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Archive for 運営スタッフ

経営者

大塚食品株式会社代表取締役社長 白石耕一

「おいしさ+α」にこだわり続け、健康の先にある幸せ・喜びに貢献する ■プロフィール 1968年福岡県生まれ。1990年大塚製薬株式会社入社。2005年、韓国東亜大塚株式会社マーケティング担当理事(出向)。2014年、大塚製薬株式会社ニュートラシューティカルズ事業部広島支店支店長。2017年、同事業部製品部長。2020年3月、大塚食品株式会社代表取締役社長に就任。 世界初のレトルト食品“ボンカレー”や大豆ミートを使用した“ゼロミート”など、常に食品業界にイノベーションを起こしてきた大塚食品。健康や環境など、「おいしさ+α」を追求し続ける姿勢はすばらしく、それをさらに極めようとする白石社長の展望を伺った。  体育会で野球ばかりしていた学生時代でした。プロを目指していたのですが、結局、そこまでの実力はなく、大学3年生のときに就職を考え始めました。受けたのはものづくり企業ばかりですが、それはアイデアをすぐに形にできると思ったからです。それと平行して当時は獣医になりたいという思いもありました。動物行動学などは図書館に行って自分で勉強しました。そこで得た学びは今でも生きています。実は、人間も動物も行動の理由はほとんど変わりません。 獣医になりたいと思って読んだ本は今でも鮮明に覚えています。いろいろなものに興味を持って、一生懸命それに向かっていました。そうして見聞を広げることで知識も深まり、話題も多くなっていきました。興味の湧いたことを、その根拠にたどり着くまで好奇心を持って深掘りしていく。そうやって表面的ではないインプットができれば、自然とアウトプットもできるようになっていきます。 ■理不尽さは前向きに、失敗は深く掘り下げる  1990年、大塚製薬に入社しました。大塚は身の回りにたくさんの製品が存在する企業なので、街で自社製品を持っている人を見かけるとすごく嬉しいものです。製品を通じて人々が喜んでくれる。そこに関われているということにとても満足感がありました。 入社後は営業に明け暮れていましたが、中でも今の自分の考え方に影響を与えているのは韓国への出向経験です。言葉も文化も違う中で、同じ人間同士、共に仕事をしていく。そこにはさまざまなコミュニケーションの形がありました。言葉が通じないので、表情や仕草で相手の気持ちを読み取るしかなく、苦労しました。それ以来、人と話すときには言葉以上のものを感じ取れるようになりました。それと同時に、改めて「大切なのは人だ」と強く認識することができました。組織はやはり人です。人で作られるものです。 そうした経験を経て、大塚食品に来ました。苦労はたくさんありましたが、常にポジティブに考え、理不尽なことがあってもこれはゲームなのだと思うようにしていました。失敗したときは周りのせいにせず、自分に原因があるのだと考えて、その理由を深く掘り下げる。そうすることで失敗を成長の糧にしてきました。 ■「おいしさ+α」で必要とされる製品を  食品会社なので、おいしく作るのは当たり前です。おいしさ以外にどんな良さがあるのかが大切で、われわれはその良さをきちんとした根拠に基づいて説明できる製品づくりをしています。 弊社製品の原材料名は裏面を見ていただければわかると思いますが、添加物は極力使っていません。また、一般的なレトルト食品では事前に処理された冷凍野菜を使うことが多いのですが、ボンカレーは違います。生の国産野菜を使い、手作業で皮をむいたり、芽取りをするなどしています。それはお母さんの手作りの味をコンセプトに製造しており、より深く健康にこだわった製品づくりをしているからです。 さらにこだわりは健康だけではありません。たとえば、ミネラルウォーターの「クリスタルガイザー」ですが、キャップはどうしてあのような薄い形をしているのかわかりますか?薄くすることでプラスチックの使用量が激減するからです。ビンやカンに比べ、プラスチックは環境への負荷が大きい。今後はペットボトル自体も再生樹脂に変えていこうとしています。おいしいのは食品企業として当たり前です。それ以上に、どのような+αの貢献ができるのかを常に考えています。 われわれは生活者である皆様のお役に立ちたい。この製品がないと困る、必要だと言われたいと思っています。今は日本国内がメインですが、将来はアジア、さらに世界へと活躍の場を広げていきたいです。世界の人たちの健康にこのブランドを通して応えていきたいと思っております。そして社員みんなに幸せになってほしいですね。 ■人間力のある人と一緒に働きたい  一緒に働きたいと思うのは、まずは大塚食品を好きだと思ってくれる人ですね。私自身大塚の製品が好きで、日々自分で食べたり飲んだりしていますが、改良点などはそうやって製品と接する中で見えてくるものです。だから、会社を好きなことが一番なのです。それと同時に、コミュニケーション能力があり、考え方がポジティブな方。そのような方は、誰からも魅力的だなと感じてもらえると思います。 ■message  興味のあることは、その根拠にたどり着くまで深掘りしてほしいですね。勉強だけではなく、あらゆることに好奇心を持って、後悔しないように全力で取り組んでほしいと思います。学生時代はそれができる時間も環境もあります。音楽、読書、スポーツ観戦など何でもいいのでとにかくいろいろなものに触れて、興味が出たものは深掘りする。「なんで?」という視点で考えてみて、疑問点を追求していく。そういった経験や知識が心の引き出しを増やしていって、人間力につながっていくのだと思います。 学生新聞2021年4月号 慶應義塾大学1年 宮田峻輔

経営者

ニチコン株式会社  代表取締役社長(COO) 吉田茂雄

みんなで喜びを分かち合い、成長できる企業に ■プロフィール 関西大学卒業。ニチコン株式会社に入社後、シンガポールや香港など海外での駐在を経て、2009年取締役執行役員、2013年6月に代表取締役社長に就任。電子・電気機器に欠かせないコンデンサや、蓄電システム、V2Hシステム、EV・PHV用急速充電器などエネルギー・環境関連ビジネスを展開中。  私は商店街の真ん中で育ったので自然と商学部を選んだのですが、当時は何を学びたいのかはっきりしていませんでした。友達の誘いで入ったクラブ活動の会計学研究会では、結果としてゼミの選択や社会人スタートのきっかけとなりましたが、今では論文発表会、合宿の企画で苦労したことやクラブ伝統のアルバイトをしたことがなつかしいです。 ニチコンを知ったきっかけは、就職活動の終盤にゼミへ卒業生がリクルートにきたことで、そこからすぐに会社訪問、即面接でした。当時はPCやCDなど新しいものが次々と発売されていた時代でした。私はモノづくりに関わる仕事をしたいと思っていて、電気や電子にも興味があり、入社を決めました。友達やゼミの教授、会社の先輩とのつながりでこの会社に出会えたので、人とのつながりは非常に大切だと思います。 ■仕事で目指すものは何ですか  製品を通して社会に貢献し、世の中で認められることが一番嬉しいです。会社では上司も部下も同じチームで働いているので、成果が出て「いい会社だね」と言われると従業員全員で喜びを分かち合えます。だから、どのようにチームを成功に導き、社会とつながるかを常に考えています。今後も最先端の製品を出し続け、「ニチコンは次に何を出してくるのかな」と楽しみにしてもらえるような会社にしたいです。 また、思いを共有できる仲間と一緒に働きたいと思っています。私自身、武田会長の『誠心誠意』『今日を真剣に生きる』という言葉やその実行力に感銘を受け、そのような会長が憧れでもありました。だから、決して諦めない、という強い思いを持った積極的な人を求めています。 ■message  いろいろな人や文化と接点を持ち、たくさんの経験をしてほしいです。一つの分野にこだわらず、文学や音楽などさまざまな分野に興味を持ってください。親や教授、先輩から話を聞くのもひとつだし、本を読むのも良いです。そして、知ったことを皆で話し合い、意見をぶつけ合ってください。自分と他人との違いを知り、新しい発想を学ぶことで、さまざまな角度から話ができるようになります。自分にできることを探して、決して諦めないでください。そして自分の信じることにチャレンジし続けてください。 学生新聞2021年4月号 京都府立大学2年鵜川紗和子

DX・WEBマーケティング

カルビー株式会社 マーケティング本部デジタルマーケティング担当マネー...

デジタルならではのコミュニケーションを探る挑戦 ■プロフィール 大学卒業後、SIerにて通信やウェブシステムの設計、構築に従事。その後ナビゲーションサービスの運営会社にて、大規模なデータベースや検索エンジン、音声操作UI等の開発をリード。2017年5月にカルビー株式会社に入社。事業開発本部にてアンテナショップ等のデジタル化を推進。2019年4月よりデジタルマーケティングを担当。 ポテトチップスの国内シェア7割を誇り、スナックフードのリーディングカンパニーであるカルビー。そのカルビーのマーケティング部門に在籍している関口さんに、デジタルマーケティングの役割やお菓子業界ならではの取り組み、消費者との関係性構築についてお話を伺った。  私は前職までずっとIT業界にいました。しかしIT、特にソフトウェアやサービスは有形のモノを作ることはできません。もっと人の本質に近いところで仕事をしたいと考えて、食品業界へ転職しました。なぜカルビーを選んだか?カルビーには新しいことにチャレンジできる風土があることが大きかったですね。 新しい商品やサービスを作ったりするには、なんといってもお客様に寄り添い、お客様を知ることが大切です。当社のお客様相談室にお寄せいただく声のなかから、商品開発につながることも少なくありません。 ■デジタルの仕組みで何を実現するのか  当社はスナックフードを中心とした会社です。商品は店頭で実際に手に取って購買されるものですから、お客様との最大の接点は売り場です。そして商品のパッケージが重要な要素のひとつです。デジタルで単発的に広告を出すことによって、消費者の行動変容まで結びつけるのは相当難しいと考えていますし、お客様が望んでいるとも思えません。 デジタルマーケティングというと、広告の展開や検索順位という点に注目が集まりやすいのですが、われわれはそれだけを追い求めることはしません。 広告をするための手法ではなく、お客様のことをどのように知るのか、お客様にわれわれのメッセージをどう届けることでファンになってもらうか。お客様との距離を縮めるための仕組みに、デジタルの仕組みを使えないか、という考え方です。 ■お客様をより知るためにアプリやSNSを活用  当社では、2020年9月にスマホアプリを公開しました。食べ終わった商品のパッケージを特定の方法で折り、写真撮影することで、ポイントがもらえる仕組みです。そのポイントを貯めて、工場見学などの体験賞品に応募できます。環境のことを考えながらお客様と一緒につくりあげていくアプリになっています。 そして購入した商品をお客様が登録するため、どのような商品を手に取られたかもわかるようになりました。従来、小売店までに留まっていたデータが、われわれメーカーも活用できるようになったのです。これは大きな一歩です。 ■お客様への提案も大切な要素  カルビーにはロングセラーブランドの「ポテトチップス」や「サッポロポテト」、「かっぱえびせん」があります。どれも皆さんがご存じの商品だと思います。ご両親がお子さんのために購入するのは「かっぱえびせん」や「サッポロポテト」が多いと聞きます。一方で学生の皆さんがコンビニで手に取るのは何でしょうか。恐らくこの2つのブランドを選ぶ方は少ないのではないでしょうか。 子どものころから食べ慣れて親しんだスナックであるにも関わらず、いつの日か遠のいてしまう。でもまたライフステージが変わると戻ってきていただける。とても面白いブランドだと思います。 喫食タイミングや場所、シーンによって選ばれるお菓子は変わります。そのシーンとわれわれが提案する商品のイメージがうまくマッチして、お客様の記憶に残っているときに購買につながります。われわれがお客様を理解せずしてその提案ができるとは思えませんし、その理解のためにSNSも有用です。無理にブームを起こそうとしたりせず、また作り手の押し付けにならないようなコミュニケーションが理想です。 何よりもお客様に楽しんでいただきたいですし、運営するわれわれも楽しみたい。バランスが大事ですね。 ■Message  社会では、ときに自分の希望とは異なるタスクに出会うこともあります。そのような場面でも、きちんと取り組むと、やりたい仕事に対峙した際に活用できる発想力を養うことができます。本当にやりたい仕事が出てきたときに活かせるよう、実力をためておく姿勢を大事にしてください。 また、大学生活ならではの経験や知識を蓄えましょう。何より考えること、気づくことが大切です。 学生新聞別冊2021年4月号 駒澤大学4年 安齋英希

