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Archive for 運営スタッフ

神田理苑

株式会社東名 代表取締役社長 山本文彦

何事も形になるまで継続する このスタンスだけは忘れない ■プロフィール 1969年12月22日生まれ1993年4月 株式会社光通信入社1997年12月 株式会社東名三重(現 株式会社東名)設立、代表取締役社長就任2019年4月 東京証券取引所マザーズ市場及び名古屋証券取引所セントレックス市場へ上場2020年7月 東京証券取引所市場第一部及び名古屋証券取引所市場第一部へ市場変更 新卒で入社した会社で数字を追いかけて達成する大切さとポジティブな思考回路をもつ重要さを学んだという山本社長。当時の経験を経て現在は「お客様のハートを掴み続ける」ことに重きをおいているという。今回は仕事に対する考えや会社として求める人物像について伺った。 ■自分から一言目を発するだけで世界が変わる 学生時代はとにかくたくさんのアルバイトをしていました。うどん屋さん、ハンバーガー屋さん、ラーメン屋さんなど「まかないが出る」という理由で圧倒的に飲食店での経験が多かったですね。その中でも一つだけ変わったアルバイトをしていたことがあります。それは地元・四日市ならではといえるコンビナートの定期修理のアルバイトです。日払いで1万円というところに惹かれて始めましたが、どうせやるなら効率よくできたほうがいいと考えるようになり、担当の職人さんに「今日は何をやるのか」と自分から聞く習慣をつけました。業務内容を聞くことは何も特別なことではなく、今考えれば当たり前ですよね。しかし周りには確認する人はいなかったので、少し目立つ存在になったんです。指示待ちのアルバイトとは違い、主体性のあるところを評価していただき、職人さんから一緒に働きたいと指名を受けたりお給料が上がったりしました。自分が主体となり行動するということは普通のことですが、同時にとても勇気がいることです。ただそれができた時、自分を取り巻く環境は変わるということをこのアルバイトを通して身をもって感じられました。そういう意味で今振り返っても貴重な体験として記憶に残っています。 ■怒られた分だけ褒められた新入社員時代 アルバイトをしたりバイクに乗ったりする毎日を過ごしていた大学生時代ですが、将来に対するビジョンや挑戦してみたい仕事は全くありませんでした。自分が何に向いているかが皆目見当もつかなかったという表現のほうが正しいかもしれません。それでも大学を卒業したら働かないといけないわけで、大学4年生の12月から就職活動を始めて株式会社光通信に入社しました。1年目は営業を担当していたのですが、そこでは日毎・週毎・半月毎で目標件数を達成しているか事細かく確認されていました。達していない時はたいてい怒られるのですがノルマのない仕事はない、と頭では分かっていてもやっぱり辛いこともありましたね。ただ、出来ていないから怒られるのであって逆に出来ている時は褒めてもらえるんです。頭ごなしの否定はそこには存在しませんでした。周りに「君なら絶対出来る」と信じてもらっていたのでどうアプローチしたら出来るようになるのか、出来ている人に比べて自分には何が足りないのか、と立ち止まって考えられるようになっていきました。それまでなにか突出しているわけでもなく普通に過ごしてきたので、たいして自分に自信があるタイプではなかったんです。しかしここでの経験のおかげで、ポジティブな考え方や前向きな発言が身につきましたし、この思考を今も大切にしています。私の人生におけるターニングポイントと言っても過言ではありません。 ■目指したのは全てのお客様の全ての困り事を解決できる会社 前述の株式会社光通信では丸2年、お世話になりました。その中で、縦割りの業務もいいけれどもっと広い視野で課題解決をしてみたいと徐々に思うようになりました。コピー機や電話機、インターネット回線など同じ商材を扱う会社はたくさんあるので、お客様ときちんと信頼関係を築き、深い付き合いをしていないとより条件のいいところに奪われてしまうんですよね。それを防ぐためにどうしたらいいかを考えた結果、まずは地域密着で土壌作りをして日々の小さな問題解決も大口の機器の購入も何でも対応できるようになろうと思い独立を決めました。会社設立当初から心がけていることは「他との違いを相手が納得するまで説明したりその上で相手に選択してもらったりする」ことと「お客様からの依頼には何らかの形で必ず対応して断らない」ことです。これらを大切にし続けてきたから今の株式会社東名があるのだと思っています。そんな我社の強みは長年蓄積してきたデータベースの量と、新入社員には適性チェックも兼ねた1年間のJOBローテーション制度を取り入れているところです。 ■コミュニケーション能力は全ての根っことなる 会社として求めるのは、「人を喜ばせることが好きな人」「素直な人」「自分事化できる志向を持っている人」「結果へコミット意識がある人」「自分のストロングポイントをうまく表現できる人」という人財です。人を財産と考えているのであえて「人財」としています。これを踏まえた上で、私自身会社で働くために必要と感じるのはコミュニケーション能力ですね。これさえあれば相手の話や物事の本質を見抜くことができますし客観視できるようにもなります。この能力は最強の味方だと思います。 ■message 長く続けることがやっぱり楽しく働く基本だと私は信じています。ぜひ、学生の皆さんも少し格好がつくまでの2-3年は何事も継続してみることを意識してみてください。きっと良い展開が待っています。そして学生のうちから積極的に人と関わり、将来に向けてコミュニケーション能力を培っておいてほしいと思います。 学生新聞オンライン 2021年8月5日取材 日本女子大学 3年 神田理苑            

北島麗音

活躍女性議員特集

自民党を変革し、日本の飛躍を図る10人の女性リーダー。 『女性議員が永田町の壁を砕く!』の出版記念に大学生へのメッセージをいただきました。 『女性議員が永田町の壁を砕く!』 自民党・女性議員飛躍の会 (著) 成甲書房 「自民党のおじさん政治をぶち壊す! 」 世界経済フォーラム(WEF)の2020年報告書で「ジェンダーギャップ(男女格差)世界121位」と過去最低の日本。 この現状を打破するため、「自民党を変えて、日本を変える! それができるのは女性」をスローガンに活動する、自民党内の議員連盟「女性議員飛躍の会」の有志メンバー10人による、女性活躍への道筋を示す政策提言書。 目次 稲田朋美―多様性のある真の保守政党を目指して 自民党の風景を変えて、日本の風景を変える 佐藤ゆかり―新時代「ビヨンド・ゼロ」に向かって世界をリードし、地球危機を救う日本の決断 永岡桂子―主婦の目線で日本の政治を改革する 猪口邦子―軍縮と平和、そして男女共同参画社会の実現を目指して 森まさこ―誰もが可能性を伸ばせる社会の実現を目指して 太田房江―女性の「俯瞰する力」が新しい時代を作る 高橋ひなこ―『身土不二』。農業を守り、暮らしと日本の安全を守る 尾身朝子―様々な経験を活かして国政に臨む 杉田水脈―日本の名誉と未来を守る 鈴木貴子―地域から日本の政治を考える 稲田朋美 福井県越前市生まれ。早稲田大学法学部卒業。弁護士。衆議院議員(5期目)。 行政改革担当大臣、自民党政調会長、防衛大臣、自民党幹事長代行等を歴任。 現在、法務委員会筆頭理事。初代自民党女性政策推進室長、自民党整備新幹線等鉄道調査会長。 自民党若手保守政策集団「伝統と創造の会」会長、自民党女性議員による「女性議員飛躍の会」共同代表。 趣味はランニング。 ※プロフィールは2020年10月時点 https://www.inada-tomomi.com 私は、弁護士として約20年間、特に歴史認識に関する裁判を通して、日本をよりよくするための活動をして参りました。そして、2005年の郵政解散のときに、当時幹事者代理だった安倍総理からお誘いをうけ、自民党の候補者になりました。しかし、その時、既に選挙まで残り1ヶ月足らず。普通なら立候補はしないという通常の判断ですが、私の信念は、「進むか止まるか、迷ったら進む」。失敗しても、それは大きな財産になるだろうと思い、挑戦することにいたしました。 女性の政界進出に関しては、厳しい現実を目の当たりにしてきました。しかし、今の私には、共に戦う女性の同志がいます。先輩議員は、1人で、孤独に戦っていらっしゃいました。今も、活動内容によっては孤独な戦いになってしまう場もありますが、同じ党内に仲間がいる、これを心の支えに、更に邁進していきます。 学生の皆様には、人が笑うほどの大きな目標を持っていただきたいです。人間、望んだ以上のものにはなれません。夢は大きく持って、けれども足元は着実に、一歩一歩、しっかりと歩んでください。そしてチャンスがあれば、それを決して逃さずに、つかみとる。迷ったら進む。明るい未来に向かって、突き進んでください。 (慶應義塾大学4年 小川淑生) 佐藤ゆかり 自民党政務調査会経済産業部会長。経済学博士。環境副大臣、総務副大臣、経済産業大臣政務官なども務めた。コロンビア大学政治学部卒、同大学院国際関係学科修士号、ニューヨーク大学経済学博士号取得。シティグループ証券エコノミスト、JPモルガン証券シニアエコノミスト、クレディスイス証券経済調査部長。日本経済の主要エコノミストランキング全米第2位獲得。経産省産業構造審議会委員、財務省主税局税制問題研究会委員等も歴任。衆参勤続15年、現在大阪11区(近畿ブロック選出)・衆議院議員。国益のため堪能な英語で経済交渉にあたる新しい保守政治家。※プロフィールは2020年10月時点 学生の皆様が日本の未来を作る担い手ですので、学生のうちに起業するなり独立するなり、大いにチャレンジして欲しいと思います。今の学生さんはおとなしいですね。私が学生だったアメリカ留学時代を振り返ると、当時のアメリカでは、学生は学費をアルバイトして自分で払い、親から独立して起業したり、本当に活発でした。また、私はスイス、フランスにも留学しましたが、転じてヨーロッパの学生さん達は政治意識がとても高かったと記憶しております。そもそも留学しようと考えたのは、こうした海外の学生のように意識が高く、狭い既成概念にとらわれない人間が日本人にも必要だと考えたからです。留学を契機とし、日本人としての視点だけではなく、幅広い視点を持ち、地球を俯瞰して物事を見ることのできる人間になったのではないかと思います。世の中には、非常に多くの「女性」が、しなやかさと芯の強さの両方を兼ね備えて活躍されていると感じます。残念ながら、政治や経済の世界では、その美点を十分に発揮しきれていない女性がまだまだ多いようです。もっとたくさんの女性が積極的に政治や経済などに関わって、その中でも特に若い皆さんがもっと力を発揮しやすい、生きやすい日本を創りたいと感じております。(日本大学3年 大橋星南) 永岡桂子 農林水産政務官、厚生労働副大臣、文部科学副大臣、自民党副幹事長を歴任。自民党母子寡婦福祉対策議員連盟会長、衆議院消費者問題に関する特別委員会与党筆頭理事として、農業、医療・労働、教育、ひとり親家庭、消費問題など生活に密着した日常の問題一つ一つに取り組む。令和2年10月~衆議院消費者問題に関する特別委員長※プロフィールは2020年10月時点 https://keiko-nagaoka.jp 私が学生だった頃は、男女の就職率の差が大きく、女性の生き方は限られていました。中には、女性の中でも社会に出て頑張っている方はいましたが、ほとんどの女性が大学を卒業したら、家事や家業の手伝い、あるいは専業主婦となることが当然のような環境でした。現在は、男女が平等に社会に出て働き、家事・育児を行っていこうという社会に徐々に変わりつつあります。これからはより一層男女関係なく働きやすい環境を作り、男女ともに主体的に家事・育児を行い、夫婦が一緒に家庭を築いていくことが重要になるということを若い方にもっと知って頂きたいと思います。女性も男性も手をつなぎあって、共に家庭を支えて素晴らしいものにしていくことを考えて、生きていってください。今後の日本を作っていくのは、今の日本の若い方たちです。ぜひ頑張ってください (日本大学3年 大橋星南) 私は大学で教鞭を取っていた時に、卒業し、就職した女性たちが結婚で職場から離れた後、職場に戻らない人がほとんどであるのを見て、どうにかしたいと思ったのがきっかけで政治家になりました。大学生の今だからこそやっておいて欲しいことは、やはり勉強です。勉強出来る時間は人生において意外とそんなに長くない。だけど、学んだことは、確実に人生の役に立ちます。特に英語を勉強してください。これからはますます英語が話せる人が仕事の場でトップに立っていくようになりますから、今なら、まだ、ネイティブのように話せるようになるはずです。英字新聞を読んだり、英語のニュースをシャドーイングしたり、出来ることはたくさんあります。1分の無駄も作らないつもりで学んでください。さらに、日本語の文章力を上げることも怠らないで欲しいです。やはり、基礎力が大切です。紙の本をたくさん読んで、豊かな表現に触れて自分のものにしてください。 (東洋大学1年 濱穂乃香) 森まさこ 参議院議員 福島選挙区 当選3回 自由民主党 現在、法務大臣 昭和39年福島県いわき市生、いわき市立植田小・中、福島県立磐城女子高、東北大学法学部卒。 弁護士。米国NY大学法科大学院客員研究員(消費者保護法) ・金融庁課長補佐・検査官、元国務大臣、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全、少子化対策、男女共同参画)、参議院行政監視特別委員長・環境委員長○自民党副幹事長・法務部会長・環境部会長  ※プロフィールは2020年10月時点  https://morimasako.com/ 私たちが「女性にとってよりよい社会」を目指しているのは、女性だけを優遇するためではありません。「女性にとってよりよい社会」を目指すことによって、その他の社会的に弱い立場にある方々にとってもよりよい社会を作り、結果、全ての方々にとってよりよい社会作りに繋がると考えております。 このよりよい社会を作るためにも、皆様にもっと選挙に参加していただきたいです。特に若者の皆様にとっては、政治が遠い存在のように感じられると思います。しかし、電車、スーパー、飲食店、そんな、皆様の日常に根差したものも、政治の影響を受けているのです。皆様の求める社会を実現するためにも、まずは選挙に行っていただけますと幸いです。 その他の面に関しましては、細やかな感謝の気持ちを忘れず、かつ、それを伝えてほしいです。例えば、お母さんにお弁当を作ってもらったら「おいしかったよ」って言うとか。そういう当たり前のことが、社会に出てから凄く大事になってきます。 (慶應義塾大学4年 小川淑生) 太田房江 東京大学経済学部卒業後、通商産業省(現経済産業省)入省。 岡山県副知事、通産省大臣官房審議官を経て、2000年、大阪府知事選で初当選(全国初の女性知事)、2期8年府知事を務める。 知事時代の2007年8月、関西国際空港第2滑走路を完成。関西のゲートウエイとしてインバウンド増加の起爆剤となった。 2013年参院選で初当選(全国比例代表)。厚生労働大臣政務官、自民党女性局長などを歴任。2019年参院選で再選(大阪選挙区選出)。2020年10月 参議院文教科学委員長に就任。※プロフィールは2021年1月時点 http://osaka-fus.com 私が大学生の頃は、女性は結婚して家庭におさまるのが一般的で、私自身、主婦になることに対する憧れがありました。ただ、私が通っていた東京大学には法学部、経済学部合わせて女性が10人しかいなかったのですが、その女性たちはとても意識が高く、彼女たちに触発されてキャリアをスタートさせました。当時は男性中心社会で、女性が活躍できる場はほとんどありませんでした。働くことができても、 ”男性のように考え行動する”ことが求められました。今は当時より、女性が働きやすい社会にはなってはいると思いますが、男女差のない社会と言い切ることはできないでしょう。若い世代には政治に興味をもってもらい、更には、目的意識を持って、道を切り開くつもりで政治に参加してくれるといいなと思います。また、女性は男性と同じように行動することを目指すのではなく、女性であることをプラスにして、感性を大切にしていって欲しいです (東洋大学1年 濱穂乃香) 高橋ひなこ 経歴:日本大学芸術学部放送学科卒、テレビ岩手アナウンサー、盛岡市議、岩手県議、...

