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Archive for 運営スタッフ

大橋星南

アルフレッサ株式会社 代表取締役社長  福神雄介 

「自分で完結的に仕事ができるようになって、初めて魅力がわかる」 ■プロフィール 1999年3月 慶應義塾大学法学部法律学科卒業、2000年4月 アルフレッサ(株)に入社。2016年6月より特殊医薬品流通の専門子会社であるエス・エム・ディ(株)の代表取締役に就任、2019年4月からアルフレッサ(株)ロジスティクス本部長、2020年6月にアルフレッサ(株)代表取締役に就任、現在に至る。 「すべての人に、いきいきとした生活を創造しお届けします」という企業理念を元に事業展開しているアルフレッサ。主に医療用医薬品、医療機器、医療用検査試薬等の卸売販売を行っている。高齢社会、コロナ禍と健康・医療が注目されている昨今、どんな想いで経営に取り組んでいるのか、福神社長にお話を伺った。  小中高は内部進学校だったため、ずっと学校の勉強と、高校時代はずっと応援部に入っていたため、一年中制服を着ていました。大学に入り、水上スキーを本格的に始めました。子供の頃、アメリカに行っていた時に軽く経験したことがあったため、先輩に「うまい!」とおだてられた結果、大学2年の頃に個人と団体の両方で日本一になりました。といっても、マイナーなスポーツのため2・3回勝ったら優勝できるスポーツでした。(笑)水上スキーと言うニッチな領域で勝つことと、今の会社での「医療の物流」と言う両方ニッチな業界で勝ってきたので、学生の頃からそのような軸があったのかもしれません。その後、怪我で引退したため、モーターショーなどのディレクターのバイトなどをしていました。そのため、学生時代から人の上に立ち、指示を出す経験をさせていただきました。大学を卒業し、大学院への進学を考えていましたが、アメリカのフロリダに留学に行くことになりました。 ■今の仕事を始めたきっかけは?  祖父が作った会社に入社しました。アメリカでしっかり学校に入り直し、M B Aを取ろうとしていたところ、父親から「会社が上場するから、日本に帰ってこい。上場の経験なんて会社で一生に一回しかないから、この一回を逃したら二度と味わえない」と言われ、日本に帰ってきました。帰国直後、上場準備のため、会社のお金の動きや経理、決算書や、なぜこの会社に利益が出ているのかの仕組みなど全てを書き起こしていました。その後、留学先のアメリカに戻ろうとしたのですが、父親に「営業は若い間しかできないから、今のうちに経験しておいた方がいい」と言われ、2年半ほど営業を経験させていただきました。その間に会社が合併し、新たに設立されたアルフレッサ ホールディングス㈱で、海外事業やグループ会社の事業再編・再生を担当しました。その後、特殊医薬品流通の専門子会社の代表取締役、ロジスティクス本部長などを経て、2020年から代表取締役に就任致しました。様々な部門を経験させていただいたため、常に冷静に自分と周りを見直す視点を持ち続けることができるようになりました。 ■会社の魅力、他社との差別化を教えてください。  私たちの会社の魅力は、長い歴史と規模感が圧倒的なところです。4月は1日で約200億円もの薬が売れます。このような規模の会社で仕事をすると、小さなイノベーションですごく大きな規模の仕事と掛け合わせを行うことができます。私たちの会社は卸の会社なので、配達するだけのイメージがあるかもしれませんが、実際はI Tを使った様々なバックグラウンドがあります。例えば、ワクチンの温度をマイナス20度に保って届ける必要がある製品もありますが、それも、温度管理技術研究所を自社で構えており、日々研究や立証、証明を行っています。また、その薬がどのルートでどこの医療機関にどのくらい届けられているのかも、全てデータとして私たちが管理しています。そのため、外から見たらただ薬を運ぶだけに見えるかもしれないですが、膨大なI Tやデータが裏側で動いています。これからは、このような裏の仕事や、私たちがどのくらい日本国のライフラインを支えているか伝えられるように発信していきたいと思っています。 他社との差別化は、最新のデジタルツールの導入があります。社員にiPadなどの導入などは他の会社より早く行っていました。また、リハビリ、医療、介護などの多職種をつなぎ、地域密着型のネットワークを作り、その中でお薬が供給できるような消費需要に対して供給する事業なども、他より早く進めています。 ■どんな人と一緒に働きたいですか?  とても複雑でステイクホルダーも多い大変な仕事ではありますが、やりがいを凄く感じることができる職種です。表に見えるのは配達だけですが、バックグラウンドには巨大なデータやI Tがあり、ロジカルなものになっています。コロナの時もワクチンの配達や、不良品の回収でとても責任のある大きな仕事を受けることができる仕事はなかなかありません。私たちの行う仕事は、社会的インフラに必要不可欠です。また、私たちは凄く身近に多くの人の命を助けています。薬を運ぶと言うサービスは、患者さんの命に関わるものです。毎日ここまで人の命に関わる仕事を行い感謝される仕事はなかなかありません。ですから、使命感を持ってこの仕事に取り組める人と一緒に働きたいです。 ■大学生へのメッセージ  長い期間を使わないとできない海外旅行や留学、勉強など、学生でしかできないことをやってほしいです。これから仕事を探したり、社会人になる上で、いろんな人から情報を集めて業種を絞っていくと思いますが、最初は思い込むことが大事だと思います。どんな仕事でも成長機会や経験値を積むチャンスにあふれているはずです。給料が高い・休みやすいなど条件ではなく、面白そうとか興味があるところに、どんどんチャレンジしてほしいですね。その場が自分に合っていなくても必ず成長に繋がっています。仕事の本質を理解して、自分で完結的に仕事ができるようになってからが面白いので、小さくならず思い切って社会に出てほしいです。 学生新聞オンライン2021年12月1日取材 日本大学 3年 大橋星南

川浪亜紀

愛知県知事 大村秀章

産業県愛知で、人類社会のための民力をつける ■プロフィール 1960年愛知県碧南市生まれ。東京大学法学部卒業後、農林水産省入省。1996年に衆議院議員初当選し、以来5期連続当選。内閣府副大臣や厚生労働省副大臣などを歴任。2011年に愛知県知事に就任。現在3期目。 地元愛知県から、親戚や友人、先輩もいない中、単身で上京した大村知事。東京・霞が関で働きながら、政治に携わりたいと考え、政治の道に進むことになる。その中でもぶれない「郷土愛」。コロナで大打撃を受けながら、愛知県、ひいては日本の成長のための活動を止めないその活力はどこから来るのか、お話を伺った。 ■愛知県から、たった一人で上京  高校の頃は、とにかく勉強を頑張りましたね。どうせ行くなら1番いい大学に行ってやろう、という気持ちで、勉強に打ち込みました。また、「東京に行きたい」という気持ちも、勉強を頑張る上での原動力になっていたと思います。 大学に入ってからは、学校に行って、部活に励み、アルバイトに行くというような、ごく一般的な大学生活を送っていました。大学受験で体が鈍ってしまっていたので、誘われたアメリカンフットボール部に所属し、部活をしながら家庭教師をしたり、シーズンオフの期間には単発のバイトをしたりしました。 大学時代に最も大変だったことは、情報を持っていない東京で、一人で暮らすという状況に慣れることでした。何しろ、愛知県から上京して、先輩や友人がほとんどおらず、最初の頃は繋がりがなかったので、生活に慣れることだけで精一杯だったのです。誰もが今より情報を得にくい時代ではありましたが、その中でも情報を入れるのが遅かった方だと思います。 ■官僚の道へ  卒業後の未来については、いつしか官僚の道を目指すようになりました。東京大学の法学部という環境で、周りが官僚の道を目指す中で、自然な成り行きだったのだと思います。公務員試験を受け、農林水産省に入省し、霞が関で働くようになりました。私が官僚として働いていたその頃は、バブルの崩壊やオウム真理教の事件、阪神淡路大震災などがあり、日本の進路がこの先どうなるかわからない「羅針盤のない時代」が始まったように感じました。 ■日本のグランドデザインを作るのはやはり「政治」  仕事では次第に国政との繋がりが増えていく中、日本の進路を決めるのはやはり「政治」だと感じる機会が増えていきました。その末に、35歳で役所を辞め、政治家になるための選挙活動を始めたのです。当時は、まだ終身雇用の時代だったので、その中で職場を辞めるのはとても勇気のいる決断でした。身内に政治家もおらず、土壌は全くないゼロからのスタートでしたが、時代の節目に遭遇したことが人生の決断をする一つの大きな要因であったと思います。 ■選挙期間を支えた「地元が好き」という郷土愛  1年4ヶ月の選挙活動は、決して苦しくはありませんでした。もちろん、少し前までは公務員として保証されていた身分だったこともあり、安定性が無い無職となったことは精神的に苦しい部分はありました。しかし、選挙にかかわる活動を苦しいと思ったことはありません。暗中模索の中の地元回りや選挙活動は、自分を支援してくれている方へ感謝や、「こんな場所があったのか」という新たな発見にも繋がったからです。ただ、長い選挙活動期間中にもそんな思いを持てたのは、やはり「地元が大好き」という郷土意識からだと思います。強い郷土愛を持ち、地元に貢献するための政治活動を苦にしない人でないと、政治家としてはやっていけないとも痛感しました。衆議院議員の梶山静六先生の 座右の銘である「愛郷無限」は、まさに言い得て妙な言葉です。郷土を愛することが、世界、人類を愛することに繋がるのだと思います。 そして、自分一人でできることには限りがある中で、自分を応援してくださる方たちの助けや、その一つ一つの積み重ねから地元の代表になるのが議員という存在です。こうした積み重ねのおかげで、2019年の愛知県知事選挙では、過去最多得票で選ばれることができました。票を投じてくださった多くの方に報い、良い成果を出したいと強く思います。 ■産業県愛知から日本に成長のパワーを  愛知県知事としての仕事に携わる中、大切だと感じるのは「雇用」です。 官僚時代、「雇用」の大切さを感じたのは、リーマンショックの影響で起きた派遣切りです。当時、日比谷公園に生活困窮者のための一種の避難所ができました。その時、厚生労働省の副大臣を務めていた私が講堂を開ける決断をし、生活困窮者の方々を講堂内に入れました。世界的に見ても珍しく、危険なことでもあったと思います。しかし、その時目の前にあったのは、今困っている目の前の人を助けるという想いだけでした。このとき、社会問題に関わる現場に直接携われた経験は、「世の中を良くしたい」という自分の思いと繋がる部分も多かったので、本当に良かったと思っています。 現在の日本の課題は、社会保障をどう守っていくかだと思います。手厚い保障を守るには、経済を回す必要がある。それには、雇用が重要なのです。企業活動が付加価値を生み、国民生活をより豊かにします。愛知県は日本一の産業県で、「民力の塊」です。愛知県が成長のエンジンとなって、日本をより元気にしていきたいと思っています。 ■愛知を世界中の人々が集まる集積地へ  現在、より多くの雇用を生み、経済を活性化させるために、世界との連携をもっと高めて、産業成長に繋げる計画も進んでいます。例えば、スタジオジブリ作品の世界観を再現したテーマパーク「ジブリパーク」を、2005年愛知万博のレガシーである公園に、2022年秋のオープンを目指して建設中ですが、観光だけでなく、世界中から人材を集める仕掛けだと思っています。2024年10月にオープン予定の「ステーションAi」は、国内外のスタートアップ1000社の集積を予定しています。また、フランスの「ステーションF」と提携し、世界中のスタートアップ企業の大拠点として、世界的なビジネスを展開していこうと考えています。これらは、今まで産業県として先頭を走ってきた愛知県だからこそできるプロジェクトだと思っています。 こうして、産業を生み、付加価値を生み出し、民力をつけていく。そのために大切なのは、自由・ダイバーシティ・女性の活躍です。お互いが認め合うサスティナブルな世界を作り上げることで、愛知県を皮切りに、日本という国を世界に向けて開かれた国にしていきたいです。 ■大学時代の貴重な時間を有効に使って!  自分は学生時代、生活に慣れることで精一杯で、余裕がありませんでした。そのため「あのとき、もっといろんな情報があったら……」と思うこともあります。今の時代は、SNSやテレビなどあらゆる方法で情報に触れることができ、回り道せずに欲しい物に直接アクセスできる大変恵まれた環境にあると思います。何でもできる今の貴重な時間だからこそ、若いときにしかできない、様々な活動にチャレンジしてほしいです。そして、いくつになっても学習は大切です。人間の中で唯一衰えない臓器が脳だと言われます。ぜひ勉強もして、挑戦もして、限りある時間を有効に使ってほしいと思います。 学生新聞オンライン2021年5月11日取材 津田塾大学 4年 川浪亜紀

