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Archive for 運営スタッフ

大学理事長・大使館

学校法人関西大学 理事長 芝井 敬司

自分を小さな枠に収めようとせず、でっかい夢を持とう 学校法人関西大学 理事長 芝井 敬司(しばい けいじ) ■プロフィール1984年より関西大学に着任し、’94年文学部教授、2002年文学部長、’06年副学長、’16年学長を歴任。’20年10月から学校法人関西大学理事長に就任。現在、文部科学省大学設置・学校法人審議会特別委員をはじめ、学外の要職を多数務める。 2022年6月に大学昇格100周年を迎える関西大学。私立大学では14番目の開校という長い歴史を持つ大学である。近年はカーボンニュートラルやダイナミックな国際化を図ることを念頭に大学経営を行っているという。この関西大学に40年近く奉職されている芝井理事長にこれからの大学の在り方についてお話を伺った。 ■どのような学生時代を過ごしてこられましたか 高校生のときから興味を持っていた歴史や哲学、思想を学ぶために京都大学文学部に進学しました。1・2年次は教養科目を学び、3年次からは西洋近世・近代を研究できる越智先生のゼミに所属して、仲間や院生とヨーロッパの近世・近代について議論しました。当時はまだ学生紛争が残っている時代で授業が成立しないときもあり、同級生4人で集まって読書会を開いたりと、友人と学問を深める大学生活を送りました。大学卒業後はそのまま京都大学文学研究科に進みました。ドクターは、普通は3年間かかるところを1年目が終わったときに、当時主任教授だった越智先生が「来年から助手を」と言われ、助手をやることになりました。その後、関西大学の先生からのお誘いで西洋史の近代分野の教員として関西大学に移り、それから38年間ずっと関大におります。 ■理事長の役割と取り組みをお聞かせください 私立大学の理事長の役割は法人の代表者として契約したり、経営や財務の面で責任を持ったりすることです。責任が重いのでやりがい以上に苦しいという気持ちが強いですね。特にコロナ禍でどう判断するのかを決断するのがすごく苦しい。一昨年は「遠隔授業になって光熱費を使っていないだろうから返金してほしい」と言ってくる学生を、学長として説得しなければなりませんでした。関西大学は医学部も看護学部もないので大学拠点接種も思うようにはできません。そこで、20年くらい協定を結んで連携・協力している大阪医科薬科大学の学長に協力をお願いしたところ、「頼まれると思っていたよ、お受けしましょう」と言ってもらい、30593人にワクチン接種を実施できました。理事長になってから職員にも呼び掛けているのは、明治時代のジャーナリスト・翻訳家である黒くろ岩いわ涙る い香こうが大切にしていた「簡潔、明瞭、痛快」という仕事のモットー。私もそういう仕事をしていきたいです。 ■目指す大学像についてお聞かせください まずカーボンニュートラル。組織として引き受けるのは当然ですが、大学ですから教育・研究の部分で引き受けることが重要です。カーボンニュートラルのことを理解し議論して、そこから何かを創造することがどこまでできるかが課題だと思っています。そして、ダイナミックな国際化。これは実はずっとやりたいと思っていました。海外とキャンパスを結んだり、海外の学校から指定校で来てもらえるようにするなどです。日本の大学の研究機関のイメージと世界のユニバーシティのイメージのずれがあるのでそこを埋めていきたいです。また、スタートアップ企業も一生懸命支援していきます。現在は1件あたり30万円、100万円、1000万円をスタートアップ用に用意し、支援しています。自分のやりたいことやアイデアがある学生の背中を押すのが大学の大きな役割です。大学に昇格して今年で100年になります。関大は日本で14番目の私立大学で、戦前に設立した長い歴史を持つ大学です。100年前に提唱された「学の実化」(=学理と実際との調和)という建学の精神を軸に人材を育てています。 ■大学生へのメッセージをお願いします 社会や会社がどんな学生を求めているのかを学生は気にする必要はありません。私に対して社会が何を求めるのかではなく、私が何を求めているのか、私がやりたいことは何かを大切にしてください。そしてでっかい夢を持ちましょう。それがすごく大事な時代になりつつあります。もう少しのびやかに自分の人生を描いていってほしいです。人生100年時代ですから自分を枠の中に収めようとせず、学生時代は夢を語り、広げることに時間を使ってください。 学生新聞2021年4月1日発刊号 創価大学4年 山内 翠

学生新聞インターン

衆議院議員 前環境大臣 小泉進次郎

「自分の道は自分で決める」決断により責任が生まれ、大きなエネルギーとなる 衆議院議員 前環境大臣 小泉進次郎(こいずみしんじろう) ■プロフィール1981年神奈川県横須賀市生まれ。関東学院大学経済学部卒業後、2006年米国コロンビア大学院政治学部修士号取得。衆議院議員小泉純一郎氏秘書を務めた後、2009年8月衆議院議員初当選。2011年10月、自民党青年局長に就任。その後さまざまな要職を歴任し、2019年9月、環境大臣 兼 内閣府特命担当大臣(原子力防災)に就任。翌年再任。2021年3月、気候変動担当大臣を兼務。2021年11月、自民党総務会長代理に就任し、現在5期目を迎えて活躍中。 ■政治家になろうとしたきっかけは何ですか 私が政治の道に進んだ理由は「世の中をよりよくする」という自分の決意でしたが、その決め手になったのはやはり父の存在です。私が大学生のとき、父である小泉純一郎が総裁選へ出馬しました。相手は当事の派閥トップであった橋本龍太郎先生で、父は選挙に負けると言われていました。しかし勝ちました。父の勝利は「国民の声で世の中が変わるんだ」と私に実感させてくれた出来事です。また、父は親としても深い愛情を息子である私に注いでくれていて、家の中では優しい父親でした。父の職業が政治家だったから自分も政治家を目指したわけではなく、私に愛情を注いでくれた尊敬できる父の職業だったから政治家になる決意ができたのでしょう。 ■選挙戦についてお聞かせください 13年前、28歳のときに初めて衆議院選挙に出馬しました。当時は自民党が野党に転落したときで、自民党の新人で選挙に勝った人は私を含めて4人だけでした。初選挙は勝利を手中に収めることができましたが、選挙活動中は人前に出るのが怖くなるような毎日で、正直、苦しかったことしか覚えていません。世襲だと叩かれて演説もろくに聞いてもらえず、名刺を受け取ってもらえないばかりか、ペットボトルを投げつけられたこともありました。また、選挙カーであいさつ回りをしていたら、こちらへ向かってくる人がいて、「握手を求めてくれるのだろうか?」と思っていたら、唾を吐かれたこともありました。昨年は選挙活動でビラを配っていたら「くたばれ」と2回続けて罵倒されました。やはり罵倒されれば落ち込みますし、精神的にはきつい出来事でした。しかし、辛いことがあるのを承知で政界に飛び込むことを決意したのは自分だ、という想いが前を向いて歩んで行く力になっていると思います。「自己決定」をすることは大事ですね。 ■大学生へのメッセージをお願いします 一番伝えたいことは、「自分の道は自分で決める」ということです。決断を他人に委ねてしまうと、失敗したときに自分で決めなかったことで、大きな後悔をすることになるでしょう。また、他人に責任転嫁してしまうかもしれません。自分で決めたことには責任が生まれますから、その責任は自分にとって必ずやエネルギーになるはずです。 学生新聞2022年4月1日号 津田塾大学2年 佐藤心咲