知事

佐賀県知事 山口祥義「佐賀さいこう!」フラットで多様性のある街を創りたい

■プロフィール 東京大学法学部卒業後、旧自治省入省。内閣安全保障・危機管理室では災害現場の最前線を指揮。過疎対策室長として過疎問題に正面から取り組み、秋田県、鳥取県、長崎県など地方自治体での豊富な経験を有す。JTB総合研究所、ラグビーW杯2019組織委員会、東京大学教授など民間等でも活躍。2015年1月佐賀県知事に就任(現在2期目)。 学生時代から“やらない後悔よりやる後悔で”様々なことに挑戦してきたという山口知事。“人のためになるような仕事をしなさい”という言葉を受け、官僚の道に進み、現在は佐賀県知事として時代にマッチした取り組みを数多く打ち出している。佐賀県民のために行動し続ける山口知事の経験を伺った。 ■迷ったら常にやるほうを選んでいた学生時代 “やるかやらないかで迷ったら常にやるほうを選ぶ”と決めて行動していました。当時資本主義経済が入る前の中国に1か月以上滞在したり、砂漠の中で車が動かなくなったり、沖縄に予備校の先生をしに行ったりと、色々なチャレンジをしていました。芸能プロダクションでアルバイトをしていて、大学の文化祭では、お笑い芸人や歌手を招いたステージをセッティングしたり、広告研究会で活動したりしていました。そういった活動を通して、“仲間と一緒にいることの素晴らしさ”を学びましたね。 ■“人のためになるような仕事をしなさい”と言われた 芸能の仕事に携わっていたので、将来はマスコミ関係へ進もうかと思っていました。しかし、ある著名な方とランチをしたときに「山口君は人のためになるような仕事をしなさい」と言われたことがきっかけで、人生太くありたいと考え、また、 何をすべきなのかを考えるようになりました。そして、その頃、友人の父親がある県の知事をしていて、たまたまその方と食事をする機会があり、はじめて自治省(現総務省)という役所があることを知りました。ここなら若いうちから色々な県に転勤して挑戦していくことができると思い、自治省に入って官僚の道に進むことを選びました。 ■かけがえのない経験を積んだ官僚時代 キャリア官僚は霞が関で仕事をするのが一般的ですが、私の場合、現場の最前線で多く仕事をしました。茨城県東海村の原子力事故や、新潟中越地震、有珠山の噴火の際も現地に駆け付け、現場の調整役として奔走しました。また、知事になる前は官民交流でJTBに出向したり、ラグビーワールドカップの組織委員会として全国各地を訪れ、開催を呼びかけていました。そんな中、49歳の時、縁あって、佐賀県知事選挙に出馬しました。もともと住民から愛されるリーダーになってみたいという思いがありましたが、出馬を決めたのは選挙開始日の13日前。既に有力候補もいて劣勢でのスタートでしたが、官僚時代に幅広い仕事に従事していた経験も活き、多くの方々の力で当選することができました。 ■色々な人が共存できる街を作りたい 知事になってからは、みんなが自然体で心地よく暮らしていければいいなという思いから、“さがすたいる”というプロジェクトを立ち上げました。障がい者は障がい者だけのコンサートを開くといった様に、特定の人を区別するようなやり方ではなく、高齢者も外国人も障がい者もみんな同じ空間で一緒に共存できるような人にやさしい街を目指しています。また、LGBTの方々のパートナーシップ制度も 作る予定で、受容性のある地域社会をつくっていきたいと考えています。 ■県民のニーズに沿った取り組みが数字として表れる 私自身、普段から色々な場所を訪れ、県民の皆さんの普段の暮らしを拝見したり、直接声を聞いたりしています。例えば、“子育てし大県さが”プロジェクトは「まず私たちに子育てをしたいと思わせて」という県民の声を受けて始動しました。県立図書館では新刊児童書を全冊購入しており、子どもたちの志を育む教育を充実させたりしながら、子育てが楽しいと思うフィールドづくりに力を入れています。昨年は全国イクメンランキングで第1位に輝きました。また、私自身が妊婦さんたちの大変さを体験した動画は、世界中で3500万回を超えて再生されるビックヒットになりました。さらに、知事就任以来 “佐賀さいこう!”という掛け声を広げており、今では、地元新聞のアンケートでは、県民の約9割が「佐賀が好き」と回答されていることは本当に嬉しいです。 ■県民ファーストで手厚い対応 昨年から続く新型コロナ感染症対策は、当初から、「先手先手」の姿勢で力を入れてきました。佐賀県は、感染者の自宅療養者はゼロ、ワクチン接種率のトップランナーです。離島で感染者が出た時も、迅速にヘリコプターで医療従事者を運び感染拡大を抑えました。また、7つある離島の16歳以上の希望者全員が、2回目の接種を終了しています。私自身、毎日、感染された方々がどのような状況にあるのか、一人ひとりチェックするようにしており、地方だからこそできる迅速で手厚い対応を心がけています。 ■県庁づくりへのこだわり 新しい社会をつくるには人と人との間で生まれるイノベーションが大切だと思っています。そのために佐賀県庁では積極的に中途採用をしていて、行政職員に占める中途採用の割合は全国平均が3%であるのに対して、佐賀県は12%にも上ります。公務員集団ではなく、色々な社会経験を積んだ人たちを採用しているので、頭の柔らかい人たちが多いです。最近はアニメやゲームとコラボしたコンテンツが10代20代の間でヒットし、若い人の間で佐賀に移住したいという人が増えています。今後も色々な民間企業などとコラボレーションすることで多くの人達に佐賀の魅力を伝えていきたいです。 また、佐賀県庁では嘘をつかないということも大切にしています。行政機関での忖度問題が話題になったりもしますが、少しでもごまかしがあると、後で辻褄を合わせるために多くの職員が辛い思いをして、県民の不信感が高まってしまいます。当たり前ですが、間違っていたら素直に謝り、正していくことで今後も信頼を積み重ねていきたいです。 ■学生へのメッセージ 何かを選択するときは、自分自身と相談して決断していくことが大切です。なぜなら周りの意見をもとに自分自身の選択をすると、何か辛いことがあったときに他人のせいにしてしまうからです。自分で責任をもって選択していくことが人生をよりよく歩んでいく秘訣だと思います。ピンチの裏に必ずチャンスがあるので、全てが糧になると思って頑張ってください。 学生新聞WEB2021年7月8日取材 国際基督教大学 4年 鈴木菜桜

芸能人

髙石あかり  他人と比較しない、私の人生を自分の色に染める

■プロフィール 2002年12月19日生まれ。宮崎県出身。2016年にダンス&ボーカルグループのメンバーとしてデビュー。卒業後、女優活動を本格化。2020年舞台「鬼滅の刃」で竈門禰豆子役に抜擢され話題を集める。映画「とおいらいめい」(大橋隆行監督)など公開作も控えるほか、AbemaTVで放送中の「箱庭のレミング-私刑俱楽部-」にも出演。2021年8月には再び「舞台『鬼滅の刃』其ノ弐 絆」の竈門禰豆子役として出演。本作で映画初主演。 舞台や映画などで活躍の場を広げている髙石あかりさん。7月30日に公開される映画『ベイビーわるきゅーれ』では、映画主演で、女性の殺し屋を演じた。殺し屋の映画では珍しい、10代の女性の殺し屋2人によるド派手なアクションが魅力的な本作の見どころと、彼女の女優としての今後の展望を伺った。 ■保育園時代から憧れ続けた女優業 「女優さんになりたい!」と思い始めたのは、保育園生の時でした。そのきっかけは、当時放送されていた「花より男子」です。このドラマを見て、普通だったら主人公の牧野つくしちゃんになりたい!と考えると思うんですが、私の場合は井上真央さんの「女優」という職業に惹かれてしまい、この頃から女優になることを夢見ていました。特に保育園の周りの友達はお花屋さんとかになりたい子が多い中で、私1人だけ女優になりたいと言っていたのでとても目立っていたそうです(笑)。いつも元気溌剌で体を動かすのが好きなタイプで、小学校3年生からはダンスを始めました。そこで入所するきっかけとなったavex主催のコンテストのポスターを目にしました。両親が応募することを認めてくれたこともあり、2014年のavexキッズコンテストに参加し芸能界へ。2016年にダンス&ボーカルグループのメンバーとしてデビューし、グループ卒業後に、夢だった女優活動を本格的に開始しました。 ■役のスイッチが入った瞬間が本当に楽しい! 女優としてお芝居をしていて、時々役に入り込んでしまい、周りが見えなくなる瞬間があります。自分ではなくなって、コントロールできなくなってしまうくらい役になりきってしまう、その瞬間が本当に楽しくて。「この感覚をまた味わいたい!」と思ってお芝居をしています。また、日常生活の中に、演じた役柄が入り込んでしまうこともありました。その時は自分でもびっくりして、少し怖くなりました(笑)。女優というお仕事をしていく中で辛いと感じることもありますが、それを辛いと考えすぎず、楽しんでやることに重きを置いてお仕事しています。どんなことでも、楽しんでやりたいです! ■映画初主演!「ベイビーわるきゅーれ」 本作では、殺し屋のちさと役を演じました。相方のまひろ役を演じた伊澤彩織さんと監督とは、以前、別の映画でもご一緒させて頂いたので、主演が決まったときは嬉しさと楽しみな気持ちでいっぱいでした。ちさとと私自身は、ドライな部分や明るい部分など、自分でも「よく似ているな」と共感できる点が多く、演技も素でやっていることが多かったです。殺し屋の役作りは、銃の持ち方がわからないところからのスタートだったのでとても難しかったです。特に、ちさとは銃が好きで扱いに慣れている子だったので、観客の方が銃を持っていることに違和感を感じないように、撮影の合間は常に銃に触れているようにしました。 本作の見どころの1つでもあるアクションシーンは、限られた時間の中で練習をしました。構え方ひとつで見え方が変わってきてしまうので、構え方の練習はもちろん、銃を撃った時の反動は実際にどういった動きになるのかを細かく学びました。また、まひろ役の伊澤さんはプロのスタントウーマンの方なので、コツを教えてもらいながら撮影に臨みました。 ■本作では、「殺し屋」のイメージを覆すかわいさに注目! この作品は、高校を卒業した2人組の殺し屋ちさととまひろが、殺しの仕事を続ける一方で、社会人として社会に出て、あらゆる社会の理不尽な事に揉まれていき、成長したり、成長しなかったりする物語です。 殺し屋の映画というと、怖いイメージや暗いイメージがあると思うんですが、『ベイビーわるきゅーれ』は、そんなイメージを覆すかわいい作品になっています。特にちひろとまひろ、2人の対比するキャラクターがとても面白く、突然社会に適合しなければならなくなった2人が、社会に揉まれて成長していく姿にどこか共感を覚えて頂ける部分があるかもしれません。学生から社会人になる、みんなが通っていく道だからこそ、いろいろな人の心に刺さる作品だと思っています。 ちひろとまひろの過去と未来のエピソードは、あえて描いていおらず、映画を見てくださった方々には2人の過去に何があったのか、なぜ殺し屋になったのかなど、ぜひ想像しながら見ていただきたいです。 あと、今回、映画の挿入歌「らぐなろっく〜ベイビーわるきゅーれ〜」も歌わせて頂きました! 曲も併せて、映画を楽しんで頂きたいです! ■今後もいろいろな役を演じてみたい 今までは舞台に出させていただくことが多かったのですが、「ベイビーわるきゅーれ」を通して、今後、映像作品でいろいろな役をやってみたいとより強く感じました。特に自分と反対の性格の、物静かな役を演じてみたいです。普段は静かだけれどかっこいい、まさにまひろのような役に興味があります!また、本作のようなアクション系にもどんどんチャレンジしていきたいです。そしていつかは私の憧れの女優である、満島ひかりさんや石原さとみさんと共演させて頂きたいです。お二人との共演を夢見てこれからも頑張っていきます! ■大学生へのメッセージ 「誰かと自分を比較しないで」 学生から社会人になるとき、環境がガラリと変わります。実際に私自身も社会に出て感じることは、学生時代は無意識のうちに甘えていたなということです。高校を卒業して女優という仕事をやっていく中で、学生時代はとても価値のある大事な時期だったのだと気づきました。だからこそ、今を大事にしてください。自分が感じていることを無理に誰かと比較しないで、素直に、あなたらしく、自分の考え方そして人生を大事にしてほしいです! 学生新聞オンライン2021年6月1日取材 文教大学 3年 坂本鈴佳 ヘアメイク:西田美香(atelier ism®)(c)2021「ベイビーわるきゅーれ」製作委員会 映画「ベイビーわるきゅーれ」 「殺し屋の映画」=暗い?殺された妻の復讐?「明るい殺し屋映画」があってもいいじゃないか! 社会不適合者な“元女子高生”殺し屋コンビが頑張って社会に馴染もうと頑張る異色の青春映画が誕生! 「ファンタスティック映画の新旗手」監督・脚本:阪元裕吾「すじぼり」「ハングマンズノット」「ある用務員」「黄龍の村」         ×業界最注目の新人女優:髙石あかり舞台「鬼滅の刃」竈門禰豆子役         ×女性スタントアクションの異端児:伊澤彩織 NHKちょいドラ「斬る女」ヒロイン「新宿スワン2」「キングダム」「るろうに剣心」 女性とて侮れない、本格的なアクションシーンと、今の時代ならではの、若い世代の考え方や価値観が散りばめられた物語の、新しい映画が誕生!

川浪亜紀

前田旺志郎 俳優は人間力が試される仕事。だからこそ、自分を磨き続けたい

■プロフィール 2000年生まれ。大阪府出身。2007年から兄の前田航基とともにお笑いコンビ「まえだまえだ」として活躍。2021年は連続テレビ小説「おちょやん」(20/NHK)に出演し、注目を集めた。公開待機作に『キネマの神様』(21年8月6日公開/山田洋次監督)、『うみべの女の子』(21年8月20日公開/ウエダアツシ監督)、『彼女が好きなものは』(21年秋公開/草野翔吾監督)などがある。 小学生の頃からお笑い兄弟コンビ・まえだまえだとして多くの番組に出演し、M-1グランプリ準決勝進出も果たした経験を持つ前田旺志郎さん。現在、俳優として活躍する前田さんに、芸人として活躍した幼少期の思い出や役者としての魅力、そして今後の展望について、生き生きと語ってもらった。 ■まえだまえだとして活動した幼少期  子供の頃から明るいタイプでした。友達とワイワイ遊んで、いつもふざけていて。3歳の頃、何をやっているのかもわからず、養成所に入りました。完全に兄の影響です。弟ならではの「兄がやっているものは自分もやりたい!」という(笑)。自分の中では「仕事」というよりは、完全に習い事という感覚でした。ある時、漫才を教わる授業があって、そこで僕と兄と先生とで協力して1本のネタを作ったんです。活動をしていく中で、「やるからには出てみたい」という気持ちでM-1グランプリにも出場しました。準決勝まで進んだことをきっかけに、テレビに出させていただく機会が増えました。忙しくて学校に行けない日もありましたが、行けるときはきちんと通って友達ともしっかり遊んでいました。当時は、仕事も学校もとにかくずっと楽しかったです。ただ、大人になってからもこの仕事をしようとはまだ思ってなかったです。 ■高校進学時に、役者の道に進むことを決めた  実は、芸能界で頑張っていこうと覚悟を決めたのは、高校進学のときです。それまでは、基本的に頂いた仕事をただ楽しくやっている感覚が強かったんです。しかし、高校に進学する時に直面したのが、大阪と東京のどちらの高校に進むかという問題でした。俳優をちゃんと続けるのであれば東京の学校に進むべきですが、大阪の学校で旧知の友人たちと楽しく学校生活を送りたいという気持ちもありました。東京に行って活動するとなると、やはり今までの取り組み方ではダメで、覚悟を決めてやらなくてはいけないのだろうとも感じていました。その時に初めて、自分の将来について向き合い、「俳優の仕事を頑張ろう」と決めて、東京の学校へと進学しました。 ■大学へ進学したのは、自分の選択肢を増やすため  その後、大学へも進学しましたが、それは「役者という仕事しか知らないのはもったいない」と思ったからです。もちろん、役者だけに専念する道もありました。でも、役者の道では、仕事の中では演者さんや演出家さん、技術さんなど、制作する側の人たちとしか触れ合うことができません。それでも素敵な出会いはありますが、自分はできるだけ色々なことに触れて自分の視野を広げたい。だからこそ、大学へ進学しました。 今は役者を続けていきたいと思っていますが、一生この仕事を続けていくかはわかりません。一番初めに出会った職業が役者であっただけで、他にやりたいことが出てくるかもしれません。だからこそ、多くの人や職業を知って、それでも役者をやりたいと思うのか、選択肢の中から選ぶことはまた何か違ってくるのではと思ったんです。 僕の通っている学部は、本当に色々な方向で頑張っている人がたくさんいて、芸能活動もその一つの活動として応援してくれる人が多いです。また、尊敬できる刺激的な人たちに囲まれながら大学生らしく生活できることは幸せですし、この環境を選んで良かったなと思っています。 ■「ただそこにいるだけ」の芝居ができたら、最強  一昨年、初めて「最貧前線」という作品で舞台に出演しました。ドラマや映画の撮影をするときは撮る順番がバラバラなので、そのシーンを成立させるためにどう演じるかということを考えていたのですが、舞台はお客さんの目の前で、区切りなく最初から最後まで演じます。そのため、その人がどんな人で、物語の中でどう生きているのかを一貫して考えて演じることが必要でした。舞台出演を通じて、自然とその感覚を意識できるようになったのは、大きな経験だったなと思います。 俳優というお仕事は、その人の個性や人間性が出るお仕事です。もちろん努力や経験も必要ですが、俳優としての経験より人間としての「人間力」が出てくる部分が大きいのではないかと。だからこそ、自分の生きてきた20年間を信じ、自分が現場を経て、学んだ知識や経験から感覚を磨き、表現していくことが一番なのかな、と思っています。 一方で、僕は演技する上で自分を表に強く表現しようとしていません。大切なのは、そのシーンにどれだけ自分が馴染めるか、そのシーンに存在できるかということ。いかに意識の外側で意識できるか。「ただそこにいるだけ」の芝居をできたら最強じゃないかと思っています。決められたセリフも、その場にいる人間として自然に発せられる役者になりたいです。そのために、よくやるのが、現場をプラプラ歩くことです。たとえば、いまは学生の役が多いのですが、その教室や学校のことをきちんと知れていないと「ただその場にいる」のが非常に難しい。だから、先に学校を散歩したり、教室の中身を見ておいて、体を使って視覚的に想像して、その場に馴染む努力をしています。 ■10年後も芝居を楽しむために、上のレベルを目指す  今はまだ、「将来はこうありたい」という明確な目標があるわけではありません。今は、お芝居をすることが本当に楽しいんです。お芝居をしているときが、自分自身が一番生き生きしていると感じますし、その状態でいられることは本当に幸せなこと。だから、死ぬまでずっとこの状態が続いたらいいな、という考えは漠然とあります。しかし、10年後も今と同じように楽しく仕事するのは、今の技量のままだったら絶対できないと思います。だからこそ、自分が芝居を楽しむための努力はしていきたいですし、もっと役者というお仕事と真剣に向き合って上のレベルを目指していきたいなと思います。 ■大学時代こそ、「自ら経験を掴みに行く努力」を  僕自身も心掛けていることですが、大学生のうちにたくさんの経験や、試行錯誤を繰り返してほしいです。大学生活は自分から貪欲に何かをしないとあっという間に終わってしまいます。また、大学生というだけで力を貸してくれる大人はたくさんいますし、若さや情熱があれば、味方してくれる人はたくさんいます。だから、今しかできないこともたくさんあると思うんです。大学生活の間にできるだけ自分の足を使って、自分から経験を取りに行くという気持ちを持ち、自ら経験を掴みに行く勇気を出してほしいです。 学生新聞オンライン 2021年4月11日取材 津田塾大学 4年 川浪亜紀  ~松竹エンタテインメントからのお知らせ〜 松竹グループ合同女性オーディション『松竹 JAPAN GP GIRLS CONTEST』開催決定! 次世代のTV・映画・演劇をはじめとしたエンタテインメント業界を担う女性を『発掘』『育成』『発信』していく松竹グループ一大プロジェクト 募集ジャンル:女優・モデル・タレント・声優 募集条件:13歳~24歳(2022年4月1日時点)※特定のプロダクションに所属していない方に限る。 審査スケジュール:エントリー 2021年6月1日(火)~7月11日(日) 詳細はWEBサイトをご確認ください。https://www.shochikugeino.co.jp/shochikujapangp2021/