安齋英希

株式会社プレミアムウォーターホールディングス代表取締役社長 萩尾陽平

日本のおいしい水を世界へ届ける 1978年福岡県生まれ。高校卒業後、アメリカの大学へ留学。大学院進学を前に一時休学し、23歳でエフエルシーグループの前身となる会社を起業。2004年、株式会社エフエルシー設立。2016年、経営統合により株式会社プレミアムウォーターホールディングスの代表取締役社長に就任。趣味はトライアスロン、ゴルフ、水泳。 保有契約件数115万件を突破、業界シェアNo.1を誇る、プレミアムウォーターHD。ユニークな生き方や考え方を持ち、営業一筋で走り続ける萩尾社長。世界一と言われる国の経済・歴史を現地で体感し、皮膚感覚でつかむ社長だからこそ伝えられる、社会で大切なことは何かを伺った。  高校卒業後、すぐにアメリカの大学に進学したのですが、ネイティブと比べると語学力にかなり差があり、授業内容を理解するだけでも苦労しました。私は18歳の頃から、なぜこの国の経済が強いのかなどを考えることに興味があり、若いうちにアメリカに行き世界一の場所を肌で感じたいと思っていました。 当時、現地で感じたことや経験したことが、いま会社を経営する際の会社をどう強くしていくかや組織論に活かされていると感じます。国の歴史を学び、国がどう強くなってきたかは、会社をどう大きくしていくかと共通していると思うからです。 在学中に医学を志し、大学院を目指しましたが、親の収入だけでは学費が足りず、1年休学し日本へ一時帰国しました。そして資金を貯め、アメリカへ戻ろうと思いました。 日本では朝から晩までアルバイトに励み、歳の時に独立し、いまの前身である会社を作りました。会社が成長していくにつれ、結果が出ることに喜びを感じ、アメリカには戻らない選択をしました。 当時の仲間と何気ない会話から上場しようと決めましたが、調べるうちに1つの商材だけでは上場できないことがわかり、取り扱う商品を増やそうと考え、そのときに出会ったのがウォーターサーバーです。サーバー販売は、アウトバウンド営業で獲得したわりには他商材と比べ解約率が非常に低く、需要と供給のバランスが合う商品だと気づきました。また、自社の営業力で差別化が図れるビジネスモデルであったため、急速にウォーターサーバーのビジネスにのめり込んでいきました。はじめは代理店という形で、さまざまな会社のウォーターサーバーを販売し、その後、より良い製品を販売したいという気持ちから、メーカーにオリジナルブランドを製造してもらう「OEM」という形をスタートさせましたが、せっかく販売するのであれば、自社で工場を持つメーカーになりたいという気持ちが日々高まってきました。当時、国内最大の天然水の品質と生産能力を持ったウォーターダイレクト社と、国内最大の営業力を有する弊社が統合することで、さらに業界のシェアを拡大することができると思い、現在のプレミアムウォーターホールディングスが誕生しました。 ■会社の価値を最大化させるのが一番のやりがい  水は「安心・安全・おいしい」が重視されますが、安心・安全な水だけでは差別化は図れません。私たちは、ユーザーを増やすことで水源を増やし、製造コストを下げ、配送効率を上げることで、業界での優位性を創出しています。開発からアフターサービスまで一貫して手掛けることができるからこそ、より魅力的な商品・サービスを提供できると感じます。とはいえ、日本でのウォーターサーバーの普及率は、業界全体でも8パーセントほどです。まだまだ成長できる環境はありますので、自社で20パーセントまで伸ばし、1000万ユーザーを目指したいと考えています。 上場しているため、会社への投資をどれだけ最大化できるかに尽きると思います。株価をあげることも大事ですが、企業価値の最大化が一番の責任であり、そこにやりがいを感じます。 ■共感できて自分の道標がはっきりしている人  一緒に働きたいと考えるのは、『自社の活動を通じて人々の生活を豊かにし、そして世界で一番愛される会社へ』というビジョン、『社会的意義を果たし、地方創生を実現する』というミッション、弊社をもっとも象徴させる『自由と責任』というPWHDスタイルに共感できる人です。 雇われているという感覚ではなく、自分自身を成長させ、自分の価値を高めることで高給と好待遇を常に求めていける人材が集まってくれたら嬉しいと思います。 従業員持株会も、自分の頑張りが会社の企業価値に繋がっていると感じられることが大切です。社員が会社に投資したいと思える会社にしていかないといけません。みんなの努力の結果が株価に現れ、結果として社員の資産を増やすことができれば、皆の人生がより良いものになっていくと思います。 私自身はアポイントがあるときにだけ出社し、予定を入れすぎないようにしています。時間に追われるのではなく、経営においては考え、創造する時間が大切だと考えるからです。結果を出すことは最低限のことであり、空いた時間を自分で作り、よりクリエイティブな仕事ができるかが、トップに求められていると思います。 水という資源は、世界においても大変貴重な天然資源であります。日本の天然水の良さを、まずは日本の人にわかっていただくこと。そして、日本の天然水をこれまで以上に、世界に発信していけるよう、価値と信頼性の確立をしていければと思います。 ■message  自分たちは学生だからと言って可能性を狭める必要はありません。生まれたときから社会の一員です。いつかはみんな親を守らないといけないし、家族を持ったら子どもの成長も見守らないといけない。みんなとのレースはすでに始まっています。学生だからという言葉に甘えず、さまざまなことにチャレンジし、たくさん失敗することで、社会の一員として経験を積んでいってもらいたいです。 学生新聞2021年4月号 駒澤大学4年 安齋英希

経営者

湯快リゾート株式会社 代表取締役社長 西谷浩司

旅館の常識を破る取捨選択により、日本の温泉を身近にする ■プロフィール 東京工業大学大学院システム科学専攻を修了後、マッキンゼー入社。ロンドン・ビジネス・スクール(LBS)への留学後、GEキャピタル、GEエクイティーへ。その後、ミスミグループ取締役就任を経て、2010年、本間ゴルフ代表取締役社長に就任。同社再建後、2019年6月湯快リゾート株式会社代表取締役に就任。  学生時代はいろいろなサークルに顔を出したり、さまざまなアルバイトもしました。就職活動では「会社ってどうなっているのかな」という興味から、必ずしも志望しているわけではない会社もたくさん訪問しました。結果的に学生だからこその視点で社会や会社の実態を見ることができたのではないかと思っています。 私は新卒で入社してから今日まで、実は7回転職しています。経緯はさまざまですが、自分のやりたいと思うことに加えて、「お役に立てるならぜひ」という、求められるところでベストを尽くすということも大切にしてきた結果だと思っています。 ■旅館の常識を破り、日本の温泉を身近にする  今、湯快リゾートでは、「日本の温泉を身近にする」というビジョンに向かって仕事をしています。日本の旅館は平日でも1泊3万円くらいはします。それはそれでおもてなしとしてすごく素晴らしいですが、特別な日にしか行けず、行ける人や頻度も限られてきます。 そこで湯快リゾートでは、皆様に温泉をもっと身近に感じてもらいたくて、当たり前だと思われているサービスを廃止しました。たとえば、従業員がお客様のお部屋に行き、布団を敷くこと。湯快リゾートでは始めから敷いてあります。このように、無くても良いのではないかと思うサービスや旅館業界のしきたりを見直し、より付加価値のあるものを追求していくことを、グイグイ推し進めていきたいと思っています。 私が大切にしている言葉があります。「人事を尽くして天命を待つ」です。やるべきことをしっかりやっていれば、後悔することは少なくなります。プレッシャーという言葉を突き詰めていくと、もっとやらなければいけないことがあるんじゃないかとか、出来なかったらどうしようとか、そういう不安な気持ちが根本にあるんです。やるべきことをしっかりやっておけば、プレッシャーとは無縁なはずです。 ■message  今、世の中は大変革期です。変革期はピンチであると同時にチャンスでもあるのです。世の中の趨勢をある程度視野に置きつつ、自分は何を良いと思うか、何をしたときに嬉しいと感じたかなど、心の動きに敏感になってください。そして自分を理解し、興味や関心があることには積極的にチャレンジしてほしいです。行動は人生の満足感や納得感を高めてくれます。 学生新聞2021年4月号 大阪教育大学4年 清水悦子

DX・WEBマーケティング

株式会社ディー・エヌ・エーゲーム事業本部マーケティング統括部UXブース...

テクノロジー×クリエイティブで広告効果を最大化 ■プロフィール 2009年に株式会社ディー・エヌ・エーに新卒入社。2012年からマーケティング領域に従事し、アプリマーケティングの立ち上げ、様々なゲーム/エンタメアプリのデジタルマーケティング担当を経て、2016年よりゲーム領域のデジタルマーケティング責任者に。2020年より現職。 ゲームや動画配信などのエンターテイメント事業と、ヘルスケアやオートモーティブなど社会課題を解決する事業を行い、2つの領域で事業を展開しているDeNA。どのようにターゲットにメッセージを伝えし、浸透させていくのか、ゲーム領域のマーケティングのマネージャーである川口さんにデジタルマーケティングについて伺った。  DeNAのデジタルマーケティングでは集客を目的としたスマートフォンの広告出稿をメインの業務としています。具体的には、アプリの新規ダウンロードを目的に、Face-bookやTwitter、YouTubeなどの大規模メディアの運用広告を活用しています。運用広告では、広告経由のダウンロード数やそこから生み出された売上などの数値をリアルタイムに把握することができるので、効果を見ながらターゲティングや広告クリエイティブを都度調整しながら効果を最大化させていっています。  デジタルマーケティングの仕事の魅力は、PDCA(plan-do-check-act)サイクルが短く、仮説検証を大量に繰り返せることと、大規模メディアの技術力により広告自体の進化が非常に速いことだと思います。また、媒体社や広告代理店など社外の方と話すことが多く、社外の様々な方と議論しながら仕事ができることも魅力の一つです。 ■広告は目的に合わせて使い分け  デジタルマーケティングとテレビCMなどのマスマーケティングはそれぞれ特徴が違うため、DeNAではどちらも重要視しています。例えば、テレビCMは幅広いターゲットに伝えることができるので、1周年企画などの大規模出稿の際に展開することが多く、デジタルマーケティングはターゲティングを細かくできて少額からでも配信可能なので定常的な施策として利用するなど、デジタルとマスをマーケティング戦略に沿って使い分けています。   ただしデジタルマーケティングにおいても、やはりどういった広告クリエイティブを出すか、「いかにユーザーの心を動かすか」といったエモーショナルな部分も大きく効果に影響するので非常に大事にしています。 ■「伝わる」方法をきめ細やかに模索する  広告以外にもLINEアカウントやプッシュ通知などにも多くの工夫を凝らします。伝えたい内容を小さな画像や短い文章でどう適格に表現するか試行錯誤しますし、通知を送るタイミングも議論を重ねます。例えば、スマートフォンの画面に表示される画像領域や文字数を意識して画像やテキストを作り、複数の候補の効果を比較してよりよいものにどんどんブラッシュアップしていきます。 また、通知タイミングに関しては、通知を見てもらえなければ意味がないので、ユーザーの方の生活を想像して「日中は仕事だから、時以降、でもそのタイミングは各社狙うゴールデンタイムで通知が集中してしまい結果見てもらえないのでは?じゃあ、18時59分にしようか」などと試行錯誤を繰り返すイメージです。 ■生き続けるDeNAQuality  私の就職活動時代、DeNAは若い人にも裁量権があり、いろんなバックグラウンドを持つ人が多く、ここに入ったら楽しく働けそう、成長できそうと感じたので入社を決めたのですが、若い人にも裁量がある組織である理由として、DeNAQualityという行動指針が浸透しているからだと思います。DeNAQualityの一つに、役職にかかわらず、しっかりと自分の考えを示す「発言責任」があります。新入社員だったとしても、相手が先輩や上司であることを理由に遠慮して発言しないことをよしとせず、自身の意見を発信することを求められます。 このDeNAQualityが、組織の規模が拡大していっても守られてきたことが、現に若い人の裁量権があることに繋がっていると感じています。 ■message  学生時代は学生時代しかできないことをやってほしいと思います。例えば飲食店でアルバイトするとか、いろいろなところに旅行にいくとか。そういった経験が社会人になったあとにユーザー理解という文脈で生きてくることも多いと思います。  社会人になってからは、どんな仕事でもまずは必死にやってみることをおすすめしたいです。仮に今の自分がやりたいと思っている仕事じゃなかったとしても、そこから得られるスキルは必ずあります。また、必死にやることで自分に向いている仕事や自分のやりたい仕事の解像度があがっていくと思うので、是非そういったマインドで社会人になってもらえると良いな、と思っています。 学生新聞別冊2021年4月号 横浜市立大学3年 小熊結菜

