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Archive for 運営スタッフ

学生新聞インターン

株式会社ドワンゴ 専務取締役CCO ニコニコ超会議統括プロデューサー 横...

リアルとバーチャルの融合でお客様に新しい遊び方の提案を ■プロフィール 1981年東京都生まれ。株式会社ドワンゴのコンテンツ戦略担当として、2001年よりドワンゴの携帯コンテンツ制作を始め、ニコニコ動画公式生放送や様々なイベント、新規事業を立ち上げる。ニコニコ超会議では統括プロデューサーとして16万人超規模のイベントを手がけ、伝統芸能の歌舞伎とデジタルを融合させたオリジナル新作超歌舞伎「超歌舞伎」の総合プロデューサーを務めている。2000年のニコニコ超会議(春、夏)はオンラインで開催、「ネット総来場者数」は1,773万8,806人となり日本最大級のオンライン参加型イベントを手がけた。今年は、『ニコニコネット超会議2021』と題し、日本に存在する様々なエンターテインメントを集合させた日本最大のインターネットの祭典を8日間に渡って実施させた。 ニコニコ動画やニコニコ超会議で知られる有名IT企業である一方、教育の事業にも力を入れている株式会社ドワンゴ。ネットの中で人間らしさを追求し、お客様に提供するというニコニコ動画の構想を作って実現させた専務取締役CCOの横澤大輔氏に、ドワンゴの強みと複雑化する社会で求められることについてお話を伺った。 ■リアルの良さを伝えるために 私たちドワンゴは4つのメイン事業を通して、バーチャルとリアルの融合を目指しています。一番大きな事業は、ニコニコ動画を中心としたポータル事業です。ここでは、ニコニコ動画やニコニコ生配信の運営、運用、開発を主に行っています。また、それらに付随するニコニコ静画やニコニコニュースなどのサービスの運営、運用も行っています。ネットの進化に伴い、新しいものを取り入れ、デジタルとアナログを組み合わせてよりよいビジネスモデルを作ることを目指しています。 2つ目の事業であるモバイル事業は、以前は着メロや着うたに力を入れていましたが、今は時代にあったコンテンツを模索しています。 3つ目の事業となるのが、ニコニコ超会議などのイベント事業です。サブカルチャーやコスプレ、声優のリアルイベントやネットとリアルを融合したイベントを開催しています。リアルの楽しさをネットで伝えるために見せ方を工夫し、興味を持ってもらえるような面白い企画を沢山考えています。最近では初音ミクと歌舞伎というバーチャルとリアルが融合した超歌舞伎も製作し、上演もしました。歴史がある伝統文化の良さを最新技術で引き出して深められた、画期的な作品となりました。 そして、4つ目の事業として、ドワンゴでは教育事業も行っています。N高等学校、S高等学校はネットと通信制高校の制度を組み合わせた高校で、2万人もの生徒がいます。第一線で活躍する様々なジャンルの講師の授業を自宅で受けることができます。生徒は自分の好きな時に勉強できるので、自分の好きなこと、やってみたいことを探す時間が生まれます。N高のNは「New」や「Next」といった前向きな意味合いを持っています。生徒一人一人が自分のNを見つけて、好きなことに出会えるチャンスを掴んでほしいという思いがあります。 ■ドワンゴは「好きが仕事になる会社」 ドワンゴでは、社員の好きなことがそのまま仕事に繋がることが多いです。仕事をやらされているのではなく、好きなことを仕事にする感覚が強いんですね。自分が心から楽しめることから漏れ出たものこそが、エンターテイメントだと私は思います。ですので、ドワンゴの社員は自分の好きなことが明確で、社員同士で各々の「好き」を共有しています。 ドワンゴでは、アニメ、芸術、将棋、歴史、政治など、様々な分野でコンテンツを発信していますが、その分野が好きな社員がプロジェクトの担当となり、足りないスキルは周りがサポートするケースが多いです。スキルよりもその人の「好き」を大事にしているせいか、ドワンゴから生まれるコンテンツは温かく、人間味があります。組織を超えて仕事が進むこともあり、みんなの「好き」が繋がって仕事になっているとつくづく感じます。 では、自分の「好き」をどうやって仕事にすることができるのか。それは、自分の好きなものを何と組み合わせていくかがだと思います。また、誰もが好きになる大衆向けするものよりは、コアなファンがいるコンテンツや仕掛けづくりにも力を入れています。万人に受け入れられるものよりも、自分しか好きではないかもしれないニッチな分野を、「ほかにも好きな人がいるかもしれない」と思いながら、掘り下げることが得意です。その根底には、一人一人の好きを尊重し、居場所を作ってあげられるようなコンテンツを提供したいという想いがあります。その結果として、ニコニコ動画は8000万人という大勢の会員を抱えているのだと感じます。 今後の展望についてですが、現状では、デジタルとアナログが融合していない分野がまだまだ沢山あります。デジタルの良さである効率化や合理化に、アナログの良さである温もりや曖昧さを掛け合わせる。こういったあるようでないものを、ドワンゴはこれからも生み出していきたいと考えています。 ■複雑化した社会へ対応するには これから、ますます社会は多様化、分散化していくと思います。情報が増え、自分の好きなことや興味のあることは簡単に探せる時代になりました。社会はより複雑化していくので、多岐にわたって才能を伸ばすより、得意な分野を極めることが求められます。ベースとなる総合力は今後も必要ですが、取捨選択することも大切です。自分が苦手なことや出来ないことは周りに頼る勇気を持つこと。不得意なことに時間を割くよりも、自分の強みを伸ばすことに時間を割く方がいい。全員の得意なことを合わせて、役割分担をし、チーム全体で力を発揮できればいいのです。また、努力なしの努力が出来る事を探すことも大切です。周りから見れば大変そうに見えるけれど、自分にとって苦ではないもの。そういったストレスなく出来ることを伸ばし、大きくしていくといいでしょう。色々なことに取り組み、取捨選択し、人に頼る。何か欠けているけれど、好きなことで生きていける人は価値が高いです。 ■大学生へのメッセージ 大学生の皆さんには、「何をやりたくて大学に通っているのか」を明確にしてほしいです。大学は自分が将来やりたいこと、作りたい世界を逆算して、勉強する場所です。私は大学にいたときよりも、社会に出てからの方が学んだことが多かった。知識をため込むことより、その知識をどう生かすのかを明確にするといいと思います。大学に通うことは目的ではなく、将来やりたいことに繋げる手段です。そのために、まずは好きなものを見つけましょう。今までやってきたことはどんなことであれ無駄にはなりません。色々なことに向き合って、好きなものに出会い、好きなものを組み合わせて新しい価値観を生み出してください。 学生新聞オンライン2022年7月8日取材 明治大学 4年 酒井躍

イベント・企業紹介

Seaside Street Tokyo 2022

Seaside Street Tokyo 2022 お台場を舞台に繰り広げられる新しいアカペラフェス 2022年8月27日(土)と28日(日)の二日間、お台場アクアシティを中心に3ステージで構成されたアカペラフェスが新たに開催される。中心となるのは大学生。実行委員会の主要ポストも一部を除いて大学生で構成されている。 コロナ渦の約2年間半、学生たちは思い出を作り出せる空間を奪われ続けてきた。どうかこの夏は彼らに思い出の場所を提供したい。そんな思いから始まったイベントだ。 みんなの思い出の場所にしたい 当初は最大120組枠で予定していたが一旦募集を開始すると想定を大幅に超える応募が殺到し嬉しさと共に「出来る限り多くの学生を参加させてあげたい」という思いが実行委員会内で強くなった。 初年度のフェス作りはすごく難しい。しかしながら精力的に関係各所と調整をおこない出演組数を大幅に拡大し最終的には192組まで出演できる体制も整えてきた。 数年先の未来、出演者や実行委員会に携わった学生たちが友達や恋人、家族とともに一緒に帰って来たくなるような思い出の空間にしたい。 そんな思いが実行委員会を突き動かした。 今までにないアカペラの空間作り これまでのアカペラフェスは比較的質素なステージが多かったが、Seaside Street Tokyoは3ステージすべてにラグジュアリーでフォトジェニックな舞台装飾が入る。 それぞれのステージがコンセプトごとに分けられ夏を感じられる舞台だ。 VINTAGE WHITE STAGE アクアシティ最大のイベントスペース「アクアアリーナ」 ここに白を基調とした海外のHouse Party風な舞台を演出。 植栽やソファーなどを配置しラグジュアリーな舞台でアカペラーが歌う。 OCEAN BRIDGE STAGE アクアシティ5階のデッキスペースはレインボーブリッジを背景に東京の街並みと東京湾を一望できる気持ちのいいステージ。 アメリカンヴィンテージを意識したステージで夜の夜景は格別だ。 LOVE SEASIDE STAGE 台場駅降りて直ぐのウエストプロムナードにはLOVEをテーマにピンクで装飾されたステージが登場する。 真横にはお台場のシンボル自由の女神像があり、開放感たっぷりの舞台となる予定だ。 公式Website、SNS Website : http://seaside-street-tokyo.com/Twitter : https://twitter.com/acappella_SSTInstagram : https://www.instagram.com/seaside_street_tokyo/ 開催概要 名称   Seaside Street Tokyo 2022開催地 アクアシティ お台場 *及びその周辺地域日付  2022年8月27日(土) , 28日(日) 2days開催時間  10:30~18:30出演者 学生バンド(193組程度)、ゲストバンド(3組想定)入場料  無料 主催 Seaside Street Tokyo 2022 実行委員会統括 株式会社OUT LOUD FACTORY制作 株式会社G-STAR.PRO運営 株式会社ネクストドアーズ インターナショナル 協力 お台場観光局後援 東京都港区、東京臨海副都心まちづくり協議会、学生新聞 協賛 BMW Tokyo

学生新聞インターン

株式会社鎌倉新書 代表取締役会長CEO 清水祐孝

超高齢化社会に「メディア」として有益な情報を与え続ける 株式会社鎌倉新書 代表取締役会長CEO 清水祐孝(しみず ひろたか) ■プロフィール 1963年生まれ、東京都出身。慶応義塾大学卒業後証券会社勤務を経て、父の経営する株式会社鎌倉新書に入社。同社を仏教書から葬儀や墓石等の業界へ向けた出版社へと転換。さらに「出版業」を「情報加工業」と定義、セミナーやコンサルティング、インターネットサービスへと事業を転換。現在、終活関連のポータルサイトを運営し、高齢者の課題解決へ向けたサービスを提供。 新卒で証券会社に入社。その後、父から託された鎌倉新書とその想いを引き継いできた、清水祐孝会長。鎌倉新書の経営者として超高齢化社会に有益な情報を届けることで「終活」をサポートし、社会に還元してきた清水会長の思いと、日頃から大切にしているマインドについてお伺いした。 ■現実の恐ろしさを知った大学時代 大学では企画や事業を行うサークルに入り、学生起業家のようなことを行なっていました。活動自体は非常に楽しかったのですが、在学中、とある事件が勃発します。そのサークルによく出入りしていた品の良いおじさんに仲間が騙されてしまうという出来事があったのです。この事件から、私は世の中の恐ろしさを知り、「もっと勉強して知見を広めなければ」と思うようになりました。 ■鎌倉新書に入社するまでの経緯 大学では商学部に属していたこともあり、新卒で証券会社に勤めました。証券会社はセールス力が必要で、高額所得者のリストを元に毎日200件ほど営業電話を掛け続けていました。100件電話をかけても、契約を取れるのは2、3件ほど。知識を増やすために、日経新聞やエコノミスト、週刊ダイヤモンドなどあらゆる新聞や雑誌を読んでいました。自分とはあまり接点のないことでも世の中の感覚を知るために、意識的に情報収集していたように思います。当時はバブル経済で、業績も給与もとても良い状況でした。そのため会社を辞める必要性は全くなかったのですが、ある時、父親から鎌倉新書が倒産の危機に陥っていることを知らされ、受け継ぐことにしました。もっとも、証券会社を辞めて鎌倉新書に再就職する間に、証券会社で知り合った方が運営する海外のゴルフ場に行きたいという下心も、少しはあったかもしれません(笑)。 ■役割は「終活に関する有益な情報を提供すること」 鎌倉新書という会社は、超高齢化社会のなかで高齢者が明るく前向きに生きていくことに貢献する会社です。「鎌倉新書」という名前の通り、最初は出版社としてスタートしましたが、現在ではインターネットを通じた情報提供を主な事業としています。今もなお鎌倉新書という名前を変えないのは、「求める人に有益な情報を届ける」という点でメディアであると考えているからです。例えば出版社の中にも漫画の版権を売買してテレビアニメを作る会社があるように、昔とビジネスモデルが様変わりしているメディアも多く存在しています。最初の情報提供の領域は葬儀やお墓といった「供養」の分野のみでしたが、次第に人が亡くなる前後で初めて直面する課題、つまり「終活」と呼ばれる領域における課題を解決するお手伝いを行うようにもなりました。一度きりの人生を充実したものにするために、やっておくべき全ての活動を行う支援をしているのです。超高齢化社会に有益な情報を提供することは、鎌倉新書の社会における重要な努めであると考えています。 ■儲けより社会還元を優先させるべし  すべての企業の本質は、社会に利益を還元し、社会を活性化させることだと思います。社会に還元するためには、儲けがないとやっていくことはできません。車で目的地にいくためにはガソリンがないと行けないのと同じように、社会に還元するという目的のためには社員のお給料を維持しなければならないのです。崇高な理念の大前提として、売り上げがないとやっていけないのです。しかし、稼ぐことを、社会に還元することよりも優先してはなりません。それに気が付いたきっかけは、若い頃に京セラの創業者である稲盛和夫さんの講演会に足を運んだことです。儲かる方法を知るために参加したのですが、そこで言われたのは「親を大切にしないさい、神仏を敬いなさい」ということでした。当時は「やっぱり成功者というのは本当のことを教えてはくれないのだな」と思いましたが、今から思うとあれは正しかったのだなと思います。生まれてきたからにはそれぞれの役割があり、世の中に貢献できるのだと感じます。自分だけが得するのではなく周りの人にもいい影響を与えることで、成功はつかめるのだと思います。 ■稼ぎと成長の副産物である 私は若い時、お金がなかったので稼ぐことを目的に生きていました。しかし、いろんな本を読んだり講演会を聞いたりするうちに40代のころに気がついたのは、稼ぎは、自分が学び、成長した時の副産物として生まれるということです。一緒に働く人にもこのことに腹落ち感を持って気がついてくれるといいなと思います。余談ですが、私は毎日神社に行くようにしています。信心深い訳ではありません。確かに最初は「会社が潰れませんように」と向こう側にいるであろう神様に向かって神頼みをしていました。しかし、これは長年やっていて分かったことなのですが、向こうにいるのは神様ではなく祈願している自分自身の存在なのです。願い事が叶うのも神様が聞いているからではなく、その願い事を自分の脳みそが覚えていて、それを叶えるために必要な情報を収集するようにと潜在意識が働くからだと思うのです。科学的なことではないので証明はできませんが、経験としては生きてくると思います。そして何故かはわからないですが、古くから続いているものには意味があると思います。どんな慣習や伝統も、何かしらよいことがなければ廃れてなくなってしまうと思うからです。宗教チックなものを「宗教だ」と揶揄するのではなく、潜在的な力を発揮させるために活用してみるのもいいと思います。 ■大学生へのメッセージ 社会に出てからこそ学びは加速化されると思います。そしてその基礎固めをするのが大学までの学びだと思います。社会人になると学生の時とは違い、長期的な学びが必要になるので、中長期的に学びを本格化させる意識を持ち続けてください。そして、歳をとると自分の責任の範囲は広がっていきます。若い時は自分のため。結婚したら子どもや家族のため。さらに歳をとると、地域あるいは社会のため……など自分の責任の範囲が広がっていくのです。色々な経験を積むことでどこまで自分の責任範囲を広げられるかがチャレンジになってくると思います。 学生新聞オンライン2022年6月16日取材 津田塾大学 4年 宮田紋子