経営者

株式会社エニグモ代表取締役CEO 須田将啓

ワンチームで世界に通用するブランドを作る! プロフィール 慶應義塾大学院コンピューターサイエンス修了後、博報堂の戦略プランナーを経て、2004年にエニグモを創業。2005年に「BUYMA」を開始。東証一部に上場。その後、英語版BUYMAを開始、グローバル事業展開。プライベートでは、水戸市活性化のための起業家支援事業・M-Workを設立。アマゾンジャングルマラソン、南極トライアスロン、サハラマラソンを完走。 学生時代から世の中に何かインパクトを残したいと考えていた須田社長。30歳までに起業するという目標を立て、目標どおり29歳で株式会社エニグモを創業した。戦後、日本の会社が世界で名をとどろかせたように、世界に通用するブランドを作って日本を明るくすることが夢だと語った。  学生時代はサークル活動とアルバイトに明け暮れていまただけでも違和感を感じ取れした。20年以上続くイベントプロデュースサークルの10代代表として学園祭の企画運営をし、コンサートにアーティストを呼んだり、チケットを売ったりしていました。アルバイトでは泊りがけで1ヵ月間、漁師の仕事をしたり、ソニーでバーチャル空間の管理人をしたりといろいろな種類の仕事を経験しました。 研究室を決めるときに、将来どうなりたいかを初めて考え始め、何かしら世の中に爪痕を残したいと思いました。博士として新しい発明やテクノロジーを生み出すか、社長としてビジネスでインパクトを残すかのどちらかだと考え、まずその両方を追求できるコンピューターサイエンスの研究室に入りました。最終的に研究よりもビジネスをやった方が展開が早いと気づいたので、将来は起業することを目標に、ビジネスの道を歩む決断をしました。  ■30歳までに起業するという目標を立てる  いきなりベンチャーを作るのではなく、マーケティングやユーザー思考をきちんと学んでから起業しようと思い、ビジネスが学べる就職先として博報堂に入社しました。大きな目標がないと、日々の業務に埋もれてしまうと思ったので、入社するときに30歳までに起業すると心に決め、同期にも公言していました。サラリーマン人生でなるべく多くのことを学ぼうと、上から言われたことは全部イエスと応え、がむしゃらに働きました。そのような中でのちに共同創業者となる田中と出会い、意気投合しました。将来の起業のために2人でアイデアを出し合ううちに、田中が今のBUYMA“バイマ“の原案を提案してきたのです。当時、ヤフオクなどでも海外の人からものを買うという取引を行っている人がいたので需要も明確にあると思い、これはいけるなと確信しました。最終的に29歳10ヵ月で株式会社エニグモを創業し、無事30歳までに起業という入社時の目標を達成することができました。  会社をやっていくうえでこだわったのは、料理だとクックパットやクラシルを思い浮かべるように、ブランドの服と聞いたらBUYMAと言ってもらえるように、人々のマインドシェアをとることです。最初は世界中のものがなんでも買えるようなサイトにしたいと思っていたのですが、売れる商品の傾向を分析すると、安いマスプロダクトではなく、服のような小ロットで多品種なものが売れることがわかりました。最初に売れた商品もアバクロの香水で、そういったニッチな分野でマッチングを作っていくうちに、今のようなブランドもののファッションへと特化していきました。とにかく海外という軸をずらさなかったことが、結果的に他社との差別化になっています。 また、創業当時から海外で通用するブランドを作りたいと思っていました。子供の頃、トヨタやソニーが世界で活躍しているのがうれしくて、それが日本人としての誇りや自己肯定感につながつていました。しかし、ここ30年はそういった会社が出てこなかつたと感じています。夢は社員全員とタイムズスクエアで鐘を鳴らすことです。海外で上場するくらいの会社になって、日本を明るくしていきたいですね。最近では、ハーバード大学のビジネススクールで題材として取り上げられるなど、海外でも認知が広がってきています。まずは海外の売上比率を20パーセントにすることが目標です。今後はデジタル空間が浸透した生活を見据えて、VRを活用した新しいサービスなども積極的に模索していきたいです。 ■社員一丸となってサービスを広げる  やりがいは世界中の人がサービスを使ってくれることです。趣味で釣りに行ったときに、釣りの船で一緒になった人がBUYMAのことを知ってくれていたときは嬉しかったですね。あとは社員が笑っていることです。小さな違和感をおろそかにしないよう、社員のやり取りや雰囲気には気を配つています。以前、広告事業が上手くいかなかつたときに、ワンチームだった組織に軋轢が生じたことがありました。それからは”糸をピンと張る"ということを意識していて、少しものが当たっただけでも違和感を感じ取れるように、メールやSlackのやり取りも全部オープンに見られるようにしています。 まだ会社もプロダクトも生ものの状態で、どうにでも変革できるので、新卒でも思いが強ければ意見を採用します。私利私欲がなく、会社やサービスを第一に考えて変革できる人や熱量の高い人と一緒に働きたいですね。頭の良さや経験ではなく、チャレンジ精神があって熱量が高い人は、たとえ失敗して回り道をしても、最終的に一番結果を出す人になると思っています。 ■message  熱量を高めることが大切です。熱量は行動しないと出てこないと思うので、アルバイトでもサークルでもインターンでも、何でもアクションを起こしてほしいですね。出来ないことは何もないと思うので、自分で高い目標を立ててがむしゃらに頑張ってください。 学生新聞2022年4月号 国際基督教大学4年鈴木菜桜

濱穂乃香

LINE DigitalFrontier株式会社 執行役員COO 平井漠

人々に楽しんでもらえるサービスを提供する ■プロフィール 大学卒業後、電子写真集などの制作に携わった後、携帯キャリア公式電子漫画サービスの企画を担当。2013年、LINE株式会社に入社し「LINEマンガ」を担当。2018年、分社化に伴いLINEDigitalFrontier株式会社へ出向。2019年2月、同社執行役員に就任。2020年、COOに就任。 多くの人が「LINEマンガ」というアプリで漫画を読んだことがあるのではないだろうか。電子コミックサービスとして日本でもトップシェアを誇り、マンガをスマホで読むという習慣を作ったサービスの一つと言っても過言ではないだろう。そんな「LINEマンガ」のサービスを提供している平井COOに、業界トップだからこそ語れる魅力や夢を伺った。  大学生のときは、正直あまり真面目な学生ではなかったです。授業もそこそこにバンドをやって、アルバイトをして、という感じで自由な学生生活を送っており、卒業式の日には広島でバンドのライブをしていました(笑)。そんな感じだったので、就職活動もしておらずそのまま音楽を続けていました。大学卒業後は、音楽をしながら編集プロダクションでアルバイトをして、企業年鑑の制作やひたすら電話取材をしていました。 しかし、26歳になったときにバンドが解散することになりました。音楽を完全にやめるつもりはなかったのですが、きちんと働こうと思い、出版社のモバイルサービスを作っているIT系の会社に入りました。入社理由はもともとエンタメが好きだったことや、出版業界に興味があったこと、そしてモバイルという当時これから成長していくであろう業界だったので、楽しそうだと思ったからです。その後、いくつかの会社に転職をし、携わるものが電子コミックになったりという変化はありましたが、私自身はサービスを作ることが好きで、今を含めてずっと“サービス作り”に携わっています。 ■みんなが楽しめるサービスを提供する  昔はガラケー、今はスマートフォンとIT技術は革新していますが、どれだけいいサービスを作ることができるかという核の部分はずっと変わっていません。みんなが楽しめる、盛り上がれるサービスを作りたい、そのように思いながら、常にさまざまなアイデアを考えている気がします。電子コミックにおいても、単に紙が電子におきかえられたということだけではなく、オンラインサービスになったからこそ出来ることがあります。それを見つけて、より楽しめるものを提供していきたいと思っています。 マンガ文化が世界に広がり、作り方自体も少しずつ変わってきている変革期にあって、マンガが発展していくところを、自分たちがこの業界の中でイニシアティブをとって関わっていけることにやりがいを感じています。技術や時代の変化は苦労だとは思っていませんし、逆に、変化があるからこそ楽しいと言えます。 ■マンガをもっとグローバルに展開  現在、「LINEマンガ」では70万点以上を配信し、オリジナルや独占・先行配信作品も700以上あります(’22.1現在)。これからも新しい作品が生まれて、ユーザーにも作家さんにも事業者にもメリットがあるプラットフォームとして発展していきたいです。 特に、世界的に見たときに、我々の会社はその中心で動くことのできるポテンシャルのある会社だと思っています。オリジナル作品を海外へ発信したり、逆に海外の作品を日本で配信することもできます。というのも、「LINEマンガ」が所属する電子コミックプラットフォームのグローバルグループ“WEBTOONworldwideservice”は、アプリのダウンロード数は全体で2億ダウンロードを超えていて、この業界において圧倒的な1位です。そのようなグローバルに活躍できる立場だからこそ、今後もどんどん世界展開し、マンガというコンテンツのパフォーマンスをもっと上げ、ユーザーにとっても作家にとっても良い環境を提供していきたいです。そして、ユーザーに選ばれるNo1のサービスを提供している会社になりたいですね。これは私自身の夢でもあって、「やったな」と思う成果を残すことができたら嬉しいです。 ■求めるものはチームワーク  一緒に働くならやっぱりマンガが好きな人がいいですね。そして、サービスを考えるのが好きであったり、自分でこの仕事が向いているって思えたりする人の方がいいと思います。ただ、サービスを作るうえで、一人でできることは限られていて、チームワークが大切になります。そのため、チームワークが発揮できる人と一緒に働きたいですね。 また、自分が作った機能やサービスがユーザーに受け入れられるといった成功体験はモチベーションが上がり、やりがいにつながります。以前、「LINEマンガ」をリニューアルしたときに、売上が倍くらいになるなど明確に結果が出たことがあって、とても印象に残っています。もちろん、失敗の中にも学びはたくさんあって、一つひとつが大事なことです。そうやってみんなでサービスを作り上げていけるといいですね。 ■message  私は学生のときに音楽にはまり、いろいろなアルバイトもしてきました。振り返ってみるとそういったさまざまな経験が今の仕事に役立っていると思います。一番時間があったなと思うのは学生時代ですし、働き始めるとやりたくてもやれないことがたくさん出てきます。学生時代はやりたいことをやって欲しいです。後々の人生で経験として生きてくることがたくさんあります。ぜひやりたいことに挑戦してみてください。 学生新聞2022年4月号 東洋大学2年 濱穂乃香