宮田紋子

立憲民主党所属の衆議院議員  立憲民主党副代表 同大阪府連合代表  辻...

ピースボートの運営で知った「夢」を持つことの大切さ ■プロフィール 1960年奈良県生まれ、大阪育ち。早稲田大学教育学部卒業。学生時代にNGOを創設、世界60カ国と民間外交を進める。1996年、衆議院選挙にて初当選。2009年 国土交通副大臣、2011年 災害ボランティア担当の内閣総理大臣補佐官、2017年史上初の野党第一党の女性国対委員長を歴任。現在、立憲民主党副代表。 やりたいことは、行動に移すこと。若者に宛てたこの言葉は、衆議院議員の辻元清美氏の「これまで」を物語っていた。大学では国内外の諸問題に向けたNGO団体を発足後、まさかの船で国際交流。卒業後には時代の潮流を問わず、新しい仕事の分野として開拓。その延長にあった議員としての国際化に向けた取組みについて伺った。 ■教科書問題への問題意識から立ち上げた、NGO団体「ピースボート」 社会科の先生を目指していた大学時代、私にとって非常にショックな出来事が起こりました。1980年代に起こった教科書問題について、理解できなかったことです。当時、歴史の教科書において、世界大戦時の日本政府の行いに関する記述が問題視されていたのですが、私はこうした歴史認識について何も知りませんでした。それを機に立ち上げたのが「ピースボート」でした。これは平和・民主主義・人権問題など様々な社会問題をテーマに、各国の現地で国際交流をするというNGO団体です。東西冷戦の時代に東西の壁を近くし、最初に風穴をあけるべく、全力を尽くしました。戦後のカンボジアへ援助物資を運んで女性支援をしたり、抗生物資をパレスチナへ送るために、東西冷戦時代に、西側諸国のベトナムやカンボジアに船を入国させたり、時には韓国に行った船で北朝鮮へ行ったりと、様々な活動を行いました。現在、ピースボートは、今や国連の特別協議資格を持ち、核兵器の禁止・廃絶に向けて活動するNGOの連合体「ICAN」に加わって、ノーベル平和賞を受賞するに至っています。学生4人から始めたサークルがここまで成長するとは、いまだに感慨深いです。 ■NPOの法的ステイタスの確立のため、議員を志す しかし、1980年代当時、環境や人権問題を取り扱う社会事業が主流となる欧米の波に、日本は未だ追いついていませんでした。私たちは、ピースボートを社会事業の草分け的存在として成立させようと手探りでやっていましたが、特に大変だったのが費用の調達と世間の信用を得ることでした。ピースボートは「世界一周旅行」でも知られていますが、初めての世界一周には15億円近くもかかり、借金をすることもありました。より安く船を借りるために、ギリシャやウクライナなど各国へ交渉しに行きましたが、株式会社でもないため信用を得るのは大変でした。最初のギリシャの船主との交渉も、浴衣を着てアテネへ行くというアタックを繰り返して、ようやく成立しました。また、阪神淡路大震災におけるボランティアでは、当時の日本では非営利団体への信用が乏しく、怪我をしても保険が効かないというのが現状でした。そこで、「日本にも欧米のNPO法のように法的なステイタスをどうにかして作りたい」と考えたのが、議員になったきっかけの一つです。実際に当選後には、NPOという言葉すら日本になかった時代に議員立法として成立させることが出来ました。  ■「やらずに後悔するより、やって後悔」を選択。そして議員に。  議員になったもう一つのきっかけは、当時日本で初めての女性の衆議院議員議長になった土井たか子さんから、立候補の要請を受けたことです。日本では女性議員が少ないため、女性代表としてこれまでの経験を政界で活かして欲しいとのことでした。世襲議員でもなければ、お金は一文もなく、最初は躊躇いもありました。でも「やって後悔した方が自分で納得がいく」と、要請を受けた翌日にはもう、中立的存在であったピースボートを辞め、決断していました。選挙がすでに1週間前に迫っていたからです。これを踏まえ、若い方には人生の転機があった時には、「迷わずにやる」ということを伝えたいです。若ければ、失敗をしてもまだやり直せます。そして考えるのは一時間だけに。1日中考えると、失敗が恐くて、挑戦をやめてしまうことがあるからです。  ■政治家になって痛感した、現場の声に耳を傾けることの大切さ NPO法の立法の他、阪神淡路大震災の被災者と共に被災者再建生活支援法を作りました。かつては、災害で家が全壊しても「私有財産だから」という理由で国から1円も保証されなかったのですが、その状況を変えたことで、東日本大震災や集中豪雨時の被災者救済に役立てることができました。その後、震災を受け、命を守ることも政治の役目だと思うようになり、防災士の資格も取り、災害対応に取り組んでいます。また、政治家として活動する一方で、介護ヘルパーの資格も取りました。議員にとって大切なのは、直接現場を知ることです。高齢化社会になり、誰もが自分でなくとも親の介護など、誰しも介護の必要可能性が出てくる現在、現場を知る必要性を強く感じたからです。 ■誰もが生き方を選択できる、男女平等の社会に向けて 現在、私が取り組む課題のひとつが、選択的夫婦別姓です。オリンピック参加国206カ国のうち、法律で結婚後にどちらかの姓に決めなくてはならないのは日本だけで、夫婦別姓が認められないのは国際的に見て非常識だと思います。“家”同士の結婚が当たり前だった時代は過ぎ去り、現在は、結婚後に専業主婦ではなく、働く女性も増えてきています。今後は姓を国ではなく、家族や個人が決めるという選択肢を増やすべきだと考えます。また同性婚の実現に向けた取り組みも進めています。台湾ではデジタル担当大臣のオードリー・タン氏がトランス・ジェンダーを公言したり、ニュージーランドでは少数民族や移民出身者の閣僚の数を決めているのに加えて、男女同数も導入されています。こうした各国に倣い日本も多様化を尊重すべきと考えています。さらに、働く女性の雇用形態、給与の現状から、意思決定の場に意識的に女性を取り込むという風潮が必要だと考えます。実際に男女が同じ人数だけ意思決定の場にいる国では、情報公開度が高く、社会保障政策も進んでいます。これは結果的に老後の安心、経済循環、財政赤字の減少にも繋がっていきます。ただし、どこの国も初めから男女平等が実現していたわけではなく、一定の割合で女性を取り入れるクオータ制などで徐々に実現してきています。私もこのような男女同数の平等な議会の成立や少子化問題の解決に向けて、今後も活動していきたいと考えています。 ■「今を生きること」を大切にしてほしい 大学生へのメッセージとしてお伝えしたいのが、「いくつになっても夢を持とう」ということ。ある一定の歳になると「現実を見なさい」と言われるかもしれません。でも、いつまでも夢みたいなことを言い続けるのには、エネルギーがいるんです。このエネルギーを持ち続けるうちに、夢は言葉になり、言葉が意志になる。やがて意志が行動を生み、行動が連帯を生む。このプロセスの大切さを、ピースボートを運営する中で気づき、信じてきました。今後もこのプロセスを追い求めていく人でありたいし、みんなにもそうであって欲しいと思っています。例え夢がまだ無くとも、「今を生きるということ」を大切にして欲しいです。今を精一杯生きていたら、次に何かしらが繋がっていくと思いますから。  学生新聞オンライン2021年3月10日取材 津田塾大学2年 宮田紋子            

衆院議員

衆議院議員・小児科医 阿部知子

女性が自由に声を上げられる世の中を作りたい ■プロフィール 1948年東京都生まれ。東大医学部卒。小児科医。立憲民主党所属衆議院議員(神奈川12区)。衆議院内閣委員会委員、原子力問題調査特別委員会委員、党子ども子育てプロジェクトチーム顧問。神奈川県連代表。超党派「原発ゼロの会」事務局長。超党派「身体障害者補助犬を推進する議員の会」事務局長。「立憲フォーラム」呼びかけ人、副代表。 学生運動を通じて、社会活動に強い関心を抱いた学生時代から一転、小児科医として50年、政治家として20年活躍してきた阿部知子議員。注目の女性議員として、そして小児科医として活動してきた今日までの道のりと、今後の展望を伺った。 ■社会活動に注いだ学生時代 私の学生時代といえば、学生運動ですかね。もともと国際的な仕事がしたかったのでICU(国際基督大学)に入学したのですが、1967年7月に大学が学生運動によってロックアウトになってしまい、普通の大学生活が送れませんでした。さらに10月ごろには、学生運動をしていた同年代の学生が抗議行動中に亡くなってしまう出来事もありました。「私と同じ年代の人が、何を思ってその活動をしていたのか。亡くなった彼と私は何が違うのか」といったことを、深く考えるようになりました。そこから、人の命を守るために医学部に行こうと考えたのです。私は「やるしかない!」と決めたら、すぐに行動に移してしまう性質なので、親にも黙って猛勉強した末、翌年に東京大学の医学部に進学しました。しかし、入学後すぐにまた全学ストライキに……。そのときは、「なんで私が行くところは、毎回大学に通えなくなってしまうのだろうか」と考え込んでしまいました。しかし、次第に大学内では濡れ衣で学生が処分されるという事件や、無抵抗の大勢の人が殺されるベトナム戦争の勃発という二つの大きな現実を突きつけられたことから、深く社会活動に関わることになりました。その後、学生運動が敗北して大学の授業が戻った頃には、精神科病棟開放のボランティアも行うようになりました。 ■小児科医師として、政治家として活動してきた50年間 政治家になる前は、小児科医として障害者への差別問題や医療事故被害者とともに医療体制問題に取り組みました。その行動の根幹にあったのは「どうやって命を守ろうか」という考えです。そうした活動を30年続けている中、連立政権の一翼を担った社会党が「自衛隊合憲」など方針転換をする中で、1995年に新党を模索する議員グループから「新しい党の候補者として出てくれないか」と頼まれたのです。当初は次世代の小児科医を育成したいという想いもありましたが、勤務先の理解もあり、立候補を決めました。2000年に初当選を果たし、その当時所属していた党の方針であった平和憲法を守ることと、脱原発などに向けて活動をしていました。2001年にはアフガニスタンに行って油や小麦を配布する中村哲医師の活動を拝見し、イラクでは医師として現地の医療状況も見てきました。一連の活動を通して感じたのは、「政治の議論は空疎だ」ということです。どれだけ御託を並べようとも、それよりも実際に現地に行くことが重要なのです。その中で改めて「人の命を守りたい」と強く思うようになりました。その想いから、私が現在力を入れているのが、子育て支援です。今の日本は少子化が進んでいるのに、その対策に本気で向き合っていないことには常々疑問を感じています。高齢化対策については社会的介護の仕組みができているものの、少子化は毎年数値が発表されるたびに騒ぎ立てるだけの状態が続いています。一方、虐待問題の増加を見てもわかるように、いまの時代はどんどん子育てがしにくくなっています。現代の日本において、産後1年未満に亡くなった女性の死亡原因1位は、なんと自殺です。お母さんは誰にも守られていないため、辛い状況に置かれているのです。母親が産後に自殺してしまう社会から、もっと子育てがしやすい世の中を作りたい。そこで、行ったのが成育基本法の成立に努力したり、産後ケアセンターの推進のための法改正などです。そのほか、次世代を担う子どもを育てるお母さんたちにどんな支援ができるのかを、いまだに模索し続けています。 ■時代を変えるためには、女性をリーダーに 今の時代は、まさに社会の転換期だと思っています。第二次世界大戦の敗戦によって日本の世が大きく変わったように、コロナによって世の中が大きく変わる瞬間を迎えていると思います。その中で、医療、教育、農業環境などの社会的共通資本をもう一度見直し、より厚く取り上げていきたいと思っています。そして、今後の政治に私が期待するのが、女性の政治参画です。私が当選した当初に所属していた社民党のリーダーは女性でした。小さい政党でしたが、所属する議員のそれぞれが独自の取り組みを行い、生き生きと活動していました。あの当時、ひとつの党の女性比率が半数を超えていたことは非常に重要なことだったと思っています。それから20年経った現在、政治の世界における女性の比率はいまだ少ないままです。でも、男性、女性それぞれの視点を組み合わせれば、もっと高い成果が出るはずです。お互いの力を寄せ合うためにも女性の数を増やし、女性がもっと意見を言いやすい社会にしていきたいです。そして、政治のリーダーを女性にすること。リーダーのみならず、あらゆる場面の意思決定にもっと女性が関われるようにすることで、今の政治を変えることができるのではないでしょうか。障害の有無や外国人問題も同様ですね。多様性が大事です。 ■message 最近は授業もオンラインが主流になっているせいで、同級生同士などの横のつながりができにくいと思います。課題や授業などについて確認し合える友達がいないのは、辛いですよね。しかし、オンライン授業でも、必ずいい面はあると思います。今後はオフラインとオンラインを組み合わせる生活が主流になってくると思うので、この機会にオンラインの意義を知っておくことは重要になってくるでしょう。そして、今の女子大学生には「期待」しています。グレタ・トゥーンベリさんという当時15歳の女性が、スウェーデンの国会の前で、たった一人で気候変動対策への抗議活動を行なったように、若くして活躍している女性たちはたくさんいます。もちろん、若くして活躍している男性もたくさんいますが、今、時代は新しい波が来ています。だから、女子学生の皆さんにはぜひ行動してほしいです。未来は決して暗くないし、変えられるものだと思いますから。 学生新聞オンライン2021年2月12日取材 文教大学2年 早乙女太一