学生新聞インターン

東武トップツアーズ株式会社 代表取締役社長執行役員 百木田康二

「リアル」な価値観を通して、一生残る思い出に喜びを。 東武トップツアーズ株式会社 代表取締役社長執行役員 百木田康二 (からきたやすし) ■プロフィール 1964年生まれ、東京都出身。明治大学商学部を卒業後、1987年東急観光(現、東武トップツアーズ)に入社。1997年ヴィータU.S.A.CO.HAWAIIに出向し、帰任後は2007年よりトップツアー(現、東武トップツアーズ)社長室長、経営企画部長を歴任。2014年取締役に就任、東武トップツアーズ発足後の2016年からは営業統括本部を管掌し、2020年取締役常務執行役員営業統括本部長を経て2021年7月より現職。 2015年、東武トラベル株式会社とトップツアー株式会社が合併して誕生したのが、東武トップツアーズ株式会社。その経営理念である「ありがとうの連鎖」は、旅行事業にかける強い想いがこもっていることを感じさせる。コロナ禍で旅行業界が大きな打撃を受けるなか、どのような経験をもとに会社経営に携わってきたのかについて、先の見えない時代を生きる大学生に向けたメッセージとともに、百木田社長に伺った。 ■アルバイトに学業に。全力で楽しんだ大学生活 大学生の時は、私も皆さんと同じく、いろんなアルバイトや学業に勤しんでいました。3年間、居酒屋で働きつつも、甲子園の宣伝でグラビアを撮るために多摩川沿いのグランドをひたすら走るといった一風変わったアルバイトもやりました。また、実家の家業が原木を製材する木工業だったことから、居酒屋のアルバイトが終わった後に、浅草から越谷まで木材の運搬作業をすることもありました。 もちろん学業もおろそかにはしませんでしたよ。大学のゼミのテーマに選んだのは「交通論」で、当時名古屋にできたバスレーンを見に行き、研究課題にしました。ゼミは自由奔放な雰囲気でとても楽しかったです。ゼミのメンバーと一緒に、明治大学のラグビーや野球の観戦によく行きました。真冬の時期に一週間徹夜で並んでチケットを取った大雪の中の早明戦は、いまだに強く思い出に残っています。 ■直観に従って飛び込んだ、旅行業の世界 このご時世ですから皆さんも就活は大変だと思いますが、私が大学生の時も就活は楽ではありませんでした。就活は周りの友人の様子をみてから始めたのでスタートも遅かったです。就活中、私がフィーリングで心惹かれたのは旅行業界でした。在籍する商学部では、就職先として金融業界が人気でしたが、私は自分の直観を信じて、就職活動も旅行業界に絞って行い、たった4社しか受けませんでした。 受けた中の1社として内定をもらったのが、東武トップツアーズ(当時は東急観光)です。ただ、いざ入社して思ったのは「形がない“旅行”を売るのは大変だ」ということです。 仮に、旅行の内容が同じだった場合、当社を選んでいただくためには、ほかの旅行会社との差別化を図って、何かしらの価値をお客様に提供することが重要です。例えば、ツアー担当者が人としてお客様に信頼されたり、企画力を上げ面白さや価値を伝えたりすることが大切であり、大事なのは旅行の中身よりも、人柄や企画内容、面白さなのです。 また、私たち旅行業界は個人プレーでは成り立ちません。航空会社・旅館・ホテル・お土産屋などとも連携し、チーム一丸となって協力しあうことで「旅行」という商品が生まれます。「旅行」を通じてお客様に喜んでもらい、「ありがとう」という言葉をいただくことが、社員一人一人の励みになりますし、お客様に感謝されるような体験を提供し続けることで、自分たちも成長していく。こうしたお客様とのリレーションシップが、旅行業界の醍醐味だと思います。 ■大変な時代だからこそ「地域を元気に、日本を元気に」 東武トップツアーズは、主に団体・法人様向けのB to Bでの旅行事業を展開していました。しかし、コロナ禍以降は、修学旅行の延期や海外旅行が中止になるなど、旅行需要が激減しました。 そこで私たちが目を向けたのは、旅行以外の新たなニーズです。東武トップツアーズならではの、人のために動くホスピタリティ精神やコーディネート力を生かして社会貢献をしたいという思いで、ワクチンの接種事業や困窮する飲食店の助成金の申請、安心安全のための合格マークを認定する事業などを新たにスタートさせ、国・自治体と企業を結び付ける役割を果たしました。 今後に向けては「地域を元気に、日本を元気に」をテーマに掲げ、地域ごとの課題の解決を目指しています。大きな視点で見ると、日本は毎年60万人ものペースで人口が減少していますが、地域によってその課題は様々です。当社は47都道府県すべてに店舗があるので、地域に根差した課題解決の提案が可能です。ワクチンの接種事業は、その引き出しの一つにすぎません。それぞれの地域の課題に柔軟に対応できるよう、さらに引き出しを増やしていきたいと思います。 また、この2年間、「旅行」の必要性が何度となく問われました。旅行の移動手段も飛行機や電車から車にシフトし、少人数で動くようになりました。リモートの良さもありますが、お客様の間でも旅行を通じたリアルな体験の良さに気づく方が増えています。そういう意味ではこの2年間は悪いことばかりではなく、旅行が持つ大切なことに気づくきっかけになったのではないかとも思います。私たちはこうした「リアル」の場を提供し、お客様の一生の思い出を作れるように、日々新しいことに挑戦していこうと思います。 ■ほしい人材は、好奇心を持ってアンテナを張り巡らせる人 東武トップツアーズで成功している社員の特徴は、3つあります。それは、「(1)強い信念を持って仕事に取り組み」、「(2)今の社会で何が求められるのかをキャッチでき」、「(3)間違えたときや失敗したときは素直に謝れる誠実な人」です。 旅行という商品は形がないので、こういった人柄で他社との差別化を図っていくことが重要です。目まぐるしく変わる環境の移り変わりを察知し、その変化に対応でき、広くアンテナを張り巡らせられるような、好奇心旺盛な人を求めています。 ■message 学生さんから「(弊社に)入社するまでに何を準備すればいいですか?」とよく聞かれるのですが、その答えは「何もやらなくていい」です。学生の皆さんには、今しかできないことが沢山あります。年齢を重ねてから後悔するのはもったいない。学生だからこそできることを見つけ、時間がある今のうちにやり抜いて卒業を迎えてほしいです。また、入社してから皆さんが不安にならないよう、弊社では研修を充実させています。何も心配せず、弊社に飛び込んできてください。 あと、もう一つ大切なのが、健康です。大学生活の中で、ときにはストレスを感じることもあると思います。私たち旅行業界も、答えがない商品を取り扱っているためトラブルもあります。ただ、逆に言えば、こうしたトラブルに対応して解決できれば、次に繋げることが出来ます。大学生の皆さんにも、トラブルや失敗を糧にして、強い信念をもって前に進んでいって欲しいです。 学生新聞オンライン2022年6月24日取材(学生新聞2022年10月号) 明治大学 4年      酒井躍