学生新聞インターン

株式会社吉野家ホールディングス 代表取締役社長 河村泰貴 

「#外食はチカラになる」プロジェクトの背景と目的 ■プロフィール 1968年大阪出身。1987年広島の高校を卒業後、アルバイトを経て1993年吉野家ディー・アンド・シーに入社。2001年吉野家ディー・アンド・シー企画室グループ企画室に着任。2004年はなまるへ出向、経営再建に貢献し、2007年同社代表取締役社長に就任。2012年吉野家HD社長就任、2014年には吉野家の社長を兼務。長期経営ビジョンNEW-BEGINNINGS2025を掲げ、「飲食業の再定義」を進めている。 新型コロナウイルスの打撃を受けた飲食業界が「#外食はチカラになる」プロジェクトにより一致団結し、再び盛り上がりを見せ始めている。株式会社吉野家ホールディングスの代表取締役社長 河村泰貴氏に、プロジェクトを行うに至った経緯や目的、これだけ多くのお店を巻き込むことに成功した理由についてお話を伺った。 ■食業界の魅力は、お客様の反応がダイレクトなところ コロナウイルスの拡大で、街に人がいない状況が続きました。これまでも東日本大震災やリーマンショックなど経営に大きな影響を与える出来事はありましたが、復興に向けてみんなで一致団結して頑張ろうという盛り上がりを見せていました。しかし、今回のコロナウイルスの拡大は人とのが接触できないため、その動きも起こらないことが今までとの大きな違いです。その一方で、さまざま変化を後押したという面もあります。例えば、接触を避けるためタッチパネルやセルフレジなど導入のスピードを速めることになりました。また、はなまるうどんに関しては、今までテイクアウト比率がほぼゼロに近い状態でしたが、今では大きく売り上げを伸ばしています。このような状況の中で、より大きな影響を受けたのが大きな箱で営業しているお店です。お店の大小にかかわらず助成金は一律なので小規模のお店は潤いますが、大きなお店は立ち直れない程の打撃を受けています。また、エンタメ業界やスポーツ業界はいまだに厳しい状況が続いています。こうした変化が起こっているため、コロナ前と全く同じ状況に戻るとは思っていません。次に、飲食店の魅力としては、料理を作って、その場で提供しているため、お客様の反応をダイレクトに感じ取れるということです。良い反応も悪い反応もその場で見ることができるため、やりがいにつながると思います。 ■「#外食はチカラになる」プロジェクト設立の背景と目的 「街に人がいない」という状況で、吉野家一社の力ではどうすることもできませんでした。しかし、2021年の6月ごろから職域接種が始まり、想像以上の勢いでワクチン接種が進んでいきました。このペースで新規陽性者が減れば「外食しても良いのでは?」という雰囲気になると考えました。そのときに背中を押せるようなムーブメントを起こせないかと思ったことが、「#外食はチカラになる」プロジェクト設立のきっかけです。このプロジェクトは、外食企業と外⾷をサポートする企業らが一丸となって取り組む外食横断プロジェクトです。日本人は空気で動くところがあるため、まずはその空気を変えようと思いました。飲食店も商業施設に入っていることが多いため、人を呼び戻すことを優先に捉えました。 ■コロナ禍だからこそ実現できた、一大ムーブメント ただ、これこそ一社の努力ではどうしようもないため、まずはムーブメントを起こすために他の会社にもお声をかけました。このプロジェクトでは、外食をより一層お客様に楽しんでもらうため、それぞれの店が独自の特典を設定しています。吉野家自体は店内10%オフというキャンペーンを行い、来店者が増えた結果、利益もプラスになりました。しかし、コロナ前の2019年の数値にはまだ戻っていない状態です。その他のお店では笑顔でお出迎えやSNS投稿でドリンク無料など、自由にキャンペーン内容を設定でき、かつ大きな縛りをしなかったため、参加へのハードルが下がり、賛同してくれる企業が増えていきました。また、プロジェクトの内容も非常にシンプルだったため、他の企業に門前払いにされることもありませんでした。その結果、初めは9,800店だった参加店数が今では18,000店ほどに増えています。難しかったのは、プロジェクトの発表のタイミングです。ムーブメントを起こすことが目的でもあったため、タイミングが早すぎると批判を受ける可能性が高い。でも、遅くても「今更か」と人々の関心を引けません。さらに、選挙などの他のイベントや出来事が被ってしまうと、それこそ話題に上がらなくなってしますので、毎月各社の社長のスケジュールを押さえたり、調整をしたりという作業が大変でした。しかし、これを機に大きなネットワークができたため、これから共に何かを始めたいという話は上がっています。こうした取り組みは、コロナ過で飲食業界が逼迫している状況だから成り立ったことで、平時に呼びかけても成り立たなかったことだと思います。そしてなにより、今回のプロジェクトの発起人となって取り組めたことは嬉しく思いますし、従業員が自社に誇りを持てたことは良かったと思っています。 ■外食産業は、今後二極化していくはず 今後の外食産業は二極化すると思います。一つはどんどん無人化する店舗でもう一つは人が介在することに価値を置く店舗です。吉野家は後者を目指しています。「機械ができないことを人がやって本当に楽しいのか。それは、本当に人間らしい仕事なのか?」という疑問があります。みなさんは「やりがい」がない仕事を本当にやりたいと思いますか? そういった考えから、吉野家は人が介在することで生まれる価値を大事にしていきたいと思っています。その点でも、「接客も含めて、『ロボットで代用できるよね』と言われるようになったら終わりだよ」と社員には伝えています。 ■未来に希望を持ってください 大学生の皆さんは、ぜひ将来雇用を生む立場になってください。また、未来に希望を持ってください。そして今しかできないことをやってください。迷ったらとにかく今しかできないことを優先させた方が良いと思います。また、いろいろなことに興味をもち、やりたいことを絞れない人はたくさんいると思います。そのときは興味を持ったものに対して、もう一歩進んでみる、もう一つ扉を開けてみることに取り組むことをおすすめします。また、就職後3年は頑張ってみてほしいです。自分探しをいつまでも続けていたら何者にもなれません。どの会社に入っても最初にやることは同じです。まずは社会人としての当たり前のマナーを学ぶことが重要になると思います。また、自分の親と学校の先生以外のいろいろな大人に会って、いろいろな考え方を身に付けてほしいです。 学生新聞オンライン2021年12月23日取材 日本大学2年 石田耕司