伊東美優

株式会社識学 代表取締役社長 安藤広大 

「識学」を通して多くの組織問題を解決する。 ■プロフィール 1979年、大阪府生まれ。2002年、早稲田大学卒業。同年、株式会社NTTドコモ入社後、 2006年ジェイコムホールディングス株式会社(現ライク株式会社)入社。 主要子会社のジェイコム株式会社(現ライクスタッフィング株式会社)で 取締役営業副本部長等を歴任。2013年、「識学」と出会い独立。識学講師として数々の企業の業績アップに寄与。2015年、識学を1日でも早く社会に 広めるために、株式会社識学を設立。2019年、株式会社識学がマザーズ上場。 「識学」を広めることで人々の持つ可能性を最大化する、という経営理念を掲げる株式会社識学。独立して会社を設立してから、わずか4年で上場を果たしたというから驚きだ。学生時代のお話から「識学」との出会い、そして安藤社長が考える日本の組織運営の課題についてなど、幅広くお話を伺った。 高校時代からラグビー漬けの日々を送っていて、早稲田大学入学後も体育会ラグビー部に所属していました。アルバイトは週に1回、定食屋さんで働き、それ以外は毎日練習していました。体育会に入って学んだことは沢山あります。辛い中でも一生懸命取り組むことの大切さは何度も感じました。加えて、ルールが絶対なんだ、ということも学びの一つでしたね。もちろん体育会に所属し、理不尽だと感じることも多々ありました。しかし、それに抗うのではなく、心の中で受け止め、置かれた環境の中で最高のパフォーマンスを発揮することが重要なんだと気がつきました。大学卒業後は、ご縁があってNTTドコモへ入社、そしてラグビー部にも所属しました。しかしラグビーと仕事の両立が難しくなり、部活は1年で退部。その後は社業に専念しました。入社して4年目に、同僚の退社を耳にし、自身も今までの振り返りと共に、今後のキャリアについて真剣に考えるようになりました。もしこのままNTTドコモで働き続けたらどうだろうか。その当時私は、「ここでいくら自分が頑張っても、企業の業績に変化はない」と感じたのです。これからはもっと自分の力で企業の成長を感じられる仕事がしたい。そう思い、4年目でNTTドコモを退社し、新たに人材派遣会社へ移りました。 ■「識学」との出会い 転職先の株式会社ライクでは、取締役も務め、より経営に近い場所で様々な経験をさせていただきました。ただ、今後も今まで経験してきた業界で仕事をしていくのかどうか考えていました。ちょうどその頃出会ったのが、「識学」というメソッドです。「識学」は人の感情ではなく、ロジックやデータによって仕組みづくりをする徹底的なマネジメント理論でした。独立して「識学」をコンテンツとした新しい事業を始めたい!と思ったんです。この理論の創始者とお会いする機会があり、「識学」を広めてくれる若い人材を探しているというタイミングだったこともあり、お互いにニーズが合致し、事業を開始できたのです。そして、2015年に株式会社識学を設立。現在、我々のサービスは2000社以上の導入実績があり、一般企業だけでなくスポーツチームなど、あらゆる組織運営のコンサルティングに携わっています。 ■商品自体が最大の魅力 国内だけでも多くのコンサルティング会社が存在します。その中でも当社の最大の強みは、「識学」という商品を扱っているという点です。とにかくこの理論は隙がなく、完璧なものなんです。確かに、世界は近年急スピードで変化しており、それに伴って多くの企業が変化を求められています。しかし、今後も人が集団として働くことに変わりません。人が2人以上集まれば必ず組織はでき、その組織の分野はスポーツチームや家庭など多岐にわたります。つまり、この「識学」というメソッドは、世の中がどれだけ変化しても不変的にあらゆる組織に活用できるのです。「識学」という商品こそが競争優位性であり、この理論を用いて実際に組織運営をしている当社自体も最強だと考えています。もちろん、当社にも大企業との関わりがまだ弱いなど、今後改善していかなければいけない点はあります。ただ、これを仕事上の苦労とは捉えていません。これはあくまでも課題であり、問題とはまた別です。課題は前を見て進んでいけば、いつか必ず打破できるものなので、私たちは苦労と認識せず、成長の伸び代と考えています。 ■トップが変わらなければいけない 組織の中で上司と部下など様々な上下関係がありますが、「識学」と出会うまでは、人は心と心で繋がらなければいけない、と思っていました。また最近では、「働きがい」や「モチベーション」のようなワードが世間的に重要視されていますよね。このように、社員一人ひとりの心理的安定性を担保することは大切なんだと、以前は当たり前のように感じていました。しかし、このように人の感情ばかりに着目していては、企業の成長はおろか感情ばかりに左右され、結果的に誰もハッピーになれません。そこで、この「識学」の理論では組織を心で動かすのではなく、仕組みで動かすことを徹底しています。このマネジメント理論によって、まずは経営者の考え方を変え、最終的に組織全体を変えていくのです。ここで重要なのは、どんな立場にいても「自分に原因があるかもしれない」と疑い、素直に受け止める姿勢です。特に経営者にはこの姿勢が必要不可欠です。当社の採用に関しても、素直で頭の回転が早い学生に、是非入社してもらいたいですね。 ■message 色々な情報があって、時には迷うこともあると思います。ただ、人間の成長というのは動いてみないと始まりません。あまり考えすぎずに「まずはやってみる」ということを大切にして欲しいです。そして自分で変更不可能なものには抗わないことです。その時間はあなた方の成長には無駄な時間だと思います。とにかく置かれた環境の中で、自分ができる精一杯の努力をしてください。 学生新聞オンライン2021年6月11日取材 慶應義塾大学2年 伊東美優

経営者

ローランド株式会社 代表取締役社長 CEO 三木純一

思い込みにとらわれず、新たな価値創造でファンをワクワクさせ続ける! ■プロフィール 代表取締役社長 CEO 三木純一 1977年ローランドに入社。1994年に取締役(開発部門担当)に就任後、電子ピアノ等の鍵盤楽器の開発を中心に、開発部門やサポート機能、マーケティング企画等の部署を複数担当。その後、クラシック・ロジェクト担当執行役員、オルガンやクラシック・キーボード開発部門担当取締役を経て、2013年より代表取締役社長CEOを務める。 電子楽器のパイオニアとして、世界中の音楽愛好家から支持されるローランド株式会社。代表の三木社長は幼少の頃よりモノ作りが大好き。その能力を活かして「0から1」生み出すゲーム・チェンジャー製品を作り出し、新しい価値を創造し続けている。 小さいころから「モノづくり」が大好きだったので、将来的にはエンジニアになりたいと思っていましたから、大学は理工学部の電子電気科に進みました。入学してからは、憧れていたオートバイの免許を取って乗り回していました。でも、ただ乗るだけではなく、好きな色に塗り替えたり、改造したりすることにもハマっていましたね。バイクで遊ぶためにいろいろなアルバイトもやりましたけど、仕事の種類にはあまりこだわっていませんでした。ごく普通の学生時代だったと思います。 ■ローランドとの出会い 就職活動をしているときに、たまたま見つけたローランドの募集広告を見て、「エンジニアが楽器を作れる」ということに衝撃を受けました。当時は名前も存在も知らない、小さなベンチャー企業だったのですが、実際に行ってみると、大学の「モノづくり同好会」のような面白そうな雰囲気だったので受けてみることにしました。実は、ほかにも何社かメーカーを受けていたのですが、採用してくれたのはローランドだけでしたね。 入社後は生産ラインでの組み立て、製品の修理、基礎開発部門でのチップ設計、サウンド・エンジニアとして音づくりを担当しました。その後、製品開発のリーダーに抜擢してもらった時は、これで念願の「モノづくり」ができると嬉しかったですね。当時の社長との面談時に、今思えば生意気にも、「やるからには自分の好きなようにやらせていただきます。」と言ったのを覚えています。最初に開発したホームピアノを皮切りに、ヒット商品を続けて出すことができたので、そのことば通りにやりたいことを自由に任せてもらえました。 ■人との信頼関係から生まれるチャンス その後、最新機能をこれでもかというくらいに詰め込んだ電子チェンバロを作ったのですが、販売店さんにも当社の営業担当にもほとんど興味を示してもらえませんでした。どうやってその製品を売るかをさんざん考えた末に、自分でバロック音楽のイベントに持ち込むことにしました。知り合いのブースに頼み込んで置かせてもらったのですが、古典音楽のマーケットでは、電子楽器を受け入れない独特の雰囲気があって、お客さんがそのブースをわざわざ避けて通るくらいにアウェーな状況でした。正直なところちょっと困っていたら、隣のブースの古楽雑誌の編集をしておられる女性が、「なんでこの電子チェンバロを作ったのですか?」と尋ねてくださったのです。製品についていろいろな想いをお伝えしているうちに、「なるほど。そういうことだったのですね」とお知り合いの方に声をかけていただき、さらに製品を紹介してくださいました。電子チェンバロは良い製品だという自信はありましたけど、良いモノだから売れるというよりは、人と人の信頼関係があって初めて売れていくということを実感しましたね。 ■お客さまからの反応を見逃さない お客さまの本当のニーズを探り当てて、それに対して具体的な提案ができるように常にアンテナを張っています。少し前に、Aerophoneという電子管楽器を作ったのですが、ある時、カスタマー・センターに、年配のお客様から「息が弱いのですが音は出ますか?」というお問い合わせをいただきました。その時に初めて、センサーの調整で弱い息でもいい音が出せることが、肺活量の低下したご年配のお客さまには大きな価値になるということに気がつきました。商品の本当の魅力は、こうした現場でのお客さまのちょっとした反応から見つけることができます。 ■世代を問わず親しまれるブランドへ ゲーム・チェンジャー商品を出すと、意図していなかった新しいマーケットが生まれることがあります。Aerophoneをインスタグラムで検索してみると、若い女性からの投稿が口コミで広がっていて、それは全く予想していなかったので驚いたのですが、日本では学校の吹奏楽部やブラスバンドのメンバーは女性が多くおられますよね。卒業とともに演奏機会が減ってしまったけど、管楽器の演奏を続けたい女性たちがAerophoneに興味を持っているということが分かりました。当社のお客さまには中年男性が多いのですが、Aerophoneでは管楽器に憧れをもつ年配の方や若い女性という、当社にとって新しいターゲット層が見えてきました。新しい製品を開発するときには、ターゲットとするお客さまに加えて、2~3倍の見えないお客さまがおられることを常に意識しています。 ■今までにない新しいものを世に送り出す これまでになかった全く新しいモノでマーケットを作り、お客さまが本当に喜んでいただいた時にやりがいを感じますね。電子楽器の開発は楽器ショーやライブ会場などで直接お客さまやミュージシャンと触れ合う機会も多く、そうしたユーザーのリアクションをダイレクトに見ることができるのはとても素晴らしいと思います。特に海外のミュージシャンは、新しいものに対して意欲的な方が多いので、新製品にはすごく興味を持ってくれて、ストレートに感謝や喜びの声を聞かせてくれるときは本当に嬉しいです。 ■自分軸で生きる人と働きたい 社員採用に関しては、以前はその方のスキル、つまり、何ができるのか、というポイントを重視していました。しかし、最近はスキルセットよりもマインドセットを見るようにしています。「自分がどうありたいのか」、「どうしたいのか」、「どう思うのか」をしっかりと考えて、自分の軸で生きていることが重要だと思います。日本人は、人目を気にしたり、他者と比較したりという傾向がありますが、自分軸で動いている人は好奇心が旺盛で、やってみればなんとかなるという自信(根拠のない場合もありますが)を持っている方が多く、成長のスピードも速いと考えています。 ■message 「学生」である期間は、大体のことは許される、言い換えればとても「護られている」時間だと思います。だからこそ、学生である期間に、思い切りリスクをとって新しいことにチャレンジして、視野を広げて欲しいと思います。思い込みに捉われず、自分軸を大切に、大胆に行動することで将来の可能性が大きく広がっていくと思います。 学生新聞オンライン2021年5月12日取材 国際基督教大学 4年 鈴木菜桜 【お詫びと補足】弊社不手際により、2021年6月2日から6月8日まで、修正前の記事を掲載しておりました。改めて2021年6月18日より、最終版の記事を掲載しなおしました。ローランド株式会社様のファンの皆様、記事を読んでいただいた方々へご迷惑をおかけして、大変申し訳ございません。今後はこのようなことがないよう、気をつけてまいります。これからも学生新聞オンラインをご愛顧の程、よろしくお願い申し上げます。

参院議員

参議院議員 吉川ゆうみ

誰もが幸せに生きられる、サステイナブルな社会を実現したい ■プロフィール 三重県桑名市生桑名市立深谷小学校、桑名市立成徳中学校、私立メリノール女子学院高等学校1997年3月 東京農業大学 農学部 国際農業開発学科 卒業2000年3月 東京農工大学 大学院 修士課程 農学研究科 修了現在、三重大学 大学院 博士課程 地域イノベーション学研究科 在籍テュフラインランドジャパン(株)、日本環境認証機構(JACO)2007年 (株)三井住友銀行2013年 参議院議員 三重県選挙区 初当選  2019年 参議院議員 三重県選挙区2期目当選2019年10月 参議院 文教科学委員長2020年10月 自民党 女性局長 高校生の時から日本が直面する環境問題に関心を持ち、「私が地球を守る!」という固い意志を抱いたというのが、政治家の吉川ゆうみ氏。そんな強い決心と共に大学時代から熱心に勉強し、政治家になってもなお、環境・エネルギー、農業など社会的課題やサステイナビリティに熱心に取り組んでいる。政治家になる前に培ってきた様々な経験をはじめ、吉川氏が政治家になるまでの道筋と今後の展望について伺った。 ■「環境問題を解決したい」の想いから、農学部へ ちょうど80年代頃、砂漠化や酸性雨などが地球全体で問題となり始めた頃で、まだ日本では、環境問題と言えば公害問題として捉えられることが多い時代でした。当時、高校生だった私は、世界で認識が拡がりつつある地球環境問題を受けて、「地球を守らなければいけない」と強く感じ、環境問題に取り組める大学を探しました。しかし、当時はインターネットも普及しておらず、大学情報誌や大学や研究室等へ問い合わせの手紙を書いたりしなければ調べることができなくて、とても大変だった記憶があります。そこで出会ったのが、東京農業大学です。まだ日本には大学で環境学部などの環境を専門に学ぶ学部はなかった時代でしたが、東京農業大学に砂漠緑化など環境問題に取り組んでいる研究室があると知り、東京農大へと進学しました。 ■自分自身の問題意識が高まった「ロイヤルプロジェクト」 サークルは他大のインカレサークルでオーケストラに参加するなど、学生生活も楽しんでいましたが、依然として環境やサステイナビリティに対する関心は変わりませんでした。1992年にリオデジャネイロで開催された国連環境開発会議が開催され、世界的にも環境問題に対する関心度は徐々に高まっていました。夏休みや春休みなどの長期休暇の際は、農業をするためにタイ山岳部のカレン族など山岳民族の村をはじめ、台湾、長野や石垣島など、国内外のどこかしらに行っていました。様々な活動を行うなかで特に力を入れていたのが「ロイヤルプロジェクト」です。当時、タイなどの山岳民族は、生計を立てるために焼き畑農業などを行っていました。焼き畑農業は本来持続可能な農法ですが、山岳民族の村にも資本経済が浸透することで、本来の生態系を守るための期間や範囲を超えて山を焼き払って農業を行っていたため、環境に大変な悪影響を及ぼしていました。また、お金を得るためにケシ栽培を行うことでアヘン中毒が蔓延するなど大きな社会問題にもなっていました。そこで、北部山岳地帯という地理的特性を生かし、タイでは高く売れる桃や柿、菊など温帯作物を栽培することで山岳民族が生計を立てられるようにとタイの王様が始めたのがロイヤルプロジェクトでした。大学の卒論のテーマにもしましたが、ロイヤルプロジェクトは、人類にとって貨幣経済や資本主義経済とは、本当の幸せとは何か、を私自身が深く考えるきっかけとなりました。この時の経験は、政治家としての現在の仕事にも大きくつながっているように思います。 ■「私たちの税金を、現実の声を反映し、正しく使ってもらう」ために国政へ 東京農大のあとも同じ思いを持って東京農工大学の修士課程に進学し、修了後はISO14001環境マネジメントシステムなどの国際基準やオーガニックなど環境配慮型農業のコンサルタントや審査、CO2排出抑制のプロジェクト、企業のCSRなどサステイナビリティの取り組みの検証などを行う審査機関を経て、金融業界でも働きました。金融機関からは、「いま、企業は環境への取組みを行わなければ生き残ることができない。それらの企業を理解して支援できる人を探している」ということで声をかけてもらい、金融を通じてサステイナビリティを実現するという新しい分野に挑戦しました。企業は環境などの取組みを行わなければ取引をしてもらえない状況となっているにも関わらず、未だ環境は「外部不経済」であり、マイナスをゼロにもっていくための物であり、なかなかプラスにして企業価値向上に繋げることができない。苦労して環境に取り組む企業を応援するため、環境やCSR、リスク管理などサステイナビリティに配慮した企業を支援する金融商品やサービスを開発し、企業支援を行ってきました。しかし、相当な数の企業支援を行ってきましたが、どんなに大企業でも、民間企業には国家予算を組むことも法律をつくることもできないことに限界を感じていました。またその頃、環境省や国交省など省庁の委員を務めてきました。省庁の人たちは予算のなかで様々な制度や仕組みを作るなど重要な役割を果たしていますが、現場で働いている訳ではなく、本当の意味で現実を肌身で感じて知る事はできない。省庁等の様々な制度創設に関わる中で、そのことに大きな違和感を覚えていました。また、サステイナビリティをボランティアやCSRとしてだけではなく、企業も経済的メリットを享受しながら本質的に進めるための「ESG投資」について、日本でも一刻も早く拡げなければならないにもかかわらず国としても理解が進んでおらず、世界から大幅に遅れていることにも大変危機感を覚えていました。そして、「現実をしっかりと分かっている人が法律をつくり、国家予算の配分をしていかなければ。そのためには国会議員にならなければならない!」と思うようになり、様々なご縁を得て、環境などサステイナビリティに取り組む企業等が企業価値を向上させ、経済的にも成長するという意味を込めて、「環境と成長」というキャッチフレーズをかかげ、女性議員としての人生をスタートさせました。 昨年の11月、菅総理が国会で所信表明演説を行い、「経済と環境の好循環」を成長戦略の柱に掲げ、グリーン社会の実現に注力する考えを表明しました。そのなかで、地球温暖化対策として2050年までに温室効果ガスの排出を「全体としてゼロにする」と話し、脱炭素社会の実現を目指すと宣言しました。積極的に温暖化対策を行うことが産業構造や経済社会の変革をもたらし、大きな成長につながるという発想の転換が必要だとの考えを示しましたが、これは、まさに私が最初の選挙の際に掲げた「環境と成長」です。私が18才の時から考えて30年近く様々な立場から取り組み、いま政治という分野の中で携わっていることが、やっと国の方針となった!という喜びがありました。実現はまだまだ先ですが、確りと取り組んで行こうと思っています。 ■サステナイビリティの世界を日本に 現在、三重大学の大学院博士課程に在籍し、地域活性化やサステイナビリティを研究しています。いま、多くの企業が環境や地域活性化、防災などリスク管理や社員の働き方などサステイナビリティを重視する時代になりつつあります。例えば、人材派遣会社のパソナが淡路島に本社を移転しましたが、これも企業の大きな変化のひとつです。今後は、東京一極集中ではなく地方の特性をいかに活かし日本全体で持続可能な形で発展していくための仕組みをどう考えていくのかが問われると考えています。この流れは、コロナ禍によって一層加速されると思います。また、いま自民党の女性局長を務めていますが、自分にとって大きな課題は、日本や地域の経済をしっかりと上向かせながらも同時に社会的弱者に寄り添った政策をとっていくことです。現在、新型コロナウイルスの影響による休業等で多くのパート・アルバイトの女性の仕事が減り、経済的に困窮に陥っている人も多く、また児童虐待や教師のわいせつ問題、不妊治療保険適用の議論も進められ、変化が求められています。コロナ禍により、社会全体が将来に不安を抱え、またこれまでの社会システムが変容している現在、少しでも不安を払拭し、未来に希望を持てるような新たな社会のあり方や可能性を示していくことが、私たち政治家の役割だと考えています。 ■前を向き、声を上げ、自分の夢の実現に向かう努力を 大学生の皆さんへメッセージとして伝えたいことは「絶対にあきらめずに、前を向いていてほしい」ということです。あとは、人生を悲観しないことです。悲観的な人は様々な機会を失います。どんな状況であっても、敢えて前向きに、長い目で見ながら続けていけば、必ず何かに繋がります。これまでの私の話を聞いて、私が恵まれた環境で来たのではないかと思われた方もいるかもしれませんが、私の身内には国会議員はいませんし、父が営んでいた事業は私が大学生の時にバブル崩壊の影響で廃業し、私は大学院も奨学金でアルバイトをしながら通い、社会人になってからは実家に仕送りをしながらギリギリの生活をしてきました。でも、夢を持つこと。前向きに取り組む事。諦めないことで、色々な人と出会い、今こうして思いを叶えています。世の中捨てたもんじゃないですよ。また、自分の可能性を自分で捨てることもいけません。「声を上げてもどうせ変わらない」という話をよく聞きますが、政治に関しても若い人が自ら声を上げなければ、自分たちの意見というのも通りません。声を大にして、でも気持ちはラクにして思い詰め過ぎず、どうか自分の夢の実現に向かって頑張って下さい。 学生新聞オンライン2021年3月8日取材 東洋学園大学1年 田澤涼夏