経営者

株式会社イノベーション 代表取締役社長 富田直人

感度の高い人に会えば成長できる|社会で活躍する人に自分から会いに行こう 株式会社イノベーション 代表取締役社長 富田直人 (Naoto Tomida) ■プロフィール 静岡県浜松市出身。実家が電気工事会社を経営していたこともあり、大学は横浜国立大学工学部電気工学科に進む。卒業後、父の会社を継ぐ前に社会勉強をしようとリクルートに入社。新規開拓営業を経験した後、2000年にイノベーションを設立し、現職。法人営業の新しいスタイルを創造すべく、法人向けにインターネットマーケティング支援事業をおこなう。2016年12月、東証グロース上場を果たす。 企業詳細:コーポレートサイト / 採用ページSNS:Twitter / Facebook ■就職先の条件は、家業を継ぐ前提の「3年で辞められる会社」 父親が電気工事業を営んでおり長男だったこともあり、小さい頃から家業を継ぐことは当たり前のことだと思っていました。将来に備えて、学生時代から夏休み、冬休み、春休みには家の仕事を手伝うのはごく当たり前という環境で育ちました。 家業を継ぐという道は、私にとっては既定路線だったのです。 大学も工学部電気工学科を志望しました。親元を離れたいという想いもあり、家計的にも負担の少ない国立大学を選び、横浜国立大学へ進学することを決めました。 実力より上の大学でしたが、とにかく東京で華々しいキャンパスライフを楽しむことだけを夢見て猛勉強。晴れて合格した後は、もう解放感で一杯。将来のことなど深く考えないまま就職活動の時期となりました。 学生時代に唯一熱中したのが、ツアーサークルでの活動です。学生向けスキーバスツアーの企画を中心に、企業にスポンサーになってもらいイベントを開催するなど、ベンチャー企業で働くまねごとのような体験をさせてもらいました。 家業を継ぐ前に、社会経験を積んだ方が良いだろうから、という理由で就職活動を始めました。当時は、バブル景気前の空前の売り手市場。理系学部ということもあり、教授の推薦があればどこにでも入れるような状況だったので、何となくかっこよさそうだからとソニーかIBMがいいなと安易に考えていました。 でも、私の場合は「3年限定」の就職です。OB・OG訪問の際にそれを素直に伝えてみると、「3年で辞めるなんてもったいない。そういう価値観ではうちには来ないほうがいい」という反応ばかりでした。今考えれば、大企業が3年で辞める学生を雇うはずがないですよね。 理系出身者が配属されるような研究分野であればなおさら、定年まで働き続けるのが当たり前の世界でした。そんな風潮を感じ取った私は、良くも悪くも「3年で辞めるなら大手企業行くのはちょっと違うかも」と考えるようになりました。 「3年で実家に戻って家業を継ごう」と考えていた私が最終的に選んだ会社は、当時の理系出身者は選ぶことがなかったであろう、リクルートでした。 「定年まで働くのが前提の会社には入社できない」「それなら、ほかの業界もいろいろと見てみよう」と考えて、商社や金融といった文系の学生が進む業界を見るようになりました。その延長線上で出会ったのが、リクルートです。 当時、インターネットはない中、通信やコンピュータ事業に乗り出したり、新しいビジネスモデルで成長していたリクルートには他にはない、起業家精神を感じました。業界や仕事内容よりも、若い社員が多く新しいことに挑戦して急成長している企業で、とにかくアグレッシブな会社でした。さらに魅力的だったのは、技術系の採用をスタートさせたばかりだったこと、そして「3年で辞めてもいいよ」と言われたことです。 「3年で実家に戻って家業を継ごう」と考えていた私は、3年で辞められるという条件を満たしたリクルートに入社することを決めました。ところが、そのリクルートで結局10年も働き、おまけに父親の家業を継ぐことなく、自分で一から起業するという想像もしていなかった道へと進むこととなりました。 ■先入観は覆されるもの。嫌で仕方がなかった新規営業の楽しさに目覚める リクルートにエンジニアとして採用されたはずの私の最初の配属先は、なんと営業でした。当時の私にとっての営業とは、飛び込み、ノルマ、グラフによる数字争いそして人に嫌がられるという、とにかく最悪のイメージをもっていました。 さらに、入社早々、飛び込み訪問をしてできるだけたくさんの名刺をもらってくる「名刺獲得キャンペーン」が始まったのです。自分に最も向いていないと思っていたし、実際、獲得できた名刺の数はダントツにビリでした。辛くて辛くて、ゴールデンウィーク前には半分鬱状態でした。 成績は悪いし、半分鬱状態になっていた私を見るに見かねたのか?ゴールデンウィーク明けに異動を命じられました。異動先は、人事の理系学生の採用担当です。ほっとしたのはたしかですが、この異動を機に、二度とごめんだと思っていた新規営業の楽しさに目覚めることとなったのです。 与えられた任務は、関東の上位大学から5人採用すること。しかし、インターネットのない時代です。試行錯誤しながらあらゆる手段を使ってリクルートの魅力を伝えていきました。 学生リストのようなものを片手にひたすら自宅に電話をかける、大学に出向いて直接学生にアプローチするなど必死に頑張った結果、ノルマであった5人を採用することができたのです。とてもやりがいを感じた仕事でした。と同時に気づいたのが「これって営業と同じではないか?」ということ。 そこで、営業という仕事に勝手な先入観をもっていただけだったことを気づかされました。 営業という職種のことを良く理解しておらず、何となくのイメージで「嫌だ」「向いていない」と決めつけてしまっていましたが、自分に合っている仕事かどうか、自分が興味をもてる仕事かどうかなんて、やってみないとわからないものなんだと心から思いました。 これから社会に出る皆さんにも、先入観で判断しないでほしい、と伝えたいです。とにかく、何事もまずは一生懸命取り組んでみるべきだと私は学びました。目の前のことに全力を尽くせば必ず道が開けると信じて、ぜひ頑張ってほしいと思っています。 ■20代後半、起業家との出会いをきっかけに経営者の道へ 営業が嫌で半分鬱状態になっていた私が、人事部への異動をきっかけに新規開拓営業の醍醐味を知ることとなり、今後は自らの希望で元の営業部に戻ることとなりました。 新規営業は大変そうだと思っている人もいるかと思いますが、新規開拓の営業は、一番フロントに立って顧客がまだ気づいていない課題を解決するという社会的に意義がある仕事です。 新規営業がいなければ、その商品やサービスが売れないばかりか顧客の課題が解決されないわけですから、課題に気づくというきっかけをつくる大変やりがいのある仕事なのです。 すっかり営業の魅力にはまってしまい、3年で辞めて家業を継ぐはずが、結局10年もリクルートで営業を続けました。 最初は、1番をとることを目標にひたすら頑張りました。「ここで1番にならなければ実家に帰ってもうまくいくはずがない。絶対に1番をとって、自信をつけてから家業を継ごう」と心に決めていたのです。 次第に、部署内で何度も表彰されるような存在となり、昇進もして大きな自信も得ることができました。仕事はおもしろくなる一方で、家業を継ぐタイミングはなかなかつかめずにいました。 そのころは気がつくといつも、「リクルートで働き続けるか、家業を継ぐか、どちらが自分の成長につながるか」を天秤にかけていたように思います。 ターニングポイントとなったのは、20代後半の若手起業家との出会いです。自分よりずっと先を走る同世代の起業家と会ったことで、自ら起業するという新たなキャリアを意識するようになりました。人材もお金もサービスにも恵まれていて、給与もしっかりいただけるリクルートという居心地の良い会社にいることで「ずっとこの環境にいては、この先大きく成長できない」と限界を感じるようになりました。 起業が実現したもう一つの要因は、家業がうまくいかなくなって、いつかは継がなくてはいけないという役割自体がなくなったことです。 家業を継ぐ必要もなくなり、もっと成長したいという強い想いが沸いてきたことからリクルートの退職を決意しました。実はその時点でどういう事業で起業するかは決めていませんでしたが、これまでのキャリアを振り返って改めて「私の強みは何か?」を整理し、BtoBマーケティングの事業で起業することを決めました。 リクルートで働きながら常に感じていたこと、それは会社員として給料をもらうことにどこかずるい気がしていたことです。人が作った会社や事業、組織のレールの上に乗っかって成果を出しているだけ、、こんな甘い世界は続かないと・・ 今振り返ると、親戚も含めて小さい頃から事業を経営する環境で育ってきたので、やはり私にとっては雇われる側でなく経営者として生きていく道が自然だったのだなと感じています。 ■先入観をもたず、さまざまな業界・職種を見に行こう 自分に合った業界や仕事に出会うためには、とにかくいろいろな会社に足を運ぶことです。 人事の人はもちろん、さまざまな業界で働く社会人と話をするだけでたくさんの気づきがあるでしょう。多くの人と交流する中で、自分が好きなこと、得意なことが少しずつ見えてくるため、自分自身とよく向き合い、本当に自分が興味があることは何なのか? を追求していってほしいと思います。 私自身、悪いイメージしかなかった営業という仕事に魅了されてしまったように、想像していた仕事内容とは全然違うということもよくあることです。就職活動の最初の段階で絞り込んだりせず、できるだけ多くの業界、職種を見て回ってほしいと思っています。 大切にしてほしいのは、会社のビジョンやミッションを良く確認することです。「これは、具体的にはどういうことでしょうか?」と質問して、ぜひ噛み砕いて教えてもらってください。しっかりと話を聞いていいなと思ったのであれば、その感覚を大事にしてください。これだと思った会社を選んだあとは、もう運に任せましょう。 「営業だけは嫌だ」と思っていたのに営業に配属されることもありますし、どの部署に配属されるかは人事が決める。これはどうにもできません。 できることは、目の前に与えられた仕事をとにかく精一杯頑張ってみることです。そうすることで、必ず次のキャリアへとつながっていくはずだと信じてほしいと思います。 ■ベンチャー企業への就職の際は、必ず社長に会って確認しよう 会社のミッションやビジョンに共感できるかは、とても大事なポイントだと考えます。 たとえ希望していない職種に配属されることとなっても、そこさえ間違っていなければ次のチャンスを待てるのではないでしょうか。とにかく目の前の仕事を頑張ろうといっても、会社のビジョンやミッションに納得ができていなければ頑張ることは難しいと思います。 大企業の場合は社長と直接話をするのは難しいですが、ベンチャー企業であれば社長に会って実際に話を聞いてみることを強くおすすめします。 個人的な感覚では、従業員が500人くらいまでの規模の会社であれば社長に会えると思います。 経営者と実際に会うことで、自分に合う会社かどうかがわかることも多いです。ベンチャー企業の場合は、ぜひ社長の言葉や人となりからその会社の本質を判断してください。 ■今後もとめられるのは、変化に対応できる人・自家発電機を中に持っている人 変化が極端に激しい時代ですから、今後は「変化に対応できる人材」が求められると考えています。具体的には、変化に対応できるよう意識的にアンテナを張っている人です。 また、多くの企業においてこの先余裕がなくなり、新人とはいえ丁寧に寄り添って面倒を見ていくのは難しくなるはずです。となると、充電しなくても自ら発電できる「自家発電機をもっている人」が求められるはずです。何が起きても、自分で考えて自分の意思で動く力のある人が、結局は「変化に対応できる人材」になると思います。 そのためにできるのは、社会で活躍している人と会って話をする機会を自らつくることです。 私自身、20代後半で起業家の集まりに参加したことをきっかけに刺激を受けてもっと上を目指したい、成長したいと思うようになりました。感度の高い人に積極的に会いにいくことが大切です。逆に、ぼーっとしている人たちの側にいるといつまでたってもぼーっとした人のままです。...

三上山明里

G-STAR.PRO 特別インタビュー  yunocy / 白石優愛 / 西銘駿      

yunocy(ゆのしー) SNS総フォロワー80万人。世界的デバイスメーカー「RAZER」と日本人女性として初のパートナーシップ締結。ゲームを愛しゲームを楽しむ“ゲームライフ”という新しいライフスタイルを確立、ファッション・メイク・音楽・インテリア. トータルコーディネートとしてゲームライフ / ゲーマーファッションの楽しさを伝えていく存在。 公式Twitter:https://twitter.com/mizuyuno_ 中学では吹奏楽部でパーカッションを担当していました。入学当時は、部活に積極的に入ろうとはしていなかったですが、同じ中学に進学した幼馴染4人が吹奏楽部に入部すると聞き、私も興味を持ちました。しかし、入部しようにも吹奏楽部は部費が高く母からは反対されましたが、一番お金のかからないパーカッションを担当することになり、母は安心してました。高校では帰宅部だったこともあり、ゲームセンターに通い始め、音楽ゲームに夢中になっていきました。 ゲームにハマっている中で、好きな配信者であるデトネーター(日本で活躍するプロゲーミングチーム)と、同じ配信のプラットフォームでゲームをやってみたいと考えるようになりました。そんな時に偶然、ゲームデバイスメーカーの方からお声がけ頂いたこともあって、ゲーム主軸に活動するストリーマーをやろうとなりました。 現在は「ゲーム」という幼少期から好きな事を仕事にしていますが、楽しい事がすべてではないです。”苦手なゲーム”と”好きなゲーム”の両立をしていくという難しさや、誹謗中傷をされる事も少なくはない為、ゲームを辞めたいと思う時期もありました。それでも、やっぱり昔から好きなゲームに携われる事や、ゲームを通して沢山の友達ができる事が楽しいため続けています。ゲームを嫌いにならないように“好き”と“苦手”な仕事のバランスを考えながら、仕事をお受けするように意識しています。 今後の夢としてはもう一度beatmaniaという大会に出ることです。この大会はチーム戦で、今まで個人戦がメインの音楽ゲーム大会と大きく違い、とても刺激的でした。何ヶ月もチームメンバーとのミーティングをはじめ、ゲームセンターに集まって活動するのがとても楽しく思い出になっています。そうした思い入れのあるこの大会にもう一度出たいと思っています。 心が折れそうなときもあると思いますが、今好きなことを諦めずに貫いてほしいです。それが必ずなにかに繋がると思うので、ぜひ頑張ってください。 (立教大学4年 肥後橋優斗) 白石優愛(しらいし ゆあ) 2001年7月1日生まれ、大阪府出身。連続テレビ小説『ごちそうさん』(‘13年/NHK)でドラマデビューし、映画『たまえのスーパーはらわた』(’18)、『思い、思われ、ふり、ふられ』(’20)、『レンタル×ファミリー』(‘23年公開予定)、ドラマ「ドゲンジャーズ〜ハイスクール〜」(’22/KBC)になど出演。5月15日より恋愛番組「恋愛ドラマな恋がしたい〜Kiss me like a princess〜」(’22年/ABEMA)に出演中。 公式Twitter:https://twitter.com/yua_shiraishi 10代は自分の席にいることが多く、大人しい学生でした。その頃、愛読書だった湊かなえさんの『母性』は、ふとした時に読み返したくなります。 幼少期に安室奈美恵さんに憧れ、芸能界に入りました。特に、芝居をすることに魅力を感じ、俳優として活動しています。 台詞・シーンが多い群像劇では、役者同士のアドリブ合戦に発展することも。皆が同じ目標に向かい、レベルの高い作品を作ろうとする空間が好きです。そこに混ざることに、やりがいと生きがいを感じます。 「もう19歳」と言われた昨年。20歳になり、キャリアだけではなく知名度も必要だと気付く機会が増えました。そんな中、AbemaTVの『恋愛ドラマな恋がしたい』という番組に出演する機会に恵まれました。フォロワー何十万人というメンバーの中で、場違いに感じることもありますが、新しい仕事に挑戦する姿勢を持ち続けていきたいです。 幼少期に抱いた「自分が一番可愛い」という気持ちだけでは、芸能界を続けられません。有名な女優さんは、努力に加え魅力や才能があります。そのため、一般的な役だと敵が多いのです。あるとき芸能界にいる誰もが凄いからこそ、普通で競うと回り道になると感じました。それなら、変な方に行った方が良いのではと。今まで演じてきた中で、ポジティブすぎる役は難しかったです。ご飯を一口食べただけで「おいしー!」と叫ぶ破天荒な役でした。次は、宇宙人とか面白そうですね。こうやって変わった役を求めてしまう自分がいます。誰がやればいいのか分からない役が、全部回って来てほしいです。様々な役を演じながら自分を俯瞰して見ることで、輝ける居場所を見つけていきたいです。 毎日を過ごす上で自ら行動することは難しいと思います。なぜ勉強するのか、なぜ大学にいるのかと悩んでいる方もいるかもしれません。しかし、行動することで選択肢が広がります。勢いで上京した私は、場数を踏むことで、目指すべき姿を見つけました。数年前より制限がある“今”だからこそ、チャンスは掴みましょう。私も一緒に頑張ります。 (駒澤大学3年 三上山明里) 西銘駿(にしめ しゅん) 1998年2月20日生まれ、沖縄県出身。‘14 年にジュノン・スーパーボーイ・コンテストにてグランプリを受賞。 ’15 年平成仮面ライダーシリーズ第17 作 「仮面ライダーゴースト」の主人公・天空寺タケル/ 仮面ライダーゴースト役』でデビュー。映画『劇場版リケ恋~理系が恋に落ちたので証明してみた。~』(’19)、ドラマ「グッドモーニング、眠れる獅子」(’22/ひかりTV)などに出演。 公式Twitter:https://twitter.com/shun_nishime 中学生まで、沖縄の自然に囲まれて学生時代を過ごし、泥だらけになるまで遊んでいました。芸能関係のお仕事に興味を持ったのは中学3年生の時で、きっかけは、ふと見たテレビに映っていたジャニーズの方たちがとてもキラキラしていて「僕もやってみたいな」と思ったことです。高校生で上京し1年間で方言を直し東京の生活に慣れ、その後芸能活動を始めようと、決断しました。 お仕事をしていてやりがいを感じることは、自分の演じた作品が映像になり、形として残ること。そしてそれがファンの方たちなど、多くの人に認めていただき、反応を頂けることです。お芝居がとても好きで、普段の生活からお芝居に通ずるものを研究し、「感情」「動き」などを切り取って自分の演技に活かしています。プライベートの生活からインプットしたものを実際に演技に活かせるという部分がとても楽しいなと感じています。  役者のお仕事で落ち込んだ時は、好きなアニメを見ています。もともと実写の作品が好きだったのですが、役者を始めてから、「作品の内容」より「作品の構成」に注目してしまうので、演技からいったん離れるために、好きなアニメを見て気分転換をしています。 将来の目標は、いい意味で「ライダー俳優」を払拭することです。ライダーシリーズに出させていただいたのでその印象が強いですが、今後は様々な役や舞台に挑戦して、自分の持てる役者としての色をどんどん増やして行きたいです。そのために、自分のやってみたいこと、挑戦してみたいことを見つけられたら、すぐに行動に移すことを心掛けています。 大学生の皆さんにも自分の本当に好きなことや、挑戦したいことを見つけたらすぐに行動に移していただきたいなと思います。 (立教大学2年 福田さくら) 明治大学4年 山本真人 / 立教大学4年 肥後橋優斗 / 駒澤大学3年 三上山明里 / 立教大学2年 福田さくら / 国立音楽大学2年 岡部満里阿 / 国立音楽大学2年 宮嶋優有

