっかりとした考えを持ち、いざという時に自分なりの判断ができるようにしておくことは、学生の皆さんにとっては大切なことだと思います。 政治家とは、命がけの仕事 私が政治家になろうと思ったのは、父の影響がとても大きいと思います。私は、大学を卒業後、株式会社神戸製鋼所に入社しました。そこで仕事はとても順調で、楽しい毎日だったのですが、父が外務大臣になった時「政治家になるなら、今がベストではないか」というアドバイスをくれました。なぜなら、父も祖父も外務大臣になった時に秘書官になったからで、振り返ってみると、その時の決断が父のその後の人生において、非常に良かったというのです。それを聞いてからとても迷いましたが、幼い頃から憧れの存在だった父のアドバイスということもあり、きっぱりと会社を辞め、父の秘書官になることを決めました。しかし、政治家になるということに対しては、まだ若干の抵抗がありました。何故なら、私が小学2年生のとき、父が選挙に落選したことによって、家族がとても大変な思いをしたのを見ているからです。そんな私の迷いを断ち切ったのは、病床に伏した父の最期の1年間でした。その1年間、父は身体の調子があまり良くないのにもかかわらず、最期まで選挙の応援に駆けつけるなど、政治家として精一杯活動していました。このことが結果として、父の寿命を縮めてしまった訳ですが、そんな父の後ろ姿を見て「政治家とは、命をかけるに値する仕事なんだ」胸が熱くなりました。そして、政治の道に進む決意が固まったのです。  私は「誠を持って、動かざるもの、未だ非ざるなり」という孔子の言葉が、とても好きです。これは、私の尊敬する吉田松陰先生も好まれたお言葉です。この言葉の通り「みんなの住んでいる国を良くしたい」と、国家のためを思い、信念を持って行動すれば出来ないことは何もないと、私は信じています。 「僕が学生だった頃の思い出」  私の祖父と父が共に政治家だったこともあり、学生時代から、政治は身近なものでした。私は日本の大学を卒業後、アメリカの大学に2年間ほど留学しています。どちらの大学でも政治学を学んだのですが、日本の大学では、どちらかというと古典的な政治学を学んだという印象があります。それに対して、米国の大学では基本的な政治学はもちろん、現代の政治について学ぶことができました。それは、大統領の政治について分析したり、アメリカ特有のホワイトハウスのシステムについて学ぶなど、極めて実践的でとても興味深いものでした。又、当時のアメリカでの生活についてですが、私はイタリア系アメリカ人のお宅に下宿していたので、アメリカにいながらイタリアの雰囲気に包まれて暮らしていました。まさに、アメリカは「人種のるつぼ」だということを実感しながら、幅広い教養を身につけた2年間でした。 学生新聞2005年4月号より