経営者

株式会社Photosynth(フォトシンス) 代表取締役社長 河瀬航大 

自分が思い描く理想の未来を、自分の手でつくる ■プロフィール 1988年鹿児島県生まれ。2011年筑波大学理工学群卒業後、株式会社ガイアックスを経て、2014年に株式会社Photosynthを創業。スマートロックAkerunを主軸としたIoT・SaaS事業を通じて、累計70億円を調達、2021年に東京証券取引所マザーズ市場に上場。筑波大学非常勤講師。 マザーズ市場に上場されたばかりの「Akerun入退室管理システム」の開発・提供を行う株式会社Photosynth(フォトシンス)。趣味レベルでAkerunの開発を行っていたところ、新聞に取り上げられて話題になったことから、量産することになり、起業。その起業仲間は大学時代のサークル仲間や当時の同僚だった。そんな自身が歩んできたドラマのような起業ストーリーを、河瀬社長に語っていただきました。 ■大学のサークル仲間が起業仲間に  筑波大学の理工学群に所属していたのですが、実際はあまり大学の授業には出た記憶はなく、サークル活動の方が熱心でしたね。サークルは真面目なものと不真面目なものの両方に所属していました。不真面目な方は、筑波大学一の飲みサークルです。アウトドア系サークルだったのですが、毎日ひたすら飲んでいました。そんなサークルの1個上の先輩に、株式会社ユーザーローカルのCTO三上さんや、さらに2個上の先輩に、株式会社アカツキ代表取締役CEOの香田さんがおり、社会に価値を生んでいる企業の経営者になられています。なんでもやりきることが大事なんだと思いました。 もう一つのまじめな方のサークルは、「em factory」という自然環境問題をビジネスの切り口で解決する早稲田大学のビジネス系のサークルです。当初はインカレサークルでもなく、東京にゆかりもないのに早稲田大学に飛び込むのはどうかなと思っていたところ、中学・高校の同級生が早稲田大学に入学することになり、その同級生を誘って一緒にem factoryに入りました。それからは、サークルの活動に参加するために筑波からの50キロの距離を週3で行き来して活動に参加し、3年生には早稲田生ではないのに代表を務めることに。副代表も早稲田生ではなく埼玉大学の者がやっていました。実はそのサークルの副代表の渡邉と、広報をやっていた中学・高校からの友人でもある熊谷の3人で、現在のフォトシンスを起業しています。そのため大学のサークルは自分にとって、とても貴重な人々との出会いになったと思っています。 ■20代前半は腕試しの期間  大学4年間のサークル活動を通して、「ビジネスでのアプローチは面白い」ということを学びました。そこで、就職するなら、新規事業を作れる会社に行こうと決めていました。そこで、「ぶっ飛んでいる人と働いてみたい」と思い、ガイアックスに入社しました。もともといろんなことが好きで挑戦したいタイプだったので、ガイアックスに入社してからは、プロジェクトを同時に10個くらいやっていました。 そのとき手掛けたプロジェクトの一例としては、NPOの立ち上げやキュレーションアプリ、弁護士保険のweb EC申し込み比較サイトなど。何かに焦っているわけでも、何か目標があるわけでもなかったのですが、「自分でNPOを立ち上げられるんだ」「M&Aの話なんて来るものなんだ」などと、経験を積むたびに、成長に対する喜びを感じていました。だから、入社してから3年間は、日が昇るタイミングまで仕事をして、シャワーだけ浴びに家に帰り、9時には出社するというような日々を送っていました。 ■面白いことをやってみようというノリで生まれたAkerun  10個あるプロジェクトと同じように、「なにか面白いことやってみたい」という気持ちから生まれたのがAkerunです。男4人で飲んでいたときに、カギをなくした話や友達や恋人にカギを渡すのが面倒だという話になりました。「今の時代は様々なものがデジタル化していくのが普通だから、鍵もデジタル化したらいいのでは?」という実体験から着想を得て、開発が始まりました。  熊谷はパナソニックでエンジニアとして働いたのでモノづくりができて、渡邉はソフトバンクで働いていたため通信を理解していて、私もガイアックスで新規事業立ち上げをやっていたので、3人の専門がかみ合わさり、製品開発に着手していきました。 ■ガイアックス社長からの後押し  その際、日経新聞のコラムにプロダクトを取り上げてもらいました。その翌日にガイアックスの上田社長に呼ばれて、「これは河瀬か?」と質問されました。当時、副業が当たり前の時代ではなかったので、「はい、すみません、やりました。でも副業とかではないので」と伝えると、社長からは「そういう話ではない。こういうチャンスがあるのであれば起業したら? もし起業するなら投資するよ」と背中を押してもらいました。  最初は6名でお金を出し合って資本金10万円ではじめて、ガイアックスからの出資金や助成金で最初の半年間を切り抜け、その後はプロトタイプをつくってベンチャーキャピタルを回って、半年後に4.5億の資金調達を達成。そこから歯車が回り始めました。 ■自分が描く未来を作れるのが魅力  起業がおもしろい理由は、「こんな世界があったらいいよね」と思う、自分の描く作りたい未来を、自分の手によってつくることができる点です。僕がフォトシンスで起業していなければ、世の中にスマートロックというものがなかったかもしれないし、鍵が100年後も残っていたかもしれない。発明家のような気分ですね。 ■フォトシンスが目指す世界とは  今後、目指すところは、一つのAkerun IDですべての扉を開け閉めできる社会をつくっていくこと。僕たちはオフィスのカギやビルのセキュリティカード、家の鍵、車の鍵などたくさんのカギを持ち歩かないといけません。さらに、保険証や社員証、マイナンバーカード、クレジットカードなど、財布には入っている現金以外のものは基本的には個人を証明するためのものでしかありません。でも、最強の「河瀬」というカードが1枚あれば、それが名刺の代わりにもなるし、ポイントカードにも、決済機能にも、ドアを開ける鍵にもなります。一個のIDで完結できる社会、それを自分たちはその社会をつくっていきたいです。 ■学生へのメッセージ  すべては行動で、基本行動してこそだと思っています。いきなり頭で考えて、「自分って何したいんだっけ?」や、「何のために生まれてきたんだっけ?」と自問自答しても始まりません。僕みたいに手あたり次第、興味なくてもやってみて、その中でこれ面白いかもしれないと思うことを深堀して、やりたいことを見つけていけばいいと思います。どこで一緒に活動をしていくような仲間が生まれるかはわからないので、仲間を大切にしてほしいです! 学生新聞オンライン 創価大学4年山内翠

経営者

株式会社マクアケ 代表取締役社長 中山亮太郎 

自己を表現できるアイテムとの出会いを生み出していく ■プロフィール 2006年に株式会社サイバーエージェントに入社後、社長運転手の傍ら新規のオンラインメディアを立ち上げ、その後ベトナムでのベンチャーキャピタル事業を担当。2013年に現在の株式会社マクアケを創業し、アタラシイものや体験の応援購入サービス「Makuake(マクアケ)」をリリース。2019年12月には東証マザーズに株式を上場。大企業、中小企業、スタートアップ、個人チームなど、規模を問わず、それらが生み出すアタラシイものや体験を応援購入できる場としてサービスを拡大中。一般社団法人ベンチャー型事業承継の理事として日本全国のアトツギの背中を押す活動も推進している。 アタラシイものや体験の応援購入サービス「Makuake(マクアケ)」を提供する株式会社マクアケ。今ではクラウドファンディングという概念も一般的になってきたが、立ち上げ当初は理解されず、産業界への浸透が進まなかった。それでも日本の優れたアイデア・能力・技術が生まれていく土壌づくりを実現し、いまやクラウドファンディングではなく新商品が生まれる「応援購入サービス」と新しく定義した中山亮太郎社長に、20代の過ごし方からMakuakeを立ち上げて今に至るまでのエピソードを伺った。 ■弁護士事務所のバイトで気づいた自分のワクワクするもの 「二十歳になったら家を出ろ」という家訓があったので、一人暮らしを始めると同時に自分で生計を立てていくために弁護士事務所でアルバイトをしました。弁護士になるという格好つけた言葉を言って法律学科に進みましたが、実は弁護士が何をしているかわかっていませんでした。弁護士になるためにはすごい時間と勇気をかけて勉強していく必要もあって、そこにフルダイブする前に、リアルな弁護士の仕事を知りたいと思い、大学の友人から弁護士事務所のバイトを紹介してもらいました。実際に働いてみると、自分には弁護士という職業がそんなに向いていないかもしれないと思い始めました。逆に、弁護士の先生に相談しに来る企業の方の新規事業の話や新しい施策や打ち手の話にとてもワクワクしていました。そこで、自分は事業や会社をつくっていく人のほうが向いていることに気づけました。 ■事業づくりという経験値を積むためにサイバーエージェントへ 新しい情報に触れている友人から「事業をつくるならサイバーエージェント」と言われ、会社説明会に行きました。当時社長は30代前半でものすごい勢いがあり、ここなら20代から事業をつくれる会社であると確信し入社しようと決めました。内定が出てからも、藤田社長の「渋谷で働く社長の告白」という本に影響を受け、「将来起業したいんだったら営業力だ」とすぐに株式会社USENでのアルバイトにエントリーし、営業の経験をしました。しかし、営業はそんなに甘いものではないこと、稼ぐ力が足りていないこと、事業として利益が出る仕組みづくりがわかっていないことを自覚し、修行を積むべくサイバーエージェントに入社しました。 ■事業経験を積みながら自分の哲学を固めたサイバーエージェント時代 希望通り入社1年目から、大手企業とのアライアンスに関するメディアの立ち上げで現場リーダーといった、他社では経験のできないことを経験しました。アライアンスメディア事業は4年でeコマースを紹介するメディアとして日本で圧倒的No.1にすることができ、成功事業のトラックレコードができたという経験でした。そのあと、どんな事業をつくりたいかを考え始めました。幅広い事業でいろんな人と関わっていくなかで、世界の隅々に価値を残していけるような事業をつくれる人間になりたいと思いました。しかし、東京でずっと働いていたため、まだ世界地図が頭に思い描けていませんでした。これは何かまずいかもと思った矢先に、ベトナムでの投資事業・VC事業のポジションが空いてVCに抜擢していただきました。27歳の時にベトナムに移り住んで、2年半ほどベトナムのスタートアップ、ベンチャー企業にVC投資をしました。そこで生活している中で、使っていたiPhoneやパソコン、日用品などに日本のブランドはほとんどなく、悔しさを感じました。インターネットの生態系は僕がいなくても大きくなっていきます。しかし、日本のモノづくり力やコンテンツ力における新しい何かが生まれていく土壌は、まだ全く出来上がっていませんでした。そういったところに手を打とうと考えました。 ■机上の空論ではビジネスは動かないことを実感したマクアケ立ち上げ期 今でいうDXやD2Cのように、当時クラウドファンディングは盛り上がるだろうと言われており、政府も後押ししていくという流れがありました。そして、私自身もその領域であれば思い描いていた、日本から新しいものが生まれていく土壌づくりを実現できるかもしれないと思いました。しかし、現実では、資金を人から募集するというクラウドファンディングの解像度が低く、「新製品をつくるのにオンラインで募金?」「赤い羽根のようなノリ?」と言われたりもしました。産業界での浸透がなかなか進まず、仮説とのズレに苦しみました。机上の空論でビジネスは動かないこと、なにより応援してくれる顧客がいることが大事であることを再認識し、現地現場の本当のニーズを聞いていくようになりました。そこで見えてきたのは、事業者は何か新しい商品を出そうとするときに、まず在庫をつくり、それから人が来るお店に並べてもらうか、もしくは自分で人が来るお店をつくる必要があるというものでした。Makuakeの在庫リスクをとる前に先にお客さんに購入してもらい、商品をつくることができるという仕組みこそが、事業者にとって本当のベネフィットがあると気づきました。そこで、「新商品を先行販売しませんか」というわかりやすい伝え方に変えることができ、すぐにマーケットの理解が進んでいきました。 ■360度のニーズに向き合って辿り着いた応援購入というコンセプト 何か新しいことを仕掛けていきたい事業者だけにターゲットを振り切って、便利なツールを提供することもできました。しかし彼らの本音は、応援してくれる新しい顧客と出会いたいというもの。事業者に喜んでもらうためにも生活者と徹底的に向き合う必要がありました。今の時代の生活者は目に見える情報だけではなく、背景にあるストーリーを含めて消費しています。ただ何かアイデアが載せられて決済手段が付いていて、人がたくさん来るという既存のサービスはたくさんあります。そこにどういった切り口が一番通るのかをたくさん検証して、言語化して、いっぱいメモして、それを何百回も繰り返しました。しっくりくるようなそれぞれの訴求ポイントを数年間追求し続けて、ようやく今のコンセプトにたどり着きました。 ■学生へメッセージ 今見えているすごい産業や会社がずっとすごいわけではないです。15年前くらいにインターネット産業は胡散臭い産業だと思われていました。だからこそ、自分の価値観を信じたほうがいいと思います。それを正解にすればいいんです。仕事は自己表現だと思っています。変な当たり前やしがらみは取っ払って、自分を最も表現できるお仕事を選んでほしいです。 学生新聞オンライン2021年11月11日取材 創価大学4年 山内翠

