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Archive for 運営スタッフ


深田恭子 一日一日を大切に、充実した日々を送り、それが未来に繋がって...
<プロフィール> 深田 恭子 (ふかだきょうこ) 1982年、東京都生まれ。第21回ホリプロタレントスカウトキャラバングランブリ受賞から芸能界の道へ。ドラマ「FIVE」でデビュー。女優、歌手、タレントとして活躍中。ネイルクイーンやブルーリボン賞など、数々の賞も受賞。 「私と恋におちて」という言葉を発端に展開していく映画『恋愛戯曲~私と恋におちてください。~」。この映画の主演女優として、一人三役をこなし、輝いている深田恭子さん。デビューから14年。女優としてさらに成長された印象を受ける。「学生キャリア新聞」では、学生ならではの視点から深田さんに質問をぶつけてみた。 「私と恋におちて」から始まる恋愛 映画『恋愛戯曲~私と恋におちてください。~』は「恋におちて」というセリフをきっかけに進む異色のラブストーリー。 ファンタジー、コミカルさ、リアリティ……といった要素の高次元でのバランスが映画らしい映画という印象を与える。 深田さん演じる人気脚本家 :谷山真由美が椎名桔平さん演じるテレビ局のドラマ制作担当に冒頭のセリフで仕掛ける “強制恋愛”について深田さん個人は「ナシ、ですね (笑)。この二人にはあった話であって、“強制恋愛”という言葉があると、みなさんに強制してしまう気がして。その言葉からはじまるというと、その言葉通りになってしまうと思うので、後付けでならあっていい言葉だと思います」と語る。 だが “強制恋愛”はやがて本物の恋愛に変わっていく。その過程の描写は印象的だ。 また、劇中で深田恭子さんは、人気脚本家(谷山真由美)、セレブ作家、地味な主婦の三役を演じているのも見所。観ているわれわれは「誰が本当の深田さんに近いのだろうか」と素朴な疑問が湧く。今まで深田さん演じてきた中で、自分本来の性格と似ている役はあるのだろうか? 「いつも役を演じる時は、似ているところを探して演じるのではなく、役をそのまま演じるようにしているので、共通点や共感する部分はなくてもいいかな、と思います」 さすがプロ! 深田さんが三つのキャラクターを演じているのもこの映画の魅力の一つだろう。 “恋”か“仕事”を選ぶなら 普段出演されている映画やドラマでは恋する女性の役が多い印象の深田さん。個人としては“恋”か“仕事”なら、どちらを選ぶのだろうか? 「生活ができるなら “恋”ですね。でも、生活ができるという仮定がないなら、やはり仕事を選びますね。私は自分が一番大事なので、仕事と恋愛、両方に打ち込めるのはうらやましいです。谷山さんは恋をしながらお仕事も、っていう彼女なりのバランスがとれているのかな、と思いました」 人気脚本家・谷山真由美は、恋を自らの仕事のエネルギーに変換するタイプの人間。だが、人気作家ゆえか、周囲は谷山のわがままを容認し、神経をすり減らせる。その谷山真由美のキャラクターについて深田さんは「仕事をする上では、谷山さんのように人にあたったり、大声を張り上げたり、イライラしないことを第一に考えていますね。ストレスは、一回発散しちゃうと我慢できなくなってしまうんじゃないかと思うんです。また、もうひと山乗り越えれば穏やかになれるのかと感じました。私の場合は、なるべく穏やかにいるように心がけて、素敵な30代になろう、と思っています」と、自分の未来に重ね合わせながらのコメントをくださった。 「自分磨き」と「ポジティブ思考」 仕事も恋愛も頑張る女性が増えている中、深田さんが自分磨きのために実践していることは、「悲しい気配がある方向にはなるべく行かないこと」だそうだ。「楽しい人がいる方向、ここに行ったら楽しそう、という方向に行って、自分を笑顔にしてあげるようにしています。悲しいことばかり、嫌なことばかりがあると口角が下がってきてしまうと思うので。笑ってばかりいるとほうれい線ができてしまうとわかってはいるのですが、なるべく日々笑顔でいたいです。立ち向かわなきゃいけないこともありますが、自分から楽しい方向に向かっていくのがいいんじゃないかな、と思いますね」 ちなみに深田さんのヘコんだ時の回復法は、「聞こえはよくないのですが、最初からすべてに諦めることです。期待をしない=ゼロの状態なので、ほんの小さなことでも嬉しく感じたり、何でもプラスにとらえられたりするんです」 学生時代の自分を振り返って 学生にとっては、少し上のお姉さんにあたる深田さん。最後に示唆と愛情にあふれたメッセージをくださった。 「お父さんやお母さんの言うことをよく聞いて、たくさん親孝行してください。また、この映画を通して、お仕事を頑張る女性や恋に臆病になっている人たちに力をわけてあげられたらいいなと思います。この映画はいろいろなエピソードが出てくるので、どこかしらで共感していただけると思います。私自身、目標を作るのはあまり好まないので、あえて作らないようにしています。一日一日を大切に、充実した日々を送り、未来につながっていったらいいなと思います」「日々の充実が未来を作る」自然体の深田恭子さんから出た言葉が私たちの心に深く響いた。 学生新聞2010年10月号より

横山 剣 やりたくないことでも、やると決めたら最後までまっとうする
<プロフィール> 横山 剣 クレイジーケンバンド。1960年生まれ。神奈川県出身。クレイジーケンバンドのボーカル。ダブルジョイレコーズ代表取締役。10代の頃よりさまざまにバンドで音楽活動を続け、1997年クレイジーケンバンドを結成。2002年シングルGTで広く注目を集め、同年、タイガー&ドラゴンが大ヒット。‘東洋一のサウンドクリエイター’と称し、さまざまにアーティストへの楽曲提供なども精力的に行っている。キメ台詞は「イイネ!」 さまざまな音楽の要素を盛り込み、色鮮やかな楽曲と、自由奔放かつ独特で、心にグッとくる歌詞でマニアだけでなく多くの人々を魅了するクレイジーケンバンド。懐かしくも新しい音楽を生み出し続けるバンドの中心にいるのは、バンドのボーカルを務め、誰よりも真摯に音楽へと向きあう‘東洋一のサウンドクリエイター’横山剣だ。 文句を言われない自給自足の音楽活動 「結成当初は仕事と並行して活動していましたが、決して楽ではないものの、みなさんが思うほど苦ではなかったんですよ」1997年に本格的な活動がスタートしたクレイジーケンバンド。お話をうかがった横山剣さんを中心に友人や仕事仲間が集まり結成された。 「文句を言われないように、誰にも頼らず、他の仕事をしながら自分たちでバンドを支援して活動していました。でも仕事以外の時間で音楽活動をしていたので、なかなか睡眠時間を確保できなかったですね(笑)。体力的にはきつかったのですが、苦しいというよりもむしろそれを楽しんでいました」しかし苦しいものではなかったとは言うものの、その道は平坦ではなかったと言う。「最初、僕らの音楽はなかなか認められませんでした。やっぱり何をするにしても、甘くはないですよね。音楽っていろいろな言い訳ができると思うんです。全然売れていなくてもとりあえず自分でスタイルを作ってしまえば、それでバンドや曲が確立したと言うことができる。でもスポーツだと、結果が出ないとダメですよね? 音楽も同じです。アスリートのように結果を出すという意識を持って、妥協せずにやっていくのが好きなんです。もちろんアーティストなので、残念ながら思っていたような結果がでなくても、活動を続けていけるのですがそれでも好きでいてくれるファンや支えてくれるスタッフにはいつも感謝しています。その想いにあぐらをかいて天狗になってしまわないように注意しながらね」 横浜と早熟な少年 横浜のイメージが強い横山さんは、ずっと横浜で暮らしていると言う。「高校は、東京にある学校へ通っていたんですが、そこの友人が横浜のことをすごくほめたり、あこがれの眼差しで見ていたんですね。実際に住んでいるとわからないものですが、横浜の外に出るとその良さが改めてわかりました。そうして僕の『浜っ子』意識が強まりました。今も横浜から東京へ通っているんですが、その途中で新しい曲のイメージが沸いたりすることもありますし、横浜が持つ独特の雰囲気から曲ができることもあります。自分にぴったりハマる地元横浜は生活の場としてだけでなく、音楽にも強く影響している場所ですね」高校時代と言えば、横山さんは以前、不良だったという話がありますが? 「そうそう(笑)。でも “非行”少年じゃないよ! 今にして思えば、僕は、早熟だったのかもしれないね。昔から常に目標を持って行動していて、その目標のために学校を休んだりして。やんちゃだったかもしれない。でも、当時の僕は、周りから見ると道を踏み外しているように思われていたけど、それは目標を持って行動している結果であって。言うことを聞かない不良少年だったけど、悪いことをする非行少年ではなかった。この学生時代の経験で、僕はサザエさんに出てくる波平さんのような 真面目な大人”の大変さや難しさを知ることができた。音楽に関わる仕事をしたいと大人に交じっていると、学生の僕も大人と同じく真面目にならなければならない。だから僕は世のお父さんをリスペクトしてるし、そのための曲も作ったんです」 夢はグラミー。挑戦はこれからも続く 「やりたくないものはやらないでもなかなかそうはいかないものですよね」クレイジーケンバンドが結成される前から20年以上にもわたり音楽活動を行ってきた横山さんは、その中で必ず貫き続けていることがあると言う。 「やりたくないことでも、やると決めたら最後までまっとうすること。格好悪い仕事でも、それを格好良いものにするんだ、という意気込みでまっとうすること。アイデアを駆使して車みたいに仕事を改造してしまえばいいんです。格好悪くなるようなことも、アイデアをどんどん提案していけば、その案が通り、結果として格好良い仕事になったこともたくさんありました」 今年で50歳になる横山さんだが、その挑戦はまだまだ続く。 「国民的な大ヒット曲を作りたいですね。誰もが一度は耳にしたことがある名曲を作りたい。そして、これは夢の夢の夢だけど、最終的には、グラミー賞の作曲賞なんて獲れたら最高だよね。そのためには、これからもチャレンジしていかないと」 「学生のみなさんへ。自己中心的にならず、人の痛みが分かる人間になってください。そして未来を憂うことなく、また過去の失敗や栄光に捕らわれないでください。足下を見て、余計なことを考えず、今この瞬間を ‘スパーク”するようにしてください!」 学生新聞2010年4月号より