如意太一

KLab 株式会社 代表取締役社長 CEO 森田 英克

エンターテイメントコンテンツで、世界中のユーザーをひとつにつなげる ■プロフィール 法政大学社会学部を卒業後、WEBプランナー、モバイルコンテンツプロデューサーを経て、2002年にKLab(旧ケイ・ラボラトリー)に入社。2007年、コンテンツビジネス事業部長。2008年、コンテンツメディア部長。2010年、執行役員KLabGames部長。2012年、専務取締役。2019年3月より代表取締役社長に就任。 ゲームの運営は皆様の声が原動力、と語る森田社長。“エンターテイメントコンテンツで世界中のユーザーをつなげること”をビジョンに、コロナ禍で海外に行けない状況にあっても、ゲームを通じで多くの人たちにつながってほしいと語る。その熱い思いを伺った。  高校年生までは全く勉強をしていなかったのですが、このままではだめだと思い、最後の1年間は一生懸命勉強しました。受験日まで年を切り、時間が無いことに気づいたので、ただやみくもに勉強するのではなく、まず問題研究から始め、受験する大学が出題している過去問題を徹底的にやりました。その結果、法政大学に合格したのですが、偏差値が高いといって恐れるのではなく、やり方を考え、作戦を立てれば必ず突破できるということを学び、この経験が自信につながりました。 大学入学後はインディーズのバンド活動に力を注いでいて、そのクリエイティブさに夢中になりました。その影響からファッションや音楽関係の企業を中心に就職活動をしていました。歳までバンドを続けていたのですが、仕事よりも音楽活動が中心の生活でした。個性の違う人たちと何かを作っていくには協調性が必要です。仲間と一緒にイベントを企画したりしていましたので、主体性も身についたと思います。その反面、20代前半で人生のキャリアプランについて真剣に考えていなかったという反省もあります。 ■ゲームでつながるサービスのポテンシャル  大学卒業後は小売関係の会社で働いていましたが、自分に合っていないと思い、2年で辞めました。その後、WEBデザインやモバイルサイトを作る仕事をやっている中で、サイト運営に興味を持つようになりました。お客様が課金するサイトでは、私たちがいいサービスを作れば登録者も増え、収入も増えることが目の前でわかり、課金制というビジネスモデルが面白いと思ったのです。モバイル端末でこれから新しい未来が開けるというワクワク感と実際に市場がすごい勢いで伸びていることがわかり、若くてもこの分野で成果を上げることができると思うようになりました。 KLabもシステム開発などをやっていく中で、モバイルを通してお客様がつながり、一緒にゲームを楽しむサービスは、絶対にポテンシャルがあると感じるようになり、日本にソーシャルゲームが入ってきたタイミングでゲーム業界に参入しました。 このビジネスは自分たちでサービスを作ってネット上で提供し、お客様にお金を払ってもらうというビジネスモデルです。仕事をしていくなかで、いろいろな人と協力しながら面白いアイデアを見つけ、磨き上げ、世の中にリリースしていきます。その結果、大きな反響を得られたときは、ランキングやSNS上の書き込みでリアルに結果が見えるようになり、うまくいったときの達成感は格別なものがあります。 一方では、自分たちが作っている作品が本当に面白いのか、自問自答する日々です。その結果、品質を向上させるために今あるものを疑い、ときには勇気を出して作品を作り直すことも多く、そこがこの仕事の難しいところです。  また、私たちの会社は世界に向けてグローバルに展開しています。海外でゲームをリリースする際に、法律や文化などがそれぞれの国によって違うため、一つひとつ調べていかなければならないうえに、運営が始まった後では新しいイベントが始まるごとに対応言語を全て用意しなければならないのがとても大変です。 一緒に働く仲間は素直な人がいいですね。素直な人は成長余力があり、人からの指摘や自分の経験をまっすぐに受け止め、次の成長に活かすことができます。現在はスキルが不足していてもすぐに成長していくため、素直であることが大切だと思います。前例主義にならず、今やるべきことや勝つために何をすべきかを自分で考え、チャレンジや失敗を恐れない人と一緒に働くのは楽しいです。 ■視野は広く、世界を身近なものへ  日本だけでなく海外でKLabGamesという名前がゲームメーカーとして認知され、世界中の人たちに楽しんでもらえるようなゲームが作れればいいなと思います。そして、エンターテイメントコンテンツで世界中のユーザーをひとつにつなげることが私たちのビジョンです。コロナ禍の今、私たちができることは何かを考えたときに、世界中の人が携帯端末を持っている現在、ゲームを介して簡単に世界とつながることができます。物理的に行き来はできませんが、オンライン上で世界中の人たちがゲームで対戦したりコミュニケーションを取ったりという場を提供することが私たちの存在意義だと考えています。そして今よりももっと大きな規模で事業展開できるように頑張っていきたいと思っております。 ■message  周りの意見に左右されず、やりたいことを貫いてください。社会が多様化している現在、できないことはないと思っています。自分がやりたいと思うことを極めていけば、それがビジネスになっていくと思います。多様性とは他人の個性を認め、リスペクトすることです。 最後に世界を意識してほしいです。今や競争相手は海外です。海外で勝ち抜けるビジネスパーソンになることは必須だと思います。視野を広く持ち、世界規模でアプローチしていってほしいですね。 学生新聞2021年4月号 駒澤大学4年 如意太一

神田理苑

井上苑子 「言葉」は最高の自己表現ツール。だからこそ言葉に愛を込めて...

■プロフィール シンガーソングライター。神戸市出身の23歳。小学6年より作詞・作曲と路上ライブを始める。ミュージックビデオの総再生回数は1億回を突破。また、歌手としてだけでなく、映画・ドラマ・CM・YouTubeなどマルチに活動する次世代のシンガーソングライター。 ■学生時代はどう過ごされていましたか  小学校・中学校のときは、大勢でワイワイ言いながら過ごし、学校行事にも積極的に参加するような学生でした。女子校だったこともあり、無意識のうちに集団行動をしていました。一人で行動するような大人っぽい人を羨ましく思っていたときもありました。 小さい頃から歌うこと、人前でパフォーマンスをすることが大好きでした。小学5年生から今の事務所に所属し、「歌手になる」という夢に向けてひたすら走り続けていました。高校生になって東京に出てきたのですが、そのとき上京を決意できたのは少しでも夢に近づける気がしたからです。 ■歌と言葉についてお聞かせください  歌はこの上なく楽しいものです。もちろん、趣味から仕事に変わる中で苦しい思いもしましたが、それ以上に歌には「人生そのものを考えさせる力がある」と感じています。私は歌を通して「誰かに何かを思ってもらいたいし、刺激となればうれしい」と思っているので、自分自身も周りから刺激を受け続け、現状に甘えないように心がけています。そして言葉は私にとって自己表現にもっとも適したツールなのではないかと思っています。自分の考えを相手にきちんと言葉で伝えたいですし、伝えて理解してもらえるととてもうれしいです。だからこそ言葉をたくさん愛し、自分が発する言葉に最後まで責任を持ちたいと思っています。 ■大学生へのメッセージをお願いします  大学生はたくさん悩みや葛藤を抱えていると思いますし、実際皆さんと年齢が近い私も悩みはあります。しかし、苦しいときでも自分が好きなことをしているときは最高に面白いと信じ、それに対する知識量は誰にも負けないと自慢できるくらい突き詰めていってほしいと思います。 ■取材を終えて  井上さんの楽曲は歌詞に力強さがあり、どうしてこれほど心に響くのだろうかと考えていたのですが、お話を伺う中で、「ことばを愛しているから」だと気づかされました。社会がデジタル化される中で、言葉へのこだわりが薄くなってきているように思います。だからこそ楽曲を通して言葉と向き合う姿勢を学びたいと思いました。 学生新聞2021年4月号 日本女子大学2年 神田理苑

DX・WEBマーケティング

株式会社GAtechnologies 執行役員CMO 田吹洋

テクノロジーによりお客様と寄り添い世界的な企業に ■プロフィール 明治大学卒。新卒でイマジニア社に入社。企画やマーケティングに従事する。その後カカクコム社にて事業開発やマネジメントを担い、ITスタートアップ企業でマーケティグ責任者を経験。2018年、当社に入社し、プロダクト企画・マーケティング部門の責任者を務める。 日本のみならず世界を見据えて不動産事業を展開するGAtechnologies。学生時代に音楽イベントを開催した際、どうすればより多く集客できるか考える中で「インターネット」の力を体感したという田吹CMO。デジタル技術がどのように不動産事業と結びついているのか、大切にしていることは何か伺った。  学生時代は音楽イベントを開催して、毎回300~400人の集客をしていました。それだけの人数を集めるのは容易ではなく、いつも必死に考える必要がありました。そのころ、ブログが流行り始めていて、集客に利用できるのではないかと感じ、実際に活用してみたところ、以前よりも人が集まったのです。その経験を通じて、「不特定多数の人に対して情報が一斉に伝わるインターネットの仕組みは目覚ましい力を持っている」と実感し、ITという分野に興味を持ちました。 就職活動を経てIT企業に入社しましたが、当時インターネットでモノが売れるということは理解されませんでした。しかし、日に日にインターネットが普及し、人々の意識が徐々に変化して「リアル」との垣根がなくなっていくのを実感していました。 そしてある時、弊社代表の樋口と出会い「、インターネットだけではなくリアルも鑑みてやっていかないと価値向上はない」と言われたことをきっかけに弊社に興味を持ち、転職して現在の仕事をしています。 ■GAtechnologiesが大切にしていること  GAtechnologiesは「認知・理解」「比較・検討」「申し込み」「契約後」という4つのステップをお客様に寄り添いながら行っています。 一般的に、「認知・理解」のステップを大切にしている企業は多くあると思います。しかし弊社では、販売まで自社で行っていることもあり、「より深い情報」をお客様にウェブ上で提供できるとともに、4つのすべてのステップについてお客様の反応をダイレクトに感じて仕事ができるので、より早く、スピード感をもって対応することができます。そうした、お客様と寄り添いながら仕事ができることは、私たちにとっても、魅力であり面白さでもあります。 ■グローバルな事業展開の魅力と課題  GAtechnologiesのビジョンは「世界のトップ企業を創る。」です。弊社では日本だけではなく、世界を見据えて仕事ができます。例えば、日本の物件を海外の方へ販売するなど、グローバルな事業展開していることも面白いと感じています。 日本国内だけではなく世界的に事業展開をしていくうえで、日本との市場環境が大きく違うことがあります。その一つが、海外と日本の物件管理システムの違いです。日本であれば、契約が終了するとデータベースに登録するなど、一連のシステムが確立されています。しかし海外だと、そうした仕組みのないところがあります。また、物件の情報をアップデートしていく仕組みがない場合があるので、そういった点も考慮しながらどう展開していくかを検討していっています。 ■ウェブもオフラインもお客様の利便のため  ウェブとリアルは、それぞれに良さがあり、状況に応じて使い分けています。 現在、お客様が不動産を購入する際、ほとんどの方がまずインターネットの情報に接しており「、最初に不動産業者に行く」という方は減少しています。私たちは、ウェブもしくはオフラインでお客様と接する「接点」を増やしていくとともに、お客様が「接点」を持たないといけない理由や、ウェブかオフラインどちらがお客様にとって利便性が高いのかを考え、アプローチを変えています。 そうしたことを通じて、不動産を購入していただくことだけではなく、理想の資産運用をしていただくことや、「もっとこういう家に住みたかった」などの不満をなくし、よりお客様の理想を叶えられるようにしていきたいと思っています。 ■message  ご自身が就職活動などを通じて得た情報や今のトレンド、日々生活するうえで感じたことを大切にしていただきたいなと思います。親世代からのアドバイスは、数十年前の情報をもとにしていることが多い。そうした情報よりも、学生のみなさんのほうが感度が高く、新しい情報を持っています。そういった自分自身の情報をもとに、就職活動や進路を決めたほうが、結果として良いキャリア形成ができると思います。自分の信じた道を進んでください。 学生新聞別冊2021年4月号 明治大学2年 山本真人