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元プロ野球選手・現野球解説者 ギャオス内藤 辛いと思っているから辛い...

■プロフィール 1986年  愛知県豊川高校からドラフト3位でヤクルトに入団1993年  リーグ優勝のかかった対中日戦、延長15回を奇跡の三者連続三振に打ち取った1997年  ロッテ、中日と投手を続け平成9年引退。通産36勝29敗26セーブ。ヤクルト時代には2年連続開幕投手をつとめるが、平成2年の開幕巨人戦で篠塚(現コーチ)から球史に残る“疑惑のホームラン”を被弾。悲劇のヒーローになるも天性の明るさでファンの心をつかみその後も大活躍2001年  2004年までマスターズリーグ:名古屋80デイザーズ所属2013年  2014年までプロ野球独立リーグ・BCリーグ新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ監督現在、野球解説者、タレントとして活躍中。 1986年にドラフト3位でヤクルトスワローズに入団したギャオス内藤さん。明るく元気なキャラクターから「ギャオス」という愛称がつき、以来、人気プロ野球選手として、そして野球解説者としても活躍してきました。スポーツの世界でも、バラエティの世界でも、常に存在感を放つ内藤さんの根幹にあったのは、「楽しむ」という気持ちでした。 ■勘違いが功を奏した土台作りの期間  野球をはじめたのは、小学校2年生のときです。地元のソフトボールチームに入ろうと、一人で壁当てをやり始めました。それから2年間、ずっと壁当てを続け、晴れて4年生の時にソフトボールチームに入部できました。  しかし、ピッチャーを志望すると、ある衝撃の事実が発覚します。俺がずっと練習していたのは上投げ。ソフトボールは下投げだったのです(笑)。ピッチャーをやりたかったのに上投げしか練習していなかった僕に、監督は「身体がでかいからセンターになっとけ」との一言。そのため、バッティング練習は一切していなかったのに4年生でセンター4番に抜擢されました。ただ、グラブさばきは壁当てのおかげでめちゃめちゃうまくなっていました。僕が在籍中に、チームは2度優勝したのですが、僕はかなり貢献したと思います。  実は僕の投球フォームはプロに入るまでも、入ってからも、誰からも教わったことがないんです。壁当てって普通はマスを書きますよね。ただ僕は、地面に埋まってるはずのホームベースを壁に書いたんです(笑)。だけど、これが功を奏したんですね。ホームベースの先っちょがちょうど真ん中低め。他の投手はいいところに投げようとするからボールになってしまうところを、僕は変に意識せずに投げられるようになっていたんです。 ■初登板で感じた「俺、この仕事向いてない?」  僕の世代は、「野茂世代」と言われていました。だからこそ「ほかの同年代よりも早くデビューして活躍したい」という思いがあったので、プロ1年目で開幕1軍入りを果たしました。世の中的には「野茂世代」ですが、僕にとっては「ギャオス世代」でもあります。  しかし、そのプロ初登板で「俺はこの仕事向いていない」と思いました(笑)。震えちゃって、地に足がつかないんです。神宮球場での巨人戦だったのですが、4万8千人のお客さんがいて、なおかつテレビでも放送されている。「こんななかで投球するなんて、無理に決まってるじゃん」という気持ち。だから1年目はへぼ成績でした。だけど2年目の中盤からは、ヤジも聞こえたけど、平常心で投げられるようになりました。さらに吠えてやろうという闘志むき出しな気持ちも、自然と出せるようになっていきました。 ■ファウルポールの色を白から黄色に変えた男に  1990年の野村監督の1発目の試合で、開幕投手として投げさせてもらいました。東京ドームでの巨人戦で、解説は長嶋茂雄。ノムさんは奇襲作戦が大好きで、「巨人打線の左バッターには左ピッチャーが有効なんだよ」とメディアに言い、開幕投手は俺(右投げ)なのに、マスコミも選手もファンもみんなノムさんの話術で左投げが来ると騙されました。俺ですら、「本当に開幕投手なのかな」と不安になってしまうくらいでした。  その日はとても平常心じゃいられなくて、「逆さ東京ドームってどんなかな?」と思い立って、ふと逆立ちをしたんです。それをやった瞬間、周囲の人からはドン引きされましたね。そして、先発ピッチャー発表で、「ピッチャー・内藤」って呼ばれたとき、「あいつか!」と悲鳴がわきました。  さらに、この後大事件が起きます。8回の裏、ヤクルトが3対1で勝っている状況のなか、ノーアウトランナー2塁で、バッターが巨人の篠塚和典さんという打順。篠塚さんが打った瞬間にファーストの審判である大里晴信さんは、ファウルなのに、「ホームラン!」とグルグル腕を回しちゃった。大誤審です。その日は審判が6人制から4人制になった日で、条件が本当に重なってしまったんです。その時の大里審判員の「ポールの白とボールの白が重なってるんだよね」という一言が発端となり、もともと白かったファウルポールが黄色になりました。だから、俺はファウルポールの色を変えた男です。 ■ヤクルトの92年・93年の連覇達成に繋がるビッグゲームをつくる  もう一つ思い出に残るエピソードがあって、それが1993年に中日とヤクルトで優勝争いをしていたときの話です。ノムさんは優勝するための10箇条を掲げていて、その中に「同一カードで3連戦3連敗しない」という条件がありました。  しかし、中日との3連戦で、中日が2連勝し3戦目も2対1で負けていました。当時ヤクルトの主砲池山さんがカウント2-1か2-2でホームランを打って同点にしてくれて、そのまま延長15回裏までいき、ヤクルトが守りの場面。「中日のクリーンナップに回ったら内藤行くぞ」と言われていて、気づいたらノーアウト満塁でクリーンナップを迎え、俺の出番が回ってきてしまいました。その年は成績不振で、「チームが3連敗しようと関係ない、打たれたら即2軍じゃないか」という心境でした。そこで迎えるバッターはパウエル、落合、彦野。結果は3者連続三振。とんでもないことしちゃいました。その試合を皮切りにヤクルトが急上昇して92年、93年連覇できました。  ノムさんからも「93年のあの試合はターニングポイントだったな」という言葉をいただいたビックゲームを作りました。そこで得た教訓は、いい結果を求めずに自分の逃げ道を作ってあげて最善を尽くすこと。一番かっこ悪いのは押し出し、その次に満塁ホームラン。この二つだけしなければ俺のせいじゃないよねと自分に言い聞かせていきました。だからパウエルに対してめげずに、ずっとインコースを投げ切れて、結果いい方向につながりました。 ■必要とされているところにギャオス内藤は行く  プロ野球選手を引退してから、「自分ってなんで生きているのかな」と考え始めて、必要とされるところに行こうと思うようになりました。現在はラジオでの野球解説や八王子の小学校で子供たちに野球を教える活動をしています。8年前には新潟の方で監督もやらせてもらいました。最初に監督のお話をいただいたときは断ったのですが、断った瞬間に監督ってなんだろうなと考えながら、「俺が監督ならこうしたい」っていうシミュレーションをしている自分がいました。結果、負けて負けてクビになりたかったのに、勝ちすぎてクビになってしまいました(笑)。新潟は本当に楽しかったです。だから新庄君が監督になっちゃったけど、俺もプロ野球の球団監督をやりたい。俺よりも面白い人間だけど何かで対抗したいなという思いがあります。 ■自分の色を出そう!  自分の色は何色ですか? 自分のオーラをどんどん出してくださいということを大学生の皆さんに伝えたいです。類は友を呼ぶとの通り、暗いオーラ出していると暗い人ばかり集まってしまいます。暗いオーラよりも楽しいオーラの方が絶対楽しい。イチロー選手にも「同じ練習時間、楽しいと思うか、苦しいと思うか。辛いと思っているから辛いんだよ。楽しいと思えばいいだよ」とコメント残したらそれを覚えてくれていたみたいで、「ためになりました」と言わせてやりました(笑)。 学生新聞オンライン 創価大学4年 山内翠