長澤まさみ 演技には正解というものがない。それでも努力して真剣に向き合...
<プロフィール> 長澤 まさみ (ながさわまさみ) 静岡県出身。1987年生まれ。2000年第5回東宝「シンデレラ」オーディションにおいて史上最年少の 12歳でグランプリ受賞。 同年公開の「クロスファイア」で映画デビューを果たす。 代表作には「ロボコン」「世界の中心で愛を叫ぶ」「涙そうそう」「ラストフレンズ」などがあり、日本アカデミー賞 最優秀助演女優賞 話題賞など数々の賞を受賞。 映画のみならず、ドラマ、 CM、 声優など幅広く活動を行っている。現在、NHK大河ドラマ 「天地人」 に出演しており、11月21日には主演を務めた映画「曲がれ!スプーン」が公開される。 明るく元気。いつも笑顔で輝いている-長澤まさみさんにはそんなイメージがある。しかし、実際お会いしてみて印象は180度変わった。若くしてすでに女優としてのキャリア10年を誇る彼女は、まさに「仕事人」。彼女の中に秘められた俳優というキャリアに対する想いが取材をする我々にひしひしと伝わってきて、同年代として、人として、大いに触発される取材となった。 共演した人はお手本であり、憧れ 2000年第5回「東宝シンデレラ」で史上最年少の12歳でグランプリ受賞をした長澤まさみさん。だが、当初から彼女は俳優になりたいと思っていたわけではなかった。 「ファッション誌を見るのが好きで、モデルになることに憧れていました。その当時、受けたオーディションが女優業を中心とする事務所主催のもので、合格した時には作品に出られるという特典がついていたんです。興味本位で初めて映画に出て、『楽しい』という気持ちと『一度始めたら中途半端にできない』という気持ちから続けていこうと思いました」 一度経験してみて、この職業に惹きつけられた長澤さん。俳優という職業は魅力的だったのだろうか? 俳優という仕事の魅力について尋ねてみると…… 「(俳優の魅力は)経験できないことを経験させてもらえることですね。やっぱり普段の生活ではできないことをお芝居の中では実現できるので、いろんな役柄や仕事に挑戦することができる。女優という仕事にはそういう魅力があります」 彼女のマルチな活躍ぶりも納得できる。俳優という仕事を通して、他では絶対にできないことを十分にやろうという気構えがうかがえる。また、演技を磨くうえで共演者から学ぶことも多いようだ。 「今までに共演した俳優さんには、年齢を間わず皆さんがお手本になることがあります。良いところを真似して伸びたいという気持ちが強いので、一緒に共演した人はお手本だし、憧れですね」 自分から行動を起こさないと社会は何もしてくれない。自分でやらなければならないことが増える分、自分で感じられることが多くなる。 これまでの発言で演技を磨くことに対して強い意志がうかがえる彼女。いくつもの作品に出演される中、演技以外にも学ぶことはたくさんあるという。 「人とのつながりを大切にするようになりました。周りの人に支えられているおかげで自分は演技ができるし、映画やドラマでは多くの人が協力して一つの作品を作っている。そのことから日々、家族や友人の大切さを学びました。若い頃から大人の中で生活していくと精神的に強くなります。普通だったら見えないやさしさや周りの人の助けをより直に感じられるようになりました。自分から行動を起こさないと社会は何もしてくれない。自分でやらなければならないことが増える分、自分で感じられることが多くなっています」 俳優としてはもちろん、人間的にも成長を続けている長澤さん。11月21日 (土)には自身が主演を務める映画『曲がれ!スプーン』が公開される。長澤さん扮する超常現象バラエティ番組のAD(桜井米)が、本物のエスパーを探しに全国を旅し、そこで偶然出会った正体を隠して暮らすエスパー達と繰り広げられる「シチュエーションコメディ」だ。長澤さんもこの映画について、「この映画には夢や希望がたくさん詰まっています。子どもには夢を持つきっかけになるといいし、大人にも夢を持ち続ける勇気や大切さを感じてもらいたい」と話す。 今後の目標については、「今まではいろいろなことを経験させてもらいましたが、やはり女優をこれからも続けていくことです。何度も同じ事を繰り返し長い時間をかけて一つの作品を一作り上げていきますが、それを何年も続けてゆくことは大変なこと。そうなれるよう、いつまでも真剣に演技を向き合っていきたいです」と話してくれた。 時間を有意義に使い、自分の興味のあることに突き進んでもらいたい 12歳から芸能界入りし、その後、親元を離れた生活を続けてきた長澤さん。「私は大学に行かなかったのでキャンパスライフに憧れました。学生の方には時間を有意義に使ってもらい、自分の興味のあることに突き進んでもらいたいですね。暇な時間をなるべく作らないようにして、いろいろと勉強してほしいです。私は行動に移す時間の方が多かったので、これからは自分の時間を勉強に当てたい。時間を無駄にせず有意義に過ごしてほしいですね」と学生に向けてのメッセージをくれた。 取材中は常に冷静、淡々とインタビューに応じてくれ、取材中、我々にまで気づかう姿勢を示した長澤さん。その堂々とした姿からは俳優として生半可ではない決意が見て取れる。人一倍、感謝と責任を感じ、演技という果てしないものに真剣に立ち向かっている彼女。笑顔とは対照的に心に秘められた演技への強い意志が感じられた。 学生新聞2009年10月号より

矢沢永吉 衝撃に出会えるかどうかで人生は決まる。
<プロフィール> ミュージシャン 矢沢永吉(やざわえいきち) 広島県出身。1949年生まれ。 「I LOVE YOU.OK」でデビュー。プロデューサーとして自身の多くのアルバムを手がける。俳優として映画やドラマの主役を務めたこともあり、CM出演も多数にのぼる。デビュー以来毎年続けていたライブツアーを、昨年36年日にして初めて封印したが、今年9月に60歳を迎えるにあたり、その記念企画の一環として東京ドームでライブを行う。公演タイトルは直球勝負の「ROCK’N‘ ROLL IN TOKYO DOME」。その後、2ヶ月に及ぶツアーが始まる。「学生も1回見に来た方が良いよ」と矢沢。 「泣いてしまうくらいの衝撃を受けた。『これだ!』って思った」大物ロックスターと言われる「矢沢永吉」の歴史は、ビートルズに出会った7歳の時から始まった。「この出会いはチャンスで、その先にはダイヤモンドがあると思った。高校3年生の時にはもうアーティストになるつもりだった」。夢をがむしゃらに追いかけ実現し、常に輝きを放つ大物に話を聞いた。 「(仕事は)働くという感覚でやっていない。ただ、ひたすら上に行きたかった。毎日必死でずっと走っていた」。矢沢さんにとって働くとは?”という問いに対して、少し考えてからこう話した。「“働く”って何?」と言わんばかりの表情で。 ずっと走り続けてふと後ろを振り返った時、ゴール地点はすでに後ろにあった ロックシンガーという夢を抱いた矢沢は、高校を卒業すると夜汽車に乗って上京した。 オーディションは絶対受けよう。人前で歌ったら度胸がつくし練習になる」そう考えた矢沢は、仲間が出来るとすぐにディスコのオーディションを受けた。一回目は失敗に終わったが悔しさから猛練習。二回目、クラブのオーディションで一ヶ月契約を交わした。「5曲しかレパートリーがなかったのに『俺たちハマ(横浜)でパリバリやってるんです!』と言って受けさせてもらった(笑)ガタガタのバンドだったし、嘘をついたのはばれていたね。でも、エネルギーに惚れてくれた」さらにその時、交通費として一万円をもらった。ロックシンガーとして初めてもらったギャラに喜びを隠せなかったという。余ったお金でコカコーラとインスタントラーメンを買って仲間と祝った矢沢。「あの時の味は今でも忘れられない。『ここから始まるんだ!』と思った」 常に本気で走っていた。レーコードデビューをしても、「ずっと不安で、俺はどうなっちゃうんだろう?と思っていた」。だからこそ走り続けた。スタートし出した20歳の頃、当時付き合っていた女性に、「そんなに走らないで。私も一緒に行くから」と言われても。次第に彼女の声が聞こえなくなっても、走り続けた。とにかくがむしゃらで周囲の人に、「もう大丈夫、安全な位置にいるよ」と言われても信じなかった。 やがてその声さえも聞こえなくなり、ふと立ち止まって後ろを振り返った時、「誰もいなかった」と矢沢は言う。「ゴール地点はすでに後ろにあった。自分の夢を通過していた」。大物ロックスターはその時、「ゆっくりあぜ道を見ながら、自分の音楽をかみ締めるのも良いな」と感じたという。 ビートルズに出会い、大きな一衝撃を受けた矢沢は、子どものような生き生きとした目で話す。「衝撃に出会えるかどうかで人それぞれ人生が決まる。僕はスコーン!と抜けるような衝撃を7歳のときに感じられた。こんなに素敵なことはない」 “繰り返し“が矢沢ライブを確立させた。繰り返すことが大切なのはどの仕事でも同じ 矢沢にとってステージ(ライブ)とは「表現する場所」だという。「どうやったら一万人の観客をぶっとばせるか、常にアレンジや演出を考えている。だからこそ自分の予想通りに観客がはまった時は嬉しい」。さらに矢沢独特の表現でこう付け加えた。「一番幸せに感じるときは、最高のステージをした後のシャワー。その繰り返しで矢沢ライブが確立した。繰り返すことが大切なのはどの仕事でも 同じ。『繰り返し is GREAT』!『GREATなマンネリ』!」 矢沢は “繰り返し“を重ね、気づけば今年、ロック歌手5年目を迎えた。 8月5日には 4年ぶりのアルバム、ROCK’N’ROLL、 を出す。このタイトルにした理由は「敢えて直球で行きたかったから」。「これまで俺は日本でも世界でもバカバカやりまくった。やるだけやって5、6年前、『何か大事なものを忘れてきたんじゃないか?』と思った。それで一旦レコード作るのを止めたんだ」。 今、答えは見つかった。「作り手は、良いドラマーやギターリストに先に目が行くけどリスナーはそうじゃない。大事なのは直球。わかりやすいロックをしたいね、直球で行きたい」 60歳を迎える9月には、20年ぶりに東京ドームで公演。そしてその後は2ヶ月に及ぶツアーが待っている。今後の目標を問うと、「12月に(ライブを終えて)ものすごく気分良くクリスマスを迎えること」と、遠くを眺めながらもはっきりと答えた。 大学は社会に出るための予行練習 高校卒業後、ロック歌手を目指してすぐ社会に飛び込んだ矢沢。「大学は社会人になるための予行練習。社会と大学は全く別の顔をしていると言っても過言ではない」と言い、こう学生にメッセージを残した。「大学4年間、大いに謳歌してもらいたい。でも卒業後、社会とのギャップを後で感じないように覚悟決めて、ふんどし締めて4年間ばっちりやりなさい」 近寄りがたい印象があった「矢沢永吉」だが、今回の取材でそれは一掃された。大物ロックスターにも関わらず学生相手に終始、対等に話をしてくれ、また体全体で感情を表現しながら質問に答える姿からは、誰よりもまっすぐで熱い心を持った人なのだと感じられた。 還暦を迎えようとしても、ビートルズに出会った時の感動を今なお持ち続けている男のパワーは衰えることを知らない。 学生新聞2009年7月号より