大学理事長・大使館

日本薬科大学 副学長・教授 都築稔

地域との連携を大切に、これからの教育を考える ■プロフィール 1974年生まれ。東京大学農学部卒業。東京大学農学生命科学研究科博士課程修了(農学博士)。サントリー株式会社勤務を経て、2005年4月より現職。専門は分子生物学、微生物学、 分析化学。伊奈町生涯学習委員会委員、聖学院大学大学評価 会議外部委員を務めるなど、自治体や大学との産学官連携を 多数手がけ、商工会等での講演も行っている。 地域との連携や社会貢献活動を大切にしている日本薬科大学。その副学長である都築稔氏に、地域と大学との関係性の重要性や今の教育に必要なこと、そして、人口減少やコロナ禍によって、今後、大きく変わろうとしている教育界の将来展望について伺った。 ■実験とテニスの毎日だった大学時代  小さい頃から生き物が好きでした。高校生の時に、手塚治虫の漫画やスティーヴン・ホーキング博士の本を読み、宇宙や未知の世界に興味を持ちました。その結果、「宇宙に生命体はいるのか」といった疑問を持ち、宇宙や生命科学に関する研究をしたいと思うようになりました。今振り返ると、未熟だったのですが、実際に大学に入って、学生実験の大半は、結果がわかっているものばかり。「知らないことを解明していくのが科学だ」と考えていた私は、「結果がわかっていることを繰り返しても」と疑問を抱くようになっていったのです。 部活動では、体育会のテニス部に入っていました。テニス漬けともいえる大学生活だったため、4年生になり部活が終わるまで、バイトや旅行とは無縁の生活を送っていました。「海外旅行は学生時代にしかできない」と思ったので、引退後は、東南アジア、中近東など、いろんな場所へ旅行に行きましたね。海外に一人で旅行をしてから世界の広さを実感し、視野を広げるためにも、「日本にいるだけではダメだ」と思いました。卒業後は研究者として学校に残るという選択肢もありましたが、まずは民間で頑張ってみようと、先輩からの誘いがあったサントリーに、営業職として就職をしました。 ■教育業界に入ってわかった、教育の大切さ  サントリーの営業マンとしての日々にはなんの不満もなく、ただひたすら楽しかったです。ただ、当時交際をしていた都築学園グループの次女との結婚が転機となり、あらためて教育研究の道に進むことになりました。その後、いろいろな大学を見てきて、私は2つのことに気づきました。1つ目は教育こそが人材養成の土台で、インフラの基本になっているということです。2つ目は現在、日本に約780もの大学があり(2020年4月現在)、専門性や地域連携など色々な特徴があるということ。日本では、偏差値で学校が評価されることが多いのですが、世界的に見るときわめて稀なケースといえます。世界には、研究活動、産学連携、国際性など、さまざまな評価指標があり、将来を見据えると、他の国々のように、日本の学校も、独自性や特徴を出さないといけないと強く感じました。 ■地域の周辺人口と大学の存続率は大きく関連している  日本薬科大学は、医療人養成だけでなく、社会貢献活動をとても大切にしています。代表例は、研究で力を入れている「漢方」を活用した地域連携です。埼玉県秩父地域で自生する薬用植物「キハダ」の例を紹介します。キハダは古くから生薬として使われていましたが、地元では有効に活用されていませんでした。私たちは、キハダに含まれる苦味成分を活用した「キハダサイダー」を地元の方々と共同開発しました。地元の人が気づかないようなものが、実は、地域に大きく貢献できることもあるのです。では、なぜこのような活動を展開しているのか。それは、地域と大学の存続は強く相関しているからです。国の統計によると、周辺人口が12万5千人を切ってしまった大学は、存在確率が50%を切ってしまうというデータがあります。つまり、地域の活性化と学校運営は、実は切っても切り離せないのです。 地域を元気にするためには、もともとその地にあり、地元に根ざしたものを見直すことが大切だと思っています。その他にも、有名ラーメン店「麺屋武蔵」(矢都木二郎社長がキャンパスのある伊奈町出身)とコラボして、薬膳ラーメンを商品化しています。花粉症対策、熱中症対策など、たくさんのラーメンを作りました。最近では、免疫力を高めるとされる食材を使ったラーメンを作り、コロナウイルスの軽症患者を受け入れているアパホテルに届けに行きました。もちろん全部、薬学の知見を活かした食材を厳選して作っていますよ! ■世界最高の「学び直し」を作る!  地球環境を守るための脱炭素社会の実現に向けた取り組みにより、今から約10年後の2030年には、ガソリン車がなくなる時代が到来するといわれています。つまり、市中からガソリンスタンドを見かけなくなる可能性があるということです。このように、今当たり前に存在するものでも、10年後にはなくなっているものがある。それと同じようなことが、教育業界にも起こりえるかもしれない。そこで、私は教育界の近未来を深く考えるようになりました。 そのなかで、教育機関にとって避けて通れない課題は「人口減少」です。私が18歳の頃は、同級生が約205万人いたのですが、2020年の出生者数(速報値)は87万人、コロナウイルス感染拡大の影響を受けて、結婚や出産を控える動きがあったことから、2021年は80万人を切るのではないかといわれています。つまり、この子たちが大学生になる2040年頃は、大学に入学する生徒数が、圧倒的に少なくなるということです。 そこで、まず私が目を付けたのが社会人の学び直しでした。現状、日本の25歳以上の入学者割合はOECD諸国の中では下から数えた方が早いのです。海外では、社会人の学び直しが広く行われており、スキルアップのために、一人が何度も大学に行くことが一般的です。一方、日本の割合がこれほど低い理由の一つとして、海外と比較して、企業の研修制度が充実していることが挙げられます。この仕組み自体は決して悪いことだとは思いません。そのため、大学が社会人対象のプログラムを提供しても、一部のビジネススクールを除いて、なかなか日本では根付きません。そこで、私が考えたのは、30代から40代、特に女性の関心が高い「健康と美容」をテーマに、世界中の有名講師を呼んで、オンラインで交流できる世界最高のプログラムを作るというものです。「漢方アロマコース」(文部科学大臣認定)というコースで、コロナ禍以降、海外への渡航が難しくなっていますが、このプログラムはオンラインで行われるので、パスポートやビザなしで国境を越えた交流が実現できるのが魅力のひとつです。 もうひとつが、留学生をターゲットにした取り組みです。日本では、修士・博士課程に進学すると、かえって進路や就職先が狭くなる傾向がありますが、多くの国では、最終学歴が上がるほど、生涯給与が上がるため、学ぶモチベーションも向上しているのです。そんな学生たちをターゲットにして、海外の留学生たちが、日本の文化や医療を学んだり、日本薬科大学で学位を取得するプログラムを考えています。 2020年にオンラインで海外交流プログラムを試行的に開講したところ、約1500人から参加申し込みが来ました。ゆくゆくは有料化して仕組み化できたら、日本の在校生よりも参加者が多くなる可能性もあります。 ■重要なのは、母校を利用し「いろんな人の経験を聞く」ということ  日本薬科大学以外にも、「いろんなことに挑戦しよう」と考えている教育機関は国内外を問わずたくさんあります。しかし、教育に関する情報はあふれすぎていて、学生の皆さんが必要な情報を捉えきれていないように思います。そこで、おすすめしたいのは、まずは視野を広げるという意味で、いろんな人の経験をリアルに聞くということです。それは身近な先輩の話でも誰でもいい。そして、聞いた経験を、今度は自分の血や肉として取り入れてほしいのです。まずは自分と向き合い、自分の中から「これをやりたい」と湧き出てくるものを感じたら、その気持ちを忘れず、一生涯持ち続けてほしいと思います。 卒業生は学校にとって大切な財産ですし、卒業生にとっても同じです。いずれは、母校に戻って、自分のやりたいことを実現するための助けを借りてもいい。むしろ、「母校を利用してやるぞ」という気持ちを持ってもいいのではないでしょうか。学びは一生!卒業したら終わりではなく、ずっと付き合っていける関係なのだと思ってもらえればと思います。 学生新聞WEB2021年2月12日取材 文教大学2年 早乙女太一