川浪亜紀

株式会社バスクリン 代表取締役社長 三枚堂正悟

90年という歴史の積み重ねで日本中を健康にする ■プロフィール 1963年岩手県に生まれ、千葉県で育つ。学生時代に打ち込んだサッカーでは、インターハイベスト8にまで進出した。日本大学文理学部を卒業後、アース製薬株式会社へ入社。2014年、役員待遇管理本部経営企画部部長に就任後、同社取締役経営統括部統括部長・バスクリン社外取締役を経て、2020年2月、バスクリン代表取締役社長に就任。 健やかで心地よい生活を提供することを社是とする株式会社バスクリン。明治時代から続く長い歴史の中で、入浴剤を使うことを一般化させることに成功。在宅ワークが増え、ますます入浴剤の需要が高まる中で、バスクリンはさらにどんな高みを目指していくのか。三枚堂社長にお話を伺った。  大学時代は、小学生から続けてきたサッカーに打ち込みました。寮にも入り、寮生活とサッカー部を中心に活動していました。サッカー部の練習が授業と重なり、授業に出られず、単位は2年生になってから必死にとるということもありました。4時半に起きて朝ごはんを作ったり、寮では4学年が一緒に住んでいるので一種の緊張感がありましたね。当時の仲間は、今でも連絡を取り合い、一生付き合える大切な仲間ですね。心の支えになっている存在です。 当時は小学校、高校のときに出会った先生の影響が大きく、サッカーの指導者になりたいと考えていました。そのため、教員を目指し、就活はあまりしていませんでした。しかし、教育実習に行ったとき、「自分は本当に教師を一生続けたいのか?」と考えるようになりました。実際は教育者ではなく、「指導者」になりたかったんだなと実感し、教員を目指すことをやめ、アース製薬に中途入社しました。 ■人とつながることの喜び  アース製薬に入社後、初めは営業として働き、そして会社の上場のための準備に携わりました。この経験は今の自分の自信につながっています。その後、異動もあり今の会社で3年になります。 やはり、人と出会えることがこの仕事の楽しみだと感じます。もともと生活に密着した商品を取り扱いたいという思いもあったので、今の仕事には本当にやりがいを感じています。また、私たちメーカーは、商品を手に取ってもらった方に喜んでいただく機会があります。「この商品を使っていて良かった」と感謝を伝えていただくこともあり、そこに至るまでにいろいろな人が関わっていると考えると、この一言が聞きたくて仕事をしているんだ、と思うことができます。また、会社に入っていろいろなことを学び、人と出会って成長し、ここまで来れたと思いますし、本当に今楽しいと感じます。また、経営する中で考えるのはあまり気負いすぎないことです。自分がだめだったら他の人がいます。変化は見過ごさずチャレンジし、とにかく今やれることを精一杯やる。そして、失敗したらそのときに考える。そうした気持ちを大切にするようにしています。 ■どこにも負けない歴史ある商品を扱う  弊社は、真面目でコツコツ働く人たちが多い会社です。バスクリンという商品は誕生から90年以上経っています。その年月は、やはり簡単に打ち立てられるものではなく、入浴剤のパイオニアと言えます。健康や癒しという習慣を根付かせている商品は他にはないと思います。また、その年月の積み重ねによるデータやエビデンスに自信を持っています。専門性が高く、知見においてはどこよりもあると思います。これをいかにわかりやすく提供していくか、ということが大切かと思います。 コロナ禍で在宅率が高まり、入浴剤の需要も大きくなりました。常に誰かと一緒に家にいることが多い中で、入浴の時間はリラックスできる貴重な時間なんですね。その入浴の時間に香りを楽しめたり、就寝前の入浴でよく眠れるようになったりするなど、入浴の時間をより充実させるお手伝いができたらと思います。 また、弊社には「日本の名湯シリーズ」という人気商品があります。全国の温泉地とタイアップした商品ですが、家で全国の温泉に行った気分を味わえるというシリーズです。この秋から、その売上の一部は温泉地に寄与させていただいています。そのため、熱海の震災の後には、お客様からこの支援に賛同が得られ、この商品を買っていただいたこともありました。こうしたこともお客様に受け入れられてきているのではないかと思います。今後も女性向けの美容関係の商品や、子どもと親が一緒に過ごす時間を楽しくする商品など、さまざまな角度から商品を開発していきたいですね。 毎日入浴し、身体を綺麗にして温めるという習慣は、日本独自の文化です。この入浴の文化を若い世代にももっと浸透させ、良い習慣であることを伝えていきたいと思っています。現在、お風呂でお湯に浸かる人は日本で約パーセントと言われています。その中で、入浴剤を使う人はさらに限られています。そのため、日本国内でもより入浴剤を使っていただけるような努力をし続けていきたいと思っていますし、さらには、世界の人にも入浴剤を使っていただけるようなフィールドを広げていけたらと思います。外国の人が日本に来ると温泉に入りますよね。そうした入浴の文化を世界にも輸出し、バスクリンを世界中へ発信していけたらと思っています。 ■message  人生の中で、大学生の時間はとても楽しいと思います。その時間が、コロナ禍で制限があるというのは本当に切なくなります。しかし、その中で工夫する力はどの世代よりもついていると思います。制限されている中で何ができるか、楽しみ方、家での過ごし方など、工夫できることはあります。貴重な経験を大切にして、決して後ろ向きにならず、新しい土壌を築いたと考え、その中でしっかりと楽しんでほしいです。私は、「頑張って」とは言いたくありません。しかし、工夫して「楽しむ」ことは全力で頑張ってほしいなと思います。 学生新聞2022年4月号 津田塾大学4年 川浪亜紀

経営者

アース製薬株式会社代表取締役社長CEO兼グループ各社取締役会長 川端克宜

コミュニケーションと人間力でコミュニケーションと人間力で プロフィール 1971年兵庫県生まれ。1994年近畿大学商経学部(現・経営学部)卒業後、アース製薬株式会社入社。流通営業を担当後、2006年広島支店長、2009年大阪支店長を務める。2012年に役員待遇ガーデニング戦略本部本部長、翌年に取締役ガーデニング戦略本部長に就任。2014年、同社代表取締役社長に就任。2021年、同社代表取締役社長CEO兼グループ各社取締役会長に就任。 社員の幸せを第一に、良い会社であり続けることを目標に会社運営を行うアース製薬株式会社の川端社長。社長は人の御縁によって導かれ、アース製薬に就職したのだという。そんな就職活動の体験やアース製薬の強み、今後も魅力のある会社であり続けるための経営努力についてお話を伺った。  私は漠然と昔から医者になりたいと思っていたのですが、大学は文系の商経学部(現・経営学部)に入学しました。医者のように手に職をつけることはできず、「自分は何ができるのだろう」と考えるようになり、あるときふと「歳を取ったときに格好いい大人になりたい」と思いました。いつまでも格好いい大人でいることができる業界はアパレルだと自分の中で結論付け、最初はアパレル業界で就職活動をして、内定をいくつかもらうことができました。就活がいち段落し、当時お付き合いをしていた彼女とデートに行く約束をしていたのですが、待ち合わせ時間が時だったのか、午後6時だったのか判然としなくて困ったときがありました。当時は携帯電話がなかったため、連絡して時間を聞き直すことができず、16時に彼女の家に行くことにしました。しかし、どうやら待ち合わせ時間は午後6時だったようで、彼女は不在で、お父さんと遭遇してしまいました。お父さんは私を家にあげてくれて、2人で彼女を待つことになりました。そのとき、会話の中で就職の話になり、アパレル企業から内定をもらった話をしました。そのこと自体、全く問題ないと思っていましたが、後日、彼女からお父さんは私がアパレル業界に進むことを快く思っていなかったことを聞き、一から就職活動をし直すことに決めました。求人雑誌のア行から会社を探したところ最初に「アース製薬」の名前があり、面接を受けました。私の就職活動は全て御縁だったのです。もし彼女との約束の時間があいまいでなければ、お父さんに遭遇していなければ、求人雑誌でア行から会社を探していなければ今の私はいなかったです。全て良い御縁に巡り合えた結果です。 ■コミュニケーションによる人間力が魅力  私はとても負けず嫌いで、アース製薬に勤めてからは同期の中で常に1番を目指していました。初めは営業を担当し、売上目標金額を落としたことはなかったと思います。「物理的に無理なこと以外は何でもやろう」という心意気で仕事に励んでいました。そうやって仕事と向き合っている中で周りから評価いただき、今は社長としてアース製薬を支えています。さまざまな立場を経て社長になった私ですから、各部署や人について身近な場所から観察をしてきました。だからこそいらない部署や人はなく、どれが欠けても成り立たないということを深く理解しています。私は日々、社員とのコミュニケーションを大切にしています。 また、わが社の最終面接に参加される学生とは一対一で話をし、御縁があるなと思った学生を採用します。私たちから質問をしているだけではフィフティーフィフティーの関係にはならないので、最後は質問を受ける側に回ります。わが社を受けに来られた学生たちと本音で語り合いたいのです。アース製薬はそうやってコミュニケーションを取り合う仲間で構成された会社ですから、本当にいい人たちで溢れています。人と人の触れ合いによる人間力がわが社の魅力であり、強みです。 ■お客様にとって良い会社であり続ける  アース製薬は、未来永劫良い会社と思ってもらえる企業であり続けたいと思っています。アースグループには約4000人の社員がいます。会社を存続させないと、この社員を守ることができません。そのために、主力事業の進むべき方向が間違っていないかを常にチェックすることが最も大切です。目まぐるしく変化する時代においていかれることなく、適応していくことも重要だと思っています。極端な話、年後にアース製薬が殺虫剤や消臭剤などを売っていなくて、八百屋になって野菜を売っていてもいいと思っています。今と全く違う姿に変化したとしても、時代の変化とともに適応し、お客様に求められる良い会社であることが一番大切なのです。 ■message  就職面接で「残りの大学生活でやっておくべきことはありますか?」と大学生から質問を受けることがよくあります。私はその質問に対し、「学生時代はとにかく遊んでください」と答えています。学生の強みは時間があることです。人間は後悔する生き物なので、「あのときやっておけばよかった」と後悔しないような毎日を送ってほしいです。入社してからも勉強することはありますから、今はとにかく遊ぶことが大切です。人生は思っているよりも長いので、学生生活でしかできないことを思いっきり楽しんでくださいね。たくさん遊んで、元気な体で卒業してさえくれれば十分だと私は思っています。 学生新聞2022年4月号 津田塾大学2年 佐藤心咲