松任谷由実 目の前のことを一生懸命にクリアしていく。 若い時に培った姿...
<プロフィール> 松任谷由実 (まつとうやゆみ) 東京都生まれ。1972年、多摩美術大学在学中、シングル 「返事はいらない」で旧姓荒井由実としてデビュー。1976年、松任谷正隆と結婚し、松任谷由実に。 代表作に「卒業写真」 「Hello,my friend」 「春よ、 来い」 他多数。 2007年、シリーズ最終章であり最高傑作となる 「SHANGRILA I」(全国6大都市 38 公演 30万人動員) を開催。 「SHANGRILA」史上最高と賞賛された。 「ユーミンって呼んでね」という一言で、和やかなムードから始まった取材。マリンルックが可愛らしくて、パワーと表現力の豊かさを肌で感じさせてくれる。常に第一線で輝き続ける彼女の秘訣とは。 どういうルートを通っても”表現”ということでは一緒 14歳でプロとして活動を開始、7歳の時にシングル『返事はいらない』で旧姓·荒井由実としてデビュー。一方で、 当時は多摩美術大学で日本画を専攻する大学1年生だった。 「絵か音楽の道に進むだろう」。幼い頃から、そう思っていた。普通にOLになって、結婚して、主婦になって…ということが、子どもの頃から全く想像できなかったんです」。 中学生になり洋楽に本格的に目覚めると、イギリスのロックバンドであるブロコル ハルムの影響を受け「自分で曲を作ってみたい」と強く思った。当時のイギリスのロックバンドは、驚くほどアートスクール出身の人が多い。「絵の学校へ行って音楽やるのってカッコイイ!」と感じた。だが、両親は音楽をやることに反対。「クラシックをやって音大に行くのならいいけれど、訳のわからない音楽はダメだと。ただ、絵だったら、家が染色業を営んでいたこともあり、日本画での進学は許されたんです」 学業と仕事の両立は大変だった。「週に1度は、作品の公表会というのがあって、月に1度は、教授も来られての教授会というものもありました。なかなか提出できないことも多かったのですが、友達の力を借りてなんとか単位を取る事はできました。先生から見たら、自分で書いてないことはバレバレでしょうけど (笑)」。ただ、この時に教授だった日本画家の加山又造先生の言葉が、後々 “表現者”である彼女の力になっている。 「当時から巨匠であった加山先生でしたが、さすが言うことが一違うなと感じました。『荒井さんはレコードを出したみたいだけど、それも”表現”だから。次の公表会では、そのレコードを持ってきなさい』と言ってくれたんです。自分の中で、どういうルートを通っても”表現”ということでは一緒なんだと感じました」 変化した自分が、また新しいモノに出会うことで、新しい境地に行ける作品を作る際は、”意識”して書くことと “無意識”で書くこと、どちらも平行している。「ただの街歩きもすごく好きです心の中に入っているものを引き出して、目にしたものを組み合わせて形にしています」と、ユーミンらしい “表現”で答えてくれる。「なるべく言葉に置き換えようとしています。そうすると自分でも覚えておけるから」。きれいな夕日を見たら誰かと共有したい、そうするともっと美しく感じる。「そんな気持ちが一番の“書きたいというモチべーション”に繋がっているんじゃないかな」。 常に変化を求めて作品を作り続ける。「未だにしょっちゅう納得するんです。言葉とも限らず人物とも限らず、本や映画……接するもの全てがちょっとずつ自分に変化を与えてくれています。そんな変化した自分が、また新しいモノに出会うことで、新しい境地に行くことができるんです」。 その都度”抜けた”から。このエネルギーで走り続けてきた そんな彼女の、輝き続ける秘訣とは。「今まで色んな局面がありました。訳のわからないうちに売れてブームになって、そのまま20代ですぐに結婚。必死になって曲を作ってツアーをやってという時期と、少しだけ見晴らしがよくなって、冒険してみた時期もあります。まだ誰もチャレンジしていない演出にも作品にも常に挑戦してきました」。 ありとあらゆる作品を世に出してきた。もうこれ以上のことをしなくても、誰からも文句は言われない。「ただ、作らないと腐っちゃう。 生きてはいけない人間なんです」と言う。「ここまでやってこられたのは、その都度 “抜けた”から。この“抜けた”エネルギーで走り続けてきた。毎回ハードルを倒していたら、走れなかったかもしれない。今回のアルバムでは、特に抜け感。を感じられたんです。これが一つの転機になり、これからもっとやっていけるな、そう自信になりました」。音楽、そして学生時代を通して、わかったことがある「部活でも、単位を取ることでも、目の前にあることを一生懸命クリアすることじゃないかな。その時は、将来の自分と違うところにいるように思うかもしれない。でも、そうすることで価値観は変わっても、若い時に培った姿勢は変わらないもの。社会や今の自分がどんな位置にいようと、何事も前傾姿勢を保って取り組むことが大切だと思います」。 学生新聞2009年4月号より

HIRO 日々のやりたいこと・想いの詰まった1年… それが PERFECT YEAR
<プロフィール> HIRO (ひろ) 1969年6月1日生まれのAB型。1990年ZOOとしてシングル「ケアレス・ダンス」でデビュー。 1996年ZOO解散後、1997年「J Soul Brothers」を結成。2001年夏、「J Soul Brothers」から「EXILE」と改名する。 2001年9月27日「Your eyes only〜曖昧な僕の輪郭〜」でデビュー。 EXILEのパフォーマーでありリーダーとしてグループを引っ張る傍ら、所属事務所LDHの社長としても活躍。 今年はEXILE PERFECT YEAR 2008と題し、ベストアルバム3枚リリースなどの企画を盛り込んだEXILE色満載の1年となっている。 7月23日にはベストアルバムの2枚目にあたる「EXILE ENTERTAINMENT BEST」が発売。 パフォーマー、リーダー、そして社長である自分。 EXILEのパフォーマーリーダーであり、事務所社長でもあるHIROさん。同時に複数の役割をこなす上で難しい事はありますか? 「自分たちの好きなことを突き詰めてく中で今に至っているので、いろんな人に出会っていろんな事を経験して、スタッフも僕も一緒に成長してきた感じですね。辛さの乗り越え方もわかるので。辛いというよりそれをエネルギーに変えて前に進んでいっている感じです。だからパフォーマー、リーダー、社長という分け方はあまりしていません。 PERFECT YEARと題し、ベストアルバム3枚リリース・劇団EXILE・アニメエグザムライ・月刊EXILE創刊・そして5大ドームツアーと盛り上がっていますが、これらの企画のきっかけは何ですか? 「常にEXILEの事を考えていく日々の中で、エンターテインメントの幅を更に広げて、新たな可能性にも挑戦していきたかったからです。また多くの人達に数々のエンターテインメントを通じて、一年中楽しんでもらいたい。PERFECT YEARにはそんな思いがいっぱい詰まっています」 その他の内容に関してはどうですか? 「どのコンテンツもその分野のプロフェッショナルとの出会いがありました。各分野のプロと一緒になってEXILEプランドを輝かせていこうと。多くの偶然の出会いがありましたが、常にアンテナは張っていて、人とのコミュニケーションを大事にしているので、必然といえば必然でもある出会いでした」 今のところ、 PERFECT YEARはPERFECTに進んでいますね。 「僕らの目指している事は順調にできていると思います。みなさんに喜んでもらってこそPERFECT YEARなので、今のEXILEは想像以上にファンのみなさんに喜んでもらえてすごく嬉しいです。もっと楽しく喜んでもらえるように、EXILEをさらに加速させていって盛り上げたいです」 今年7月23日発売の2枚目のベスト「EXILE ENTERTAINMENT BEST」の内容は? 「アニメの『エグザムライ』の本編もあったり、また第一章の楽曲をATSUSHIとTAKAHIROで歌い直してアレンジも新しくしたり、新曲を様々な企画で作品にしたりと、本当にネタがいっぱい詰まっているベストアルバムなので、聴いても見ても幅の広がったEXILEを、世代を超えて楽しんでもらえると思います」 未来の自分、そして学生へ。 これから挑戦してみたい分野はありますか? 「分野というより、これからも今までのぶれない自分で、より多くの人に元気になってもらえるような影響力のある存在でいたいです。僕らもみんなから元気や自信をもらっているので、まだまだインパクトを求めて世の中の人を良い意味で驚かせていきたいと思います」 最後に学生に向けてメッセージをお願いします。 「まぁ偉そうに言えないんですけどね(笑)。今自分がこうしているのは多くの出会いのおかげなので、一つ一つの出会いを大切に一日一日を一生懸命生きていけば、きっと素敵な人生になれるかなと。日々を大切に、これからも人に思いやりを持って頑張っていってください」 学生新聞2008年8月号より

藤井フミヤ 自分の作っている音楽は、 10年前に出しても後に出しても変わ...
<プロフィール> アーティスト 藤井フミヤ (ふじいふみや) 1962年7月11日、福岡県生まれ。 1983年、「チェッカーズ」にてデビュー。1993年、1stソロシングル「TRUELOVE」が200万枚を超えるセールスを記録。容楽だけでなく、アートなど多方面に活躍の場を広げ、2005年の「愛.地球博」(愛知万博)では、名古屋市バビリオンの総合プロデューサーとして世界最大の万葉鍵「大地の塔」をプロデュースした。2008年、デビュー25周年という大きな節目を迎えるにあたり、弟·尚芝との兄弟ユニット「EBLOODを約10年ぶりに本格再始動、2枚目となるオリジナルアルバム『Ants』を1月23日リリース。5月下旬には、 待望のアニバサリーベスト盤が発売予定。 デビューのきっかけと幅広い活動にかける思い まずは、音楽を始めたきっかけや、デビューまでの経緯を教えてください。 「当時、矢沢永吉さんが組んでいたキャロルというバンドがあったのですが、その音楽を聴いて、自分もやってみたいと思い、中学1年生のときに初めてバンドを組みました。当時は、エレキギターを持っている人は学年に2、3人くらいで、持っているだけで、不良だというイメージがありました。『チェッカーズ」というバンドでアマチュアバンドの大会で優勝して、デビューをしたのですが、自分でも想定外のスーパーアイドルになってしまいました。当時から、「頂点に上りたい」といった野望はありませんでした。東京に出るのも、大学に進学する形で出てきたかったのですが、若干不良だったこともあって、周りも勉強していなかったから、自分もしなくなって、地元で就職しました。 でも、当時の彼女が上 京して、自分も東京に遊びに行くようになり、町を見て、とにかく東京に住みたいと思いましたね。今では、東京も福岡も大阪もそれほど違わないのですが、物流とか情報が昔は全然違いました。そういうこともあって、東京に行きたいと思いましたね。それに、東京に出るきっかけが欲しかった。音楽1本に絞る気もなかったのですが、デビューさせてくれると いうことだったので、東京に行ってしまおうと思いました。今思うと、若さゆえのパワーですね。デビューしてからは、あまりの人気のすごさに途中で道を変えよう思わなかったです」 ディズニーのヘラクレスやドラマ、CMなど音楽の中だけでも幅広く楽曲を提供されているだけでなく、自身も声優や役者として、また個展を展開されていたりと、活躍されていますね。 「基本的に何でもやります。 今、やりたいと思っていることは、本を書くこと。小説を書きたいです。映画はあまり見ないのですが、本は普段からよく読みます。本は映画のように、 まとまった時間を空けなくていいし、かばんに入るし、場所を決めなくても、どこでも読めますしね」 その時々の時代背景や、自分のやりたい音楽によって、作る音楽や歌い方にも若干たりとも変化が現れていると思いますが、逆に音から変わらないものはありますか? 「自分の作っている音楽は、10年前に出しても10年後に出しても変わらないと思っています。音楽業界では、制作で使用するソフトやハードは変化していますが、出来上がる作品に関して大きな変化はなく、実は真新しいものってそんなにないんです」 音楽を作るときは、どうやって作られますか? 「作り方には、大きく分けて2タイプあります。 暇な時にお酒を飲みながらでも作る人と、「さあ、作るぞ!と集中して作る人と。 自分は後者のタイプで、タイムリミットがないと作れないです。「すべての作品はタイムリミットが作る」という風に感じていますどんな仕事もそうですよね。作品を作るのに、自分にとって一番いい理境はホテルです。 電話が鳴らないし途中で作業が停止することがないからです。作業が止まると思考も一旦止まるから、一人がよくて、まっさらな環境で、携帯も自分から掛けるとき以外は切っています」 藤井さんにとって、唄とはどのようなものですか? 「仕事ですね。家で歌うことは、鼻歌でさえないです。仕事以外でのどを使うことはないです」 もしミュージシャンじゃなかったら、何をしていると思いますか? 「ミュージシャンというものは、夢を形にしている職業だと思います。自分には、昔からサラリーマンになって会社に行っているというビジョンがありませんでした。でも、ミュージシャンになっていなかったら、元々クリエイター志望だったこともあって、デザイン事務 所に入って就職していたと思います。でも大学に行ってみたかったですね」 藤井フミヤさんから大学生へのアドバイス 10代後半から20代前半の学生にアドバイスをお願いします 「学生の本業ということもあるし、勉強をしてほしいですね。学生としてしっかり勉強していれば、社会ではその勉強が関係なくても何に対しても吸収力が良くなると感じます。本を 読んだり、文章を読んだり書いたりする事が苦ではないのでしょうね。物事を良く知っているし、知識欲があるように感じます。何になりたいかっていう、目的は早く定めるといいですよ。そのための勉強をしているから、もしその通りにならなくても良くて、違うことにずれても平気なんです。一つ夢を持ってそれを追求していけば、それに付随した何かになれます。ミュージシャンになれなくても、バックミュージシャンになれるかもしれないし、プロデューサーやレコード会社の人間になれるかもしれないですよね。自分が好きなものを思って、知識欲を持っていればいいんです。まさしく「好きこそものの上手なれ」ですね。何も考えたくないときは、パラエティー番組を見ています。文章を書いたり、作詞をするといった職業をしていると、雑誌や本を読んでいても、若干仕事が入っていますね。 常にアンテナが立っている状態です」 学生に向けてメッセージをお願いします。 「夢を持つこと。人間は常に二つの選択があります。 AとBを選んで進むと、また二つ選択肢が出てきます。ういった時に、道しるべが必要です。迷ったら、人に聞けばいいんです。聞いても、最後は自分で決めるのだけど、常に道しるべとなる夢が必要です。」 学生新聞2008年6月より