伊東美優

衆議院議員 小渕優子

幼い頃から尊敬する父の背中を見て、自身も政治の世界へ。 ■プロフィール 1973年生まれ。成城大学経済学部卒業。早稲田大学大学院公共経営研究科修了。株式会社東京放送(TBS)勤務、衆議院議員秘書を経て、父・小渕恵三総理の急逝に伴い2000年、26歳で衆議院議員総選挙に群馬5区から初出馬し当選。以後連続7期当選。2008年、少子化担当大臣として初入閣。これまでに自民党幹事長代理、経済産業大臣などを歴任。現在、党沖縄振興調査会長。 「政治家になることは全く考えていなかった。」そう明るく語った小渕優子氏。実は、小渕氏が議員となるまでには人生最大の選択と、意外な道のりがあった。では一体、どのようにして今日に至るのか。子育てをしながら議員としても活躍し続ける小渕氏に、政治家になるまでの経緯や今後の展望について、詳しく伺った。 大学は体育会での活動が中心の学生生活でした。高校からゴルフ部に所属し、大学時代もゴルフ漬けの日々を送っていました。実は私は、幼い頃から運動がかなり苦手で。そこで、ゴルフはチームプレーではなく他人に迷惑がかからないスポーツなので、私でもできるだろうと思い始めました。結果的にゴルフをやって良かったことは、一つ目は、他の大学との交流が増えたことです。二つ目は、副将をしていたこともあり、多くの部員をまとめ、チームをマネジメントするという経験ができたことですが、この際に組織を動かす大変さを実感しました。大学卒業後はTBSに入社しました。メディア業界を選んだ理由は、スポーツを通じて人間模様や役に立つ情報を発信したいと思っていたことに加えて、第4の権力と呼ばれるマスメディアの世界に興味があったからです。私の父は元首相なのですが、その当時、メディアを見ると、政治家はいつも叩かれていました。私は、父と生活する中で、父がとても熱心に地域や国のことを考え、休みもなく働いている姿をそばで見て知っていました。だからこそ、一度テレビ業界に飛び込んでメディア側から父を見てみたいという気持ちがあったのだと思います。 ■最初は「議員にはならない」と考えていた T B Sで働いていた当時、自民党総裁選があり父も出馬していましたが、候補者の中で一番人気がない状況でした。 そんな父のことをただ、放っておくことができなくて「父を支えたい」という気持ちが強くなり、3年でT B Sを退社して、父の秘書という形で事務所に入りました。秘書として働いて1年が経過した頃に、2000年の夏に開催予定だった沖縄サミットに向けて、イギリスへ行って勉強をする決心をします。しかしイギリスにいる間に、父が倒れたとの連絡があって…。すぐに帰国して、いざ空港に着いた時に日本の新聞を見てみると、父は昏睡状態と書いてあったのです。涙を流しながら続きを読むと、「後継は優子氏」とも書いてありました。確かに、地元で行われた群馬の行事には父ではなく私が代わりに出席していたため、地元の人からそういう声があがっても無理はなかったのです。私はすごく悩みました。政治家の家に生まれ、父の仕事をずっと見てきたことで、議員の大変さや責任の重さはよく知っていました。だからこそ、議員への道は全く考えていませんでしたし、世襲議員は他の人の機会を奪ってしまうために良くないとも思っていました。そして政治家になることは、大きな責任を伴うものですから正直言って怖いし、もっと楽な道もあるかもしれないと思いました。けれども、ここで政治家になることを選ばない選択をすることは、逃げてしまう事だと思ったのです。たくさん考えた末に、この人生最大の選択に終止符を打ち「継ぐ」決断をしました。そうして、父と同じく、私は26歳で国会議員となったのです。 ■将来を考え、中長期的な課題解決を いま、日本が抱える最重要課題の一つは、少子化問題だと考えています。私は議員になって8年目に、少子化対策担当大臣になりました。当時は、少子化は女性と子供の問題という風潮があり、少子化対策に対する予算がありませんでした。また、当時はまだ、働く女性に対して、子供がかわいそうでしょ、という雰囲気がありました。ですから、「安心こども基金」という制度をつくり、約1000億円の予算をつけて、子どもを安心して育てることができる体制整備を始めました。この時が、少子化問題に予算をつけた初めての時だと思います。あれから10年以上経ちますが、まだまだ課題はあるものの、女性の働く環境や育児の問題などは少しずつ良くなってきていると感じています。それ以外にも、若くして議員になり長く在職させていただいている環境にあるので、中長期的な課題にも取り組んでいきたいです。例えば、財政政策がその一つです。日本は借金が多いと言われますが、国が借金を持つことが一概に悪いのではなく、借金をコントロールして返していくことが必要なのだと考えます。この借金問題を含め、次世代にツケが回らないようにしていかなければなりません。それから、エネルギー政策も重要課題の一つです。日本は資源が少ないというのは自明のことですが、資源は少ないけれども技術の誇れる国だということは間違いありませんし、グリーン化に向けて世界でリーダーシップが取れる国だと思います。日本が将来的に海外からの供給に頼らずにエネルギーを確保できるように、長い目で課題解決に取り組んでいきたいです。 ■国民にもっと政治に触れる機会を 昨今、一般の皆さんの現状と政治が行っていることが、乖離している気がします。確かにマスメディアを通じてニュースを聞くと、例えば消費税が上がるなど、政策に対し「嫌だな」と思うことがあるかと思います。ただ、未来そして将来世代のことを考えると、今やらなくてはいけないこと、というのはたくさんあるのです。特に財政やエネルギー、人口問題というのは中長期的な問題で、国民の理解が必要不可欠な分野です。今後はその乖離を縮めていくためにも、まずは国民に納得してもらえるような説明を政治家がしていかなければなりません。加えて、もっと国民が議論することができる場や、選択できる機会を増やすことで、国民と政治が互いに寄り添える関係にしていきたいです。 ■大学生へのメッセージ コロナ禍において日々の行動が制限される状況にはありますが、学生という今だからこそ持てる自由な環境の中で、いろいろな場所へ行ったり、いろいろな人に会ったり、とにかく沢山の経験をして欲しいと思います。勉強に限らず、喜びや悲しみなど、心が震える機会を増やしてください。その経験は蓄積され、将来何か大きな選択を迫られた時や、高い壁にぶち当たった時、必ずその解決に役に立ちます。そして、自分の将来を作るのは、紛れもなく自分自身ですから、その結果幸せな人生を送るのも自分次第なのです。ですから、私は何事も前向きに考えることはとても大事だと思います。できるだけ、自分の心をおだやかに、Happyに!それが皆さんの明日に繋がります。 学生新聞WEB2021年2月18日取材 慶應義塾大学 1年 伊東美優

伊佐茜音

株式会社クリーマ 代表取締役社長/クリエイティブディレクター 丸林 耕太郎

世の中の最大多数の人を幸せに!熱い思いが生み出す事業の形 ■プロフィール 1979年・横浜生まれ。慶應義塾大学卒業後、セプテーニホールディングスを経て2009年に現在の株式会社クリーマを創業。日本及びアジア最大のハンドメイドマーケットプレイス「Creema」、クリエイターの祭典「ハンドメイドインジャパンフェス」を運営。「愛ある事業で、人を、世の中を、元気にすること」を目指す。趣味はDJとプロレス鑑賞。 日本最大級のハンドメイドマーケットプレイスCreema(クリーマ)。創業者の丸林社長は「本当にいいものが埋もれてしまうことのない、フェアで新しい巨大経済圏を確立したい」と語る。その背景には自身がミュージシャンとして活動する中で感じていた社会への疑問や、クリエイターに対する熱い思いがあった。 子供の頃からずっと、「たくさんの人をハッピーにできる仕事ってなんだろう」と考えていました。最初はスポーツでテニスを。15歳頃からは音楽活動をスタートし、大学生のときにはプロとしてDJや音楽制作などに取り組んでいました。そんな頃に転機が訪れ、経営者を目指すことになります。大学生は「未来に投資をする期間」だと考えていて、10年、20年後の自分をつくる為に、今何ができるかを意識して行動していましたね。 ■プロのミュージシャンとしての葛藤 中学生くらいの頃から「世の中の最大多数の人をハッピーにできる仕事がしたい」という思いがありました。音楽の世界に入ったのは、音楽が大好きで、そこからたくさんの元気をもらっていたことに加えて、市場規模の大きい業界で活躍すれば多くの人にポジティブな影響を与えられると思ったからです。学生時代のうちから結果を出そうと活動して、ありがたいことに仕事もたくさんいただいていたのですが、その一方で「やりたいこと」と「やらなければならないこと」のギャップに悩まされるようになりました。そんな時、主催したイベントでスポンサーをしてくださっていた著名経営者の方と出会い、「世の中の最大多数の人をハッピーにする手段として、音楽で勝負したい」という思いを語ると、「それなら君は経営者か政治家に向いているよ」と言われたんです。その時は真意が聞けず、「なぜそう言ってくれたんだろう」と1か月ほど考えた結果、一人の音楽プレイヤーとして活動するよりも、経営者になって色々な事業を立ち上げていくことができれば、圧倒的に多くの人をハッピーにできる可能性があるという結論に至りました。それを機に今まで抱えていた音楽の仕事を全て終わらせて、経営者としてのプランを立て始めました。 ■実力をつける為、一番苦手意識のある会社に入社 まずは会社での実務経験が必要だと思い、就職活動を始めました。面接では「経営者になるので3年で辞めます」と断言して、大手企業を含む十数社から内定をいただきました。最終的に就職したのはその中でも当時は小さかったインターネット広告代理店です。テレアポで徹底的に営業する、社員100人ほどのベンチャー企業で、個人的には一番苦手意識のあった会社でした。なぜそこを選んだかと言うと“強くなること”が必要だと考えていたからです。音楽活動で培ったクリエイティビティや企画力には確固たる自信がありましたが、競争の激しいビジネス業界で勝ち抜いてく力が自分には明らかに欠如していると感じていました。そのために何が必要なのか考え、「苦手なことで結果を出すこと」という結論に至りました。 ■才能が埋もれないフラットな場所を どんな新規事業を立ち上げるか考えた時に、50個ほどあったアイディアの一つが今のCreemaでした。音楽をやっていた時代、才能があっても評価されず諦めていく人たちを見て、能力が数値化されない曖昧な世界をどうにか改善できないかと考えていました。クリエイター達が誰かに気を使って好かれようと努力しなくても、自分たちの作品を世に出して、世界の誰かが評価してくれるような場所が作れないかと思ったのです。そんな中、C to Cという仕組みを思いつき、Creemaを創設するに至ります。 ■想いや信念を曲げない 創業当時はブランド信仰が今よりも強く、クリエイター作品を買うというのはかなりニッチな概念だったので、2,3年はサービスが伸びないまま苦戦していました。競合企業が30社以上も参入してきて、正直もう無理かもしれない思ったことは何度もありましたが、諦めずに続けていたら3年目の終わり頃から成長が始まり、「誰より深く考え、誰より徹底的に実行する」ことを続けていたら、6〜7年くらいで他社に大きな差をつけており、巨大企業を始めとするほぼ全ての企業が撤退していました。広告をたくさん打ったりプロモーションに力を入れたりすることに依存せず、とにかくいいサービスを作ることに注力し続けたことが功を奏したのではないかと思います。当時も今も変わらず“クリエイターファースト”という信念を大切にしながら、才能あるクリエイターが正当に評価されるサービスを目指しています。 ■クリエイターの夢を応援 今後は“クリーマ経済圏”を拡大していくと共に、売り買い以外のことでもクリエイターの力になれるサービスを展開していきたいです。自分の作品で食べていくことだけでなく、例えば「海外で個展を開きたい」だったり、「移住してアトリエ作りたい」といった、クリエイターの夢や想いは多岐にわたります。そういった課題や願いに応えていくことで総合的にクリエイター活動をサポートしていきたいですね。 ■どんな人と働きたい? 「どんな友達が好きか」とあまり変わらないと思います。価値観が合わず、必要最低限の会話しかしない関係だと、創造性やイノベーションは起きなくなってしまうので。能力やスキルも大切ですが、「人として好きだな」と思う人と一緒に働きたいですね。フィーリングな部分もありますが、具体的には「根が純粋で、誠実で、一生懸命に生きている人」です。あとは、「やると決めたら、最後までやりきる」習慣や覚悟がある人かな。 ■大学生へのメッセージ 大学生として就職活動する期間は、自分の将来設計を考える最大のチャンスだと思って取り組んで欲しいです。その中で親や世間の声に耳を傾けることも大切ですが、自分はどうなりたいのかというビジョンを持ち、そうなるには何をすべきか逆算して考えることが重要です。就職活動は他人と比較しやすく大変な時期だと思いますが、自分の人生をどうしていきたいかを突き詰める良い期間なので、ぜひ頑張ってほしいですね。 学生新聞WEB2021年2月15日取材 東洋大学 2年  伊佐茜音