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株式会社BS日本 代表取締役社長 中山良夫

“人生のバックボーン”を築け 1つの事の継続から多様な学びを ■プロフィール 1958年生まれ。筑波大学大学院修了後、1983年に日本テレビ放送網株式会社に入社。制作、報道、スポーツの実務経験後、スポーツ・情報局スポーツセンター長、報道局次長、事業局長、取締役 執行役員を経て、2018年に株式会社BS日本の代表取締役社長に就任。 現在若年層への視聴者層拡大に注力した施策を数々行うのが、BS日テレです。その代表取締役である中山良夫社長が、自身の学生時代に築いた“人生のバックボーン”について。また、BS日テレの経営方針や、社員の方々を「BS日テレファン」と呼ぶ中山社長の会社にかける想い。そして「BS日テレファン」に向いている学生についてお伺いしました。 私は中学から大学まで、学生時代はずっとサッカーに打ち込んでいましたね。中学からサッカーを始め、高校はサッカーの強豪校に入学しました。高校ではチームのゴールキーパーを務め、国体の選手に選ばれたこともありましたよ。さらに、高校3年生の時にはアンダー18の日本代表にも選ばれるほど、サッカーは得意でもあったのです。 大学でもほとんどの時間をサッカーに費やし、年に3〜4ヶ月ほどしか授業を受けていなかったのではないでしょうか。それだけサッカーに熱中していたのです。 大学卒業後は親から就職をするように言われていたのですが、サッカーしか今までやってこなかったので、別の道からサッカーのことや人生のことを考え直したいと思い、筑波の大学院に進学することに決めました。大学院へは東京ヴェルディ1969の前身となった読売サッカークラブに所属しながら通うことになりました。クラブが学費を出してくださっていたので、伸び伸びとサッカーも学びもできた大学院生時代を過ごしました。 そして、そのような日々の中で「サッカーを卒業後は続けなくてもいいかな」と思うようになっていた矢先、読売サッカークラブの方から読売新聞に就職しないかというお誘いがあったのです。当初、新聞社は真面目な学生が就職するイメージがあると断ったところ、現在の日本テレビへ就職活動をし、入社することになりました。サッカーを続けてきたことがご縁で、日本テレビに出会うこととなったのです。 ■BS日テレの視聴者拡大に向けて、アニメに注力 BSデジタル放送の主な視聴者は50代から60代の高年齢者層であるため、もっと若い世代の人にも興味を持ってもらうことで、視聴者年齢層の幅を拡大したいと思っています。若者のテレビ離れとも世間で言われている時代。テレビ局の存続のために若者の視聴者層拡大は急務と言えるでしょう。 そのために、現在は若者からの支持が高いアニメ事業に力を入れて取り組んでいます。深夜帯には現在人気のアニメを放送し、若者にBS放送を視聴してもらえるよう工夫しています。アニメの再放送は30代から40代の層からも「懐かしい」と支持があり、好評を得ていますね。また、アニメだけでなく、放送以外の事業にも着手しています。例えば、アニメ関連のイベント運営や、アニメのキャラクターの商品化です。アニメの商品はイベントでの販売やネット販売、TSUTAYAさんとの連携販売などで皆さんにお届けしています。テレビ放送のみでは、なかなか新たな視聴者層を引き込むことは難しいので、放送と放送外の両方の事業展開が必要でしょう。今後も二つの事業展開を軸に、視聴者層拡大を目指します。 ■会話が増える、イキイキとした社内環境づくりを実践 BS日テレはさらに良いサービスを提供できるよう、私が代表取締役に就任してから変えたことがいくつかあります。 まず、BS日テレのオフィス環境です。以前はあまり社員同士の話し声がなく、静かなオフィスでした。しかし、社員同士が雑談をする中で生まれるアイデアは、非常に熱量があり大切なもの。そのため、机や椅子の配置を社員がコミュニケーションを取りやすい配置に変更しました。結果、今では至る所で社員の会話が生まれ、オフィスは賑やかですね。 また、絆が深まるように社員の方々を「BS日テレファン」と呼ぶようにしていています。そして「ハッピー7」というBS日テレファンを豊かに幸せにする7つの項目を立てています。その項目のうちの一つは、社員7人が集まっての食事会は、業務に関連があれば会社が負担するというものです。これは社員同士のコミュニケーションを図り、仲を深めてほしいという私の願いがこもっているのです。その他、個人表彰やキャリアアップ、ライフワークバランスに関する項目もあります。 学生の皆さんも是非「BS日テレファン」になってみてはどうでしょうか。BS日テレは人生のバックボーンをしっかりと築いている、生き生きとした個性をお持ちの学生を求めています。根は真面目だけれど常識にとらわれすぎない学生は「BS日テレファン」に向いていると思いますよ。 ■社会に出て働くということは、その道のプロになるということ 大学生は色々な経験を積んでほしいですね。体験の種類を多く増やしてほしいということではないんです。一つのことを取り組む中で色々な経験に出会い、人生のバックボーンを作ってほしいのです。 例えば、私ならばサッカー続けていた中で多くのことを学びました。ボランティアをたくさんやっている学生や、海外に留学をしたことがあるという学生はたくさんいますが、その経験から学びがなければ意味はないでしょう。 社会に出て働くということは、その道のプロになるということです。プロは厳しいですよ。学生のうちに(何度もお話しして恐縮ですが)“人生のバックボーン”を作り上げ、プロになる意識を持って社会に飛び立ってください。 学生新聞オンライン2022年4月20日取材 津田塾大学3年 佐藤心咲

イベント・企業紹介

アートアクアリウム美術館GINZA オーナーインタビュー
(株式会社マル...

 「ありたい姿」を大切に、地域社会から愛される会社へ 株式会社マルハン 代表取締役 東日本カンパニー社長 韓 裕 ■プロフィール 1963年生まれ、京都府峰山町出身。京都商業高校進学後、3年夏に甲子園出場。準優勝に輝く。法政大学卒業後、ホテル、ゴルフ、不動産事業を展開する企業を経て、90年マルハンに入社。営業本部長として売上高1兆円企業への舵取り役を担う。06年代表取締役副社長、08年代表取締役、21年東日本カンパニー社長就任。 パチンコホールを中心に総合エンターテインメント事業を展開する株式会社マルハンの新会社「株式会社AQUA ART RELATIONS」(運営:マルハン東日本カンパニー)が銀座三越で「アートアクアリウム美術館GINZA」を主催している。今回は「株式会社AQUA ART RELATIONS」がアートアクアリウム美術館を開くに至った経緯や開館に対する想い、さらには美術館の見どころについて伺った。 ■新会社「株式会社 AQUA ART RELATIONS 」設立の経緯について 日本橋にあるアートアクアリウム美術館に訪れる機会がありました。その際にアートアクアリウム美術館 運営会社の亀井会長に直接ご案内いただき、作品だけでなく美術館の歴史や事業についてお話くださいました。常設展とイベント事業の2軸で展開し、2007年にスタート、コロナ前までに累計で1080万人のお客様がご来場と伺いました。しかし、近年はコロナの影響で人が集まらず厳しい状況にあるため、イベント事業だけを残し、常設展を切り離して他社に売却を検討、常設展は銀座三越に移転が決定するも、再構築が必要という状況にありました。当時コロナの影響で屋内型娯楽施設であるパチンコの成績が低迷していたため、事業の分散の必要性が社内で重要視され始めているところでした。そのタイミングもあり、エンターテインメント事業の拡大という意味でも、常設展の権利を引き継ぐことを決意しました。 ■「アートアクアリウム美術館GINZA」開館の想い コロナ禍によりさまざまな事業がダメージを受け、銀座も人がいなくなり、百貨店業界も厳しい状態を経験しました。その中で銀座や百貨店をもう一度元気にする、アートアクアリウム美術館を起爆剤にもう一度経済を盛り上げようという気運がありました。マルハン東日本カンパニーとしても新しい事業が認知されること、非日常空間を感じて頂きたいという想いと新しい事業を成功させるという期待感をもってオープンに至りました。 企業名「RELATIONS」とあるように、アートをきっかけに人と人との繋がりを築いていきたいという想いもあります。マルハン東日本カンパニーでは、10年ビジョンを掲げるうえで、リレーションシップ戦略というものがあります。①従業員 ②お客様 ③パートナー(お取引先様) ④社会 これら4つの領域とのリレーション、関係性を深めていく・拡げていくというものです。マルハン東日本カンパニーは会社と従業員との絆や信頼関係が良好で、エンゲージメントが常に高いことが強みです。それをお客様やお取引先様、社会に対しても同じように強めていくことでシナジーを生み出し、活性化していくことが大事だと考えています。そういう意味では今まで全く接点のなかった三越様とご縁ができたことはこの考え方のおかげだと思います。 社会とのリレーションについては、これまでも、従業員が地域のごみ拾いをしたり、地元のお祭りに協賛し、従業員も実際に参加したりするなどの取り組みを率先してやってきました。パートナー(お取引先様)とのリレーションでは、取引先は使ってやっているという考えになりがちだからこそ、対等な関係性を意識し、業者ではなく、しっかりご担当者様の名前を呼んで関係性を築くなども意識しています。このように4つの領域を中心に関係性を作り、愛される企業になるという想いを大事にしています。企業としての「ありたい姿」を共有して私たちにできることに取り組む姿勢をモットーにしています。実際に現場でもそういう小さなことがかけ算になって会社の原動力になっていると感じています。 ■「アートアクアリウム美術館GINZA」の見どころ、楽しみ方 日本橋と銀座の違いは百貨店内なので、スペースが少しコンパクトになり、天井高がとれないことです。その分、会場内をまわりやすく、ストーリーを感じられるような形になっています。金魚は中国の鮒がルーツで400~500年前に日本に入ってきたと言われており、鑑賞として多くの品種が生み出されています。私たちにとって馴染み深い金魚ですが、上下左右前後と見る位置によって見え方が異なり、色の鮮やかさ、色合い体形と様々な表情が見られる面白さがあります。和の空間で、水族館とはまた違う作品体験を味わって頂きたいと思います。アーティストや企業様とのコラボなども視野に入れながら話題性を保ち、つい載せたくなる、教えたくなる空間を創っていきたいと考えています。 ■今後の取り組みについて GWには多くのお客様にご来場いただきました。月日の経過で自身の見方が変わることや、一緒に行く人が変わることによって感じ方や捉え方も変わると思います。そういうことも含めてここに携わる一人ひとりが情熱を注ぐことが、この非日常空間を多くのお客様に長く楽しんで頂き愛される場所になるのだと信じています。 ■大学生へのメッセージ いつの時代においても若い人が世界を創っていきます。「若い人は〇〇だ。」というネガティブなメッセージにめげずに、ビジョン・世界観をもって進んでください。新しい道を創るのは皆さん自身です。私自身昔やっていた野球は半分以上やらされている状態でした。しかし、それはまったく自分のためになりません。他者から「やれ!」「やりなさい!」と言われても、自分が「こうしたい」という想いがない限りエネルギーは生まれません。「こうなりたい」「こうしたい」というものを探すことはとても大切で、そういうものを見つけて、希望をもってチャレンジしてください。やりたいことが見つからなくても、まずは見つけようとすることが大事です。人は描く以上のものにはなれません。そして次に重要になるのが、行動することです。行動しないと何も生まれません。ワクワクしながら自分がなりたい姿をイメージして、臆することなく進んでください。 学生新聞オンライン2022年5月9日取材 日本大学 3年 石田耕司 ■施設概要施設名称  アートアクアリウム美術館 GINZA (英語表記:ART AQUARIUM MUSEUM GINZA)開業日   2022年5月3日(火・祝)所在地   銀座三越新館8階 (東京都中央区銀座4-6-16)営業時間  10:00~19:00(変更になる場合がございます)休館日   銀座三越の休館日に準ずる(加えて、メンテナンス等により不定期で休館の場合がございます。詳しくは公式サイトをご確認ください。)公式HP   http://artaquarium.jp/

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SBCメディカルグループ(湘南美容外科)代表 ...

説得力を持たせるには常に結果を出すことが大切 SBCメディカルグループ(湘南美容外科) 代表 相川 佳之 (あいかわ よしゆき) ◼️プロフィール 1970年、神奈川県生まれ。日本大学医学部卒業。日本美容外科学会学会長(2015年)。日本美容外科学会理事。先進医療医師会参与。日本再生医療学会理事長補佐。パッションリーダーズ理事。大学を卒業後、大手美容外科に勤務。2000年に独立し、神奈川県藤沢市で湘南美容外科クリニックを開業。現在は国内外に118院を構え、美容医療や再生医療など 以上の診療科目を展開している。 全国に118院を展開し、従業員数は5500人にも上るSBCメディカル グループ。日本だけでなく海外にも医療を通じたサービスを提供してい る。なぜこのようにトップを走り続けることができるのか。院長が考える サービスとは、リーダーシップとは何か。人々の生活に輝きを与え続ける 相川代表にお話を伺った。 学生時代はテニスに没頭する毎日でした。中高生のときは軟式テニスをしており、県でも3番目くらいの成績だったため、大学に行っても楽勝だろうとたかをくくっていたのです。しかし、大学で硬式テニスを始めてからは、勝ち続けることは容易ではなくなりました。そのため、個人戦で優勝しようという目標を立て、毎日必死に練習し、努力するようになりました。その結果、大学4年生のときに優勝することができたのです。優勝したことで自信が付き、努力は必ず報われる。努力すれば目標は達成できるという確信に変わったのです。テニスを通して頑張る基準が上がり、やればできるという概念が生まれるようになりました。このことがなければ今も頑張れていないと思います。 ◼️伝説のメディカルグループへ 療は直接その人の人生に関わったり、悩みを解決することができます。こんなにもお客様から感謝される仕事はないと思います。伝説のクリニックと呼ばれる「メイヨー・クリニック」という病院があります。美容医療でナンバーワンを目指そうと思っていたころに読んだ本の中に、伝説のサービスという本があるのですが、そこいう本があるのですが、そこで紹介されていた病院です。この病院は世界中からお客様が押し寄せるというのです。美容医療でナンバーワンになるという目標からこのようなクリニックを作りたいという具体的な目標に変わった瞬間です。 この頃の日本は病院を選ぶという感覚だったのですが、アメリカでは先生を選ぶのが当たり前になっていました。やがて日本もこうなるだろうなと感じ、ドクター一人ひとりにブログを書いてもらうようにしました。患者さんのビフォー・アフターなどについて、それぞれのドクターにブログを書いてもらうことで先生を選ぶという感覚に近づけていきました。また、美容医療を始めた頃は価格が高く、裕福な人しか利用できないようなところがありました。しかし、美容医療はしっかり結果が出るのでいろいろな人に利用してほしいと思っていて、特に主婦の方には月に1回通って美を維持していただきたいなと思っていました。そこでホームページに価格を載せたり、CMで白衣を着た医者が出てきて治療費の話をしたりして価格を明確化したのです。広告は季節に合わせて出しますが、このような価格を前面に出した広告は、業界初だったと思います。SBCはお客様の満足度を第一にしており、そのために治療ごとに満足度調査をしています。満足度が低い場合、その原因を数値化することによりメニューの見直しを行います。数値化を愚直に行うことで改善点がはっきり見えてくるのです。 ◼️結果を出し続けることにこだわる ドクターありきの仕事のため、いかにして優秀なドクターを集め、そのドクターたちが成長できる場所と教育制度を作るかという仕組みづくりが大切です。美容医療が初めてというドクターもいますので、そのようなドクターでもしっかり教育できる制度を作っています。今後は美容医療においては日本だけでなくアジア全体に進出して行きたと考えており、また、美容だけでなく不妊治療を含め、男性患者も意識した展開を図っていきたいと思っております。リーダーとして意識していることは、当たり前ではありますが、嘘をつかないことや自分が間違っていると思ったら素直に謝ることを大切にしています。あとは結果を出していくしかないと思います。何を言うかよりも誰が言っているかの方が大事であり、言う人によって説得力はまるっきり違ってきます。たとえ正しいことを言っていたとして、結果を出していない人が いくら言っても耳に入ってき ませんが、結果を出している 人の言葉は人を動かす力を持っていると思います。だからこそ結果を出すことにこだわっています。 ◼️message 明るくて前向きな人、誠実な人がいいですね。明るくて前向きな性格は何にも代え難い才能だと思います。素直さに欠ける人は得てして 後ろ向きでネガティブだった りします。外見は変えられる けれども中身はなかなか変えられないものです。 また、リーダーシップも大切だと思います。自分の人生の責任を取れない人は、人の人生の責任は取れません。自分が勉強してきたことと努力 の結果が今の年収と地位を決めています。どういう生活・運動をしてきたかで今の体型と容姿があります。 10年後の自分もこれからの10年間でどういう運動をして何を食べたかで外見が決まり、どういう勉強をして誰と知り合い、何をしたかで収入や地位が決ま ると思います。性格は顔に出て、生活は体に出ます。習慣を管理すれば未来を管理できます。中身の美しさというものは外見に出てきます。 学生新聞 別冊 2022年7月1日発刊号 國學院大學3年 島田大輝