武藤敬司 ブラウン管の向こうの遠い世界に思えてならなかった。 でも、今...
<プロフィール> 武藤啓司(むとうけいし) 全日本プロ・レスリング株式会社 社長兼プロレスラー 1962年12月23日生。山梨県富士吉田市出身。身長188cm、体重110kg 武藤敬司さんがプロレスを始めようと思ったきっかけ プロレスを始めようと思ったきっかけを教えてください。 「学生時代柔道をやっていましたので、高校卒業後は仙台の東北柔道専門学校(現·仙台接骨院専門学校)へ進学しました。当時は、国体に出場するなど充実した日々を送っていました。専門学校を卒業後は、接骨医になるべく地元に戻って働いていたのですが、患者さんに病気のことを質問されても自信をもって答えることが出来なかったんです。このときばかりは、もっとしっかり勉強していればと後悔しました(笑)。 からブロレスは好きでしたが、プラウン管の向こうの遠い世界に思えてなりませんでした。しかし、今はその世界に立てていることに本当に幸せを感じています」 プロレスラーと金日本プロレス社長の思い 社長になった経緯、そしてリング上でのプロレスラー、経営者の仕事の違いは何かありますか? 「最初、新日本プロレス(以下新日本) に就職し、そこで20年間頑張ってきました。でもちょうど自分が一時戦線離脱する辺りになってから、 プロレス界がビジネス的に下降気味になりつつありました。そんな状況下、猪木さんが今で貧うPRIDEやK-1のような格闘技路線に新日本を変更していこうと考えていましたが、自分は賛成できませんでした。というのも、その路線でプロレスを統けるとなると、20代で自分がプロレス発祥の地、アメリカで修業したときに築きあげたキャリアが、全部つぶされるような気がしたんです混述の時代が続き、そうした中ジャイアント馬場さん率いる全日本プレス(以下全日本)が分裂した。せっかく、空きが出来たし自分の城を構えたいという野心も手伝って、全日本でお世話になることに決めたんです。そして、経営者になって実感したことは、プロレスの経営がとても大変だということです。プロレスラーとしては初年弱のキャリアがあるので、リング上では誰にも負けない、世界でも通用するという自信があります。しかしそれと経営はまったくの別問題。まず、社長就任直後は右も左も分からず、業績が急降下しました。それでも、修羅場を何度もくぐって淘汰されずに生き残ってきました。そういう思いが、現在につながっているのではないでしょうか。また、人心掌握という点でもかなり苦労しました。自分が全日本に移動する際には、新日本から数名のレスラーと、自分と同じ思いを持った社員が一緒に来てくれたのですが、その社員は今では一人も残っていません。同じ思いでも、考え方に若干の誤差があったんです。上に立って、人をまとめるという難しさも、社長になって思い知らされた事の一つですね」 プロレス大好き学生記者と武藤さんのプロレス談義 武藤さんの中で、プロレスとはどんな存在ですか? 「自分にとって、プロレスとはビジネスであり芸術だと考えています。全日本だけで見ても今年で36年目に突入しますが、他の企葉でここまで続くことは珍しいことです。それに、プロレスの持っている潜在能力、ネームバリューは他の格闘技とは比べものになら ない位、価値があると信じています。子供の悪ふざけだって、よく代名詞となるのはプロレス。世の中にプロレスが浸透しているという証ですね。本場アメリカのプロレス団体WWEのように、世界をマーケットに活躍してい るとてつもない会社もありますので、いずれ全日本プロレスも、そのようになったらいいなと考えています。」 長いキャリアの中で、一番思い出に残った試合は何ですか? 「昔のことは、受身を取り続けているうちに忘れてしまいました(笑)。実際のところは、自分の試合はすべて作品ですから優劣をつけたくないという思いがあります。強いて一つ挙げるならば、1995年10月9日、東京ドームで行われた高田延彦戦でしょう。あの試合が自分のネームバリューを上げてくれました。実は先日、巨人の原監督と食事をする機会があったのですが、原監督もその試合を見に来てくれていたと話してくれました。試合が行われた前日は原監督の選手の引退の日。そんな思い出の一つとして覚えてもらえて、とても光栄だなと思えた瞬間でした。」 学生に熱いメッセージ!! 今の学生に何か一言いただけますか? 「プロレスをやりたい学生は、ぜひ全日本の門を叩いて欲しいですね。現在、第一線で活躍しているレスラー、例えば棚橋選手·真壁選手(以上新日本プロレス)·HG選手(ハッスル)は皆学生ブロレス上がり。でも、プロレスというのは、体力よりもどれだけ好きなのかが重要。そういった熱い想いを持って、今後プロレス界を支える人間になってもらいたいです。そして、若いたちに、俺らの世代が老後を楽しく迎えられるように頑張ってもらいたいですね」 学生新聞2008年5月号より

長谷川 潤 狭い世界から視野を広げてくれた母に感謝!夢を持ち続ければ絶...
<プロフィール> 長谷川 潤(はせがわじゅん) 1986年6月5日生まれ。ニューハンプシャー州生まれ、2歳よりハワイ島へ。父親はアイルランド人とフランス人の血を引くアメリカ人で母親は日本人。14歳でスカウトされ、以後日本でモデルとしての活動を展開中。その日本人離れした容姿と明るいキャラクターから、 最近は雑誌だけではなくTVやCMなどに引っ張りだこ。現在、初のフォトエッセイとなる『kauluwehi』が絶賛発売中。 モデルの仕事をするきっかけは何ですか? 「私の場合はスカウトです。モデルのお仕事は幼い頃から憧れていたので、声をかけられたときは嬉しかったですね。でも、日本でのお仕事と知った時、その世界へ入る事に不安を感じていました。日本がとても遠い国に感じていたし、日本の文化も全然知らなかったから。でも、母に『ハワイにいたら狭い世界でしか活躍できない。もっと広い世界に身を置いて、 広い視野を身につけなさい』と言われて、この世界に入ろうと決意しました。今では新しい事を沢山学べて、成長していると実感できます。母にはとても感謝しています」 では、仕事中に心掛けている事はありますか? 「モデルの世界って皆にチヤホヤされて、自己中心になりがち。遅刻しても全然怒られない場合もあるし、失敗してもなんとなく許されてしまう。でも実際、社会に出たらそんなこと通用しませんよね。なので、この世界の甘さに溺れないように、 自分で自分に厳しくしています」 すごくマジメなんですね!逆にこの仕事で好きなところは? 「海外ロケで色んな国へ行って、現地の文化や言葉を覚えたりできるのはとても楽しいです。でも、季節に関係なく洋服を着る事は厳しいと思う時もあります。例えば、冬の寒い時期に海へ行って撮影しなきゃいけない時は、辛くて大変です」 日本に初めて来て驚いたことってありますか? 「一番驚いたのは、日本で好かれる『女性像』とハワイやアメリカで好かれる『女性像』がかなり違うこと。例えばアメリカでは『強くてセクシーな女性風』が主流だけど、日本では『かわいいフェミニンな女性風』のほうが求められるんですよ。だから最初の日本での撮影のとき、すごいクールでセクシー風のポージングをしたら、スタッフの人に『違う違う! もっとかわいい感じで!』と注意されちゃいました(笑)」 休日は何をしていますか? 「部屋でキャンドルに火をつけたり、ハワイをイメージした波の音の曲を聴いたりしてリラックス。音楽を聴きながらゆっくりお風呂に浸かります。音楽はジャンルを問わず、洋楽も邦楽も好き。演歌も好きで、美空ひばりさんの曲も聴いていて、周りの人から驚かれます。あとは友達と映画を観に行ったり、夜はClubへ行ったりして遊びますよ」 先日、初のフォトエッセイとなる『kauluwehi』を出版されたんですよね。いかがでしたか? 「普段の仕事では、服をいかにかっこよく見せられるかということに意識を集中させていますが、このフォトエッセイでは生まれ育ったハワイで『自分のありのまま』を表現しなくてはいけなかったので、はじめはとても、恥ずかしかったです。でも、『大好きなハワイの良さをみんなに伝えられれば』という思いで頑張ることができました。そして、とてもいい本が出来上がったと思っています」 最後に学生へメッセージをください! 「私も大学にいきたいですね~! キャンパスライフとかうらやましいです。忘れないでほしいことは、夢を持ち続けること。映画『“Pursue the Happiness” (幸せのちから)』みたいに、どんな状況になっても夢を持っていれば、絶対いい方向に進むはず。すべてに意味があると信じて、いろいろなことに挑戦して下さいね!」 forGirls 2008年4月号より