神田理苑

株式会社タスキ 代表取締役社長 村田浩司

不器用でいい 自分の強みを太い幹に突き進む ■プロフィール 1967年09月生まれ。1991年 明和地所に新卒入社。2002年に新日本建物に入社し、主に不動産開発事業に従事。2016年に社内ベンチャーとして立ち上がった株式会社TNエステート(現社名 株式会社タスキ)に参画。2017年に新日本建物から独立した後、2018年に株式会社タスキの代表取締役社長に就任(現任)2020年10月東証マザーズ市場に株式公開を果たす。 不動産業界にデジタル化の風を吹かせ、多くの人々にとって身近で開かれた業界にしたいと独自の手法で成長を続ける株式会社タスキ。知識や経験の枝葉はないが不動産開発のプロフェッショナルを続けてきたという自分の強みを太い幹にここまで成長することができたという村田社長に仕事の魅力と今後の展望を伺った。 大学時代は勉強があまり好きではなく、なるべくやらなくていい方法を考えていました。オートバイが大好きだったことがきっかけでガソリンスタンドでのアルバイトを始め、大学時代の4年間、働いていました。大学1年生のときに「危険物取扱者乙4種」という資格の受験をアルバイト先の店長に勧められ無事に合格したのですが、資格を取得したことで当時700円だった時給が1100円まで上がったんです。その時、資格の持つ力の凄さを実感しました。自分が何者かを証明することができて、同じ仕事に同じ時間をかけたときの価値までも変えられることに衝撃を受けたことを鮮明に覚えています。その後就活の時期を迎え、アルバイトの経験を踏まえて何かしらの資格を取りたいと思ったときがちょうど「宅地建物取引士」の受験ブームと重なりました。大学4年生でその資格試験に合格し、他に高い志があるわけではなかった私はせっかく持っているこの資格を活かそうと思い、不動産業界への就職を決め、1991年4月に明和地所に入社しました。 ■資格のおかげで得た特別な経験 当時の新入社員は約100人いましたが、宅地建物取引士の資格を持っている同期社員は珍しく、皆のように顧客の新規開拓や飛び込み営業など地道な作業を積み重ねるのではなく、初めから「契約の場」に同席していました。新人で地方の契約や、深夜帯に行われる契約など都合よく使われることも少なくありませんでしたが何より、お客様に直接関わる仕事を早い段階からできたことがとてもいい経験になりました。「不動産は一生に一度、人生最大の買い物」と言われますが、その貴重な場面に若いときからたくさん立ち会ってきたのは良い経験でしたし、今日まで一つの業界でコツコツ続けて来られた原点でもあります。 ■これだけは負けないというものを自分の幹に その後2002年に新日本建物に転職し、社内ベンチャーとして始まったのが株式会社タスキであり、2018年8月に代表取締役社長に就任しました。注力している事業は、「コンパクトで無駄はないが充実している商品をニッチなゾーンに供給するTASUKI IoTレジデンス」「クラウドファンディングを通して多くの人々にとって不動産業界の間口を拡大するTASUKI FUNDS」「建築プランと事業収支の作成を自動化させその先に不動産業界の完全デジタル化を目指すTASUKI TECH」の3点です。1つ目では、東京都内で駅近5分以内の小規模に特化したしており、スマートハウスを標準装備したIoTレジデンスの供給をしています。機能性を十分に備えつつも家賃は周辺相場と同等に抑え、新しいやり方で大手企業が投資効率の悪さを理由に供給を断念したニッチなゾーンを攻略することができました。2つ目では、不動産投資を一口10万円に小口化と電子化したクラウドファンディングです。第1号案件を「認可保育園」という高い社会性を持ち合わせる施設にすることで、今までこの業界に関心を持っていなかった新たな顧客ニーズも取り込むことができました。この反響は想定外に大きく、クラウドファウンディングの受付開始からたったの3分で目標額に到達し、注目が集まりました。こういった少額投資から始まる不動産との関わり方も、将来的にはIoTレジデンスの購入に繋がることを期待しています。そして3つ目では、長年不動産業界に染み付いた「アナログな面」を改善したいという思いから始まった取り組みです。これは、実際に現場に足を運ばなくても建設計画地をマップ上で選択することで、蓄積された膨大なビッグデータをもとに適切な建築プランの提案ができるテクノロジーです。私たちはこれを全国にある少人数規模の不動産事業者に向けて販売供給をしたいと考えています。全国には不動産業を主軸とする会社は約35万社ありますが、その約90%は従業員数4名以下の少数で経営しているのが現状です。少人数経営に伴う作業効率の格差をカバーして、不動産業界全体が発展していくことを願っています。何かアクションを起こす時に今も昔も大事にしているのは、「自分は不動産開発のプロフェッショナルだ」という一つの強みを幹にして取り組む姿勢です。経営や経理を学んだことのない私が社長に就任してからこの2年、チャンスや決断の場面を乗り越えてこられたのは、今までの経験から作られた自分の幹を信じて向き合ってきたからでした。不器用でもいいから自分が続けてきたことに誇りと自信を持って日々の業務に取り組んでいます。 ■目指すはオープンかつクリアな業界 このように様々な事業を展開し成長を試みていますが、私が目指すことは不動産業界全体を開かれた空間にし、仕組みを透明化することです。この業界は、規模が大きいことや専門的知識が必要であることを理由にまだまだ閉鎖的な業界です。テクノロジーを用いてそれらの問題を解決していくことで、一生に一度の買い物で悩むお客様の背中を押せたり、より多くの方々に不動産を身近に感じてもらうことができると信じています。 ■大学生へのメッセージ 「何でもできる、より、なにか1つはできる」のほうが強いと伝えたいです。そのできる1つをとことん極めて、自分の幹を形成してみてください。幹は、専門性を示すことや周囲に自分の存在をアピールすることにも役立ちます。「ピンチはチャンス」です。その最強の武器を手に、果敢に挑戦していってください。 学生新聞WEB 2021年2月10日取材 日本女子大学 2年 神田理苑

政治家

衆議院議員 菊田真紀子

誰一人置き去りにしない社会へ ■プロフィール 1969年生まれ、新潟県立加茂高校卒業、中国黒竜江大学留学。1995年加茂市議会議員に全国最年少(25歳)で初当選、2003年新潟4区から衆院選初当選し、以来6期連続当選、外務大臣政務官、衆議院沖縄及び北方問題特別委員会委員長などを歴任。現在、衆議院文部科学委員会理事、立憲民主党筆頭幹事長代理。好きな食べ物は、カレーライス、麻婆豆腐(激辛)。 政治家になるつもりはなかった一人の女性が政治家の道へ進むことになった。その原点は何だったのか、また原動力はどこからきたのか。政治家として一人でも多くの人を救うために行ってきた活動と、今後の展望について伺った。 ■価値観を大きく広げた中国への留学 私は高校卒業後、中国語を勉強するために中国黒龍大学で二年間の留学生活を送りました。私にとって、この頃の中国という国は近いけれど遠い存在で、大国なのに発展していない謎めいた国でした。この様な興味が、私を中国へ留学させるきっかけとなりました。当時の中国は今と違って、貧しく、発展していませんでした。そのため留学中の生活は苦しく、生きていくのが大変でした。さらに、中国と日本の国家間の交流も少なく、日本からの留学生は10人程しかいない状況でした。最初は中国人と日本人のパーソナリティの違いにとても戸惑いました。人と人との距離感の違いや、コミュニケーションの取り方の違いなどから最初は好きにはなれないと感じていました。しかし、時の経過とともに考え方が異なる人たちとの付き合い方や、お互いの違いを受け入れていく姿勢を学んでいきました。この経験から私はいろいろな価値観に気づきました。そして日本に帰国してみると、改めて日本は恵まれている国だと実感しました。毎日報道番組ではコメンテーターが様々な発言をしていますが、これは表現の自由や報道の自由があるからこそできていることです。当時の中国では、このようなことは全くできませんでした。日本にいては気づけなかった良さを、中国に行ったことで発見することができました。 ■政治に全く興味がなかった私が政治家の道へ 留学から帰国後、私は中国語講座の開設や外国人支援のボランティアを行っていました。当時の地方は、排他的で外国人慣れもしていませんでした。国際結婚や働きに来る外国人の方々を支援していく活動を行っていく中で、行政の対応があまりにも遅く、オープンではないことに気づきました。これは実際に自分が行政の立場に立って変えていく必要があると感じました。そして周りの協力もあり、25歳で市議会議員の道に進みました。当時は女性が1人しかいなかったため、話題になりました。トップ当選で市議会議員になりましたが、今まで感じたことがなかった女性差別を政治の世界に入って目の当たりにしました。女性差別によるいじめもあった環境の中で市議会議員を5年間勤め、国政に挑戦しました。国政選挙で当選後、先輩に「1期生の仕事は2期生になることだ」と言われました。衆議院の場合はいつ選挙があるかわかりません。1期生、2期生の時は次の選挙で勝つために、政策を語るよりも時間があれば地元に帰り、選挙活動を行っていました。 ■実体験こそが一人でも多くの人を救う術に その後、経験を積み当選回数を重ねて、様々な政策や仕事に関わるようになりました。民主党政権時代では外務政務官を務めました。アフリカやパプアニューギニア、ミクロネシアなどの国々に日本政府の代表として行き、いろいろな外交交渉を行いました。その当時も、女性政務官ということで職務にあたり多く心配されました。しかし、女性だからと言われることがとても悔しかったため、率先して職務にあたりました。渡航してみると、現地の方々は日本から若い女性政務官が来たことを歓迎してくださって、友好的に話すことができました。また、当時から軍事政権が続いているミャンマーに行き、アウンサンスーチーさんともお会いしました。そして日本政府の意思を伝えました。これらの仕事は私にとって良い経験となり、やりがいのあるものだったと感じています。他にも、本当に困っている人々の現実に目を向けて、法律をより良いものに変えていくことで役に立つことができると喜びを感じます。実際に、災害にあった場合の支援が既存の法律では対応できない事例が多くあることを知り、被災者生活再建支援法を議員立法で改正させることも行ないました。また現在は、コロナ禍での在日外国人労働者の支援が足りていません。この様な問題において、かつて外国人支援ボランティアの経験がある私は、国会において説得力のある発言がしやすいのです。多くの経験が政治家としての幅を広げ、今に活きていると感じています。 ■女性がより政治の世界に飛び込めるような社会実現に向けて 今後は“普通の人々がいろいろな問題意識をもって、政治の世界に入りやすい時代“を目指し、多様性のある政治にしたいと考えています。現在の衆議院議員の女性の割合は1割です。この数字は、戦後の女性が参政権を獲得した時代から、ほとんど変わっていないのです。女性の議席は圧倒的に少なく、増えていきません。女性の議員が増えにくい原因は、選挙活動が体力勝負なところがあることや、資金的な面、家族の了解が得にくいことなどが挙げられます。私は自然に増えるのを待っているのではなく、入り口を作ることがとても必要だと考えます。政治活動のバックアップを行うことや、3,4割を女性の議員にすることなどを法律化していかない限り、この現状は変わらないと考えています。 ■大学生に向けてメッセージをお願いします 大学生は、興味の持った問題に対して学び、考え続けることをしてほしいです。更には、それを発信できると政治の入り口になるのではないかと思います。たとえ失敗したとしても、その経験から得られたものを糧に、立ち上がっていってほしいですね。私の経験上、楽をして身についたことはあまりなく、葛藤の中でやり遂げたことが何年経っても忘れずに身についています。今苦しくてやめたいと思っていることでも、あと少し頑張って継続することで必ず自分の財産になると思います。 学生新聞WEB2021年2月18日取材 文教大学 2年 坂本鈴佳