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銀座高須クリニック 総括院長・医学博士 高須 克弥

誰も成し得ていないことをやるからこそ面白い 銀座高須クリニック 総括院長・医学博士 高須 克弥(たかす かつや) 1945年愛知県生まれ。医学博士。昭和大学医学部卒業、同大学院医学研究科博士課程修了。美容整形外科医の草分け的存在として「二重瞼形成用糸」「脂肪吸引手術」など数多くの施術に関する特許を取得、世界の最新美容外科技術を日本に紹介。金色有功章、紺綬褒章を受章。「YES高須クリニック」のコピーをはじめとして、日本で最も広く知られる美容整形外科ドクター。 我が家は400年続く医者の家系です。当主は全員医者になることが決まっていました。本当は漫画家になりたかったのですが、医師免許だけはとっておけと言われ、昭和大学の医学部に入りました。 大学時代は博士号を取るため、大学院へ 年間行きました。専門は家族の誰とも被らない整形外科を選びました。大学では催眠術研究会に所属し、催眠術の研究をしていました。研究をしていく中で、切断した脚が残っていると感じてしまう「幻肢」に興味を持ち、論文を書くことにしました。頭の中に感覚領域があってそこに催眠術をかけていくと消えるということを論文に書きました。大学院1年生のときに、その論文が医学雑誌に掲載され、それが認められて博士号を取ることができました。大学院の4年間は大学に席を置きつつ鉄道中央病院や自衛隊中央病院でアルバイトとして働きながら交通外傷などを勉強していました。昭和大学では扱っていなかった分野だったので、学生だから勉強しに行くと言って自由に行っていました。 人工関節を作る研究に関心があったのですが、昭和大学の整形外科では取り入れていなかったためできませんでした。大学院2年生のときに、ドイツのキール大学との交換学生の機会があり、留学を決めました。キール大学は人工関節では最高峰の大学です。あるとき、人工関節の名人と言われていた先生の手術を見学できる機会に恵まれ、鼻を整形する手術を見ました。そのときの感動は大きく、「こんな世界があるんだ」と思い、整形外科の面白さにひかれました。そして、この技術を習得できれば日本で第一人者になれるのではないか、と思いました。 ◾️高須クリニックの開業 日本に帰ってからは、病人が早く完治するよりも長く入院する方が経営的には儲かるシステムになっている医療制度に納得がいかず、名古屋で自由診療の美容外科、高須クリニックを開業したのです。 美容外科をやると言ったときは、叔父に激怒されました。当時の美容外科は、医者として失敗したものが集まる三流医者の吹き溜まりのような科で、ましてや「病気ではない人間にメスを入れる医者が高須家から出るのが恥ずかしい!」とまで言われました。しかし僕は、「これからの医療はいろいろな病気が治せるようになり、最後には病気がない世界になり、美貌と若さを欲しがる時代が必ずやってくる。だから美容外科はこれから伸びる、伸びしろのある医療なんだ!」と言い、反対を押し切って開業したのです。 あるとき、『危ない美容法』という美容系の本を出版しました。当時は美容整形の本はあまり出ていなかったこともあり、テレビ局から美容整形のことが喋れる医者ということで呼んでくれる機会が増えていきました。そしてたくさんの有名人がお客様として来てくださるようになりました。国内は北海道から九州まで13箇所、ハワイにも2箇所のクリニックを持つようになり、いつの間にか美容整形の専門家になっていったのです。 ◾️美容医療は幸福追求医療 仕事のやりがいという面では、自分の体と顔を使って実験できるから面白いなと思います。今一生懸命やっているのは癌の治療で、挑戦的な治療を自分自身でやっています。誰もやっていないことをやるのが好きなのです。 今日本で流行っている、みんなが儲かっている美容整形の元ネタは、ほとんど僕なんです。脂肪吸引も僕が日本に広めたものですし、切らなくてもよい、糸で作る二重瞼も僕が発明したものです。いろいろな発明をして学会で発表すると同じことをされてしまう。だから途中からはパテントを取るようにしました。糸で作る二重瞼の糸のパテントを取り、糸で顔を引っ張り上げるパテントも取った。超音波で脂肪吸引をする装置のパテントもそうです。これらは特許庁がお墨付きを与えてくれるわけですから、僕が全部の創始者だということが公的に残ります。日本に留まらず韓国の美容整形を広めたのも実は僕です。 仕事上で楽しいことは、思いがけない歴史ができることです。医療現場では自分で実験ができるから楽しいですね。僕は全身ほとんど整形をしていて元のものがないんですよ。今の癌の治療も面白いですよ。 美容医療というのは第三医療です。第一医療は病気を治す治療医療、第二医療は病気にならないようにする予防医療、第三医療は予防も治療も関係なく、幸福を追求する医療です。だから美容医療はすごく小さな分野だけれど、これからはますます伸びる分野だと思います。なぜならば欲望には限りがないからです。 ◾️message 大学に入ることを目的にしていると、入った後は燃え尽きてしまい、大成しない人をたくさん見てきました。キャンパスライフを今は楽しめないけれど、好き勝手ができるいわば最後のチャンスです。社会人になったらやれないことを学生のうちに全部やっておくと毒抜きになっていいですよ。いい子だった人は大成しなかった。ひとつ前の時代に怪しいことをやっていた人が次の時代の勝者になっていると僕は思います。 学生新聞 別冊 2022年7月1日発刊号 日本大学卒業 辻内海成

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TCB東京中央美容外科 特別指導医 仙台駅前院院長 安本 匠

TCB東京中央美容外科 特別指導医 仙台駅前院院長 安本 匠(やすもと たくみ) 山形大学医学部卒業後、同大学附属病院・心臓血管外科勤務を経て美容外科医へ転身。TCB、1院目の福島院に2015年より医師として従事。心臓血管外科で培った技術を礎に、TCBの「特別指導医」として患者様に美を提供するとともに「TCB運営委員会」のメンバーとして、グループ運営の中心的な役割を担っている。 2014年の創立から数年で全国72院(開院予定含む)の展開を成し遂げ、 美容業界のトップグループに名を連ねるTCB東京中央美容外科。競争の激しい美容医療業界の中で、急速な成長を遂げたこのクリニックを支えてきた安本院長は、最初は心臓血管外科の医師だったという。その後どのような経緯で美容外科の医師になったのか、美容外科の魅力についてお話を伺った。 学生時代は山形県で過ごしました。幼いころは体が弱く、病院が身近な存在であったということもあり、昔から医者になることを志していました。山形大学の医学部に入学し、6年間勉強をしました。山形県は雪も多いのでキャンパスまで歩いていける距離に家を借りて一人暮らしをしていました。友人もみな大学の近くに住んでいたので互いに遊びに行ったり、一緒に勉強や飲み会をしたのが学生時代の思い出です。医学部は単位が厳しく、6年間朝から晩まで講義が埋まっているのに加えて実習もあるため、基本的に大学と家の往復でひたすら勉強をしていました。 卒業後は山形大学の附属病院に入り、心臓血管外科に所属しました。もともと手を使って物を作るということが好きだったこともあり、臓器を切り取るだけの治療法ではなく、新たに血管をつなげたり心臓の弁を治したりする創造的な治療に魅力を感じました。心臓は人間にとって非常に重要な臓器であり、運ばれてくる患者様は緊急の手術が必要な方も多いです。そのためこの仕事は休みがありません。遠出はできませんし、年間の休みはたったの2週間ほどです。もちろん魅力ややりがいは大きいですし、その道を究めていこうという方もとても尊敬しています。しかし、家族や子どものことを考えたときに、家族を本当に幸せにできているのか、自分の人生はこれで良いのかという疑問を感じる出来事があり、5年ほど続けたこの仕事から転職を考えるようになりました。 ◼️美容外科への転職 転職活動を進める中で、今のTCBの経営者である青木先生に出会い、先生が新しい静脈瘤のクリニックを開院するため、心臓血管外科医の募集をかけていることを知りました。私は自分の専門でもあった静脈瘤の分野に進もうと思って応募をしたのですが、既に他の先生で決まってしまっていたため、青木先生の勧めで美容外科を見学することになりました。 そのときに青木先生の二重施術を見学させてもらったのですが、施術を終えた患者様が初めて鏡を見たときに見せた笑顔がとても印象的で、美容外科医という仕事に魅力を感じました。自分が施術することにより、患者様も自分もすぐに結果が分かる点は前職とも共通する部分であり、面白さを感じたこともあって、最終的にこの仕事をすることに決めました。 仕事のやりがいは、患者様の喜ぶ顔や感謝の言葉がその場で聞けることです。たとえば、患者様が二重施術を受けたとします。医学的に言えば目に線が1本増えただけなのですが、二重になったことでその人が長年抱えてきたコンプレックスが解消され、心に抱えていた問題が解決します。たった1本の線で心が明るく幸せになるんですよね。そうすると患者様も自信を持ち、表情なんかも明るくなります。さらには考え方も変わり、ポジティブになります。新しいメイクをしてみようとか、いつもと違う髪型にしてみようとか、ファッションの勉強を始めたり友達付き合いがうまくいくようになったりだとか、少しずつ変わっていきます。 二重施術を経て、1ヵ月後に会うと表情も笑顔も髪型も格段にかわいくなっているんですよね。このように外見が変わることで、患者様の内面を良い方向に変えていけるような美容医療を皆さんに提供できたらいいなと思いますし、それが美容外科の一番の魅力であり醍醐味であると思います。 ◼️情報を正しく伝えることが大切 今の時代、小学生から二重施術やレーザー脱毛をしている方もいます。患者様の層や規模でいうと5年前や10年前とは全く違い、いろんな人がより身近に感じて気軽に美容医療を取り入れるような時代になっています。しかし、手術なのでもちろんリスクがあります。そういった点をしっかりお伝えして納得いただいたうえで皆さんに美容医療を提供したいので、身近な存在になったものの気軽じゃない部分も含めしっかり情報発信をするべきだと思っています。そのため、ネガティブな情報も出していくようにしています。リスクはしっかり理解してもらわなければならないし、それでやめたいという人がいてもいいと思います。きちんと理解したうえで自分にとって正しい選択をしてもらいたいですね。 ◼️message まとまった時間は学生時代にしか取れないので、勉強だけではなく趣味や旅行などに時間を使ってほしいですね。あとは、今の自分は今までの人生で自分が選択してきた結果だということを自覚し、自分の力で人生を切り拓いて行ける人になれると良いですね。たとえその選択が後から考えると失敗だったかもしれないと思ったとしても、次に進むための礎になります。どんな選択をしても、それが成功しようが失敗しようがさまざまなことに挑戦していけると良いですね。何歳になっても方向転換はできますからね。元気だったら人生何でもできます。 人や社会、時代のせいにせず、自分が選んだことはすべて自分の責任であり、責任を持つということが社会に出ることだと思います。 学生新聞 別冊 2022年7月1日発刊号 東京農業大学3年 畑千絢