芸能人

西山なずな 「笑顔のもと」になるために、今日も私は挑戦する。

■プロフィール 生年月日:1999年12月29日出身地:福岡県福岡市 日本経済大学4年生趣味:歌、書道(8段)、サッカー特技:水泳、新体操、バトントワリング ~NEWS~◆21年4月~「NATURAL BEAUTY BASIC」WEB広告モデル◆21年1月 イタリア産ワイン広告◆20年ありえへん∞世界 比嘉愛未役◆20年NHKドラマ「三浦部長は本日付で女性になります」◆19年NHK これは経費で落ちません 上野圭子役 レギュラー 小学6年生で初めてランウェイを歩き芸能活動を始め、一昨年には女優としてNHKの連続ドラマ『これは経費で落ちません!』に出演した現役女子大生の西山なずなさん。芸能活動を始めたきっかけ、仕事の原動力となっていることは何か、これからの夢などについて伺った。 ■初ランウェイはいまだに忘れられません 物心ついた時から目立ちたがり屋で、「いろんな人に自分のことを知ってもらいたい。見てもらいたい」と思っていました。小さい頃から芸能活動に興味を持っていたので、小学1年生の時から情報雑誌のモデルを始めました。小学4年生の時には劇団のオーディションを受け、合格はしたものの、その頃はサッカーや水泳などほかにもたくさんやりたいことがあったため本格的な芸能活動はしていませんでした。転機が訪れたのは、6年生の時に、地元のファッションショーに出たことです。本当はこのファッションショーは、17歳以上が応募条件でした。しかし当時12歳だった私は背が高く大人びていたからか、なぜか受かってしまって(笑)。初めてのファッションショーで、周りには年の離れたお姉さんしかいない状況だったので、本番を迎えるまではとても緊張していました。そして2か月間に渡って行われた厳しい練習を乗り越えて迎えた本番、人生で初めてランウェイを歩きました。いざランウェイを歩くと、緊張はなく、「自分やファッションをいかにきれいに見せるか」ということに集中していました。終わった後は、「注目されるって気持ちいいんだ。もっとこの楽しい活動をやりたい」と強く思いました。そしてそのファッションショーの後に、当時の事務所にスカウトされ、本格的に芸能活動を始めることを決意したのです。 ■笑顔が私の原動力です!  学校生活とモデル活動の両立をしていく中で、授業に出席できなかったり、毎日放課後に3時間のレッスンがあったりと、大変なこともたくさんありました。その中で原動力となっていたのは周りの人たちの笑顔です。小さいころから「周りのみんなを笑顔にしたい!笑顔のもとになりたい!」と思っていた私は、撮影がうまくいって笑顔になったスタッフさんや、私の活躍を喜んでくれる家族や友人を見たりすると、本当にこの業界に入ってよかったなと感じます。 ■なんでもとりあえずチャレンジします!  基本的に、私はいつでも「なんでもやってみよう精神」が旺盛です。どのくらい旺盛かというと、マネージャーさんから提案されたオーディションが1週間に10~15件あったとしても、それを全部受けてしまうほどです。オーディションに落ちても、「審査員が自分の魅力に気づかなかっただけ、次のオーディションが待ってる!」とすぐに切り替えられるぐらいポジティブです。そんな私なので新しいことに挑戦する時もこわいと思うことはなく、むしろ「やってみたい!」という気持ちの方が強いです。大学進学とともに福岡から上京し、女優として新しい人生に飛び込む時も、あまりこわさはありませんでした。「新しい世界に足を踏み入れるのがこわい」という人もいると思います。しかし私は、「とりあえずやってみないと、できるかどうかすら分からない。まずは自分なりにやってみよう!それでできなかったらしょうがない!」と考えています。九州の女なので気合、根性、体力はもともと強いところがあるのかもしれません(笑)。 そうして飛び込んだ女優の世界ですが、当初はセリフの覚え方も分からず、まさに右も左も分からない状態でした。しかし今では演技することが大好きです。きっかけは、NHKの連ドラ『これは経費で落ちません!』にレギュラー出演したことです。早朝から深夜まで撮影することもあり大変なことも多かったのですが、初めてチームで仕事をすることを体感し、勉強になることばかりで、大きく成長することができました。クランクアップした後に監督に褒めてもらえた時には、「もっともっと演技をやりたい!頑張りたい!」と思うようになりました。 ■自分のやりたいことには迷わず挑戦してほしいです!  大学生のみなさんには、自分がやりたいと思うことには、何でも挑戦していってほしいです!就活や試験など大変なこともたくさんあると思いますが、やらずに後悔しないためにも、自分のやりたいことは絶対にあきらめずに挑戦してほしい。多少の失敗でいちいち落ち込まずに、自分らしく挑戦し続けてほしいです。とりあえずやってみないとできるかどうかも分かりません!私もいま大学4年生で、夢に向かって頑張っています。私の夢は、朝ドラに出演すること、戦隊シリーズに出演すること、着物のモデルをやること、たくさんのファッションショーにでてランウェイを歩くことなどなどです。あと、昔から大好きなアンパンマン関連のお仕事もいつか必ずやりたいです!みんなの「笑顔のもと」になれるように私も挑戦し続けるので、みなさんも私と一緒に夢に向かって挑戦し続けましょう! 学生新聞オンライン2021年2月8日取材 法政大学1年 鈴木悠介

濱穂乃香

小川未祐 めざすのは、自らを表現するお芝居

■プロフィール 中学生時代にプロダンサーとして活動し、高校2年時に女優としても活動を開始する。初作品は小川紗良監督の「最期の星」(主演)。その後深田晃司監督の「よこがお」山本政志監督の「脳天パラダイス」などでの存在感のある演技で話題になった。デビュー作から月日がたち、再び小川紗良監督の初長編映画「海辺の金魚」で主演に抜擢される。 中学生のころからダンサーとして活躍していたものの、高校2年生の時に女優に転身をした小川未祐さん。2021年6月25日公開予定の映画『海辺の金魚』では、主人公の少女・瀬戸口花役を演じる。「与えられたものだけではなく、自分自身が表現を作り出す存在になりたい」という思いからお芝居を始めた彼女の素顔と、今後の夢に迫る。 ■「表現したい」との想いから、女優へ転身 小さいころから習い事はたくさんしていました。バレエにピアノ、ダンスに書道や合唱。その中でも一番好きだったダンスをもっと突き詰めたいと思い、中学2年生の時にダンススクールに通い始めました。ときには学校を早退してレッスンに通う日々は大変ではありましたが、嫌だと思ったことは一度もありませんでした。アーティストのバックダンサーをしたり、ツアーで地方を飛び回ったりと、様々な経験をしていく中で、「与えられた振り付けを踊るダンサーよりも、自分で表現を作り出せるような存在になりたい」と思い、お芝居の道に進むことを決心しました。はじめのころは、台本を覚えて演技するということに慣れていないからか、とても恥ずかしかった記憶があります。ただ、次第に、「自分で表現する」ことが演技を通じてできるようになってから、恥ずかしさは消えていきました。演技はずっと自分がやりたいと思っていたことだったせいか、「女優として生きていく」と決めたときも不安はあまりなかったですね。 ■撮影中は、楽しいことより泥臭いことの方が多い 撮影の現場では監督さんやスタッフさんなど色々な人と出会い、触れ合えることも、すごく刺激的ですね。最初は作品を掴み切れていなくても、世代も性格も得意分野も違う様々な人と現場で話しているうちに、分かっていくことも多いですね。わからないことがあるときは、あれこれ考えて何も聞けずに終わるよりも、子供みたいにどんどん何でも聞いていこうと意識しています。この仕事は、「人」がいてこそ成り立っているものですしね。あと、作品を撮影している間は、楽しいことよりも、泥臭くて大変なことの方が多いと思うんです。だけど、私は身を削って、色んな人と協力して、一つの作品をつくりあげるその過程が好きですし、また、そうやって完成した作品をお客さんに届けることができたときは、本当にうれしいですね。 ■児童養護施設で育つ少女を演じた主演映画『海辺の金魚』 『海辺の金魚』では児童養護施設で育ってきた18歳の女の子・花を演じています。そんな花が、施設で過ごすことのできる最後の夏に、様々なことが降りかかってくる中で今後の人生をどう生きていくのか、どんな道を進んでいくのかを選択するため、葛藤する物語です。簡単な役でも作品でもなかったので、苦しい場面はたくさんありましたが、演じていたシーンのすべてが強く印象に残っています。私と花は育ってきた環境が違うし、性格もあまり似ていないので、彼女の感情をつかむまでが大変でしたね。撮影を行った場所は、鹿児島の阿久根市という海がとてもきれいな場所で行われたのですが、その美しい海を眺めながら、「彼女はどんな服を着て、どんなアクセサリーを身に着ける子なのか」「人生の選択に直面したときに何を思うのか」を考えたり、ノートに書き出したりもしました。花と私は違う部分が多いけれども、一人の人間として、強い意志を持って生きている姿が尊敬できますね。この物語はフィクションではありますが、ひと夏をたくましく生き抜く人々が描かれた作品になったと思っています。ぜひ、スクリーンでご覧いただきたいです。 ■人はいつ死ぬかわからない。だから、常に「自分が何をしたいか」を考える 最近は、歌を作って過ごすことが好きです。小さい頃から習っていたピアノに加えて、2年前からはギターも始めました。新型コロナウイルス感染症による自粛期間中は、たくさん練習しましたし、自分が思ったことを歌にして過ごしていました。誰かに見せるために作ったわけではないものの、作った歌に自作のPVをつけたりもしていますね。また、歌を作るようになってから、笛やピッコロなどの楽器にも興味が出てきました。あと、詩を書くことも増えました。去年撮影したドラマのオーディションの時に、監督が私の作った詩を読んで、ほめてくださって……。自分が書いた詩を見せるのはすごく恥ずかしいことだったけれど、自分が何の気ない気持ちを言葉にしたものをほめていただいたのは、とても嬉しかったです。これからも、曲や詩、写真も生み出していけるといいなと思いました。よく「今後どうなりたい?」と聞かれるんですが、そこまで具体的な目標はないんです。ただ、人はいつ死ぬのか分からない。だからこそ、「自分が何をしたいのか。どういうものを作りたいのか」を考えながら、作品をつくっていけたらいいなと思っています。 ■大切なものは、形にして残したい 最近は何でもスマートフォンで完結してしまう時代ですよね。でも、なんでもデジタルだけで完結するのは、少しさみしい気がしています。この前、父からCDを借りて音楽を聴いていた時に、「私は父が昔に聴いていた音楽を聴くことができるけれど、私は好きな音楽をデジタルで聴くことが多いから、私の子供は私が昔どんな音楽を聴いていたのか分からないのかもしれない」と気が付いて。そのとき、自分のことが形に残らないなんて、とてもさみしいなって思ったんです。今の世の中は、良くも悪くもモノに溢れていて、自分自身でも本当に好きなものが何かが分からなくなってしまいがちですよね。だからこそ、自分が本当に大切にしているものは、できる限り形に残していきたいです。そして、形に残すことで、後の世代の人々に自分が大切にしていたものを受け継いでもらえたら、とてもうれしいことだなと思います。 学生新聞オンライン2021年2月12日取材 東洋大学1年 濱穂乃香 映画『海辺の金魚』【公開日】 2021年6月25日公開   【劇場】 新宿シネマカリテ シネ・リーブル梅田 鹿児島ミッテほか    【配給】 東映ビデオ【公式ツイッター】@UmibeKingyo 【公式サイト】umibe-kingyo.com【予告】https://youtu.be/_OruL3iJItU  キャスト小川未祐花田琉愛 芹澤興人 福崎那由他 山田キヌヲ ストーリー身寄りのない子供たちが暮らす家で育った18歳の花(小川未祐)は、そこで暮らせる最後の夏を迎えていた。そこに8歳の少女・晴海(花田琉愛)が入所してくる。かつての自分を重ねた花は、晴海と過ごすうちに今までに無かった感情が芽生えてゆく。