経営者

アララ株式会社 代表取締役社長 岩井 陽介

時代の先を読み、新しいコンテンツを作り続ける! ■プロフィール 1998年に株式会社サイバードを創業し、専務取締役に就任。モバイルコンテンツのサービス企画全般、モバイルコマース事業、海外事業に携わる。2000年に上場。その後、海外で普及していたギフトカードに着目し、2006年に株式会社レピカ(現アララ株式会社)を設立、代表取締役社長に就任。キャッシュレスサービス事業、メッセージングサービス事業を中心としたSaaS型B2B2Cビジネスを展開。昨年11月に東証マザーズに上場。 小さい頃から社長になりたいと思っていたという岩井社長。学生時代から積極的に社会と関わることでビジネスセンスを磨き、常に時代の最先端を意識して行動してきたという。その経歴をたどると、困難な状況にもフレキシブルに対応し、新しいサービスを生み出し続ける貪欲な姿勢があった。 商売人が多い大阪で生まれ育ち、幼いころから成功者の伝記を読むことが好きで、将来は漠然と社長になりたいと思っていました。父親に連れられ食事に行くたびに、この店の売上はいくらだ、と質問されるので、お店に入ると売上を計算する変なクセが今でも変わりません。(笑) ■アクティブに行動していた学生時代 大学では入学してすぐ、イベントサークルに入って1年生の頃からパーティー券を売ったり、自分でイベントを主催したりしていました。当時は大学生をターゲットにしたマーケティングがブームで、友人達と学生企業を始め、リサーチやフリーペーパーの発行、人材派遣等様々な事業をしていました。バブル真っ盛りの時代で、稼いだお金も毎晩遊びに行ってすぐになくなってしまいましたが(笑)。4年生になって就職をするか、このまま事業を続けるか悩みましたが、当時は超売り手市場で周りも楽しそうに就活をしていたので、私も就職の道を選びました。社員の平均年齢が25才以下で、若手が活躍している環境に惹かれ、当時のリクルートコスモスに入社しました。広報室に配属されたのですが、ちょうどリクルート事件の真っ最中だったので、事件のことで毎日電話がかかってきて大変でしたね。 ■時代の先を読み行動し続ける バブル崩壊後リクルートコスモスの不良物件と共に当時のリクルートビルマネジメントに転籍になり、その後先輩に誘われて、大阪のマーケティング会社に移りました。ちょうどその頃インターネットが出始めて、もともとパソコン通信に興味があったこともあり、何かインターネットに関連する事業がやりたいと思い始めました。電子専門学校に通う友人から情報収集をしたり、学生時代に一緒に事業をやっていた友人とインターネットの勉強会をしたりして、そのまま28才の時にパラダイスウェブという会社を立ち上げました。そこでは、“Hello”という自分のマイページを作ることができるサイトを運営していたのですが、会員が5000人を超えてきたくらいからサーバーが動かなくなってしまい、泣く泣く閉鎖することになりました。 そんな中、世間では携帯電話を持ち始める人が増え、ケータイでもそのうちインターネットができるようになるのではないかと考え、ケータイ向けサービスの企画を始めました。NTTドコモがiモードを始めるという情報を聞きつけたので、iモード向けのサービスを始めようと、1998年にパラダイスウェブを母体にサイバードという会社を作りました。日本で一番最初の携帯コンテンツプロバイダーというポジションでスタートしましたね。 ■臨機応変に新しいサービスを生み出し続ける もともと“Hello”を運営していたこともあり、コミュニケーション系のサービスをもう一度やりたいという思いから、iモードでそれを再現するコンテンツ開発も開始しました。 しかし、NTTの出していたサービスで事件が起きた関係で、そのコンテンツは開発途中で打ち切りになってしまいました。それでも諦めず、今度はPHS版に切り替えてリリースし、ヒット。iモードではサーファー向けの波情報から始まり、着メロ、ゲーム、占いなど、次々にサービスを開発し、2000年の12月に当時最短で上場を果たしました。 その後も、モバイルコマースやメディア連携といったいろいろな事業を立ち上げ、最終的に海外事業にも着手しました。その時、当時日本ではほとんど普及していなかったギフトカードという存在をアメリカで知り、大きな可能性を感じたのがきっかけで、2006年にレピカを立ち上げ、電子マネー事業を始めました。さらにメッセージングサービスやデータセキュリティサービスといった新しい事業をスタートさせ、2010年にはスマホの普及に合わせ、スマホのARアプリを展開する子会社アララを設立しました。2016年にレピカと合併して、現在はアララという社名で全てのサービスを集約して運営しています。 ■2度目の上場 時代の流れの中でキャッシュレスの需要が高まり、アララのキャッシュレスサービスも大きく利用者を増やし、創業14年目の2020年にアララは東証マザーズに上場しました。サイバードが上場してから20年目、2度目の上場は本当に時間がかかり、大変でした(笑)。 ■アララの強みは製品開発力 「アイディアとテクノロジーで革新的なサービスを提供し、便利で楽しい、みんながハッピーになる社会を創る」という企業理念を掲げ、新しい技術を積極的に取り入れた製品開発に力を入れています。IT自体どんどん進化していくので、開発をやめたらその製品は終わったも同然だと考えています。とにかく技術の進化に対して貪欲にキャッチアップしていくことを大切にしていますね。 ■どんな人と働きたいか 創業以来ずっと同じ企業理念でやっているので、それに共感してもらえる人にと働きたいです。あとは、自分の頭で考えて行動できる人です。ぼんやりしていたり、人から言われて動いたりするのではなく、「もっとこうしたらよくなるんじゃないか」と、いろいろなことに疑問を感じ、それを実行に移せる人がいいですね。 ■今後の展望 ここ最近はキャッシュレスサービス事業がものすごい勢いで伸びているので、そこをもっと強化していきたいですね。「キャッシュレスのその先へ」というビジョンを掲げて、今後現金を使うことが無くなっていく社会を想像しながら動いています。誰でも使えて、安全安心で、一番身近なキャッシュレスサービスを実現していきたいと思っています。 ■message 自分で考えたことを実際に行動に移すということをやり続けてほしいですね。思いついたらすぐ行動。やりたいと思ったときにすぐ動かないと、やりたい気持ちが薄れて、何をしたかったのかわからなくなるので。あとはいろんな刺激を受けるということですね。情報がないと行動に移せないので、アンテナを張り巡らせて、情報をキャッチアップすることも大切にしてほしいです。 学生新聞WEB2021年1月28日取材 国際基督教大学 4年 鈴木菜桜

伊佐茜音

社会民主党副党首 参議院議員 福島みずほ

全ての人の尊厳が守られる差別のない世の中を目指して ■プロフィール 1955年宮崎県延岡市生まれ、東京大学法学部卒業、弁護士。1998年参議院議員初当選。2009年連立政権の際に男女共同参画・少子化・消費者担当大臣。現在、社民党党首。主な活動分野は、非正規雇用者の待遇改善問題、夫婦別姓選択制や女性差別撤廃の実現、脱原発運動・グリーンリカバリーの促進、被拘禁者・外国人・難民の人権擁護、動物愛護法改正などに取組み中。現在、参議院議員4期目 学生時代からなくならない差別問題に目を向け、市民運動にも積極的に参加してきた福島みずほ氏。男女平等、障害者差別、労働災害。未ださまざまな課題が残る日本で、全ての人がありのままに生きられる社会の実現を目指す。弁護士を経て議員となり、大臣としても尽力してきたその原動力とは。 家と学校の行き来だけで、ものを知らなかった学生時代。大学では社会勉強をしたいと思い、「現実の中で社会を考えよう。」というフレーズのある裁判問題研究会に所属しました。1年生では職業病や労働災害に関して、2年生では住民運動などをリサーチしていましたね。当時、横浜市で貨物列車が住宅地を通ることに反対した住民運動を実際に目の当たりにし、裁判傍聴にも行きました。3年生になると街づくりや、法学部と関わりのある日照権の裁判に関して、五十嵐敬喜さんに講演をしていただきました。そうして色々な人と出会い、色々な想いを知って、さまざまな発見があり、それら全てが今の日々にも通じていると感じています。皆さんも、先生の何気ないひとことが妙に印象に残り、反芻していることがあるかもれませんね。それらを通して、私は裁判問題研究会に所属して良かったと思っていますが、他の社会問題に関するサークルとの交流にも楽しさを感じていました。 ■「国会で一緒に頑張ってほしい。」 中学生の頃、小説家かジャーナリスト、または弁護士になりたいと思っていました。同級生からの「小説家では食べていけないよ」という一言と、大学を卒業しても簡単に企業に就職できるわけではない社会の中で、父の「残念ながらこの世には差別がある。組織で働けば、今の時点では女性や外国人は差別を受けやすい。何か資格を持って一生働けるようにしたほうが良い。」という言葉を受けて、高校に入る頃には弁護士になろうと決めていましたね。そもそも弁護士になりたいと思ったのは、当時の映画館で流れていた電波ニュースから公害の裁判で活躍する弁護士を知ったことや、社会運動を行う弁護士に憧れを抱いたからです。そうして弁護士になり、これが天職だと思っていました。ただ、裁判をやっていると通達1つで法制度が変わる社会の仕組みと、声を上げれば法律も変えられるということが強く印象に残りました。そのような中で、当時社会党委員長だった土井たか子さんに「これから有事立法が五月雨式に出てくる。そんな国会で一緒に頑張ってほしい」と言われたのです。そう言われるまで、私の人生設計に議員になる考えは全くありませんでした。私の人生はどうなっていくのだろう、というどんよりとした不安を感じました。しかし、このまま弁護士として市民運動をしていて、もし憲法9条が変わってしまったら私も世の中も困る。それは避けたい。それなら議員になって憲法9条を守り、社会民主主義のもと政策を変えていこうと決意しました。 ■変わるのは私じゃない、社会のほうだ。 選択的夫婦別姓を実現したいと考え、長らく取り組んでいますが、そもそも日本はジェンダーが平等な社会とは言えません。男女平等といっても、単に女性が男性並みになるのを求めているのではなく、生きづらい、働きづらいと感じている人に寄り添う社会の仕組みができていくことを望んでいます。フィンランドのサンナ・マリン首相の「全ての子どもが自分なりたいものになれる、全ての人の尊厳が守られる社会をつくりたい」という言葉はまさにその通りですが、日本はそのような社会にありません。誰も親を選べず、誰も生まれてくる場所を選ぶことはできませんが、だからこそ政治は必要であり、全ての人の尊厳が守られる社会に変わるべきです。私自身、20歳ぐらいのときに、いわゆる”これが女の子が生きる道”というものは自分に合わないと感じていました。法学部でも、女子の割合はとても低かったです。とりわけLGBTQの方々は社会の幸せ像との違いがあり、たった一人でそれに対峙していくのはとても難しいことです。程度の差こそあれ、さまざまな人がそういったステレオタイプとのギャップに悩んでいると思います。自分のセクシュアリティを否定せず、私は私のままでありながらこの社会を変えたいと思っています。 ■大学生へメッセージ 出る杭は打たれても、出過ぎた杭は打たれない。だから短い人生で好きなことをやった方が勝ち。そんなことを思うわけですが、私が今までそうやって元気に生きていけることの1つには、母の「あなたは骨のある女だから、思う存分生きていきなさい」という支えがあると思います。母だけでなく女友達や、世間が何と言おうと支えてくれる人の存在がとても大切です。また、自分は何者でどう生きていきたいのかを考えたとき、人と違う生き方を選ぶことには勇気がいるし、怖いと感じると思います。実際に私自身、夫婦別姓であることを選び、籍を入れずに子どもを育てていくことはやはり怖かったです。しかしパートナーは「上手くいかなかったら、いつだって婚姻届を出せばいいじゃないか」と言ってくれて、私は肩の力が抜けました。そういった周りの人の支えもありますが、自分のしたいことと世間との間にギャップがあったときには、私は鏡を見つめ「世界中の人を騙せても自分を騙すことはできない」というように思いましたね。自分が正しいと思うことをやる、自分を好きでいられるような選択や生き方をしていくべきです。不安を感じるなら、実行に移せるその時まで力を蓄えていれば良いと思います。大学生の皆さんは親や先生に「こう生きなさい」と言われることがあるかもしれません。もちろん周りの意見を聞くことは大切です。しかしそれらに流されるのではなく、自分の意志で生きていく。自分の思う存分生きて欲しいですね。 学生新聞WEB2021年2月9日 取材 東洋大学 2年 伊佐茜音