麻生太郎 我々日本人が考えるよりも、世界における日本の評価は高いんです。
<プロフィール> 麻生太郎(あそうたろう) 昭和15年9月20日生まれ 昭和53年 1月 社団法人日本青年会議所会頭就任(53年12月) 昭和54年 10月 衆議院議員に当選、以降当選9回 平成13年 4月 自由民主党政務調査会長就任 平成15年 9月 総務大臣(~17年10月) 平成17年 10月 外務大臣(~19年8月) 平成19年 8月 自由民主党 幹事長(~19年9月) 政治家を志したきっかけは 「血筋」と『生まれ故郷の復興」 政治家を志したきっかけは何ですか? 「志したきっかけは2点ありました。1点目は「血筋」のようなものです。大久保利通、牧野伸顕、吉田茂などと血が繋がっていて、政治家の家系で育った影響は強いかもしれません。私は5代目くらいだと思います。ですから何となくですが、「血筋」のようなものは感じていました。2点目には、生まれ故郷の影響ですね。私は福岡県飯塚市で生まれ育ったんですが、この街は石炭で栄えていました。しかし、石炭がなくなった後の疲弊が激しく、政治力に頼らなければこの地域が復興することはできないと感じました。そして翌年に議院議員に立候補し、当選いたしました」 ※日本青年会議所…国際青年会議所(JCI)に加盟する日本にある国際団体としての社団法人 日本人が考える日本の評価よりも海外の評価の方がはるかに高い 外務大臣を経験された観点から、海外から「日本」はどのように見られているとお考えでしょう。 「圧倒的に評価が高いといえるでしょうね。イギリス国営放送で行われた調査(30カ国28000人を対象)で、世界に良い影響を与えている国として一昨年、一昨々年と2年連続で1位に挙げられたのは日本でした。そのくらい日本の評価は高いということです。海外における日本の評価のほうが、日本人が考える日本の評師よりもはるかにに高いのが現状でしょうね。私は学生のときからアフリカやブラジルをはじめ様々なところへ行っておりますが、その頃(40年ほど前)と今の日本の評価はまったく違い、圧倒的に今のほうが評価は高いですよ」 日本は「働く』という形で国際貫献すべき 今後、世界の中での日本の役割はどのようになっていくのでしょうか。 「日本の優れているところは働くということ。最低限の軍事力は日本にも必要ですが、 日本人はもっと自国最大の文化「働く』ということのすばらしさを、世界に発信していくべきでしょう」 具体的にどのような形で世界と関わっていくのが良いのでしょう。 「中近東では、1948年にイスラエルが建国されて以来、今日まで、テロの類の話は「イスラム教徒だから」とか『キリスト教が…」などと、よく話をしていますが、私は間違っていると思い『宗教がテロの温床になる」という意見に対する反論の例として「チリ」が挙げられます。そこではユダヤ教とイスラム教がキリスト教国の中にあって、まったくうまくいっている。チリの人ならよく知っている。そういう話があるから宗教がすべての原因というのは嘘。私は、現実間題としてテロの番の間題は「貧困」と「絶望」だと考え求す。言い換えれば「希望がない」ことこれがテロに走る一番の理由だと言えるでしょう。従って、パレ スチナで基本的にはそこにいる人たちに「希望」と「所得』を与えるためにはバレスチナの経済発展が必要だと考えています。そこで何をするかというと、農業が最も適していると思う。 イスラエルも建国当初は「キブツ」と呼ばれる大農業共同体をつくり成功しました。それと同じものをパレスチナやればいのではないかと思います。気候、風土はイスラエルと同じなのだからできないこととはない。そこで我々日本が登場し、農薬技術を教える。そこにかかる経費も日本が出す。できたものは、日本が商社を通じて売ります。なんの問題もないですね」 なるほど、そういう貫献の仕方は、我々日本人だからこそできることですよね 「そうそう。パレスチナの方々には「日本人と同じように働いてください」と 言いました。そしてそこに、イスラエルは静かに見守っていてもらいたいと思っていま す。逆にヨルダンにはぜひ協力していただきたい。「バレスチナでできたものはイスラエル経由ではなく、ヨルダン経由で世界に輸出したい」とパレスチナの人は思うでしょう。パレスチナの作物が川を越えて出るときには、輸出の安全を保障してほしいと思います。実はそれだけはやってほしいという話を、一年半かけてイスラエルに対して交渉しました。 最後にシモン·ペレスというユダヤ人のイスラエル大統領が『信用してみるか」といって、日本に3月に来て、8月には、農業団地を建設するジェリコに再度、4者の代表が集まりました。一番驚いたのは、シモン·ペレスが「私はこれまで50年間の政治生活で、数え切れないほど多くイスラエル·パレスチナ· ヨルダンの三国の会席に参加してきたが、少なくとも金儲けのために座るのは初めてだ」といったんです。これまでそんな話し合いはなかったのでしょうが、それが今回初めて立ち上がって「信用してみよう」と手を差し出した。続いてパレスチナの外交交渉局長(外務大臣のようなもの)も手を出して、ヨルダンと4人で握手を交わしたんです。もし仮にその穀倉地帯ができたら…と、イスラエルとパレスチナが演説していたんです。「もし平和を達成できたら、これほど豊かな国になれるということを最初に証明する機会を与えてくれたのは日本だ。これに応える義務と責任が我々にはある」と。この計画が成功したら、日本がこの種の紛争を、政治と軍事でなく、経済で解決するという形で国際協力に貢献できたこいえるでしょうね」 学生新聞2008年4月号より

東国原 英夫 人の目が政治を育てていく若者が夢を持てる自治体を作ってい...
<プロフィール> 東国原 英夫 (ひがしこくばるひでお) 宮崎県知事。1957年宮崎県都城市生まれ。 1980年専修大学卒業後、 CX「笑っている場合ですよ!お笑い君こそスターだ!」でチャンピオンになる。1998年から1年間、自主謹慎。謹慎中、自己猛省と自己の価値観を変革すべく猛勉強 2000年4月に早稲田大学第二文学部に入学、卒業と同時に再度同大学政治経済学部に入学。2006年に同大学同学部を退学後、翌年第17回宮崎県知事定挙に当選。新刊「ニッポンを繋盛させる方法」(東国原英夫、島田紳助共着)が発売中。 小さい頃からの夢=お笑い芸人と政治家 先月23日、第52代宮崎県知事に就任してから1周年を迎えた東国原英夫·宮崎県知事。小さい頃からお笑い芸人と政治家に憧れていたという氏は、お笑い芸人として活躍していた1 998年、謹慎の際に仕事をしてはいけなくなり、その豊富な時間の中で様々な事を考えたという。30代くらいから心の中で沸々としたものはあった。しかし謹慎をきっかけに、宮崎のために力を尽くそうと決意し、大学に入り直し、猛勉強。そして見事県知事当選を果たした。小さい頃からの夢を両方叶えたのである。 「次の夢」へのステップとしての大学生活 専修大学時代は、意外にも「学校には数えるほどしか行っていない(笑)」のだという。社会勉強の為にアルバイトをしたり、仲間と遊んで過ごす事に時間を割いていたのだ。「僕にとって大学はどこでも良かった。高校から大学に上がるとき、もう芸人になることを目標にしていたんです。つまり東京に行くことが次の夢へのステップでした」 氏が早稲田大学在学中に若い大学生達を見て感じたのは、もちろん全員ではないが、規範意識が欠けているのではないかという事。「早稲田大学に限らず他の大学でもそうなのでしょうが、席の後ろの方でメールを打ったり、寝たり、パンを食べていたりするでしょう? 40歳過ぎて大学入ったもんだから隣でメールを打っている人がいると注意したくなるんですよ。 こんな事もありました。メールを打っている隣の学生に注意して、携帯電話を見たら「隣にそのまんま東がいる」って送っていたんですね。で、「何でそんなこと送るんだ?』と言っていたら相手から返事が返ってきて、『それがどうした」って(笑)」しかし学生達の良い部分は、「若者は若者なりに夢と希望を持っている」と心強く感じた事だとも話す。文化や芸術、学業に精力的に励み、それぞれの進路に向かって力を尽くしている。そういう人達を見ていて感じたのだという。「若い学生たちは、まだこの日本という国を見捨ててはいない。特に地方から出て来て何かを得ようと頑張っている人が頼もしく思えますね。しかし中には早稲田ブランドを得る為だけに来た人もいたように感じました。でも、その人達とは社会に出てから差がつくのでしょう。だから行政に入った我々の役目というのは、子ども達や若者が夢や希望を持てるような国や県、自治体を作っていく事だと強く思います」 政治をお茶の間に 宮崎県知事として、今後「宮崎出身で良かったと思えるような自治体を作っていきたい」と抱負を語る東国原氏。実際には、民間を介入させて事務事業を一つ一つ見直していくという、とても地道な作業を進めているという。これは全国初の試みである。「議会という公の目だけでなく、民間の目も大いに必要だと思うんです。テレビばかりに出て、と批判も受けるのですが、こっちの方が目につかないながらも主力の仕事なんです。宮崎県民のみなさんの幸せの追求に寄与出来るよう、頑張っていきたい」と語ってくれた。そして逆に県民に期持しているのは、一人一人の政治参画だとも話す。氏がテレビに出ることには色々な意味があり、知事がやっている事を県民に見てもらい、「政治をお茶の間に落とす」事が重要なのだという。「県議会や知事は何をやっているのか、子どもから大人まで知って頂きたい。そのようにして、人の目が政治を育てていくと思うのです。だから私はきれいな事だけでなく、 全てをオープンにして見せています。そしたら不正もなくなるはずです」 最後に学生に向けて、力強いメッセージを頂いた。 「みなさんは日本を将来に渡って支えて頂かなくてはならない人的財産です。夢や希望、目的、ビジョンを確固たるものにし、自分を信じて自己実現に向けて頑張ってください」 学生新聞2008年3月号より