経営者

株式会社ハードオフコーポレーション 代表取締役社長 山本太郎

リユースを通して、世界の環境を改善する! ■プロフィール 1980年11月16日、新潟県新発田市生まれ。早稲田大学商学部卒業。大学卒業後に㈱ファーストリテイリング(ユニクロ)で店舗マネジメントを学んだ後、㈱ハードオフコーポレーションに入社。2019年4月からは代表取締役社長として900店舗を超えるグループ店舗を統括し、「リユース」文化を日本、世界に拡げるべく取り組んでいる。 2021年12月末時点には海外も含め、全国に917店舗を構え、リユースに特化している株式会社ハードオフコーポレーション。地球温暖化を始めとし、世界中で様々な社会問題がある中で環境問題に向き合っているハードオフコーポレーションの特徴と今後について代表の山本太郎社長に伺った。 ■テニスサークルに捧げた学生時代 高校では団体戦で新潟県代表としてインターハイに出場していたため、「大学でもテニスをやるからには行けるところまでいきたい」という思いから、サークル活動が大学生活の中心になっていました。授業は最低限で受け、テニス漬け。アルバイトでもテニスコーチやテニスショップの店員をするくらい、テニスのことだけを考えていた学生時代でしたね。サークル活動に本気で取り組んでいた分、そこで学んだことは多かったです。サークルが一つの社会になっており、その中で特にマネジメントや強い組織の作り方について学びました。そこに関しては今の生き方、考え方に繋がっている部分が多いですね。 ■学びの多かった2年半の会社員期間 大学卒業後はユニクロに就職しました。当社の創業者である父からは会社を絶対継いでほしい、とは言われてはなかったものの、「会社を継ぎたい」という思いが強かったため、給与や福利厚生は全く考えず、いかに、後悔なく勉強を1番させてもらえるか、という点を考慮した結果、ユニクロを選択しました。ユニクロで一番学びになったことは、理念経営の大切さです。ユニクロでは、入社して最初に会社の理念や想いなどの基礎的なことを徹底的に学びます。理念がないと、せっかくのチームがバラバラになってしまうからです。ここで学んだ理念の大切さは、経営を行う上でとても大切にしています。ユニクロでは、仕事の楽しさも学びました。大学生活が本当に楽しかったので、入社した当初は社会人は働かなきゃいけないから、仕方がなくという気持ちもありました。でも、1年目の時に、上司から、やった分だけ成果が出ることや人の繋がりがどんどん広がっていくことの楽しさを教えてもらい、退社する時は楽し過ぎて少し未練もあるくらいでしたね。 他にも、大阪で大型店の新規立上げに携わっていた時期があり、アルバイトスタッフ200人を動かすことで、マネジメントを学ぶ良い機会になりました。「人の倍働けば倍の年数分の経験を積めるのではないか」という思いから、自分自身を追い込んだため、とても濃い2年半になりましたね。 ■ハードオフコーポレーションの面白さ チェーン店は、どこのお店も基本的に、誰が働いても同じようにしなければならないと思いますが、ハードオフはそこが違いますね。働く人や地域によって色が出るのでそれを大事にしています。挨拶や掃除など、全店舗でこだわっている所もありますが、基本的は決められたルールを少なくしているんです。振れ幅は大きくなってしまいますが、それがやりがいとなり面白さに繋がっていますね。また、36社が全国にフランチャイズ展開しているのですが、フランチャイズにすることで、四国や九州、北海道など、僕らが詳しくない地域でもその地域に詳しいオーナーさんと一緒につくっていけるわけですから、上手くアレンジしてより地域に根ざしたお店ができていますね。 そして、他社との違いは業態が分けられていることです。ハードオフの店長はオーディオ・楽器にものすごく詳しいんですよ。オフハウスの店長は家具や洋服に詳しくて、リカーオフの店長はソムリエでワインの資格を持っていたりします。つまり専門性があって商品知識があるから、店員と話すのも楽しいんですよね。 ■ハードオフが大切にしている「理念経営」とは 理念経営を大切にしています。ハードオフの経営理念は「1.社会のためになるか、2.お客さまのためになるか3.社員・スタッフのためになるか、4.会社のためになるか」です。これらを一番に考えており、儲かるからという理由だけではやりません。社会やお客様、スタッフのためになるかを考え、先を見据えた上で判断しています。 ■次なる展望は、リユース文化の海外輸出とDX化 海外展開とデジタル化の2つにおいてチャレンジしていきたいと思っています。まず、リユース文化は非常にエコです。現在は、地球温暖化が進み、世界中どこの国でもエコ化は必須ですよね。そこでリユースの文化を世界に輸出したいと思っています。実は、日本みたいに気軽にリユースできる国は他にあまりないんです。物を大事に扱う文化は日本独特なので、その文化を世界中の多くの国、あらゆる場所に広めることで環境問題の改善に貢献していきたいですね。また、デジタル化は今後さらに進んでいくはず。その中で、DX化をすすめ、ネットを駆使することでリアルもさらに充実させようと思っています。国内でも全グループで2000店舗まで拡大し、よりエコな国にしていきたいですね。 ■理念を共有し、人としての魅力がある人と働きたい 我社の理念に共感して、同じ場所を目指している人と働きたいですね。商品知識があれば良いわけではなく、チャレンジ精神があり、素直な人がいいです。あとは、自由な発想が欲しいので、チャレンジ精神は特に大切だと思っています。最終面接では、私は全員と面接をしています。明るく元気であるのもいいですが、そうでなくても活躍している社員はいるので、実際に働いて、その人が会社で活躍するイメージができるかを大切にしています。 ■Message リアルを大切にして欲しいです。今は情報がありふれていて、ネットで簡単に情報が入りますが、目で見て、手で感じた、その経験が自分自身の力になると思っています。強い人は自分で体験しにいける人です。ネットの様々な情報を調べることと、自分で色んな物を触って経験したり、知らない土地に行ってみたりするのでは、感じることが全然違います。ぜひリアル、生の体験にこだわってください。 学生新聞オンライン2021年9月29日取材 日本体育大学2年 大内貴稀

経営者

株式会社みらいワークス 代表取締役社長 岡本祥治

日本のみらいをプロフェッショナル人材と共に創る ■プロフィール 2000年に慶應義塾大学理工学部を卒業後、アクセンチュア株式会社、ベンチャー企業を経て、47都道府県を旅する中で「日本を元気にしたい」という想いが強くなり起業。2012年にみらいワークスを設立後、働き方改革やフリーランス需要の拡大とともに急成長し、2017年12月に東証マザーズへ上場。 プロフェッショナルに特化した人材サービス、ソリューションサービスの提供、地方創生活動などを展開している株式会社みらいワークス。今回はみらいワークスの岡本社長に起業のきっかけ、日本のみらいに対する熱い思い、大学生へのメッセージを伺った。 ■やりたいことを探した20代  大学生時代は慶應義塾大学理工学部で過ごしました。大半の理系の大学生は大学院に進学し、メーカーや研究機関などに就職します。しかし、自分は研究職でずっと机に向かい一人黙々と作業するというものが性に合わなかったため、周りの同級生のほとんどが院進学を選ぶ中、就職活動をすることを決意しました。  とはいっても大学生の頃の自分は特に将来やりたいことが思いついていませんでした。とりあえずやりたいことを見つけようと思い、沢山の業界や仕事を見ることのできる外資系コンサルティング会社に進むことにしました。また、当時はIT業界が伸びていたのでITコンサルに強いアクセンチュア株式会社(旧アンダーセンコンサルティング)を就職先に選びました。  入社後はITコンサルタントとして基幹システム導入や、ITアーキテクチャーの構築の仕事をしました。その後、戦略グループに転籍し、事業戦略策定や新規事業立ち上げなど多くのプロジェクトを推進しました。5年ほどアクセンチュアで仕事をしてIT戦略など一通り経験することができました。途中コンサルが楽しすぎて、やりたいことがコンサルになっていた時期もありました。コンサルを通して様々な業界と関わりを持ったことで、自分の視野がぐっと広がったのを感じます。本当に色々な経験を積ませていただきました。 ■根底にあったのは日本をもっと元気にしたいという想い  その後2005年、新興市場に憧れた私はベンチャー企業に転職しました。しかし、ライブドアショックなどの影響もありベンチャー企業を辞めることを決意します。もう一回転職をするのも、アクセンチュアに戻るのもなにか違うなと感じ、海外を旅して自分探しをすることにしました。その旅を通して海外の魅力を感じる一方、自分は日本のことを知らないと痛感しました。帰国後は「日本人として改めて日本のことを知るべきだ」という思いから47都道府県を周りました。食、町並み、人、祭り、歴史、景観。本当に素晴らしい文化を日本各地で目にしました。しかし、地方では県庁所在地にある商店街がシャッター通りだったり、経済的に廃れているところもたくさんあるという現状も目にしました。そんな日本をもっと元気にしたい! という想いを強く持つようになり、私は起業します。企業当初は事業内容を明確には決めておらず、自身の経験を生かし、フリーコンサルタントとして活動をはじめました。  フリーランスとして活動し始めた当初は仕事をもらうのにも苦労しましたが、徐々にコンサルティングの仕事が取れるようになっていきました。ただ一人でフリーランスとして活動していたので、こなせる仕事の数にも限度がありました。次第に自分が依頼を受けた仕事を周りの人に紹介することが増えていきました。これが今のビジネスの原点です。私は仕事を依頼する際、「どうして起業したのですか? 」と毎回聞いています。すると起業する人たちの三大テーマが見えてきたのです。1つ目は「中小ベンチャーへの支援」。2つ目は「地方の活性化」。3つ目は「海外とのつながり」です。これらは総じて私の「日本をもっと元気にしたい」という想いに通じていました。そんな日本をより良くしようと考えている起業家たちが仕事をもらえず、食べていけない現状を変えたい、彼らを応援したいと強く思った私は本格的にフリーランスのマッチングサービスの立ち上げに動き出しました。これが株式会社みらいワークス創設のきっかけです。 ■日本のみらいを創る  終身雇用・年功序列の時代はもう終わりです。これからは自らの責任で自らの働き方と生き方を選ぶ時代に変化していっています。そんな中、我々みらいワークスのVisionは「プロフェッショナル人材が挑戦するエコシステムを創造すること」です。「プロフェッショナル人材がライフステージに応じて、独立・起業・副業・転職を自由に選択して最適な場所で働ける社会創り」をし、人生100年時代を実践する未来の働き方を支えるプラットフォームとなることを目指しています。  地方では未だに一つの会社で一つのメールアドレスを使っているところがあるほど、デジタル化が進んでいません。東京で働いていたら考えられないことですよね。逆に言うと、地方のデジタル化による伸びしろは計り知れません。たった一人のプロフェッショナル人材を投入するだけで劇的な成長が見込めます。まさにプロフェッショナル人材は日本が成長するための希望の星です。  我々みらいワークスは個人での挑戦の場を求めるプロフェッショナル人材が活躍する場を増やすことで元気な日本を作っていきたいと考えています。 ■大学生へのメッセージ  人生の幅について考えてほしいです。大学生の皆さんの中にはまだやりたいことが決まっていない人も多いと思います。だったら今やりたいことを明確に見つけるのではなく、人生の幅を広げる選択をしてほしいです。一生働き続けるわけではないですし、就活だけで人生が決まるわけではありません。皆さんもっと気楽に考えてみてほしいと思います。 学生新聞オンライン2021年7月2日取材  法政大学2年 鈴木悠介