川浪亜紀

山田孝之 常に刺激を求めた自分の人生、道は無限に広がる

山田孝之(やまだたかゆき) 1983年生まれ。99年に俳優デビュー。『世界の中心で、愛をさけぶ』『電車男』『闇金ウシジマくん』シリーズ、『勇者ヨシヒコ』シリーズ、『全裸監督』など、多くの作品で主演を務める。また、クリエイターの発掘・育成を目的とする映画プロジェクト『MIRRORLIAR FILMS』のプロデューサーや監督など、活動は多岐にわたる。 シリアス、ハードボイルド、コメディなどさまざま役柄を演じ、日本のドラマや映画界になくてはならない存在である山田孝之さん。デビューしてから23年、今では俳優だけでなくプロデュース業や監督も務める。そんな山田さんの原点にはどんな思いがあるのか、役に対してのこだわりや、ここまでの歩みを伺った。 ■新しいものを得ることへの楽しさ 昔から好奇心旺盛な子どもでした。学校からの帰り道は、新しい道を知りたいという気 持ちで、同じ道ではなくわざと遠回りをして帰りました。いつもとは違う知らない道があり、思わぬところに出るという、新しいことを体験するのを楽しんでいました。何があるのかを自分の目で見たい、知りたいという好奇心があったんですよね。それは今も同じで知らない居酒屋に入ったり、入った先で知らない人と喋ったりすることを楽しんでいます。誰かといる時間は好きですが、一人で出かける時間も大切にしているんです。昔からの友人とのいつもの会話も楽しいけれど、刺激がないですよね。一人で新しい環境に飛び込んでいくと、年齢や性別、職業も違う人と話すことになり、全く自分が考えないようなことが出てくるときがあります。また、それが役へのヒントになることもあり、相手に気まずい気持ちが生まれる間の使い方、上から目線に感じる表情の作り方など、演じるときに相手の気持ちを動かす一つのアイデアになることもあるんです。そんな刺激を常に求め、楽しんでいます。 ■〝演じる〟ことは人の人生を〝生きる〟こと 芸能への道は姉の影響が大きいです。姉が雑誌の表紙を飾るのを見ていて、田舎では反響も大きく、なりたい夢や職業もなかったので自分も東京に行って「芸能人」になろうかなと思ったんです。しかし、俳優という仕事について真剣に考えたことはありませんでした。とりあえずで受けた演技レッスンでは、「カメラの前に立っているときは君は君でいてはいけない」というざっくりとした言葉をもらい、混乱しました(笑)。本当によくわからないまま俳優になったのですが、お芝居を始めて2年目で朝ドラに参加させていただきました。毎日芝居をして、へとへとになりながら帰るその道でふと「芝居って楽しいかも」と思ったんです。その楽しさから、俳優を続けてみようと思いました。自分にとってのお芝居は「お芝居をする」という感覚ではなく、役として「その人の人生を生きる」という感覚です。 撮影期間で役に入っているときに、ただ集中して気持ちを作っているわけではなく、どの状態のときでも“山田孝之”として生きてきた38年間はなかったものにしているのです。山田孝之としての経験や記憶をどこかに置いてくる。もちろん、それらすべてが消せるわけではないですが、その人の気持ちになってその人として物事を考え、役として生きています。 そのため、自分はどんなにひどい役でもその役のことを嫌いになりません。演じているときは、その人が生きてきた人生に歩み寄ってその人になっているのです。だからこそ、どれだけひどいことをしていても、そこには必ずなぜそうなったのかという理由があります。あるとき、撮影が終わってすぐに別の撮影に入ったことがありました。性格も全く違う役だったのですが、台本を開いてセリフを覚える、という同じ作業をしているうちに、ブワッと前の役柄が蘇ってきたことがあったんです。そこの切り替えは大変でしたが、前の撮影で終わったはずのその役は自分の中ではまだ生きていて、そこまで役と一体になれたのだという喜びを感じました。20代の頃、俳優という仕事は自分の中で全て喜びであり、全てストレスでした。オファーがきて、それに喜んで役に入るためにストレスをかけて、そして皆で作ることに喜びを感じながら、思ったのとは違う対応にさらに考えて動いて、お客さんに見てもらっていろいろな反応をもらう。全ての過程で嬉しさとストレスが表裏一体となり、それに左右されてきました。しかし、今は、生まれたストレスはその現場でしか解消できないとわかっていますし、100点満点を目指さなくていいとも思えるようになりました。だからこそ、この仕事をやめられないなとも感じています。ただ、飽きっぽい自分がもう23年も俳優という同じ仕事を続けている。演じるという同じことをやっているけれど、スタッフや脚本、共演者など、全く同じときがないからこそワクワクできる、そんな面白さも実感しています。 ■一つのことを続けることで見える人生がある 学生の皆さんには、とにかく一つのことを続けてみてほしいと思います。今は辞めるために理由にできることが増えましたよね。しかし、本当の良さを見出す前に辞めることはもったいないと思います。始めたということ自体も経験にはなりますが、どうせなら良いことを見出してから辞めた方がその後につながると思います。嫌いなことはたくさんあると思いますが、どんなことでも最低でも2年は続けてみるといいのではないかと思います。 また、今やっていることがベストと思わなくても良いと思います。自分はなんとなく俳優になって芝居が好きで続けてくることができました。俳優をやり続けると決めて、そのために我慢しなきゃと思うのではなく、もっとやりたいことが見つかるまで俳優をやっていようと架空の逃げ道を作ってきたことで、自分のペースで楽しむことができたのだと思います。そうやって自分なりの逃げ道を作って、ある意味で無責任になり、背負いすぎずにやってほしいです。自分のペースで、できるだけ続けてみると人生はなんとかなります。そういった気持ちでこれからのことに挑んでほしいと思います。 (津田塾大学4年 川浪亜紀) 撮影協力:カメラマン 広田成太 <英文記事> Takayuki Yamada My life, always looking for stimulation, the road is endless ■ProfileBorn in 1983, debuted as an actor in 1999. He has starred in many films, such as Crying Out Love in the Center of the World(世界の中心で、愛をさけぶ),’ Densha Otoko (Train Man),’ Ushijima the Loan Shark (闇金ウシジマくん)’...