優香 普段の自分とは違う、『いろんな優香』を演じられるのがこの仕事の魅...
<プロフィール> 優香 (ゆうか) 1980年生まれ。1997年一般公募・インターネットにより芸名を募集し、現在の「優香」に決定。 その明るい笑顔と柔らかな雰囲気で元祖「癒し系」の代名詞となる。 バラエティの司会やコント、そしてドラマや映画など幅広い分野で活躍中。 現在は、『王様のブランチ』(TBS系)や『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』(テレビ朝日系)などレギュラー番組を多数抱えている。 祝・デビュー10周年!タレントとして、女性としてひとつの節目を迎える彼女に、この10年間の自分の変化や、芸能界で働く姿勢を語ってもらった。 デビュー当時は『仕事』というよりは『バイト』感覚でした 昨年デビュー10周年を迎えたそうですが、この10年間はどうでしたか? 「17歳から芸能界に入って、あっという間の10年間でしま!しかもはじめたころはまだ高校生だったんで、『仕事』というよりはむしら『バイト』感覚が強かったです。」 え、バイト‥‥‥ですか? 「うん(笑)。だって周りの子もバイトしていたし、あんまり『仕事』っていう意識はなかったですね。それにはじめたころは『10年間くらいやったら(芸能界は)辞めるかな』って思ってたくらいですから」 そうなんですか⁉︎デビュー時から考えて10年後というとちょうど今ですが。 「高校生のときはとにかく学業優先で、目標は『芸能界で活躍すること』というよりは『卒業』だったんで。それで高校を卒業してみて、さてどうしてようかなって考えたときに、『私には芸能界しかない!』ってこの道に進んだんですよ」 これまでの10年間、芸能界で「嫌な人」には一人も会ってません 高校卒業後、本格的に芸能界に入ってみてどうでしたか? 「う〜ん、思っていたよりも意外と普通でした!入る前はもっとキラキラしていて華やかな場所だと思っていましたから。あとイジメとかの心配もしていたんですけど、すごく周囲の人に普通に受け入れてもらえたのでびっくりしました。本当に優しい人ばっかりで、今のところ嫌な人には出会っていないですね」 そうなんですね!芸能界はもっと厳しいイメージがありましたが。 「厳しいのは確かです。ちょっとでも目立たなかったり露出がなくなるとすぐ忘れられてっちゃうと思うし。あと、やっぱり万人に好かれるっていうことはなくって、どうしても誰かには『嫌い』って言われちゃう」 やっぱり有名な人ほど、全く知らない人から悪口を言われることもあるんでしょうね。 「昔はそういうことをすごく気にしていて、自分に起こったこととか反省的とかをすべて受け入れては暗くなっていたんだけど、今は開き直るようにしています。それでもやっぱり時々まだ気にしちゃうこともあるけど、でも『どっちでもいい』って思われるよりはいいかなって思ってますね」 でも本当は常に笑顔を絶やさない優香さんですが、その明るさの秘訣は何ですか? 「う〜ん。元気がなくなったり気分が暗くなったときには、人と会うようにしています。それに自分の近くに自分を『好き』って言ってくれる友達やスタッフの方がたくさんいるから、嫌なことがあったらいつでも慰めてもらったり、いっぱい元気をもらっています。あとはいっぱい笑うことです!」 今自分のなかで面白いのは……コントかな? この10年間バラエティやドラマなどさまざまな分野で大活躍ですが、一番ご自身がお好きな分野はどれですか? 「私は飽きっぽいのか、何をやっても満足しない性格なんです。だからどの分野をやっても、すぐ違うことに興味が出ちゃうんですよね。でも、強いていえば……コントですかね」 それは意外ですね! 「やっぱりほかの現場と違って、ほかの人の反応がすぐ見れるから好きなんですよ。あとはその場で自分のやったことに対して笑ってくれる人がいるっていうのはいいですよ」 じゃあ今年はコントでの優香さんの活躍が期待できるということですね……。 「えーー。でもやっぱり飽きっぽいので、コントだけやっていたらそれはそれで違うこともやりたくなるんじゃないかな。でも次に何をやりたいかとかは、現在考え中です。私あんまり欲がないのか、仕事とかで『コレしたい』『アレしたい』っていうのが特にないんですよ〜。のんびりしてるんでしょうね」 仕事の現場は自分にとって「好きな人に会える場所」 この10年間で仕事に対する意識は変わりましたか? 「もちろん今はさすがにデビュー当時のバイト感覚はなくなりましたよ(笑)でも、正直あんまり『仕事』っていう感覚は今もないですね。現場にいる『自分が仲よくって好きな人たちに会いに行く』っていう感覚のほうが強いかも……。あとは、これは仕事に関することだけじゃないですけど、ほかの人の意見も受け入れられなかったんだけど、最近は何か言われても『あぁ、そういうことなんだ』って納得できるようになりました」 では、今の優香さんにとって、芸能界で働くことの一番の魅力は何ですか? 「普通の自分とは違う、『いろんな優香』を演じられることかな。もちろん、その優香も全部自分なんだけど、ちょっとずつ違う自分を表現できるのがすごく楽しいです!」 逆に辛い点は? 「う~ん、辛いことじゃないかもしれないけど、テレビをリラックスして観られなくなったことです(笑)。特に、バラエティ番組!バラエティ番組って出演している側からすると、実はすごく難しいんですよ。コメントのタイミングだったり。トークのネタだったり。いつも上手な切り返しをする芸人さんとかを見ていると、『なんであんなに頭の回転が早いんだろう!』ってびっくりするくらい。だからバラエティ番組を見ているときには、自分が出演するときのための練習じゃないんだけど『自分がここでコメントをふられたらどうするか』とか『自分だったらなんて回答するか』とかそんなことばっかり考えていますね」 それは落ち着けないですね(笑)。有名人の方だと外に出ると目立っちゃうので、休日でも家で過ごすことが多そうなイメージがあるんですが、休日は何をしてるんですか? 「え~~!意外とあまり気にしないで、行きたいところに行ってますよ!エステに行ったりマッサージも大好きだし。あと、最近はホットヨガも始めたんで、週に1回くらいは行くようにしてますよ~。あと家ではDVDを観たり、犬と遊んだり……」 意外の連続ですね……。それでは最後に、学生たちに一言お願いします! 「私は大学生ってやったことないから、キャンパスライフとかサークルとかってすごく憧れでしたね~。とにかく学生さんは自由な時間が多いうちに、精一杯遊んでいろいろチャレンジしてほしいですね!あ、でも就職活動のときはちゃんと遊びをリセットしてがんばってください(笑)!」 forGirls 2008年1月号より

北原照久 好きなことを仕事にしようと思うなら、人の3~4倍はやれ!
<プロフィール> 北原照久(きたはらてるひさ) 株式会社トーイズ 代表取締役。1948年東京都生まれ。 青山学院大学を卒業。世界的なおもちゃコレクターの第一人者。 37歳で横浜山手に「ブリキのおもちゃ博物館」を開館。現在、全国7ヶ所でコレクションを常設展示している。 「開運!なんでも鑑定団」 (テレビ東京系)に鑑定士として出演するほか、CM、 全国各地での講演会、トークショー等でも活躍中。 「横浜ゴールドラッシュ」、 「夢の実現 ツキの10カ条」、 「夢はかなうきっとかなう」など著作も50冊以上出版している。 2007年にはベストジーニスト賞も受賞。 おもちゃ箱のような博物館 「おもちゃ箱に迷い込んだような感覚」とでもいうのだろうか。10畳ほどの小さな空間に、全国各地から集められたおもちゃ約3000点がぎっしりと所せましと並んでいる。「ブリキのおもちゃ博物館」は、瀟酒な洋館が建ち並ぶ、横浜は山手の一角に静かに佇んでいる。オープンが1986年というから、ちょうど今の大学生たちと同年代だ。館長はブリキのおもちゃコレクションの第一人者として、世界的にその名を知られている北原照久氏。 コレクター人生のきっかけ 高校時代に勉学に目覚め、勉学への期待に胸をふくらませ青山学院大学に入学したものの、当時は学園紛争の真っ只中。勉強をしたくても授業がない日々に憤った彼は、父親の後押しもありオーストリアヘスキー留学を決意。そこでホームステイ先の一家の生活に触れ、カルチャーショックを受けたという。「なんていうか。‘生活感’がないんだよね。リビングに花瓶や家族の写真が並べてあったりひいおばあちゃんの代から大事に使っているような古い銅の鍋が、置物みたいに壁に飾ってあったり。しかも料理はそれで作ってくれるんだよ。そういう生活を見たら、“僕も将来は自分の好きなものにばっかり囲まれた生活がしたい。って思うようになったんだよね」 ホームステイ先の人々の「物を大切にする生活」に感銘を受けたという北原氏。20歳で帰国した彼は、粗大ごみ置き場に捨てられていたゼンマイの柱時計を拾う。持ち帰って油を注と、柱時計は再び時を刻み始めた。何を隠そう、この柱時計が記念すべきコレクション第1号。その日から真空管ラジオやキャラクターグッズなど、様々なものを集め始めたのがコレクター人生の始まりだった。そして25歳のときから、本格的なブリキのおもちゃ蒐集を開始。趣味で集め始めたおもちゃのコレクションは急増し、今や全国数か所に博物館を構えても入りきらないほとだ。 北原流·夢の実現法 「僕が昔持っていた夢は『おもちゃの博物館』を建てること。30代でその夢は叶えたね。夢ってね、口にすると叶うんだよ。僕が今まで口にしてきたことは全部実現している。フォードのサンダーバードや海沿いの別荘、それに憧れの人だった加山雄三さんにも会ったでしょ。まだ実現していないのは吉永小百合さんに会うことぐらいかな。17歳のときから言ってるんだよ、これ(笑)」 北原氏いわく、夢を叶えるコツは、「楽しそうに、情熱的に、かつより具体的に語ること」。そして「絶対諦めないこと」だとか。「自分の夢を真剣に100人に語ってみたら、99人には「何馬鹿なこと言ってるんだ」って言われるけど、そのうち1人くらいは『それいいね』って賛成して応援してくれる。その1人の人が、自分の夢を助けてくれるかもしれないでしょ? だから僕は1万人に話したの。1万人に話せば、味方は100人になるからね!」 そして、北原さんは「好きなことを仕事にしたいと思うなら、何事も人の2~3倍はやるべき」と続ける。「夢はすぐに叶うもんじゃないんだから。僕だって実現させるのに10年以上かかっているものだってある。でも僕は諦めないからだから夢を叶えてこれたんだよ」 まだまだ続く「夢」 写真撮影の際に「撮影用に一番思い入れのあるおもちゃを選んでください」とお願いすると、「思い入れは全部あるからなあー」と笑う。大切そうにショーケースに並べられたひとつひとつのおもちゃに、北原氏の愛情が注がれている。そして今も変わらず、人々の笑顔を生み出し続けている。おもちゃにとって、これほど幸せなことはない。そんな北原氏の今後の展望は、現在保有している何十万点にも及ぶと言われているおもちゃやポスターなどのコレクションを1箇所に集め、すべてを一覧することができるパビリオンを作ることだという。 「100年後、僕の集めたおもちゃは絶対に後世の人々にとって重要な文化遺産になると思うんだよね。だって、これまでこんなにたくさん集めている人は絶対にいないでしょ(笑)」 北原氏は取材が終わってからも、「コレいいでしょ!」と嬉しそうにコレクションのひとつひとつについて説明してくれた。今度出会うことがあれば、そのときは満面の笑みで吉永小百合さんとの写真を見せてくれるのだろう。もちろん、「コレいいでしょー!」と。 学生新聞2007年12月号より

秋元 康 若さとは、失敗しても戻ってくる力。 立ち止まっている時間はもっ...
<プロフィール> 秋元 康(あきもと やすし) 1956年生まれ。高校時代から放送作家として頭角を現し、数々の番組構成を手がける。 1983年以降、作詞家として美空ひばり『川の流れのように』をはじめ、中島美嘉『WILL』、 EXILE『EXIT』、KinKi Kids『SNOW! SNOW! SNOW!』ほかヒット曲多数。2005年4月、京都造形芸術大学教授就任。2007年4月、同大学副学長就任。また、京都造形芸術大学と 東北芸術工科大学が両大学に開設した『才能バンク』社会芸術総合研究所の所長を務める。 TV番組『おしゃれイズム』『うたばん』『とんねるずのみなさんのおかげでした』などの企画構成、ラジオ『秋元康のMature style』(TOKYO FM)のパーソナリティー、新聞・雑誌の連載など、多岐に渡り活躍中。企画・原作の映画に、『着信アリ』シリーズ、『伝染歌』など。 また、著書の小説『象の背中』は映画化され、10月27日より全国ロードショー。 「おもしろそう」を形に 作詞、テレビ番組の企画構成、映画の企画・原作、「AKB48」のプロデュース・・・高校2年生の時から放送作家の仕事を始め、様々な分野で感性を表現し活躍する秋元氏。大学時代はほとんど授業に出ず、行っても近くの喫茶店でずっと原稿を書いていたという。これまで数多くの作品を手がけてきたが、その際アイデア出しに苦労を感じたことはないという。考えてアイデアを出しているのではなく、「おもしろそう」と思った事を実際に形にしてきたからだ。「小さい頃から好奇心が旺盛でした。例えば、カレーライスがおいしい洋食屋さんでは、次に行ったときにカレーライスを頼むのではなく、ハヤシライスを食べるとか」。秋元氏にとって仕事とは、「働く」という意識で動くのではなく、「おもしろそう」を形にする、という事の繰り返しなのだ。 自分だけの感性とは 秋元氏は学生たちに「呼吸するように」生きてほしい、と語ってくれた。呼吸は意識的にも無意識的にもできる。だがそれを周りと比べたり、周りとの違いを意識したりすることはない。「自分だけの感性」とは、ひとりひとりが持つ呼吸のリズムのように、誰もが持つものなのだ。だからそれを周りと比べるのではなく、自分にピンと来た事やおもしろいと思うことをやる。そして、それに対する周りの批判に流される事なく自分の力を信じ、やり遂げる。「批判や失敗を恐れて立ち止まるのは、人生において一番無駄な事だと思います。僕の経験上、人間はどんなに頑張っても間違えてしまうことはあります。それなら、失敗してもいいからとりあえず動いてみる。すぐに行動に移せば、失敗してもその分早く方向修正が出来るんです」。自身も数限りない失敗を経験してきたという秋元氏のその言葉には、強い説得力がある。「若さとは、失敗してもやり直す力だ」とも教えてくれた。 全力で手を伸ばした1ミリ先に、夢がある そんな秋元氏は現在、京都造形芸術大学の副学長を務めている。「お話を頂いた時、スケジュール的にきついので最初はお断りしようと思ったんです。でも、今までの恩返しを何かの形でしたいとずっと思っていて。僕はたまたま放送作家というきっかけに出会えたけれど、誰もがそういうわけではない。若者の多くは、僕と同じような事をやりたいと思っていてもどこから糸口を掴んだらいいのかわからないと思うんです。だからそういう人たちに、少しでもチャンスを与えてあげられたらと考えています」。そう話す秋元氏は自身と学生との触れ合いの中で、学生たちに貪欲さが足りないと感じているという。「もっと必死に、『私はこうやりたいんだけど』とか、『俺はこう思うんだけどどうでしょう』とか、聞きに来ればいいのに。そういう貪欲さがたりないのはとてももったいないと思いますね」と指摘。 「全力で手を伸ばした1ミリ先に夢がある、と思って下さい。応援しています」と力強いメッセージをもらった。 ・社会芸術総合研究所(才能バンク) 京都造形芸術大学と東北芸術工科大学が両大学内に開設した組織。所長は秋元康氏。学生の中から才能を発掘しマネージメントを行い、作品の管理・プロモーション活動を行う。また、創造力に富む人材が集まる芸術大学の強みを活かしたシンクタンクとして、企業と連携し創造的な提案を行っていく。総合プロダクション会社が、芸術家の発掘マネージメンまで分野を広げる動きはこれまでにもあったが、芸術大学の中にプロダクション機関ができるのは今回が初めて。 学生新聞2007年10月号より