濱穂乃香

阿部桃子 モデル、そしてゴルファーだからできること

1994年9月17日生まれ、千葉県出身。2017年ミス・ユニバース・ジャパン。6才からゴルフを始め、ベストスコアは68。タレント・モデルとして活動するほか、プロゴルファーを目指し様々なゴルフ番組でも活躍している。YouTube「UUUM GOLF」、BS11「諸見里しのぶ実践ゴルフテク!」、wowow開局30周年記念連続ドラマW「トッカイ~不良債権特別回収部~」等、多数番組に出演。 「神様は乗り越えられる試練しか与えないと思っています」。そう語るのは、タレント・モデルの阿部桃子さん。ゴルフで鍛えられたメンタルは強く、ポジティブな性格だと笑う。芸能界でも活動しながら、ゴルフのプロテストを受けるなど、多彩な活動を続ける彼女にお話を伺った。 ■ゴルフ一色の学生時代 ゴルフを始めたのは6歳のときです。母がプロゴルファーだった影響で、練習場について行って教えてもらうようになり、以来、プロゴルファーを目指して練習していました。大学生時代はゴルフ部に入り、ゴルフ漬けの毎日でした。朝練して、授業受けて、帰って、練習して……と、いま思い出してもゴルフだらけの生活でしたね。大学では「常にゴルフクラブを持ち歩いている学生」として、有名だったと思います(笑)。当時は、母にゴルフを教えてもらっていたので練習中は母を「先生」と呼ばなくてはならず、甘えたい時も甘えられなかったり、喧嘩をしたりと、辛いこともありました。「もうゴルフをやめたいな」と思ったことだって何度もありました。ただ、今ではすごく仲良しで、最近では父も含め家族3人でゴルフをしに行くこともあります(笑)。また、ゴルフ部時代の友達も今でもずっと繋がっているため、やっぱりゴルフ部に入ってよかったと思っています。 ■憧れのミス・ユニバースに選出 2007年のミス・ユニバース大会で、日本代表の森理世さんが優勝した時にミス・ユニバースという存在をはじめて知り、憧れるようになりました。ミス・ユニバースは、外見の美しさだけではなく、知性・感性・人間性・誠実さ・自信などの内面が重視されるコンテストなのですが、そんな中で活躍される出場者のみなさんがとても素敵でした。 18歳から応募することができるので、大学1年生の時にミス・ユニバースを目指したいと両親に伝えたのですが、最初は「大学4年生になってもその気持ちが変わらないようだったら、もう一度話してほしい」とその時は反対されました。その後、4年生になったときに、いまだ憧れを持っていた私は、両親を説得し、ついに念願のミス・ユニバースへ応募しました。 ミス・ユニバースにはさまざまな審査項目があり、スピーチ力などメンタルが試されるものもたくさんあります。私の場合は、ゴルフを通じて、自分自身に向き合う時間がとても多かったので、メンタルには自信がありました。いま考えれば、それが私の強みだったのだと思います。日本代表として世界大会に行ったときは、世界各国の代表と友達になれたことが嬉しかったですね。ユニバースに出場する女性は、女性の地位向上のために努力をしていたり、思いやりに満ちていて優しかったりと、魅力的な人たちが多いんです。彼女たちとは、今でも繋がっていて、連絡を取っています。 ■ミス・ユニバースを通して見えたもの もともと大学時代もボランティア活動はしてきましたが、ミス・ユニバースに選ばれた後は、活動の一環として、様々な場所でボランティアを行いました。海外では、衣食住がままならない人もいて、日本は恵まれていると痛感することも多かったです。「スマイル・トレイン」という子供たちを笑顔にする活動では、いろんな方と触れあうことができました。特に印象に残っているのは、カンボジアで出会った子どもたちのこと。日本とは環境も価値観も違いますが、子どもたちと一緒に遊んだ時、彼らが笑顔になってくれたのが嬉しかったです。親がいない子も多いのですが、そんな子たちが私に抱きついてきてくれたりすると、「何とかしてあげたい」という気持ちを強く感じました。「一人で世界に貢献できることは少ない……」と思うかもしれないですが、誰かがペットボトルの蓋を寄付する行為が、誰かの1本のワクチンにつながるなど、決して他人ごとではないのでこうした個人でできるボランティアとその効果について、少しでも発信していけたらと思っています。 ■ゴルフの世界から芸能界へ ミス・ユニバースに応募するときは、「コンテストが終わったら、またプロゴルファーを目指して練習するんだろうな」と思っていました。でも、ミス・ユニバースになってから、芸能の仕事が増えて、その中で楽しさを感じ、この道に進むことを決めました。父と一緒に仕事できることはとっても嬉しくて、親孝行にもなっているのかなと思います。 芸能界の仕事では、見てくれている人に勇気や元気を与えたいと感じています。最近ではゴルフ関係のメディア出演などもあり、芸能の世界の中で大好きなゴルフに携われる喜びを感じています。特にゴルフウェアの仕事は、ゴルフをやっていたからこそできるしぐさやポーズもあって、自分がやりたかったことが全部繋がって形になっている感じがして、うれしいです。 ゴルフの魅力は、自然の中でできること。そして、世代を超えて幅広い年代の様々な人と繋がれることだと思います。そのほか、練習の結果が出て一打を縮められたときの嬉しさはとても大きいですね。あと、一緒にゴルフのコースを回ると、その人の性格もわかります(笑)! 今でもプロテストを受けたり、試合に出たりもしていて、将来的にはライセンスを取ってゴルフを教えるお仕事もしてみたいなとぼんやり考えています。芸能界のお仕事では、女優業にチャレンジしたり、ゴルフファッションの認知度を広げたりと、今後もゴルフに関わる仕事ができたらと思います。 ■すべてに感謝をしてつながりを大切に 大学生のみなさんには、自分がやりたいと思ったことには、すべてチャレンジしてほしいです。あとは、感謝を忘れずに。いただいた仕事や出会った人など全てに感謝をすること、人と人との繋がりに感謝することが大事だと思っています。人は一人ではいきていけないですし、特に大学時代の友達はこれからも繋がっていくと思うので、大事にしてくださいね。 学生新聞オンライン 東洋大学2年 濱穂乃香