大橋星南

株式会社まごころグループ 代表取締役 中島 英貴

「ありがとう」という感謝の言葉をモチベーションに 株式会社まごころグループ 代表取締役 中島 英貴 (なかじま ひでたか) 高校卒業後、ブラジルへサッカー留学し、サッカーチームと契約。引退後、柔道整復師の資格を取得し、 年間、接骨院と整形外科に勤務。その間、一般外傷を専門にする傍ら「むち打ち治療」の研究と勉強を重ね、平成 年に「すすき野まごころ接骨院」を開業。その後、事業領域を拡大し、美容事業、介護事業に参入。現在16店舗を経営。 平成20年、すすきので開業以来、若くして整骨院、エステサロン、美容鍼灸サロンを 計16店舗経営する中島社長。「真の健康とは心身共に充実した状態」だと説き、常にお客様に寄り添う社長だが、現在までの道のりは決して平坦ではなかった。寝たきり 状態から奮起して事業を起こすというすさまじい過去を持ち、それだけに感謝の気持ち を忘れないのだという。今回はそんな社長の過去と現在についてお話を伺った。 私は初めから美容業界を目指していたわけではありません。高校卒業後、幼少期より無我夢中でやってきたサッカーをするためにブラジルへ渡りました。ブラジルはハングリーな世界で、日本のようにコーチ・監督がサッカーを教えてくれるということはなく、自分から行動を起こさない限りは誰も何も教えてはくれないという環境でした。そのような中にあって、ブラジルではサッカーだけでなく、全てのことを能動的に考え、行動することを学んだように思います。サッカーは2年半ほど続けましたが、試合中に膝に大怪我をし、 21歳で引退しました。その後、今の仕事に関わるようになっていくのですが、サッカーを辞めざるを得なかったことは、人生の中で大きな後悔になっていたので、次にやる仕事は絶対に辞めないと心に決めていました。 ◼️長期療養後、整骨院を開業 帰国後、仕事についてあれこれ思いを巡らす中で、決められた線路の上を歩いて行くような人生よりも、何もないところから切り開いていく人生の方が自分には合っていると思っていました。 日中は整骨院で修行をし、夜は専門学校に通って柔道整復師という整骨院を開業できる国家資格を取りました。それから整骨院で8年間ほど修行したのですが、ちょうど独立・開業しようとしていた矢先、30歳の頃に首を痛めて入院してしまったのです。1年半ほど寝たきりの状態が続き、結局、長期間療養したものの首の痛みは治らないままでした。「ここまで療養して治らないものは、一年安静にしていても治らない」。そう割り切って、わずかな資金を元手に団地の片隅で中古の設備道具を揃えて整骨院を開業しました。本当に何もない状態でしたが、「ただ寝ているのなら、チャレンジして悪化しても本望」くらいの覚悟で始めたのです。 そしてまずは仕事ができる幸せを嚙み締めつつお金のことなど考えずに一生懸命働きました。すると徐々に仲間もお客様も増え、整骨院から美容エステ・美容鍼灸サロンへと事業が広がっていきました。 私は、美とは心身ともに健康であることが前提だと考えています。たとえば痩身エステにしても、健康的に痩せることを重視しています。そのため、お客様とは長く、深く関われるように、整骨院もエステもすべてサブスクリプションにし、体調管理をさせていただきながらお客様の目指す目標を達成することに尽力しています。 目標達成には、お客様のモチベーションを持続させることが不可欠なので、心のケアやホスピタリティをとても重視しています。私自身、こうしたお客様とコミュニケーションを取る中で、メンタルケアの大切さについても深く知るようになりました。 整骨院やエステの仕事は、仕事をして料金を頂きながらもさらにお客様から直接「ありがとう」と言っていただける、本当に稀な仕事だと思っています。このお客様からの感謝の言葉は、私にとって仕事の大きなやりがいになっています。 ◼️「ありがとう」の感謝の気持ちを胸に 今やっている事業はゼロから作り出してきたものです。それだけに労務管理を含めて会社としての体裁になるまでは大変でした。福利厚生の面からも充実とは程遠く、過去には従業員の家族からも怒られたことがありました。しかし、そう言ったところを少しずつ改善しながら一緒に働いてくれる仲間と事業を広げていきました。弊社のスタッフには、「ありがとう」という感謝の気持ちしかないです。私は事業を始めて10年以上になりますが、これまで一度もスタッフを怒ったことがありません(笑)。 私は会社を経営していく上で大切にしていることが3つあります。それは「謙虚」、「反省」、そして「感謝」です。この3つがあれば人は必ず付いてきてくれるものと思っています。 今後の展望については、あまり大それたことは考えていません。スタッフが家庭を持ったときに、きちんと食べていけるようにしなければという使命感のほうが大きいです。将来については模索中ではありますが、事業がなくなってしまわないようにホールディングス化することを考えていて、最終的には店舗までお店を増やしていければと思っています。事業を拡大していくためにも会社の理念に共感 できる人に入社して頂きたいです。求めるのは素直さのみです。素直であれば理念も浸透しやすく、成長も早いと考えています。 ◼️message どこの会社に入るかよりも、入ったあとのほうが重要です。どんなに入りたかった会社でも嫌いな人たちと嫌いなことをやっていると、本来やりたかったこともやりたくなくなってしまいます。それに、どこの会社に入っても理不尽なことはありますし、それを乗り越えるためにも好きなことを好きな人とやるのが大事なのではないでしょうか。会社の理念などを見て、自分のビジョンにあった会社を選ぶことが大切だと思います。 学生新聞 別冊 2022年7月1日発刊号 津田塾大学卒業 脇山真悠 / 日本大学3年 大橋星南

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東京美容外科 院長 麻生 泰

お客様の喜ぶ顔が仕事への大きなモチベーション 東京美容外科 院長 麻生 泰(あそう とおる) ■プロフィール 慶應義塾大学医学部大学院卒業。医学博士。2004年5月に東京美容外科を開設。同グループ14院の統括院長。現在はAGAスキンクリニック等を含め、日本全国に100院以上のクリニックを運営する。主な著書に『チェンジの法則』、『美容外科医の本音』、『麻生泰物語』等がある。座右の銘は「過去は変えられない。でも未来は変えられる」。 お客様の喜ぶ顔を見るのが嬉しくて、よりよい美容医療を提供し続けることを使命とする麻生院長。今では900人ものスタッフをまとめる院長だが、医学部に入るために3浪し、医療業界に対しても不安でいっぱいだったという。そんな苦労人である院長の美容医療を志したきっかけや業界への想いを伺った。 医学部を志望したのは高校2年生のときでした。志望理由は母が片目を失明しており、4人兄弟の誰かに医者になってほしいという母親の願いを叶えたかったことと、父の経営者としての姿を見てお金の重要さを身に染みて感じていたことが主な理由でした。当初は、医療の中でも形成外科に進もうとしていました。理由は幼少期に『ブラック・ジャック』を愛読していたことと、学生時代に顔面骨折の治療を見て治せることに衝撃を受けたのがきっかけです。 しかし、医学部を受験するものの現役時代はどこにも受かりませんでした。もう1年勉強すれば受かると思い、浪人しましたが2年目も受からず、ようやく3年目にして合格するという状態でした。友達はと言えば、もう就職の話をしている時期であり、焦燥感でいっぱいだったのを今でもよく覚えています。周りに医者になっている人もいませんでしたし、医療業界に対しても不安しかありませんでした。たとえ国家試験に受かったとしても、果たして自分が本当に医者になれるのだろうかという思いでした。 ◾️努力は必ず報われる そのような不安な気持ちを乗り越えるために、在学中は朝から晩まで治療の助手として働き、医大卒業後も研修などを通してたくさんの知識と経験を身に付けました。先輩や後輩、看護師さんなどの仲間にも恵まれ、大変ながらも充実した生活を送っておりましたが、ある日、状況が一変する出来事がおこります。父の会社が倒産したのです。家計を支えるためにはお金が必要となり、やむなく形成外科医から実入りのいい美容外科医へと変わらざるをえなくなったのです。 そして美容外科の知識を身に付けるために、日本だけでなくビバリーヒルズや韓国、オーストラリアに行ってたくさんの手技を学びました。あるときはお金のために美容業界に足を踏み入れた自分を責めたこともありましたが、施術後のお客様の喜ぶ顔を見ると次第に心情は変わっていきました。その大きな要因として、美容外科は医療知識や技術面に加え、美的センスが問われます。これが私に向いていたんですね。これからも「この人を綺麗にしてあげたい」の一心で、お客様が希望する美しさを提供し、施術後の笑顔を見るために、よりよい技術を提供したいと思います。 ◾️お客様の喜ぶ顔が見たい 私はお客様に満足していただくために、大きく分けて2つのことに力を入れております。1つ目は、やはり日々技術の向上に向けて研鑽することです。お客様一人ひとりの希望する美しさを実現するのはもちろんのこと、痛みの軽減や施術回数を減らすことにより、より一層お客様にご満足いただけるサービスを提供したいという思いがあります。そのためには、東京美容外科の一番の強みである専門性の高に、さらに磨きをかけることです。医療スタッフは、習得に7年かかる形成外科認定を取得している医師しか雇わないこともその表れです。 また、美容医療の業界だけでなく、医療業界全体でカルテの一括管理を可能にするシステムも作りたいと考えています。このように、お客様の立場に立った医療サービスを提供していきたいと考えており、そのための手段としてYouTube を使って発信力を高めようと頑張っています。有名になった先を恐れるのではなく、まず発信してみると何かが変わっていくかも知れないと思っています。 2つ目は、院長という立場ですのでやはり経営面ですね。ここでも大きな責任を背負わなければなりません。私についてきてくれる約900人のスタッフとその家族の生活がかかっています。お客様に満足していただくためにはスタッフが気持ちよく働ける職場環境を作らなければなりません。仕事場は人間関係がとても重要です。私たちの医院では良い人間関係が築ける職場を目指しています。 たとえば、いじめや差別をゼロにするために、万が一そのようなことがあったときにはすぐに発見し、報告できる体制を作ったり、私自身が現場に出続けることを意識しています。また、技術面だけではなく、人間としても優れた人を採用するようにしています。そのために、就職希望者のSNSは必ずチェックします。実際にSNSが原因で不採用になった方もおります。大学生のみなさん、気を付けてくださいね(笑)。 それと同時に、推薦状のある人は積極的に採用します。推薦をもらえる人間であるということは、一つの大きな判断材料になりますからね。そして美容外科が好きな人がいいですね。受け身ではなく、自分から行動を起こせる人と一緒に働きたいですね。 ◾️message 学生時代、私はずっと不安でいっぱいでした。今でも大学受験の夢を見ます。それくらい思いつめていましたが、その不安や焦燥感は、将来必ず役に立ちます。私自身、あのときの大きな不安をかき消すための努力が今の私につながっていると思います。もし今、不安や焦燥感でいっぱいなら、そんなに自分を追い詰めないでください、やっていくうちに得意になりますよ、と言いたいですね。 学生新聞別冊2022年7月1日発刊号 日本大学1年 大森雨音

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株式会社アデランス 代表取締役社長 津村 佳宏

時代の変化に対応して恐れずに挑戦、チャンスを掴む 株式会社アデランス 代表取締役社長 津村 佳宏(つむら よしひろ) ■プロフィール 1963年生まれ。広島県出身。早稲田大学人間科学部卒業。 1982年3月、株式会社アデランス入社。2017年3月、代表 取締役社長兼グループCEO就任(現任)。内閣府認定公認社団法人 日本毛髪科学協会 毛髪診断士認定指導講師、早稲田大学マー ケティングイノベーション研究会所属、金沢工業大学 派遣研究員、 看護理工学会 評議員。 2018年に創立50周年を迎えたアデランス。この節目の年に、安定志向をものともせず、ベンチャースピリットこそ成長の源泉だとして社内改革を断行。その結果、創業当時から連綿と続く毛髪事業のほかに、アイブロウサロンや美髪エステなどのビューティ事業が好評を呼ぶ。このような大改革を行った津村社長に、会社の目指すべき方向についてお話を伺った。 アデランスは、私が入社したころは男性用のオーダーメイド・ウィッグ専門の会社でした。当時、ヘアデザイナーを募集していて、私は芸術や美術が好きでヘアデザインに興味があったので入社しました。新入社員は80人くらいでしたが、同期の中で居残り組になった社員が5人いました。その中の一人が私です。特にパーマがうまく巻けず、居残りで勉強しました。会社からは、このままでは技術者としての配属は難しいと言われ、デザインをやりたくて入社した私は、技術力を上げるために一生懸命に練習しました。 老人ホームや介護施設で無料のカットに参加したり、街中の人に声をかけてカットモデルをお願いしたりして技術を磨いていきました。同期が先に進んでいることに悔しさもありましたが、技術力を上げるための努力を積み重ね、ついにはアデランスの技術大会で優勝するまでになりました。鍛錬すれば不器用な人でも上手になる、努力は必ず報われることを学びました。 ◾️社員の可能性の芽を摘まない アデランスには「目指せ世界のブランド アデランス」という創業当時から掲げる大きなビジョンがあります。毛髪事業からスタートした会社は、日本だけでなく世界中に展開し、女性用のウィッグや医療分野への進出も果たしました。また、CSR活動の一環として、お子様の髪の悩みを心の傷にしないためにウィッグをプレゼントする「愛のチャリティ」にも創業10年目の頃より取り組んでいます。 創業50年という節目の年に、毛髪事業で培った技術やノウハウを生かし、美容、医療、健康のウェルネス産業に進出しました。髪が綺麗になれば顔や体も綺麗にしたくなるものです。さらにはヘルスケアのための医療も必要になってきます。 このように、事業領域の拡大を図るためには、社員にどんどんチャレンジしてもらいます。また、アデランスは海外の社員の方が日本人の社員よりも多く、ダイバーシティの考えから国籍や人種に関わらず活躍できる風土も備わっています。社員一人ひとりのやりがいが私自身のモチベーションにもなっています。 一方、部署によっては進歩がなく、業績が止まっているケースもあります。それはマネジメントの問題だと考えました。上司が長年の知識と経験から部下の意見を否定してしまい、活性化しないのです。社員一人ひとりの行動が生産性の向上につながります。もしかしたら失敗するかもしれない。しかし激動の時代を生き抜くためにも、思い切ってチャレンジする部下の、可能性の芽を摘まないことが大切です。 アデランスが54年間も続いているのは、ウェルネス産業を通して人々を笑顔にするという理念の下に、お客様への心からのおもてなしを徹底しているからです。社員全員でアイディアを出し合い、会社を活性化させ、全ての社員に活躍してもらいたいと思っています。 ◾️年齢にあった美しさを引き出す アデランスはオリジナリティにこだわっていて、これが差別化につながっています。化粧品や美容機器を取り扱っているビューステージというブランドがあります。コンセプトは「いつの時代も美しく」。本当の美しさは若いというだけでなく、その人なりの年齢の重ね方だと思います。どの年代でも美しくあるためのサポートをしたい、そう考えています。そのためには専門性が高い機関や会社と協力し、研究開発を進めていくことも必要です。 創業時より知的財産の特許を国内毛髪関連業界ではトップレベルで取るほどに、最高の技術をお客様にご提供させていただくことにこだわってきました。美容業界は約9兆円という巨大産業で競争がとても激しい。その分、潜在顧客がたくさん存在する魅力的な産業でもあります。未開の地が多い美容業界ですので、止まっている市場を見つけ出し、最高の商品を生み出したいと思っています。これがイノベーションとなり、レッドオーシャンだった美容業界をブルーオーシャンに変えてきています。 今後の美容業界はさらに二極化していくと思います。大手企業だからと言って簡単に勝てる時代ではありません。デジタルマーケティングやSNSをうまく活用し、市場を獲得していく必要があります。コア事業に頼り過ぎて保守的になると前に進めません。立ち止まっているとあっという間に市場を取られます。新しいことにチャレンジしていくことが大切です。 アデランスは4年前に50周年を迎えました。創業者の意思を引き継ぎつつ、ベンチャースピリットを持ちながらこれからもチャレンジを続けていきます。 ◾️message 大学生の皆さんに伝えたいのは、年齢は最大の武器であり、可能性は無限です。将来、何をしたいか、どうなりたいか、今はまだ先が見えないかもしれません。まずはチャレンジしましょう。いろいろな経験をすることが大切です。それが血肉となって、今後のビジョンが見えてきます。始めるなら今、若ければ若いほど有利です。 学生新聞別冊2022年7月1日発刊号 明治大学4年 酒井躍