芸能人

和田庵 コロナ禍で苦しむ人々に希望を届けたい

■プロフィール 2005年生まれ、東京都出身。8歳から芸能活動をスタートさせ、映画「ミックス。」で俳優デビュー。フジテレビ「隣の家族は青く見える」やHBOアジア「フォークロア:TATAMI」に出演し、注目を集める。その後、語学力と人間力を高めるべくカナダへと留学、2020年夏に帰国。趣味はスケートボード、俳優業の傍らスケートボードの技術も日々、邁進中。 次世代の気鋭の俳優として注目を集めるのが、15歳の和田庵。カナダへの留学後、約1年半ぶりの仕事として、石井裕也監督、尾野真千子主演の映画『茜色に焼かれる』のメインキャストに抜擢された。そんな彼の幼少期から作品への向き合い方、役者という仕事についてどう考えているのかなどを伺った。 ■生き物が好きすぎて、うどんすきのエビを持ち帰って育てた幼少期  小さい頃は、とにかく生き物が好きな子でした。うどんすきのお店が新宿にあって、家族とよくうどんを食べに行っていました。そして、小学生の頃、うどんすきの材料として、生きているクルマエビが出てきたんです。それを見て「これを家で飼いたい!」と思い、エビを皿からこっそりとって、ポケットに入れて持ち帰り、家の水槽で大切に育てていました。両親が二か月後に、僕が育てているのがクルマエビだと気がついて、「食べたい!」というのを、全力で阻止していました。(笑)そのクルマエビは、その後、半年間、僕の家の水槽の中で生きていました。 あと、テレビを見るのも好きでしたね。『ピラメキーノ』や『天才てれびくん』などといった同世代の子たちが活躍している番組を見て、「自分もテレビに出たい」とよく言っていたそうです。その様子をみて、7歳のときに、両親が育成機関のオーディションに応募してくれました。そこから、オーディションを受けるにつれ、だんだんと「俳優という仕事」に対する自覚が芽生えていったような気がします。 ■『茜色に焼かれる』の出演きっかけに、この道で生きていこうと決めた 俳優の道に進もうと決意したのは、石井裕也監督の『茜色に焼かれる』に出演してからでした。実はこの映画に出るまでにも、お芝居には関わらせていただいていたものの、自分の中では「演技をすること」に対する感覚がどこか曖昧で、作品の中の役を意識して演じられていない気がしていたんです。そこで、自分を見つめ直そうと思って、カナダへ留学しました。 『茜色に焼かれる』への出演は、カナダ留学をしていたので、約1年半ぶりの仕事でした。久しぶりの映画のお仕事にもかかわらず、メインキャストに抜擢され、プレッシャーを感じましたね。撮影が始まった最初の1週間は、かなり精神的にもきつかったです。でも、だからこそ、今まで以上に自分の中で真剣に役と向き合うことができました。この作品は、いろんな意味で自分にとって刺激的で、周囲の方々から自分が意識していないことを指摘してもらうことも多く、非常に学びのある現場でした。なかでも印象的だったのが、スタッフのみなさんの作品への向き合い方です。たとえば、石井監督は楽屋だと気さくで優しいお兄さん。僕の母親役だった尾野真千子さんは現場の雰囲気を引っ張ってくれる明るくて優しい方でした。でも、二人ともカメラが回った途端、人が変わったように作品に集中します。二人の現場での様子を見て、自分の未熟さを実感しました。この作品の中で、監督、キャスト、ヘアメイクさん、衣装さんや撮影スタッフさんみんなで一つの作品を作り上げていくなかで、「あぁ、やっぱり自分はこの仕事が好きなんだな」と強く感じました。そして、このように今まで以上に作品の中の役と向き合い、やりがいを感じたことで、「この道で生きていこう」と強く思いましたね。 ■正反対の役柄だけど、共通していたのは「負けず嫌い」な一面 僕が『茜色に焼かれる』で演じた田中純平は、僕とは性格もバックグラウンドもかけ離れているキャラクターでした。純平は家で読書をするのが好き。自分はスケボーが好き。インドア派とアウトドア派で、正反対。だからこそ、彼の境遇や経験を踏まえながら、純平がどういった少年なのかを、現場に入る直前まで、1人でじっくりと考えながら、役と向き合っていました。考えてもわからない箇所があるときは、監督に直接聞くようにしていました。純平が食卓で「母さん、やっぱり僕は解せない」というシーンがあります。子が母に不満をぶつけるこのシーンで、僕は「純平は怒っているのだ」と思いました。しかし、いざ演じてみると、怒りだけでなく、「なぜわかってくれないのか」といった悲しみを含めた複雑な感情が湧いてきました。そのとき、自分と純平が重なった気がしました。また、純平がいじめられるシーンでも、「お芝居なのに、どうしてこんな気持ちになるのか」と思うほどに役に打ち込んでいました。ただ、共通する部分もありました。たとえば、負けず嫌いな性格も似ています。自分は運動会で負けると、悔しくて泣くくらい負けず嫌いです。でも、勝っても泣きます。うれしくて(笑)。 ■今後、挑戦してみたいのはアクション  今後、俳優として挑戦してみたいのはアクションです。僕はもともと体を動かすのが好きなんです。今回僕が出演した『茜色に焼かれる』では、体を大きく動かすシーンがあったので、楽しかったのです。また、いまハマっているのは、カナダ留学中に始めたスケートボードです。あまりにもスケートボードが楽しすぎて、現在は週4日間、トレーニングを行っています。 ■コロナ禍で苦しむ人々に希望を届けたい  『茜色に焼かれる』では、コロナ禍の中でさまざまな理不尽や不幸が一組の母子に降りかかっていきます。綺麗事は決して描かれず、描かれているのはリアルな現実です。学生の皆さんの中には、コロナ禍で生きづらさを感じている方もいると思います。入学式が開催されない、学校に行けずリモート授業になっている、就職難……など、思うようにいかないことが多々あるかと思います。この映画を通して、そういった方々に少しでも頑張ろうと思ってもらえれば嬉しいですね。 学生新聞オンライン2021年4月9日取材 拓殖大学 3年 磯崎颯恵 タイトル:茜色に焼かれる 公開日:5/21(金)より全国公開 配給:フィルムランド 朝日新聞社 スターサンズ 出演尾野真千子 和田 庵 片山友希 / オダギリジョー 永瀬正敏    スタッフ監督・脚本・編集:石井裕也  『茜色に焼かれる』フィルムパートナーズ:朝日新聞社 RIKIプロジェクト 製作幹事:朝日新聞社 制作プロダクション:RIKIプロジェクト  配給:フィルムランド 朝日新聞社 スターサンズ 2021年/日本/144分/カラー/シネマスコープ/5.1ch R-15+  公式サイト:https://akaneiro-movie.com/

山本真人

出口夏希  何事にもしっかりと向き合い、新たなことへ挑戦する

■プロフィール 2018年に「ミスセブンティーン2018」に選ばれ、雑誌セブンティーン専属モデルとなる。翌年1月放送のフジテレビ ヤングシナリオ大賞ドラマ『ココア』では、ドラマ初出演で初主演を務める。その後も、ドラマ 「スイッチ」「カレーの唄。」F O Dドラマ「30禁 それは30歳未満お断りの恋。」「アンサングシンデレラ ANOTHERSTORY~新人薬剤師相原くるみ~」などに出演。そして、今期は2作品に出演中。 雑誌『Seventeen』で10代からの絶大な支持を誇る人気モデルで、現在演技でも活躍の場を広げている新進気鋭の若手女優、出口夏希さん。現在放送中の『ガールガンレディ』や『コタローは1人暮らし』にも出演。大注目の出口さんに芸能界に入るきっかけや出演中のドラマについてなどを伺った。 ■渋谷でのスカウトから、わからないことだらけの芸能界に飛び込む デビューのきっかけは、高校1年の夏に渋谷の宮益坂を友人と歩いていて、今の事務所の方に声をかけられたことです。当時は高校生活という限られた時間を精一杯楽しもうと思っていましたし、親からも反対されていたこともあって、芸能界でお仕事するなんて全く考えていなかったです。しかし、いざ事務所の方々に会ってみると、良い人ばかりだったこと。また、年が近いスタッフさんが熱心で仲良くなったこともあり、芸能活動を始めることを決心しました。 そんな形で始めた芸能のお仕事だったので、当初はわからないことばかりでした。芸能界に入るまでは自撮りすらしてなかったので、モデルのポージングや表情などもわからず、ものすごく練習しました。『Seventeen』の撮影も、初めは慣れないことばかりでしたが、編集部の方々が入りやすい雰囲気を作ってくれたり、モデルさん達も同世代の人ばかりだったので、1か月くらいで馴染むことができました。 ■ターニングポイントはドラマ『ココア』 少しずつモデルのお仕事だけではなく、女優のお仕事も頂けるようになりました。女優のお仕事をやるなんて、事務所に入ったときはまったく考えていなかったので、初めてお芝居のオーディションを受けるときは、「自分にできるわけがない」と思っていました。実際にオーディションを受けたときも、「自分には向いてない。ダメに決まっている」と思っていました。 『ココア』というドラマで初めて女優のお仕事をさせて頂きました。それ以来、お芝居のお仕事にも興味が出てきて、初めてだったので何がなんだか分からなかったのですが「もっと真剣にやってみたい」と思えるようになりました。 ■物語が進むごとに、変わっていくキャラクターに注目 現在放送中のドラマ『ガールガンレディ』は、女子高生たちがプラモデルの銃を使って戦いを繰り広げるというストーリーです。私は科学が好きで、少し変わり者だけど地頭がよい女の子・稲田秋帆を演じています。普段は淡々としてる秋帆ですが、私自身にも共通している部分もあるのかな。「素直になりたいけど感情を出すのが恥ずかしい」という所は似てるかもしれません。(笑)いつもクールな秋帆が、物語が進むにつれて、徐々に雰囲気が変わっていく様子にも注目して頂きたいです! また、秋帆自身も個性的なキャラクターですが、他の方々の演じる役も一人一人が個性豊かで、沢山の見所に溢れています。 あと、おすすめはアクションシーンです! 今作では銃撃戦などが数多く出てくるのですが、私にとってアクションシーンは初めての挑戦で、難しい部分も多かったです。ただ、今振り返ってみると本当に楽しい撮影でした。作品自体の見どころでもあるのでアクションシーンもぜひ注目して見ていただきたいです。 ■幼稚園の先生を演じてみて もう1作、私が出演しているのは、現在放映中のドラマ『コタローは1人暮らし』という作品です。今回、コタローが通う幼稚園の先生である二葉透子役を演じさせていただいています。出演のお話をいただいたとき、「まさか自分が社会人の役だなんて!」と驚きました。(笑)これまでは、自分の実年齢とほぼ変わらないような等身大の役を演じる機会が多かったので、「幼稚園の先生」と聞いて、驚いたのと同時に「大丈夫かな……」と不安になりました。 もちろん私には先生の経験もないし、幼稚園の記憶も残っていないので、役作りのために動画などを見て、幼稚園の雰囲気を思い出したりしました。他にも姪っ子に「幼稚園の先生ってどんな存在だった?」といろいろ質問したりして、イメージを膨らませていました。 ■恋愛ドラマのヒロインを演じてみたい いますぐに具体的にやってみたい役というのはまだありません。いまは目の前にあるお仕事を一生懸命やって、いろんな経験をしていきたいなと思っています。まだまだわからない事が沢山ありますが、精いっぱいやっていきたいです。ファンの方々も応援してくださってますし!でも、私自身が恋愛ドラマを見るのが好きなのでいつか恋愛ドラマや映画のヒロインを演じてみたいなって思います!プライベートでは、逆に趣味がないので、自分が夢中になれる趣味を見つけるのが目標です(笑)。この前、マネージャーさんと釣りの話で盛り上がったので、ぜひ釣りに挑戦してみたいなと思っています。 ■ダメだと思ったものでもやってみないと分からない! 自分の今までを振り返ってみると、挑戦することと、しっかり向き合うことが大切だなって思いました。何かチャンスがあっても、「行動にうつすのがめんどうくさいからいいや」と思う事もあるけど、とにかく行動にうつさないと何も変わらないからまずやってみることが大事だと思います。私はお芝居をやった事がなかったので初めてのドラマのオーディションの時も、最初は私自身も「ダメだ」「これは落ちたな」と思っていましたが、挑戦してみたことでそこから女優というお仕事に興味を持つようになりました。『Seventeen』のオーディションも同じで、やってみないとわからないことがたくさんあったな、と思います。まずは、挑戦することを大切にして欲しいと思います! 学生新聞オンライン2021年4月16日取材  明治大学 3年 山本真人 テレビ朝日オシドラサタデー『コタローは1人暮らし』 (毎週土曜よる11時30分~)のスピンオフドラマ「花輪せんせいは半人前⁉」(5月22日ドラマ本編放送終了後からTELASAにて配信)にも出演。 MBS/TBSドラマイズム『ガールガンレディ』 MBS:毎週火曜深夜0時59分~ TBS:毎週火曜深夜1時28分~

参院議員

参議院議員 今井絵理子

障がい者との健常者の垣根を超え、共に交流し暮らしていく社会へ ■プロフィール 八雲学園高校卒業。平成8年、SPEEDのメンバーとしてデビュー。平成12年、SPEED 解散後、ソロとして活動開始。平成16年、長男を出産。平成20年、息子の聴覚障がいを公表。NHK「みんなの手話」の司会を歴任し、講演・執筆などを行いながら幅広く活動を展開。平成28年、第24回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国比例区より立候補し、初当選。 人気グループ・SPEEDのボーカルから政治家に転身した今井絵理子氏。歴史上はじめて手話を含めた代表質問を行った政治家だ。自身も聴覚障がいを持つ子どもの母親であり、障がい者やその家族の代表者として、障がい者と健常者との壁を取り払うべく最前線で活動している。今井氏が政治家になるまでの経緯や今後の展望について、その詳細を伺った。 ■人気グループのメンバーとして駆け抜けた10代 12歳のころからSPEEDのメンバーとして活動していたので、一般的な学生生活を送ることはできませんでした。本当に忙しく、振り返ってもあまり記憶にないほど駆け抜けた日々でした。でも、当時の夢であった歌とダンスに趣味の延長線上として取り組むことができていたので、充実したお仕事でしたね。10代半ばで親元を離れて生活していたことからホームシックになることもありましたが、活動を通して海外に行くこともあり、若い頃から貴重な経験ができていたと感じています。 ■障がい者家族の声を実現するため政治家に 21歳で出産を経験したのですが、子どもに聴覚障がいがあったことから障がいについて学び始め、同じ境遇の親御さん方や子どもたちのためになることはないかと考え始めました。そこでSPEEDの音楽活動の傍ら、特別支援学校や養護施設にてボランティアで歌を届けるようになりました。その活動の中、現参議院議長である山東昭子さんと出会い、声を掛けていただいたことをきっかけに政治の道を選択することに。実はお声がけいただいた当時は、子育てと音楽活動が中心でしたので政治に関心があるほうではありませんでした。ですが、今振り返ると、ボランティア活動を通して、最終的には政治家になる道だったのかなと感じています。歌を届ける活動の中で、同じ境遇のお母さんたちや障がい当事者と出会い、直接様々な意見を聞いてきました。しかしそれらの問題を共有しても一人のアーティストとしての意見でしかなく、世の中を変える仕組みづくりをするには、政治家になるしかないと思い、決意しました。 ■多くの人が障がいについて考える社会を作りたい 議員としての柱は、障がい者施策です。日本の障がい者施策は先進的である一方で、手話など情報保障の面では、まだまだ不足しているのが現状です。例えば、防災無線は聴覚障がいの方には届かないため、東日本大震災の時には、多くの聴覚障がい者の方が被害に遭われました。安全な街づくりの実現のためにも、障がい者の方々の声を政策に取り入れていかないといけません。当たり前ですが、政治活動は一人で実現できることはなく、法律や政策を作るためには多くの議員の賛同を得る必要があります。時間が掛かって大変なことではありますが、やりがいや充実感を感じています。障害者差別解消法ができて、もうすぐで8年が経ちますが、障がい者に対してわからないがゆえの無意識な差別的対応をしている可能性もあると思います。SNSのツールや多くの人と直接、あるいはメディアを通じて触れ合うことで、障がいについて考え始めるきっかけになればと思います。 ■国会史上初となった「手話」での決算質疑 大きな一歩としては、130年にわたる国会史上初の取り組みとして、私が本会議の代表質問に立った際、手話を併用した決算質疑をしたことです。そして、令和3年からは参議院の本会議中継の一部で、手話通訳が配置されることになりました。まだ委員会などには、手話通訳士や字幕などの情報保障がない状況なので、そんな現状を改善し、誰にとっても平等に情報が行き渡る世の中にしていきたいです。内閣府大臣財務官時代には、男女共同参画について取り組んでいました。幅広い方々と意見交換する中で、女性のキャリア形成についての難しい現状も把握しています。しかし私は、女性活躍社会という名目ではなく、個人が性別や障がい、年齢に関係なく、その人らしく輝き、生きていけるような多様な選択肢がある世の中を作ることが重要だと感じています。 ■無意識的な差別を取り払うため共に学ぶ場を 無意識に障がい者を差別してしまう風潮を減らすためには、教育面での変化も大切です。幼いころから障がいの有無にかかわらずに学びの場や楽しく交流する場を提供していくことで、健常者と障がい者の垣根を取り払っていきたいです。たとえば、特別支援学校だけではなく自分の住んでいる地域の学校で教育を受けたいという声もあります。現状はまだみなさんが納得していただける支援体制が整っていません。柔軟に対応できる教育システムを構築していきたいと思います。また、障がい者本人や家族が安心して暮らすためには、雇用されるだけではなく、自ら起業していくなどというチャレンジできる環境を整えることが大切だと思います。今後も、社会が生み出す障がいという壁を取り除くべく、働きかけていきたいです。障がいの壁を取り払う取り組みの一つとして、デフリンピック誘致活動があります。活動の目的は二点あります。一点目はスポーツを通して健常者も障がい者も垣根を取り払うこと。二点目は、スポーツを通して障がい者やその家族に体を動かす楽しみを知ってもらう機会を提供していきたいです。 ■自分の目で見て、体験する機会を増やしてほしい 多くのことにチャレンジし、恐れずに一歩進んで取り組んでほしいです。大人になると何かと自分に制限をしてしまいがちなので、大学生の時間を有意義に様々なことにチャレンジして欲しいです。壁にぶつかることもありますが、壁は自分自身を成長させるものと捉えること。それが、物事に取り組む際の心構えとして大事になっていくと思います。また、情報社会だからこそ、多くの情報を収集できるため、体験していなくても知識が増えていきますが、現場に行き、自らの目で見て、聞いて心で感じる「体験」をたくさんしてください。また、もし周囲に障がいのある方がいたら、ぜひコミュニケーションをとってみてください。「何か困っていることはありますか」「どのような対応がいいですか」と素直に聞くことも大事です。わからないままにするのではなく、進んで心を開いて、少しでも理解することで、障がい者に対する無意識な差別も減少していくのではないでしょうか。 学生新聞オンライン2021年3月17日取材 横浜市立大学 3年 小熊結菜