芸能人

琴音 19歳の今だからこそ歌う意味がある、さだまさしさんの曲へのチャレンジ

■プロフィール 新潟県長岡市出身。2002年1月7日生まれ、現在19歳のシンガーソングライター。2019年3月6日、E.P.『明日へ』でメジャーデビュー。2021年1月13日、さだまさしさんの名曲「防人の詩」のカバーをリリース。自身3度目となる全国ツアー「3rd note TOUR 2020 -キョウソウカ-」は新型コロナウイルス感染拡大による国内の情勢を受け、現在再振替公演の日程を調整中。 「歌うことで、誰かが笑顔になってくれる、それが嬉しい」という、歌手の琴音さん。今回新たに取り組んだのは、さだまさしさんの名曲『防人の詩』のカバー。19歳だからこそできる表現、若い世代にこの歌を届ける意味…。音楽シーンを疾走する彼女の、音楽へ懸ける思いの本音を探った。 ■目があった人全員に、話しかけた 私も現役の学生です。新潟の高校を卒業して、音楽の専門学校に通っています。学校の友人はみんな「音楽業界に進みたい」という熱い思いをもっていて、向上心もあるし、モチベーションも高いです。負けていられない! って思うけど、いい意味でライバルとして刺激を受けています。専門学校のなかで、私がいちばん友だちの人数が多いかもしれません。こんな環境は生まれて初めてですね。 というのも、入学当初の私、ものすごくがんばったんです(笑)。「将来、音楽の仕事で一緒になるかもしれない!」と思って、目があった人全員に話しかける勢いで友だちになっていきました。小さいころは引っ込み思案で、友人がほとんどいなかった私が…! 今の関係が続けば、これからもずっと連絡を取り合える仲間になれるかな、って思っています。 ■『夢があるなら、口に出しなさい、そしたら叶うから』 母はクラシックピアノを経験、父は路上ミュージシャンで活動していたこともあって、音楽好きな両親のもとで育ちました。家では常に音楽が流れているので、弟は音にあわせて踊り、自分も気づいたころには自然と歌っていましたね。地元で歌の大会に出たとき、賞品で旅行券をもらえたことがあって。それで家族旅行に行けたんですけど、旅行よりも、家族が喜んでくれたことが嬉しかった。自分が歌って成し遂げたことで、誰かが笑顔になるっていいな、と。それが私の幸せなんだなと思うようになりました。 両親からは「夢があるならば、言えば叶うから口に出しなさい」とよく言われていたんですよね。だから「私、歌手になる」と周りの人に言い続けていたら、自分の気持ちもだんだんと強くなっていきました。言葉の力ってすごいですよね。 ■歌うことで、たくさんの人とつながることができる 歌を聴いてくれた小さい子が、私の似顔絵を描いて渡してくれました。じかに人の温かみに触れることがあると、歌手になってよかったなと思います。手紙でその人の状況を書いてくださることもあります。家族の雰囲気が悪くなって悩んでいる人、恋人が事故に遭って記憶をなくしてしまったという人、親戚が大きな病気になってしまった人…。そんな方々が、私の曲を聴いて心が柔らかくなったって書いてくださるんです。 先日は「ライブ会場で出会ったファン同士で結婚します!」というコメントも届きました。自分が伝えたい音楽を発信することで、誰かの人生が少しでもいい方向になっているのかなって思うと嬉しいです。ファンの方々の声は、自分自身も認めてもらっているような気持ちになります。私と、私の曲を聴いてくださった方それぞれに化学反応が起きていて、なんだか不思議な気持ちです。 ■プロの世界の厳しさに、心が折れそうになることも プロの音楽の世界に入って、厳しさやツラさも経験しましたプロジェクトが大きくなって関わる人が増えると、自分がやりたいと思ったことがそのまま出来るとは限りません。でも、自分の歌だから、きちんと思いを主張しなくちゃいけない。その思いをうまく伝えることができなくて、大好きな音楽の仕事をしているのに、もどかしい思いをすることもあります。メンタルがやられそうになることもあるんですよね…。 そんなときも、やっぱりファンの方とのつながりが励みになっています。昨今のコロナ禍では大勢の人の前で歌うことはできないけれど、だからこそ、お客さんに支えられていることを実感しています。 普段のライブでは、拍手を通して曲の区切りや一息つく時間ができ、次のパフォーマンスのきっかけにできるんです。配信ライブでは拍手が聴こえないので、「観客の方の息遣い、存在があってこそのライブなんだな」と再認識しましたね。今は配信ライブ中にチャットで盛り上げてくれたり、メッセージを届けてくれたりするので、ファンの方も試行錯誤しながら支えてくれているんだなと感じています。 ■19歳のいまだからこそ、歌う価値がある この度、さだまさしさんの名曲『防人の詩』のカバーを配信リリースさせていただきました。 歌詞の内容が哲学的で深くて難しいけれど、今のコロナ禍の状況にも通じるものがあると感じています。最近歌謡曲が流行ったりもしているので、若い人にも興味を持ってくれるチャンスではないか、19歳である自分が発信する事にも意味を感じ、カバーにチャレンジしました。さだまさしさんのオリジナル版にはかなわないかもしれない。でも、さだまさしさんのパワー・思いを、自分なりのアプローチで個性として伝えることはできるかもしれない。アレンジで和の雰囲気を出したり、ダブリングやコーラス、そして朗読を入れてみたり。若い世代の人たちにどうすれば飽きずに聴いてもらえるか、自分だからこそ伝えられることは何かを考えました。だから、ぜひ同世代の大学生のみなさんにも聴いてほしいです。 私の音楽性は、まだまだ未完成だと思っています。今回のチャレンジのように、興味がある音楽はどんどん経験していきたいです。今年は「多彩」を目標に、いろんな音楽・パフォーマンスに挑戦していきたいですし、プライベートでも、新潟から上京して感じたことや、専門学校の仲間からもたくさん吸収していきたいです。そしてその経験から、自分が伝えたい音楽とは何かを模索していきたいと思います。 ■message これからどうしようって、悩んでいる人が多いと思います。私もまだ19歳ですが、私なりに思うのは、好きなこと、興味があることを見つけることは大事だと思います。それが将来の職業につながるかどうかは別にして、好きという純粋な気持ち、湧き出てくるもの、そのエネルギーって自分自身が思うよりも強力なもの。なので、そこに突き進んでいってほしいと思います。 学生新聞WEB2021年2月3日取材  横浜市立大学 3年 小熊結菜 DIGITAL SINGLE「防人の詩」 2021年1月13日(水)リリース「防人の詩」ストリーミングサービスおよびiTunes Store、レコチョク、moraなど主要ダウンロードサービスにて配信中!https://jvcmusic.lnk.to/sakimorinouta YouTubeチャンネルにて「防人の詩」Music Videoも公開中! TikTokでは新旧問わず名曲のカバー歌唱動画を続々公開中!https://www.tiktok.com/@kotoneofficial その他最新情報はオフィシャルHPならびに各種SNSをご覧ください! HP:https://kotoneofficial.com/Twitter: https://twitter.com/kotoneofficialInstagramhttps://www.instagram.com/kotoneofficial/

北之原真奈

青木柚 自分とは正反対の役柄にぶつかるたびに、無知を痛感する

■プロフィール 神奈川県出⾝、2001 年⽣まれの20 歳。中学⽣の時に『14 の夜』(2016年公開)のオーディションを受けメインキャストで出演。2018 年公開の主演映画『暁闇』が韓国・全州映画祭にて招待上映される。ドラマ『死にたい夜にかぎって』『あのコの夢を見たんです。』『相棒season19 元日スペシャル』『夢中さ、君に』『アノニマス』と出演作が続く。4 ⽉スタートのドラマにも出演が決まっている。この8月20日に主演映画「うみべの女の子」が公開予定。 ■小さいころから、まねっこが好きだった。 なんでアイドルじゃなくて、俳優になったんだろう(笑)。というのも、小さい頃は100均で売っているマイク片手に兄が通う学校の校庭まで行って、歌ったり踊ったり。テレビに出ているアイドルや歌手の真似っこをするのが大好きでした。 小学生の頃は指人形を集めて一つひとつにキャラクターを設定して、ストーリーを作って遊んでいました。キャラを戦わせて、必ず「闇オチ」で終わる(笑)。この遊びは一時的な熱量であまり続かなかったけど、思い返すといまの仕事につながっているのかな、と思いますね。 ■役者をはじめるきっかけは、加藤清史郎くん 小学校から帰ってきて、当時再放送されていた『ヤマトナデシコ七変化』というドラマを見ていたら、同じ年齢の加藤清史郎くんが出演していたんです。立派な俳優さんと肩を並べながら一人で演技している姿を見て「すごい!」って思いました。母に「僕もこのお仕事をしてみたい」と伝えると承諾してくれた。どうやって母を説得したのかは覚えてないんです。でも、「やってみたい!」っていう強い気持ちだけは覚えてる。あのときの自分に、いまは感謝しています。よく辞めずに続けてきたな、って。 ■俳優をやめるタイミングはいくらでもあった 芸能コースの高校に進学したので、まわりもさまざまな活動をしている友人ばかりでした。学校の理解もあって過ごしやすかったんですけど、強いていうなら、行事に参加できないことは残念でした。 俳優をやめるタイミングはいくらでもあったし、これまでもツラいことのほうが多かった。でも、そんなときに支えてくれたのが家族でした。家族にだったらいいかなと思い、愚痴をこぼしたら、「この仕事をやりたくてもできない人もいるんだぞ」と普段あまりそんなことをいわない兄が諭してくれたんですよね。正しい道に導いてくれる家族にはとても感謝しています。 ■不安なとき、観客の生の声に支えられた 舞台挨拶で直接観客のみなさんと会えることは、僕のなかでとくに大きなこと。俳優っていう仕事は、だれも正解を教えてくれないし、この演技で大丈夫なのかと不安になることもあります。 昨年、⻑野での舞台挨拶に行った時、会場にお客さんが何十人もきてくれていて。僕の出演作品を観に足を運んできてくれた人、話を聞いて頷いてくれる人、拍手を送ってくれる人、そんな方々を目の当たりにしたんです。一人ひとりに作品が届いている、遠いところでも観てくれている人がいるっていうことを実感しました。いま、さまざまなことがオンラインに なっていくなかで、とても意味のあるものでした。 ■コロナ禍で見えてきた、自分自身の変化 いろいろな俳優さんのインタビュー記事を読むのですが、最前線で活躍している方たちって、エンタメの重要性、文化の継続意識を本気で考えているんだなと感じます。自分は、目先のことでいっぱいいっぱい。演劇界全体を盛り上げていくんだ、っていう気持ちが足りなかったと気づかされました。 おうち時間が増えて、改めてエンタメの重要性を感じました。コロナ禍で大変な状況のときに、映画やドラマのようなエンタメは必要ないっていう意見もありますよね。でも、ツラいからこそエンタメが必要な人は絶対にいて、その人のためにも続けなくちゃダメだって思います。演じる側の人間だけど、自分自身が映画やドラマを見て助けられることもある。僕も自分の作品を見てもらい、少しでも助けられるようになりたいです。 ■壁にぶつかったときは、役に活かせるチャンス! 自分が共感できるような役柄は演じやすいんですが、自分とはまったく違った状況やバックグラウンドの役は、難しい。そういった役柄にぶつかるたびに、自分はまだ考えが浅はかで何も知らないのだなって痛感します。 最近は、「大変だな」「わからないな」と思うようなことが日常で起こったら、客観的視点をもって見られるようになりました。“あ、これ演じるときに使えるかも”って思うんですよね。役柄を演じるためには、もっと日常を豊かにしていないといけないと思います。まだまだです。 ■どんな役であれ、いつでも集大成でありたい 環境が変わり、いままで以上に責任が増えたと思います。高校も卒業したし、ゼロからのスタートという気持ちです。これからは、作品の真ん中にいても、どの立場にいても、しなやかに演じられる俳優さんになりたい。毎回、出演する作品が集大成と思えるように全力で取り組んでいるし、それが将来、全体で見たときに大きな集大成になるようにしたい。 ■message 同じ時代を生きているのは、自分たちだけです。だから一緒に頑張っていきたいと思っています。若い世代が一人ひとり、小さな日常の意識を考えることをあきらめずにいれば、いまよりも楽しく過ごせると思います。友人への気配りとか、小さなことからでいいと思うんです。みんなが行き詰まったときに、僕の演技を見たら救われるような作品に、たくさん携わっていきたいです。僕も頑張ります! 学生新聞オンライン2021年1月22日取材 共立女子大学 3年 北之原真奈