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城本クリニック 総院長 森上 和樹

誠実に良いものを提供し信頼されるクリニックに 城本クリニック 総院長 森上 和樹(もりがみ かずき) ■プロフィール 1958年、大阪市生まれ。1984年、富山大学医学部医学科卒業。1990年、大阪市立大学大学院医学部医学科外科系外科学修了。医学博士。日本美容外科学会理事。日本美容外科学会専門医。医療法人健真会理事長。大学病院時代より美容外科に興味を持ち、臨床経験を重ねる。その後、田辺中央病院を経て、1991年、城本クリニック開業。大阪、名古屋に始まり、現在は全国に25院を展開中。 「0120♪107♪……」。特徴的なメロディーと共に電話番号が流れ、ふと画面に目を向けるときれいな女性が絨毯の上を転がっている。あの不思議なコマーシャルを、一度は見たことがあるだろう。美容外科が身近になってきた今だからこそ、歴史があって信頼できるというのは病院選びの大事な要素である、と語る森上院長に美容医療の在り方についてお話を伺った。 小さい頃は少しやんちゃで、いたずらしたり、勉強をしなくて怒られたりしていた記憶があります。ただ、夏休みの宿題はきちんとやるタイプで、最初の2日で終わらせて、夏の間中、遊び回っていた記憶もあります。2歳上の兄が医学部に入ったことや、親の希望でもあったことから自分も医学部に入ったという感じです。学生時代は、実習や教科がびっしり詰まっていたので、授業をたくさん受けて勉強もしていましたが、自分の中では十分に遊んだ結構楽しい学生時代を送ったと思っています。 国家試験に受かって晴れて医者となったときに、外科の道を選びました。医者というのは大きく分けると外科と内科に分かれます。内科というのは勉強した者勝ちで知識勝負のところがありますが、勉強しなくても医者ではいられてしまうものです。そうすると自分に甘くなってやり過ごしてしまうかもしれないと思ったので、手術ができないと始まらない外科を選び、さぼりようがない道に進むことにしました。 外科の中にもいろいろありますが、大阪市立大学の第二外科を専攻しました。その後、研修の中で城本さんと同期になり、彼が医局を離れて美容外科の道に進んで開業したときに、初めはアルバイトの麻酔科医として働き始め、そのうちそこで手術をするようにもなりました。大学院に進み、教授になるといった医局の世界では、サラリーマン社会と変わらない面があって、自分より上の教授の言うことは絶対であったり、教授の命令で異動があったりします。そのような医局でこのまま仕事を続けるのもどうだろうかと考えていたところだったので、美容外科の共同開業を誘われて、いずれ開業をするのであれば共同で開業するのもいいなと思い、名古屋で美容外科を共同開業しました。 ◾️外見の美しさも大切な要素 美容外科といっても、手術をするという点では外科と何ら変わりがありません。癌などの手術をする方が人の命がかかっていて重みがあると言えばそうかもしれませんが、美容はすぐ目に見えて結果が分かるところが楽しいですし、患者さんに喜んでもらえるところが嬉しいです。 本当の意味での美しさ、と言ってしまうと究極は人の心の中にあると思います。しかし、たとえそうだとしても、外見もきれいな方がいいと思いませんか?生物学的に美しいものには惹かれるものだと思います。長く接しているうちに、性格など内面に惹かれていくと思いますが、外見がきれいだということも大事な要素ではないでしょうか。自分の信念を曲げてまでうそをつく必要はないですし、無理して若返ることもないですが、美しいものは美しいということでいいのではないかと思います。 美容医療は昔より日が当たるようになり、需要が広がってきていて、ドクターで美容業界を志す人も増えています。人は美しくなりたいという思いがあることで、美しくなれるのではないでしょうか。 ◾️誠実に良い医療を提供する 美容医療というのは非常に商業主義的なところがあります。自由診療なので、本当は10万円で済む手術であっても40万円かかると言えばそれで済んでしまうところがあります。ある意味暴利をむさぼっても患者さんはわからない。それが故に、インチキが横行している業界ではあると思います。 当クリニックは、値段が全てではないですが、適切な医療を適切な価格で提供し、決して患者さんをだますようなことをしないのが一番誇れる点です。法外な値段を取るようなクリニッは、一見稼げるように思えますが、それでは本当にいい医者は集まりません。私たちはいいものを目指そうとしている集団で、そうでありたいと考えて医療を提供しています。 また、何かに特化した強みがあるというよりも、美容医療における幅広い範囲を網羅した医療を提供しています。もともと名古屋と大阪で開業した当クリニックですが、事業を進めていくにつれてドクターが増えたり、人との縁で長崎のホテルにクリニックを出したり、個人で開業している人が一緒にやりたいと言ってグループに入ってきたりすることでクリニックの数がだんだん増えてきました。 美容医療業界は、注目される業界になってきており、美容外科への抵抗が薄れ、需要が広がってきました。それに伴い、美容医療業界を志望するドクターも増えてきたように思います。今後のクリニックは若い世代が受け継いでいくと思うので、そのような中で自分がやってきた仕事が存続してくれるといいなと思います。 ◾️message 大学生時代はたくさんの経験をしてほしいと思います。若い頃の話は今でも印象に残っていて、人に語ったり、その当時の友達とは交流も続いていたりします。良いも悪いもいろいろな経験をするといいと思います。社会のことは社会に出てみないとわからないこともたくさんありますが、人としての経験値を増やして、人間の幅を広げることが大事だと思います。 学生新聞別冊2022年7月1日発刊号 東洋大学3年 濱穂乃香

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医療法人社団 翔友会 品川美容外科 理事⻑ 綿引 ⼀

常に機嫌良く!機嫌をコントロールする 医療法人社団 翔友会 品川美容外科 理事⻑ 綿引 ⼀(わたひき はじめ) 1985年鹿児島大学卒業。1988年品川美容外科を開設。医 療法人社団翔友会理事長として品川美容外科・スキンクリニックを 中心に、レーシック眼科、審美歯科、ストレス治療など、医療をよ り身近に、より多くの方々に提供している。また、医師及びスタッ フの技術水準の向上に取り組み、最高の医療を提供するとともに、 診察費の最適化の両立を目指している。 美容医療の世界では業界最大手である品川美容外科。日本に美容医療が今ほど身近ではなかった時代に、美容医療の可能性にいち早く気付き、品川美容外科を開業。業界の草分的な存在となった。このように先見の明のある綿引理事長に、事業を成功に導くための秘訣や経営手腕についてお話を伺った。 最初、私は北海道大学工学部で原子工学について学んでいました。しかし、医療を学びたいという思いがどうしても強くなり、思い切って鹿児島大学の医学部に入り直し、医師を志すことになりました。大学生時代はどこにでもいるような普通の真面目な学生でした。それなりに楽しい学生生活を過ごせたと思っています。 鹿児島大学卒業後は美容外科の道に進みました。当時は、美容外科への道を志すのは珍しかったのですが、これからの時代は病気といったマイナスのものをなくす医療だけでなく、美容医療のように、プラスに働く医療が伸びていく時代になると直感的に感じていました。 そこで当時美容外科業界で有名だった十仁病院で経験を積むことにしました。その後、満を持して開業したのですが、開業当時は本当に大変でした。当時、日本ではまだまだ美容外科が少なく、美容外科医師自体も日本に100 人もいなかったのです。おかげで患者様のご予約がいっぱいで、連日連夜、朝の10時から夜中の12時まで休む暇もなく働くという日々が、3年間も続きました。 ◾️品川美容外科の成長の秘訣 私と同じ時期に美容外科の分野で開業した仲間は多くいましたが、ほとんどうまくいかなかったと思います。その理由は多店舗展開の失敗です。最初は上手くいくのですが、次第に経営的に行き詰っていったのです。一方、私は派手なことをするのではなく、コツコツと目の前の患者様のために尽くしていました。振り返ってみると、地道に患者様に向き合っていくことが失敗しなかった要因の一つのように感じます。患者様を大事にして、自分たちの提供できる最大限のものを提供し続ければ、気に入ってくださった患者様は、また当院に来てくださるだろうと考えています。このことは美容外科業界だけでなく、どこの業界でも同じです。お客様が何を望んでいるのかを突き詰めていければそのビジネスは伸びていきますし、それができなければ衰退していきます。規模を大きくすることは二の次です。大きな船は安定しますが、小回りが利かなくなってしまうものです。それでは従業員やお客様の声を拾いにくくなってしまい、衰退の一途を辿ることになるでしょう。 一方、みんなが満足してくれるものを提供し続ければ、自然と成長していきます。規模は勢いに任せて大きくするものではなく、自然と大きくなっていくものだと私は考えています。 それともう一つ大事なことは、働いてくれている人たちは何のために働いているのかということを常に考えることです。理由は人それぞれ違うとは思いますが、みんなに共通しているのは自分自身が幸せになりたいからだと思います。患者様が満足して幸せになり、スタッフもやりがいを感じて幸せになり、それを見て私自身も幸せになる。つまり、全員が楽しく幸せになれる会社であり続けたいと思っています。 ◾️自分と向き合い常に機嫌良くあれ 「今は辛いけれど将来は必ず幸せになるんだ」と多くの人が言いますが、その幸せになる将来はいつ来るのでしょうか? 過去からしたら今が将来ですし、将来など気づいたら今になっています。将来幸せになるのではなく、今幸せにならなければいけないと私は思います。今を楽しく生きるため、ひいては人生を楽しむために私が心がけていることが一つあります。それは常に機嫌良くあることです。幸せなときは、どんなときでしょうか? いろいろなシチュエーションがあると思いますが、全てに共通するのは機嫌が良いときだと私は思います。 常に機嫌良くあるためには他の人に機嫌を良くしてもらおうと思うのではなく、自分自身で機嫌を良くすることが必要です。私はと言えば、毎朝お風呂に入り気分を良くし、「人生最高」と3回言うことで朝から機嫌良く過ごすことができます。 これは私が一緒に働く人に求めることでもあります。一緒に働くならばいつも機嫌が良い人と働きたいと誰でも思いますよね。仕事とは100やっても50ぐらいはうまくいきません。たとえうまくいかなくても、自分が興味をもって楽しく機嫌良く仕事をし続けていれば、やがてうまくいくことが増えてくるものです。 ◾️message 機嫌良くすることを大事にしてください。威張ったり自己中心的になっては絶対にいけません。これは仕事中だけでなく、どんなときも意識してください。そうすれば、自然と周りの人たちから好かれます。好かれると自分のいいところを周りの人は見てくれるようになり、やりたいことに協力してくれるようになります。自分の成し遂げたいことを実現するのに周りの人の力はとても大切です。 もう一つはやりたいことにどんどんチャレンジしてください。もし失敗したとしても、日本で食べていけなくなることはそうそうありません。勇気をもって一歩を踏み出してください。きっと今まで見えなかった世界が見えてきますよ。 学生新聞別冊2022年7月1日発刊号 法政大学3年 鈴木悠介