中高生新聞

冨永愛 チャンスが来たときにそれをつかめる自分であれ

冨永愛(とみながあい) 17歳でNYコレクションにてデビューし、一躍話題となる。以後、世界の第一線でトップモデルとして活躍。モデルの他、テレビ・ラジオ・イベントのパーソナリティ、女優などさまざまな分野にも精力的に挑戦し、社会貢献活動も行うなど、その活躍の場をクリエイティブに広げている。公益財団法人ジョイセフアンバサダー、エシカルライフスタイルSDGs アンバサダー(消費者庁)、ITOCHUSDGs STUDIO エバンジェリスト。 10代からファッションモデルとして世界を舞台に活躍する冨永さん。彼女の活動はモデルだけにとどまらず、女優、SDGsアンバサダーなど多岐にわたっている。しかし、その道のりは決して平坦なものではなかった。どんな高い壁にも挑み続ける彼女の人生哲学や今後の展望、母となって始めたエシカルな取り組みについてお話を伺った。 ■コンプレックスも他の長所で補える 私は背が高いことがコンプレックスでした。中学・高校時代は、周りの多くの子が「かわいい」を求める風潮にありました。男の子にモテるのも比較的背の低い小柄なタイプの子でした。でも私はその逆です。当初はそんな自分が大嫌いで「生まれ変わりたい」とさえ思っていました。ところがファッションモデルという職業に出会い、初めてニューヨークに行ったときのことです。自分がこれまで限られた世界にいたことに気づきました。多種多様な「美」のあり方を目の当たりにしたのです。自分と同じくらい、あるいはそれ以上に背の高い人もいて、やっと同じ土俵に立てたと感じました。日本で「巨人だ」「宇宙人だ」と揶揄されて疎外感を覚えていた高身長さえも武器になったのです。自分が周りと違うと感じることでも別の世界に行けばそれが当たり前になることがあり、世界は広いのだと実感しました。「ここで戦っていきたい」、そう強く思いました。こうしてモデルとなって今日に至るわけですが、できることなら今でも「身長155センチになりたいな」と思います。でも、そういうコンプレックスというのは「他の長所で補っていける」と考えています。他の長所に磨きをかけて自信を積み重ねていくうちに、ふと振り返ると気にならなくなっていると思うのです。コンプレックスをなくしてしまうことは難しいけれど、自信を持つことによって小さくすることはできると思います。 ■挑戦し続けることで道は開ける 17歳のときにニューヨークコレクションに初めて出演できると決まったときは本当に嬉しかったです。その日に向けて10センチ以上もある高いヒールを履きこなす練習をしたりと、出演に向けて全力を注いでいました。しかし、当日になって私に用意されたのは華やかな衣装ではなく、スニーカーとメンズテイストの衣装だったのです。当時の私はアジア人だから差別を受けていると感じ、屈辱でした。しかしこのときに味わった「悔しい」という思いや「絶対に負けない」という強い怒りの感情が、その後の私のモデル人生における苦難を乗り越える上で欠かせない原動力となっていきました。海外で働き始めて間もない頃、辛くてどうしようもないときがありました。そんなときによく思い出していたのが「チャンスが来たときに、つかめる自分であること」という言葉です。何かの雑誌に載っていた言葉ですが、突然オファーが来たときでも万全であるために、普段から努力を怠らずに準備をする大切さを教えてもらった気がします。私の最近の挑戦は10年ぶりのパリコレ復帰です。実績は関係なく、本当に求められなければ出演できない世界。だからこそ、やる意味があると思うし、やる意義があるんですよね。不安はありましたが、その不安とずっと戦って乗り越えて踏ん張ったからこそ、再びランウェイを歩くことができました。久しぶりに歩いてみたら何も変わっていなくて、やっぱりここが私の生きる場所だなって思いました。 ■エシカルなライフスタイルが心の豊かさに モデルの仕事以外にも〝エシカルライフスタイルSDGsアンバサダー(消費者庁)〞を務めるなど、サステナブルな取り組みにも注力しています。そもそもSDGsを意識し始めたのは子どもを授かってからです。23歳で息子を生んだのですが、自分以外のもう一つの命を持つことの責任について考えるようになったことがきっかけです。自分が食べたものはお腹の中の息子に届きます。私は少しでも安心・安全なものをという思いからオーガニックな食品を摂ることを心掛けるようになったのです。また、普段から購入する品は出来るだけ長く使えるものにするなど、エシカルなライフスタイルを意識するようになりました。日々の生活の中で自分たちにできるサステナブルな取り組みを探すことが心の豊かさ、ひいては人生の豊かさにつながっていくと考えています。コロナ禍で先行きが見えず、不安な日々を過ごしている学生の方も多いのではないでしょうか。私も高校生の息子がいますので、今の学生がどんな思いで学生生活を過ごしているのかと考えることがよくあります。しかし、きっと学校の先生方も学生の皆さんのために今この状況でできることを一生懸命にやってくださっていると思います。皆さんは今の自分に出来ることから一つずつやっていき、短い学生生活を楽しく過ごしていただけたらと思います。 (津田塾大学3年 宮田紋子) INFORMATION 世界的トップモデルがすすめる美しい身体になるための美の食習慣世界的トップモデルは何を食べ、何を食べないのか。 20年以上第一線で活躍するモデルの冨永愛さんが、日々実践している美しい人になるための食事術を大公開しました。 食べることは美しく生きる知恵なのです。 冨永愛 美をつくる食事 冨永愛著 定価:1650円(税込)  発売日:2021年12月1日 発行:ダイヤモンド社 <英文記事> Ai Tominaga  Be yourself to grab opportunities when they come  ■Profile: Debuted at 17 at the New York Collections, it became a hot topic. Since then, she has been a top model at the global forefront of the fashion world. In addition...

学生新聞インターン

株式会社W TOKYO 代表取締役社長 村上範義

100年を超えて歴史を創る。そのためにNO.1にこだわり続ける 株式会社W TOKYO 代表取締役社長 村上範義(むらかみ のりよし) ■プロフィール 愛知県出身。早稲田大学社会学部卒業後、大手広告代理店に勤務。その後、キャスティングプロデューサーとして東京ガールズコレクションの立ち上げに参画。2012年、チーフプロデューサーに就任し、全部門を統括。2014年、株式会社F1メディア代表取締役へ就任。その後、2017年、株式会社 W TOKYOへと社名変更し、現在に至る。 「日本のガールズカルチャーを世界へ」をテーマに、2005年から始めた史上最大級のファッションフェスタ「東京ガールズコレクション(TGC)」。まだ日本にファッションショーがなかった時代にいち早く目をつけた村上社長。常に1番になることを目指して歩んできた社長に、TGCの軌跡と今後の展望を伺った。 学生時代は「自分が好きで得意なこと」に没頭していました。当時は雑誌「ViVi」や「CanCam」に広告を出すと瞬く間にモノが売れるような時代で雑誌の全盛期でした。そんな雑誌の影響力に魅せられてメディア業界と深く関わるようになる中で、この業界で活躍するためにはオリジナリティが大切だと感じ、まずは学生という身分を活かして雑誌社に大学生インフルエンサーを紹介するビジネスを始め、起業しました。1年間に3000人以上のインフルエンサーを紹介するなど事業が軌道に乗り、小さな世界ですがNo.1になりました。 ■常に1番を目指す大学卒業後、一度は企業に就職したものの、自分のオリジナリティを発揮できる仕事をしたいと思い、わずか1ヵ月で退社。雑誌関係者とのネットワークを生かして「東京ガールズコレクション(TGC)」を立ち上げました。すでに出来上がっている雑誌マーケットに新たに参入してもトップにはなれないと思ったので、プラットフォームを日本初の『ファッションショー』にしたのです。これは富士山理論と言われるもので、「日本で一番高い山」は答えられても「2番目に高い山」はほとんどの人が答えられません。要はそれだけ1番と2番の差が大きいのです。ファッションショーがまだ日本になかった時代に、ここで1番になることを目指して動いていきました。 ■「ヒト」に価値を見出すTGCの未来を考える中で、「テクノロジー」を武器に勝負をしても勝てないと思ったので、「ヒト」に価値を見出すことにしました。たとえテクノロジーがなくても人気者をおさえていれば、永遠に日本一の舞台を創ることができると思ったからです。3月21日(月・祝)に開催されたTGCで34回目の開催を迎えましたが、シーズンごとに「ヒト」を見直し続けることで、常にフレッシュな状態を保っています。ルール変更が多い今の時代は、これまで「良し」とされていたものがいきなり「悪い」になりかねません。弊社は社員数44人(2022年3月16日時点)という少数精鋭で、時代に合わせて柔軟な対応ができているのも魅力の一つだと思います。 ■変革を起こし続けるTGCは常にアップデートし続けるスマートフォンのようなもので、主に4つの現場で変革を起こし続けています。1つ目はさまざまな体験価値を提供するTGCのリアル会場。2つ目は200万人を超える視聴者に向けたオンライン配信や、TGC公式メタバース「バーチャルTGC」などで、会場に来れない方にも上質な体験を提供しています。3つ目はTGC当日約500名のプレス関係者が入る取材現場。4つ目は人を軸にしたSNS。前回のTGCでは9億を超えるインプレッションを獲得しています。こうした4つの現場で破壊と創造を繰り返しながら、100年以上続くコンテンツを提供したいと考えています。 ■大学生へのメッセージ社会では新しい価値を生み出すことが求められます。新しい価値とはオリジナリティのことで、「好きで得意なこと」をやり続けることで発揮できると考えています。勉強して周りと同じような解を出す次元から脱却して、自分ならではの新たな価値を創造してください。(津田塾大学3年 宮田紋子)