衆院議員

自由民主党 幹事長代行 衆議院議員 野田聖子

100%の正義はない。だからこそ「選択」できる社会を作りたい ■プロフィール 1960年生まれ。上智大学卒業。帝国ホテルに入社。その後、岐阜県議会議員を経て衆議院議員当選9回。郵政大臣、総務大臣などを経て、2020年9月から現職。 自民党の国会議員として、女性の社会進出に大きな影響を与えている野田聖子さん。これまで、長年に渡って、女性の地位向上や、外国人、障害者などのマイノリティのマジョリティ化に向けて、第一線で活躍されている野田さんが歩んできた政治家としての道のりや、ご自身が考える今後の日本社会のあるべき姿について迫りました。 ■人生で一番勉強した大学時代と苦労した就職活動 私は高校時代にアメリカへの留学経験を経て、上智大学外国語学部比較文化学科に推薦入試で合格しました。当時、比較文化学科は四ツ谷ではなく市ヶ谷にキャンパスがあり、留学生や帰国子女など、多様な学生の集まっている学部として知られていました。留学生たちはとても勉強熱心で、私もそれに感化され、人生で一番勉強をした時期であったと思っています。また学業と並行して、サークル活動として小学校低学年から大好きであったスキーを続け、充実した大学生活を送っていました。そして、いよいよ就職活動の時期を迎え、応募したエアラインからは内定をもらうことができませんでした。振り返ると、当時の私には特に希望職種がなく、友達と一緒にいろいろな職種の試験を受けてみるといった状態。帝国ホテルもその中の一つでした。三次募集で狭き門でしたが、英語を話せることに魅力を感じてくださって、やっと内定を掴むことができたのです。 ■女性幹部として採用された帝国ホテルでの、厳しい研修の日々 当時、大卒の女性社員は珍しく、幹部候補として採用されました。入社後すぐに研修を行い、私は客室係として現場に出ることになりました。ホテルでの華やかな仕事を想像していた私は、客室掃除が仕事だと知ったとき、とてもがっかりしたことを覚えています。しかも任されたのはバスルームの掃除。手袋もない時代でしたから素手でトイレ掃除をしたり、四つん這いになって、床に落ちている髪の毛を一本一本拾ったりと、家でもそんなふうに掃除をしたことがありませんでしたから、本当に辛い業務でした。その後、暫くしてレストラン部の業務へ移ることができましたが、そこで出会った先輩の指導が厳しく苦労しました。最終的にはその先輩と仲良くなることができましたが(笑)。そのほかにもお客様にコーヒーをかけてしまったり、目玉焼きを落としてしまったりと、何度も失敗を重ね、仕事を辞めたくなる時もありましたが、「すぐにやめたらかっこ悪い!」と自分を鼓舞して何とか続けました。今思えばこのような経験をしたからこそ、困難に直面しても、きっと何とかなると前向きに考えられるようになったのだと感じています。 ■祖父からの「しごかれて来い」の一声で、国会議員の道へ 帝国ホテルでは、女性初の国際セールス営業を任されるまでになり、充実した日々を過ごしていました。そんな折、政治家であった祖父を支えていた後援会の方々から、突然「選挙に出馬してみないか」と連絡があったのです。急なことで戸惑いましたが、その後援会の方たちは保守的な岐阜を変えたいと考えていて、「君しかいない」という言葉に背中を押され県議会議員選挙に出馬し当選、26歳で政治の世界へ足を踏み入れることとなりました。地元の方々に支えてもらいながら県議会議員として日々を過ごすうち、「もっと岐阜を、日本を良くしたい。」「皆の要望を実現させたい」と考えるようになりました。祖父からも「政治を極めるなら国会議員になって、しごかれて来い」と後押しされ、32歳で衆議院議員に初当選し、国会議員となったのです。 ■国会議員の仕事とは 私が国会議員となった時、自民党の衆議院議員で女性は私一人でした。ある日、女性の国会議員にどうしても話を聞いて欲しいと、ある1人の女性が訪ねて来ました。話を聞いてみると「日本の富裕層の男性の中に、海外で性的暴力をしている人がいる。何とかしてほしい」という相談でした。カンボジアなど東南アジアの国で幼い女の子を安いお金で買い、性的暴力をしている男性たちがいるというのです。当時の日本は性的暴力の取締りが進んでおらず、海外からも「児童ポルノ大国」などと呼ばれてしまうような時代で、このような犯罪を裁く法律がなかった日本に、私は酷く失望したことを今でもよく覚えています。そして、顔も知らない海外の女の子たちを、何とか助けようと懸命に働きかけているその女性の行動力に突き動かされ、「国会議員である自分が法律を作って、この国を変えないといけない」と強く思いました。私も実際に日本人男性が性犯罪をしていると思われる現地に赴き、聞き込み調査などを行って実態を顕にし、7年かけて海外での性犯罪も取り締まる法律(「児童買春、児童ポルノ禁止法」)を作り上げました。このように「国民の声、多様な考えや想いに耳を傾け、それを実現するために法律をつくる」これが国会議員の仕事なのです。 ■社会のマイノリティをマジョリティにしたい 今後の展望のひとつは、初当選の頃から呼びかけている「選択的夫婦別性」の法律を成立させることです。選択的夫婦別性は多様な国作りに欠かせないものであると思っています。多様性を認め、受け入れることは、寛容な社会を作るために大切なことです。自分の正義と他人の正義、正義は人それぞれ異なる。100%の正義、100%の完璧はないからこそ、選択できる社会を作っていく必要があるのです。また、社会のマイノリティをマジョリティにしていきたいと思っています。外国人や女性、障害者などのマイノリティの生きにくさに目を向け、多様な個性を持った人たちが、この国で暮らしやすく、そして大いに活躍してもらう。それを当たり前にしていきたいのです。例えば今は「政治=男性が行うもの」という印象が強く根付いてしまっていますが、私はこのような古い固定観念を打破したいと思っています。女性の職業選択の中に、当たり前に政治家が入る時代の到来を望んでいるのです。 ■人に接するときは、自分の偏差値は0だと思うこと 私は推薦入試で大学に入学したため、自分の「偏差値」というものを知りません。日本では偏差値を物差しとして比べ合い、卑下したり、優越感を抱いたりしますよね。しかし実際には、偏差値はその人自身を測るものさしになりはしません。私たちは、自分自身の目でその人を見つめ、動物的感覚でその人となりを見極めるべきでしょう。私は自分の偏差値を知らないことで、何の先入観も持たず、平等に人を見極めることができているのではないかと思っています。だから皆さんも、自分の偏差値は0だと思って、人に接してみてください。その人の本質が見えてくるのではないでしょうか。 学生新聞オンライン2021年3月12日取材 津田塾大学1年 佐藤心咲

参院議員

自民党 参議院議員 水落敏栄

恒久平和な社会の構築を目指して~戦争の風化を防ぎ、平和の尊さを継承する使命を胸に~ ■プロフィール 昭和18年新潟県十日町市生まれ。戦没者の遺児。新潟商高卒、福島県いわき市の常磐興産㈱勤務。昭和46年(財)日本遺族会奉職。事務局長、専務理事を経て、平成16年参院選挙に遺族代表として出馬、初当選、現在3期目。文部科学大臣政務官、文部科学副大臣、参院文教科学委員長を歴任。現在、参議院議院運営委員長、(一財)日本遺族会会長、靖国神社総代。 戦時中に生まれ、二歳半で父を戦争で亡くし、その後、戦没者遺族として厳しい戦後の復興期を体験したという自民党の水落敏栄参議院議員。幼少期の過酷な経験から日本遺族会へ奉職、政界へ入るきっかけに迫りました。水落議員が目標に掲げる「恒久平和な社会の構築」に必要なこととは? ■ありふれた幸せを奪った戦争 私は新潟県の豪雪地帯で育ちました。両親と兄、姉との五人家族、所謂三反百姓で、決して裕福ではありませんでしたが、幸せな日々を過ごしていました。しかし、戦局の悪化に伴い父は赤紙一枚で召集され、神町海軍航空隊(現山形空港)に飛行整備士として配属され、終戦のわずか6日前となる昭和20年(1945年)8月9日、爆撃を受け、戦死しました。それからの日々は、筆舌に尽くしがたい過酷なものでした。一家の大黒柱を失った我が家では、母は夜明け前から農作業をし、日中は土木作業の手伝いをして、夜は内職をし、馬車馬のように働きづめで、何とか生計を立てていました。しかし、それでも家計は苦しく、年の離れた兄、姉は、中学卒業後、働きに出ました。こうした幼少期の悲しい思い出として今でも思い出すのが、白米にまつわるものです。私の故郷は魚沼産こしひかりの産地であり、我が家の田んぼでは20俵のお米が取れました。しかし、そのお米は貴重な現金収入源として売っていたため、我が家で白いご飯が食べられるのは週に一度程度、普段は精米時に出る残りカスで作ったまずい団子を食べており、父のいない寂しさも加わって惨めな気持ちになりました。そのため私は白いご飯が食べられる日を、よくご近所中に自慢していたと今でも笑われます。 ■家族や周囲の方々に支えられて日本遺族会へ奉職 苦しい生活の中で、「早く働いて、母を助けたい」と強く思うようになりました。そのため中学卒業後すぐに働くつもりでいた私は、「これからは教育が大切になる。高校は出たほうがいい」と兄に諭され、商業高校への進学を決めました。家族は必死に働いて、援助してくれましたが、それだけでは足りるはずもなく、自身も働きながら、学校へ通いました。とにかく母を楽にするため良い就職先をみつけたい一心で、仕事と勉学に励み、青春を謳歌した記憶はありません。そして、いよいよ就職の時期となりました。戦後好景気で中高生が「金の卵」ともてはやされた時代、まわりがどんどん決まる中で、私だけ決まらないことを不審に思い先生に問うと、「片親」が理由と分かりました。今なら考えられない話ですが、両親が揃っていない家庭の子は信用が置けないから採用できない、そんな時代でした。お国のためと国の命令で戦地に送られた父を戦争で亡くした私に、世間は白い目を向けたのです。あの時の悔しさ、虚しさ、憤りは、今でも忘れられません。絶望していた私に、地元遺族会の役員の方が、日本遺族会が運営する九段会館で戦没者遺児を対象とした職員の募集を教えてくださり、藁にも縋る思いで試験を受け、合格した時は、家族で泣いて喜びました。九段会館は、結婚式場や宿泊、宴会場を運営しており、第一次ベビーブーム世代が結婚適齢期を迎え、当時は年間約2400組の結婚式が行われており、まさに目の回る忙しさでした。それでも、戦争で父を亡くしたという同じ境遇の仲間と働けたこと、何より働くことで苦労を掛けた母に仕送りができるようになったことがうれしく、無我夢中で働きました。 ■「二度と戦争を繰り返さない」遺族の声を届けるために国政へ 九段会館での勤務を経て、日本遺族会事務局へ配属されました。遺族会事務局時代、最も忘れられないのは、戦没者の遺骨収集です。中でも昭和49年(1974年)サイパン島での記憶は今でも脳裏に焼き付いています。サイパン島は珊瑚の島で、水はけがよい為、ヤシの木の根元や、洞窟、海辺などに、ほぼそのままの姿のご遺骨が終戦から30年近く放置されていました。「戦没者は犬死なのか。」おびただしい量のご遺骨を前に、悲しみは憤りに変わりました。海外の旧戦域での遺骨収集は昭和27年(1952年)から開始されましたが、本格化したのは昭和48年。それでも、遅々として進まぬ状況に、最早、政治力で解決するしかないというのが結論でした。日本遺族会は、結成当時から遺族の声を国政に届けるため、国会に代表を送っていました。平成16年参院選への出馬打診があったのは、私が専務理事を務めていた頃でした。私は固辞しましたが、当時副会長であり、私の政治の師である元衆議院議員古賀誠先生に、事務局で遺族の声を一番身近で聞いてきた君なら間違いないと説得され、参院選(比例代表)に出馬、全国の遺族の皆さんの温かいご支援により、当選を果たすことができました。当選直後、戦後60年を迎え、高齢化する遺族が元気なうちに、ご遺骨を祖国へお迎えすべく「遺骨収集を国の責務」とした議員立法を取り纏め、成立させました。しかし、海外で亡くなった戦没者240万人のうち、未だ112万人余りのご遺骨が海外でそのままになっています。一日も早く、一柱でも多くのご遺骨を日本にお迎えするため、これからも遺骨収集に尽力してまいります。 ■310万人の戦没者の御霊に報いるために 私はたくさんの方々に支えられて今日まで歩むことができました。しかし、人生の節目節目に頭をよぎったのは「父がいてくれたら」という想いです。戦後、我が国は焼け野原となり、戦没者遺族はもとより、国民皆が貧困や飢餓で苦しみました。そうした中で、わが国の安寧と家族の幸せを願い戦没された310万人の尊い命が繋いでくださった社会を守るために、生き残った人々が必死で働いた結果、今日の平和で豊かな社会を築くことができたのです。しかし、戦後75年余りが経過し、国民の9割が戦後生まれとなり、戦争は風化されつつあります。先の戦争で犠牲となられた310万人の方々の多くが、10代、20代の若者で、学生も含まれています。その一人一人に叶えたい夢や希望があったことは言うに及びません。だからこそ、戦争の悲惨さ平和の尊さを身をもって体験した戦没者遺族が、「二度と戦争を繰り返してはいけない」と後世に伝え続け、恒久平和な世界の構築に寄与することは社会的責務であり、その声を国政に届けるのが、私の使命であり、願いです。 ■国民の信託に応える政治を コロナ禍における学生生活、ご苦労や不安が絶えないと思います。大学1年生は、入学をしても先生や友達と会うこともできず、オンライン授業と向き合い、2、3年生は急激な社会変化に振り回され、4年生は就職活動もままならない状況に胸が締め付けられていると思います。未知のウィルスに対峙するため、政府も医療界、経済界等様々な専門家の意見を集約し慎重に決断せざるを得ず、迅速性に欠ける印象を与えています。加えて国会議員の不用意な言動には忸怩たる思いです。だからこそ、国会議員の一人として学生のみなさんに心からお詫びを申し上げたいのです。医療従事者の方々、国民の皆さんのご努力のおかげで、日本は感染者数、死亡数とも海外に比べ低く抑えられていますが、変異ウィルスの拡大など予断を許しません。皆さんの献身に報いるためにも、国民の信託に応える政治を第一に、「命とくらし」を守るため、きめ細かな対策、支援を続けてまいります。このような状況下で、学生のみなさんが戦没者遺児である私の体験に触れることで、当たり前と思われる平和な社会の尊さを考え、家族をはじめ周囲の方々との出会いに感謝し、与えられた時間を大切に、何事にも前向きに挑んで欲しいと願ってやみません。 学生新聞オンライン2021年2月15日取材 津田塾大学1年 佐藤心咲