新垣結衣 お仕事をする時は、なるべく楽しめるようにしています。 そんな...
<プロフィール> 女優 新垣 結衣 (あらがきゆい) 身長 167cm 出身地 沖縄県 生年月日 1988年6月11日 趣味・特技 イラストを描くこと、カラオケ 女優というお仕事の魅力は、探している最中。 同年代の人より、早く社会へ出てお仕事をされていますが、お仕事に対して、どのような意識をお持ちですか? 「きっかけはもともと雑誌のモデルとして活動していたことです。お仕事をする時は、なるべく楽しめるようにしています。そんなに仕事だと意識した事はないですね。お芝居だけでなく、最近は音楽の活動もしていますが、お芝居はお芝居、音楽は音楽の意気込みというものはありません。その場の雰囲気とか、流れに合わせてやっています」 お仕事をしていく中で、大変な事や辛いことはありますか? 「体調管理です。この仕事は不規則な生活なので、体調管理に気をつけています。作品でいうと、「恋空」は悲しい気持ちのシーンが多いのですが、普段自分から悲しい気持ちになろうと思う人っていないじゃないですか。だから、悲しい気持ちのシーンは辛いですね」 女優というお仕事の魅力は何ですか? 「正直、よくわからないです(笑)自分でも探している最中です。楽しいところはひとりじゃなくて、相手がいて初めて成り立って、一緒に作品を作ること。 女優が一番自分にあっているかどうかは、よくわかりません」 美嘉は、新垣結衣本人 映画「恋空」の主人・·美嘉と自分が似ているところはありますか? 「周りの人に言われて気付いたんですが、美嘉と新垣結衣本人が似ているみたいです。テンションや言い回しが似ているんだと思います。他の役ではテンションが高い役があったりして難しかったのですが、今回は特に苦労せずすんなりできたから、やっぱり似てるんじゃないかなと思います」 美嘉を演じる上で、役作りはどのようにしましたか? 「役作りはいつもあえてしていません。基本的なプロフィールと台本のイメージはしますが、相手役の方の口調や現場の雰囲気で変わるので。美嘉は極めて普通の女の子だし、自分が体験するようなことはなかったけど、すごく似ているのかなと思いました。 台本を読み合わせて、あとは監督に「そのまま現場に来てください』と言われただけで、あえて特に役作りはしませんでした」 映画「恋空」の中で、お気に入りのシーンなどはありますか? 「ヒロと美嘉二人だけの結婚式のシーンです。ヒ口が初めて美嘉に見せた『弱い気持ち』を、いつも支えてもらってばかりいる美嘉が今度は支えてあげるというところで、ここは一段と深まるシーンです。あと、背景もきれいで、最後は温かい涙があるので好きなシーンの一つです」 今学んでいることは必ず役立つと思う。 今後、どのようなお仕事をしていきたいですか? 「最近は音楽活動もしていますが、以前から興味のあったことだったので、ラッキーだなと思います。世の中にはCDを出したくても出せない人がいるから、本当にラッキーだと思いました。他に、絵を描いたり、写真を撮るのもやってみたいです。洋服を着るのも好きなので、ずっとやっていたモデルの仕事は続けていきたいなと思っています。風景の一部になるような写真もやってみたいですね」 学生へのメッセージをお願いします。 「何か自分のやりたいことに向かっている人もいれば、探している最中の人もいると思うんです。今学んでいることは役に立つと思うので、ゆっくり頑張って下さい!」 forGirls 2007年10月号より

小池百合子 悩む、解決する、自信に繋がる。失敗してもいい。出来る事から...
<プロフィール> 小池百合子(こいけゆりこ) 衆議院議員。内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)。前環境大臣・内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)。 1952年兵庫県生まれ。関西学院大学中退後、エジプト国立カイロ大学に留学。1976年同大学を卒業後、フリーのジャーナリストとして活躍。「ワールドビジネスサテライト」(テレビ東京)の初代キャスターとしても知られる。1992年政界に身を投じ、現在まで参議院議員1期、衆議院議員5期連続当選。著書に「環境ビジネスウィメン」(日経BP社)、「永田町ブロードキャスター」(朝日新聞社)などがある。 国民投票法案が成立した歴史的な日に、東京・永田町の衆議院会館で取材を行った。エコバックを片手に颯爽と現れた小池百合子氏の姿は、「さすがは元環境大臣!」と思わせるものだった。 日本の「空気」を変える! ジャケットとネクタイを脱いで仕事をするビジネスマンを生み出し、すっかり定着させたクールビズ。小泉純一郎元総理大臣が「かりゆしウェア」で涼しげに登場した2005年6月1日を皮切りに、社会現象となった。「クールビズ」は2005年度の流行語大賞を受賞し、その動きは中国や南米チリにまで飛び火するなど、日本だけでなく海外にも大きな影響を与えている。何を隠そう、このクールビズの仕掛人こそが当時の環境大臣、小池百合子氏なのだ。 「ネクタイを外して下さい」「冷房は28℃にして下さい」と政府をあげて国民に呼び掛けた。しかし、「働く男はネクタイとジャケットを着用しなければいけない」という「空気」を変えられた事が、クールビズ成功の大きな要因だと小池氏は語る。 「女はこうあるべし」? 小池氏によると、日本の男女観にも同じ事が言えるという。例えば、独身女性への「まだ結婚しないの」という周囲からの見えないプレッシャー。男性が育児休業制度を活用しにくい職場の「空気」。女はこうあるべし、男はこうあるべしという「空気」が支配しているのだ。制度自体に満足するのではなく、そういった「空気」や意識こそ変えていかなければならない。「まだまだ日本は男社会ですよね。それは日本の基本的な構造、戦前からの男女の役割分担の結果なんです。でも女性は特別視される傾向が強く、女だから上手くいけば当たり前、失敗すれば『やっぱりな』と言われる。下手打つ例が多ければ出来ないレッテルをはられてしまう。それって悔しいじゃない?だから結果的に女性は男性の10倍位働かなければならないと思ってるんです」。 大切なのは知恵 また、自身のエジプトでの学生時代をこう振り返る。「日本の大学では出来ないような体験をたくさんしました。例えば、戦争。世界の火薬庫と言われている中東で、エジプトの人達は残念ながら『戦争慣れ』をしていた。ちょうど日本人が地震の時は机の下に避難する、といったようにね。食料が無くなったら大変になると気がついてスーパーに行ったら時すでに遅しで、長靴とタワシしか残っていないこともありました」。 パソコンとコピー機も無かった時代。今の学生と自身の学生時代の違いについてはどう感じるのだろうか。「当時は調べ物といえば本で探すか人に聞くしかない。相当な努力をしていたわけです。これなけ便利な情報化社会の時代だからこそ、物事の記号や単体で覚えるだけじゃなく、ストーリーとして体系的に理解していないと意味がない。わたしはそう思います。 それから、学校で学ぶ知識ってCDロムで言えば1枚位なんじゃないかしら。あと必要なのは知恵だと思います。それは学校では教えてくれないけれど、苦労を重ねて解決策を見出す事で、自分のノウハウになっていくんです。その為には自身で経験する、人を見て学ぶ。知恵についての試験はないけれど毎日が試験の繰り返しなんですよね」。 一歩ずつ進もう 「目標は高く、実行はこまめに!」小池氏がインタビューでも、著書『小池式 コンセプト・ノート』でも一貫して話す事だ。そんな小池氏から学生へメッセージをいただいた。 「悩んでいたって改善しない。だからどうしたら解決出来るか、自分なりの方法を見つけてクリアする。失敗したって良いからやってみる、一歩ずつ前に進んでみる。それが自信にも繋がるんです。私自身、自分の原動力にもなっています。そして学生時代を『二度と来ない貴重な時間』だと認識して行動すれば、とても良い時間の使い方ができると思いますよ」。 学生新聞2007年7月号より