芸能人

日比美思 「逆境」を「可能性」へ

■プロフィール 1998年9月20日生まれ。神奈川県出身。元Dream5のメンバーとして活躍。グループ活動終了後、女優として活動。主な出演作にドラマ『3年A組‐今から皆さんは、人質です‐』『真夏の少年~19452020』、映画「町田くんの世界」「生きちゃった」、舞台『陽だまりの樹』など。 東野圭吾の小説を原作としたオリジナル音楽劇『ガリレオ★CV2』(4月13日(水)~4月17日(日))まで東京・博品館劇場にて上演。 天才てれびくんMaxのオーディションを受け、それから芸能の道を歩んできた日比美思さん。高校卒業と同時にDream5の活動を終了、ゼロから別の仕事をするか、今までと同じような道に進むのかの進路の選択を迫られたという。そんな中、なぜ女優の仕事を選択したのか、ご自身のキャリアについて伺った。 ■芸能活動のきっかけは、天才てれびくんMaxのオーディション 仕事のきっかけとしては、ダンススクールの先生に勧められて天才てれびくんMaxの全国オーディションに応募したことです。昔から歌ったり踊ったり、目立つようなことは好きでした。オーディションに合格し、Dream5としてAAAさんの前座などをやらせていただいて、キャリアを積み、「ようかい体操第一」という曲で紅白歌合戦にも出場させていただきました。2017年にグループが活動休止したことで、進路について初めて考えるようになりました。その時はとにかく、今まで積み上げてきたものが崩れてしまい、まっさらになるのがとにかく不安だったんですよね。そんな中、舞台などを観劇して、「自分もこの物語の登場人物になることができるんだ」と自分の可能性に気づき、女優という仕事に興味を持ちました。親やスタッフさんにも相談して、周りの人には「今まで積み重ねてきたことがなくなって、ゼロからのスタートになるけどいいの?」とは言われましたが、1回きりの自分の人生なのでやりたいことに挑戦してみようと思い、女優の仕事を始めました。 ■女優の大変なところは「ほかの誰かを演じること」 私はあまり自信がないほうなんですけど、役で他人に入ると楽しいし、気持ちがいいです。自分が普通に生きているだけでは体験できないようなシーンも多くあります。そんなシーンに出会うと自分の人生にプラスになったなと感じます。一番思い出に残っている現場は『3年A組 ―今から皆さんは、人質です―』ですね。現場にいられたことがとても幸せだと感じました。教室のスタジオで1日中撮影するので役や物語に交わった気持ちになって、初めて自分と役がわからなくなりました。どんな仕事も大変だと思うんですけど、女優の仕事の大変なところは「自分じゃない誰かを演じること」です。私はメイクや衣装がきりかえのスイッチになることが多いんですけど、女優を始めたころは役の切り替えに慣れず、自分の中で上手く処理ができなくて、お母さんにあたってしまうこともありました。 ■役柄に自分を重ね合わせたドラマ『liar~すれ違う恋~』  dTV オリジナルドラマ『liar~すれ違う恋~』への出演が決まったときは、とてもうれしかったです。 私が演じるナオは、何不自由なく暮らしているお嬢様なんですけど、縛られたくなくて夜な夜なバーに出かけて運命の相手を探しに行くんです。そんなナオも恋愛が絡むといじらしくなってピュアになるので、そういうところに共通点を見出して演じていました。役作りのポイントとしては、「もしかしたら自分に起こるかもしれない」と考えてみて役に歩み寄りました。 また、彼女は、『星の王子様』が好きなショートカットの女性ですが、私も『星の王子様』がすごく好きな上、ちょうどショートカットにしたときにお仕事が決まって、運命を感じました。 ドラマのみどころとしては女性の視点と男性の視点とで、コロコロと視点が変わるところがほかのドラマではないみどころです。第3者の視点から恋愛を見られるのが魅力ですね。台本も各登場人物の目線に立って描かれているので面白かったです。同じシーンでも心の声が違うので何度も台本を読み込みました。熊坂出監督は、作品のアドバイスをくれる一方、みんなの意見も聞いてくださる方だったので、みんなで現場を作り上げていく一体感がありました。 女優として最近大事にしていることは、物語の台本を読む時に嘘をつかないことです。台本を読んでどう感じたかを大事にしていたいと思います。カメラアングルでよく見せようとか、食べ物を美味しくみせたほうがいいかなとかではなく、カメラを意識せず、ありのままの自分がどう感じているかを大事にするべきだと心がけています。この作品を通して視聴者の皆さんに伝えたいことは、このドラマは恋愛に前向きになれなった出野さん、ナオも前向きに終わります。自分が一歩勇気を踏み出した行動はどんな結果でもよかったと思えると思うので、前に踏み出す勇気の一粒になればいいなと思います。 ■いつか石井裕也監督作品にまた出演したい 今後の夢は、もっとたくさんの作品に出演していろいろな役に出会うことです。視野を広げてたくさんの経験と知識を積み、たくさんの人に出会いたいです。女優の仕事を通して自分を信じる気持ちが芽生え、もっといろんなことができるんじゃないかと思えるようになりました。自分のやりたいことにまっすぐな『liar』のナオに背中を押された部分もあると思います。ヘアメイクさんをはじめ役作りに協力してくれる方はたくさんいるけど、現場に出たら撮影は自分で頑張るしかないので、孤独で不安な気持ちになります。でも、撮影はこの瞬間だけなので、今できることを精一杯やるしかないと自分に言い聞かせてがんばっています。いつか大人の恋愛ドラマをやってみたかったので、今回夢がかないました。あとは、以前、映画『町田くんの世界』で、石井裕也監督の作品に出演させていただいたのですが、その現場が忘れられなくて、いつかまた石井監督と作品でご一緒したいと思っています。今は父も母も映画が好きなので、両親が「映画館でみたよ」といえる作品に出ることが目標ですね。これからも女優として頑張りたいと思います。 ■大学生へのメッセージ 高校を卒業した時に、Dreamの活動が終了して、初めて自分の進路を考えました。はじめはまっさらなところに足を踏み出すのは怖かったです。しかし、その一歩はとても価値のある一歩です。私もまだまだですが、一生懸命生きているので、大学生活の中で進路に悩む方もいると思うけど一緒に頑張っていけたらと思います。私は皆様の明るい未来を応援します。 学生新聞オンライン2022年3月3日取材 武蔵野音楽大学1年 大曲美南子 dTV オリジナルドラマ 「liar~すれ違う恋~」 男女それぞれの視点で描かれる、幅広い世代の女性から支持を得た「liar」のオリジナルエピソードを映像化!主人公に古川雄輝、ヒロイン役に日比美思に迎え、空白の4年間を舞台に起こった、もう一つの恋の物語を描く。お互いに本音を隠したまますれ違う切なさ、男女のリアルな恋の駆け引きなど、大人の恋の難しさに翻弄され、感情が揺さぶられる。交錯した男女の恋愛模様の行く末を描くdTV オリジナルドラマ「liar~すれ違う恋~」はdTVで独占配信中! liar~すれ違う恋~公式HP :https://bit.ly/3IQRTjoYouTube予告編 :https://youtu.be/sZyDGvemn7o

経営者

JCOM株式会社 特別顧問 石川雄三

「デジタル×フィジカル=パーフェクト」 ■プロフィール 1985年 第二電電株式会社に入社(現在のKDDI株式会社)。KDDI㈱代表取締役執行役員副社長などを経て、2019年6月にジュピターテレコム株式会社 代表取締役会長就任(現在のJCOM株式会社)。2022年4月より特別顧問。 国内最大のケーブルテレビ企業であり、1995年の創業から放送・通信業界を牽引してきたJCOM株式会社(J:COM)。ビジネスにおいて既存の分野の深堀と新しい分野の開拓が重要とおっしゃる石川顧問に、私たち学生が社会に出てからの心構えや、今、行動すべきことを伺った。 ■様々な知識をインプットした学生時代 大学では商学部に進学しました。学生時代はバンド活動には熱心でしたが、決して勉学に熱心な学生ではありませんでした。就職活動についても、周囲が一生懸命活動しているときも、海外旅行に1か月間行ったりと、あまり真面目に就活もしていませんでしたね。また、当時は人前で話すのが得意ではなかったので、面接では苦労しました。 そんな中でも、本はひたすら読んでいました。特によく読んでいたのは、偉人や社会で活躍した人物の本です。「知識」が自分の身を助けると感じていたため、社会人になってからも本は良く読んでいました。 大学卒論のテーマは財閥の解体を扱い、財閥や企業の財政に関する知識も深めていました。この勉強により、「この会社は●●財閥の傘下に入っている」「この会社とこの会社が、同じ財閥だからつながっている」などという企業系列の地図が頭に入っていたので、通信の法人営業をやっていた頃、非常に役立ちました。 ■常に上の環境を目指して成長する 私が新卒で入社したのは、横浜にある不動産・建材系商社の会社でした。ものづくりというよりは「商業をやりたい」という思いが強かったのです。また、「自分が人に勝てるものは何か」を考えたときに、営業なら負けないという根拠のない自信がありました。また、サービスを自分で広めていくことに夢を持っていました。その後、営業以外の仕事にも挑戦したいと考え衣料資材のメーカーに転職をしました。ここでも幸い成果をあげることができ、これからはより会社や自身の成長が見込める夢のある仕事がしたいと思うようになりました。そこで、通信の自由化によって誕生した、電気通信事業者の第二電電(現・KDDI)に入社し、それが今の仕事につながっています。 ■常に新しいことに取り組む 仕事では業績が伸びることが一番のやりがいです。しかし、業績は急に伸びるわけではありません。ときには、従来の枠組みを破って新しい取り組みに挑戦したり、仕事の仕組みを変えたりしないといけません。“既存の部分を深堀するのと、新しい部分を探索する”所謂「両利きの経営」が企業を経営する上では、非常に重要です。 変化することを怖いと思う方もいるかもしれませんが、世の中自体が常に変化しているため、現状にとどまること自体がリスクなのです。次の成長のきっかけを見出し、社員と一緒に取り組んで少しずつ成果が見えてくる、そんな時に、仕事のやりがいや楽しさを感じますね。もっと言えば、進化すること自体が楽しいのかもしれません。 これまでに、たくさん失敗してきましたが、失敗することで沢山のことを学び、次の自分を作っていくと思っています。だから、何度失敗しても、懲りずに挑戦し、幸いにもいくつかのプロジェクトを成功させることができました。 挑戦の例を挙げると、通信会社は膨大なデータを持っていますが、そのデータをお客さまにとって価値あるものに昇華させることはかなり難しく、最初は何度も失敗しました。たとえば、お客さまの情報から、その方が求めるものを導き出すのは、時間と労力を要する作業です。この情報分析自体にまず膨大な時間がかかりました。また、データから導き出した客観的なお客さまのニーズを、社員やパートナーの方々に理解をしてもらうことにも非常に苦労しました。理解してもらうために、目的や理念を共有することと、実際に効果が出ていることを数値で示すことを、何度も繰り返しました。その結果として、デジタルの力を使って効率的にビジネスモデルを変えることが出来、社員やパートナーの方々の賛同を得られるようになったことは、大きな喜びでしたね。 ■フィジカルとデジタルの二つの力を合わせ持つ J:COMの魅力は、様々なビジネスの基盤となるフィジカルな力とデジタルな力を掛け合わせて、お客さまに大きな価値を提供できるということです。amazonやアリババといった会社は非常に大きなデジタルの力は持っていますが、フィジカルな力はあまり持っておらず、その強化に着手し始めています。一方で、J:COMはもともと地域に密着したサポート体制があり、1万人以上の社員が地域で活動する強力なフィジカルの力を持っています。近年はデジタルの力も強化し、顧客データや視聴データなどを活用したレコメンド機能や、放送と通信をシームレスにつなぐデバイスの開発やオンライン診療やMaaS等、デジタルの力で地域の課題を解決する取り組みも進めています。また、弊社は約1,400万世帯に届くコミニティチャンネルを運営し、情報発信するメディアとしての側面もあります。さらに映画製作・配給、テレビ通販事業など、多様なビジネスを展開しています。デジタルとフィジカルの力を軸に、これらの様々な分野を組み合わせていくことで、お客さまにより大きな価値を提供できます。このことがライバルに対して大きな差別化になっていると感じています。 ■一緒に働きたいのは、利他的な人 私が一緒に働きたいと思う方は、能力以前に誠実であって志を高く持っている方。また、取引先の利益までも考えられるような利他の心を持った人と働きたいと思っています。さらに言えば広い視野を持っていることも大事だと思います。多くのことに興味を持って、それに取り組む意欲と勇気を持った方に入社していただきたいと考えています。 ■message 社会に出て過ごす時間は学生時代よりも遥かに長いのです。学業はもちろん大切ですが、会社に入ってからの過ごし方の方がはるかに大事だと思います。どんなに専門的なことを大学で学んでも、社会でそのまま通用するわけではないので、その専門性やコミュニケーション能力などを磨いていく必要があります。逆に言えば、今自信がないことでも、本当にやりたいという意欲があれば実っていきます。夢を持ち努力を続けることでなりたい自分になれる。それは、私自身や周りの人を見ていて実感します。挑戦する意欲を持ち、それを継続することにより人生は実りあるものになると信じています。 学生新聞オンライン2022年2月10日取材 明治大学3年 酒井躍