参院議員

参議院議員 立憲民主党幹事長代理 青木愛

議員バッチの重みをこの胸に。政治家とは、国民の希望を叶える仕事である ■プロフィール 昭和40年8月18日 東京都生まれ昭和59年 千葉県立安房高等学校卒昭和63年 千葉大学教育学部卒      テレビ番組リポーター、音楽活動を経て平成11年 千葉大学大学院教育学研究科研究生平成12年 保育士、社会福祉法人理事平成15年 第43回衆議院選挙初当選      以来、衆議院3期 参議院2期令和元年  東日本大震災復興特別委員会委員長  多様な才能を持ち、音楽経験からリポーター経験を経て参議院議員となった青木愛さん。そんな青木愛さんから、「学生の声をもっと政治に反映させたい」という強い想いや、音楽が大好きだったご自身の学生時代。そして政治家として活躍する現在に繋がる出会いと挑戦をお伺いしました。 ■CDデビューも果たした、音楽漬けの大学時代 私は大学生になると同時に、船橋にある家賃26000円の風呂無しアパートで、初めての一人暮らしを始めました。不安も多くありましたが、それ以上に希望を持って新生活を始めたのです。私の実家が保育所をやっていたこともあり、千葉大学の教育学部では幼児教育を専攻していました。音楽が好きであった私は、教育の勉強をしながら音楽サークルに加入し、バンド活動も始めました。幼児教育では音楽の授業も必要であったため、授業でも、サークル活動でも、音楽とは深い関わりがあるものになっていました。そのため、私の大学生活は常に音楽と共にあったのです。また、高校時代にX JAPANのTOSHIとYOSHIKIが同級生であったこともあり、2人の活動を応援する中でも音楽と関わりを持っていました。応援するだけでなく、自らもボーカルとしてレコードを出したりもしていましたね。音楽とは切っても切り離せないものでした。大好きな音楽をとことんやり抜くことができた、大学時代を送ったのです。 ■情報番組のレポーターから、政治家への転身 大学卒業後は音楽の道に進み、レコード会社の東芝MIに入りました。その後、私の作った歌がテレビ朝日の『トゥナイト』のテーマソングに使われたことがきっかけとなり、情報番組のレポーターとして5~6年程活動していました。レポーターは時代の最先端を見る仕事であり、先を見据えて視野を広げることを学びました。そして、バブルが崩壊した後、「音楽と教育の勉強をもう一度やり直したい」と思い、大学院に入り直したのです。当時は人生の先が見えず、焦りもあったのでしょう。そんな中でも自分の生きがいを見出していこうと、当時自由党の小沢先生のところに飛び込みました。親が町会議員、叔父が区議会議員であったため、選挙や政治は自分にとって遠い話ではなかったため、思い切って政界に足を踏み入れたのです。最初に入ろうと思っていた『小沢塾』には年齢制限で入ることができなかったのですが、そのことがきっかけで、田中角栄さんの『青年研修会』などからお声がけいただきました。どうしようか迷っていた折に、青年研修会の方々から、「千葉県参院選補欠選挙に出てみないか」と提案をいただいたものの、自分にそこまでは自信がなく、お断りしました。しかし、その数年後、「2003年の衆議院選挙に出てみないか」とお声掛けいただいた時は、「今度こそやってみよう」と思い、出馬を決心しました。そして、周りの人に引っ張っていただいた末、政界への扉を開くことができたのです。 ■生きるために必要なものは、みんなに平等であるべき 議員の大切な仕事の一つに「決議」が挙げられます。反対した決議は、印象に残っているものが多いですね。まず一つ目は、リニア新幹線開通の決議です。水の問題、道路の陥没の危険性があるため、私は開通には反対でした。また、リニア新幹線は南アルプスに穴を開けて開通させる必要があるため、自然破壊に繋がります。そして、そのような長いトンネルを通れば大きな事故が起切る可能性もあるからです。また、水の民営化についての決議に対しても、私は反対していました。何故なら、水は命の綱であるからです。人の命に直接的に影響を及ぼすものは、必ず国営であるべきだと私は思います。生きるために必要なものは、みんなに平等であるべきです。そして、それらは公的な機関で運営されることが望ましいでしょう。 ■国民の要望があれば実現するのが、国会議員の仕事 議員をしていて一番嬉しいことは、何と言っても国民や地元の人たちから「良かったね」と言われることですね。時には厳しい意見もありますが、それでも頑張ることができているのは、議員バッチをつけている以上「任期を満了しなければならない」という責任感が根幹にあるからかもしれません。地元の方々に想いを馳せ、まさに『ふるさとを』の歌詞にもあるように、「こころざしを果たして、いつの日にか帰らん」というような気持ちで、日々職務を全うしています。選挙で国民に選んでいただいたからには、何としても国民のために全力で政治を行う義務があると思っています。そのために、まずは目の前の問題を解決しなければならないでしょう。いま目の前にある問題は、新型コロナウイルスの脅威ですね。「国民の要望があればそれを実現する」。それが国会議員の仕事なんですから。 ■コロナ禍であっても時間を大切に過ごしてほしい 今の学生さんたちは、コロナ禍という誰もが経験したことのない大学生活を送らなければならない状況下にあり、辛いことも多いと思います。しかし、このような事態であっても、時間は過ぎていってしまいます。このコロナ禍を活かすということはなかなか難しいかもしれませんが、時間を大切に、自分のやりたいことを、思いきりやってみてください。周りを気にする必要はありません。自分の心のままに好きなことに挑戦していってくださいね。私たち議員も、学生さんたちの声に耳を傾け、改善策を考えていく所存です。 学生新聞オンライン 2021年3月4日取材 津田塾大学1年 佐藤心咲

参院議員

参議院議員 塩村あやか

与党を動そう。野党だからできる事がある ■プロフィール 1978年7月広島県で被爆2世として生まれる。共立女子短期大学卒業。放送作家(オフィス・トゥー・ワン所属)として「シューイチ」「24時間テレビ」などを担当。動物ボランティア活動等を経て、2013年世田谷区より東京都議会議員選挙に初当選。2017年衆議院議員総選挙に出馬し惜敗の後、2019年参議院選挙にて東京都選挙区で初当選。 様々な仕事をしていく中で見えてきた社会問題。自身のライフワークでもある動物愛護。様々な社会問題に目を向け積極的に行動している塩村あやか氏。これまでの取り組みに加えて、1人の女性政治家として世の中をどう動かしていくのか。今後の展望についても伺った。 ■「女性の働き方」を意識した放送作家時代 大学時代は仕送りがなかったため、奨学金と稼いだお金のみでの生活をしなければいけなかった。本当にお金を稼がなければ暮らしていけなかったので、バイト尽くしの学生時代を送りましたね。学校に行って、その後生活をしていくためのお金を稼ぐためにアルバイトをする。その往復の学生時代でした。友達と遊びに行ったのは、1回ぐらいしかないですね。 大学卒業後は、就職はせず、非正規でモデルやタレント業をしながら、アルバイトをしていました。いわゆる「就職氷河期」でした。その後は、海外にも行ったりしましたね。20代後半には『恋のから騒ぎ』という番組に出演していました。その時に、番組スタッフである放送作家に興味を持ち、その番組に出演しながら、女性放送作家講座に通いだしました。それをきっかけに、放送作家として仕事をスタートしました。しかしながら、放送作家の仕事は、非正規なのでボーナスもないし、休みもない。産休や育休がない。仕事自体は奇跡的に軌道にのりましたが、30歳を超えて周りを見渡すと、女性は作家講座の仲間を含めて殆ど残っていませんでした。それも当然のことで、待機児童問題が酷い時期で、不安定な非正規だとポイントが足りず、保育所に入れず子どもは自分でみることになる。安定した会社員の夫婦の方がポイントが高く優先的に保育所に入れる時代でした。放送作家はフリーランスですから、休んだ瞬間に収入は0になる。非正規産休もない時代で、育休も然りです。その時、自分自身に対する将来が不安になるのと同時に、「これはどういうことなのか。女性の働き方をどうにかしなければ」と考えました。「女性の社会進出が必要だ」といいながら、安定した家庭のお子さんは保育園に入ることができるのに、非正規の女性がいる家庭は保育園に子供を預けにくい。その現状をなんとかしたいと私は思いました。そこで、この問題に真っ向から取り組むために、政治スクールに通い、2013年の東京都議選に出馬したのです。 ■放送作家時代から力を入れていた動物愛護 政治家になる前携わった『今日のわんこ』という番組では、リサーチの仕事をしていました。個人的にも、関東圏の保健所に入った猫の里親探しをして、里親に猫を渡す動物愛護の活動を続けていました。また、いまだに記憶に残るのが、東日本大震災です。当時、放送作家としてラジオの仕事もしていたのですが、番組で応募してもらった犬のことが心配で、連絡を取ったりもしました。当時、動物愛護団体にも入っていたのですが、被災地から寄せられる連絡は悲惨なものが多かったです。さらに、その後、原発による警戒区域として封鎖された福島に行き、犬の保護活動でのボランティアもしました。以降も、私はずっと動物愛護について発信を続けていきました。特に私も保護猫と暮らし、家族同然でしたので、災害時のペット同行避難についても発信をしていきました。 政治家になった後、直面したのが、劣悪なペットショップで10年以上動物が放置されていたという事件です。どうにかしたいと思ったのですが、こうした事例は全国でもでも初めてとのことで、日本初の行政処分が下されるまで60回以上の指導を重ね、期間としては1年間くらいかかりました。なぜ、こんなに時間がかかるのかというと、動物愛護法には、飼育環境の劣悪さや飼養施設面積に対して、法的な数値がないから、行政の介入しづらいのだということに気が付きました。数値規制がない中、日本初の行政処分を下させた実績を買われ、当時都議会議員だった私は超党派の国会議員で構成される動物愛護議連のアドバイザリーボードに任命され、2019年に改正された「数値規制」の実質的担当として何度も環境省と対峙をすることになりました。無事に法改正が成立し、2021年、ようやく、飼育環境に関する数値を決めることができました。 ■今後求められるのは、不妊治療への法整備 今、生まれている新生児のうち、16人に1人が不妊治療で生まれています。それだけ多くの子どもが不妊治療によって生まれているにもかかわらず、長い間、議論が後ろ向きで、ちっとも整備が進んでいませんでした。多くの人は、不妊治療を経て、精神的、肉体的、経済的な負担に苦しんでいるのに、それを表向きには出していません。現在、税金がいかに無駄に使われているかを考えると、こうした不妊治療に苦しんでいる女性に向けた補助の引き上げや保険適用に使うべきだと私は考え、当選後早速党内で不妊治療のワーキングチーム(WT)の設立を党幹部に直談判に行きました。紆余曲折あったものの、国会の中でいち早くWTができ、衆参の本会議で「不妊治療の保険適用か、同等の補助の拡大」を訴え、この動きをメディアも大きく取り上げました。 そうなると、与党の中にも同じ考えの人達もいて、動くんです。結果として来年度には、不妊治療の保険適用がスタートする予定です。メディアはこうした動きは報じませんが、これが政治であり、野党や女性議員が必要な大きな理由です。 費用面はクリアになったものの、卵子提供や精子提供などの高度生殖医療では、「遺伝子上の親」「産んだ親」「育てた親」が一致しないケースも出てきます。「知る権利」なども含め、子どもを一番に考えた議論が必要になってきます。また、同姓カップルに対して、精子や卵子の提供は違法ではないものの、認められていません。それゆえ、ネット上での売買も行われていますが、トラブルやリスクは高いです。本来ならばきちんと法律を作るべきなのに、様々な意見があり、時間をかけて議論する必要があります。不妊治療に関するベースができたので、議論を起こす口火は切れたはず。今後は苦労して築いたこの土台の上に、いかに多様なケアを進めていくことができるのかが論点。期限を区切って一定の方向性を出すことになっています。 ■長期の目標に向かって、逆算する人生を歩んでほしい 学生時代は、遊びも勉強もしっかり楽しんで欲しいです。学費の面で、バイトも大変だとは思いますが、友達と遊ぶ事も大切だと思います。もっと言いたいことは、若いうちは何回失敗しても大丈夫。私自身、何度も仕事が変わっていますが、なんとか生きていけています。何を目的にして仕事をしているのかという芯があれば、仕事はどんな事でもこなせると思います。やりたいことをやって、悔いのない人生を是非送って下さい。私は過去様々な事で失敗してきましたけど、振り返るといい経験になっています。ですので、若いうちにいろいろ挑戦してみて下さい。あとは、目先に惑わされない人生を送ることも大切です。人は「いまある目の前のことをやらないといけない!」と思ってしまいますが、長期的な目標の方が実は大切です。ですから、短期、中期、長期というそれぞれの目標を立てるなかで、何よりも長期の目標に向かって逆算する人生を大切だと思います。あと、何もしないと環境は変わりません。ぜひ、自らきっかけを掴むために大胆に行動してほしいと思います。 学生新聞オンライン2021年3月1日取材 東洋学園大学1年 田澤涼夏

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見上愛 自分のやりたいことを貫く。後悔はしたくない!

■プロフィール 東京都出身、2000年10月26日生まれ。2019年女優活動を開始。ドラマ・映画・MVと幅広く活躍中。「きれいのくに」(NHKよるドラ・毎週月曜夜10時45分~放送)や「ガールガンレディ」(MBS/TBSドラマイズム枠・毎週火曜深夜放送)に出演するほか6月11日公開の映画「キャラクター」(永井聡監督)、W主演映画「衝動」(土井笑生監督)、「プリテンダーズ」(熊坂出監督)の公開を控えている。 デビューして以来、TBS『恋はつづくよどこまでも』レギュラーやGENERATIONS from EXILE TRIBEのMVなどに出演を果たし、各所から引く手あまたの活躍を見せる見上愛さん。中学生の時に観た舞台をきっかけに、裏方である照明の仕事や演出家を目指すも、女優として表舞台に立つ選択を選んだ彼女の真意とは? ■自分が後悔しないために、飛び込んだ演劇部 女優の仕事は、大学に入ってから始めました。中学2年の頃に観劇好きの両親に連れられて、舞台を観に行き、それをきっかけに少しずつ観劇に興味を持つようになったんです。その後、中学1年から高校1年の途中まで3年間ハンドボールをやっていたのですが、途中で「なんで自分がハンドボールをやっているのか」がわからなくなってしまって。今、本当に自分のやりたいことをしないと後悔するんじゃないかと感じ、転部して演劇部に入りました。演劇部で部員は役者や演出、照明などそれぞれの役割に振り分けられ、最初は照明がやりたかったのですが、部員の人数不足などにより演出と脚本を行う事になりました。高校2年のとき「高校生劇評グランプリ」という劇評の大会に参加して、賞もいただきました。演劇は自分が得意な分野を頑張れるし、お芝居の先に届ける相手がいることが、すごく楽しかったです。演劇部での経験から「将来は演出の仕事をしたい」と思い演出の勉強をするための大学に進学し、そこでは実際に自分で演出してみたり、小道具表を作成したりと演出の勉強に打ち込みました。 ■演出を理解するために演技の世界へ 「演出家になる為には、やっぱり演技も学んでおいた方がいい」「演技する人の視点を知っておいた方がいい」という演劇関係の先輩たちの意見を聞いて、演技を学ぶことを決めました。ただ、高校が芸能活動や劇団に所属したりすることを禁止していたので、習い事として演技を学べるところを探し、ワタナベエンターテイメントスクールで演技を学びました。そこで、今のマネージャーさんから声をかけて頂いたのが、デビューするきっかけです。 ■正直表に立つことに興味はなかった 私には6つ上に兄がいます。兄は、自分が何をしたいのかをしっかり見つけてから自分のやりたいことに挑んでいくような人で、私も強く影響を受けています。そのため、幼少期から「自分は何がしたいんだろう」ということを、よく考えていました。なので「自分がやりたいことを見つけないと次に進めない」という気持ちが自分の中には常にあります。だからこそ、「演出家になる為に演劇の大学に入って学んでいきたい」と思っていたのかもしれません。 表に立ったから何かが変わったかというと、実はそんなこともないです。ただ、いろんな作品に出て、多くの方に見ていただくことで、「私って、こんな風に見えてるんだ」と客観的な意見を知ることができるのは面白いなと感じます。 ■なんでもやってみないと分からない! 演技は奥が深すぎて正解もないので、何か自分なりの答えを1つずつ出していかないといけません。多くの役者さんたちが、この作業を何度も繰り返しているのかと思うと、本当に奥が深いなと思います。 ■自分本位でもいいから、より多くの挑戦を 大学生のみなさんには、ぜひ今の自分を大切にしてほしいなと思います。この時代は情報がたくさん溢れていて、それによって不安になったり、何を信じればいいか分からなくなることも多いはず。だからこそ、自分の芯を持って生きていくのは大事だと私も痛感します。自分がどうしたいのかを考えて、時には自分本位でもいいから、ぜひより多くの挑戦をしてみてほしいと思います。 学生新聞オンライン2021年3月16日取材 立教大学 2年 須藤覚斗