酒井彩名 仕事は、生半可な気持ちでやってはいけないと思っています
<プロフィール> 酒井彩名 (さかいあやな) 1985年生まれ。女優。雑誌「Ray」(主婦の友社)レギュラーモデル。現在放送中の連続ドラマテレビ朝日系「女帝」(毎週金曜21時)北條奈役として出演。芸能活動の他に、ウエディングドレスAyanatureデザイン も手掛けている。 酒井彩名さんプログ『酒井彩名のAYANAVI」http://ayanavi.jp/blog/ 意地悪そうな人を密かに観察している。 7月13日から放映中のテレビ朝日系ドラマ『女帝』(毎週金曜2時)に、北僚梨奈役でレギュラー出演する酒井さん。「女帝」は、人気作家·倉科遼さんと、他の追従を許さない画力が定評の劇画家· 和気一作さんによる出世作。熊本で生まれた主人公の立花彩香が、大阪:ミナミや東京·銀座の高級クラブで女帝にのし上がるまでの波乱万丈の半生を描く。ヒロイン・彩香の相手役は若手ナンバーワン俳優の呼び声高い松田翔太。そして酒井さん演じるのは、北條梨奈。その役所は、絵にかいたような性悪女であるという。寛容で優しい取材とはかけ離れている。どうやって役作りをされたかを尋ると、「実際に意地悪そうな人を秘かに観察しています」とか。「そこまでするの!!」というぐらい意地悪さを強調しているけど、『負けじと這い上がっていく』という姿も見てほしい」。 キュートな顔で、ご自分とは正反対の役を演じる酒井さん。 話を聞くと、仕事に対してのプロ意識は極めて高い。 完壁主義者なのかも。 「仕事は、生半可な気持ちでやってはいけないと思っています」。 私たちと一歳しか違わないのに、仕事のお話をする眼差しは、真剣そのもの。大きな遅刻など今まで一回もしたことがなく、一つのことを始めたら、最後までとことん突き詰める。「きっと完壁主義なのかな。ちゃんとしなきゃ!といつも自分に言い聞かせているんですよ」。 その性格は、仕事以外の場面でも現れている。洗濯が好きで、洗濯後はきちっとたたまなければ気が済まない。 料理もそもそも好きであるそうだが、体調管理のことも考え、忙しい合間を縫って自炊を積極的に行っているという。そんな彼女も、やっぱり疲れてしまうことがあるそう。そんなときは時間をしっかりとって、最大限その時間を自分のために費やす。散歩に行ったり、お風呂にゆっくり入ったり、本を読んだり。「特に活字に触れる事が大好きなので、本はたくさん読んでいます。今はセラピーの本を多く読んでいますけど、『ハンバーガーのこわい話』(草思社)とかお勧めかな(笑)。」自分のお休みタイムでも、気の張らない徹底振りが見られる。 モデルを続けたい。エッセイも出してみたい。 「私の夢は、モデルをずっと続けること」。その理由を、彼女はこう語る。「モデルのお仕事は、たくさんの人に出会えて、自分も人も変わっていくことを毎日意識することができる。これほど魅力的な仕事はない」。その一方で、 彼女にはもう一つの夢があるという。「実は昔から日記を書きためているんです。日記を振り返ると、なかなか面白いエピソードがあったりするので、それを題材にして、エッセイにしてみたいな」。 一つのことをやると決めたらあきらめない酒井さん。モデルを続けることはもちろん、エッセイの出版も、着実に実現に結び付けていくことだろう。彼女のように自分らしさを大事にして、心に余裕を持った素敵な女性を、私達女子大生も目指したいものだ。 学生新聞2007年7月号より

Beyoncé ビヨンセ 『B’DAY』は今までで才能のアルバム自分への最高...
<プロフィール> ビヨンセ 1981年9月4日、 マシュー·ノウルズとティナの間に、長女として生まれる。7歳ごろのビヨンセはダンススクールに通い、聖歌隊員。 やがて名実ともに世界トップに君臨するスーパー·ガールズ·グループ「デスティニーズチャイルド」を結成。同グループのリード·ヴォーカルであり、プロデューサー。音楽的にもビジネス面でもイニシアデティヴをとっている。 「デスチャ」のアルバムは全世界トータルセールス5千万枚を記録。2003年のソロ·デビューアルバム 「デンジャラスリィ・イン・ラブ」は全世界で1100万枚以上のセールスをあげ、 グラミー賞でも女性アーティストとして最多5部門受賞。女優としても出演作が軒並みNO.1に。今年は主演作 「ドリームガールズ」が控えている(日本公開は2007年早春公開予定)。 今回の「仕事とワタシ」は9月3日(土)に開かれたサマンサタバサとソニーミュージックジャパンとの合同ビヨンセ来日記者発表会」に緊急参加!! Newアルバム 『B’DAY』の発売に伴って来日した、時代を制す史上最大のヒロイン”ビヨンセ”。全世界を制覇したスーパー·ガールズ·グループ”デスティニーズチャイルド”のリードシンガーでありプロデューサーでもある”ビヨンセ”が、NEWアルバム『B’DAY」』についてや、 サマンサタバサ&サマンサティアラの秋冬新作、 秋冬のファッショントレンドに関して、 盛りだくさんのトークを繰り広げてくれました! 久し振りに日本に来た感想はいかがですか 「飛行機の遅れにも関わらず、たくさんのファンが空港で待っていてくれました。 すばらしいファンの方たちへ、感謝の気持ちで一杯です」 NEWアルバムのタイトル「B’DAY」の意味は何ですか? 「アメリカのファンからニックネームで「B」と呼ばれています。さらに アメ リカでBIRTHDAYのことを『B’DAY』と呼ぶので、その2つの意味をかけて『B’DAY』と名づけました」 9月4日の誕生日に発売となった今回の『B’DAY』というアルバムは、ビヨンセにとってどのようなアルバムになりましたか? 「25歳という歳は女性にとって最もスペシャルですばらしい歳だと思います。また、このアルバムは今までで最高の出来となりました。 私自身から私自身への、すばらしいプレゼントとなりました」 通常の誕生日はどのように過ごしているのですか? 「通常は家族や友人と食事をして過ごしますが、昨日はMTVアワードアメリカの後、ビッグなパーティーをやってもらいました。そこで、母が作ってくれた『ガンボスープ』を頂きましたが、その『ガンボスープ』を飲むことがいつもバースディの一番の楽しみです!」 『B’DAY』は複数のレコードスタジオを24時間体制で同時に押さえて、複数のプロデューサーを同時に配置し、何曲も同時にレコーディングしていたといううわさは本当ですか? 「実はこのアルバム、3つのスタジオを同時並行で使い、色々なプロデューサーと色々な曲を作ったのですが、そのエナジーが結集されてこのアルバムが出来上がったのだと思います」 サマンサタバサ秋冬コレクションの感想は? 「どれも大好きです。中でもゴールドのものが好きですね。エレガントで色々なシチュエイションで使えるので気に入っています。前にある3つの中では赤色が気に入っています。メタリックな色が、カジュアルでもドレッシーでも使えて、エレガントに見せてくれるからとっても素敵ですね!レッドカーベットにもジーンズにも合うし、小さいから特別なときにも使えますね! アイテムを選ぶポイントは? 「どんなときも心地よく、自分に自信が持てるような物を選ぶようにしています」 ファンに対してひとこと。 「デスティニーズチャイルドの頃から熱く9年間もサポートしてくれている日本のファンたちには本当に本当に感謝しています。ありがとう!!」 今後も、世界を代表するディーバ”ビヨンセ”の活躍は見逃せません! 学生新聞2006年11月号より

羽生善治 何も考えずにやってみること。無駄だと思っていたことでも、どこ...
<プロフィール> 羽生善治 (はぶよしはる) 1970年9月27日生まれ。埼玉県所沢市出身。三冠(王位·王座・王将) (朝日オープン選 手権者)(永世棋聖・永世王位・名誉王座・永世棋王)。二上達也九段門下。 将棋界に旋風を巻き起こした羽生善治さん。若くしてプロになり、25歳で7冠王という偉業を成し遂げた。今回は、そんな勝負師としての羽生さんの生き様、そして将棋の魅力を探りました。 将棋を始めたきっかけは何ですか? 「小学1年の時、友達に誘われたのがきっかけです。野球やサッカーをやるように、将棋も 遊びのつもりで始めました。その後小学2年の夏に子供の将棋大会に出場したのを機に、将棋道場に通うことになりました。将棋は決着がつくから面自い。決着がつくまでのスリリングな感じ、いろいろな手を探求する楽しさ、そして勝負がつく楽しさ。そして小学 6年の大会で日本一になり、本格的に活動するようになったんです」 どんな学生時代を過ごされていましたか? 「将棋の試合があると、丸一日時間を使うから、学校は月に3、4日は必ず休んでいました。 宿顕はちゃんとやっていたけどね(笑)。当時は今と違って塾に通うこともなかったから、のんびりしていました」 中学3年、15歳でプロになった時の周りの反応はどうでしたか? 「親も友達もびっくりしていました。もともと親は、買い物の合間に僕を預ける託児所のつもりで将棋道場に通わせていただけだし、友達も、学校はよく休んでいたけど、まさかプロになるほどとは…と言う感じでした。 これからどうなるのだろうという不安はありましたね。対局する人、対局する人、全員年上だし、顔は知っていたけど、名前は知らなかったりして…。プロになったからといって、いきなり稼げるわけではないし、自分の努力次第だと思っていました」 25歳で七冠を違成した時はどんな感じでしたか? 「成し遂げた、という感じです。一区切りではあったけど、そこで終わりじゃない。つらいというよりは、無我夢中でやってきました。一つ一つの対局に深い思い入れを持つことはなく、結構忘れちゃうんです。それだけ多く、日々勝負し、前へ前へと進んでい。僕は過去を振り返らない主義だから、その時は頑張っていたけど、振り返ると『頑張っていたなー』という感じ。スポーツと違ってシーズンがないから、マラソンのように毎日のほほんとやるだけです」 ものすごい偉業を成し遂げながら、その上に胡坐をかくことなく、淡々と日々勝負師とし て活躍する羽生さん…対局中は何を考えているのですか? 「何も考えないです。将棋の世界は勝負を人の所為にできない。スポーツと違って、審判の所為にしたりできないんですそれに、汗をかいたり走ったりするわけじゃないから、発散できなくて、自分の中で留め込んでしまうんです。溜め込んで煮詰まってしまわないように、何も考えずにやります。“八面玲瓏”(どこから見ても美しいこと。また、心にわだかまりが ないこと)を座右の銘に、富士山を見るような透明な心であり続けたい。僕は試合当日の朝でも特に変わったことはせず、緑起をかついだりしないんです。やりだしたらきりがないから。何も考えずにやる、それだけです」 1970年代生まれのトップ将棋士たちをまとめて、“羽生世代”というそうですが、みなさんはライバル同士ですか? 「ライバルとはあまり意識してないです。同世代の仲間は、子供の頃から一緒にいて、切磋琢磨しながら成長してきました。僕は一人で強くなったのではないと思っています。この先どうなるかわからないけど、これからも仲良くしていくんだろうなぁ(笑)」 今後の目標はありますか? 「地道にやっていきたいです。40歳〜50歳の頃には今と違うカラーを出したい。たくさん考えないで、正しい答えを出せるようになっていたいです。直感や対局勘を研ぎ澄まして、うまく引き出せるようにしたい。あとは、子供たちに将棋を教えることもしていきたいです。僕はそんなに足繁く子供に教えに行っているわけではないけど、子供たちの『えっここでその手?!』って思わせるような発想やひらめきには毎回鷲かされます。これからの将棋界は、質の高い世界であってほしいです。脈々と歴史をつなげていくことが大切だと思います」 羽生さんの力の源はなんですか? 「“発見すること”かな。『あ、パン屋さんがある』とか、『あ、朝顔だ、夏だな~』とか、些細なことを発見するということ。将棋の世界でも生きているといいな」 羽生さんにとって将棋とはなんですか? 「習慣であり、生活に一部でもあります。将棋が人生そのものだという感じではないけど、でも一緒に歩いていくんでしょうね」 最後に、学生へのメッセージをお願いします。 「僕が20歳前後のころ、時間は無限だと思っていました。でも、そうではないってことを最近感じ始めました。だから、学生のみんなには、時間を大切に使ってほしいです。あと、今やっていることで、無駄に思えることがあるかもしれないけど、無駄だと思わずに、やってみて下さい。 いつかどこかで生きてくるかもしれないから。“やりたいことが見つからない“なんていう若者が最近多いけど、考えないでまずはやってみること。考えすぎると実行できない癖がついてしまい、大抵のことはやめてしまうと思うので」 羽生さん、どうもありがとうございました! 学生新聞2006年10月号より