川浪亜紀

監督 撮影 編集 金子遊・出演 現地コーディネーター 字幕翻訳 伊藤...

映画監督と言語学者という異業種の二人が出会ったことで、実現した映画『森のムラブリ』。本作は、ラオスの密林でノマド生活を送る“ムラブリ族”の撮影に、世界で初めて成功した、映像人類学のドキュメンタリー映画である。人類にとって豊かさとは何か、真に重要なことは何かを見つめた本作の見どころや作品にかける想いを、監督である金子遊氏に伺った。 監督・撮影・編集 金子 遊 ■プロフィール 映像作家、批評家。多摩美術大学准教授。劇場公開映画に『ベオグラード1999』(2009)『ムネオイズム』(2012)『インペリアル』(2014)。近作『映画になった男』(2018)は2022年3月11日より全国で劇場公開。プロデュース作『ガーデンアパート』(2018)はロッテルダム国際映画祭、大阪アジアン映画祭で上映されて劇場公開。『森のムラブリ』(2019)が長編ドキュメンタリー映画の5作目。著書『映像の境域』でサントリー学芸賞<芸術・文学部門>受賞。他の著書に『辺境のフォークロア』『異境の文学』『ドキュメンタリー映画術』『混血列島論』『悦楽のクリティシズム』など。 共編著に『アピチャッポン・ウィーラセタクン』『ジャン・ルーシュ 映像人類学の越境者』、共訳書にティム・インゴルド著『メイキング』、アルフォンソ・リンギス著『暴力と輝き』など。ドキュメンタリーマガジンneoneo 編集委員、東京ドキュメンタリー映画祭プログラム・ディレクター、芸術人類学研究所所員。 ■「自分の映画を作りたい」との思いで、撮影をスタート  家族が映画好きだったため、小さい頃から自然と数多くの映画に触れてきました。その影響で、幼い頃から「映画に関わるような仕事がしたいな」と漠然と思っていました。大学生の頃、映画ライターとしてデビューしました。その後、30歳までテレビ番組のVTRや企業のPV制作の仕事をしていました。ですが、次第に、その仕事には満足できず、「自分の映画を作りたい」という思いを持つようになり、世界中を旅しながら、8ミリフィルムで作品を作るようになりました。 ■偶然の出会いは逃さない  ドキュメンタリー映画の監督という仕事をしていると、「映画の撮影=冒険である」と感じます。今回の『森のムラブリ』という映画は、タイ北部やラオス西部の山岳地帯で暮らし、400人程度しかいない少数民族であるムラブリ族を撮影したものです。最近まで、男女とも裸に近い姿で、小動物や植物をとって食べる狩猟採集生活を送ってきたノマド民族です。ただ、僕がムラブリ族のドキュメンタリーを撮ることになったのも、まったくの偶然です。  当初は、撮影ではなく、人類学的な本を書こうと思って、タイやカンボジアに行きました。そして、ムラブリ族を訪ねた際にムラブリ語を話せる言語学者の伊藤雄馬さんと偶然会い、伊藤さんから3つの集団に分かれているムラブリ同士を会わせたいという話を聞いたその場で「ドキュメンタリーにしませんか?」と提案しました。常に自分を開いた状態にし、偶然の出会いを決して逃さないようにしています(笑)。このようなスリリングさを感じることができるのは、自分が撮影する側だからだと思います。撮影をする側が、実は1番面白いと僕は思います。何ができていくのか分からないまま、手探りで進んでいくという面白さ。そして、それが完成した時の喜びは、他では味わえないものです。 ■みどころは、タイとラオスに住むムラブリ族の生活の違い  一番の見どころは、タイ側のムラブリ族と、ラオス側のムラブリ族の環境の対比です。タイ側にいたムラブリ族は、文明人に発見され、定住されることを求められました。そして、周りのモン族たちによる焼畑農業で、ムラブリの人が住む領域が失われてしまい、結果、モン族の日雇い労働者になってしまいました。  一方、ラオスは社会主義圏なので、ムラブリ族の方を国家の一部にしようという取り組みがなく、森の自然にもムラブリの人々が生活する場所も残っており、昔ながらのノマド生活を送ることができています。私たちは民主化がすすめば文化は進歩し、環境も大事にされると思いがちです。しかし、民主化が進むタイ側では環境はどんどん壊れて、ムラブリ族はこれまでの生活ができなくなっています。一方、社会主義国家のラオス側では、環境はまだ残っており、彼らはこれまで通りの生活ができています。どちらが進歩なのか、どちらが豊かなのかということを比較してほしいと思います。 ■次にチャレンジしたいのは、映像人類学を広めること  西アフリカのヴォドゥンなど、アフリカで映像作品を創りたいと思っています。また、自分は今まで映像人類学の方法を深めてきました。今後は、映像人類学を研究者などの人たちだけでなく一般の人も観られるようにできないかと考えています。毎年、「東京ドキュメンタリー映画祭」を開催しています。その映画祭では、去年から人類学・民俗映像部門というコンペを立ち上げました。この部門を広めていき、一般の人でも人類学を扱う作品が観られるようにし、ひとつのジャンルとしても広めていきたいと思っています。 ■大学生へのメッセージ  20代の10年間を大切にしてください。大学を卒業して、就職をするという選択肢だけを考えていると、30代・40代になった時に自分が辿り着きたいと思っていたゴールのための基礎を作る時間がなくなってしまいます。いくら苦しくても、20代は「これがやりたいんだ」という自分の気持ちに食らいついた方がいいです。一生に一度の20代の時間を失ってしまうと、一生後悔することになってしまいます。一番大事なことは、自分がやりたいと思っていることの世界に飛び込む勇気です。そのためには若いときに師を見つけたりコンテストで入賞したり、自分に自信をつけることが重要です。 学生新聞オンライン 明治学院大学2年 岡村雛子 出演・現地コーディネーター・字幕翻訳 伊藤雄馬 ■プロフィール 1986 年生まれ。島根県出身。言語学者。2018年より富山国際大学専任講師を勤め、2020年に退職、独立。2022年現在、東京外国語大学特別研究員、横浜市立大学客員研究員。タイ・ラオスを中心に現地に入り込み、言語文化を調査するほか、身体と言語の関係についても研究している。ムラブリ語が母語の次に得意である。論文に「ムラブリ語の 文法スケッチ」(『地球研言語記述論集』)、”The heart’s downward path to happiness: cross-cultural diversity in spatial metaphors of affect.”(Cognitive Linguistics、共著)など。 ■なぜ言語学なのか  大学進学を決めるとき、専門を一つに決めることがしっくりこず、たくさんの領域に関連することを学ぼうと考えた結果、言葉の関わらない領域はないと考えて、言語学を学ぶ事にしました。大学院を卒業した後、研究がしたくて大学教員になりましたが、忙しすぎて研究ができず本末転倒だと違和感を感じ、今は独立して言語学者として活動をしています。 ■言語学者のやりがい  僕は、言語学を仕事と思っていません。ムラブリ語の研究を始めた理由も「響きが素敵だ」という理由でした。好きな事をやっているだけです。好きなことをすると言うと、響きは綺麗ですが、落とし穴もあると思います。ムラブリ語の響きについて研究をしたかったのですが、ムラブリ語は文字がないので、まず語彙を収集し、単語の意味や方言を研究しました。 ■ムラブリと関わる中で大変だった事  食事の味付けは基本、塩味でした。味の違いは濃い塩味が薄い塩味か。飽きますね(笑)でも彼らが食べているものが食べたい、もっと仲良くなりたいと思い、一緒に食べていました。 また、打ち解けるのに時間がかかりました。研究やデータが必要で、お金を渡すから話を聞かせてとせまり嫌がられた経験があります。まずは彼らと話すこと、彼らの生活に興味を持つことが大切だと気付き、そのついでに研究と発想をかえたら、豊かな研究ができるようになりました。 ■『森のムラブリ』の見どころ  同じムラブリでも言語学的に違う集団が出会うシーンが見どころです。100年間も会うことがなかった集団が出会うときに何が起こるか分かりませんでしたが、言葉の使い方でどの集団かを確認するという、話でしか知らなかったことを目の前で見られて感動しました。僕達も、方言や特定のサークルの言葉等でアイデンティティを感じることは無意識にやっています。この場面は一見特殊なことのように感じるけど、僕らも日常でやっている。親近感を感じて観てもらえれば面白いと思います。 ■今後の目標  同じムラブリ語の研究と言っても、生活費を稼ごうとすると、より売れるもの、読んでもらえるものと、マーケティングの発想になっていました。この研究は自分のやりたいことなのかと葛藤があり、僕はやりたいことをやるのが楽しいというより、やりたいことがやれないのが苦しいと感じました。自分のやりたいことを追いかける事が常にできるような自分でありたいです。それを達成するためには生きる事を自分で賄う、つまり「自活」する必要があると思っていて、現在は家に代わりのドームを制作中です。自活をする事で自分のしたいこと、自分の興味をより追求できます。 ■大学生へのメッセージ  孤独になってみる。ひとりでいてみる。 社会に入ると一人の時間がとりにくいです。僕は、しがらみなく生きている方だけど、それでも自分のやりたいことやありたい姿から離れている事が多いです。人の中にいるとありたい自分に気づくのは難しいです。ひとりで考えてみるのもいいのかなと思います。 学生新聞オンライン 立教大学 2年 菅原來佑 映画『森のムラブリ』 出演・現地コーディネーター・字幕翻訳:伊藤雄馬監督・撮影・編集:金子遊配給:オムロ 幻視社  3月19日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開 2019年/85分/ムラブリ語、タイ語、北タイ語、ラオス語、日本語/カラー/デジタル(c)幻視社 公式サイト:muraburi.tumblr.comTwitter:https://www.twitter.com/muraburiFacebook:https://www.facebook.com/muraburi