岡部満里阿

安斉かれん 良い意味で、“らしくない”等身大な安斉かれんを観てほしい

1999年生まれ。2019年5月「世界の全て敵に感じて孤独さえ愛していた」でデビュー。2020年最も話題となったドラマ「M 愛すべき人がいて」にW主演。アーティスト活動以外に、ファッション・アイコンとして、コスメティックブランドの「M·A·C」の店頭ビジュアルの連続起用やカラコンイメージキャラクターを飾るなど、そのルックスにも注目が集まっている。 9月29日リリースの新曲『18の東京』。この曲には、地元の藤沢から東京へ18歳の時に上京してきた時の想いがこの曲に込められている。「自分の軸を持ち、取捨選択をして、強く生きないと東京では生き残れない」という当時の葛藤。そして、東京に染まった今を現した曲となっている。そんな彼女の音楽ルーツなどからお話を伺った。 ■音楽で溢れていた学生時代  デビュー前からエレクトーンを習っていました。最初は遊び感覚で始めたエレクトーンも、習っていた事によって和音の知識などが身に付いたと思います。子供の頃は、父の影響で車の中や家でロックが流れていて、よく聴いていたんですけど、中学生の時、ローリングストーンズのライブに連れて行ってもらったのがきっかけで、ジャズのサックスに憧れるようになり、吹奏楽部でアルトサックスを担当していました。その後、「自分の喉も楽器のひとつだし、音楽全般できるようになりたい!」と思って歌も始めて、学生時代はレッスンがない日にカラオケによく行ったり地元の大会で歌ったりしていましたね。  2019年にデビューしたので、ちょうどコロナ禍真っ只中で・・・。人前でライブをする機会が持てなかったから、リアルな場でファンの方と交流がもてなかったのですが、SNSでのちょっとした発言にコメントを頂けてとてもうれしいかったです。ファンの方が、まるで温かいファミリーのように感じられて、早く直接会ってライブをしたいなと思います。好きな音楽を仕事にさせて頂いていることは、とっても楽しいし、恵まれた環境だなぁと思います。 ■歌手・作詞家としての自分の在り方  作詞をする時は、その時の感情や疑問に感じたこと、思いついたアイデアを常にメモしておいて、詩を書く際にはそれをまとめています。なかなか書けず、思いつめてしまう時もあるんですけど、そんな時にモチベーションを上げる方法は、美味しいものを食べて寝る事です(笑)ずっと考えていても仕方ないから、「もういいや」とあえて一旦投げ出してしまうんです。そして、「やろう」と思えるように自分の機嫌をコントロールするようにします。 作詞をする時のこだわりは、背伸びをしない等身大のままな自分でいることです。一方で、「この感情はどんな言葉で表せばいいんだろう」と思い悩むこともあるので、最近は表現の幅を広げる為にたくさんの映画を観るようにしています。 ■『18の東京』に込められた想いとは  私自身、18歳の時に地元の藤沢市から東京へ上京して来ました。東京は良い意味でキラキラしてるけど、東京に染まっていき、揉まれていく。曲の中では、「ここでは強く生きていないと居られない」という葛藤を描きました。良い人や良い環境ばかりではないし、取捨選択を自分自身でしないと立っていられない事を知りましたし、自分を持つ事でずっと生きやすくなったように思います。この曲は、これから東京に出てくる人や、東京で頑張っている人に届いて欲しいと思っています。今までの曲とは違ってキャッチーな曲調が特徴なので、カラオケなどでも、ぜひ歌って欲しいです。1番は上京前、2番は東京に馴染んできた様子が描かれています。 ■新たな展開が楽しみな7カ月連続リリース  「18の東京」を皮切りに、7カ月連続で新曲をリリースし続ける予定で、いまからワクワクしています。良い意味で「安斉かれんらしくない、いろいろな安斉かれんを映し出せればな」と思っています。リズミカルな曲調をはじめ、様々なジャンルに挑戦します。個人的にやってみたい挑戦は、いろんな髪型にも挑戦することです。もう、金髪は飽きたので(笑)。せっかくなので、MVにロングで出演してみたいです。あと自分の曲の中でアルトサックスの演奏を入れたいなって。いまは「安斉かれん」という存在の方が知られているので、それをチャンスに、「安斉かれんがあの曲を歌っているよ」ではなくて、「この曲は安斉かれんが歌ってるんだね」と、私の曲自体を知ってもらえるようになりたいです。 ■message  私自身、とても大学生に憧れがあるんです。同世代なのでそんな大きな事は言えないけど、色んな時期があると思いますが、就活とかも楽しんでください!コロナ禍で世の中が暗い風潮ではあるけど、思い詰めず、焦らずに、自分らしく生きて欲しいです。 学生新聞オンライン2021年9月13日取材 国立音楽大学 1年 岡部満里阿 【INFOMATION】◆7作連続配信シングル第1作「18の東京」配信中 ☑️配信はこちら https://KalenAnzai.lnk.to/18notokyo ☑️MVはこちら 第2作「夜は未完成」11月3日配信MBS/TBSドラマイズム「凛子さんはシてみたい」ED主題歌◆Web Site:http://kalenanzai.com/◆Instagram:https://www.instagram.com/kalenanzai/◆TikTok:https://vt.tiktok.com/ZSfbY7s4/◆Twitter:https://twitter.com/kalen_anzai◆YouTube:https://www.youtube.com/channel/UCOFXUN-4bc36S1hEhdl3MIg

伊東美優

日本エンタープライズ株式会社 代表取締役社長 植田勝典

お客様と社会への貢献を第一とする経営理念 ■プロフィール 1962年生まれ。大阪府立大学経済学部を卒業後、1985年にトヨタ自動車株式会社に入社。退社後、1989年に日本エンタープライズを設立。松下電器産業株式会社(現パナソニック株式会社)を経て、1997年に日本エンタープライズで営業を開始し現職。 営業開始から24年経った今なお、安定的な経営と社会貢献を継続している日本エンタープライズ株式会社。しかし起業までの道のりは決して楽ではない、様々な障害があったと語る植田社長。そんな社長に、起業までの経緯から社内に根付く気風の要因、さらには社長の経営への考え方などを伺った。 小学生の頃からずっとサッカーに全力を注ぎ、大学でも体育会サッカー部に所属していました。同時に、高校時代からアルバイトも行い、学費は自分で稼いでいました。実は私が16歳の時に経営者だった父親が他界し、その日から自分の運命はガラリと変わりました。それまで恵まれた環境で育ちましたが、それ以降は経済面も含めかなり苦労の多い生活になりましたね。また幼少期から父親の影響もあり、経営にはずっと興味を持っていて、大学では会社法を学ぶゼミに所属していました。大学卒業後は新卒でトヨタ自動車に入社し、電算部という部署で、コンピューターを動かしながらIT関連の仕事を行なっていました。 ■起業までの道のり しかし、トヨタ自動車は家業に入社するため約3年半で退職する運びとなりました。その後家業を継ぐつもりだったのですが、紆余曲折あり最終的に私は無職となってしまったのです。職を失った私は、自分で商売を始めるべく、当社・日本エンタープライズという会社を登記したものの、精神的にも苦しい日々が続き、結局パナソニックへ応募しなんとか入社することができました。そこで7年間勤めましたが、やはり経営者の道を諦めきれず、私が34歳の時にパナソニックを退社し、休眠していた日本エンタープライズをもう一度起こしました。 ■長年根付くベンチャー気質 当社の魅力は、会社設立から長い年月が経過し、東証一部に上場してからもなお、ベンチャー気質が社内に根付いている点です。この気風は、一つ目に社長である私が権威的にならず、社員にフランクに接していることが要因だと感じます。私自身決して驕らず、身の丈経営を念頭に置いています。社員の成長の足止めにならない程度にですが、社長室よりも各部署のフロアに足を運んで社員と共に話し合うことも多いですね。とにかく私自身と社員一人ひとりとの距離が近く、コミュニケーションも多いと思います。また二つ目に、毎年若い人材が入社するため、社内の新陳代謝が高まっていることも挙げられます。弊社が新卒採用の際に学生を選ぶポイントは、明るく元気な人、そしてポジティブな人間性です。もちろん知性はあったほうが良いと思いますし、技術面のスキルも評価に値します。しかしそれらよりも、どんな障害や苦労でも乗り越えられる前向きな人を採用したいですね。そして毎年このような若い人材が入社してくれることで、社内にはいつも活気があふれているのだと思います。 ■「経営」に対する考え 弊社は人間として、そして経営者としても成長できる土台の整った会社だと自負しています。もちろん私も社長でありながら、社員の成長のために沢山のことを教えますし、社員にとっても意欲があれば何でも挑戦できる環境となっています。やはりビジネスは一朝一夕でできるものでも、センスがあればできるものでもないと思います。私も数えきれないほどの経営に関する本を読んで色々なことを学び、今では会社経営の全てが大好きになりました。経営において1番大切だと思うことが、モノの見方・考え方です。弊社を「スマホアプリを作る会社」と言ってしまえば、それはそれで正しいのですが、重要な点は他にあります。我々はお客様、そしてより良い社会のために日々努力しています。そしてその手法がアプリ制作なだけであって、その積み重ねに利益創出があります。したがって、エンターテインメントとしてのコンテンツに力を入れることも事業運営においては大切なのですが、弊社にとっては社会の動向を把握しながら、どんなサービスがお客様、そして社会に貢献できるだろうか、という視点が非常に重要です。同じ業種でも様々な企業があるように、会社によって経営理念も異なるため、弊社は弊社の掲げる理念に従って事業活動に取り組んでいます。こういった点で、やはりブレないモノの見方・考え方はビジネスにとって大切です。 ■変化したマインドセット 私は学生時代から本当に色々な苦労をし、弊社の創業時から「自分は生きているのではなく生かされている。だから生きている間はとにかく“社会のために”」というマインドに変わりました。創業時から毎年欠かさず寄付活動を行なっていることも、根底には私自身の“社会のために”という精神があります。それは社会を担う一員である社員に対しても同じです。ビジネスの学びを通して人生が変わった、という若い社員からの一言は、私にとってお金には到底変えられない価値があるものです。これからも、より多くの若い人々に沢山の学びや経験を与えられる存在になっていきたいです。 ■大学生へのメッセージ 学生の皆さん、「やりたいことが見つからない」と悩んでいる人も多いのではないでしょうか。正直、やりたいことなんてそう簡単に見つけられるものではないと思います。けれども、「こんな自分になっていたい」、「こんな仕事がしたい」というある程度の方向感は学生の内に見つけておいたほうが良いです。そして、その後は何事にも恐れずやりたいことをやり尽くしてください!何かに恐れてしまい、やりたくてもやれなかったというのは非常にもったいないことです。可能性を最大限に広げられるこの期間を、大切に過ごしてください。 学生新聞オンライン2021年9月28日取材 慶應義塾大学 2年 伊東美優 