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聖心美容クリニック 統括院長 鎌倉 達郎

目指すゴールに近づくための環境づくりこそが大切 聖心美容クリニック 統括院長 鎌倉 達郎(かまくら たつろう) ■プロフィール 宮崎県出身。日本美容外科学会(JSAS)理事。聖心美容クリ ニック全10院を統括。2007年に世界初の脂肪幹細胞豊胸術を執刀。2016年にアメリカの権威ある形成外科学誌「Plastic and Reconstructive Surgery」のベストペーパーアワードを日 本人美容外科医として初めて受賞。アメリカ・フランス・中国など海外講演も数多くこなす。 「とことん真面目に、美容医療。」をモットーに、1993年の開業から今日まで、上質な医療を提供し続ける聖心美容クリニック。鎌倉統括院長は全員がチームプレーをする意識を持つことが大切だという。この考え方は学生時代にスポーツによって培われたようだ。国内10院を束ねる院長に、仕事の魅力や目指すゴールについてお話を伺った。 1983年、宮崎医科大学医学部(現・宮崎大学医学部)へ入学しましたが、国家試験で忙しくなるまでは、バスケットボールに注力する生活でした。中学時代の経験が功を奏してキャプテンにもなり、大会では二連覇の成績を収めたこともあります。バスケットボールは1人が頑張るだけでは意味がなく、チーム全員が当事者意識と思いやりを持って動くことが求められるスポーツです。この経験を通して「チームとして何かを成し遂げる楽しさ」を学びました。このことがあったからこそ働く上でも一つのチームとして結果にこだわる考え方になったと感じています。 ◾️美容医療でQOL向上に貢献 大学卒業後、九州大学の医局に入った私は、第二外科で6年間勤務をしました。当時、第一外科よりも厳しくて大変と噂のあった第二外科ですが、「どうせ働くなら思いっきり壁にぶつかり悩みながら研鑽していきたい」と思ったのです。結果論ではありますが、そこに所属していたからこそ、後年、美容医療に関心を持つきっかけに出会えたのです。「迷ったらたやすい道ではなく、険しい道を選択する」というマインドをみなさんにもお薦めします。 大学病院で勤務後に、美容外科医として働き始めたわけですが、美容医療には他の診療科との決定的な違いが2つあります。一つ目は、「誰もが見た目で施術の結果を客観視できる」点です。癌を始め内臓系の手術は、専門的な知識を持ち合わせた医者にしか結果の判断はできませんが、その点美容医療は異なります。その手術が成功したかどうかはご本人のみならず、周りの誰もが一目で判断できるのです。分かりやすいからこそ患者さまが抱く「なりたい姿」もどんどん具体的かつ複雑になってきます。だからこそ医療を提供する側は、常にスキルを磨き続けなければなりません。 二つ目は「行きたくて行くのが美容医療」という点です。病院に行く理由の多くは体調がすぐれなかったり、精密検査の結果を聞くためだったりとネガティブな理由がほとんどです。しかし、美容医療に来る患者さまは、「理想の姿になれるかもしれない」「悩みを解決できるかもしれない」と希望を持って来院される方ばかりです。 美容医療を受けようとする動機は人によってそれぞれ違っていたとしても、「ここで生まれ変わって生活のQOLをあげたい」と願う気持ちはみなさん同じです。その期待に応えられる医者でありたいと思っています。施術を受けられたご本人の納得感と満足感が、我々医者のスキルを図るための有効な物差しなのではないでしょうか。 ◾️人材育成を以て業界への貢献を志す 2004年からは統括院長として、国内10医院に属する19名の医師たちを見守る立場にいますが、それぞれの医師が現在に至るまでのバックグラウンドやそこから形成される感性が異なるために、なかなか一筋縄ではいきません。加えて外科医は一種の「職人技」ですから、個々の医師が持つ「こだわり」を生かしつつ、全体的にも常にハイレベルなスキルを保てるように腐心しています。 具体的にはスキルアップ方法や仕事に対する取り組み方の一方的な押し付けはせず、あくまでも一人ひとりの医師たちが目指すゴールに近づけるような環境づくりに徹するということです。お互い価値観の違いを受け入れながら高い視座を持ち、選択に迷ったときは、「患者さまにとってそれがベストな選択なのかどうか」、「聖心美容クリニックのメンバーとしてふさわしい姿かどうか」という基準に立ち返ることができる人材を育てていきたいですね。この達成感は、彼ら・彼女らの飛躍が美容医療業界の発展につながったときに初めて得られるものだと考えているので、まだもう少し先かも知れません(笑)。 1980年代から拡大した美容医療ですが、そこから40年余りで業界は大きく変化しました。「大手組織としてのブランド力」と「医師個人の発信力」が掛け合わされる時代になったのです。今後、ある一つの分野に特化した専門クリニックが増えたり、低価格化にとことんこだわった手軽なクリニックが増えたりするかもしれません。そのような中で、聖心美容クリニックとしては、「ここに来たらどんな悩みも限りなくゼロに近づくことができ、理想を現実に変えられる」という場所であり続けたいです。その実現に欠かせないのは、安心感と信頼感だと考えています。 ◾️message 昨今の風潮を見ていますと、もはや「学生だから」と線引きするのはナンセンスなのではないでしょうか。若いうちから大人と関わる機会を増やし、そこで得た知識は蓄えるのではなく、実践を通してトライアンドエラーを繰り返してみてください。社会に出ると、正解が「決められているもの」から「自分で作るもの」へと変化していることに圧倒されるかもしれません。しかし、立ちはだかる壁に向かって試行錯誤した経験がきっと支えになってくれることでしょう。一瞬一瞬を大切に、探究心を持って行動してください。 学生新聞別冊2022年7月1日発刊号 日本女子大学4年 神田理苑

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レジーナクリニックグループ 総院長 木村 真聡

一流の技術と経営手腕で世の中の人を美しく レジーナクリニックグループ 総院長 木村 真聡(きむら まさと) 大阪大学医学部医学科卒業後、同大学附属病院・一般病院勤務を 経て美容医療に転身。2017年レジーナクリニック総院長に就任。 美容皮膚科医として10年以上のキャリアを持つ。現在はレジーナクリニックを始め、レジーナグループの総院長を務めている。医療 脱毛だけでなく、美肌治療やドクターズコスメの監修を通して、お肌のあらゆる悩みを解決するクリニックを目指している。 思春期に誰もが悩むであろうニキビ。木村医師もその一人だったそうだ。このような自分の体験から医療の道を志したという。そして脱毛の将来性を見抜いて独立開業。木村医師は「感動を与える医療」を多くの人に提供したいと考え、現在、レジーナグループ全体で全国に26院展開し、一流の技術とサービスを提供し続けている。その経営の秘訣を伺った。 美容業界に入る前は内科医をしておりました。やりがいはありましたが、自分が医者になると決めた動機からはかけ離れていました。中学時代、ニキビに悩まされていた私は、父親の勧める薬で綺麗に治すことができました。このことがきっかけで、医療というものに感動し、いつか自分も医者になり、患者様に同じ感動を味わってもらいたいと思うようになったのです。しかし、この感動は内科医でいる限り味わってもらえないのではないか、自分に合っているのは美容医療の方なのではないかと思い、4年目で転向しました。 しかし、やってみると同じ医療でも仕事の内容が全く異なり、解剖や生理などの知識や技術は活かすことができましたが、美容については一から勉強し直すことになりました。中でも1院目の仕組みを作るのが一番大変でした。日日問題点が出てくるのでその都度改善し、マニュアルに落とし込んでいきました。 ◾️感動を与える医療を目指す 患者様の見た目がきれいになり、ポジティブになっていく姿を見るとやっていて良かったなと思います。コンプレックスがなくなっていくと患者様の表情が明るくなっていきます。そのような現場に立ち会えることが嬉しいです。しかし、常に感動を与えられるわけではありません。医療なので100パーセントの効果が期待できるなどと言い切れるものではなく、ごく稀に効果を感じてもらえない方がいます。そのような方とどう向き合い、どう効果を出していくか、工夫の連続です。たとえば、シミ取りであれば機械の設定や種類を変更するなどして対応しますが、性別や肌に合わせた治療は千差万別であり、治療の根拠を見つけ出すのにとても苦労します。 患者様と接する上で大切なのは、施術者本人が美容に興味があり、スキンケアなど綺麗になる努力を毎日続けていることです。また、仕事をルーティン化して右から左へ流してしまい、成長が止まる人がいますが、考える習慣をつけることが大切です。人は常に成長しなければ一流であることを維持できません。レジーナクリニックは高い接遇力を求めております。そのため、接遇研修では、患者様の雰囲気やご要望に応じて、サービスを提供するように指導しております。技術面でも毎回同じようにやるのではなく、患者様の肌質や毛質に合わせて行うようにします。どうすれば患者様にもっと喜んでもらえるかを考え、仕事をブラッシュアップしていくことが大切です。 日本でレーザー脱毛が始まったのは1990年代後半ですが、当時は全身脱毛で80万円近くかかりました。現在は脱毛機の進歩により、20万円ほどで出来るようになりました。その結果、近年脱毛業界では価格競争が起こっております。当院は価格競争には加わらず、いかに付加価値をつけて差別化していくかに重点を置いています。脱毛は医療でありながらもサービス業としての側面が強く、接遇に力を入れているのはそのためです。価格を維持したまま同業者に差をつけるには技術・サービス・空間デザイン・マーケティングの全てにおいて一流でなくてはならないと考えています。そのため、当院ではクリニックに関わる全てのことにこだわりを持っています。TVCMもマスで知ってもらうためには大切な要素であり、「脱毛と言えばレジーナ」というように、興味を持ってもらうことができます。 ◾️美を追求し新しい時代を切り拓く 美しさとは中身も外見も綺麗なことだと思っています。しかし、定義するのはとても難しく、老けない身体作りが美につながるというのが私の見解です。美しさとは年齢によって違い、無理のないマイナス5歳ほどがちょうど良いのではないかと思っています。レジーナクリニックの患者様は20代が中心ですが、どの年代の方も目標は変わらず、その人に合った美を追求しています。 コロナ禍ではマスクをしている間に手術などでイメージチェンジを図りたいと考える方も多く、美容医療は拡大しています。脱毛と聞くとクリニックとエステが混同されがちですが、医療脱毛はれっきとした医療です。昔は脱毛=エステのイメージが強くありましたが、現在では一般の方にも広く浸透してきています。次のステップとして当グループの知見を元に、少しでも美容医療業界の進歩に貢献できればと考えていますが、そのためには日々の積み重ねが大切です。私は今まで積み上げてきたものを学会や論文投稿を通じて同じ志を持つ医師に知ってもらいたいと考えています。 ◾️message 学生のときは思いっきり好きなことをするべきだと思います。遊ぶにしても悩むにしても、モラトリアムの最後の期間を有意義に使ってください。社会人になると皆さんが想像する以上に時間はありません。なんとなく好きだからやるというのではなく、いろいろなところにアンテナを張ることが重要です。やっていることの意味を考え、他人の良いところを見習い、日々観察できる人になってほしいと思います。そして、自分自身を成長させてください。 学生新聞別冊2022年7月1日発刊号 関東鍼灸専門学校3年 竹原孔龍

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林遣都 脚本の奥にある、描かれていない部分をいかに読み取り、体現して...

林 遣都 (はやしけんと) 1990年生まれ。滋賀県出身。2007年映画『バッテリー』で俳優デビュー。第31回日本アカデミー賞新人俳優賞等を受賞。今年はドラマ「愛しい嘘〜優しい闇〜」(テレビ朝日)、舞台「セールマンの死」(PARCO)などに出演。日本テレビ新土曜ドラマ「初恋の悪魔」でW主演を務める。 ◆『初恋の悪魔』の見どころを教えてくださいこのドラマは原作がなく、坂元裕二さんの書き下ろしのオリジナル作品であるところが魅力のひとつです。全てを描き切れるのかと思うほど個性豊かなキャラクターたちばかりで、登場する一人ひとりの人物像にも注目してもらいたいです。彼らがどのように交わり、物語を繰り広げて行くのかをぜひ楽しみに観てほしいです。このドラマに参加できることが純粋に嬉しく、絶対に面白い作品になるだろうと確信しています。 ◆俳優業の魅力について教えてください僕は滋賀県で生まれ育ち、中学3年生の修学旅行で東京へ行った際にスカウトしていただきこのお仕事を始めました。最初は人前で演技をすることに対して恥ずかしさもありましたが、作品を通じていろいろな方と関わって仕事をすることにやりがいを感じるようになりました。役作りは、役と向き合いながら、脚本に描かれていない人物の背景を細部に至るまで考えることを大切にしています。お芝居をしているときは本当に楽しくて、一つの作品をみんなで作り上げていくこと、自分が作品の一部になれることがとても幸せです。また、誰かが作品を観て楽しんでくれたり、人の心を動かす可能性を秘めていることは、俳優業の魅力だと思います。仕事がつらいと思ったことはありませんが、人前に立つのはいまだに得意ではありません。でも、仕事は本当に楽しいですよ! ◆大学生へのメッセージをお願いしますコロナ禍で世の中の空気感が変化していますが、大変な時代だからこそ無理をせず自分を肯定してあげてください。悩む時間もあるかと思いますが人に合わせようとせず、自分自身の「好き」を見つけて突き進んでください。 ■取材を終えて林さんのお話を聞いていて役に対して真摯に向き合い、さまざまな視点から役作りをしているのだなと感じました。ただ演じるだけでなく、作品の背景には何があるのかをしっかり自分で考えていることに感銘を受けました。本質を捉えることの大切さを学んだように思います。 国立音楽大学2年 岡部満里阿 初恋の悪魔日本テレビ系 7月期 新土曜ドラマ  7月16日スタート(毎週土曜日よる10時)林遣都&仲野太賀W主演脚本家・坂元裕二による、小洒落てこじれたミステリアスコメディーが誕生。

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生見愛瑠 今やりたいことを全部やる。そして目の前のことに全力で取り組む

生見愛瑠 (ぬくみめる)愛知県出身。20歳。CanCam専属モデル。モデル、としてバラエティ番組に多数出演、めるるの愛称でお茶の間から親しまれている。さらに昨年女優デビューも果たし、女優としても注目を集めている。 ◆学生時代の過ごし方について教えてください名古屋のダンススクールに通っていたときに、今の事務所の方に声をかけていただき、小学4年生からモデルを始めました。最初は不安や怖さもありましたが、挑戦できたのは母が背中を押してくれたおかげです。小学生のときは、「ご褒美で東京に行く」くらいの感覚でモデルをやっていましたが、学校より芸能活動を優先せざるを得ない場面が増えてきた中学生の頃には「お仕事をしている」という意識に切り替わっていきました。またモデル業は服やメイクなどの知識が増えていくのでとても勉強になります。知ることでファッションやメイクをより楽しめるようになりました。 ◆お仕事のやりがいや苦労ついてお聞かせください成長を感じたときやファンの方に温かいメッセージをいただくとモチベーションが上がります。雑誌の表情などもデビュー当時と今では変化があるので、気づいてもらえると嬉しいですね。この数年でテレビ出演の機会が増えるにつれ、良くも悪くもいろんな反響があります。知らない方にネガティブな意見をいただくことは初めての経験で驚きもありましたが、「感じ方は人それぞれ」とある種割り切って捉えることを心がけています。それほど落ち込むことはありませんが、自分に非があると思えば改善しています。嘘をつかず、素の自分でいることを大切にしています。最近では女優業の機会をいただきましたが、実際に演じてみると想像とは全然違いました。日常では使わないセリフを言ったあとに、普段は絶対に抱くことのない感情を味わえるので、1日で2人分の経験ができて得した気分になります。今後もいろんな役に挑戦していきたいです。 ◆大学生へのメッセージをお願いします自分のやりたいことをやって、人生を全力で楽しんでほしいです。「楽しそう」「おもしろそう」という気持ちを抱いたら、まずは口に出して自分に言い聞かせてください。それをすぐに行動に移して、夢中になれることを見つけてください。 日本大学3年 石田耕司 ■取材を終えてお会いしたその瞬間から、終始弾けるような笑顔で接してくださったことがとても印象的です。テレビ越しにも伝わる生見さんのポジティブな空気感は、どの瞬間にもまっすぐに向き合うひたむきから来るものだと感じました。同世代の素敵なお人柄から刺激を受けた時間となりました。(日本女子大学4年 神田理苑) 『 モエカレはオレンジ色 』7月8日(金)全国公開 出演:岩本照(Snow Man) 生見愛瑠鈴木仁 上杉柊平 浮所飛貴(美少年/ジャニーズJr.)・古川雄大配給:松竹株式会社©2022 「モエカレはオレンジ色」製作委員会 © 玉島ノン/講談社