政治家

衆議院議員 経済財政政策担当大臣 山際大志郎

イノベーションを起こし、生命を大切にできる世の中へ ■プロフィール 山口大学農学部獣医学科卒、東京大学大学院農学生命科学研究科獣医学博士課程修了(獣医学博士)。動物関連企業経営後、2003年に衆議院議員初当選。内閣府大臣政務官、経済産業副大臣、自由民主党政務調査会会長代理等を歴任。岸田内閣では経済財政政策、経済再生、新しい資本主義、新型コロナ対策・健康危機管理、全世代型社会保障改革、TPP等を担当。 2003年に初当選を果たして以来、日本経済の発展に尽力している山際大志郎大臣。大自然の中で世の中の変えるべき課題を見つけた山際大臣の学生時代とは。そして、生き物と自然を愛する政治家である山際大臣が、経済の活性化に全力を尽くす理由に迫りました。 ■大自然と触れ合う中で気づいた自分のやるべきこと  自然や生き物が大好きだった私は、学生時代は獣医を目指していました。そのため、山口大学の農学部獣医学科に通っていたのですが、自然豊かな環境だったこともあり学生生活の初めの頃は友人たちと自然の中で様々なアクティビティをしたり、バックパッカーとなって世界中を歩き回ったりしていました。大学3年生の秋から解剖学の研究室に所属したのですが、なかなか研究に身が入らない私を見かねた教授が、南極で鯨を研究してみてはどうかと勧めてくださいました。南極の大自然に行けるなんてこんなに嬉しい事はないと思い、鯨の研究を始めました。鯨は不思議な動物で大学院でも研究を続けようと決め、東京大学の大学院に進学をするため1日に18時間勉強しました。これだけ勉強に励んだのは、この時が初めてだったと思います。 ■思い込みと情熱から、政治家への道を決意  一方で研究を続けながらも「自分がやらないといけない事は何なのだろうか」と、ずっとモヤモヤとした気持ちを抱えていたのです。そんなある日、南極での船中に田中角栄元総理が亡くなったというFAXニュースが届きました。そのニュースを見たときに「自分が本当にやらなければいけないのは政治なんじゃないか」と直感が走ったのを今でもよく覚えています。  そもそも、私は様々な生き物や自然と関わる中で、人間も生き物の一種類なのに、どうして人間だけが驕っているのだろうと疑問を持っていました。もっと生命に敬意を持ち、生命を大切にする世の中に変わるべきだと思っていたのです。こうした私の中の問題意識はどの道に進めば解決できるのだろうとずっと悩んでいました。そうしたときに南極で田中元総理の訃報に接し、世の中のルールを変えられるのは政治なんだと気づいたのです。「俺がやらなければ誰がやる」という言わば大いなる思い込みのようなものですが、そうした情熱から政治家を目指すようになりました。  しかし、大学院生からすぐに政治家になれるわけではありませんから、獣医学博士号を取得した後、動物病院を開業しました。選挙に出馬するためにも資金が必要ですが、当時の私は企業に献金してもらうと当選した際にはその企業に気を遣いながら活動をしなければいけなくなるというイメージを持っていました。そのため、動物病院を経営して得た資金で選挙に出馬し、2003年に初当選を果たしたのです。安定した職を捨てて不安定な道に進むことに回りから不安の声もありましたが、強い情熱が周りの人たちに伝わり、やがて応援してあげようという声に変っていったと思います。実際には色々と迷惑をかけたと思いますが。 ■経済に新しい価値を創造する  私は政治家としては経済にこだわって活動しています。生命をもっと大切にする世の中にしようと決意した人間が、なぜ経済なのか。それは、衣食足りて礼節を知るという故事があるように、食べていけないと他人のこと、生命のことを考える余裕は出てきません。食べていけるようにする、人を豊かにするのが経済なんです。  経済分野に長く携わってきて分かったのは、日本に一番足りないのは新しい価値をどんどん創り出すイノベーションです。新しい価値が創られるとそれにお金が支払われるようになりビジネスが生まれます。富の源泉となる新しい価値が自律的に生まれる環境を創り出すことが日本経済を再生させることに他ならないのです。しかし、10年以上取り組んでいるものの未だ完成していません。これをぜひとも完成させたいと思っていますが、簡単なことではありません。なぜなら、イノベーションを起こすことができるのは人であり、私たち一人ひとりが新しい価値を生み出そうという意思を持って活動しないと自律的にイノベーションが起きる環境はできません。ともすると人間は惰性の生き物ですから、今日、明日とそのままで生きていけるなら新しい価値は必要ないと思ってしまいます。それでは新しい世の中にはなりません。今よりもう少し良い世の中にしていこうとみんなが思って活動してもらうためには、政治がしっかりと環境を整備しなくてはいけません。これが最も難しいテーマですが、これをやれば世の中が変わるということが最もはっきりしているテーマであり、経済再生担当大臣として取り組んでいるテーマです。 ■大学生へのメッセージ  とにかく、色々なものに興味を持ってみてください。全てはそこから始まるのです。世の中、何でも興味を持って触れてみると、やりたいことや自分がやらなければならないことが見つかってくるでしょう。その中で、やりたいことを見つけることができれば運がいいです。さらに、やらなければならないことがみつかれば、それは天職と言えるでしょう。24時間を自分の時間として自由に使うことができる学生時代は貴重な時間ですよ。何事にも興味を持って生きてみてください。 学生新聞オンライン2022年2月22日取材 津田塾大学2年 佐藤心咲