川浪亜紀

山谷花純 続けた先に見える景色を楽しみに、今を頑張る

■プロフィール 1996年12月26日生まれ。宮城県仙台市出身。2007年、エイベックス主催のオーディションに合格、翌年ドラマ「CHANGE」でデビュー。映画『劇場版コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-』(西浦正記監督/2018年)では末期がん患者役に丸刈りで臨み注目される。主演映画『フェイクプラスティックプラネット』がマドリード国際映画祭2019最優秀外国語映画主演女優賞を受賞。映画『人間失格 太宰治と3人の女たち』『さくら』や、舞台彩の国シェイクスピアシリーズ『ヘンリー八世』『終わりよければすべてよし』などに出演。10月15日配信開始のFODオリジナルドラマ『私の正しいお兄ちゃん』にヒロインとして出演する。 宮城県仙台市からエイベックスの全国オーディションを勝ち抜き、そこから女優へと歩き出した山谷さん。学生の頃は、新幹線が仕事との切り替えスイッチだったという。「自分の心にも、演技にも嘘をつかない」ことを信条とする彼女のこれまでの軌跡の裏側と、ドラマ「私の正しいお兄ちゃん」の見どころに迫る。 ■わからないことをわからないままにしない! 子どもの頃から、人前に出ることは躊躇しないタイプで、疑問を疑問のままにしておくのではなく答えを見つけようとする子でした。例えば、国語のテストで、「この物語を読んだ感想を書きなさい」と問題で回答がバツになったことがありました。感想に正解・不正解があることがどうしても納得いかず、先生に直談判して丸にしてもらったことがあります(笑)。大人相手でも物怖じせずに疑問があると聞きに行くタイプでしたね。また昔からテレビが好きで、学校でもみんなの前で「テレビに出たい!」と言っていました。当時、テレビはすべて生放送だと思っていたので、出演者の方たちがCMで違う姿になることがすごく不思議でした。自分がテレビに出ればその謎が解けるのではないかと思い、テレビに出たいと興味を持ちました。そして、私の発言を覚えてくれていた担任の先生がエイベックスの全国オーディションのことを教えてくださり、合格をきっかけにこの業界に入りました。 このお仕事を始めた頃は、他の子役の子と上手くコミュニケーションがとれず、テレビの世界なんて知らなきゃよかった、早く仙台に帰りたいと泣いていたことがありました。しかし、その後、初めて親元を離れてロケに参加したことがきっかけで、共演者の方と仲良くなれるかもと思い、挨拶や台本の読み方などを教えてもらう中で、徐々にお芝居が面白いと思うようになりました。映画『告白』の現場では、初めて大人の人に子どもとしてではなく対等に扱ってくれた瞬間を感じ、とても嬉しくなりました。また年齢や立場に関係なく、ものづくりにおいて、良いものを作るという同じ目標を目指していることが輝いて見えて、もっとお芝居がうまくなりたい、勉強しなきゃと思いましたね。 ■続けることで見えたもの 『劇場版コード・ブルー』も自分にとって大きな作品でした。21歳の頃、周りの友達が結婚や出産、就職など状況が変化していて、自分自身もこのままでよいのかとわからなくなっていました。最後にこれでだめだったらやめようと思い挑んだ作品でしたが、オーディションに受かることができました。撮影は大変でしたが本当に楽しくて、役と一緒に戦って、大人になった自分で再スタートできたような気がしました。物語を通して、人生には限りがあるということを教えてもらい、もう一回頑張ってみようと背中を押してもらえました。このお仕事は本当に全部つながっているんですよね。続けないとわからないようなことがたくさんあります。10年前にオーディションで出会った人に「あの時よかったよ」と言ってもらうことがあって、続けていたからこそ、再会があり声をかけていただける。そういう嬉しいことがたくさん散りばめられている仕事だと思います。辞めるのは簡単。続けるのは大変だけど、そんな些細な嬉しい出来事がまだあるかもしれないという希望があります。 ■目標にしていたドラマでのヒロインを演じた『私の正しいお兄ちゃん』 以前、「ヒロイン役は絶対にできない」と言われたことがあって(笑)。それが本当に悔しくて、いつか絶対にヒロインをやってやる!と思っていました。こういう負けん気は自分の中の一番の原動力かもしれません。こうして念願のヒロインを演じる機会をいただき、とても嬉しかったです。 私が演じるヒロイン「理世」は、本当にまっすぐで優しい健気な子です。演じながら、自分自身が浄化されていくような気がしました。孤独と戦って誰よりも傷つきながらも乗り越えていく、そんな理世を濁りなく綺麗なまま伝えるにはどう表現したらいいのかということをすごく考えました。また漫画で読んでいることをいざ演じてみると恥ずかしかったりして、ラブストーリーの難しさも感じましたね。 この作品は「眠る」というキーワードあるのですが、主演の古川雄大さんと並んで寝るシーンがあります。寝ていて起きあがろうとした理世を古川さん演じる海利が引っ張って耳元で囁くというシーンがあるのですが、すごくドキドキして(笑)。これは私じゃなくて役に言っているんだ!と自分に言い聞かせました。この作品で1番ドキドキするシーンはここだ!と古川さんと話し合ったシーンでもあるので、ぜひ見ていただきたいなと思います。 王道のラブストーリーというだけではなく、サスペンス要素もあり、何気ない風景を自然に見せるような素敵なシーンもあり、親子で楽しめる作品だと思います。恋人との信頼関係や家族の大切さなど、みなさんと一緒に成長できる作品だと思うので、大学生のみなさんにもぜひ見ていただけたらと思います。 ■今できることを一生懸命頑張る 演じるにあたり、「嘘をつかない」ということはどの作品でも大切にしています。台本はあくまでも教科書であって、何でこのセリフが出てきたのか、どうしてこういう行動になったのか、なんで泣いているのかなど考えるようにしています。セリフの語尾やセリフそのもの、言葉使いなど、疑問を持ったら早めに解決するようにしています。いろんな選択肢を用意して、でもカメラの前に立ったらそれらはすべて忘れて相手の前で思ったことを表現する。相手とのキャッチボール、その場で起きたリアリティを大切にしていきたいと思っています。 先日、吉田鋼太郎さんから「努力しなさい、天下取りなさい、俺も頑張るから。」と言葉をいただきました。演者はドラマの人、舞台の人、映画の人と出演している分野で分けられることが多いように思います。欲張りかもしれませんが一つの分野にこだわらず、全て平等に求められて、役を任せることに信頼してもらえる女優になりたいです。だからこそ、今は勉強して、努力を積み重ねていきたいと思います。 ■大学生へのメッセージ 今はコロナ禍で友達と会えなかったり、行きたいところに行けなかったり、本当は乗り越えられる壁もすごく高く感じる時代だと思います。でも、今踏ん張れば夢って叶うかもしれないし、次のステップに行けるかもしれません。先のことは誰もわからないし、考えても不安になるだけです。今を頑張っていれば、自ずと結果がついてくるはずです。気負いすぎず今を楽しんでほしいです。 学生新聞オンライン2021年9月7日 津田塾大学 4年 川浪亜紀 「私の正しいお兄ちゃん」(全8話)FODにて10月15日(金)より配信スタート出演:古川雄大、山谷花純ほか公式サイト: https://www.fujitv.co.jp/tada-ani/ストーリーが進む中で次々と明るみに出る真実!愛すること…憎むこと…本当の幸せとは…ジェットコースター・クライムサスペンス&ラブドラマ!

学生新聞インターン

国務大臣 河野太郎

世界で戦える英語力を身につけ、水平線の向こうへ羽ばたけ 国務大臣 河野太郎(こうのたろう) ■プロフィール 1963年1月10日生まれ。1985年米国ジョージタウン大学卒業、1986年富士ゼロックス株式会社、1993年日本端子株式会社入社。1996年神奈川県15区で衆議院議員総選挙に初当選、以来8期連続当選。総務大臣政務官、法務副大臣、衆議院外務委員長、国家公安委員会委員長、行政改革担当、国家公務員制度担当、内閣府特命担当大臣(防災、規制改革、消費者及び食品安全)、外務大臣、防衛大臣などを経て、2020年9月行政改革担当、国家公務員制度担当、内閣府特命担当大臣(規制改革・沖縄及び北方対策)に就任、2021年1月より新型コロナウイルス感染症ワクチン接種担当大臣を兼務。 ■どんな学生時代を過ごしていましたか 私は中学校から慶應義塾大学の附属校に通っていて、箱根駅伝に出場することを目指し、大学も慶應義塾大学に進学しました。大学では競走部に入部したのですが、たとえ駅伝のメンバー10人に選ばれることができたとしても、予選を通過して箱根駅伝に出場できる上位15校には入ることができないと察し、退学して渡米したのです。渡米後はとにかく英語に苦戦しましたね。マサチューセッツ州のサマースクールに通い始めた初日は、ご飯を食べる場所を英語で周りの人に尋ねることができず、食事をとることができませんでした。そのため、英語を勉強しなければと思い、その後入学した全寮制のジョージタウン大学では、消灯時間を過ぎても英語で書かれた教科書を夜中の3時まで読み込んでいましたよ。 ■若い世代にこれから求められるものはなんでしょう 現在、日本企業の経営者はほとんどが50代以上の男性で、日本出身の人が多いですよね。海外へ仕事で交渉に行くと、相手の年齢や性別、出身国はさまざまです。日本企業も海外のように、もっと多様になっていくべきでしょう。日本人は海外で就職するという選択肢を考えておらず、就職は日本国内でするものと思ってしまっている学生が多いですよね。この問題は、日本人の英語力が関係しているのではないでしょうか。中学生から大学生まで10年間も英語を勉強しているのに、何故日本は生徒に実用性のある英語力を身につけさせてやれないのだろうと疑問に思います。海外には面白い仕事がたくさんありますから、学生時代に英語力を身につけて、水平線の向こうを視野に入れていかなければ、もったいないですよ。 ■大学生へのメッセージをお願いします 将来世界標準で戦うために、大学を卒業するまでに英語で仕事ができるようになってほしいですね。実用性のある英語を身につけるためには、豊富な単語力が必要です。ただ単語の意味を暗記するだけではなく、英語で書かれた文章を読み込み、単語の多様な使い方を学ぶと良いと思います。皆さん20代ですから、体力的にも精神的にもまだまだこれからです。可能性を大切に、広い視野で世界を見て、羽ばたいていってください。 学生新聞2021年10月1日発刊号 津田塾大学2年 佐藤心咲